2010年9月29日水曜日

日本周遊紀行(11)戸田 「造船と日露友好」.

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 日本周遊紀行(11)戸田 「造船と日露友好」 



国道136号線は土肥からは中伊豆の湯ヶ島から伊豆中央道(下田街道)にも通じている。
小生は、土肥からの海岸沿いの県道17号(沼津土肥線)で大瀬崎へ至ることになる。 
この辺りは、本州にも近い伊豆半島の付根付近に在りながら、急峻な山岳地であるため近年まで陸の孤島的存在であった。 
車道陸路が通じるのは近年の昭和に入ってからで、尚、暫らくしてからのことであった。


この日は平日とあって道は交通量は少ないものの、九十九(つづら)折れが多く極端に狭い所もあり、対向車には充分注意しながら舟山の展望駐車帯に着く。
本来、富士の展望が秀麗なところだが、今朝は薄雲がその姿を隠している。  
七曲を繰り返しながら、戸田(へた)の小さな港へ着いた。 
波止場に面した処に、程よくコンビニ(ヤマサキ)があって、戸田の美しい港を見ながらの朝食となった。
御浜岬の先端部の真っ赤な鳥居が印象的である。


戸田港の防波堤のように延びる「御浜岬」(戸田観光協会)



小生個人的には、「戸田村」は西伊豆では最も好きな地域であった。 
東名高速を使うと比較的短時間で行けるし、港や顎の形をした静かな御浜湾と御浜岬は、美景であり心が和む。 
子供達が未だ幼少の頃、夏の時期に何度も訪れたことがあり、御浜の白い砂浜での海水浴は実に良かった。


戸田村」は、最近までは伊豆半島そして静岡県として唯一つの村域だったが、平成の大合併で無理やり・・?、沼津市と吸収合併されたようである。


ところで、今般の平成の合併劇で「」が、隣の町や市と吸収合併されて、どんどん姿を消しているという・・!!。
しかし、中には行政上、何とか遣り繰りして村を存続させる。 或いは、「 多少の財政上の困難さを覚悟しても、おらがの村はそのまま残すんだ・・! 」という声も聞こえる。
更に、地方の何処かの「村」は、”合併して本来は町か或るいは市に昇格せれるべきところを、わざと村(むら)として存続させた”という事例を聞いた事もある。

その行政の長が曰く
『 今、「村」は貴重な自然豊富な地域なのであり、素朴な人々が住む桃源郷のようなものである。 村は、風土的にも日本の原風景でもあり、貴重な自然遺産でもある。その貴重な「村」という名目が、行政上の損得勘定で無くなってしまうのは、いかにも残念である 』と、 合併相手の町長もしくは村長も、その意を汲んで「村」として新たに発足したという。  

合併しても尚且つ、本来町以上の行政組織に成るところを敢えて「村」とした、その行政の長に改めて敬意を表したい。

尚、「村」としての行政上の立場は、憲法に基づく地方自治法においては「村は地方公共団体の一つで、都道府県と対等の関係にあり市・町と並立する」としている。
「村」の読み方を「そん」、「むら」のどちらになるのかは各自治体で規定しており、「そん」で統一されている県、「むら」で統一されている県、「そん」「むら」が混在する県があるという。

因みに、行政単位の「」がない都道府県は西から長崎県、佐賀県、山口県、広島県、兵庫県、愛媛県、香川県、福井県、石川県、滋賀県、三重県、栃木県そして静岡県である(2008年4月現在、13県)。
その静岡県は2005年4月、「戸田村」が沼津市と合併したことから村としての歴史に閉をじ、村の無い一県になったのである。



この静かな戸田の村に江戸末期、意外な歴史が存在した・・!!。

江戸末期、この戸田の港にロシア人が大挙して訪れ、その後、この港でこれらのロシア人を帰国させる為に、日本で初めての洋式船「戸田号」が完成し、無事ロシア人を祖国へ送り届けたという。 ロシア人・47人の命をである。


1854年、ロシア使節・プチャーチンが、日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。(この項は先般「下田」の項で述べた)だがこの年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲う。 
後に安政の東海地震と呼ばれたこの震災は、大きな津波を伴い下田の町も一瞬にして呑み込み、被害は町全体に及び、875戸中871戸が流失全半壊し、死者は122人と全滅に近い大惨事になった。

津波によって生じた渦巻きにより停泊していたディアナ号も大破してしまい、その時に、亡くなった水兵の墓は今も下田・玉泉寺の敷地内に残っている。 
損壊したディアナ号は、船底に穴が空きロシアに帰れる状態ではなくなり、取り敢えず修理をする為の港を捜していた。 
そんな時に湾が入り江を成して、しかも三方が険しい山に囲まれ、情報が漏れにくい戸田湾を選定したという。 しかもこの戸田村を探し当てたはロシア人という。

そして、ディアナ号が下田から自力で戸田に向けて出航したが、途中、駿河湾で座礁し、さらに曳航中、嵐に遭って現在の富士市の富士川河口付近の三四軒屋(現富士市三四軒屋)沖で遂に沈没してしまう。 
この時、ロシア人達は三四軒屋から、収容施設の整った戸田村に徒歩で一泊二日の行程で整然と並んで戸田村にやって来たという。(ロシア人達は船は懲りたので、駿河湾岸を歩いたともいう)

因みに、富士市五貫島の「三四軒屋緑道公園」の一角にディアナ号の錨が展示してある。 
全長4メートルの大きな錨と並んでプチャーチンの提督像が立ち、この地がディアナ号ゆかりの地であることを今に伝えている。(昭和51年8月に三四軒屋沖の海中から引き揚げられたものであるとか)

その後、ロシア人が帰国する為の船の建造が急がれた。
戸田号はロシア人が帰国する為の船であり、津波の影響で結局、駿河湾へ沈んでしまった軍艦・ディアナ号の代替として造られた。 
はじめは言葉の障害もあり、大変な難工事だったという。

ロシア人は早く帰りたいと願い、日本の船大工も職人の誇りを掛けて外国へ安心して航海できる丈夫な船をとの思いが通じ、僅か、三ヶ月で出来あがったという。
この時出来上がったのが戸田号で、日本で初の洋式船舶であったという。 


「戸田号」は戸田村を出航した。 
太平洋から津軽海峡を渡り、樺太のアムール川をさかのぼり、後は歩いてサンクトペテルブルグまでプチャーチン以下47人は無事に着いたという。

この地の船大工による洋式造船技術を習得したことが、後の日露戦争、太平洋戦争、そして戦後まで続く造船大国の礎となったともいわれる。 

第一号として洋式船・戸田号が完成して以来、その後何と同型艦が11隻も作られ、開国要求のために当時の鎖国体制を破って入港してくる諸外国の艦船に対する守りとした。 ただ、この時携わった技術士、職人、船大工達が、その後、全国に派遣されていったことは余り知られていないという。 
そして、石川島、三井、三菱などの現在では世界に名を轟かせている造船会社も、発足当時は、この地の船大工、職人の獲得に凌ぎを削っていたという。


戸田号を造船した所は「牛ヶ洞」と言うところで、県道の岬入口辺りに、この名前のバス停がある。
そしてその地に、「戸田号造船地、日本洋式帆船発祥記念碑」の石碑が立っている。


戸田号を建造した戸田の職人のうちの一人に「上田寅吉」がいる。

洋式船舶の造船技術を会得した彼は、後に長崎の海軍伝習所の一期生に入り指導的立場で活躍した。 当時彼は平民ではあるが給金を貰い、後に苗字帯刀(江戸期の武士の身分の象徴)を許されたという。 
同期生には勝海舟がいた。
後に海舟は咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断していることは周知である。 
二期生には榎本武楊がいて、後の開陽丸の建造に携わる。
間もなく明治維新となり、上田寅吉は榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になるが、明治三年釈放されて横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成っている。 又、長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造製している。 後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計したという。   


緒明菊三郎」(おあき きくさぶろう)は、戸田号造船時には13才だった。
雑役をしながら洋式造船の技術を学び、後に江戸に出て船舶業て財を成し、東京のお台場で緒明造船所を造った。 
日清戦争、日露戦争の頃は日本の造船、海運王にまで成ったが、お台場の土地を使用出来たのは同じ戸田村の出身の船大工、上田寅吉の縁で榎本武揚が世話をしといわれる。 その後、緒明家は静岡銀行の創業者して著名である。


因みに、プチャーチンは明治14年明治天皇から外国人では始めて、日本で最初に最高の勲章・勲一等旭日章を授与している。 
帰国した彼が和親条約の改定や通商条約の締結交渉で、その後、数度来日している。 その時に、航海中の和船が、時化でカラフトなど北方へ流され、漂流民となった日本人を親切に扱い度々帰国させたという。 その数は何十、何百人とも言われる。 
人道上最大の貢献をしたということで、日本で最高の勲章を貰ったのである。


岬の先端、赤い鳥居のある猪口神社の近くに造船郷土資料博物館がある。 
安政元年(1854年)に戸田沖に沈没したロシア軍艦・ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船(戸田号)建造の記録が保存展示されている。
又当時、現地で三人のロシア人が死亡したとされ、それらの霊が宝泉寺に眠っている。

戸田町の南外れに、その「宝泉寺」があり、ロシア使節のプチャーチン提督が泊まった寺として知られる。 
船が完成までの約三カ月間、ロシア船員も滞在し、境内には滞在中に亡くなった乗組員の墓がある。


ところで、今年(2005年)は日露修好150周年記念に当たる。 
ロ日友好協会では、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ市、国内では下田市、戸田村、富士市の各地で祝典行事が行はれたという。 
戸田村(現沼津市戸田)の海岸に建立されたモニュメントの除幕式を行い、又、下田市の海岸で開かれた政府主催の記念式典には外務省の招待で関係者、山口戸田村代表が出席した。 

