2010年8月31日火曜日

日本周遊紀行(132)厚木 「厚木の山地」(2)

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 日本周遊紀行(132)厚木 「厚木の山地」(2) 



前回に引続き「厚木周辺のハイキング・コース」の紹介です・・、


★ 日向山コース(家族向き)

広沢寺温泉から日向薬師へ向かうコース。 
大沢川からは水のせせらぎが聞こえ、小さな鳥居が見えたら大釜弁財天で、川音を聞きながらの森林浴は格別である。 
山道に入ってしばらくは七曲りといわれる急な上り道、上りはやや急であるがほんの5分ほどで尾根道に出て、更に緩やかな上り道を歩くと標高404mの日向山頂上へ到着、木々の間から相模平野が眺められる。 
下りきったところに重厚な造りの「日向薬師」がある。

日向薬師」は平安時代後期には霊場として栄えていたといわれる。 
寺伝では奈良期の霊亀2年(716年)、行基の開山といわれる。 だが、境内からは奈良時代にさかのぼる寺院跡は発掘されておらず、実際の創建は10世紀頃と推定されているという。 修験道の霊場で、本堂、薬師三尊像は文化財。
柴折薬師(高知県大豊町)・米山薬師(新潟県上越市柿崎区)とともに「日本三大薬師」に数えられることもある。
又、峯の薬師(相模原市津久井町)・高尾山薬王院・新井薬師とともに「武相四大薬師」としても信仰を集めており、源頼朝、政子も深い信仰を寄せていたという。 
一時期は勅願寺になり、江戸時代末期には 13坊を数えたと言われる。

◎ 歩行時間:約2時間15分 バス本厚木⇒広沢寺温泉入口



★ 鐘ヶ嶽コース(ハイカー向き)

広沢寺温泉付近の鐘ヶ嶽の登り口から山頂手前の浅間神社まで、二十八の道程に分けてそれぞれの箇所に1丁目から28丁目までの石碑が置かれている。 
鳥居をくぐり野道を進むと、やがて標高561メートルの釣鐘状の山が見える。 
石碑や石仏が置かれた急な坂道を登りきると大岩を抱いた展望地が在る。ここから急な石段を登り切ると浅間神社があり、山頂はその裏手にある。
下りは大山を正面に見ながら尾根道をゆき、山ノ神トンネルへ下りて林道から広沢寺温泉へ。昔の人々が「山の神」として深い信仰心をこの山に寄せ、名残を残す旧跡などが点在している。 
このコースはせまい急坂などチョット危なっかしい箇所もあるので、幼児連れのハイキングには遠慮したほうがいい。
広沢寺温泉玉翠楼」は、山間の落ち着いた和風一軒宿で、男女の露天風呂もあり、周囲は竹林に囲まれ、春には桜が見事である。 
源泉泉質は ph10.3の強アルカリで美肌効果抜群であり、女性には特に評判が良いという。 名前に因んだ広沢寺が隣地にある。

◎ 歩行時間:2時間30分 バス本厚木駅⇒広沢寺温泉



★ 経ヶ岳・仏果山(ハイカー向き)

高取山(荻野)522m⇒華厳山602m⇒経ヶ岳633m⇒仏果山747m

厚木市の国道412号の荻野地区から西に聳えているのが高取山、華厳山、経ヶ岳などの5~600m程度の山々で、この地区では西山と称されて親しまれている。 
山麓はゴルフ場や民家が広がっていて登り口は判りにくいが、主にR412のバス停を「東谷戸」、「源氏河原」、「上荻野」などで降りて山方向へ向うと、所どころに高取山への案内板がある。 
一端に取り付けば、あとは尾根筋の一本道で判りやすい。
稜線の向こう側は大規模な採石場であるが、やがてこの尾根まで砕石箇所が延びてきて山道は無くなるらしい。 
地元の自然愛好者は自然破壊だとして反対しているが行政も認可の方向らしい・・!。
尾根道は樹林帯のため展望はあまり良くないが、経ヶ岳付近からは周囲、特に丹沢連邦の景色が良い。 
西側の稜線上(経ヶ岳から半原越へ下る道)に「経石」と呼ばれる巨岩がある。
この名は昔、弘法大師がこの岩に経文を納めたことに由来しており、この岩がある山だから経ヶ岳と呼ばれるようになったと言われている。 
そう言えば華厳山、経ヶ岳、仏果山など仏に因んだ名称が多い。
仏果山山頂手前はちょっとした痩せ尾根と岩場があり、仏果山には展望塔もある。 
山頂から宮が瀬乗越、高取山(705m)は、宮が瀬湖、半原方面の展望が雄大である。

◎ 歩行時間:約4.0~4.30時間 バス本厚木⇒半原、上荻野行き、東谷戸、源氏河原、上荻野下車



引続き、厚木の山地(3)



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日本周遊紀行(132)厚木 「厚木の山地」

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 日本周遊紀行(132)厚木 「厚木の山地」 



最後に山好きの小生でもあるので、若い頃慣れ親しんだ厚木周辺の行楽地・ハイキングコースを紹介してみよう。 

厚木の、小宅の周辺には家族でも楽しめる低山地帯、良く整備されたハイキングコースが数多く点在している。



★ 高松山コース(家族向き)

高松山は、森の里団地(住宅、企業の併用)の東の一角にあり、標高150mほどの低山であるが厚木、湘南など相模平野が一望でき、山頂には明治天皇の行幸碑がある。
小野方面への尾根道を下ると、源頼朝の側室・丹後の局ゆかりの小社を構える「小町神社」がある。 
この辺りは、平安初期の歌人として、また美人として有名な小野小町に縁があるとも云われている。
小野は、鎌倉期、源頼朝の側室「丹後の局」は頼朝の子を身ごもったことから、政子の怒りに触れ、この山里に身を隠したと言い伝えられている。
丹後の局は、政子の恨みの激しさのため、黒髪が老婆のような白髪に変ったといい、悲しんだ局は小町神社の祭神に数日間祈願を続けたところ不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻ったと伝えられる。 
それ以来、小町神社には絵馬を奉納し、いろいろな願いをこめて参詣する女性の人が多くなったという。

◎ 合計歩行時間:1時間 バス本厚木⇒高松山経由森の里行きバス高松山入口下車



★ 飯山白山コース(家族向き)

「飯山観音」から、四季にわたって美しい飯山白山森林公園を抜け、白山山頂をめざす。 
飯山温泉や自然と歴史豊かなファミリー向きコースである。 
標高284mの山頂からは雄大な眺めも良く、飯山観音など見どころもいろいろ。
飯山観音は、飯上山長谷寺(いいがみさん ちょうこくじ;通称、はせでら)といい板東三十三ヶ所観音霊場第六番札所である。 
本堂は江戸中期の建物であるが、観音堂の由来は古く、奈良時代の神亀二年(725年)に諸国を巡っていた高僧・行基(ぎょうき)が創建したともいわれる。 
観音堂には本尊の十一面観世音(約180cm)像があり、体内には行基が楠の一木で彫った尊像が納められているという。 
境内付近は県内きっての桜の名所でもある。

◎ 歩行時間:1時間30分  バス本厚木⇒飯山温泉、



★ 巡礼峠白山コース(家族向き)

厚木市郊外の、いかにも裏山といった感じの低山帯で、古くからの信仰のために開かれた順礼峠と飯山観音を結んだ静かな尾根の縦走コースである。
春は若葉のころ、秋は紅葉のころが最も楽しめる。 
江戸期に順礼の親子が強盗に殺され、哀れに思った地元の人が建てたと言われる地蔵像が途中にある、享保8年(1737)の作。

◎ 歩行時間:2時間 本厚木駅⇒バス広沢寺温泉行き七沢温泉行き



尚、厚木ではハイキングMapや各種観光ガイドを発行しております、問い合わせは下記へ。

厚木観光協会 046-228-1131

厚木市役所  046-223-1511



引続き、厚木の山地(2)へ



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2010年8月29日日曜日

日本周遊紀行(132)厚木 「宮が瀬ダム」

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日本周遊紀行(132)厚木 「宮が瀬ダム」




宮が瀬振興財団(リンク)



宮が瀬ダム湖の奥部にある「水の郷」




「宮が瀬ダム」は、厚木の地域ではないが・・、

昨今、この宮が瀬地区に大きなダムが完成した、「宮が瀬ダム」という。 
東京都心から約50kmの至近に位置した首都圏最大級のダムで貯水池としても注目されている。

愛川町半原と相模原市津久井町(旧津久井町)、更に清川村宮ヶ瀬の3市町村に跨る相模川水系中津川に建設されたダムで、湖名は宮ヶ瀬湖という。 
1991年10月に宮ヶ瀬ダム本体コンクリート打設開始、1995年10月から貯水が開始され、1999年春には箱根の芦ノ湖に匹敵する「宮ヶ瀬湖」が誕生している。 

