2010年11月29日月曜日

日本周遊紀行(49)印南・由良「日本の味」

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日本周遊紀行(49)印南・由良「日本の味」



紀州南部は、日本人の「味」の古里であった

更に地域が前後するが、印南町(いなみちょう)の事である、こちらはカツオブシの発祥の地といわれる。
暑い時期に大量に釣れるカツオを永く保存し、遠くへ送るための技術としてカツオブシの製法が発明されたいわれる。 

印南の漁師たちが操業中遭難して土佐の港に漂着した、以来、土佐の宇佐浦に住み着いて「土佐の宇佐に造っていた漁業基地」で生まれたため「土佐節」と呼ばれた。
土佐人は「宇佐はカツオブシの発祥地」である、と言うが間違いではない。 だが、元々は宇佐にいた「印南」の漁師たちが考案したものであるという。
因みに「土佐の一本釣り」として知られる漁法も、印南の漁師が伝えたものという。

かつお節」或いは、かつお節らしものは既に縄文期の頃から食されていた、というのは遺跡などからも明らかにされているという。 
そのルーツを文献から辿ってみますと、鰹節に関する文献は数多くあり、中でも「古事記」にも「型魚」という言葉で登場しているらしい。
カツオの加工品が当時の貴重な贈答品、賦役品になっていた。

日本人が普通に食するようになり発展したのは江戸中期であり、紀州・印南浦(印南町)の人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(焙乾法とも)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。
古来、かつお節は武士の「兵糧食」として欠かせないものであり、「三河物語」等の兵法書に兵糧食としての記述があるほか、「かつおぶし」が「勝男武士」という名前で、縁起のよさもあることから日清・日露戦争でも使われたという。



次に「由良」の興国寺と調味料について

小生、関東・相模の人間として、先ず由良町の「興国寺」のことを記さねばならない。
克って、白隠禅師(駿河の国・原の名僧、松蔭寺)によって「紀に興国寺あり」と云わしめ、宗風一世を風靡し「関南第一禅林」として世に知られた名刹とされている。 国道42号線沿いにある臨済宗妙心寺派(拙宅、同様の宗派)の古刹寺院で、開祖は鎌倉時代の無本覚心(むほんかくしん・法燈国師)である。

時は鎌倉期、鎌倉三代将軍・実朝が、弟・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名であり「鎌倉の項」でも述べた。 

「ホームページ」: リンク :「鎌倉紀行

その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋(中国)へ渡る船の準備を「由良」の港で行っていた。
主人の死を知った葛山は、その苦諦(くたい:この世界の一切存在は苦であるという真理)を弔うため高野山に入る。
その時に知り合ったのが若い「覚心」であった。
故主人・実朝の供養ぶりを知った当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え一寺を建てた。
これが興国寺の始まりで、無本覚心が開山したものである。

覚心は、開山まえの修行中、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)に参じて宋(現在の中国)に渡り、尺八を吹きながら修行し、虚無僧(こむそう)姿で帰朝したという。
これが、現在の虚無僧の起源で、この寺は虚無僧寺院(主に普化宗という日本の仏教の禅宗のひとつ。普化とは、尺八を吹きながら旅をする虚無僧行で有名)の総本山でもある。


金山寺味噌と溜醤油

覚心和尚は中国の径山寺(キンザンジ)で修行し、この時、食事を摂りながら味噌の作り方を学び、日本に広めたのが「金山寺味噌」であるという。
この金山寺味噌を生成する際、桶底に溜まった液から、溜醤油(たまりじょうゆ)というのが誕生し、更に加工したのが醤油であるといわれる。 
覚心は、醤油の製法をもあみ出し、隣の湯浅町に伝えたという。

その後、湯浅の職人が黒潮ルートで房総半島に渡り、銚子において醤油醸造業として発展し、更に江戸期に利根川水運が開発されるに及んで、江戸、関東に広まるのである。
又、紀州徳川藩は湯浅醤油を庇護し、全国に販路を拡大することになる。 
現在も「湯浅醤油」は昔ながらの製法で造られているという。