この式典には日本側から小泉首相、ロシア側からロシュコフ駐日ロシア連邦大使も出席し、日露両国の恒久的な友好関係の樹立を誓い合った。

戸田」は日本造船界の礎であり、日露友好関係の原点でもあったのである。
  


夕映えの丘」の高所から見る、戸田港と御浜岬の景色は抜群であった。
井田の村落も美しいところである。
額ほどの田んぼの向こうに、ひっそりと集落が並んでいる。井田地区は「美しい日本の村」景観コンテストで「全国農業協同組合中央会会長賞」を受賞したという。

高い位置より大瀬崎を眺めながら駿河湾の内浦を行く。 
今までの山腹道路と違って本来の海岸線を行く、やや入り江になっているため穏やかな海面である。


次回は源氏の故里・「伊豆長岡



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・岳沢・穂高(1979年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)   八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」



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日本周遊紀行(10)土肥 「温泉と金」

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 日本周遊紀行(10)土肥 「温泉と金」


松崎を過ぎると程なくして「堂ヶ島」である。
新緑の松林越しに深青な海の色が対比をなして実にいい。
西伊豆には珍しくニュー銀水、堂ケ島温泉ホテル、小松ビューホテル、アクーユ三四郎といった巨大ホテルが自然にマッチして建ち並んでいる。

堂ヶ島温泉は、化粧の湯(美人の湯)と言われるように良質の温泉がフンダンに湧出している。 
又、「伊豆の松島」と称され、伊豆を代表する景勝地として知られるように断崖絶壁の奇岩・奇勝と相俟って富士の夕日は有名である。 
堂ケ島で一際美景なのが三四朗島であろう。 干潮時になると幅30mの石の橋で陸地と結ばれ、歩いて渡ることができるという。 
所謂、陸繋島(りくけいとう:砂州によって陸地とつながった島)の島で、この石の洲を土地の人は古くから瀬浜と呼び、海静かな春の干潮の時は磯遊びの好適地となっている。 
洞窟の天井に穴の開いた「天窓洞」に入る遊覧船も人気らしい。
この洞内には鎌倉洞と呼ばれる穴があり、伝説によれば、この洞は鎌倉まで続いていると言われているらしい・・?。


昭和10年の早春、歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻堂ヶ島を訪れた際に詠んだ詩。

  『 島の洞 奥に窓あり 潮ゆれて 
         孔雀の色を 我が船に投ぐ
 』   鉄幹

  『 堂ヶ島 天窓洞の 天窓を 
         光りてくだる 春の雨かな
 』    晶子



堂ヶ島からは国道136は山中へ入る。
トンネルも多いが、道路は良質ですれ違う車も無く、快適である。 
田子、安良里といった海岸へ通ずる道が時々交差する。 ミニ山岳ハイウェイといったところか。

まもなく宇久須川の河口の小さな平野部に出た。 
チョッとした家並みが並ぶ「宇久須」というところである。
ひなびた漁港にある穴場的な場所で夏の海水浴客は人気、通常は海釣りのスポットでもある。国道沿いに日帰り入浴施設もあり、豊富な湯量が湧き出る。
泉質はリュウマチや神経痛などに効能があると言われている硫酸塩泉で、民宿が主の宿泊施設が多いが、ホテルニュー岡部といった大ホテルも在った。
港の両端は黄金崎や恋人岬といった景勝地もあり、その名の通り夕日を浴びて岩肌が黄金色に輝くという。


又、港から内陸の山岳地へ向かう仁科峠に通ずる山道がある。 その先には標高700~800mの場所に宇久須牧場広がる。 近くに宇久須キャンプ場も在り、晴れた日は宇久須の港と駿河湾が一望できる。
伊豆といえば「」と頭の中でイメージする人も多いと思うが、”伊豆の山々・・・、”の歌の文句のように、伊豆は山地のイメージもつよい。

 

宇久須の海岸から再び国道は、山地へ入り山際をグングン登る。
明るく見通しの良い道で、常時、彼方の海岸線が見えてる。上りきった辺りにかなり大きく、立派な施設のある展望台へ来た、「恋人岬」とあった。 

さすがに展望抜群で、大海原が眼前に開け、左方角に宇久須の港が見下ろせる。
手形のモニュメントの横に、駅風の案内板があって・・、

『 ここはこいびとみさき、といおんせんから、つぎはけっこんへ 』・・と掲示してあり、熟年で一人旅の小生にとっては、いささか苦笑気味であったが。 

岬の本来の展望台はこの先500m位先にあるようだ。 途中に愛の鐘というのがあった。 
若いカップルが、おて手つないで思いに耽り、ゆっくり散策しながら、愛の鐘を鳴らして下さい・・!!



西伊豆・土肥

何年か前だか定かでないが、「上さん」(妻)と土肥周辺を周遊観光した折、泊まった宿屋が「牧水荘・土肥館」であった。 
港よりやや奥まった処の旅館(ホテル・・?)で、露天風呂の豪快さに驚いたもんだった。 
天然掛け流しの豊富な温泉に、西伊豆随一を誇るといい、数種類の大露天風呂や洞窟風呂に我々はびっくり仰天し、一晩とはいえ大満足したのを覚えている。

「牧水荘・・」の由来は大正期の悠遊歌人といわれた「若山牧水」が伊豆周巡の際、この土肥館をこよなく愛し、延百余日に亘って百数十の詩歌を詠み、晩年は常宿としていたことによるという。

  『 幾山河 こえさりゆかば 寂しさの 
         はてなむ国ぞ けふも旅ゆく
 』   牧水

牧水の残した、遺作品や遺品が多数、館内に飾ってあったのを記憶している。

四季温暖な気候に恵まれている土肥温泉では、明治以来多くの旅人が避暑、避寒に来遊しており、その中には著名な文人・墨客が宿泊逗留したという。 
大正の頃には牧水のほかに、島木赤彦、与謝野鉄幹晶子夫妻をはじめ倉田百三、三好達治、川端康成、中島敦、井上靖、堀江史郎などが土肥を訪れ取材し、土肥を背景にした作品を作り出し、文学で見る近代土肥温泉の歴史でもあったという。



「史跡・土肥金山」に展示されている金塊; ;実物で、さすがに三菱財閥である
(当時:2005年頃、1gいくら位であったか現在の金価格と比較して計算してみてください)



もっとも、「土肥」が最も賑やかになったのは、「土肥金山」が発見され、採掘による事業振興があったからだ、ともいわれる。

室町初期に発見された金山は、江戸時代に第一期黄金時代を、明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った伊豆最大の金山である。 
推定産出量は、金40t、銀400tといわれ、 昭和40年に閉山している。 

坑道の総延長は述べ100km、海底180mまで掘り起こしているという。
一般に、金・1g採取するのに金鉱脈の岩石350kgを掘り出す必要があるといわれる。 金鉱岩石は掘られた後、微細に砕かれ、水洗いし、選別される。 これを何回も繰り返して金の粒子を取り出し、その後、高温の炉で精錬される。 純金(99.99%、一般にフォーナインと言っている)40t採掘するのに、どの位の金鉱岩石を掘り出したか計算して戴きたい。

金鉱山の跡地は、今は観光用として利用され、江戸時代の採掘作業の風景を等身大の電動人形が再現をしている。 
因みに現在まで世界各国で掘られた金の全採掘量は、概ね 25mプール一杯分とかと、どこかで聞いた・・? 

我が家に1kg(三菱M製)の金のインゴット(純金塊)2個所有しているが(これは内緒・・?)、こちらの黄金館(資料館)には 250kg(三菱マテリアル製)の大金塊が展示してある。 
現在の金相場を1g≒1500円として、・・??、世界最大の金塊としてギネスに登録されているとか。 
尚、この資料施設を運営しているのは土肥マリン観光株式会社というが、実質、資本経営(親会社)は三菱M、つまり三菱マテリアル(株)という非鉄金属の製錬、金属加工の会社である。


土肥」(とい)という地名は、その昔伊豆の先住人達が温泉が土中から沸き、金が産出される二毛作・・?に適した肥沃な土地であることから、「土が肥ゆる」で土肥の字があてられたともいわれる。


土肥の山中に中村という在郷がある。 
「湯河原」の項でも記したが、平安期、相模の国の湯河原は「土肥の郷」といわれ、郷主・土肥実平は頼朝時代には信頼厚い側近であった。 
実平は桓武平氏の中村氏の中村宗平の次男とされている。
つまり、その祖先は西伊豆の土肥の庄ではないか・・??と極一部いわれるが、史実には無いらしい。


現在、土肥は行政上の呼称は土肥町とは呼ばない。
政府指令の平成の大合併において、早々、2004年 4月1日- 静岡県田方郡修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町それに土肥町の4町が合併して、「伊豆市」として市制施行している。 
因みに行政名は土肥支所になり、本庁市役所は修善寺(旧町役場)になっている。
 
次回は「戸田の造船」



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・岳沢・穂高(1979年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)   八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」



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2010年9月27日月曜日

日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎の町並み」

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 日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎の町並み」 




道の駅の「花時計」




引き続き西伊豆・「松崎」について・・、

西日本周遊の第1日目で、しかもマイカー泊まりのためか、やや緊張気味で早朝4時半には目が覚めてしまった。 

ここは、松崎より少々内陸へ入った大沢温泉の「道の駅」であり、正確な名称は「花の三聖苑伊豆松崎」という。
明るくなった朝のしじま(静寂)中、公園に出て深呼吸を二つ、三つ、空は高曇りで雨の心配は全くなさそうだ。
新緑の小山に囲まれた園内は、今は盛りと多種多彩な花々が咲き競い、訪れる人々慰めてくれる。
その中でもパンジーやスミレ・・?で作られた巨大な花時計が目を引いた。


大きな花時計に立って様子を覗う。
白い長短の針の上を赤い極細の秒針が絶え間なく時を刻んでいる。 
特に、文字盤には数字といったものは無く、それでも凡その時間は読み取れる。 まだ五時半前である。 