宮ヶ瀬ダムでは.二本の導水路で県内の相模・城山ダムと連携して水資源を合理的に利用し、2001年4月から本格運用が開始されている。 
総貯水容量約2億トンといい、水道水として新たに利用される水は横浜市や川崎市など県内の3分の2を賄い利用されてる。 

宮ヶ瀬ダム建設に伴い、本ダムに愛川第一発電所、副ダムに愛川第2発電所を新設。
ダムからの下流への補給を利用して水力発電を行い最大出力は、それぞれ25,200kW、これは一般家庭約21,000世帯の年間使用量に相当するという。

堤高156.0m、堤頂長約400mの重力式コンクリートダムで、全国の堰堤の規模からすると高さで5位にランクされる、ちなみに1位は黒部ダムで186mである。


又、宮ヶ瀬ダム建設に伴って多くの人が移転を余儀なくされた、水没地の面積は45平方キロメートル、移転戸数は281戸に及び、新規造成団地「宮の里」に移住している。

宮ヶ瀬ダム湖周辺は今は観光地として見所は多く、あいかわ公園、湖畔地区、鳥居原地区の三つのエリアに分かれている。湖畔地区は、旅館や商店が並ぶ水の郷商店街、のりもの広場や広大なピクニック広場、水の郷大吊り橋、ビジターセンター、交流館、カヌー場などがあって賑やかなところである。


又、宮ヶ瀬湖には例年のイベントがある。

クリスマスの時期に美しく光輝くジャンボクリスマスツリーが登場する。 
期間中は、水の郷の樹木にもおよそ10万個のイルミネーションが飾られ、ライトアップされた大噴水「虹の妖精」、美しい夜景とともにそこは光のパラダイスとなり、大人から子供までメルヘンの世界に招待してくれる。 
このジャンボクリスマスツリーとして毎年話題を呼ぶ宮ヶ瀬のモミの木は、樹齢100年を超えると推定され、このモミの木のてっぺんに約2mの星が飾られ、約1万個のイルミネーションでデコレーションされた、高さ約30mのジャンボクリスマスツリーになる。

宮が瀬へは小宅からは車で15分程度、中央道相模湖ICから30分、東名道厚木ICから40分、本厚木駅からバスで60分程度である。



回想の「中津渓谷、宮が瀬」・・、

厚木市街に接して流れる清流「相模川」が流れる。
関東の鮎の釣り場、夏には厚木鮎祭りの大花火大会の会場にもなる市民の憩いの場所である。

この広大な河原は、三川合流の地点でもあり、左より小鮎川、中津川、そして本流の相模川であるが、この中津川の上流凡そ10km上流の愛川地区に宮が瀬湖がある。


この湖の東端、宮ヶ瀬堰堤・ダムが位置するダムサイトエリア下流の石小屋ダム付近は、かつて名勝・中津渓谷があった地域である。
川幅一杯に急峻な山肌が迫り、この地形を利用し建設されたのが宮ヶ瀬堰堤・ダムがであるが、この地が愛川町石小屋地区であった。


克っての中津渓谷は、深い緑と鮮やかな紅葉のハイキングコースとして人気があり、小生なども何度も訪れた地で首都圏でも絶大な人気があった。
コースのスタート地点には、堅牢な石造りでメガネ状の名物・石小屋橋が在り、現在はその名残を残しつつも宮ヶ瀬ダム建設に伴って取り壊されたが。

この石小屋橋から先が中津渓谷の見所、核心部であった。 

日中でもあまり陽が指す事が無いほどV状に研ぎすまされ、深い峡谷の景観は我々を圧倒した。 
ユックリ散策しながらも概ね1時間、薄暗い谷間を通り抜けるとそこには信じられないぐらいの明るい集落が広がっている。

サンサンと降り注ぐ陽光の下、中には藁葺き屋根を設えた家々が寂として佇んでいる。 
中津川の清流には鮎やヤマメが飛び跳ね、河原にはバーべキュウを楽しむ親子ずれがいて子供達の嬌声が聞こえる。(小生の家族も含む)チョット上流には、ゆらゆら揺れる吊り橋がいかにも山の里を偲ばせ、山あいの平地には、黄金色の稲穂がたわわに実りを付け、こらえ切れないほどに頭を垂れた穂先が風にそよいでいる。

この宮が瀬の地は正に桃源郷の様相であった。


そして何十年も、否、何百年もの間住み慣れた部落の人々は、今、この地を後にして新天地の宮の里に移ったが、これらの人々が、フト・・!我に返り、かって住み慣れた桃源郷の「湖底の故郷」を思い起こす時、どのような気持ちになるのだろう・・? 

きっと胸が締め付けられるような思いにかられるに違いない。


宮が瀬ダムの建設時期に、同町の愛川高校の新設、開校(昭和58年)が合わさったたため、学校建設の際、南北校舎を結ぶ渡り廊下の中庭に「石小屋橋」の景観を取り入れたデザインを創作し、取り入れているという。


次回は、厚木周辺の山地



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日本周遊紀行(132)厚木 「古代地域と名前の由来」

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 日本周遊紀行(132)厚木 「古代地域と名前の由来」 



厚木の古代は・・?、

厚木の市街地から国道412号線を北東へ8キロメートルほど行くと、鳶尾山麓一帯は小生の住む鳶尾団地など新興住宅地が広がっている。

この付近は縄文時代草創期から、早期、前期、中期、後期の各時期の竪穴住居跡が発見されている。
13,000年前から4,000年前までの長い間、先人の暮らしが営まれていたことが分かり、所謂、縄文の団地であったことが判明している。

尤も、厚木及びその周辺でも縄文期の遺跡が数多く発見され、相模の中央地区は太古より人類が住み着いたことが判っている。

そして、有史の古代には最も栄えた時代を向かえることになる、隣町の海老名の地に巨大な「史跡相模国分寺跡」が発見されているのである。
その規模は、古都奈良の法隆寺をも凌ぐほどの大規模なもので、周囲は東西200m以上、南北300m以上もあるものと見られ、尚且つ、高塔を復元すると七重式で高さが65mもあったとされている。

発掘調査の所見から、8世紀中頃には創建されていたと考えられている。



国分寺」とは天平13年(741年)聖武天皇の詔(みことのり;天皇の命令)によって国ごとに設置された官寺で、奈良の東大寺、法華寺がそれぞれ総国分寺、総国分尼寺とされた。 
天皇は仏教の力を借りて人心の安寧を計るため、各地に国分寺と国分寺尼寺を建立することを命じ、相模国では現在の海老名市がその地として選ばれ建立された。


一般に、国分寺は、国府(律令制で、一国ごとに置かれた国司の役所)に隣接するか、直近に建立するのが普通であった。
当時、相模国の国府は、今の平塚市にあったと考えられるので(平塚市四之宮、前鳥神社付近とされている)、当時の支配者であった郡司(群衙・ぐんがともいい、当時壬生氏ともいわれる)が何らかの理由で国府と国分寺を切り離して建てられたとする見方があるようだ。


その厚木地域は相模国府と相模国分寺を繋ぐ中継交差する地点であり、相模国の重要な拠点だったとされてる所以である。

市内における国分寺建立と奈良、平安期の仏教の伝播を物語るものとして、飯山金剛寺、船子観音寺遺跡など市内各地から瓦塔片や仏像など発掘されているという。
この頃は、南都仏教(奈良期、平城京を中心に栄えた古来仏教)及び天台・真言宗(新興仏教)などが盛んに地方へ伝播した時代でもあった。



教育委員会が刊行した「厚木の地名考」によると、厚木の名が初めて文献に登場したのは、室町元年(1338年)禅僧の夢窓疎石が南北朝時代・足利尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)にあてた書状の中に「相州厚木郷」という名が記されているという、どのような内容、目的の文献であるかは定かでないが。

夢窓疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけて、国師号を授けられた臨済宗の名僧であり、「苔寺」で知られる京都の西芳寺、天龍寺、鎌倉の瑞泉寺など、多くの庭園の設計でも知られている庭園造形師でもある。

又、高師直は足利尊氏の重臣、執事であり南北朝時代の争乱の時期、尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多く、尊氏に従って室町幕府創立に寄与している。 

疎石は足利家とも縁があり、高氏とも深いつながりが在ったと見えて、師直の兄弟や子息達は疎石に帰依(神・仏などすぐれた者に服従し、すがること)していたという。

夢窓疎石と主将・足利尊氏の側近であった高師直とは相州・厚木郷において何らかの理由で接点があったことが想像出来る。
尚、この時期、足利氏による室町幕府成立に伴って、政治の中心は相模の国・「鎌倉」から再び京都に上っている。 


