2017年9月23日土曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」






  平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」     .




鳥取は江戸初期の元和3年(1617)、姫路城主・池田光政(戦国武将・池田輝政の孫)が、因幡・伯耆32万石の領主として鳥取城へ転封された後、鳥取城下町の飛躍的発展がもたらされる。 
この光政の時期(1617~1632)の城下大拡張整備策により、家中屋敷割の設定、町人町の造成、寺院の配置が進められ、旧鳥取市街地の原型がほぼ形成された。


現在、鳥取県人口は日本の都道府県では人口が一番少ない。
だが、官僚、役人の輩出率は全国2位だという。 

又、面積も香川県に次いで2番目に小さい、 なのに空港が二つも在る。(鳥取空港、米子空港) 
もし、これから昨今の建設となれば財政問題でたちまち矢面(やおもて)に立たされ、破談も必須であろう。


こんな小域の「鳥取」は、古来、因幡と伯耆の各地域から成るが、「雨の因幡に、風の伯耆」とも言われる。 

先にも記したが、因幡は元々は「稲場、稲葉」であり、豊受大神が初めてこの地に稲を植え付け、稲作を指導したとされる国であることから、稲作発祥の地とされ、それに起因して「因幡」の名称が付いたともされる。 

即ち、鳥取・因幡は農業を主たるに対し、伯耆は出雲に近く、参詣者達に何とかお金を落させようと努力し、皆生温泉や三朝温泉、大山の観光資源を売り出した、商工業の地域であった。 
又、境港を始めとした漁業も盛んであることから、両者相異なる地風であり、合わせて因幡、伯耆は人の気性も異なると言う。


倉吉は地域的には中間に位置しているが伯耆に属しているという。
しかも、克っては伯耆の主邑(しゅゆう:主だった町)だった。 

それだけに、江戸時代の古風な家並みや蔵が残っている、蔵の町とも言われる。 
大正期以降は、「中海」を有する米子に繁盛地を移すことになるが。 
県内に於いて「倉吉は京都で米子は大阪」として対比されるらしく、どちらも商工業で栄えたことは共通する。
 

伯耆は古代より中世、近世に到るも商工漁業が中心であった。 
だが、江戸藩政時代、藩主・池田氏は因幡・鳥取に藩庁を置き、倉吉、米子など伯耆へは支所を置いた。 

因幡の鳥取が伯耆を、つまり、農業(農政)が商工業を支配したのである。 
伯耆から言わせれば「我々は諸国から金銀を集めている」という自負があったが、当時は職分制度が鮮明で「士、農、工、商」であり、農は常に工商の上にあったのである。 

地域的特性として他の地域でもしばしば見受けられるが、時代を経た今日でも小さな鳥取県で伯耆だ・・、因幡だ・・といった地域的気性の違いが見受けられるらしく、地域の性(さが)とは面白い。 
だが、これは鳥取県内の事で県外者には全くもって関知せざることではある。



更に、「因幡」について・・、 
縄文期の頃まで、人々は野山を駈けずり回り、放浪したり、海岸や河川、湖沼の畔で食い物を採取し、又な栽培していた。
所謂、動物的(野の獣)生活手法であったが、そのうち、稲作技術が伝わってくると争ってコメ作りに参加した。 

同時期に朝鮮半島で製鉄が始まり、(鉄の開発は中国・周の時代、それ以前に中国・殷の青銅の開発)それらの製造方法や粗鉄が「壱岐」などの島々を通じて日本に伝わってくる。 
製鉄は当初は稲作農耕の道具として広がりを見せ、乗じて稲作文化は波及的に全国へ広まってゆく。 このことが一つの要因となって日本は国として統一されつつある社会基盤が出来上がる。この時期が弥生時代から大和朝廷の時代である。


鳥取の地名は、「因幡国邑美郡鳥取郷」(『倭名抄』)という古代郷名が中世、近世、そして近代へと受け継がれてきたもので、この地に「鳥取部」という古代部民がいたことが、この郷名の由来ともいわれている。(このことは前項の「桃太郎伝説」に記載あり)

時代は下って7世紀(奈良期)になると、日本国に一大国家体制の制度変革とされる「律令制」(現在の法律)が実施された。 

日本国の全ての物(田、畑から人民・・)は朝廷のものであるとし、中央一天所有(中央集権とは意味合いが違う)の公地公民制度であり、特に、土地に執着してた豪族も所有権を変換させられ、「強固な統一国家の造成」としたのである。