眠気覚ましに道路へ出てゆったり散歩を楽しむ。
木々の緑が美しく何でも、ここの道の駅周辺の大沢地区は既に時期は過ぎたが桜の名所でもあり、松崎町は桜葉(桜葉漬で作られた桜餅が代表)の生産が日本一だという。 


園の前の道路から、時おりフルスピードで車が横切る。
そろそろ頭のほうも冴えてきたようだ。 
花いっぱいの公園としゃれた花時計をカメラに収めて、いざ出発とする。



松崎の町はまだ眠りの中にあるようだ、しかし、漁業関係者であろう、例の軽トラックが行き来している。 
西伊豆の松崎は温泉と観光と歴史の町だが、当然、漁業の町でもある。 
岩地・石部・雲見を中心とした水産漁獲は、宿泊・観光施設との連携によるところが大きいようだ。

特に駿河湾に生息するタカアシガニは西伊豆の特産品で、足をひろげると何と3メートルを超えるという世界最大のカニである。
今では、かなりの高級品らしいが一度は食してみたいもんである。



松崎には、一介の左官建築職人から絵心を加えた名人、名工となって名を残し、松崎の町並みを一新したという「入江長八」という人物がいる。

入江長八は、江戸末期、松崎に生まれ、12才で左官建築の弟子となり19才で江戸を出て左官の修行をつむが、同時に3年間、狩野派の絵も学び、江戸から明治にかけて活躍し左官の名工と言われた人物である。

左官とは、壁を塗る職人、壁塗りのことでその材料は「漆喰」といわれるものである。 
日本の木造建築の独特の塗壁材料で、消石灰に布のり・苦汁(にがり)などを加え、これに糸屑・粘土などを配合して練ったもので接着効果・施工性、亀裂防止のため“つなぎ”を高めたものである。 
現代風には、石膏・石灰・セメントなどをそのまま、または砂などをまぜて作ったモルタル漆喰をもいう。

代表的な建築物である城郭や土蔵など、伝統的建物に塗られた漆喰壁が広く知られているが、色粉を加えた色漆喰や材料に糊を使わない土佐漆喰など、その種類は多々ある。
漆喰は、勿論、鏝(コテ)で塗り上げるものであるが、「鏝絵」とは、左官職人が鏝を使い、漆喰をレリーフ状に盛り上げ、民家の戸袋や壁、母屋や土蔵の妻壁や持ち送りに絵柄を塗り出したもので鏝絵には家内安全、火災除け、不老長寿といった施主の願いを表現したものであるという。
入江長八は漆喰塗物に、更に装飾的、絵画的な要素を取り込んで芸術性を意識し高めたものといわれる。




松崎の町並みからチョッと南へ行った岩科地区にある「旧岩科学校」



松崎の町並みは、「なまこ壁通り」と言って江戸末期頃の建物が並び、火災や保温・防湿・防虫などに役立つと言われ、格子模様が歴史的な古い町並みと調和し、独特の雰囲気を醸し出している。
中でも代表的な建物で、「旧岩科学校」がある。 明治13年開校という洋風の建築物で、甲府の旧睦沢学校、信州松本の旧開智学校と並ぶ歴史をもち、国の重要文化財の指定されている。 特徴なのが社寺風建築と洋風建築を取り入れ、「なまこ壁」を十分に生かしたものである。

なまこ壁とは、土蔵などの漆喰を風雨から保護するため、平たい瓦を竹釘で打ちつけて並べ、瓦と瓦の間の目地を漆喰でなまこのような形に盛り上げた壁のことをいう。

江戸時代の初め、武家屋敷の長屋や長屋門の壁に使われたのが始まりだそうであり菱形、馬形、亀甲、七宝などの型がある。

次回は、西伊豆・「土肥」



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・岳沢・穂高(1979年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)   八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」



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2010年9月26日日曜日

日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎と依田勉三」

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日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎と依田勉三」




伊豆松崎・道の駅・花の三聖苑の「花時計」


石廊崎を後にして再びR136へ出た。
道は一層烈しく曲折登降を繰り返し、妻良、子浦から松崎を目指す。 
子浦から伊浜辺りはマーガレットの産地で「マーガレットライン」の愛称がついている。
子浦の町営マーガレット畑を中心に沿道を整備し、この辺りの海岸と合わせて眺望ポイントになっているとか。
今は時期外れで見れないが花の見ごろの3月から4月にかけては一見、キク(マーガレットはキク科の花)の様な白い花を青い空と海をバックに美事に咲かせる。 

途中、波勝崎への標識看板を目にしたが、波勝崎は東日本最大の野生のサルの生息地という、波勝崎苑を中心に生息している。
所詮は人間が餌をやって育てているらしく、完全な野猿とは云い難いらしい。



伊豆半島は、「山岳半島」とは前にも記したが・・、

この辺り伊豆西南地域も海から山がそのまま始まる様に、急峻な崖がそそり立ち、絶壁を形造っている。 
衝立や屏風のような断崖があるかとおもえば、海食された岩肌は複雑怪奇な岩の洞門や洞窟のような奇岩怪岩を造り上げている。 
海金剛」といわれる波勝崎の奇岩が乱立する海域で、和歌山の紀伊大島の東端にも同名の名所が存在する。
元々は朝鮮半島、海の南北境界38度線近くの北朝鮮の景勝地を海金剛と称していて、名峰金剛山から由来していると想像する。


赤壁」とは・・、
波勝崎の南、松崎町界近くに、衝立岩「赤壁」がある。

文字通りの赤色の断崖絶壁で、これは、かの中国長江の「赤壁」を準えたものであろう、『三国志』の中の「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は、後漢末期の208年、曹操と孫権・劉備の連合軍が実際に闘った場所である。
だが、当の赤壁自体はそんなに巨大なものではないようで、どちらかと言えば、その後背にある歴史的名所や陳列館が観光的に名を成しているともいう。

小生若い頃、吉川英二の「三国志」を読んでいたが、全く記憶は薄れている。
赤壁は島根県隠岐諸島の知夫里島の西海岸にも存し、高さ50メートルから200メートルにも及ぶ断崖絶壁が1キロにもわたって続いて雄大な眺望と自然の造形美を誇っている。又、姫路市 の海岸、八家地区に小赤壁が在る。播磨灘工業地域のド真ん中に、これだけの自然が残っていた。

赤壁の近くに「蛇のぼり」、「うりもりさん」といった珍名な名所もある。
又、雲見の海岸リエリアも見るべきものが多く、「千貫門」、「烏帽子岩」、「牛着岩」等、沿岸全体に言える。 

これら何れも、陸上から望むより、海上船舶のから眺めた方が良さそうだ。
その為か、この地域はシーカヤックやダイビングの一大スポットにもなっている。



そして「松崎」である。

ここ松崎と北海道との関係・・?、
海、山、温泉と自然が豊かな「松崎」は歴史、文化の香りも高い。
それだけに高貴な人物も輩出しているようで、芸術家・入江長八や国鉄総裁・石田礼助依田勉三・・等々を輩出している。

その「依田勉三」について・・
昨年「東日本一周」で北海道・十勝地方大樹町を周遊している時、晩成温泉や晩成キャンプ場といった名称に気が付いていた。 又、今年(205年)5月、縁あって、やはり大樹町、帯広を巡った折、十勝地方の開拓については依田勉三氏の「晩成社」によることを知った。

一般に北海道の開拓といえば官主導の屯田兵や旧幕府家臣によるものが大勢である・・、 ところが帯広・十勝地方は一般民間人に拠るもので、静岡県の 「伊豆松崎」出身の依田勉三率いる晩成社(一種の会社組織)一行が明治16年に入植したのが開拓の始まりといわれる。

「晩成」といえば帯広の製菓店・六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」のマルセイは晩成から名付けたと言われ、実際に「晩成」という名のお菓子もあるらしい。
また、大樹町の「晩成温泉」は、そのものの名前である。 



依田家の歴史を遡ると・・、

依田家のルーツは信濃源氏だといわれ、代々信濃国小県郡依田村(現在の長野県小県郡丸子町)の依田城に居をおく豪族であった。
平家追討の兵をひきいる木曽義仲をこの城に迎え入れたという記録もある。

戦国期依田氏は甲州武田氏に属し、武田勝頼のために駿河と遠江の城を守っていた。
武田信玄病歿後、後を継いだ勝頼も、天目山(山梨県大和村)の戦いで織田信長の軍に敗れ、ついに武田氏は滅亡してしまう。

こうして依田一族は伊豆の松崎へ隠遁し、やがて人里はなれた大沢の里に居を構えたという。
その後、代々庄屋として山林の伐採、炭焼きで江戸との通商を行い、財を成すようになった。

時は移り江戸末期、「勉三」は依田家の三男として生まれている。
家歴、家業を知る勉三は幼少時分より開拓精神を植つけたらしい。
少青年期とり勉学に励み、慶応義塾にて福沢諭吉の講義も受けたという。 

やがて未知の北海道へあこがれ、明治初期ついに単身現地へ渡り、人跡未踏の十勝原野の踏査にとりかかった。
そして帰郷後の翌15年、兄の佐二平(松崎町の名士)に十勝の将来性を力説して、農場建設のために兄を社長とする「晩成社」を設立した。
社名は「大器晩成」にちなんだものという。


晩成社開拓団27名は明治16年3月、北海道向け出発した。

十勝地方は秋田県ほどの面積に匹敵し、十勝連峰や大雪山系をひかえ、そこから流れ出る簾のような大小河川が十勝平野の肥沃な大地を形造っている。

そこの中心に在るのが帯広市である。
帯広を含む十勝地方は農業が主産業で、その殆どが大型機械による大規模畑作営農が中心であり、周辺の農家1戸あたりの平均耕地面積は約30haで、北海道の平均17ha、全国の平均1.6haを大きく上回っているという。