因みに、相州・鎌倉は、幕府滅亡後は足利氏による地方としての政庁・鎌倉府を設置(鎌倉公方)し、関東十ヶ国における出先機関としての役目を果たしている。 
この政庁執権を、関東公方とも称している。 この公方を補佐するために上杉氏などの関東管領が置かれていた。

序ながら、この関東管領・上杉氏(扇谷)の家臣で、相模国守護代を勤めた「太田道灌」がいる。 江戸城や川越城を築城したことでも特に有名である。

 『 七重八重 花は咲けども 山吹の
           実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき
 』

の歌でも有名な人物であるが、この厚木市街西方、糟谷(かすや:現伊勢原市)地区に居を構えたいた。 
だが、ある日、讒言(ざんげん:はかりごと)によって当主の上杉定正によって暗殺される羽目になる。 
毎年10月、伊勢原市では 「道灌祭り」が盛大に行はれている。



さて、「厚木」の地名であるが・・、

自然環境に恵まれている厚木地域は、前述したが縄文時代前期5、6千年前のには人が住んでいたと言われている。
それらは土着民であるアイヌ民族が住んでいたともされ、厚木の地名に『 厚木は諸川の合流下(相模川三川合流点)のところにあって、アイヌ語でいうAtu(吐き出す)ki(場所)=吐き出す場所が、その起源である 』という説もある・・?。

古代、国分寺建立の際は、この厚木辺りが材木、資材の「吐き出す場所」つまり集散地であったと考えらるのである。 
尤も、厚木の各所地名にはアイヌ語と思しき地名が数多くあるというが・・。

更に 「厚木・あつぎ」の地名の由来であるが・・、
木材の集散地であったところから、集め木、アツメギがアツギに変化したとされるが定説ではない・・?、 しかし、信憑性はある。 
厚木周辺の北西方向の山域は丹沢山塊から派生する低山地帯を形成し、比較的人が入りやすい森林地帯でもある。


現在、神奈川県で唯一の村である「清川村」は江戸期には丹沢御林とも呼ばれた。 
七沢・煤ケ谷その奥にあたる宮ケ瀬の東丹沢山一帯に繁茂する森林は徳川氏が江戸に入るに及んで「丹沢御林」と称され、後に幕府御料林とも呼ばれた。
御林は幕府直領下におかれ、江戸城修築や江戸の町並みを造営、其他の木材に使用に供された。
そして、この山林を守り、用材の諸役を課せられた村々や人々には年貢・諸役を免ぜられていたという。 

当時、丹沢東部に属する村々である愛甲郡煤ケ谷村、宮ケ瀬村、大住郡寺山村、横野村の四ヶ村には、御領林の警衛なども命ぜられ、村民による巡見管理を任されていた。 

併せて、この地区を御留山(おとどめやま)とも称していた。
新編相模国風土記の記事によれば、この四ヵ村の巡視のための番札を掛けた大きな欅の木が、宮ケ瀬から秦野へ通ずる林道上(県道秦野清川線)にあり、このことから、この地を「札掛部落」と名付けられたと記されている。 

東丹沢「札掛の碑」

現在も、草にやや埋もれてはいるが証しの石碑も残っている。

次回は、清川村「宮が瀬ダム」



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2010年8月27日金曜日

日本周遊紀行(132)厚木 「厚木・毛利氏」

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日本周遊紀行(132)厚木 「厚木と毛利氏」


大江氏(毛利氏)と厚木について・・、

厚木市及び周辺の状況、地史を色々と記したが、更に述べることにしよう。
厚木市街から西方に毛利台地区、南毛利といった地名がある。 
又、旧来の住人に「毛利」と名の付く人々も多いという。


厚木は、初め「森の庄」と称していた。 

森の庄」とは、当時の愛甲郡内の大半が山林であったことから起こった地域名とされ、愛甲郡一円を含めた地区であった。

相模国・愛甲郡の内、庄園(荘園)として開かれた地を、源氏の一族である源義家(八幡太郎)の六男・義隆(森冠者、陸奥六朗、毛利六郎ともいわれる)に当てられ、これを知行としたのが、すなわち「森の庄」であったといわれる。 

義隆は以降「森」と名乗り、森家の最も古い記述は鎌倉時代の吾妻鏡という書物に登場している。 
森義隆は、平安末期におきた平治の乱(源氏と平氏の合戦で平氏が勝利)で戦死しているが、森氏の子孫は存続していて400年後の戦国時代、織田信長の武将として取り立てられ、寵臣・森三左衛門可成の子・森蘭丸がいる。


さて、中世・平安末期(保元、平治の乱以降)、関東における源氏の勢力は遂に地におちて、平家の官人の支配する領となっている。 
この頃に、森の庄は「毛利の庄」と改称されていたらしいが、時期は定かでない。

時代がチョット下って源頼朝の石橋山の旗上げに際し、平家軍のうちに毛利太郎景行がいた。景行は平家の官人であったが、後に頼朝に味方して鎌倉幕府の御家人となっている。
その太郎景行の所領が毛利の庄にあったが、後には頼朝の重臣・「大江広元」の所領となっている。



その大江広元であるが・・、

広元は、京の都で太政官(国政を総括する最高機関)の書記を務めたという。
このように中央政庁の事務官である経緯から知恵者として知られ、その広元には兄の中原親能(ちかよし:公家の中原氏出身の文官御家人)がいた。
親能は源頼朝とも親しく、その縁から1184年に大江広元は鎌倉に召しだされて頼朝の側近重臣となり、政所の前身である「公文所別当」(別当は長官、今の政務、事務長官)として辣腕を振るうことになる。

頼朝が鎌倉幕府を開く直前、守護・地頭の制度を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。


この鎌倉幕府の名臣・大江広元の四男・大江季光が、相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)を父・広元から受け継ぎ所領とし、地域の名称を名乗って「毛利季光」(もうりすえみつ)としている。


「毛利」の元来の読みは「森・もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになったのは前述の通りである。

後の鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて季光は、安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に、国人領主として成長する。
戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、その後、名将・「毛利元就」を生み、ついには中国地方最大の勢力である「毛利家」となる。



毛利元就について・・、

元就(もとなり)は戦国時代最高の名将の一人と言われ、用意周到な計略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
ある日、元就は三人の息子を枕元に呼び寄せ、一本の矢を折るよう命じた。
息子たちが難なくこれを折ると、次は三本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかったという。 
元就は一本では脆い矢も三本の束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた・・、これが有名な「三本の矢」のエピソードである。 

だが、毛利家は嫡男の毛利隆元が早世していたため、嫡孫の毛利輝元(隆元の嫡男)が後を継いでいる。
1600年の関ヶ原の戦いでは、輝元が西軍の総大将に祭り上げられ、敗戦の結果、周防国・長門国の2ヶ国に減封される。
それでも毛利家は、江戸時代を通じて安泰であった。


この後、江戸時代末期の長州藩は吉田松陰をはじめ、数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となったことは周知である。
因みに、安芸の国・広島の「」は、大江広元の「広」を採って命名されたともいわれる。

尚、長州・毛利家については「西日本編」の山口県・萩市の項目で詳細記載します。



次回は、「厚木の由緒、由来



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日本周遊紀行(132)厚木 「戦国大戦」

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 日本周遊紀行(132)厚木 「戦国大戦」 



戦国期、有名な「三増の合戦」について・・、

厚木には「信玄道」、「甲州道」という甲斐・武田信玄に因んだ歴史的な街道の名称が存在する。
東海道・平塚より厚木岡田に入り、小生在住の妻田・荻野等を過ぎ、半原(愛川町)より長竹、津久井から甲州街道に達する。 
又は、中依知の追分で三増峠(愛川町)を過て長竹から津久井、甲州街道に達する。

いずれも現在の厚木市街を南北に貫く国道129号線、412号線に沿って愛川町、津久井町から甲州へ至る道で、俗に「信玄道」と呼んでいる。


永禄12年(1569)、武田信玄が関東から小田原の戦役より帰陣の時・・、『 此道に至れり・・、』と「甲陽軍鑑・小田原記」などに記載されている。 

長竹、串川付近の「信玄道」は、かながわ古道50選でもある。



戦国期、「甲相駿三国同盟」といわれた甲斐の武田信玄相模の北条氏康駿河の今川氏真(いまがわうじざね)の同盟は、永禄11年(1568)の信玄による駿河侵攻によって崩れ去った。 

