2010年6月30日水曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「坂上田村麻呂」(追記)

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 日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「坂上田村麻呂」(追記) 


写真、手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の○印が清水寺
(Asahi・comより)



前回からの続き(追記)です・・、

最近、京都の「坂上田村麻呂」の遺構が再確認されたという。

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から西野山古墓であることが特定されたという。 

京都大学の吉川真司・准教授(日本古代史)が、「清水寺縁起」のなかに、田村麻呂の墓地としての記述がある「太政官符」(当時の公文書が残っているのではなく縁起に書き写したもの)を再発見し、確認したとされている。


京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されている。 
内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏の根拠地である点からその一族の誰かと推定されていた。


今回、田村麻呂が創建したという「清水寺」(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」の中に、弘仁2(811)年の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題が記されていたといい、それによると行政の最高機関が、土地を管理する民部省に送った文書の中に故・田村麻呂の墓地に関する記載がある。
山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。

その場所は今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。 
尚、「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述については注目されていなかったという。


田村麻呂は平安期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。 
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷(えみし)の勢力が強かった事が伺えるのである。

同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。


西野山古墓は、清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
古墓は8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致している。 
既に大正8年に墓穴が見つかり、出土しているという。

こうした研究から時代と位置と身分が一致し、「坂上田村麻呂」の墓と特定したという。


又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。


この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。 

遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。


次には、松島の大伽藍「瑞巌寺




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2010年6月29日火曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「五大堂」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「五大堂」 






写真2枚:松島・五大堂





松島の「五大堂」は、坂上田村麻呂が創建した・・、



今日は10月3日の日曜日であった。 
雨の日とはいえ、さすが天下の松島である、大勢の人が巡っている。
赤い狐狸橋(下が透けて見えるので、透橋ともいうらしい)を渡ると「五大堂」である。如何にも歴史を感じさせる瀟洒な建物で、松島の島々を見据えて鎮座している。

平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、毘沙門堂(毘沙門天=四天王の一つ、男の神、戦・勝負の神、北方を守護する神)を建立したのが最初といわれる。

平安初期の828年、慈覚大師円仁が瑞巌寺を開いた際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになったとか。

御堂は桃山様式の美しい木造建築で、下屋部分の周囲に12支の彫刻が施されている。
これは太陽の方向に正面を向いた時、その時刻を表すともいう。   国指定重要文化財



坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)について・・、

奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。
ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。
当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。
これらの住民は、主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであったのだが。


この頃、時代によって様々な見方も有るが、奥羽の先住民族である蝦夷と大和朝廷との関係は、国と統一と西方文化を広めるため、蝦夷との争乱がしばしば記録に出てきている。
都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく、支配下に収めることに難渋していた。 

そんな中、蝦夷鎮圧と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」である。

朝廷は、坂上田村麻呂を将軍に武装した大軍(”稲作キャンペーン集団”ともいうべき・・?)を派遣し、この時の拠点を一旦、多賀城に置いている。


この時期、田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」の御堂を設えたという。  

今の五大堂である。



彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。

また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては、珍しく、いつのまにか津軽の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。
祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。

因みに、この時代に都は長岡京から、延暦13年(西暦794年)、京都の「平安京」に遷都されている。
天皇は桓武天皇の時期であり、その3年後に蝦夷は平定されている。 
そして坂上田村麻呂が、初めて「征夷大将軍」という称号を授かった時でもある。



田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。
中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主;後漢の最後の皇帝・献帝の孫ともいわれる)を祖とすると伝わる。 


坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。
田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。
征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 


田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。 
頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の「王政復古」の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。


次回引続き、「坂上田村麻呂」の追記




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2010年6月27日日曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34) 日本三景「松島」

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日本周遊紀行;温泉と観光(34) 日本三景「松島」



芭蕉が口をアンぐりと開いたまま、声が出なかったという「松島」・・、



写真:松島



嵯峨渓や奥松島を抱えた風光明媚な「鳴瀬町」(現、東松島市)を後にして、ようよう松島へ来た。 

あいにく雨模様であるが、雨の松島も良いもんだ・・?  と強がりの一人合点して、例の海辺の大駐車場に車を置き、先ずは「五大堂」へ向かった。


雨に霞んだ日本三景の松島も実にいい・・!!。 
万葉の昔より風光明媚で知られ、俳人「松尾芭蕉」も賞賛した松島は、やはり何回見ても素晴らしい。



『 松島や ああ松島や 松島や 』

の句が広く知られている。

これが芭蕉作と言われることがあるが、実際は、江戸時代後期に相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊が作ったものと言われる。



『 松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす 』

曽良(芭蕉の弟子、奥の細道の同行者)


実は、芭蕉は、「奥の細道」の中で松島の句を示していないという。

『 絶景にむかふ時は、うばはれて不叶 』絶景を眺めると、感動の余り思うように句が作れなかったという。
又、中国文化人の間では、「景にあうては唖す」(絶景の前では黙して語らず)に感化され、意識的に句を示さなかったとする見方もあるという。



絶景唖然」・・、

絶景を見ると感情が先走って、言葉が出てこない。 その通りであろう・・!!。
最近の流行語に「引く」という言葉がある、一般には引っ張る(pull)、 綱を引く、ボートを綱で引く、荷車を引く、人のそでを引くなどの意味があり、「身を引く」も第一線から身を引く、事が表沙汰にならないうちに身を引いた・・、等であるが、驚いて思わず身を引くと言う意味も有る。 

最近の若者は、この意味を「引いちゃうよね・・!!」と表現するらしい。 
絶景を見たとき、一瞬「身も心も引いてしまう・・」、おそらくこの様な絶句の状態になってしまうだろう。


日本三景・松島


御存じ「松島」は「日本三景」の一つである。

日本三景とは、ご存知、ここ松島町の「松島」、京都府宮津市の「天橋立」、広島県廿日市市の「厳島(宮島)」の三つの名勝地のことで、儒学者・林春斎が全国を行脚した際の著書「日本国事跡考」に、卓越した三つの景観として「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書いたのが始まりと言われている。


その景観は海と緑が対象の妙をなし、その美しさは人々の心の琴線に触れる。
海に囲まれた国、日本を象徴するこれらの絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵であり、古き時代から数々の歴史の表舞台に登場し、和歌や文学にも登場してきた日本三景で、いつの世も代わることなく人々を魅了する、日本人の旅の心の原点である。


各三景地には記念碑が記されているが、面白いのは、其々紹介する順序が違っており、天橋立では林春斎の原典通りの「天橋立、松島、厳島」、松島では東から「松島、天橋立、厳島」、厳島では西から「厳島、天橋立、松島」の順となっていることである。


2006年、天橋立、松島、宮島の日本三景観光協議会では、林春斎の誕生日の7月21日を日本三景の日と制定している。

林春斎」は、江戸時代前期の儒学者、父は林羅山(家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなる、2代将軍徳川秀忠〈家康の3男〉に講書を行う)、名は又三郎・春勝、号は鵞峰(がほう)、父とともに幕府に仕え、幕政に参画した。 
三代将軍徳川家光に五経(四書五経:ししょごきょうともいい、儒教の経書の中で特に重要とされる九種の書物の総称)を講義し、訴訟関係・幕府外交の機密にもあずかった。 

日本史に通じ、父羅山とともに「本朝通鑑」「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。



小生も、この後、西日本の沿岸を巡ることになるので、他の2景勝地、安芸の宮島(厳島)、丹後天橋立の地を訪れることを楽しみにしている。

因みに、日本三景にならって実業之日本社主催による「新日本三景」の選定が行われ、全国投票の結果北海道七飯町の「大沼」、静岡県清水市(現静岡市)の「三保の松原」、大分県中津市の「耶馬渓」が選ばれているという。


次回は、松島「五大堂」 



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2010年6月26日土曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34) 日本三景「「奥松島」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(34) 日本三景「「奥松島」 


松島に至る前に、先ずその一角とされる「奥松島」について・・、

東北、否、日本でも有数の水産・港湾都市・石巻を過ぎると、まもなく「松島」である。

ところで、お馴染みの松島へ直行する前に、奥松島をチョット覗くことにした。
国道45号線から鳴瀬川沿いを走ると、間もなく砂浜の美しい野蒜海岸に達する。
奥松島」は仙台側から見てのさらに先にあることから、そう呼ばれているらしいが、こちらは同じ観光地ながら静かで、のんびりした風情が広がる。


日本三景といわれる「松島」であるが、その範疇は何処から何処までとは特に決められてはいないようだ。 
大まかには松島湾内外にある大小260余りの島々と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた地域辺りを指しているようである。

一般に松島を観光する場合、列車では仙石線の「松島海岸」か、南側の海岸に位置する大駐車場に車を置いて、五大堂を中心とする海岸エリアと瑞巌寺を見学するのが普通のコースであろう・・?。
時には、遊覧船にて船上より島々を眺めるか、高台の松島丘陵から「松島四大観」(まつしましだいかん)と呼ばれる景勝地点から奥松島を含めた全体像を眺めるのが良しとしている。

そして日本三景・松島に接する「奥松島」(東松島ともいう)は、一般観光客には馴染みは薄いようであるが、本当の松島の良さはこの奥松島に有るとも言われている。



奥松島の一島・・、南紀白浜の「円月島」に似てません・・?