伊豆松崎町と帯広市は硬い契りの「友好姉妹都市」を結び、役所前には提携記念塔もある。
平成14年、帯広市は開基120年に当たる。これらを記念して書籍「依田勉三の生涯」を出版(潮出版社)又、この本を元に映画「新しい風・若き日の依田勉三」が昨年大公開された。
松竹映画配給:出演は北村一輝、富田靖子、風間トオル、岩崎ひろみ、曽根英樹、他・・、
尚この映画は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いている。
 



伊豆松崎・「道の駅・花の三聖苑」(奥の建物は「かじかの湯」)


松崎町より内陸方向へ4kmほど那賀川沿いを行くと、「道の駅・花の三聖苑」がある。
三聖とは、幕末から明治期にかけて活躍した松崎出身の三人の偉人たちのことで、幕末の漢学者である土屋三余、明治期の実業家として名を馳せた依田佐二平、その弟で北海道・十勝平野の開拓者である依田勉三をいう。


1kmほど先に大沢温泉が在り、、大沢温泉ホテルを営む依田邸の母屋がある。
約320年前、元禄年間初期の建築だろうという、江戸時代の重厚な庄屋建築の面影を残している。 
道の駅の公園入口には、直径11mの巨大で且つユニークな花時計があり、時報ごとに違う曲が流れるという。
さらに苑内には、日帰り温泉施設で、男女別の岩風呂と、清流の音を聴きながら入れる露天風呂を備えた温泉会館「かじかの湯」がある。
今夜はこの温泉に浸かりながら。

次回は、西伊豆へ・・、



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・岳沢・穂高(1979年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)   八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」



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2010年9月24日金曜日

日本周遊紀行(8)南伊豆 「石廊崎」    

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日本周遊紀行(8)南伊豆 「石廊崎」




石廊埼灯台(伊豆灯台)



伊豆半島の東海岸を南下したR135はここ下田でR136となって西伊豆方面へ向かっている。
小生もそれに従って進むことにする。 

吉佐美から標識にしたがって石廊崎方面へ、河口の青野川の対岸は美しい海岸が広がっている、「弓ヶ浜」である。
白砂の浜が弓なりに広がる美しい浜で、背後には松原の緑が迫る詩情豊かな景観である。

伊豆西南海岸といわれる県道から、石廊崎の取り付部である石廊崎港の遊覧船乗り場へ来た。ここは湾というか入り江というか、外洋から凡そ1kmも細長く入りこんだ先端にあたり、小波一つない静かな港である。

ここから石廊崎灯台へは15分程のやや急な登り道である。
路の脇には数件の土産店が軒を並べているが日曜の午後とあって、いずこもお暇な様子である。
一汗流してやっと灯台へ達した。 


石廊埼灯台(いろうざきとうだい)は伊豆半島・南伊豆町の最南端の石廊崎に立つ、白亜の塔形をした中型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれている。
1871年(明治4)10月(旧暦では8月)に、設置・初点灯している。

かの、「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリスの工兵技監にして建築家、スコットランド人、明治政府の招聘により来日したお雇い外国人のひとり。
数多くの灯台の設計・設置を手がけた)の設計による八角形の木造灯台として建設され、日本では、10番目に古い洋式灯台だそうである。
昔から石廊崎沖は航海の難所でもあり、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多くあったので、航行関係者からは是非にと、灯台が求められていたのであった。




伊豆南端、先端部の「石廊埼」
 


灯台周りには囲いがあって、見物できないのは残念である。
灯台から更に進むと紺碧の大海原が広がっていて、高さ50m~100mの断崖絶壁に黒潮が激しく波を打ちつけている。
又、断崖にへばりつくように鉄柵の遊歩道があって、その先の大岩を刳りぬいた部所に石室(いろう)神社の社が鎮座している。
その又突起の絶壁上に注連縄を張った小社が恐る恐る据わっている、実に迫力ある風景である。
特に岩の上から見る朝日は絶景で、正月のご来光は人気のスポットであるとか。

神社は奈良時代には開祖された様で「役の行者」にも因縁があり、中古以来、金剛山石室権現と尊崇されていたという。
石の廊下をつたって石室に安置されていたもので、維新後の神仏分離で伊波例命(イハレヒコノミコト:海上交通の守り神)を奉斎し、石室神社とされたといわれる。

石の廊下に石室で、社名も石室(いろう)神社と呼称しているようで、変じて一帯を石廊崎と称するようになったとか。 いずれも海上交通や縁結びにご利益があるという。

水平線に地球の丸さを実感・・・?? しながら、石廊崎を後にした。

 
西伊豆・「松崎」へ、



【山行記】

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日本周遊紀行(7)下田 「露使・プチャーチンと北方領土」

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 日本周遊紀行(7)下田 「露使節・プチャーチン」 




「ロシアと北方四島」

ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節・プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。
日米和親条約締結の話を聞きつけ、ロシアも日本と通商を求めるべく來日したもの。

同年、幕府役人との数度による交渉の結果、長楽寺にて日露和親条約が締結される。 
この日露和親条約が日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたことで、この日を以って北方領土の日(2月7日)として設定している。



因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである。
長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない。
その返還については日本の長年の悲願である。

北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(シコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことである。
昨年(2005年)10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。
これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。 


「蛍の光と北方領土」

ところで、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、「北方領土」のことも歌詞にあるのは大方は判っておらず、まして、最近はあまり歌われていないようである・・?。

この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられている。 作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるが、元々はスコットランド民謡である。

明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となったという。
歌詞の舞台は異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。

大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。

現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。 三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。


以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。
前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない。


蛍の光』詞:稲垣 千頴  スコットランド民謡
                    
蛍の光  窓の雪               
書(ふみ)読む月日 重ねつつ        
いつしか年も すぎの戸を          
開けてぞ今朝は 別れゆく          

止まるも行くも 限りとて
形見に思う 千万(ちよろず)の
心の端を 一言(ひとこと)に
さきくとばかり 歌(うと)うなり
               
筑紫(つくし)の極み  陸(みち)の奥     
海山遠く 隔(へだ)つとも          
その真心(まごころ)は 隔てなく       
ひとつに尽くせ 国のため


千島の奥も 沖縄も* 
八島のうちの 守りなり
到らん国に 勲(いさお)しく
努めよ我が背 つつがなく


※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。

この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。
幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。
しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある。 

「蛍の光」の1、2番は同窓の友や師との告別の意味であるが、3,4番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である。
「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう。 
戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。

日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである。


尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 
イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。


次いでながら、「蛍雪の功」という言葉がある。
「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 
一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。

東晋の時代(とうしん;3世紀、中国の西晋王朝に対して江南に建てられた王朝で、西晋に対し史書では東晋と呼んで区別している)の車胤(しゃ いん;東晋の官吏)は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 
同様に、同じ頃の孫康(そんこう;東晋から劉宋にかけての人物・官吏)は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していた。
そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。



尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。
津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 
長楽寺は了仙寺の近くに在る。
詳細については西伊豆・「戸田」(へた)の項で記載します。


次回は伊豆南端:石廊崎まで行きます



【山行記】

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2010年9月22日水曜日

日本周遊紀行(7)下田  「ハリスとお吉」

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日本周遊紀行(7)下田 「ハリスとお吉」




幕末開国の歴史の中心舞台となり、ハリスがアメリカ総領事を置いた「玉泉寺・本堂」と隣接するハリス記念館




総領事官・ハリス

先刻、通ったR135より爪木崎方面へ向かう途中に「玉泉寺」があった。 
先の了仙寺とは対照的に人っ子一人居ない静寂の寺院であり、門前に” 安政年間・日本最初・米国領事館 ”の石碑があり、石段を登った本堂右手に「ハリス記念館」があった。 


ペリーが去って、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき初代日本総領事「ハリス」が下田に着任し、この玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置された。
それから3年もの間オランダ人通訳・ヒュースケンと共に下田に滞在し通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨む。
そして、翌1857年に下田協約(日米通貨協定、領事裁判権等)を結ぶ。

又、初め江戸入府を許可されなかったが、後に許されて陸路天城を越えて(前に記した天城峠越え)江戸城へと向かう。
ハリスは外国人としては初めて将軍・家定に拝謁し、家定は「 遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい 」と述べている。
その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、1858年6月日「米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功する。 


ハリスは実は親日家であったという。
ハリスの滞在日記『ハリス日本滞在記』の中で「 私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と記している。 

日本人を「特異で、半ば野蛮な国民」と称したペリーとは大違いである。



唐人お吉

下田一と評判の高い芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として上がる。
病弱で動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる女性を幕府に要求していた。
幕府は交渉を優位に進めようと政略をもってお吉を送り込むが、そのことを知ったハリスは激怒し、3日で帰宅させてしまう。
その後、ハリスの人柄も聞かされ、支度金として受け取った25両のこともあって、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになった。

ハリスに仕えた期間はほんの僅かだったが、その後のお吉は不運だった。
唐人」とののしられ蔑まれて、その後三島や横浜と移流する。

後には下田での商売はうまくいかず酒に溺れて、遂に明治24年豪雨の夜、下田・蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶っている。
波瀾にみちた51年の生涯は、あまりにも哀しい終幕で、この事件は幕末開国に伴う一悲話として小説や芝居の題材にもなっている。
お吉は身よりもなく「宝福寺」の住職に法名を戴き境内に厚く葬られた。

先代の水谷八重子の舞台が評判になったのをきっかけに、芸能人達によって墓石も寄進され、法要祭は下田の女連によって今でも行われている。

宝福寺は下田駅と了仙寺の中間、通称「まいまい通り」に在る。

引続き「下田」である。



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日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」

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 日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」 



「下田黒船祭」

今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く。
その後、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。
白浜の地名は 他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶している。