これには訳があった・・、
海を隔てた隣国、中国は「」そして「」という巨大統一国家を作り上げたのである。
日本は、その中国に脅威を感じ、これに倣ったのであった。 
それまでの中国は群雄割拠の分裂国家であり、同時期、日本も豪族群の地方分権の国であり、それでよかったのである。

因幡の国はこのような国造り、時代変革(律令国家の形成)最中に出来上がった国であった。


次回は、兵庫・「浜坂」


2017年9月21日木曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「鳥取砂丘」






平成日本紀行(193)鳥取 「鳥取砂丘」 .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/Southern_view_from_the_top_of_Tottori_Sand_Dunes.jpg/800px-Southern_view_from_the_top_of_Tottori_Sand_Dunes.jpg
写真:鳥取砂丘



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砂丘観光のためのリフト



千代川の鳥取大橋を渡り、案内に従って「鳥取砂丘」へと向かった。
「鳥取砂丘」は砂丘には違いないが、現実には、この丘の上に立つと砂漠である。

一般に砂漠の概念は、年間降雨量が250mm以下で蒸発量のほうが降雨量よりも多く、たいていの場合平均気温が高いことを特徴とする地域である。 
乾燥気候のため、植物がほとんど生育せず、岩石や砂礫からなる荒野で、世界的にはゴビ・サハラ・アラビア砂漠等があり、小生行ったり、見たりしたことはないが、荒涼とした(と言って、いいかどうか・・?)大地であろう。 

以上が、一般に言われる砂漠のイメージであり、これら砂漠は何れも地球環境や地球の気象変動によるものである。 

だが、ここ鳥取砂丘の生成は全く異にしているらしい。 
このことは後で述べるとして、その前にチョット砂漠について・・。



ここで余談だが、「砂漠と文明」について、
世界的砂漠はいずれも、文明の発祥の地、或いは文明流通の経路に当り、大河の河口、或いは流域に当る。 
サハラのナイル川、アラビアのチグリス・ユーフラテス川、ゴビの黄河・・?、然りである。

文明は、元々の砂漠地帯に生まれたものか・・?。 
砂漠地帯には大河が流れ、そこでは水資源の使い方、工夫、創作などの知恵が生まれ、他の条件として多くの人間が集まり、社会を造ることにある。 

砂漠は一般には酷暑乾燥の過酷な土地だが、一方では、砂地は見通しも良く、集散するための移動条件としては以外と楽なのである。 
砂漠にはオアシスもあり草原もあり、点在するオアシスを結んで行けば楽であり、又、砂漠は砂ばかりとは限らず土漠、岩漠などもあり、身を処すところもある。

四大文明の発祥地が、現在は殆どが砂漠となっている。 
文明の発祥は砂漠か、或いは、砂漠に準じた様な処だったのかも知れない。 
文明発生の要因は砂漠にあった・・?、そこは生活の工夫が強要されるところでもあったのだ・・??。 
猿が人間に進化したのは、或いは変化のない緑のジャングルや森林からオサラバし、砂漠に生活の場を求める様になったからかも知れない・・!?。


しかし、別な見方もある、文明が発育する過程におい、その間地球的規模で気候変動があり、当時の生活に適した湿潤地域(準乾燥地域)から次第に乾燥化が進み、砂漠化していった。 そのため人類は実際に当初の地域から追い出され、文明の跡だけを残して他の地域に移動していたと。

好例がある、
20世紀になって、サハラ砂漠のド真ん中に或る遺跡が発見された。 
サハラ砂漠の中央部の台地に「ギルフ・キビール(偉大なる台地)」というある岩絵が発見され、これは1万年前から5000年前に描かれた古代の岩絵だそうである。 
推測するところ、この岩絵は、古代・エジプト文明に共通するところがあり、エジプト文明の起源とも推測されている。 この地は、エジプト、ナイル河畔から1000kmも離れているところであるが、気候変動とともに、次第にナイルの地へ辿り着いたのではないかとも想像されている。(過日、NHKで放送された)



暫し脱線したが、「鳥取砂丘」について・・、
日本は元来、湿潤の地・国であり、砂漠の概念とは縁遠く、まして鳥取地方は年間降雨量(降雪量)は2000mmを超える多雨(多雪)の地域であるという。

鳥取砂丘は、鳥取市西部を流れる大河・・?「千代川」が太古以来、土砂を流し続けた事によるものといわれる。 
河口付近は遠浅になっていて、波打ち際より遠くで白波が立ち、同時に細粒の砂が少しずつ陸の方へ動かされたのであり、この運動が永い年月の間に砂丘を造ったと言われる。 