ここで、奥松島について・・、

松島湾の北東部一帯、潜ヶ浦水道から大高森の周辺には無数の島々が点在する。
その中でも秀悦なのが日本三大渓(岩手県の猊鼻渓と大分県の耶馬溪)の一つといわれる「嵯峨渓」であろう。
太平洋の荒波と風雨に侵食された絶壁や奇岩が連続し、女性的な松島湾の景観と対照的に男性的で荒々しさが魅力である。大自然が作り出す島々の景観はここにもあり、この嵯峨渓は宮古島からでる遊覧船でも堪能できる。

変わった所では、竹浜というところに「鳴き砂」(砂の上を歩くとキュッと鳴る砂をいい、急激な砂層の動きにより表面摩擦を起こして音を出す現象)の浜辺もあり、手前の野蒜海岸は波の静かな砂浜で、夏場は海水浴場として人気があるという。
又、他にも、松島の四大観の一つである「大高森」の展望地やその周辺自然散策などがあり、他にも家族連れや合宿などの施設が近くに沢山あり、観るなら松島遊ぶなら奥松島」とも言われる所以である。

中でも宮戸島には里浜貝塚という貝塚がある。
里浜貝塚は、縄文時代前期(約6000年前)から弥生時代初めまでの約4000年間の遺跡といわれ、貝塚は島の標高20-40mの高台に存在していて、現在の海岸線からは離れているという。
一般に、青森の三内丸山遺跡もそうであったが、各地縄文遺跡は今の海岸線から遠く、高い位置に在るといわれる。
それは地球的な温暖化による縄文海進のために、現在よりも海水面が高かったことを意味しているという。

現在もそうであるが、何千年も前の縄文時代といえども、生活を基盤とする場所は、元々は海辺や河川の近く叉は、それに準ずる所にあるのが普通であった。



関連して松島の成因については・・、

大昔のこの辺りの地形、即ち松島丘陵地帯は広大で海にまで達していたとされる。 それが、ある時期に次第に沈水して、現在、見られるような沈降地形が出来あがったといわれる。
所謂、溺れ谷(陸上の谷が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾)に海水が入り込み、山頂のみが残って島が形成されてのである。 

この状態が現在の松島湾を形成したものともいわれる。

ただ、縄文期の頃は、現在と比して縄文海進のため、更に海面が20m以上も高かったことから、今の松島の小島などは当然海の底であったろうともいわれる。
従って、当時の縄文人は今の松島とは全く異なった風景を眺めていたのでは、ともされている。


次には「本松島




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2010年6月25日金曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(33)岩泉 「小本温泉」

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日本周遊紀行;温泉と観光(33)岩泉 「小本温泉」



黄金八大龍王の湯



小本温泉は「黄金八大龍王の湯」という仰々しい名前が付いているが・・?、


岩手県に入って、所謂、リアス海岸の山また山の山中から岩泉の「小本」まで下りて来た時に、ようやく温泉に在り付いた。

ハハーンここか・・、予備知識があったのである。

ここ小本温泉は「黄金八大龍王の湯」という、名前が何とも仰々しいのであるが、おまけに、旅館の屋根いっぱいに大きな朱色の派手々々しい温泉マークが目立つ。

三陸沿岸では珍しい天然の温泉(冷泉)であり,その名前が何とも厳しい(いかめしい)ので記憶にあったのである。
ここの温泉は成分が極めて濃く、万病に効く神秘の湯として知られ人気があるらしい。 
この湯に立ち寄ってみた。



外観は温泉センター風、透けて見える引き戸の玄関をガラガラと開けると、雑然とした空間が広がっている。
中にはお土産や地場産の野菜類があれこれ並び、食堂有りと、雑然とした中にも湯治場の大衆的雰囲気を出している。
しかも、木をふんだんにつかっている建物で、浴室の窓にステンドグラスを嵌めるめてあったりと何やらオシャレな感じでもある。

奥には立派な明神社・・?が祀ってあって、その名も「龍王大明神」だとか・・?


因みに、八大竜王(はちだいりゅうおう)というのは昔から雨乞いや水に関する神様として祀られ、日本各地に神社や祠がある。
古代インドで生まれ、仏法を守護するために竜族の八種が王となったもので、インドでは「ナーガ」という半身半蛇の形であり、中国や日本を経て今の「竜」の形になった伝えられる。
つまり、蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。 

又、「釈尊」の誕生の際、灌水したのも竜王であったとされる。
現代でも八大龍王は雨を降らせ、水産業、飲食業、水商売、芸能、サービス業の守護神として崇められ、特に井戸、水道の守護神として重要な役目を持っているという。

当地の「黄金八大竜王」は金ピカに飾られ、温泉の守護神として祀られているのだろうか・・?。



女将さんらしい人が、「立寄りかね・・、料金は後でいいから浴いっていきな、いい湯だよ・・!」と暢気そうに言ってくれた。
実に長閑(のどか)である。

浴室から既に硫黄臭が漂う。 
源泉風呂は”金ぴか”で縁取られた浴槽で少し茶色く濁っており、浸かると肌にビリビリくるほど濃厚である。 
龍王の口から盃に樋を通して少しづつ湯が注がれている。
この樋には軟らかく白い析出物の硫黄分が多量に付着している。 これを見ても成分の濃さがわかる。 味は少し塩辛い。

又、露天風呂は岩で作られており庭園風になってる。

源泉浴槽には白い湯花と黒い湯花も舞っており、加熱された源泉と冷たいままの源泉二種が注がれているようである。 
硫黄の匂いはさほどではないが、口にすると驚くほどの塩っぱさと、ニガリ等のミネラル分が濃さそうなイガラッポイ味がする。 
噂どおり、薬効充分な温泉のようである。


この温泉場の前に小本川が流れている。 
この上流には有名な「龍泉洞」が在って、この伏流水が良い泉質を生み出していると言われ、これを宿の主人が夢のお告げによって掘り当てたという。  
小本温泉は、「飲んで浸って寛いで万病を治す奇跡の湯」のキャッチフレーズどおり、いろんな病気の方が訪れ、効果を挙げているという。


アトピー性皮膚炎や糖尿病など、現代人を悩ます疾病に抜群の効果があり「奇跡の湯」として人気を呼び評判らしい。 
温泉に興味が無かった御仁には、それこそ「神がかりの湯」のように思えるかもしれない。

泉質は、含硫黄-ナトリウム・マグネシウム-塩化物・冷鉱泉  
効能は、神経痛・関節痛・慢性消化器病・痔疾・冷え性・慢性皮膚病・痛風など・・、
源泉11.3℃の超冷泉、立寄料金 600円はやや高め・・?。



小本温泉は「岩泉町」だった。
岩泉町(いわいずみちょう)は、この辺り太平洋側に面している地域は小本地区のごく僅かで、その大半は内陸部に町域が広がっている。 実は、本州一面積の広い町なのである。
因みに、岩泉町は面積:993平方kmで、2位が新潟県阿賀町:953、3位が福島県南会津町:887である。 
但し、北海道を入れれば第9位だそうである。(2006年4月1日)

岩泉町は、鍾乳洞の「龍泉洞」が観光地として有名であるが、ここの水が更に有名で、日本100名水にも選ばれている位である。 
この水は飲料用ミネラルウォーターとして、岩泉町内における中心地区の水道水は龍泉洞の水で賄われているという。
アイヌ語で「わっかくつ(水の穴)」と呼んで重宝がられていて、水に恵まれた町なのである。