スイセン(1月頃30万本の自然のスイセンが咲きほこる)と須崎御用邸(昭和46年に三井の静かな入江に御用邸がたてられ、天皇陛下や、皇室関係の方が、海洋生物の研究やお休みにお出でになる)で有名な爪木崎を左に見ながら、とりあえず伊豆急の下田駅に向かう。
駅は鉄道・伊豆急の終着駅で東京から下田は凡そ2時間半で結んでいる。


観光案内所で歴史的名所のガイドを伺いながら、パンフを戴く。
聞くところによると5月20日~22日つまり本日まで「下田黒船祭」の真っ最中で、各処々でイベントが行われているとか。

ソウ云われれば、商店大通りでは賑やかに出店や露天商が並んでいて、着物のお嬢さんのソゾロ歩きや港街らしくセーラー服の若き水兵さんの姿も見かけた。
黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約が締結された5月に、毎年行われてる。


思えば今年は種々の記念の年に当たっている様だ。
太平洋戦争の終戦60年、日露戦争の終結100年、そして江戸末期の開国から150年と。
この下田こそが、江戸期の長い鎖国から世界への扉を開いた地である。

先ずそれらの跡を訪ねて観よう。
駅前から稲生沢川沿いを行くと、下田公園の手前に「ぺりー艦隊上陸の地」があった。 

船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が「浦賀」に来航したのは、1853年6月であった。

母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、香港・琉球(沖縄)を経由し226日にも及んだ長い航海の末、日本へとやっと到達した。
ペリーは久里浜(浦賀)にて、開国開港を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を聞くことを約束して一旦日本を去った。 

時を経て再び来日したのは翌年1854年、今度は9隻の艦船を率いて、無断で江戸湾(東京湾)の測量や乗組員を強引に横浜に上陸させ、条約草案を押し付ける等、威圧行為を行いながら、幕府との話し合いの場を設けることに成功する。

強引な手段に出たのには、前任の東インド艦隊司令長官が浦賀奉行に呈よく追い帰されたという経緯があった。
そのため万が一の場合には「武力行使も辞さない」といった断固たる決意で臨んだ為といわれる。
腹を決めた幕府は江戸近隣での開港を嫌い、下田・函館両港の開港案を提示する。

ペリーはさっそく下田周辺の海洋等の事前調査を行う、外洋と接し安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「 天然にしてこれほどの良港は望めない 」と絶賛したそである。
遂に艦隊を集結させたペリーは乗組員と共に、この地に上陸する。



ぺりー上陸地(下田黒船祭にあたり、胸像には花輪と花束が手向けてある)


上陸地の園地にはペリーの胸像があった。

ここから「了仙寺」までは300mもあろうか、石畳の道に風流な弥治川、ナマコ壁の屋敷前に架かる朱色の橋、小公園やガス灯など情緒あふれる散歩道、下田の町の風情を感じさせ、若者に人気のおしゃれストリートになっている。
通称「ペリーロード」と呼んでいる。
その先に了仙寺は在った。

さすがに大きめの駐車場の横は土産店が並び、その前に紫色の花木鉢が並んでいる。
聞くと「 アメリカジャスミンでこの寺の名所名物だよ、中庭は今が盛りだよ 」と言う。

成る程、肩ぐらいはあろうかと思われる位のその名もアメリカジャスミンが庭一面に今が盛りと満開の花を咲かせていた。
本堂も古式な由緒を感じさせる。 


了仙寺と真盛りのアメリカジャスミンの庭園



ペリーや艦船の乗組員たちは、このペリーロードを軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら了仙寺へと入ったことだろう。

ペリーは下田の町家を下見、見聞しながら幕府側代表と何度も交渉を進め、念願の全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)を締結したという。 

初め、街を歩く白い色や真っ黒い鬼のような形相の大男に恐れをなして家の中に閉じこもっていた下田の町民も、フレンドリーでユーモラスなアメリカ人とすぐに打ち解けることができ、敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、友好関係を築き上げていったという。

又、ペリー一行が下田に上陸して最初受けた日本人の印象は、自分たちが考えていた一見した以上に、生活や教育水準の高さ、職人たちの手の器用さに驚き、尚且つ、日本の風習にも相当なカルチャーショックを受けたようである。

引続き下田での「ハリスとお吉



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2010年9月20日月曜日

日本周遊紀行(6)伊東 「東伊豆」

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日本周遊紀行(6)伊東 「東伊豆」



「伊東温泉」

熱海のはずれにある網代温泉からは海岸近くでもかなり高所を走るようになる。
屈曲した道をしばらく行き最高所から一気に下った処は宇佐美の海岸である。
湾曲した砂浜の海辺は透明度も良く、夏は海水浴客で賑わう、民宿の町といってイイほど民宿が多く、我が家も子供が幼少の頃、毎年ここにはお世話になるところである。
ここは、すでに伊東市であった。


東海岸のR135沿いは大温泉タウンが並ぶ、湯河原、熱海、そして伊東温泉だ。
温泉街は熱海にも劣らぬ程のホテルや旅館が並ぶ、温泉は源泉の数が780本、毎分の湧出量は34,000Lもあり熱海より多い。
又、飲食店も多く昔の歓楽街的温泉の要素も多く現存する。



ところで熟年の方なら存知よりも多いと思うが、あの古賀メロデーの元祖ともいえる「湯の町エレジー」はここ伊東を舞台に生まれたともいう。  
あのギターの奏でる前奏、間奏のメロデーは、なんとも湯の街の哀愁にピッタリの曲で、小生、若かりし頃ギターをカジッタ時に最初に覚えた曲でもあった。 


湯の町エレジー』 詞 野村俊夫 曲 古賀政男 唄 近江俊郎
伊豆の山々 月あわく     淡い湯の香も 路地裏も
灯りにむせぶ 湯のけむり   君住む故に なつかしや
あああ 初恋の          あああ 忘られぬ
君をたずねて 今宵また    夢を慕いて 散る泪
ギターつまびく 旅の鳥    今宵ギターも 咽(むせ)びなく



「東伊豆温泉郷」

また伊東はもう一つの顔がある。
南部は概ね丘陵地帯になっていて、大室山の麓にある伊豆高原や一碧湖周辺は四季を通じて一大レジャー基地になっている。
城ヶ崎海岸は大室山の大噴火で溶岩が海に落ち込んだ際に形成されたリアス海岸で、断崖絶壁は見る者を圧倒する景観だ。
特に門脇崎の吊橋から、絶壁に白く飛沫を上げる波濤を見下ろすときは冷や汗ものだ。

伊豆高原から赤沢温泉、北川温泉を経て熱川温泉へ・・、
この辺りは天城山系の最高峰、百名山でもある「天城山」(1406m)がいきなり海岸へ落ち込んでいるところで、そのためR135も細々と通っている。
かなりの高所の国道沿いに標識があり、細い急な路地を下ると、まもなく海岸沿いに熱川の細長い温泉街があった。


熱川温泉・「高磯の湯」

処々のホテルには温泉の掘削井戸があって、そこからモウモウと噴気煙が上がっていて、源泉温度はほぼ100℃に達しているという高温泉である。
温泉街の外れに目的の波打ち際の「高磯の湯」があった。季節的に水を抜かれた青いプールの脇を通って露天風呂へ、ライダー連が数人いて些か騒々しいが、やはり露天風呂はいい。
湯は真透明でごくわずかに細かい白っぽい湯の花があるようだ。

海岸なのでやや塩味がする。
しかし周囲は野生味が感じられないのは残念、コンクリートの床で海際は鉄柵で囲ってあるので、湯に浸かると紺碧の海原は見えない。
人工物が自然を邪魔しているのだ、早々に退散した。 
ついでに熱川温泉は大田道潅が発見したといわれるが・・、



「天城トンネル」  

稲取温泉から河津浜へ・・、 
ここは伊豆半島中央を貫く幹線路R136、R414、修善寺、湯ヶ島、湯ケ野の合流点になる、通称中伊豆とも称している。こちらも趣のある温泉地や自然が多い、なかでも何かと有名な天城峠は御存知だと思う・・が、川端康成の「伊豆の踊子」は天城峠つまり旧天城トンネルが舞台になている。

明治38年に完成したトンネルは全長445メートル、アーチ・側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては日本に現存する最長のものであるとか。
有形文化財に登録され、2001年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されている。 また、「日本の道百選」にも選ばれている。

今は静寂を保つこのトンネルは歴史的にも、文学的にも観光の名所になっている。 
トンネルの手前には旧峠道が延びている。
トンネルができる前の往時の路は、急峻な地形や切り立った崖の上で、そのため天城越えで尊い命を落とした人もいたという。

幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため, 下田より江戸に上ったときに通ったのがこの峠である。
そのときのハリス一行の日記には・・,

『 路は狭く, 鋭角で馬の蹄を置く場所もなく、ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く。 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ 』

と記されていることから, 相当な難所であったことが判る。

旧天城トンネル、更に新天城トンネルの完成で北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮された。


次回、伊豆南端の「下田」は、「黒船祭り」の真っ最中であった。




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日本周遊紀行(5)熱海 「熱海・湯の町」

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日本周遊紀行(5)熱海 「熱海・湯の町」




写真 熱海海岸と寛一お宮の像



「熱海温泉」・・、

総じて云える事だが、伊豆半島は山岳半島であろう、多くの山々は海岸線まで迫り出している。 特に東海岸のすぐ後ろは箱根高地から伊豆箱根スカイラインが天城高原、天城山辺りまで天空を走っている。

このスカイラインの下、伊豆半島の付根部分を丹那トンネル(たんなトンネル)が1934年に開通している。 
東海道本線の熱海駅~函南駅間にある複線規格のトンネルで総延長7804m、完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長であった。
火山地帯特有の断層と温泉湧出という難工事で16年の長期間と事故による67名という犠牲者を出している。 

