2017年3月12日日曜日

平成日本紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」








 平成日本紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」   ,






旅の記録;「日本一周」へリンクします

『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり』・・、

萩の歴史の本山・「萩城址」へ向かう。
町の西の端から今度は、東の端の位置にある。
10分も経たず着いてしまったが、城下町や松蔭ゆかり地と違って、静寂たる所で全く人の気配は無かった。 

微風に揺らぐ壕池の小波と、通用路入り口に立つ「萩城址」と彫られた石柱が一本、物悲しく存在している。 
しかし、壕池に浮かぶ、そう高くはないが横幅一杯に広がっている城石垣は豪快で、往時の姿が想像できる。 

壕池は日本海の海に通じていて、元々は指月島といって砂洲で繋がっていた島であり、日本海の波が直接洗う城だった。 
指月島の東側の場所は、石垣の下まで波が来ているという。


右方に、こんもりした丸山・指月山(標高143m)が、天然林緑に覆われている。 
嘗て城は、詰の丸(本丸の中に別の区画として構築したもの)を指月山に築き、山麓に本の丸・二の丸を設け、五層の大天守があったという。 
明治維新の主役・長州藩が山陰の萩から山口へ政庁を移すまで、毛利氏14代の居城であった。


関が原の合戦」において長州藩は、東軍に内通していた一族の「吉川広家」の取り成しで粛清や改易こそ免れたが、周防・長門の2国36万石に減封された。 
又、この萩城築城に当たっても、三方を山に囲まれ一方は日本海に面していて当時、交通の便が比較的悪い萩に築城する事を徳川幕府に命じられている。 
これらの経緯から、徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであった。


毛利氏に関しては、処々方々で記載してきたが、最後に長州・毛利氏について、おさらいをして見よう。  

毛利氏は、鎌倉幕府の名臣・大江広元(おおえひろもと:学問の大家・京で朝廷に仕えた冷静で明哲な実務官僚)の四男・大江季光(おおえすえみつ)を祖とする一族である。 

名字の「毛利」の起こりは、四男・季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の小生の居住地・神奈川県厚木市周辺)に由来する。 
「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。
毛利家は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、安芸国高田郡吉田(現在の安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となった。 

しかし1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将(藩主・毛利輝元)に祭り上げられ、西軍敗戦の結果で周防国・長門国の二ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。 
そして、江戸時代末期には数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となる。  
戦国時代、安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、中でも毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くし一族の反乱や横暴な家臣を粛清、安芸国の吉川氏と備後国の小早川氏を乗っ取り、次第に勢力を拡大してゆく。 

尼子氏に対しては策略を以って誅殺させ、そして大内義隆に謀反した陶晴賢を1555年の「厳島の戦い」で破り、大内氏の旧領をほぼ手中にする。
その後は北九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方に付け、豊後・大友氏とも争った。 

1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有した。 
毛利元就の子である長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景らは皆優秀であり、有名な「三本の矢」に喩えられる。

因みに、「小早川氏」については・・、
小早川氏の祖は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地とした頼朝の第一の忠臣・「土肥実平」の子とされる。
その子の遠平が小田原の早川の地を与えられ、小早川を名乗ったことに始まる。

源頼朝が守護・地頭を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。
戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられた。

小早川隆景は、兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)

本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなる。
だが、隆景には子供がいなかったため、家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。

小早川秀秋は関ヶ原の戦い(秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされる)での功績により、備前51万石に加増移封されたが、嗣子なくして病没し、小早川家は名実ともに断絶したというのが定説である。

ただし、近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見されたという。

この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は現在も存続していることになるともいう。



当主元就が毎年元旦に、家臣に伝えた言葉として・・、
『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり 』 と訓示している。

戦国期、毛利元就の孫の毛利輝元は、豊臣秀吉に属し、安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見を領し、吉田・郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し本拠を移している。 

輝元は、後に秀吉政権下、五大老に就任し、秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは西軍の名目上の総大将に担ぎ上げられる。 
西軍は結局敗れるが、吉川広家の内通により毛利家の所領は安泰のはずであったが、徳川家康は約束を反故にし、輝元は責任を問われて周防国・長門国(長州藩)の二カ国に減封させられた。 

領土が120万石から37万石に減封され、新規に藩庁を「」に置き、萩城を築城して移住したのである。
偉大なる叔父と祖父に囲まれ、やや甘やかされて育てられた輝元は、器量と覇気に欠けたお坊ちゃまであったとも言われている。 
決断力に欠け、ここぞという時に判断が下せない場合が多く、結果として毛利氏は「中国地方の太守の座」を転がり落ちることとなる。


後年の江戸期の毛利藩は、新年の会において家臣より・・、

『 本年は、倒幕の機は如何に・・?  』    
と藩主に伺いを立て、それに対し・・、

『 時期尚早・・! 』

と藩主が答えるのが毎年の習わしだったという。


江戸末期の毛利敬親(もうりたかちか)の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させている。


次回、「長州の藩政改革






  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします






【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
NatenaBlog(ハテナ・ブログ)    GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ    seesaaブログ   FC2 H・P   gooブログ   忍者ブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)  日本温泉紀行 