信玄は今川氏真を駆逐した勢いで、関東のほぼ全域を支配している北条氏康・氏政父子と戦うため、永禄12年9月、全軍、大迂回路をとって上信国境の碓氷峠を越えて上野(こうずけ:群馬)に入った。 
北条領の北武蔵である武蔵・鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦、さらに滝山城(東京都八王子市丹木町)に北条氏照を攻めた。 
しかし、両城とも守りが堅く落城することなく、その後信玄は北条氏の本城である小田原城へ
向かい包囲した。
因みに、小田原城では、7年前の永禄4年(1561)に越後・上杉謙信の11万の大軍が約1ヶ月に及んで攻撃し、攻め立てたが北条勢の籠城作戦でこの危機を乗り切っている。 




愛川町三増にある「信玄の旗立て場」の標


三増の合戦」・・

北条氏康・氏政親子はこの城の堅固さを活かし、同様に徹底した籠城策をとり出撃はしなかった。 
攻めあぐねて数日を費やした武田勢は、ついには力攻めを諦めて撤退することにしたのである。

撤退は一端平塚へ戻り相模川を北上しながら、途中難所の三増峠越え(現、愛川町三増)が有った。
武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟らは、武田方とほぼ同数の軍勢で小田原城の後詰として出兵し、撤兵する武田勢が退路として三増峠を通ることを知って、先回りして奇襲攻撃の計画を立てたのである。

10月6日の朝、武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が、武田勢に対して一斉攻撃を始めた。 
ここで合戦となり武田軍は苦戦しながらも、信玄は頂上近くの平坦地で陣形を立直し、両軍が激突する。(現在、愛川町三増に「信玄の旗立て場」の蹟碑がある) 

武田勢の第一陣は馬場信房、第二陣は武田勝頼、さらには内藤昌豊らという錚々たる陣容であり、北条勢は裏をかいたつもりだったが、実は裏をかかれていたともいわれる。

つまり、待ち伏せの兵がいることを知った武田信玄は予め2万の軍勢を3隊に分け、別働隊である山県昌景率いる5千の軍勢で志田峠の道を進ませ、北条勢の攻撃を知るとすぐに引き返し、これが遊軍となって北条勢に襲いかかったのである。

この予期せぬ奇襲に北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。 
籠城軍として控えていた氏政軍が、その後追撃軍として参戦したが、荻野地区まで到着した時、既に勝敗は決していた。

信玄は北条氏との最終決戦を避け、追いすがる敵を振り払うように峠を下り、その日の夕方には津久井の道志川上流に着き、野営をし翌日に甲府に戻っている。



この「三増の戦役」で北条軍犠牲者は3200余人、武田勢にも900人ほどの犠牲者が出た。 
それでも、小田原まで攻めておきながら決戦を避けたのは、この時の出陣は単なる牽制が目的だったともいわれる。 
又、武田軍が関東大遠征の長距離間を苦戦したとはいえ、大きな損害も無く帰陣できたことは一応の成果があったものと言われる。
この戦いのとき、殿軍(しんがり)を引き受けた武田方の軍将・浅利信種(武田四名将に次ぐ重臣)が戦死している。


余談ではあるが・・、

北条・武田氏による三増合戦の際、逃げのびた武田勢が中津川の川音を海鳴りに聞こえ、眼下のそば畑の花を白浪と見間違え、彼らは敵地真っ只中の相模湾に出てしまったと思い込み、その場で自刃してしまったという。 
しかし、波に見えたのは実は「蕎麦の花」であり、以来、その村(棚沢、睦合)の人たちは彼らの死を悼んで、ソバを作らないことにしたという伝説が伝わる。
自害したとされる地に通(つう)ずる道。


その後、1590年(天性18年)北条氏政・氏直親子は小田原合戦にて豊臣秀吉に降伏し、小田原城を開城し、戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。

以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏小田原藩が小田原城を居城とした。



荻野山中藩・・、

大久保忠世から5代目の大久保忠朝(大久保忠隣の孫、老中・藩祖忠隣の領地であった小田原への復帰を果たす)の次男大久保教寛が小田原藩大久保氏の支藩として相模愛甲郡、高座郡などを有し、1万3000石で厚木荻野地区に「荻野山中藩」が成立している。

荻野山中藩は、小生宅のすぐ近くの新国道412号線沿いにあって、現在は小さな城址公園となっている。
園内に「山中城址」の石碑と「荻野山中藩陣屋跡」の碑が残されている。


幕末の慶応3年(1867年)12月、尊皇攘夷を唱える倒幕派の薩摩藩浪士31名は下鶴間村に一泊し、矢倉沢街道沿いのお寺や豪農に押し入り金品を強奪し、荻野山中藩陣屋を襲撃し焼打ちした。 

小野路町の小島家の日記に『 昨夜浪士荻野山中陣屋を焼打ちいたし、武器類不残(のこらず)奪取(うばいとり)候由ニ御座候 』と記した記録が残っているという。 
陣屋は消失したが、市内王子の福伝寺に遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。

この襲撃事件は、翌年勃発した「戊辰戦争」の原因の一因ともなり、日本の歴史は明治維新へと大きく変革していくことになる。
そして、この荻野の地からも、新時代への変革の炎は野火のように大きく広がっていったのである。

次回は、「厚木・毛利氏




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2010年8月24日火曜日

日本周遊紀行(132)厚木 「小江戸と渡辺崋山」

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日本周遊紀行(132)厚木 「小江戸と渡辺崋山」


画家、文人でもあり三河国田原藩家老・渡辺崋山



「小江戸」といわれた厚木・・、

その「厚木」は古来より知られた名称で、特に江戸期に入って「大山参詣」に通じる地域として多くの旅人に利用され親しまれところである。 

厚木地内を横断する道には古来から多く道があり、その名前の由来も興味あるもので矢名街道、矢倉沢往還、信玄道、甲州道、順礼道、殿様道、糟屋道など多くの道が縦横に走っていた。

矢倉沢往還は古来「足柄道」とも言われ、歴史的にも最も重要な道であったとされる。
江戸期になると大山講が盛んになり、大山への参詣者が急増したと言われる。
そのとき矢倉沢往還は江戸からの参詣道として盛んに利用されていた経緯から「大山街道」又の名を「厚木街道」とも呼ばれるようになり、概ね、現在の国道246号(旧道)となっている。

 


『 厚木の盛なる、都とことならず 家のつくりしさまは 江戸にかわれど、女・男の風俗かわる事なし 』

これは江戸時代末期の著名な画家、蘭学者であった渡辺崋山がその著書「游相日記」 の中で 記した一説である。  

当時の厚木は江戸からの大山詣での客たちの宿場町として賑わったばかりでなく、相模川流域を媒体とした経済の要地としての役割を果たすなど「小江戸」と称されるほど繁栄していた。

その渡辺崋山は、わが町・厚木を物見視察し、厚木の豪商や大山街道の繁栄ぶりを描いてる。 同時に厚木の風景画・「厚木六勝」などの絵画を残している。


崋山は、天保2年(1831)9月、弟子を伴って江戸を発ち、矢倉沢往還(大山街道)を相州に向けて旅立つ。

旅の目的は、主君である三河国・田原藩第11代藩主・三宅康友の子、友信の生母「お銀さま」の消息を尋ねることと、大山詣でで賑わう厚木村の様子を見聞することであった。

お銀は、友信を生んだ翌年(1807)故郷の高座郡早川村(綾瀬市早川)の母親が急死し、長女であったことから呼び戻され、その後、20数年の間様子が判らなくなっていた。 崋山は幼い友信の遊び相手をし、また絵の手ほどきをした。 叉、友信の母を想う気持ちを知り、厚木へと旅立ったのである。 この時の旅の様子が、矢倉沢往還の道中の風物や江戸時代末期の厚木村など、詳しく記されており、当時の農民の生活ぶりなども知る上では、大変貴重な資料だという。


厚木には2泊滞在したが、天王町(現 厚木町)の旅籠屋・万年屋平兵衛方に宿をとり、その夜は、厚木の風雅を愛する人々を集め、酒宴を開き、大いに歓談したという。
交遊した厚木の人々が別れを惜しむ中、藤沢に向い、江の島、三浦を廻って江戸に帰っていった。

市内東町の相模川沿いに「渡辺崋山・来遊記念碑」があり、崋山39歳の時であった。



学者として、画家として、また政治家として活躍した渡辺崋山(通称は登:のぼる)は、1793年、江戸の田原藩上屋敷で生まれている。( 田原藩;現、愛知県田原市)後に、田原藩家老となり、殖産興業につとめ藩政改革を行い、田原藩の繁栄に貢献している。

特に、天保の大飢饉(天保7、8年の大飢饉)には備蓄倉庫内の米穀によって、藩内に一人の流亡者、餓死者も出なかったことから、幕府は田原藩を優良藩として全国で唯一表彰されている。 
崋山の指導力による功績であったという。