この龍泉洞の伏流水が更に良い泉質を生み出し、小本温泉の冷鉱泉「黄金八大龍王の湯」となっているのかもしれない。



序ながら、岩泉町にはもう1つ自慢のものがある。 「松茸」である。 
町の面積の9割が森林で覆われ、マツタケが生える赤松林は92000ヘクタールもあり、なにしろ東京ドーム約2万個分もの赤松林が有るという。 
こんな訳で最近は、この赤松林から松茸の産地としても名が売れてきたという。

松茸産地として蘇ったのは、町が京都大学の吉村文彦先生、別名「マツタケ博士」を招いて「岩泉まつたけ研究所」を設立し、その地道な研究と研究を生かした森林作りを進めてきた成果といわれている。
この松茸研究所は、かの「ふるさと創生資金」を活用して町が設立したものだという。

ふるさと創生資金とは1990年に時の竹下政権下で、全国の市町村に規模の大小を問わず、一律一億円の使途自由のお金を配るという、バブル経済最後のあだ花のような施策で全国に配られたお金だった。
現在は、「日本一早く採れるマツタケの里」としても知られ、後になり「地域に根ざし、将来につながる有効な使い方をした」と評判が高まったのがこの岩泉町の松茸研究所であったという。


元々、松茸を採取するのは難しいといわれる。
松茸の採取は「どこにどう分け入り、どう宝を見つけるのか」がポイントで、実はいいモノが生える場所は大体決まっているという。
現在、1万2000人余の町民のうち、名人級の採取者は50人程度はいるという。
自生地は親子でも言えない秘中の秘だという。 

それは、松茸は地表に顔を出て傘が開ききってしまえば、香りも味も落ちる性質を持つといわれ、このため地表からわずか1~2cm程度、顔を出したところを見極め、根本から押し上げるようにして採取するのが本来といわれる。
その場所を知らない人間が、やみくもに探しても採取できない理由はこの点にあるという。


「松茸は今や宝物」・・?、

日本では一般に香りが良いことが松茸が一番とされ「香り松茸、 味シメジ」などという言葉もある。 
日本人がマツタケを食べるのは、この香りが目的だといえる。

逆に欧米ではこの香りが「靴下の臭い」、「汗の臭い」、「精液臭」などと嫌われることがあるという。 
人種、文化が異なると、こうも極端に違うものである・・!!。

最近では市場流通量のほとんどが安い輸入品で占められ、中でも韓国や北朝鮮、中国からの輸入が多いと言う。  日本産頑張れ・・!!。


次回は待望の「松島」



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2010年6月24日木曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(32)むつ 「霊場・恐山」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(32)むつ 「霊場・恐山」 


霊場・恐山の大本堂、向こうに山門(地獄より望む)




地獄の様相の「恐山」にも天国は在った・・、


再び県道4まで戻り、そのまま「恐山」を目指す。

薬研温泉から直接、恐山へ行くことは出来るが道はいっそう細くなり、上下の激しいヘアーピンカーブやら、ものすごい山道が延々と続く。
道が大きく左へカーブすると、次第に明るくなり、視界も広がってきた。 

遥か下に湖が見えてきて、この湖は「宇曹利湖」というらしい。 
間もなく「恐山」全体が見えてきた。
大きな山門とその奥に広がる異郷の世界が出現したのである。


以前、普段はあまり出歩かない信仰心の強い母が、「恐山」へは一度行って見たい、と洩らしていたのを思い出す。 
今となっては、少々悔やまれるが、既にもう三界の人となってしまった。



広大な駐車場には、朝、早いせいか、土曜日であっても未だ人影はない、八時開門という。 

阿形、吽形と思われる仁王像が控えた、山門は二層造りの堂々たる巨大建物で、色彩も豊かである。
500円の参拝料を支払って山門をくぐることにした。

山門から左側へ折れ小道を登っていくと、硫黄臭とゴツゴツした岩だらけの空間が、広がっている。 
そこに見える風景は物凄く荒涼として、殺伐たるものである。
地獄の小径が続く、無数の無縁塔、御霊石等に地獄谷、血の池地獄など、その中に観音像、地蔵尊、開祖の円仁(慈覚大師)堂が祭られている、正に霊界なのである。


荒涼とした地獄の一角に佇む、開祖円仁(慈覚大師)の御堂


一方、地獄の裾には「賽の河原」が広がっていて、その先には対照的な白州の極楽浜と湖面が美しい宇曽利湖が広がっていた。
その周辺はミズバショウ、シャクナゲ、イソツツジ等が彩々しく色どりを添えていた。
まさに地獄と天国が一体となって広がっているのが「恐山」なのである。


賽の河原から三途の川に架かる「極楽橋」


極楽浜周辺と宇曽利湖は天国の様相

賽の河原とは現世と冥土の境、天国と地獄の境目、三途の河原ともいう。



地理でいう恐山山地とは、下北半島のまさかり部分にある山地全体を指し、カルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)を中心とした外輪山の総称である。 

外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰をいい、「恐山」という名称の単独峰はない。
いわゆる「恐山」とは、霊場を指す独特の名称のようだ。

活火山岩に覆われた「地獄」と呼ばれる風景と、美しい宇曽利湖の「極楽浜」との対比が特徴的であり、寺名は恐山・菩提寺、本坊はむつ市田名部にある曹洞宗・「円通寺」である。


恐山は、宇曾利山:「うそりざん」が変じたものという・・、語韻が似ている。

西暦862年に慈覚(じかく)大師・円仁が開山し、初めは恐居山・金剛念寺と称していたらしい。
この頃は天台密教の寺であったが、争乱で寺は破壊され一時衰退したが、1530年に聚覚(じゅかく)によって再興されたという。 
以降、曹洞宗に改宗され、釜臥山・菩提寺と称して円通寺(むつ市)が別当をつとめている。 

霊場・恐山の開祖は、天台宗を開いた最澄の弟子である慈覚大師・円仁で、円仁が唐に留学中、 夢で「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に至れば霊山あり。 地蔵尊一体を刻しその地に仏道を広めよ」という御告をうけた。
円仁はすぐに帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩いき、苦労の末、 恐山にたどり着いたといわれる。

円仁は6尺3寸の地蔵尊を彫り、 本尊として安置したとされている。 
本尊は延命地蔵菩薩である。


日本三大霊山(恐山、高野山、比叡山)、日本三大霊場(恐山、白山、立山)、日本三大霊地(恐山、立山、※川原毛)の一つである。


その昔は、日本海を舞台とした北前船が往来し、漁師や乗組員が航海の安全や家業繁栄を祈るために参拝者が詣でた。 また、下北地方には大漁や五穀豊穣、家内安全、無病息災といった現世利益を願う「地蔵講」という習わしがあり、村では季節が変わるごとに恐山に詣で、地蔵菩薩に御利益を願ったという。


古来より、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、下北地方では「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行(い)ぐ」と言い伝えられている。

恐山大祭や恐山秋詣りには、イタコマチ(イタコがテントを張って軒を連ねている場所)に多くの参拝人が並び、イタコの口寄せを聞く。
イタコ」は津軽・南部地方の巫女の名称であり、現世依頼者の求めに応じて死者の霊を呼び寄せ、その言葉を依頼者に伝える、 所謂、霊媒者のことである。 

大祭には,各地のイタコが集まり死者の口寄せを行うので多くの参拝客が集まるという。 
昨今では、イタコに依頼する参詣者が殺到し、予約をしないと口寄せは叶わないともいわれる。


別当・「円通寺」は、むつ市の市街地のほぼ中心、国道279と338号の交差点に、境内・本堂を有している。
明治時代に入り,戊辰戦争で敗れた会津藩が、下北と三戸郡に領地を移され、斗南藩として藩再興を果たすが、その時の藩庁がこの「円通寺」であったそうである。