鳥取砂丘の場合は、更に、冬季には強烈な西から吹いてくる「偏西風」の影響で、この状態が顕著になり、他に例を見ない沙漠の様な砂丘を造り上げたのである。 
砂丘は、千代川河口東西16km、奥行き2kmで、高さ50mから60mの丘を造り、丘のスロープも広大である。


尚、鳥取砂丘は、先に述べた因幡の国の日本人発祥にまつわる文化、文明論に関係しているかどうかは定かでない・・が、山陰地方、鳥取観光の名所であり、宝であることは確かである。 

小生は昭和30年代、仕事の関係で瀬戸内に滞留してた時期に、山陰を旅行し鳥取砂丘を見物したことがあるが、その時の印象は余りに「だだっ広い」だけのもので、他の記憶は無い。 

現在は、砂漠の中に・・?、人家、道路、防砂林、観光施設など人の手が入っている。
しかし、昭和期以前までは、砂丘は生のままの砂漠の状態であったらしい。 

付近の人は、通りがかりの人に「うっかりすると砂丘に迷い込み、命を落すおそれもある」と注意を促し、喚起してたらしい。 
又、地元の人は一時期、緑化か、砂漠化か・・?で、悩んだこともあったという。 

鳥取砂丘は、湿潤の日本にあって唯一「砂漠」が見れる地域であり、「砂漠」として温存しておくのも必要かも知れない。


鳥取砂丘は、乾燥砂漠と違って「湿潤砂漠」であるが、「生きている砂漠」であることは他の砂漠と変わることはない。
風によって砂が動き、風紋を描いては消える。

この、激しい表情の変化が植物の繁殖を拒むし、過酷さに耐えられる砂丘植物のみが、かろうじて点在する世界である。 
激しい変化で生きている砂漠は、昔は周辺に住む人々にとって克服すべき「敵」だった。 
流動、飛散するから、どう田畑を守り、砂地を開墾していくかが命題であった。

江戸期にはこれらを克服するために、防風林のクロマツを10万本も植え、広い畑が開墾されたといい。
又、敗戦後の昭和20年代には食糧増産の時代要請もあり、砂丘全体を植林化し、開墾して生産物を構成する計画があったという。 
実際に、昭和30年初頭までは、その計画は実施されていったという。 

だが、植林が進んで砂が人によってコントロールされたことによって、砂丘では別な悩みが発生した。 それは、人による耕作で合わせて雑草群が侵入し、繁殖が進行していき、雑草の陰で小動物が発生し耕作物に害をなしたとされる。

そんな中、砂丘の価値が転換されるのは昭和30年代以降で、砂丘が国の天然記念物に指定され、38年には国立公園になったことである。 

砂丘本来の景観を取り戻すために、今度は砂防林の伐採が始まったのである。 
砂防林を伐採するのは砂を再び活発に動かすためで、合わせて平成初期頃から除草作業も始まった、一時はトラクターが必要なほど茂っていたという。 

「全国に大きな砂丘は他にもあるが、ここほど起伏が大きく動植物が生息している点では貴重で、50mもある丘の上からは大山の姿も眺められる」としている。 

現在も本来、砂丘に生育していない草原化した多種の雑草を取り除くべく活動が進められ、特に「除草ボランチア」が活躍しているという。 
ボランチアは手作業で完全除去を目指しているが、気を抜くと数年で草原化、森林化が進行するといわれる。 
皮肉にも豊潤で、豊かな鳥取の自然が、一旦、人の手が入ってしまうと砂丘本来の姿を脅かしているのというのである。

砂丘の丘に、砂丘会館や砂丘センターなどの観光施設があり、ここから海辺・・?の砂丘にむかって観光用のリフトが延びているのも珍しくて面白い。 

又、大砂漠の・・?南隣には県庁所在の大都市・「鳥取市」の市街が広がっているのも特徴的といえば特長であろう。 

夏の夜には砂漠の頂から海岸にイカ釣り船の漁火(いさりび)が望まれ、これも風物詩となっているという。

鳥取砂丘」近隣の砂丘畑ではらっきょう、白ねぎや長いもが栽培され特産品でもある。 
特に、「らっきょう」は全国有数の産地で、海岸沿いの砂丘地には広大ならっきょう畑が広がり、毎年秋になると辺りは赤紫色のらっきょうの花の絨毯が敷き詰められ、それは見事な光景だという。 
花の時期に合わせた「らっきょうの花フェア」も開かれているとか。


次回、「因幡・鳥取


01. 15.

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