又一方では、崋山は、鎖国時代にあって西洋事情を研究し、蘭学者の高野長英、小関三英(こせき さんえい:江戸時代後期のシーボルトの門下生、医者・蘭学者。出羽国の庄内地方・鶴岡出身)、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら:豊後・日田出身、幕末開国のため、日露和親条約や日米修好通商条約に調印、1868年・明治元年に勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞くと割腹自殺)、江川英龍(太郎左衛門:江戸時代後期の幕臣で伊豆・韮山代官、東京湾岸のお台場を作った人物で知られる)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。

特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を行っている。
こうした崋山の姿に藤田東湖(幕末に活躍した水戸藩の政治家、学者、尊王攘夷の先駆者)は『蘭学にての大施主である』と呼んでいる。
崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての敬称であった。

しかし、幕府守旧派の目付・鳥居耀蔵等により、これらの活動が発覚し、幕府の施策に反するものとして糾弾され、幕政批判という名目で「蛮社の獄」(江戸幕府が洋学者を弾圧した事件)に連座しているとして有罪となり幽閉、国元に蟄居を命ぜられる。

謹慎中の崋山の窮乏を助けるため、弟子たちが江戸で開いた画会が、蟄居中不謹慎と噂され、藩及び藩主に累(るい)が及ぶのを恐れた彼は、天保12(1841)年に自害している。 享年48歳であった。

渡辺崋山は、画家、文人でありながら、政治活動家として国家のために殉じた一人であった。  
自決したのは厚木をはじめ、「游相の旅」の10年後のことであった。

次回、厚木・「戦国時代の大戦



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日本周遊紀行(132)厚木 「厚木基地」

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 日本周遊紀行(132)厚木 「厚木基地」 



厚木基地(エキサイト地図)




厚木市域には無い、「厚木基地」・・?

ところで、小生が初めて「厚木」を知ったのは東京在住の頃、昭和30年代後半で(20代前半)、 この頃、山歩きの味を覚えた時期で厚木周辺の低山や大山、丹沢山塊を歩くために厚木の駅(小田急・本厚木駅)でよく仲間、友人と待ち合わせをしていたもんである。 

その頃の駅周辺はかなり鄙びた感じで、鉄筋コンクリートの建物などは無く、薄ぎたない木造平屋建ての粗末な食堂やうどん屋が数件並び、神奈中バスの集散営業所などが在ったことを記憶している。

現在では県央の中核都市で小田急の本厚木駅を拠点として発展し、大きなビルも建ち並び、既に昔日の面影は無い。



ところで、小田急線の一つ手前相模川の対岸の駅に「厚木」駅がある、実のところ駅の所在は厚木市ではなく海老名市なのであるが・・、
かって小生も間違えて降りてしまった事があり、厚木市に御用向きのある方で初めて当地を訪れた方は今も時折、本厚木駅(実際の厚木市の駅)を一つ手前の厚木駅とを間違えて降りてしまう人がいるらしい。


海老名市に厚木駅が存在する理由は、現在のJR相模線や小田急線より開通が早かった相鉄厚木線(貨物線)がかって在り、まだ駅のなかった厚木町(当時)の承諾を得て「厚木」と付けられたというのが説である。 
又、この貨物線は「厚木航空基地」(現、米軍厚木基地)への貨物列車の連絡専用線としての駅でもあり、そのための名称でもあったとされる。



厚木基地について・・、

さて、今度はその「厚木基地」のことであるが、駅名同様にこの基地は地図を見ても判るとおり、呼び名のような厚木市内には存在しない。

敷地は大和市と綾瀬市にまたがっているが、両市とも名前の由来となっている厚木市との間には、海老名市や相模川によって隔てられており、地理的に「厚木」との関連性は全くない。 
なぜこの飛行場に「厚木」の名がつけられたのかについては昔から様々に論じられているようであるが、決定的な事は今でも定かでないらしい。

基地の歴史は、昭和13年に旧日本軍が航空基地として定めたことから始まりで、昭和16年には帝都防衛の為の海軍航空基地として使用が開始されている。
太平洋戦争末期は海軍の東京防空拠点となり、人員・装備とも枯渇しきった大戦末期の海軍航空兵力の中にあって、数少ない精鋭部隊の一つであり、祖国防衛、敵機迎撃のため出撃の拠点だった。

終戦の1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決定すると、米軍は東京占領の基点として厚木飛行場に白羽の矢を立てた。
戦後の8月30日、連合軍総司令官・ダグラス・マッカーサーの乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸する。
そして、「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。

このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真はあまりにも有名である。
その後、昭和20年の終戦により連合国軍を構成する米軍に接収された。 

以来、米第7艦隊の後方支援基地となり、この間、昭和46年には基地の一部が海上自衛隊に移管され、日米共同管理体制が採られるようになり、米海軍は「厚木航空施設」として、また、海上自衛隊は「厚木航空基地」として、所謂、日米共同使用の基地として現在に至っている。



さて、その「厚木基地」であるが、厚木市域にではなく、基地の名称とは異なる前述の二市に所在している。
このことは多くの人の疑問なのであるが、この名称の由来については、次のようなことが言われている。

一つに「厚木」は、この近隣で古くから「小江戸」と呼ばれていた通り宿場町、生産物の拠点、交易の場として栄え、全国的に知られていた名であること。
二つに基地の所在を欺くなど、軍事上の理由によるもの。
三つに大和基地とすると、大和(やまと)は古代の日本国名や朝廷の名称であり「戦艦大和」や奈良の大和などを連想し混同しやすい。(綾瀬の地域名は当時存在しない)

など諸説あるようだが、実は確証がなく、今だにその由来は解明されてはいないという。 


駅や基地名の他にも、厚木ナイロン(現アツギ:海老名市)、雪印乳業・厚木マーガリン工場(海老名市)、アートコーヒー 厚木工場(海老名市)等、厚木市外にも拘らず周辺に「厚木、アツギ」の名の付く企業名やその他がけっこう在るのである。


次回は、「小江戸・厚木



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2010年8月22日日曜日

日本周遊紀行(132)厚木 地元の「厚木」

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日本周遊紀行(132)厚木 地元の「厚木」



横浜湾岸道路から国道16号・保土ヶ谷バイパス経由、国道246にて、待望の我が家に到着した。

時に、平成16年(2004)10月5日18時20分

突然の帰宅で、カミさんもビックリ・・!!、

直ぐにニッコリ・・!、

「お疲れさんでした・・」・・、と




ところで、最後に我が居住地・地元「厚木」について書かねばなるまい・・、




相模の国、神奈川県のほぼ中央、南に相模平野を望み、北、西の丹沢山地に抱かれた緑豊かな土地柄である。
更に、富士五湖の一つでもある標高凡そ1000mの山中湖に水源を持つ「相模川」の畔に位置している。 

厚木は県央地域の物流拠点となっており、東名高速と小田原厚木道路のインターチェンジや国道129号、国道246号、合同バイパス、国道412号などの主要国道が交差する交通の要衝となっている。

又、東京・横浜からそれぞれ直線距離約60km、30kmに位置し、東京都心までは電車で約45分から1時間前後のところに在り、首都圏郊外都市として発展してきた。 

人口は22万を超え(平成19年)、首都圏の業務核都市(東京圏における住宅問題、職住遠隔化等の大都市問題の解決を図るため、東京都区部以外の地域で相当程度広範囲の地域の中心となるべき都市)に位置づけられ、2002年4月1日付けで特例市にも指定されている。

住宅や産業においては東京・横浜の衛星都市として知られる一方、多くの山間部や農業地帯も有している。

山懐の地でもある厚木は丹沢・大山方面登山への入口となっている他、古来より市内には複数の温泉地を抱えている。

そして、江戸期には「小江戸」と呼ばれていた通り、古い時期から発展した地域でもある。

この厚木の歴史的意味合いを次回より追々と述べたい。

次回は、「厚木基地



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日本周遊紀行(131)横浜 「横浜開港」

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 日本周遊紀行(131)横浜 「横浜開港」 



明治後期の横浜港(開港資料館所蔵)




近年(2009年)、横浜開港150年を迎えたことは、前回、記した・・、

江戸期の「横浜」は、東海道の宿場として神奈川宿それに保土ヶ谷や戸塚が賑やかであったにすぎず、当時の横浜(横浜村)の港は、砂浜が広がる戸数100戸足らずの小さな漁村だったという。