地獄の境内にある「恐山温泉」と小生


恐山自体が火山であるため、境内には温泉が湧いている。

古滝の湯、冷抜の湯((ひえのゆ)、薬師の湯、花染め湯など、4つの浴場があり、お入り自由の無料である。 ただし、参拝者のみであるが。

参道の左に掘立小屋風の男性用「冷抜の湯」と女性用「古滝の湯」の湯小屋が有る。


敷戸を引いて中に入ると、硫黄の臭いがただよう。
湯船及び床は総ヒバ造りで、感触がいい。
お湯は透明だけど硫黄の刺激臭があって、いかにも温泉らしさを醸し出す。 

淡い緑色をしている湯に浸かるとビリビリときた、熱い・・!!
仕方なく水で薄める、それでも成分は濃厚である。
それもそのはず、ここ自体が源泉であるから。 

ただ一人、入浴中の「八王子」出身の大湊海上自衛隊員と、しばし郷愁の会話を交わす、ついでに記念写真をパチリ。  



恐山の湯でミソギをし、恐山を後にした。



恐山よりむつ市街に至る恐山街道(青森県道4号)には途中、整備された湧き水・冷水(ひやみず)があり旅人の喉を潤している。
この湧き水を一杯飲めば10年、二杯飲めば20年、三杯飲めば死ぬまで若返ると言われているが・・?。



※ 「川原毛」 宮城県境に近い秋田県湯沢市の山中にある火山地帯で、火山で荒原となった地域を川原毛地獄と称している。至るところから硫黄が噴き出し、まさに地獄の雰囲気が漂うところである。恐山、立山と並び 日本三大地獄(霊地)のひとつに数えられる。 血の池地獄からの沢水は、滝壺が露天風呂の川原毛大湯滝となっているという・・。河原毛地獄、針山地獄を回る所要一時間の遊歩道も整備されているが、周囲は硫黄ガス度が高いので注意が必要だといわれる。


次回は小本温泉・「黄金八大龍王の湯




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2010年6月23日水曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(31)大畑 「薬研温泉」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(31)大畑 「薬研温泉」 





「かっぱ湯」、湯船に河童の像が見える



薬研温泉の野天・「かっぱの湯」はご機嫌であった・・、

大畑海岸の小さな漁港の一角で目が覚めた、空はドンよりと垂れ込めている。
出航の準備か、漁民の二人(夫婦・・?)が忙しなく動きまわっていた。

こちらは、今目覚めたばっかりのボンヤリ頭で、前の御二人の様子とは好対照、何か気まずい思いがする、早々に退散としよう。

先ずは内陸部の薬研温泉(やげんおんせん)へ向かうことにする。
薬研温泉と恐山」は今回の旅の主要地でもあった。

未だ静寂の大畑町並みを抜け、国道279へ出て、薬研方面の分岐、県道4を行く。

途中、町並みを通過する時、鉄道の駅舎らしい建物に遭遇した。 
それは駅名ではなく「下北交通大畑出張所」とあった。
ここは元々JRの「大畑駅」だったところらしい、廃線になって名称を変更したのだろう。 


実は、ここ大畑は、つい最近までは大畑線(下北交通)が走っていたのだ。

以前にも北海道の「戸井町」(現、函館市)のところでも記したが、北海道と本州の最短距離にあるのは、戸井町と大間町である。
戦前、この区間に軍事的な目的を主に、国策として青函航路の代替航路を決定していた。 
その為に北海道側は函館-戸井間、そして本州側はむつ市から大間を目指すべく、鉄道建設を急いでいた。 そんな中、1939年に下北―大畑間の路線が先ず開通したのであった。

しかし、戦局の悪化と戦争終了に伴い、大畑―大間の区間は放置、破棄されるに至り、結局この区間のみの短い路線となった。
時は流れ1981年に国鉄の合理化策として廃止を検討されるが、1985年7月に下北交通が後を引き継いだ。 
その後も赤字体質は一向に改善せず下北交通大畑線は、2001年の3月31日を最後に廃止されるに至ったのだ。

下北交通は元々バスが本業であったため、自社によるバス代替運行に戻したのである。



大畑川沿いを上流へ行くほどに、深山幽谷の雰囲気が益々濃くなる。

進路を延ばすと、左に「恐山」(おそれさん)という方角の分岐があった。 
どうやらこの辺りが薬研温泉といわれる地域らしいが、温泉街などという状況では全くなく、鬱蒼とした森の中にあっておよそ建物も見当たらない、
僅かに、一軒のホテルが右に見えてきた程度であり、旅荘が2~3軒といった秘湯の里であった。

目的地は未だ先のようで・・、更にその奥の奥薬研(おくやげん)へ向かう。

大畑川・薬研渓流に沿って2km程で、どうやら目的地の奥薬研温泉の「かっぱの湯」へ着いたようだ。
野放しのかなり広い駐車場があり、川岸への降り口に案内板があって坂を下りて行くと、渓流の岸に大きな露天風呂があった。 
無論、混浴の広い天然温泉の露天風呂で、着替え用に御体裁の如くの小さな小屋があるのみ。

周りは鬱蒼とした緑と沢の音が一層雰囲気を出している。 


中年のおじさんと若いカップルが一組・・(とはいっても女性は足湯三昧だが)が御入浴中だった。こちら老境のジジイは、委細構わず浸かるのであるが、露天風呂の底は緑色の藻が一面に張り付いていてすこし滑るが、実に何とも気持ちのいい自然湯である。 
広い湯船は20人以上の人が入浴しててもゆったり浸かれるだろう。

すぐ下の渓流が清清しく、川からの風も心地よい、時間が経つのも忘れてしまいそうである。 

気がつけば、浴槽の上流側で源泉が流れ込んでいるので結構熱いが、中程よりは快適であり、紅葉の時期は最高だろうな実感する・・!!、 
この雰囲気だと泉質などはどうでもよい。 

聞くところ、この湯は営林署管轄、管理しているとか。


混浴の「かっぱの湯」が恥ずかしい人には更に200mほど歩いたところに、土産物やレストランのあるログハウス風の建物に「夫婦かっぱの湯」があるらしい。 
何でも、あちらはしっかりと男女別になっていて、一見売店で入浴料金を払わなければいけないの?と思ってしたが、実は、そちらも無料であるとのこと。


ヒバの原生林に囲まれた温泉で「薬研」の名は、湯の湧き出ているところが漢方薬を作る薬研という道具に似ていることから付けられたとされている。
薬研渓谷」は新緑や紅葉の美しい景勝地でもある。この渓谷に沿って、否、渓谷の中に野天風呂はある、ここは 無論、男も女もない。 


開湯の伝説は、「恐山」を開いた慈覚大師が、奥薬研を訪れた時にケガをしてしまって、川原で困っていると、フキの葉をかぶった河童が現れて大師を助けたという。
河童に運ばれ、奥薬研の湯に浸かり、気がついた時は傷は癒えていたという。 
大師は感激して「河童の湯」と名付けたそうである。

伝説の河童は奥薬研のシンボルになり、河童の像が湯船の縁に座している。
泉質は無色透明の単純泉で、疲労回復、胃腸病、神経衰弱、婦人病、皮膚病、リウマチなどに効果があるとされている。

こちらはかつて、テレビ朝日の「ニュースステーション」と言う番組で、紅葉中継をしていた名所でもあり、1971年、 厚生省告示第55号により、国民保養温泉地に指定されている。


次回は「恐山





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2010年6月19日土曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(30)風間浦 「下風呂温泉」

是より東北沿岸部(太平洋岸)の「温泉と観光」を巡ります。




日本周遊紀行;温泉と観光(30)風間浦 「下風呂温泉」


下風呂温泉の大湯

大湯の湯船



先ずは本州北の果ての温泉「下風呂温泉」から・・、

大間に到着した頃には、すっかり闇に包まれていた。 これからの目的地は評判の「下風呂温泉」である。

本州最北端の村・風間浦の海道沿いである国道279号を行く。 
暫くすると、いささか眩しいくらいのネオンの歓迎灯が光っている。 
路地へ入ると田舎の小さな温泉街の風情があった。


共同浴場は二軒大湯と新湯があるようだが、その「大湯」へ向かった。 300円の銭湯を払ってイザ湯船へ。
硫黄の香りがプンプンする、お湯は緑白色、身体にジンワリと効きそうだ。
湯船と床は総ヒバ・・?(この地から内陸部に、明日向かう予定の薬研地区はヒバの原生林で有名)造りで感触が実に気持ちが良い。 