それまでは箱根の連山をぐるっと北側を廻る、現在の御殿場線が東海道線であった。
このトンネルの開通で日本の大幹線といわれる東名阪の交通事情は大きく進展したといわれる。 
この丹那トンネルの東の入り口が「熱海」である、古くからの温泉地であり、地名は「海から熱い湯が湧き出ていた」ことからであろう。
山地丘陵地の狭いエリアに大型ホテル・旅館が立ち並び、国鉄東海道本線開通以降、首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。
かつては新婚旅行や社員旅行の定番の行き先であったが、社員旅行自体の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽傾向にある、2000年代に入り温泉を引いたマンションが増加しているという。 
保養マンションが主であろうが新幹線を使用すれば首都圏へは通勤圏内でもある。


熱海温泉は日本の三大温泉(熱海、別府、南紀白浜)の一つ。 また、日本の三大温泉場(別府、熱海、伊東)の一つとされ、源泉湧出数500本以上、古くは大半の源泉が硫酸塩泉であったが、近年ボーリングによる源泉開発を多数行った結果、海沿いの源泉は海水の混入量が増えているという。

熱海のスポットと言えば海岸にある「お宮の松」と「寛一・お宮の像」であろう。 
尾崎紅葉の「金色夜叉」から模じったもので、その前に砂浜のサンビーチが広がっている。 



市街地より東方山地に「伊豆山神社」がある。
頼朝が鎌倉に幕府を開くに及んで、幕府最高の崇敬社として箱根とともに二社を関八州鎮護とした。 
元はといえば頼朝の恋人であった北条政子が、密かに逢瀬を楽しんだ神社といわれる。
父に逆らって恋人の元に抜け出してゆく「政子」は、後に政権を握ることなど考えもしなかったに違いない。源氏旗揚をした後、この社にせっせと戦勝祈願をしたという。


新金色夜叉』 曲・詞・宮島郁芳 
熱海の海岸を散歩する     僕が学校おわるまで
貫一お宮の二人連れ      何故(なぜ)に宮さん待たなんだ 
共に歩むも今日限り       夫に不足が出来たのか 
共に語るも今日限り       さもなきゃお金が欲しいのか

 
次回は、伊東温泉



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2010年9月16日木曜日

日本周遊紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」

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日本周遊紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」



城願寺:土肥実平御手植えとされる樹齢800年の「ビャクシン」、左の建物は「7騎堂」




「真鶴・岩」・・、

いわゆる西湘バイパスから小田原の石橋を抜けると、間もなく「真鶴」である。
半島の手前に「岩」という小さな海岸が在る。 

夏になると孫達を連れて、海水浴をしに海辺の民宿に数回泊まりに来た事があった。
波の小さな入り江の砂浜と端には適当な岩場があって磯遊びも出来る。 
正面には真鶴道路の岩大橋が高方に架かる。


この「」にも中世に歴史の一コマが有った。

平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆へ流されて20数年、北条氏の庇護のもと娘・政子を妻に娶って更に強固な姻戚関係を結んでいる。
一方中央・都では奢れる平氏を打つべく、後白河天皇の皇子「以仁王」が諸国の源氏に令旨(皇太子、親王等の命令を伝える文書・勅書に次ぐ物)を出し、伊豆の頼朝にもその親書が届けられる。

頼朝は、これを期に北条時政や土地の豪族を頼って、伊豆に威を張る平兼隆を討つ、そして正規に平家打倒の旗を挙げる。
しかし次の「石橋山の戦い」では三百騎を率いる頼朝を討つべく集まった平家に仕える地族ら三千余騎との戦いに敗れ去る。

その際、土肥実平の案内で土肥の山中に逃げ込み、平家方の追っ手から逃れる。
土肥実平は土肥郷に勢力をもつ武士であり、その土肥郷とは現在の伊豆の土肥ではなく湯河原町,真鶴町,小田原市の一部であったとされる。
追ってを逃れた頼朝は更に真鶴から海路安房の国への逃走を成功させる、逃亡する際に船出した港がこの「」海岸と伝えられている。


湯河原について・・、

真鶴半島の付け根、山中のJR真鶴駅前を過ぎて海岸に出ると、そこには湯河原の広大な海岸線が眩いくらいに光っている。
こちら湯河原そして熱海は伊豆半島の首根っこ、付根の部分に位置する。

伊豆半島は伊豆箱根富士国立公園と合い間って、富士火山脈の中枢に当たる。
ある機関によると、伊豆半島は富士火山脈の上にあり地質上地殻変動のために割れ目が多く、また火山活動が活発で、周囲を海に囲まれ、降水量は年間3,500mm内外で、年平均気温は16℃内外と高温多湿で、植物の生息に好適な気象条件を備えているという。
それ故、植物の育成が良好で、森林区域は半島面積の74%に達し、したがって地下水の保水量が多く、温泉湧き出しには好条件であるという。

静岡県は温泉湧出量が全国で有数の温泉県になっていて、源泉数は大分、鹿児島に次いで三番目であり、その殆どが伊豆半島に占められている。 

失礼・・、「湯河原」は神奈川県でしたが、県境の川を隔てて静岡県熱海市泉地区にも温泉宿があり、伊豆湯河原温泉と称している。 
温泉場の中央、千歳川と富士木川が合流するところに万葉公園がある。
これは万葉集にあやかって名付けたもので、湯河原温泉は万葉集にも詠われている程の古湯で、それが為か往時は文人の湯とも言われた。

湯河原の地域以外に「万葉の湯」という名称の湯館があるが、湯河原の温泉湯を持ち込んでその名を付している。 
湯河原駅から千歳川の谷を遡るように温泉街が続いている。
隣の熱海には巨大温泉ホテルが林立しているが、こちら湯河原は日本形旅館が主体で、古くからある「温泉街」の風情が残っている。 

湯河原吉浜海岸は長大な砂浜が広がっていて、遠浅なのでサーファーやファミリーにも最適な海水浴場になっている。



土肥の庄・・、

湯河原は歴史の舞台でも著名なところである。
平安期の頃は「土肥の庄」と呼ばれていた。 その土肥の統領・「土肥実平」は頼朝の熱い信頼ある御家人だった。 
頼朝の源氏旗揚げの時は、平氏の嫡流の身でありながら、土肥の郷主・土肥二郎実平は源頼朝に付き、奮闘貢献し平氏滅亡に寄与している。 

湯河原駅北側に城願寺という立派な寺院がある。 
後年、実平は土肥郷内に寺院を創建し、其の後土肥氏の総菩提寺となっている。  

一時、土肥一族は鎌倉で滅亡したと言われたが、実平の子孫は着実に有ったという。
孫は安芸国(広島県)に移り「小早川」を名乗り、後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となっている。 

また四代目は越中・富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて実平から800年以上、土肥氏は今も其の地で繁栄を続けているという。 
富山周辺地域は今も土肥称が多いという。 
土肥郷の城願寺には越中の土肥氏の多くも葬られているという。


土肥家は、あの毛利家の支柱・小早川家の祖でもある・・、

因みに、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地とした頼朝の第一の忠臣・土肥実平の嫡男・遠平は、小田原の早川に領地を与えられ地域にちなんで「小早川」を名乗った。 
後に、源頼朝が全国に守護・地頭職を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。

小早川家は、戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられ、小早川隆景は、兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)

本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなり、隆景には子供がいなかったため家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。

ご存知、小早川秀秋は関ヶ原の戦い(秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされる)での功績により、備前51万石に加増移封されたが、嗣子なくして病没し、小早川家は名実ともに断絶したというのが定説である。

ただし、近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見された。
この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は現在も存続していることになるともいう。


湯河原・城願寺には、土地の豪族「土肥実平・遠平」父子の像が立ち、本堂左方に土肥氏一族の墓所、66基の墓石がある。 
墓石は重層塔、宝筺印塔、五輪塔などの各種の墓型が揃っていて、このように一墓所に各種の墓型がそろっているのは、関東地方ではめずらしく貴重なものだそうだ。 
一角に七騎堂なる御堂がある。

頼朝が石橋山に陣を布き、手勢300騎で平家方の大庭景親軍3000騎と対戦したが、多勢に少勢、勿ち敗走して土肥の山中の洞窟に身を隠し、真鶴海岸から房州に落ち延びた。

この時、同船して落延びたのが頼朝以下主従七騎であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。 
七騎堂にはこれら七士の霊を弔っているという。
又、境内には迫力の樹木がある。土肥実平が寺院創建時に、自ら植えと伝えられる「ビャクシン」の大樹で、幹のねじれが著しく、小枝もよく茂った古木である。 
樹齢約800年(推定)といわれ、国の天然記念物に指定されている。

因みに、このビャクシンという樹は長寿で、樹齢約1500年に達するものもあると言われている。

次は「熱海温泉




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日本周遊紀行(3)葉山 「湘南地方」

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 日本周遊紀行(3)葉山 「湘南地方」 



瀟湘湖南』(しょうしょうこなん)・・、



三浦半島最南端;城ヶ島に架かる「城ヶ島大橋」



三浦半島最南端、城ヶ島や油壺は通年人々で賑わう観光地であ
三崎漁港は我が国有数の漁業基地、特にマグロの水揚げは焼津に次いで2番目をキープしている。
城ヶ島大橋を渡ると、北原白秋の詩でも知られる城ヶ島である。
その西端の入り組んだ入り江である長津呂湾は、岩場に囲まれた天然のプールになっていて、我も時折・・?夏になると孫共と一緒にはしゃいだもんでであった。




詩歌人の北原白秋は27歳、東京を引き払って家族とともに三浦三崎に新居を構える。
三崎は白秋の新生の地となって白秋文学のうえでも、新しい境地がひらかれるきっかけとなった。
白秋は三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、なつかしんだ人でもあったという、三崎時代のも多くの作品がのこされている。