横浜の地域は、隣地・鎌倉に幕府が置かれた華やかな鎌倉時代においても、せいぜい北条氏により称名寺や金沢文庫が建てられ、また小机に水田が開かれた程度で、さして注目はされなかった。
その主な理由は地域全体が丘陵地、山坂がかなりの部分を占めていて、農作物の作付けにも適さず、人の往来の自由をも阻んでいたと思われるのである。

横浜港域としては、歴史的には鎌倉幕府の玄関港として繁栄していた六浦湊(現在の横浜市金沢区)の存在にまで遡ることが出来るが、原型は神奈川湊(かながわみなと)の方にあると考えられている。
神奈川湊は、東京湾内海交通の拠点の1つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展して行く。 現在の横浜市神奈川区神奈川本町、青木町付近にあった。(京急・神奈川駅付近)


江戸末期には船舶は大型化し、外国船受け入れの為の大型の港が必然となってきた。

その前提として19世紀半ば、神奈川湊沖で締結された「日米修好通商条約」にて、港としては現行の神奈川宿の湊が取り敢えず開港場に指定された。 しかし、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊は避けるべきだとの合意で、幕府の指令によって対岸の横浜村に新規に港場を新設することを改めて決めた。 

実際に開港したのは横浜村(現在の中区北側近辺)であり、港やその周辺の工事は突貫工事の急ピッチで行はれたという。
これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿、保土ヶ谷宿や周辺の村々の人達の所謂、民間の人々であったと言われる。



1853年,アメリカのペリーが来航して以来、日本は鎖国政策を取り止めて、神奈川(横浜),長崎,箱館(函館)の三港が開港し、外国との自由貿易が出来るようになる。 

横浜港が開港した当時は、現在の大桟橋の付け根付近に二か所の波止場が造られたが、それでも大型の船は波止場に直接に付けることができず、沖に停泊し「はしけ」や「汽艇」とよばれる小さな船が陸との間を往復して荷物や人を運んだといわれる。

1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)、横浜港は開港し実際に貿易を開始した。
開港に先立ち、幕府は横浜への出店を奨励する御触(おふれ)を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋が開店したほか、全国から新しい港で一旗揚げようと意気込む商人が集まり、横浜港は急速に発展したという。


その後の横浜港は「金港」(現在も金港湾など、その名が残る)とも呼ばれ、開港当初から昭和初期に至るまで綿花などの原料・鉄類・機械の輸入と生糸・糸・絹織物の輸出を主とし、特に生糸の貿易港として発展していく。 

更に、京浜工業地帯の発展に伴い、鉄鋼・機械類・油脂の輸入と、機械類・金属製品・鉄鋼の輸入を主とする工業港となる。 
現在では、コンテナ貨物取扱や倉庫物流の拠点としても重要な役割を担い、日本有数の貿易港となって東京港、川崎港と併せて京浜港群のスーパー中枢港湾として発展していくのである。

尚、横浜市は6月2日を開港記念日としている。 
そして、来年の2009年は開港150年にあたり、横浜市としては盛大に「開港記念祭」を計画しているとのこと。


次回、最終地は小生の地元「厚木」



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2010年8月20日金曜日

日本周遊紀行(131)横浜 「横浜ベイエリア」

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日本周遊紀行(131)横浜 「横浜ベイエリア」




横浜ベイブリッジ

山下公園の氷川丸とマリンタワー

横浜・みなとみらい21地区


首都高速道の湾岸線から、美景な「横浜ベイブリッジ」を渡る・・、

横浜の名所にもなっている「ベイブリッジ」は横浜港湾口部の航路を、本牧ふ頭から大黒ふ頭を全長860mを横断するもので、支柱を立てて、そこからワイヤーで両方から突っ張る「斜張橋」という工法で世界最大級の湾口吊橋といわれる。

橋は珍しく上下2層の構造をなす道路橋で、上層は首都高速湾岸線と下層は国道357号線になっている。
又、大黒ふ頭側の「スカイウォーク」といわれる海上50mからは、片道320mの展望遊歩道になっていて、海上の様子や山下公園、横浜の新しいシンボル、「ベイエリア」などが見渡せる。



昭和期における横浜の顔といえば、日本で始めての臨海都市公園として完成した「山下公園」であろう。
そして、その一角にある展望塔の横浜マリンタワーや氷川丸、新大桟橋などであった。


ところで、マリンタワーは、横浜港開港100周年記念行事の一環で建てられ、本年(2004年)横浜マリンタワーが45周年を迎えるという。 
高さ106m、円形の灯台を意識したデザインとなっており、実際に頭頂部には灯台としての機能も併せ持っていたらしい。

しかし、このタワーも老朽化が進み、本年末をもって目出度く引退することになったといいい、5年後の開港150周年には、リニューアルオープンする予定であると。 
2009年の横浜開港150周年まで、しばしお別れである。 

ところで、マリンタワーは市ではなく「氷川丸マリンタワー」という会社が経営していたらしい、この度、マリンタワーのリニューアルに併せて会社も解散する事になり、マリンタワーは横浜市へ、「氷川丸」は日本郵船(株)又はその関係先に譲渡する予定だという。



氷川丸は、元々、日本郵船で活躍していた豪華客船で「北太平洋の女王」と呼ばれ、喜劇王チャーリー・チャップリンや秩父宮夫妻乗船したことでも有名である。

太平洋戦争時には病院船
そして、1960年(昭和35年)、70年の現役生活を引退し、横浜市の「横浜港開港100周年記念事業」の一環として、1961年(昭和36年)生まれ故郷の横浜港・山下公園に係留されているのは周知である。
日本郵船に譲渡され、更にリニューアル保存される見通しだが、再公開の詳細は決まってないという。



この「三菱横浜造船所」は横浜再開発の要望を受け、昭和58年(1983)に、この地を離れている。

その後、この跡地に出来つつあるのが、「みなとみらい21」といって、今や横浜の新しい顔とも言える「ベイエリア」になっている。 

日本一高いタワー棟・ランドマークタワー高さ296m・70階建てで69階に展望台がある)を中心とするオフィス、ホテル、ショッピングモールを核に、展望フロアや多目的ホール、さらには復元活用した赤レンガ倉庫広場など、多彩な施設を併設し、魅力ある一つの街を形成している。

次回は、「横浜開港



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日本周遊紀行(130)川崎 「六郷渡しと堀の内」

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日本周遊紀行(130)川崎 「六郷渡しと堀の内」



川崎宿の堀の内・・、

徳川幕府により、東海道に宿駅伝馬制度(街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度)が敷かれたのが慶長6年(1601)のことであった。
川崎宿はそれよりおくれること22年後の元和9年(1623)、品川から神奈川両宿の伝馬負担を軽減するため開設された。

この頃は既に多摩川に「六郷」の橋が架けられていたが、元禄元年(1688)の大洪水で流されて以来、明治7年(1874)まで船による「渡し」が続けられた。
因みに、明治初年の天皇の行幸の際には、多くの船を並べ繋ぎ、その上に板を渡した橋、即ち「船橋」(ふなはし)で渡ったという。



明治元年(1868)10月 明治天皇の東幸渡行風景。 官軍に守られ、船上の「六郷の渡し」を行軍する明治天皇の行列。作者は「月岡芳年」の錦絵(三枚) (大田区立郷土博物館所蔵)


さて江戸時代、東海道を行く者にとって多摩川の「六郷の渡し」は江戸に入る大切な要であり、常時十数隻程度の舟で旅人や荷馬を渡していた。
前述の明治天皇の渡御の際には23隻の舟を横に並べ、船橋を作って渡ったという。 
現在の六郷大橋の欄干には渡船のモニュメントがあり、当時の多摩川の姿を伝えている。


川﨑の宿場は、江戸から六郷の渡し(現、六郷大橋)を渡りきると、現在の堀の内町から駅前の砂子、南町地区辺りが旧東海道の道筋である。
川崎・堀の内というのは平安末期に河崎基家がここに居館を構えたのが、この名前の起源といわれる。

河崎基家は坂東平氏の秩父氏の末流といわれ、基家がここに知行を受けて、その地名を名乗ったようである。
その館は現在の堀之内の稲毛神社付近と伝わり、神社の案内板にもそういった由来が書かれている。
多摩川がこの地域のすぐ近くを流れ、「堀の内」はその渡河地点を押さえる重要な立地だった。

因みに、基家の子である河崎重家が武蔵国の渋谷を賜ったことから渋谷姓を名乗り、これが現在の東京・渋谷の始まりだそうである。
渋谷の駅から200mの至近、静寂の地に「渋谷八幡」(金王神社)があり、渋谷氏の城があった所で、現在の渋谷の地名の由来といわれている。



一般の宿場町も、概ねそうであるが・・、

江戸期の川崎宿駅は、堀の内を中心に一般通行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、飯盛り女の手引きで客を引きながら宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげていた。