洗い場で若い衆と御老体が盛んに会話を交わしていたが本場の津軽弁であろう、東北出身(いわき)の小生でもチンプンカンプンである。

湯上りに何とはなしに、おしゃべり好きそうな番台の女将が『この大湯はNHKで放送している、「ふだんぎの温泉」で、第一回目に放送された記念の湯だよ、この前も民放TV局が来て色々撮って行ったよ・・、』と津軽弁で話してくれる。 
小生も何度か、この放送は見ている。 
吉 幾三のテーマ曲にのって地域密着、全国各地の情緒たっぷりの温泉を紹介しているのである。



下風呂温泉は下北半島の「まさかり形」の北側にあり、津軽海峡に面している。
対岸は北海道の函館と恵山で、特に恵山を眺めるには絶好の場所でもある。 

井上靖は昭和33年、この温泉地で小説「海峡」を執筆し、作品の舞台にもなっていて、当地・長谷旅館はその「海峡」の宿として知られる。
また、水上勉「飢餓海峡」の舞台にもなり、この作品は映画化もされている。



それにしても温泉場の名称が『風呂』と付くのが面白い。
下風呂」が在るのだから上風呂という名も在りそうだが、そうではないらしい。
温泉名は、この地域のことをアイヌ語で岩(シュマ)臭い(フラ)が語源とされ、「シュマフラ」と言っていたことに由来するという。

尤も、風呂そのものの語源が、「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説があるという。
又、抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から転じたという説もあるが。



序ながら「風呂」について・・、  

昔の人の「風呂」という概念は釜に湯を沸かし、その蒸気を浴槽内に送り込み、熱い水蒸気により身体の垢を浮き上がらせてから、ぬるま湯や冷水で身体を洗うといったもので、現在に言う、蒸し風呂・サウナのようなもだった。 

江戸期初期の頃に「戸棚風呂」といって下半身を湯に浸し、上半身を蒸気で蒸すという。 お風呂と湯浴をミックスした仕組みになっていたらしい、云わば、半身浴のようなものだったという。 
現代のような、全身を湯が満たされた浴槽に入るようになったのは江戸期以降といわれて、その頃江戸に湯屋が開業し、風俗絵にもなっている。


下風呂温泉は室町時代からの歴史をもつといわれ、室町期の地図にも「湯本」との記載がされているという。
江戸初期の1656年には、南部藩藩主・南部重信が入湯しているとも云われる。


近世はニシン漁師の湯治場として栄え、現在はイカ漁の行われる漁港として温泉街が成立している。
温泉は、大畑と大間の中間あたりの海岸にあり、温泉ホテル、宿、民宿が立ち並んでいるが鄙びた温泉場という印象で、チョットした温泉街という雰囲気では本州最北端であろう。 

泉質は、含塩化土類硫化水素泉と、今で言う硫黄泉であろう室町時代から刀傷や槍傷に薬効のある湯治場として知られたらしい。 


街には二つの共同浴場があり、「大湯」は硫黄分の多い白濁した高温の湯、通称男湯、そして「新湯」は幾分柔らかめで食塩が多く透明の湯らしい。 
切り傷、打撲傷、神経痛、婦人病、皮膚病などに効能がるといい、源泉は66度であると。

湯上りに、地元の寿司屋で生ビールと地元特産の海鮮丼をいただき、大満足であった。 

夜もトップリと更けてきて、今夜は大畑漁港の海辺で、マイカー宿とする。


次回は下北・「薬研温泉



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2010年6月17日木曜日

日本周遊紀行(111)いわき 「勿来の関」

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 日本周遊紀行(111)いわき 「勿来の関」 



勿来の関と源義家(八幡太郎義家)の像


いわき湯本から旧国道(6号)を経て、茨城県の県境でもある「勿来」(なこそ)へ来た。

国道から勿来海岸の反対側に小高い丘があり、その一角に古来の「勿来の関」がある。

東北の三古関白河の関、念珠関=鼠ヶ関)の一つであり、因みに、念珠が関(ねずがせき)は小生が出発して2日目に通過している。
又、この古関は源義経と弁慶ら主従一行が平泉に逃避する際に通過したことで知られる。 


勿来の関」は、往年の東北の都・多賀城へ通ずる、陸前浜海道の東北(蝦夷)への入り口として重要な関所であった。 
古記には大和朝廷期にヤマトタケルが蝦夷(えみし)の蛮族を征伐するのに通った、との記載もあり、既に4世紀ごろから主要街道として機能していたという。 

平安期の後期(1051年)においては東北・陸奥の国で一大動乱(前九年の役、後三年の役)が勃発する。
朝廷はこれを治めるべく源氏の棟梁「源義家」(八幡太郎義家)を陸奥国守として任地の陸奥国に赴かせる。 

この時、源義家は「勿来の関」で休泊の時、一句詠んでいる

 『吹く風を 勿来の関と 思へども
          道も背にちる 山桜かな



平安期の頃は東北(蝦夷)の戦乱期も加わって、この浜海道は大往来時代を迎えている。 
近くには岩城(いわき湯本)の「三箱の湯」もあって、高家、武人、都人、文人墨客(万葉人)等も多く行き来していた。

太洋を望む美景の丘・「勿来の関」は、奥州三古関 と呼ばれており、古くから万葉集の中でも詠まれ、その後も多くの歌人らによって詠まれたのがこの地である。

この周辺は古来より風光明媚な地にあって、松のこずえ越しに太平洋が一望できる。
今でも山桜の名勝としても有名で、県立自然公園に指定されている景勝地である。 
そして歌枕としても名高い「勿来の関」は、古来、“やんごとなき”人々より愛され、詠まれているのである。



みるめ刈る 海人のゆきゝの 湊路に 
        勿来の関も わが据なくに
』 新勅撰和歌集 「小野小町」
《海人が往来す湊路に来ないで、などという関は設けていないのに最近あなたは逢いに来てくれないのね》

惜しめども とまりもあへず 行く春を 
        勿来の山の 関もとめなむ
』 夫木和歌集 「紀 貫之」 
《いくら惜しんでも過ぎて行く春だけど、勿来の関よどうか春を止めて欲しい》

なこそとは 誰かはいひし 云はねども
         心に据ふる 関とこそみれ
』 玉葉和歌集 「和泉式部」 
《逢いに行けないと言う恋人の返事に《来ないでなんて誰が言ったと言うの、いいえ誰も言ってはいないわ、あなたが心に関を作って私に逢いに来ないだけだわ》

吹く風を 勿来の関と 思へども    
        道も背にちる 山桜かな
』 千載和歌集 「源 義家」
《花を散らす風は「来るな」、と言う勿来の関には来ないはずだが、何と道いっぱいに山桜が散っているとは・・・》

陸奥の 信夫の里に やすらいで
      勿来の関を 越えぞわずらふ
』 新勅撰和歌集 「西行」
《誰にも言えぬ人目を忍ぶ恋に、「来るな」と言う関を越すべきか越さざるべきか迷い悩む私です》

都には 君に相坂 近ければ 
      勿来の関は とほきとを知れ
』 続千載和歌集 「源 頼朝」

次回は、茨城県・「北茨城



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日本周遊紀行(111)いわき 「蛙の詩人・草野心平」

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 日本周遊紀行(111)いわき 「蛙の詩人・草野心平」  



「いわき」を語る時、一人の偉大な人物がいた。 

しかも、小生の大先輩でもあるから是非紹介しておきたい。 
かえるの詩人・「草野心平」氏である。



春の歌』 詩 草野 心平

かえるは、冬のあいだは土のなかにいて、春になると地上に出てきます。 
そのはじめての日のうた。

ほっ まぶしいな
ほっ うれしいな
みずはつるつる
かぜはそよそよ
ケルルン クック
ああいいにおいだケルルン クック

ほっ いぬのふぐりがさいている
ほっ おおきなくもがうごいてくる
ケルルン クックケルルン クック




かえるのシンペイ」は・1987年の文化勲章を受章している。

1931年、東京・麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した、
1952年、文京区に居酒屋「火の車」を開店、
1957年には新宿にバー「学校」を開いている。

かえるのシンペイは、やはりかえる同様、水に縁があったようだ。 
それでも貧乏神はシンペイの元を去らず、未だ面識のなかった宮沢賢治あてに「コメ1ピョウタノム」と電報を打った。 
賢治に電報を打ったのは、彼が農場を持っているのを知っていたのである。



この賢治のことをシンペイは、『 現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。 世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。 彼の存在は私に力を与える(中略)、私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。(中略)今後、彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしい悦びである。 宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである 』と断言している。