城ヶ島の雨』 詩:北原白秋 曲:梁田貞

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

因みに、「利休鼠の雨」とは・・、
茶道の「千利休」、即ちお茶、抹茶の色、利休鼠は抹茶の色と鼠色を合わせた色のことのようである。 
利休鼠は江戸時代後期から明治時代にかけて利休茶とともに流行した染色の色名で、鼠のような灰色のこと。 利休という字が付く染色名は利休鼠、利休茶、利休白茶、利休色、濃利休、薄利休、錆利休、藍利休などの8色があるといわれる。

戦国期、利休は秀吉の勘気に触れ天承19(1591)年2月28日京都・葭(かや)町の自邸で切腹を命じられている。
2月28日は旧暦で現在の太陽暦になおすと4月9日前後で、その日は霰をまじえた大雨が降るなど異常な天気であったという。 
このことから利休鼠の雨の語源があるという説がある。 元より、利休は華美を嫌い鼠色を好んだといわれ、利休鼠の色は暗い灰色で英語のストームグレーのような色を指しているとといわれる。



R134は三浦半島を北上する、内陸部から海岸に出る。葉山、逗子の海は既にウィンドウサーフィンやボードセーリングを楽しむ若者達で賑わっている。

葉山は明治期から保養地として注目されていた、皇室関係者や貴族の別荘も多く、明治26年、明治天皇の御用邸が竣工され、今の御用邸に継続されている。


平成年号の前の「昭和」の年号はこの葉山から発せられたという。 
大正天皇は病気療養のため葉山御用邸付属邸に行幸されていた、 しかし、国民の平癒祈願も空しく崩御された。 
お見舞いのため滞在中の皇太子・同妃両殿下(昭和天皇・皇后)は、直ちに「践祚(せんそ)の儀」を行われ、付属邸において天皇の位を受け継ぎ、「昭和」と改元されたという。 

葉山御用邸を挟むかたちで、長者ヶ崎、一色海岸、森戸海岸、逗子海岸と海のレジャー基地が並ぶ。小生も若かりし頃、葉山の一色海岸に会社の保養所があったので、海水浴等で青春を謳歌したものであった。


「湘南」について・・、

普通に湘南(しょうなん)といえば、神奈川県の相模湾沿いの地方のことを言い、厳密な定義はないようだ。 
概ね大磯~葉山のあたりを指すが、それとは別に大磯以西を西湘(せいしょう)と呼び、三浦半島は湘南に含めないこともある。

元々は、中国湖南省の瀟水、湘江を含む洞庭湖一帯を「瀟湘湖南」と呼ぶところから来ていると言われている。 
なんでも、その風景が相模湾一帯とよく似ているそうで、江戸時代、盛んに中国へ渡来していた禅僧たちが、その《湘南》という言葉を日本に持ち込んだという説が有力である。

石原慎太郎(現東京都知事、石原裕次郎の実兄)の著作「太陽の季節」から太陽族やその映画の主役・石原裕次郎、また若大将シリーズの加山雄三が湘南のシンボルだった1950年代にはヨットやクルーザーなどのマリーナがある地域(葉山から江ノ島)が湘南と考えられた。

なお現在、神奈川県の行政区域名としては、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町を湘南と規定する。
国土交通省陸運局の自動車ナンバープレイトに「湘南」がある。 湘南族にとって秦野、伊勢原、寒川の内陸地が何で湘南なんだヨ・・!、という異論もある。

次回は「湯河原」


【注記】 鎌倉そして江ノ島から小田原にかけての湘南地区は別途・日本周遊紀行(ホームページ)として記載してます。 従って次回からは、湯河原へ飛びます。 

鎌倉編
http://orimasa2005.web.fc2.com/km-1.htm

湘南編
http://orimasa2005.web.fc2.com/sn-1.htm 




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2010年9月14日火曜日

日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」

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日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」



(クリック大)
嘉永6年(1853年)、黒船に乗ったペリー提督率いる米国艦隊が上陸した地に、「記念碑」(伊藤博文の筆)が立ち、奥の方に「ペリー記念館」が建つ



   『 太平の 眠りを覚ます 蒸気船 
             たった4杯で 夜も眠れず
 』

浦賀は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が 日本上陸の第一歩をしるした地である。 
ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表奉行に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求した。

はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化、強力な軍事力を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して、翌、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び伊豆の下田へ来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。
日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよい。

   『 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 
            たった四杯で 夜も眠れず
 』

こちらは、江戸庶民が詠った狂歌である。

うららかな日に、たった4杯の高級なお茶(上喜撰)で眠気がすっとび不眠になってしまったように、たった4隻の黒船(蒸気船)による開国の要求に日本は平和ボケから目を覚まされ、開国以外に選択の余地のないところへ追い込まれた・・と、幕政に対して失笑しているのである。 

江戸中期、この浦賀に陸の関所ならぬ海の関所といわれる広大な奉行所が置かれていた。
江戸の発展増大に伴う人口の流入、商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港が下田より移されたと考えられている。
小さな藩の転封(諸大名の領地を他へ移しかえること。移封、国替)みたいなものだ。
下田奉行の守をはじめ、下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住んだという。戸数10数戸の小さな漁村だった浦賀の町は、そのために1000戸にも以上にも達し、相模国では小田原に次ぐ街に膨れ上がったという。

業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領(幕府の直轄地)の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所など。
江戸後期には外国船が来航するようになり海防の仕事も加わって更に忙しくなったという。海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格した。
この奉行所は、1868(慶応4)年、幕府滅亡により廃止された。


横須賀港と浦賀港は歴史的同義で繋がっている・・、

横須賀と浦賀の街について簡単にいってしまうと、横須賀は近代海軍によってひらかれた街であり、主にそこで働く職人たちの街として繁栄した。 
一方、浦賀は元々「開国の町」であり、それによって海防の総合力が発揮され、豪商や財力で「浦賀ドック」に見られるように造船技術も発達し、栄えた港町であった。


浦賀ドックについて・・、

浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航まで遡る。
この時幕府は大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したところである。
また1859年(安政6年)には日本初のドライドック(船の建造や修理などを行う施設)が完成し、アメリカへ向かうための咸臨丸の整備が行われている。

戦時下では戦艦を造り続け、特に駆逐艦の造船は有名であると。
戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修や日本丸建造なども行われたという。そして浦賀地区は工場集約のため近年の2003年(平成15年)に閉鎖された。
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つであり、国内でも明治期のものとして「浦賀ドック」は貴重な文化遺産である。


今と昔の差異はあろうが、三浦半島先端に発達した海防の町は、どちらも大江戸そして大東京を守る(かなめ)なのであり、国防の港であった。
一昨年(2003年)、日米開国150周年に当たりワシントンでその祝賀行事が小泉総理とブッシュ大統領の下で行われた。


現在は浦賀は行政上横須賀市に統合されたものの、歴史が異なるため居住者の意識にも若干の差異があるといわれるが・・?。

この浦賀港を今は久里浜港と称している。
三浦半島と房総半島、久里浜・金谷を結ぶフェリーが片道40分で往来している。
ここは広い東京湾の出入口に当たり直線距離で15kmと最狭部になっている、晴れた日には東京湾を往来する大小多数の船舶が望めるところでもある。

次回は、「湘南・葉山」



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日本周遊紀行・西日本編 「出発;先ず横須賀へ」

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 日本周遊紀行・西日本編 「出発;先ず横須賀へ」 



いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。

以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成り、当初、考えていた梅雨入り前のゴールデンウイーク明けということで本日を向かえた。

大雑把に見積もっても東日本方面と比較して地形的にも、都市部というか人口の集約度も高く、観光名所も多い。
これらを考察しても相当の日数と距離がかかりそうで、妻にはそれなりに話しておいたが。 ところで、妻と娘家族が故あって6月の初め鹿児島方面へ旅行するらしく、その時の再会を楽しみに。


前日、娘家族が見送りの為に来てくれて、旅先への思い入れ等を話す。
6時に起床した時は妻は既に台所に立っていて、朝の支度に余念がなかった・・? 
軽く挨拶を交わして6時40分には家を出た。


R246から東名の横浜町田IC近くよりR16の保土ヶ谷バイパスへ、八王子、相模原、東名高速のICと大横浜市を結ぶ唯一といってもよいぐらいの幹線道路は平日だと早朝から慢性渋滞の常連地である。
しかし、さすがに日曜日の早朝(・・でもないかな、)とあってスイスイと走り抜けた。新保土ヶ谷ICからは横横道路(横浜・横須賀道路)の有料道路に入る、初めに三浦半島の横須賀へ向かう。



「戦艦三笠」・・、

一昨年から昨年に掛けて、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」の大長編を読破した。
明治時代、伊予松山の秋山兄弟と正岡子規はその時代どように生きたか、明治国家の背景は・・?、兄好古は陸軍騎兵の創設者、弟真之は日本海海戦の名参謀、文壇俳句の大元、子規・・と三人三様が明治の日清・日露戦争にどのように拘わっていくのか・・?
極近年(2009年・・?)、NHK大河ドラマ(日曜日・・?)がこのスペクタクル大叙事詩を放映するとか。


横須賀港に記念鑑として保存されている「戦艦三笠」



2005年の今年は、日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から100周年に当たり、それは奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であった「三笠」の等身大の姿が、横須賀港の三笠公園に停泊している。 
大正期に現役を退き、記念艦として保存されていたが、太平洋戦争後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、見る影もなく荒れ果てていたが、 その後、「三笠」を復元させようとの声が内外で高まり、多くの人々からの募金、政府の予算、アメリカ海軍の支援もあり、昭和36年(1961年)に現在の姿になったという。


まだ時間的に開館前であったが、半開きの門をカメラ片手に忍び入った、中央に元帥・東郷平八郎の立像が三笠を背にして立っている。 
見据える先は東京の国会議事堂か、はたまた皇居か・・? 殆ど灰黒色に鋳ぬられた本艦横に「日本海海戦100周年」の横断幕が張られて在った。