【日本の世界遺産紀行】   北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉   大日光紀行と世界遺産の2社1寺群   

東北紀行2010(内陸部)    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002   日光讃歌



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   日光の山々   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」   「日光の自然」




2017年3月6日月曜日

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)







 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)  .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg/250px-Yoshida_Shoin2.jpg
吉田松陰像(山口県文書館蔵)






旅の記録;「日本一周」へリンクします

吉田松陰の基本思想と松下村塾の関わり・・、

安政6年(1859年)、松蔭は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処された。 享年30(満29歳没)。

吉田松陰の幼名は杉虎之助。 吉田家に養子入りの後、吉田寅次郎。 松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎(上州新田郡;江戸時代後期の尊皇思想家)のおくり名にちなんでつけられた。 

号の松陰の他、二十一回猛士とも称した。 
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。



吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人で、30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えた。
その松蔭の教えの中に、基本思想、「尊皇・・」の至誠が非常に強かったのは言うでもない。

江戸期幕末、明治維新の先駆けになったのがの尊皇の志士達であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰であった。 
松蔭の実家である杉家は、仏教を捨てて「神道」を信仰していた。 
合わせて長州藩・毛利家の始祖は、(相模の国の厚木の庄の出身で、おおもとは都の大江広元である)古代期より濃い天皇家の血が混じっているとされ(平城天皇以来・・?、)、歴代藩主は勤皇に励んできていた。


松蔭は武士(長州藩士)である。
従って、藩主や幕府に対する忠誠心は当然であったし。
だが、それ以上に皇室への忠誠心があった。 

松蔭や杉家は歴代毛利家に倣ったのは当然であり、「尊皇」は松蔭にとって、既に皮膚に染み付いているのである。 
自書の中に、「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 

天皇と国民の絆(きずな)の「真の性質」は、(1)に「神話的血縁関係」、(2)に「道徳的紐帯(ちゅうたい)」それに(3)、「法的義務」としている。 
維新の推進役となった彼等尊皇の志士達には、松蔭の影響も有り、このような基本思想が有ったのである。 
やがてその中から明治維新で、尊王の志士達が活躍する人物が多く輩出するのである。


因みに、松蔭をめぐる主な人たちは・・、
松下村塾の弟子】 高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい、妻は吉田松陰の妹、尊皇攘夷派の中心人物)、吉田稔麿(よしだ としまろ、長州藩の活動家、久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という)入江杉蔵、金子重之助等など(以上、維新前活躍)・・、伊藤博文、品川弥二郎、野村和作、前原一誠等など(以上、維新後活躍)。

明倫館の弟子】 桂小五郎(木戸 孝允:きど たかよし、長州閥の巨頭、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑といわれる)、毛利敬親(もうりたかちか・長州藩・第14代藩主)、益田弾正(藩家老)。

松蔭の師】 玉木文之進(長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田松陰の叔父に当たる)、佐久間象山(しょうざん・兵学者・思想家、松代三山の一人)、村田清風(後述)、


松蔭は、愛弟子の高杉晋作に・・、
『 人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ 』
と説いている。


「松下村塾」の南に位置して「伊藤博文旧宅」が建つ、木造茅葺き平屋建の小さなものである。 彼は7歳の時に、既に松下村塾に入門していた。
松陰は伊藤を・・
『 利助(博文)亦(又、また)進む、中々周旋家(仲介・口入れを業とする者、きもいり)になりそうな 』
と評していた。

彼・伊藤博文は尊皇攘夷の志士として活躍し、英国に留学して西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加する。 
明治新政府においては、明治18年(1885)12月に初代内閣総理大臣の地位につき、大日本帝国憲法制定(明治憲法)に際し主導的役割を果たした。 
明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて暗殺された。 隣に東京より移築した「伊藤博文別邸」がある。


山裾北側に「護国山・東光寺」がある。
全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗宗に帰依した三代藩主毛利吉就による創建で総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。

黄檗宗は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。 
現在、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は中国・明朝風様式を伝えている。
有名なのが「隠元」の開いた、総本山・京都府宇治市の黄檗山・萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。
この寺院の圧巻は藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並び、このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などが並ぶ。




以上、吉田松陰に関する著述は、過日の産経新聞連載・関 厚夫氏著筆の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」を参照にしてます。 

吉田松陰に関する「関 厚夫」氏の著書

吉田松陰・ひとすじの蛍火 人とことば
http://www.bk1.jp/product/02912250 

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/58/9784166605859.shtml 

吉田松陰 魂をゆさぶる言葉
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4569704409.html 


次回は、「長州・毛利氏」

  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします







【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
NatenaBlog(ハテナ・ブログ)    GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ    seesaaブログ   FC2 H・P   gooブログ   忍者ブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)  日本温泉紀行 

【日本の世界遺産紀行】   北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉   大日光紀行と世界遺産の2社1寺群   

東北紀行2010(内陸部)    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002   日光讃歌



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   日光の山々   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」   「日光の自然」



01. 15.

Google Analytics トラッキング コード