そして、若き天才・宮沢賢治の死後まもない昭和8年、「日本詩壇」に載ったシンペイが送った追悼文の末尾に、『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である 』と書いている。   

宮沢賢治
の偉大さと、又それを見抜いた草野心平の凄さがよく理解でき、草野心平はただ単なる「蛙の詩人」ではなく、彼こそ原始から未来への線上で大光芒を放つ詩人であり、世界に誇る哲学的詩人である。 
宮沢賢治と並ぶ、もう一人の「東北人らしい感性豊かな人の代表」なのである。


「草野心平」はただ単なる「蛙の詩人」ではない、偉大なる「蛙の詩人」なのである。

詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている。

「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」
「蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである」
「蛙は明朗性なアナルシストである」


そして、『 蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す、この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕は、それ故にのみ“かへる”を慈しみ、嫉妬の如き憎む 』とある。

かえる」は、自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性がある。 

人間は自然の枠外に出て、しかも食物連鎖の頂点に立つ。 
もはや正当性はない。 
互いに殺しあうことによってのみ、その正当性を無理やり見出す。 
その幸、不幸を唱えるならば、悪夢を持たない「」のなんと幸福なこと・・!!と、「」を賛美しているのである。



草野心平は、1903年石城郡上小川(現いわき市小川)で生まれている。 
兄も詩人で、心平に大きな影響を与えたという。

旧制磐城中学(現、磐城高校・・小生の大先輩)、慶応大学普通部の入・退学を繰り返し、中国に渡って嶺南大学(現、中山大学)で学ぶ。 
帰国後、詩を書きながら貧窮の中で各地を転々としながら、編集者、記者、宣伝部員から貸本屋、焼鳥屋、居酒屋の経営まで手がけるが、商売上手ではなかったようである。 

そんな中で、宮沢賢治と八木重吉(日本の詩人:明治31年、町田市相原町に生まれる、キリスト教徒、肺結核により29歳の若さで死去)を広く世に紹介し、高村光太郎との温かい友情は終生続いたという。


詩人としては、詩集「第百階級」「定本・蛙」などで評価を確立し、蛙を通して生命力への賛美と自然のエネルギーをうたう「蛙の詩人」と親しまれた。
それが縁で、隣の福島県川内村(天然記念物モリアオガエルの生息地)の名誉村民になって毎年村を訪れ、自分の蔵書を村に寄付しているという。

いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章受賞。 昭和63年(1988)11月12日、85歳で生涯を終えている。


次回は、勿来の関



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2010年6月15日火曜日

日本周遊紀行(111)いわき 「いわき平」

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 日本周遊紀行(111)いわき 「いわき平」 



「いわき・平」について・・、


いわき市」は当時は、ひらがなの地域名として珍しがられた。 

昨今、多くの市町村が合併する際、さまざまな思惑から「ひらがな名」とした例が多いが、本市はその魁(さきがけ)といえる。 
そして、2003年4月までは日本一の面積を誇っていた。 

昭和40年の初め磐城地方の中心都市の平市(平・四倉地区))、炭鉱と歴史の内郷市(内郷・白水地区)、温泉と炭鉱の常磐市(湯本・湯長谷地区))、港湾都市の磐城市(小名浜・泉地区)、海浜と歴史の勿来市(勿来・植田地区)、と周辺五市が大合併して現在の「いわき市」が誕生している。 そして、市域面積も日本一になっていた。

しかし、2003年4月、静岡市と清水市の合併で、最大面積を持つ市の座を明け渡すこととなり、現在は、岐阜県高山市が日本一面積の大きな市となっている。
ちなみに本年(2006年)では、地域面積は第13位になっているようだが、最近の平成の大合併で、今後多いに変動する可能性はある。


2006年4月現在の市町村面積(km2)

1  岐阜県 高山市  2,177.67
2  静岡県 浜松市  1,511.17
3  栃木県 日光市  1,449.87
4  北海道 北見市  1,427.56
5 北海道足寄郡 足寄町 1,408.09
・・・
13  福島県 いわき市  1,231.34


「いわき市」は、福島県浜通りの南東に位置し、東は太平洋に面し、西は阿武隈高地に面し7割が山間部で、残る3割に居住区が分散する。 
東北地方としては珍しく、涼夏暖冬地域で、比較的寒暖の差も少なく、山間部を除いてめったに雪は降らない。 
又、地盤が硬いために大きな地震が起き難いと云われるようである。

この、いわきの中心、浜通り地区の最大都市が「平地区」である。 
行政、商勢圏とも今、再開発の発展途上にあるようで、駅前辺りの景観がガラリと変わるらしい。 
駅名は、近年の平成6年(1994年)、常磐線・平駅から市民の要望により「いわき駅」に改名している。

常磐線・平駅は、小生が学生の頃の昭和30年代前半頃までは、まだ、SL・蒸気機関車であった。 黒煙を吐きながら、力強く前進する蒸気機関車の列車が懐かしい。

学生当時、平~湯本間を通学(県立磐城高校)していた頃はまだS・Lで、発車してもユックリ発進したもんで、時折、改札を通らないで駅舎の端から線路沿いに追いかけて行ってデッキに飛び乗ったものであった。
3学年頃になって、気動車(ジーゼルカー)になり、発車速度も速く、自動ドアーになったため、その楽しみも出来なくなったが、後の昭和30年後半には平駅まで電化された。 
その時も、電車の始動の速さに驚いたものであった。
因みに、当時のSLで平⇒上野は7時間前後かかっていたが、現在では2時間少々のようである。



「いわき」の歴史概要について・・、

先にも記載したが・・、いわき地方は元は石城、石城郡と称し、小生幼少の頃は「福島県石城郡・・」であった。

石城地方は歴史的には古く、奈良時代までに遡るといわれる。 
当時は常陸国(ひたちのくに)属し石城郡(いわきのこおり)と称し、大化の改新後、陸奥国・略して「みちのく」に編入され、同時に「磐城」に改名している。(明治になって周辺合併で、再び「石城郡」となる) 


平安後期には、岩城氏が石城地方に勢力を得て、中心を「岩城の平」とした。 

岩城氏は常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりと言われ、その祖先の名を戴いて『』としたらしい。  
岩城氏は、平安期の奥州藤原氏(清原氏)との関係も深く、石城一帯の領国支配に成功する。

戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉に謁見し領土は安堵されるが、関ヶ原の戦いで石田三成に加担、徳川家康に降伏して磐城12万石は除封され、お家は断絶となる。
尚、当時の岩城貞隆は、後に家康の重心(土井氏、本田氏)の助言や大阪夏の陣の功により、信濃・川中島藩1万石の創設を許され大名に復帰している。

又、その息子である岩城吉隆は出羽秋田・亀田藩に封され藩主となっている。(亀田藩の創立;現在の秋田・岩城)
更に、子供のなかった伯父・佐竹義宣(常陸の国より転封・初代秋田藩主)の養子に迎えられて秋田藩52万石の第二代藩主「佐竹義隆」となっている。


江戸期においては鳥居氏、内藤氏、井上氏、安藤氏の歴代藩主が其々入封している。

鳥居氏は、あの有名な関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「伏見城攻防」での功により、直接家康より賜っていて、この時期に「磐城平城」が築城されている。 

磐城平城は、「いわき駅」裏手の城山地区にあった城で、今は住宅地となり昔の面影は城址が僅かに残るのみである。 
当時の姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われ、この城の主目的は仙台藩・伊達氏の押さえにあったとされる。 
平の街並も純然たる城下町で、今も鍛冶町、紺屋町、材木町といった往時の職人街と思しき懐かしい地名が今も各所に残っている。


「内藤氏」について・・、

鳥居家が山形に転封後、磐城に来たのが「内藤氏」であった。
これにて磐城平藩は7万石となり、内藤家は永く江戸初期から125年間、六代の永きに亘って治めていた。 

六代目・内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられ、領民の不満が鬱積していた。

そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。 
その責任をとって内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。

去るに及んで・・、

『 日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 
           またみちのくの(磐城) 人に逢うべし
 』 

と詠んでいる。


江戸期最後の大名は「安藤氏」で入封後、藩校・「施政堂」を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育を行うなど善政を施している。 
特に、歴代藩主の中で最も有名なのは、第五代藩主・「安藤信正」であった。 