飯盛り女とは、宿駅の宿屋で旅人の給仕をし、売春も兼ねた女のことである。



ところで現在の堀の内地区は昔の面影というには気が引けるが、男相手の客商売、所謂、風俗営業の店が軒を並べ、関東屈指の風俗街と成り果てて、繁盛しているようである。


余計で私事ながら、この「堀の内」には思い出がある、実は小生が「男」になった所なのである。 
未だ20歳そこそこの頃、田舎の会社、工場勤務より東京大手町の本社へ出向転勤になり、この会社の社員寮のある大田区・六郷土手に居を移した。

六郷土手は、京浜急行の「六郷土手」の駅があり、東京よりの多摩川堤のすぐ近くで、僅かなところに第一京浜国道(旧東海道)の六郷橋が架かる。

或る日、先輩に連れられて六郷の大橋を渡り、川﨑の堀の内で遊び、男として初めて「筆おろし」をした場所でもあった。

堀の内は昭和中期頃までは、公の遊郭街として有名であり、近郊の男供を相手に正々堂々と商売し繁盛していたという。  
ところが、売春防止法(昭和31年)が発布されて公には出来なくなり、飲食店という形式で内々に行っていたようである。 

小生が始めて訪れた時も、カウンターで飲食をしながら、徐に(おもむろに)意志を確認しながら商談・・?をまとめ、何がしかの金銭を別に払って、二階の特別室で用を済ませたものであった。

その後も給料日の後などは、下駄履きでカランコロンと六郷の橋を渡り、お馴染みの所で、たまにはお馴染みさんと「筆ならし」を行ったもんである。



東海道・川崎宿の堀の内地区は大師道への分岐でもあり、お大師様参詣で賑わったところでもある。
大師道は六郷の渡しから医王子、若宮八幡宮を経て、川崎大師・平間寺(へいけんじ)の山門に至る道を言い、”川沿いの道(大師道)を下りて18丁(1962m)の所にある”と、当時の物の本・案内書に書かれている。 

厄除けで有名な川崎大師は江戸時代から東海道を通過する旅人だけでなく、江戸を中心とする庶民の霊場にもなっていた。
尚、江戸表から訪ねて来る参詣人は、多摩川を渡るとき六郷の渡しではなく上流の矢口や丸子の渡しを利用して渡ったともいわれる。

中原街道の丸子の渡しは水量も少なく、庶民の渡しだったのだろうか・・?

川崎大師は大治年間(1126~1131年)、尊賢(そんけん)が開山、平間兼乗(ひらま かねのり)の開創といわれ、後北条氏の時代から弘法大師信仰(真言宗)の零場として賑わっていた。

江戸時代になると、徳川家斉、家慶、家定、家茂らの各将軍も厄除け参りをするようになり、その為御膳所、御成門も建立され門前町としても多いに発達したという。

川崎宿の繁栄は、この川崎大師の隆盛の影響も大きかったのである。


現在、高尾山薬王院成田山新勝寺とともに真言宗の関東三本山の一つとされ、毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなることは周知である。

因みに、2006年初詣客は272万人となり、全国三位、神奈川県第一位を記録している。

当寺への参詣客を輸送する目的で1899年1月21日(初大師の縁日)に開業した大師電気鉄道は、現在の京急(京浜急行電鉄)の基となった。


次回は、「横浜



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2010年8月18日水曜日

日本周遊紀行(130)川崎 「川崎の街道」

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日本周遊紀行(130)川崎 「川崎の街道」



川崎は橘樹郡・・?、

アクアラインの海底トンネルを抜けると、川崎市の浮島JCTに到る。すぐ北側には東京都・神奈川県境である多摩川が流れ、河口の都側には羽田空港が隣接している。

川崎市・・、
この多摩川より南の沿岸地帯はかの有名な京浜工業地帯、或いは臨海工業地帯などと言われる石油コンビナート、重化学工業などの大規模な重工業地帯となっていて、昭和30年代の高度経済成長と合わせて大いに発展した。
しかし、この時期「川崎公害」という高濃度の大気汚染や環境基準を上回る二酸化窒素(NO2)などによる大気汚染が、長期にわたり沿道の生活に大きな影響を及ぼしたとして、公害訴訟なども起きている。


一般に川崎というと、このような産業、工場地帯をイメージを抱かせるが・・?、
川崎市は、都県境の多摩川に沿って横浜市の北側、西部多摩地域の山域まで、東西に細長く広がる市域で、実は大部分の地域は緑の多い丘陵地、田園地帯が占めているである。



ところで「橘樹郡」というのをご存知であろうか・・?、「たちばなぐん」という。

現在の川崎市域を見渡しても「橘樹」という地名は、行政上の地名としては一切見当たらず、僅かに地域の個々名か学校名で「橘」という字が見えるのみである。
ただ一ヶ所、橘樹神社(たちばな じんじゃ)という名称で川崎市高津区子母口(旧武蔵国橘樹郡)にある神社にその形跡が残されていた。

そしてこの神社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祀っている。


大化の改新(710年)によって、現在の川崎市域は「武蔵国 橘樹郡」として、大和朝廷の任命した国司が治めていて、通称、橘樹(たちばな)と呼ばれていた。

克っての武蔵国・橘樹郡(たちばなぐん)の範囲は概ね、現在は川崎市(川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域および麻生区の一部)および横浜市の一部(鶴見区、神奈川区の全域および西区、保土ケ谷区、港北区の各一部)になっていたとされる。
その呼称は、近代の昭和初期まで存続していたのである。
尚、武蔵の国の国府・政庁は、「府中」にあった。


郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられてる。
その近くに、今も鎮座しているのが弟橘媛を祀る橘樹神社なのである。



橘樹郡の郡名の起こりについても、「新編武蔵風土記」に興味深い記述がある。

『 橘樹郡は、國の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に續けり、郡名の起りは其正しきことを聞す「古事記」及「景行記」等に載たる倭建命東征の時、相武國より船を浮べ給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后(きさき・皇帝や王侯の妻)の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽進むことを得し條を證として、當郡にかの弟橘媛の墓ある故に橘をもて地名とせしならんと云説あり、今按に郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛を祭れるなりと云ときは、橘媛の墓といへるもの、もし是なりといはんか、今彼社傳を尋ぬるに更に證とすべきこともあらざれば、是等のことは今より知べからず、』・・とある。


富士見台古墳は橘樹神社の裏手の丘にあり、前述のとおり弟橘媛陵であるとする説がある一方、この古墳は 6世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。
ここ富士見台は江戸時代までは旧子母口村の一角であったが、近年になり都市化が進むと川崎市が本古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」に改められている。


かつては多摩川沿いの田園風景の中にそびえる丘であった富士見台は、現在は宅地造成や道路敷設によって削られ、古墳頂上部の一部、高さ 3.7m、直径 17.5m の部分のみが姿を留めており公園として管理されている。
その頂から見える風景も、今は宅地ばかりが続く光景となっている。

尚、日本武尊(日本書紀表記、古事記では倭建命)と弟橘媛に関しては、千葉・「木更津と袖ヶ浦」の項でチョッと詳しく記載してあります。

千葉県・木更津
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-954.html


太古の川崎には、既に北西部の丘陵地帯に人が定住していたらしく、黒川地区などでは日本の旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認されているという。

当時の多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだといわれる。

7世紀に律令体制の整備により武蔵国の一部となり、奈良時代には現在の高津区に橘樹郡衙(たちばなぐんか・郡の府)が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。
何れにしても、当時の川崎の政経上の中心は中原区、高津区辺りの現在市域の中央部にあったことが想像されるのである。



江戸時代になり事実上の首都が江戸に移ると、川崎は京や甲州と江戸を結ぶ交通の要衝となった。
西から津久井街道、大山街道、中原街道、東海道、これらの道路を横断して結ぶ府中街道などであり、これらの街道が市域の縦横を走る。


津久井街道」は川崎西端部の登戸から西へ、生田、柿生(かきお)、鶴川に向かい、さらに鶴見川の上流に沿って相模原市の橋本から津久井地方、甲州に至る道である。
この街道は甲州街道の脇街道でもあり、津久井・愛甲(津久井、半原は養蚕の盛んな地であった)で産した絹を江戸へ送るいわゆる「シルクロード」とも云われた。

大山街道」は、多摩川を渡り二子、溝口を経て多摩丘陵、厚木、大山の麓の伊勢原、足柄峠を越える。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」とも「矢倉沢往還」とも呼ばれて、古くから大山詣りの道として知られ、主に現在の国道246号と合致している。