時は「明治」・・、

日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。
日本は日清戦争(1894年)に勝利し、翌年には、日本有利な下関条約を締結したものの、ロシア・フランス・ドイツの、いわゆる三国干渉によって、遼東半島(朝鮮半島の北にあり、北を渤海、南を黄海に囲まれており、最西端部に旅順や大連などの都市がある。全体に山がちで平野は少ない)の租借権(ある国が他国の領土の一部を借りること、原則として租借国が統治権を行使する)を清に返還せざるを得なくなった。 

ところがロシアは、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。
これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆(復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味)というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。

その後ロシアは満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
日清戦争で実力を知ったイギリスは日本と同盟(日英同盟)を結ぶ、これによって国内世論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。

ロシアは朝鮮半島北部へ侵攻領有する構えをみせ始め、日本側では朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは日本本土の防衛上不利と考え、開戦へと国論をまとめた。

当時の日本の外務大臣・小村寿太郎はロシアに国交断絶を言い渡した。
かくして、ロシア皇帝・ニコライ2世は、1904年、日本との戦闘行為を容認し、事実上日本との戦争を決断した。

戦艦三笠」は避けられないロシアとの戦争に備えて、1896年の10ヵ年計画における4隻の新造戦艦の4番艦として、1902年3月に完成していた。

その設計は英国のビッカーズ社のJames Dunn氏を中心として、当時の英国戦艦にさえ導入されていない最新の技術が盛りこまれた、当時世界最大最強の戦艦であった。 
1904年に始まった日露戦争では、東郷提督の率いる連合艦体の旗艦として、ロシアの太平洋艦隊との黄海海戦で勝利を収め、その経験を生かしてバルチック艦隊との日本海海戦では、ロシアのほとんどの艦艇を沈める戦果を上げた。 

このとき、伊予・松山出身の秋山真之は旗艦三笠を指揮いる東郷司令長官の横に居って作戦指揮し、名参謀ぶりを発揮する。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として評価されている。またZ旗の信号文『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』も彼の作である。 

尚、大陸陸上部では日本陸軍騎兵隊指揮いる秋山真之の実兄・秋山好古が、ロシアコサック騎兵隊を悩ませ勝利に導いていく。



三笠公園への途中、間違って「アメリカ海軍横須賀基地」(横須賀ベース)に入ってしまうところを黒人の米兵に止められて「ミステイク・・ソリー・・」といってUターンしたが・・、
横須賀基地(よこすかきち、JMSDF Yokosuka Naval Base)は、海上自衛隊及び在日米海軍司令部の基地で第7艦隊の前方展開拠点として置かれている。基地には、以前は空母ミッドウェイ、空母インディペンデンス、最近では空母『ジョージ・ワシントン』の寄港地として有名。また、イージスシステムを搭載したミサイル巡洋艦及びミサイル駆逐艦(イージス艦)といった軍艦が事実上の母港としている。
米海軍の基地としての是非はともかく、自衛隊とともに、日本国土や首都・東京の防衛に当たっていることも確かである。
基地内部には一般人は立入れないが、年に1、2度公開され、空母の中にも入れることがあるという。昔の核持込疑惑の頃は船が入る(空母が入港することを地元の人間はこう呼ぶ)度に大騒ぎだったが、最近はとても静からしい・・?。



R16からR134を行く、細長く入組んだ浦賀湾を左に見ながら一つの丘を越えると再び見通しの良い湾に出た。その名も「開国橋」と名の付く橋を渡って間もなく「ペリー公園・ペリー上陸記念館」があり、園の中央に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」(伊藤博文・書)の大きな文碑がある、海岸には錨のモニュメントがあった。

次回は、・開国の町・「浦賀」



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2010年9月12日日曜日

日本周遊紀行:西日本編 「はじめに」

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 日本周遊紀行:西日本編 「はじめに」  


国に山河在り、人に歴史有り 』         

主に沿岸地方であったが・・、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来た。 
そして概ね、「日本という国の形」を歴史文化、自然風土に素人的に触れることが出来、この国の活力を感じ入った次第です。  
これだけでも今回の周遊の旅の目的が達せられたと満足しているが・・、


東日本の特徴は、何と言っても奥深く雄大な太古の自然が、ソコ・ココに残されていることであろう。 
原始の自然は人類創生以前の地球の営みを見ているようで、圧倒的に迫ってくるものがある。 

東北では世界遺産の白神山地をはじめ津軽地方、下北半島の奥深さや特異な海岸(仏が浦)、三陸の緑と豪快な海岸線、そして優美な松島の海岸。 
北海道に到れば雄大かつ変化に富む山岳、広大な湿原、美しい景観の天然湖沼などの大迫力に圧倒される。 
中でも渡島半島の山地、サロベツ原野、宗谷丘陵、オホーツクの海岸線、知床、そして、野付から根室の海岸線、根釧原野など、道内を一周すると殆どの地域が国立、国定、道立公園の範疇に入り、世界遺産の「知床」やラムサール指定地など、湖沼、湿原、原生花園、原野など優美で広大な大自然に驚嘆したのである。



対して西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。

例えば、我等現代人でもある本来の大和民族のルーツを思う時・・、
縄文期の頃までは、今の日本である北海道から琉球沖縄まで、人種の流入過程は異なるが、概ね同系、同種の縄文人であったとされる。 

ところが、弥生期から飛鳥期において大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が九州、そして中国・近畿・北陸地方にやって来て、従来の縄文人を駆逐し、ないしは融合し、同化していった。
つまり、弥生文化の覇権のため武装(金属の銅や鉄器)した技術集団、農業集団でもある、所謂、稲作キャンペーン集団とも云える新たな民族がやってきて技術面は勿論、文化面、宗教面においても全国に一大革命を起こすのである。 

つまるところ2000年にわたる、集団で定住化された「米」が主食になる稲作農業文化が、画一化された弥生人を創りあげ、国内においては旧来の縄文人の姿、形まで変えてしまったようである。 
即ち、文化や文明が歴史として現代にまで滔々と流れ下り、受け継がれて現代人と現代文明が形成されていったのである。 

但し、この様な弥生文化の駆逐は、北海道と沖縄には平安期の頃まで全く及ばなかったともされる。

両地域とも、本土のよう稲作文明は波及しておらず、従って、本土と並立した「弥生時代」というのは存在しないと言われる。
縄文時代の次の時代は、沖縄では「貝塚時代」(前期、後記)、東北北部から北海道では「続縄文時代」とも呼ばれる縄文様式の継続文化が営々と続いたのである。 
その現況が蝦夷・アイヌの民や琉球人の姿、形に、今ででも見ることが出来るとも言われる。


特に、西日本では、これら日本人(大和民)のルーツから、現在に至るまでの進化の過程を記紀(古事記、日本書紀)伝説、伝承や遺跡・史跡、痕跡、神社、仏閣等から伺い知ることが出来るのである。



ところで、歴史というものはどの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。 
そして、多岐に渡る小河の歴史が寄せ集まり、厳選されて現代に繋がっているのである。 
更に、時代という綿々と流れてきた歴史大河は、主要事項が重なり合って後世に一つの現象を生み出し、影響を与えながら未来へと繋がっていくものでもあろう。 

こんなんが歴史の面白さでもあろうか・・? 。


西日本編』は、東日本編に引き続き今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」を主題に、景勝地や温泉等の観光面を併せてピックアップしながら紹介致します。



周遊は『西日本編』に移り、神奈川県厚木市を出発して、以下の各県順に巡りました。

『西日本編』: :行程・・・神奈川県厚木市(出発地)⇒ 神奈川⇒ 静岡⇒ 愛知⇒ 三重⇒ 和歌山⇒ 大阪⇒ 兵庫⇒ 四国全県(時計回り一周)⇒ 岡山⇒ 広島⇒ 山口⇒ 九州全県(福岡より西回り一周)⇒ 山口⇒ 島根⇒ 鳥取⇒ 兵庫⇒ 京都⇒ 福井⇒ 石川⇒ 富山⇒ 新潟⇒ 長野⇒・・・神奈川帰着

最初は神奈川県・三浦半島からです。


2010年 小生著作(orimasa)




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日本周遊紀行 『旅・旅・旅』 「昔の旅人:三人の挿話」

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日本周遊紀行 『旅・旅・旅』 「昔の旅人:三人の挿話」

前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った「御三方」の旅の様子を記したい・・。

先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。

旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 

吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 
最大の難関は豪雪地帯の会津から越後への道のりで、冬場は今でも危険だといわれる峠越えを敢行する。 諏訪峠を5時間かけて峠まで上がり、そこで松陰は超人的な苦難を味わうことになる。
無論、安らぎの一時もあったようで、特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。
松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。



次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。

芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。

道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』

を詠んでいる。 
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。
この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 
しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。

普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。
いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。



松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、当時既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない
 』・・子規

芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

と軽く一句捻っている。

四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 
この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。 

「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京

余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、

『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』

と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は芭蕉の 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。

元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』


余りにも有名な句であるが・・、
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。

子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く人」と呼んだ。



小生が選んだ御三方とも、旅先は何れも主に東北・陸奥の旅であったが、これは偶然である。 
因みに、平安期の一時期を除いて、特に明治の夜明け頃までは、陸奥は”地の果て”という見方もあったようで、明治黎明期の或る長州人は、”白河以北は(陸奥)は一山一文の未開の地”とまで言ってのけた。

御三方は、この未開の・・?陸奥を目指したことに価値が有るのである。

 
さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)
昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 
それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、移動手段はともかく、今も昔も変わることは無い。

文明が進んで、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いた。
その事を示す例として、日本の鉄道開発、敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参詣のために造られた事が挙げられるのである。



小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。 
実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが・・。

いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。

続いて、『日本周遊紀行』 東日本編に引き続き「西日本編」 を記載いたします。



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