幕末の桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門の変」(江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件で、この結果、安藤は負傷し、老中を罷免された)で失脚した。 
現在は「松ヶ岡公園」に銅像が残る。

その後の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟として西軍と決戦、鳥居氏築城から260余年を経て、いわき平城は落城している。


昭和41年、5市(平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市)、4町(四ツ倉町、小川町、遠野町、久ノ浜町)、 5村(箕輪村、赤井村、三和村、好間村、大久村)が大同合併し、現在の「いわき市」が発足している。


次回は、「草野心平」




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日本周遊紀行(110)いわき湯本 追筆「長谷寺」

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日本周遊紀行(110)いわき湯本 追筆「長谷寺」




上湯長谷「宇治山・長谷寺」


いわき湯本・「長谷寺」の追筆・・、 

過日、平成19年の秋分の日(2007年9月23日)に先祖が眠る故郷・田舎の寺院(白鳥山龍勝寺)がある白鳥、いわき湯本を墓参のために訪ねた。 
そして、その帰路、上湯長谷の「宇治山・長谷寺」へ立ち寄った。

県道・湯本-植田線の下湯長谷地区・スーパー「マルト」の信号を上湯長谷地区に向かって1kmほど行くと、そこに広い境内を構えた長谷寺があり、正面に大きく「長谷寺」と書かれた石柱が立っていた。


思えば、この辺りは子供の頃よく遊んだ地域でもあった。 
小さな丘の東方に「湯本第一小学校」があって、この学校は小生の母校であり、しかも住居は小学校のすぐ隣にあったのである。 
又、寺のすぐ北方直近には「湯本第一中学校」があって、通学途上は小学校の校庭を横断して寺の境内の直ぐ横を通り、通学していたものであった。 

寺院境内の様子は、昔日と今日とではおのずと様変わりしているとは思われるが、いずれにせよ小学校時代や中学の通学途中の道草によく遊び、ヤンチャをしたものである。
長谷寺は、幼少の頃の遊び場であり、実に懐かしい地域なのである。


今日は、彼岸の御中日ということも有って、墓参のための檀家衆の出入りも激しく車の交通整理員が2人も3人も出ているほどである。
舗装された坂道の両脇には大きな駐車場もあるが、ほぼ満車状態であった。

ところで、昨今われ等の生活状態も豊かになったのであろうか・・?、 
気が付くことに何れの寺院の墓地、墓石も新調しているらしく、真新しく光り輝いているのである。 無論、長谷寺の墓地も例外ではなかった。 

同寺の主要な墓地・霊園は北面高所にあって、杉林の囲まれヒッソリと、と言いたいが、本日は彼岸ということもあって大勢の参拝者で賑わっている。  
実は、小生は当持院に墓参に来たわけではなく、寺院本堂に参拝の傍ら長谷寺の歴史に興味があって、それらに関して訊ねて来たのである。


車を置いて本堂境内に向かう入り口に、これまた立派な石柱が立っていて、右に「宇治山・長谷寺」(うちさん・・)、左に「大同二年徳一大師開山」としてあった。更に進むと左手の大きな堂宇があり、その正面の上部、横向き看板に「徳一大師開山1200年記念・・・」と記してあった。

そうなのである・・!、 
本年は2007年、開山が平安初期の和暦の大同二年は西暦の807年に当たり、今年は実に限(きり)のいい1200年の開山記念の年なのである。 


境内は古刹寺院の瀟洒(しょうしゃ)な面影を存分に漂わせていて、心が洗われる清楚な雰囲気を醸し出している。
本堂に一礼を済まして横の寺務所を訪ねると、やはりというか、住職、若僧は秋の彼岸会などで出向いているようで不在であった。 
家人に1200年記念法事の件や同寺院の縁起書、案内書なるものの有無を訊ねたが要領を得ず、同寺の「観音立像」のパンフ一葉を有難く頂いて退所することにした。

尚、1200年記念大法要は、本年11月初旬に行われるらしい・・!。



「観音立像」の概要・・、

『 県重文(彫刻) 木造十一面観音立像 一体  本像は、別名長谷式十一面観音像といわれ、通常の十一面像と異なり、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、岩座に立つ姿であり、材質はカヤ材と判定される。・・・腕は豊満な丸みを帯び、・・肩から腰の衣文(いもん)、腰から下の裳(も)はゆるく反転してて彫が深く、重量感をかもし出す。天衣は仏体とともに木で、彫刀のさえはみごとであり、鎌倉時代末期の特色である写実味をかなり表現している。・・・なお、本像の胎内銘については昭和35年以降その読解に努力し、・・・それによると胎内の腹部・背部の内刳り(うちえぐり)部分と両肩の腕側継ぎ目、さらに足先の裏面から総計673文字の墨書銘が確認された。 造立は文保二年(1318年)。延べ38日で完成したらしく、・・・仏師は能慶。 また造立者は岩崎氏。同氏の隆義公が父、隆印の七回忌と祖先の供養を兼ねた。それらの人名は、岩崎氏系図の欠を補う。当地の地名「岩崎西郷内長谷村」も確認した。また「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」と徳一大師による堂宇建立を示す中世資料の所在を証左した。・・付記、いわき市常磐上湯長谷町堀の内  長谷寺所有。  「いわき市の文化財」「市史調査報告」より・・ 』

と記している。

概説すると・・、

「 現在の観音様は、鎌倉時代後期の作で文保2年(1318)いわきの豪族岩崎氏が同家の先祖菩提を念じて大仏師・能慶をして、カヤ材寄木造りの総丈約270センチの檀像を長谷寺に寄進したとする。
観音様は右手に錫杖を持ち、岩座の台座に立つ典型的な長谷式の十一面観音である。 そして、衆生の苦悩の声を聞きつけると即座に台座より飛び降り、どんな地獄の底であっても杖をついて衆生に救いの掌をさしのべる、このような慈悲心溢れる姿で本堂中央に立っている。 尚、観音像は難陀龍王(なんだりゅうおう:両手に宝珠を持つ八大龍王の筆頭)、雨寶童子(うほうどうじ:福を得て災を除くという。神仏習合によって日本で創造されたもので、難陀龍王と共に十一面観音の脇侍として祀られることが多い。)を両脇侍に従え、所謂、長谷観音三尊仏として多くの参詣者に拝まれている
。 」

(平成19年:2007年9月下旬、 追加記載)

次回は、いわき平 



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2010年6月14日月曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と新興仏教」

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日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と新興仏教」


序ながら、徳一に関連して東北進出における奈良期から平安初期における仏教、仏僧について・・、


仏教界で大きく飛躍するのは、奈良から平安にかけてで新興宗教といわれる真言宗と天台宗で、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 

従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城(奈良)から平安(京都)に都が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。

その時期、徳一という偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 
当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったという。


最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 
徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる理論闘争三一権実諍論:法相宗の僧侶・徳一と日本天台宗の祖・最澄との間で行われた仏教宗論)を行い、その結果において最澄は徳一に勝てなかったとされている。 

最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが徳一に遮られて成功しなかったという。

一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 
会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に宛てて書をしたためている。

『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。 珍重珍重・・・』

 

小生拙宅(神奈川・厚木市)の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる。 
山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。
思えばこの山も、徳一に因んだ筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似しているのである。 

この丹沢大山も、神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである。

平安初期の820年、「空海」47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 
現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊が配してある。



同時期、東北にはもう一人偉大な人物がいた・・!、
これが最澄の弟子といわれるのが皮肉で面白い、慈覚大師「円仁」である。 

小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺、瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら著名な仏閣の開祖である。
坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があったともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 


奈良末期から平安期の初年にかけて、東北・奥羽の先住民族である蝦夷(えみし)と大和朝廷との関係は緊迫していて、蝦夷との争乱がしばしば記録にも出てきている。 
大和朝廷は国の統一と西方文化を広めるため、都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく支配下に収めることに難渋していた。 

そんな中、蝦夷鎮圧(大和文化に従わせる)と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」であった。 
朝廷は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、武装した”稲作キャンペーン集団”ともいうべき大軍を派遣して、これを収めている。

坂上田村麻呂に制圧された後の陸奥の国において、蝦夷(エミシ)たちの疲弊した精神に対する戦後処理、情操にあたったのが、当時の国家的な仏教でもある天台宗であり、慈覚大師・円仁の存在であった。

