google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本歴史紀行(11)  出雲崎・「金と良寛」

2009年4月21日火曜日

日本歴史紀行(11)  出雲崎・「金と良寛」

主に沿岸地方の「日本一周」を終えて、
概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来ました。
そして今回、特に印象に残った地域の「歴史的一面」等を
ピックアップして、当サイトに載せてみようと思った次第です。
御意見、御感想宜しく・・!!。

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日本歴史紀行(11)  出雲崎・「金と良寛」

出雲崎は、出雲の国と交流があったことから名づけられたとか・・。
地名の由来は、出雲の「大国主命」が当時の「越の国」(古代北陸地方の名)まで遠征したとき、出雲の国との交流が始まった事に因むものと言える。

 日本海に面した小さな町ではあるが、かつては北国街道の宿場町で、往時を偲ぶ家並みが6kmも続いていたという。 現在、その北国街道の名残りである出雲崎の「妻入り住居の町並」が歴史国道として、歴史的町並保存地区に指定されている。
「妻入住居」とは・・、 建物の正面出入口を屋根の三角部分を正面とする様式である。これに対して、建物の正面出入口を屋根とと直角方向に設けること「平入り」(ひらいり)という。

 海を隔てて佐渡ヶ島まで50km余り、出雲崎は佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄えたという。 道の駅に「越後出雲崎・天領の里」というのもあり、江戸時代においては出雲崎は、佐渡への黄金の道、御奉行船などが出入りするための地で、幕府の直轄地を「天領」と称した。

江戸時代に佐渡金山で産出した金銀は、現代に換算して、凡そ2000億円にのぼるとされ、その何割かが江戸城に送られた。 佐渡奉行所(佐渡・相川町)の御金蔵から運び出される金銀の荷は、木箱に入れて封印し対岸の出雲崎まで運ばれた。 官船は、御座船とも呼ばれ船のまわりには、幔幕が張られ白地に紺色の葵の御紋の幟が舳先に、また船尾に立てられた。

出雲崎からは陸路で江戸までの距離はおよそ92里(368㌔)、出雲崎では支度のため2泊、それからは鉢崎、高田(新潟県)野尻、屋代、小諸(長野県)、坂本、高崎(群馬県)の順で、埼玉県に入って熊谷と浦和、板橋となり、1日37㌔のペースで早ければ10日間かかって江戸へ着いたという。
その道を「金の道」と称した・・。 現在の国道352号、18号で北国街道ともいい、加賀藩前田家をはじめとした北陸諸大名の参勤交代の道として、そして越後最大の高田藩と江戸を結ぶ街道としても賑わった。


出雲崎は良寛(りょうかん)(1758~1831)生誕の地としても知られてる。

良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人で、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名である。
江戸末期・長岡藩家老の「河井継之助」(司馬遼太郎の『峠』の主人公)が曰く、越後の生んだ英雄は「上杉謙信と釈・良寛」だという・・。 

良寛は1758年、出雲崎の名主(なぬし:大庄屋の下で一村内の民政をつかさどった役人、身分は百姓)の長男として出生しているが、名主が性に合わず突然、寺で髪を切って出家し、名を「良寛」とあらためている。
岡山・玉島(現在の倉敷市)の円通寺で十数年修行し、その後、諸国行脚し20年修行につとめ、越後に戻ったのは39歳であった。

越後に帰っても、寺も持たず、説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだ。 名・利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。 その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかったという。
良寛の名は、子ども達を愛し、積極的に遊んだと云う行動が人々の記憶に残っている。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈している・・、

    「 子供らと 手毬つきつゝ 霞たつ 長き春日を 暮らしつるかも 」
    「 霞立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ 」 と詠う。
良寛は又、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたという。 唯一の女性弟子の「貞心尼」に対して、ほのかな恋心を抱いていたとも云われている。

 「禅師.常に酒を好む.然りといえども量を超えて酔狂に至るを見ず.また相手は田夫(でんぶ)野翁(やろう)たりとも互いに銭を出し合いて,酒を買い,呑むことを好む.しかも汝(なんじ)一杯,吾一杯という風に,盃(さかずき)の数,彼我(ひが)幾多少(いくたしょう)なからしむを常とす」

良寛は決して世捨人、隠者をもって自認していたのではなく、 人を恋い、人と相会うことを喜ぶ。  以外と好き嫌いが激しく、「真にして偽りなき」性(さが)を愛した、 それは子供たちであり、きこりや漁夫たちであった。
老いても木石のようにならず、生きる喜びを謳歌し続け、一人でいるのが好きで、一人でいても四六時中が充実していた。 手先も器用で結構ユーモアがあり、嘘が言えない愚直さ、放浪性、孤独性、庶民性と貴族性と特異性を併せ持った性質であったと・・。

良寛の特に嫌いなもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理、・・・・・型にはまった、技巧を弄したものを嫌ったようである。   

町と日本海とを見下ろす丘陵上に「良寛(りょうかん)記念館」は建ち、良寛の書画やゆかりの品々が展示されている。



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01. 15.

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