府中街道」は、川崎市域を縦断するかたちで東京都東村山市から府中市を経てJR川崎駅に達する道路のことであるが、多摩側では「川崎街道」、川崎側では府中街道と呼んでいる。
中世の頃までは川崎を含む武蔵の国の国府(東京・府中)と橘樹郡の郡衙が置かれていた高津を結ぶ道路としてその名が付いたとされる。

中原街道」は、小杉から東海道の平塚宿場へ到る。平塚には中原という所もあり、ここからほぼ真っ直ぐに川崎の中心・小杉を通って江戸へ延びているのが中原街道である。
現在では県道丸子・中山・茅ヶ崎線と呼ばれている。中原街道は武蔵国と相模国を結ぶ街道としてかなり古くからある道で、少なくとも中世には使用されていたらしい。 
江戸期に入って東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、江戸-平塚間をほぼ直線につなぐ道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。
東海道は大名行列に使われるため、その煩わしさを嫌う庶民や商人が利用したのであるが、かの赤穂浪士達も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。
小杉(現在の川崎市中原区小杉御殿町)と平塚中原に御殿が作られると、将軍の駿府との往復の際や鷹狩の際などにも利用されたという。



さて、御存じ「東海道」であるが・・、

古来より五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ日本の中で最も重要な街道となった。 
日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は53箇所(東海道五十三次)で、当初は、主に軍用道路として整備されたらしい。
宿駅は53箇所のうち、江戸より2番目が「川﨑宿」である。(1番目は品川宿)
東海道を上る旅人が昼食や休息をとる場として、また、江戸より下る旅人にとっては六郷の渡しを控えた最初めの宿泊地としてにぎわった宿場町である。

川﨑宿より、自然に拓かれたのが「大師道」で、厄除けで知られる川崎大師に至る道である。 
古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、徳川11代将軍家斉が江戸後期に公式参拝してから、一層広く信仰されるようになったという。


引続き川﨑・「堀の内



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日本周遊紀行(129)東京 「江戸城界隈」

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 日本周遊紀行(129)東京 「江戸城界隈」 



靖国神社・拝殿


江戸城界隈の代表は「靖国神社」・・?、

明治維新を期に、皇室が京都御所から江戸城に転居し、以後は江戸城中心部の西側が皇居となっている。

通常は皇居部分(西の丸と吹上御所)には入れないが、その東側にある本丸・二の丸と三の丸の一部は皇居東御苑として開放されている。

南側の皇居外苑と北側の北の丸公園(日本武道館)は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。



先にも記したが「紀尾井町」とは・・、

この江戸城・赤坂見附の北側に「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。

現在、東京、日本国の中枢でもある官庁街、議事堂などの近くで、ホテル・ニューオータニ、赤坂プリンスなど日本を代表するホテル群が建ち並ぶこの一帯は、130年前の江戸時代には徳川御三家の「紀州家」、「尾張家」そして、幕末の大老家である「井伊家」の屋敷が占めていた。 

その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」とした。


江戸名所図会」には、尾張家屋敷(現、上智大付近)と井伊家屋敷(現ニューオータニ)の間の道に「紀尾井坂」という文字も見えるという。

そして現、内堀内の北側、北の丸公園の田安門(田安家:一ツ橋家、清水家と共に徳川御三卿のひとつで、実際の領地は持っていないが徳川家の一門として御三家に次ぐ10万石の格式を与えられ、江戸城北の丸・田安門近くに大きな屋敷を構えていた。)あたりは、かっては急坂のあった丘陵地であり、「九段坂上」とも称していた。

幕府がこの坂道に九段の石段を作り、九段屋敷と言う御用屋敷を造ったためこの名が付いたともいわれる。


江戸古書には「 町屋に並んでいる賑やかな中坂に比べて、九段坂は崖っぷちの細い坂道だった 」と書かれていて、坂の上には当時は幕府の御用地も在り、この空き地は火除けの為の地だったのではないかともいわれている。

この坂は今よりずっと急な坂で、大八車などは容易に上ることが出来ず、車の後押しを専門とし生業にする押屋という者もいて、一回の押賃は一銭だったともいう。

坂の上からは神田、日本橋、浅草、本所はもちろん、安房、上総の連山まで眺められ、そして月の名所としても有名であったといわれる。



靖国神社・・、

この坂上に「靖国神社」が出来たのは、明治2年(1869)に明治天皇の勅願と大村益次郎の献策によりによって建てられたという。

当初は戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建され、初めは「東京招魂社」と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。

過去には嘉永6年(1853)、アメリカの提督ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀った。 又、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために斃れた人達を祀ることになった神社でもある。 

因みに、幕末の志士・吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎などそうそうたるメンバーも「維新殉難者」として合祀されている。

九段坂の広大な参道の右には靖国神社の大鳥居、そして大村益次郎の像が立っている。



昨今、神社の存在意義、神霊の分社・分祀、要人の参拝の可否などが内外で問題視されているよである。
それらの事に関してここでは敢えて申さぬが、靖国神社の事柄に関して、多々問題になり、拗れ(こじれる)そうになった場合は創建当時の原点に戻る事も必要であろう。

何事においても「理由付け」すれば、事の真偽や重大さを見落としがちであることも確かである。



靖国神社御祭神戦役・事変別柱数』 (平成16年現在)

事変内容  柱数      事変内容  柱数

明治維新 7,751      西南戦争  6,971
日清戦争 13,619     台湾征討  1,130
北清事変 1,256      日露戦争   88,429
第一次世界大戦 4,850   済南事変   185
満洲事変 17,176     支那事変  191,250
大東亜戦争 2,133,915

合計  2,466,532柱数



九 段 の 母』 唄 田端義夫(昭和9年)

上野駅から 九段まで
かってしらない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり
せがれきたぞや 会いにきた

空をつくよな 大鳥居
こんな立派な おやしろに
神とまつられ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに



次回は、神奈川県・「川崎



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2010年8月16日月曜日

日本周遊紀行(129)東京 「江戸城・西郷と勝」

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日本周遊紀行(129)東京 「江戸城・西郷と勝」



勝海舟と西郷隆盛の像




「桜田門外の変」から8年後、江戸城の西郷と勝は・・、

幕府を立て直そうとして攘夷論者を弾圧、一掃した大老・井伊直弼は1860年、その急進派の凶刃に倒れた。 
あれから8年後、既に徳川政権は瓦解していた。
江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。 

官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。



幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。
ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。 後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。

やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。
この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされている。

官軍による江戸城総攻撃の目前の3月13、14日に、勝と西郷隆盛の会談が行われた。 
この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。 
相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。

勝は、『 戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。 』と言えば・・、 

『 一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。 』
西郷が答える。

こうして、「江戸城無血開城」が決まった。
慶応4年(1868年)のことであった。



勝の回想録として「氷川清話」や「海舟座談」がある。
これは海舟の談話を記者が速記したもの(海舟の細かいしゃべり方の特徴まで)であり、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来るとされている。

その「氷川清話」の中で、海舟は西郷隆盛を語っている。



『 おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりなどして、いっこうその奥行がしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。
西郷はどうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので・・・小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。・・・・あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる、板橋からは伊地知(正治)などがくる。また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 

さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」・・この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。

このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ、その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。西郷におよぶことのできないのは、その大胆識(見識と勇気)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して小籌浅略(細かな浅いはかりごと)を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ・・
 』



その西郷の銅像が、上野公園の正面に普段着で立っているのは周知である。

歴史に残る江戸城の無血開城が決められ、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのは、江戸城内ではなく薩摩屋敷である。 
現在の東京都港区芝で、JR山手線の田町駅前あたりに会談跡の碑がある。

明治元年3月13日、高輪の薩摩屋敷で先ず予備会談が行われ、次の14日にここにあった薩摩の蔵屋敷で江戸城の開城が決定されたようである。

その後、明治4年~6年の間、実質、「西郷内閣」の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等が採用され、維新としての近代日本の礎を作った。

西郷は、その後「西南の役」で悲劇の人生を終えるが、明治22年明治天皇より正三位を追贈され、西郷の偉大な功績を偲ぶために上野の山に銅像を建立し後の世に残した。
明治31年、完成時の除幕式には時の総理大臣・山県有朋や勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われたという。

一方、風光を愛し洗足池公園(大田区千束:洗足池は湧き水を水源とする池で、日蓮上人が旅の途中にここで手足を洗った伝承から洗足池に転じたと言われる)に別邸を持っていた勝海舟は、妻とともにこの地に眠っている。 

隣には西郷南州(隆盛)の留魂祠も建立されている。 
勝の、西郷への思い感じさせるのである。

尚、「西郷隆盛」に関しては周遊紀行の中の「薩摩・鹿児島」の項にて詳細記載する予定です。


次回は、江戸城界隈



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