円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 
円仁は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。



終わりに、「徳一」の偉大で尚且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に説き、努めた大人物であった。 
その徳一が開祖した「いわき湯本の長谷寺」は、2007年(平成19年)で丁度、開建1200年の記念の年に当たる。

過日、この寺院を訪ねる機会を得た、それは次回でどうぞ。




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2010年6月13日日曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と藤原氏」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と藤原氏」



前回は奈良の三輪山、大和の国、そして大和朝廷の関わりを述べてきたが・・、

ここで、「藤原氏」が登場する。
これら大和朝廷及び天皇家を擁護し画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 
「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。


常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心でもある。

藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 

この地鹿島は中臣(藤原)氏本流の地で、海人族であったとも言われる。 
鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 

武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。


藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。 
大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名であるが。 
その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。



ここまで、だいぶ話が飛び飛びになったが・・、

徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したと思われる。


石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。 
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていたrasii


九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが。 
この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であり、道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。



仏教の普及が、古代からの信仰である土着神と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段で活躍したのは言うまでもない。

藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であるが、これより蝦夷への進出地と目されたのが、西の街道では陸奥の南端である会津地方であり、東の街道が「石城」であったのである。

徳一は筑波山に中禅寺を置いて根拠とし、会津の磐梯山に恵日寺を、そして「石城」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 

その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。 
徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城に湯の岳を開いたのである。 
領民のために、大和の三輪山を紹介して「サハコ神社」(温泉神社)を造らせたのかもしれない。



因みに筑波山については、『筑波詣』という記録に「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲を貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。 又、『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得たる有様であった」と記されている。 
何れも大繁盛として記録されている。 筑波山・中禅寺は、筑波神社との神仏習合の地であった。

そして、磐梯山・恵日寺(慧日寺)は会津地方最古の寺で、磐梯山の大噴火の翌年(807年)に開いたとされている。 
磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。 無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 
時期としては磐梯山の恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いたとされる。 

今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っている。 
広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 慧日寺は、磐梯神社との神仏習合の地でもある。



さて、地元・湯本のことであるが・・、

宇治山・長谷寺」は、湯の岳をいただく裾野のいわき市は湯本にある。 
正確には、いわき市上湯長谷堀の内地区で、湯本温泉地から歩いてもすぐのところである。

長谷寺の現状は、上記の二院ほどの華やかさは今のところは無い。 
徳一が、蝦夷開発の基地とし、隣国の常陸にも近く、藤原家の後押しがされたと思しき長谷寺は、往時は壮大無比の大寺院を想定されるが、今のところ、そのような痕跡はまったく無いのか、或いは発見されてはいないのである。
だが、霊峰・湯の岳を仰ぎ、霊験あらたかな温泉神社を配し、道後温泉、有馬温泉とともに三大古湯といわれるサハコの湯の古湯に漬かれば良しとしよう。
これも徳一の思し召しかもしれないのである。 


陸奥の国・「いわき湯本」が大きく拓けるのは平安中期以降の頃で、藤原家の御人々や源家の武人が、勿来の関で歌を詠み、サハコの湯に漬かって風雅に過ごしたとされる。 
戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として 文人芸人の来遊が絶えなかったという。

次回は、 いわき湯本・「徳一と新興仏教




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2010年6月10日木曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」 


高僧・藤原徳一と長谷寺について・・、 

湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、この寺は「徳一」が開基したとされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。

長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文が記されていて、その中に 『 奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也 』とあって、徳一建立が明記されている。 

この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって「神明鏡」(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記。 時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている文献)と比較対照すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年~809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる貴人によって建てられた格式のある寺であったとされる。 
つまり、建立に当たっては中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。


徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 
それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる。
徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。



湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった。 標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。
古代においては、湯嶽(湯岳)を三箱山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる「湯の岳」を仰ぎ見て、山腹の観音堂に「三学の箱(函)」を納めたたことから、この地名が付いたといわれる伝説もある。

中世(鎌倉~室町期)には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、現在でも、それに因んで山麓地域である湯本地区には「三函」という名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称している。

因みに、「三学」とは戒・定・慧(かい・じょう・え)のことで、仏教の実践の三大綱要で戒学・定学・慧学の仏道修行の根本を三学をいう。 つまり善を修め悪を防ぐ戒律と、精神を統一する禅定と、真理を悟る智慧をいう。

湯の岳の中腹に、その所伝の観音堂跡があり、この観音堂こそが徳一の根本道場の一つだったことを物語っているし、この山全体が徳一観音信仰の霊場だったようにでもある。 
徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺、筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。

三函(サハコ)の地名は、今も湯本の町内に住所名として存在するが、「長谷寺」の所在地は上湯長谷である。 読みは「かみゆはせ」ではなく、「かみゆながや」と称している。
「湯長谷(ゆながや)」の長谷(ながや)は、当然、長谷寺の「長谷(はせ)」に由来する。 
因みに、隣地に「下湯長谷」もある。 湯の岳に向かって近いの方、つまり上の方が長谷寺の在る上湯長谷であり、遠く下の方が下湯長谷地区である。



次に、先に温泉神社の由来については触れたが・・、

温泉神社は、奈良期の7世紀頃、神体山である「湯の岳」より降臨(神仏などの天下ること)して里宮として遷座したもので、元より大和国・三輪神社(現、大神神社:現在奈良県桜井三輪)の主神を勧請し、祭祀されたとものいわれる。

三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と類似形をしている。 
そして太古より神宿る山で、そのものが神体であり、原始信仰の対象であったとされるのも酷似しているのである。

奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

飛鳥期の蘇我氏と物部氏の施政時代、伝来してきた仏教を擁護し世に広めるか、又は、仏教を排斥して従来の国家神道を貫くか否か、世に言う蘇我と物部氏の争いである。 
結果は仏教擁護派の蘇我氏が勝利し、神道派の物部氏は滅亡してしまう、そしてこの後、聖徳太子(当時は廐戸皇子・うまやどのおうじ、聖徳太子は死後に贈られた諡号・しごう)等によって仏教は大きく世に広がることになる。

結局、旧来の神様と新興の仏様が歩み寄ることになり、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。



日本において神と仏が融合する神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称している。 
そこで三輪神社の神宮寺は大神寺、通称、大御輪寺であったとする。(現在は、神仏分離で三輪若宮神社になっているらしい)この寺院には天平国宝の十一面観音が祀ってあり、観音信仰の菩薩である。

観音信仰の中心とされるのは「長谷寺」であるが、その根本御堂が三輪神社・三輪山の東に位置する大和・初瀬(泊瀬)川の「長谷寺」であることは周知である。 
初瀬川は聖なる川といわれ、初瀬が生じて「はつせ」・「はせ」・「長谷」になったとされている。 初瀬川は長谷の川でもある。 
三輪山の神に仕える巫女、彼女たちが禊ぎをするのが初瀬川であり、長谷寺の興りはこの三輪山と初瀬川であるとも想起できるのである。 
三輪山のご神体が、初瀬川で生まれた「龍神」であり、龍神信仰と結びついたのが長谷信仰の根本である「十一面観音」であったとされている。



大和の王城について・・、

三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。 ではそれ以前は・・? 旧態豪族の住む地であったとされる。

神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになり、さらに日本全土を「大和の国」と呼び習わすようになったといわれる。 
大和朝廷の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代大王=歴代天皇家の地となった。 
つまり、時代背景としては近畿地方において旧来の豪族たちを駆逐、叉は統一して新政治体制である大和朝廷(大和王権とする見方もある)が成立した時期であろう。


三輪山の神は本来は、旧来の豪族たちの神々、つまり出雲系(大国主神・国造りの神など)であったが、後に大和朝廷が駆逐して開いたこの地は、それ以降は大和系の天皇の神々を祀った。 このため大国主神は出雲へ追いやられるのである。 
しかし、後に三輪の大和の神も伊勢の地に遷宮され、次の三輪の神になったのが「大物主神」であった。 
移ったのは皇祖神である「天照大神」が伊勢の神(伊勢神宮)であり、出雲では「出雲大社」であった。

因みに、遷宮された後に三輪山の新たな主に収まった大物主神は、大国主神の別霊とされている。 大国主が転じて和魂となったのが「大物主神」であるとされてる。

次回は、 「徳一と藤原氏




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01. 15.

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