紀州南部の沿岸地は、南部には紀州梅、有田の蜜柑、そして味噌、醤油、カツオブシと、日本人の食、味の発祥地だったのである

次回は広川 「広村と津波



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日本周遊紀行(48)有田 「蜜柑・みかん」

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 日本周遊紀行(48)有田 「蜜柑・みかん」 



梅の後は、「蜜柑(みかん)」のことである、  

」の南部町から「みかん・蜜柑」の有田へは地理的にはチョッと飛んでしまうが、有田市を中心とした有田川沿いの地域は古くから蜜柑の栽培を地域ブランド・有田みかん、紀州みかんとして全国に名を馳せている。


『 沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 蜜柑船 』

江戸期、紀伊国屋文左衛門が「有田みかん」を積み込んで、江戸へ船出する光景をの風流俗曲に唄ったものである。
紀伊国屋文左衛門の生誕地は諸説あるが、有田郡湯浅町別所あたりが有力とされている。

江戸・元禄時代の1685年、台風の当たり年だった江戸では蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないと考えた文左衛門は、港に山済みされた出航待ちの蜜柑1200両分、7000篭を積み込んで嵐の中、船磁石(船のコンパス)を頼りに太平洋へと漕ぎ出した。

蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは大歓声をあげて文左衛門を迎え、命懸けの航海は成功をおさめる。 蜜柑は何と元手の30倍の金額で売却できたと言われている。 
故郷で産するミカンを江戸に運び、帰りの船で江戸から塩鮭など江戸前の海産物を上方に運送して財をなした文左衛門は未だ20代であったという。

彼が活躍したのは江戸時代の前期、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令した時代であった。 
財を成した彼は、江戸の京橋・本八丁堀に材木問屋を開業している。 老中・柳沢吉保と結びつき御用商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負ったりもした。
こうした事業は巨利を生み、一時期の全盛をきわめたが、日常生活でも金銭を惜しまず、吉原で豪遊したため「紀文大尽」とまでよばれた。
その活躍は江戸中で評判となり、彼は有名人になり俗曲やカッポレに歌われるまでになったという。
しかし、幕閣が引退したことで幕府御用達の特権も奪われ、商売も奮わなくなり衰退してゆく。 深川八幡に閑居した後、66歳で没したという。


日本一の梅の町である「みなべ町」のことは先に述べたが、ここ「有田」は古くから日本一の蜜柑の産地である。 
紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸まで運んだ蜜柑は、当然「有田みかん」である。
今でこそ関東以西の各地から(主に太平洋側)生産、流通されているが、我等幼少のころは「温州みかん」といって、和歌山産の有田みかんが主流であった。


よく温暖地は蜜柑(みかん)で、寒冷地は林檎(りんご)が生産地として一般的であり、蜜柑が青森で生産され、鹿児島で林檎が育ったとは余り聞かない。 
ではどの辺りが生産地として境界に当たるのか・・?、
実は小生の住む神奈川県辺りが境目と言われる。 
味の良否、産出量の違いはともかくとして東西が融合した、蜜柑、林檎、梨、葡萄、桃、梅、等の国内の代表的な果物の大半は小規模ながら育生されていると聞く。


ともあれ今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹、つまり柑橘(かんきつ)があるという。 その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが「みかん」の愛称で通用している「温州みかん」である。
そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。


温州みかん」の温州とは一体何か・・?、 

中国・浙江省の温州地方から入ってきたのがミカンの産地を称して、「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか。 しかし、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないともいわれる。 
日本の蜜柑の発祥地は鹿児島県長島ともいわれる。

紀州・有田に「温州みかん」として移入されて来たのは江戸中・後期頃であった。、
有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、更に改良を重ね、気候風土も適合して、有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始めたと云われる。 

明治初期には、有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷され、大変な甘味で美味なると評判をよび、高値で取引されるようになった。 
東海道線が開通するに及んで、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由を止め、大阪経由の鉄道便を利用するようになると天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。 
当時の箱詰めみかんの販路は東京7割、大阪2割、名古屋1割であったとされてる。

最近の蜜柑ブランド名は産地地域の名称が主で、温州みかんという名称は消えつつあるようだが・・?

次回は、印南、由良「日本の調味料」の発祥地



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2010年11月28日日曜日

日本周遊紀行(47)南部 「南高梅」

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 日本周遊紀行(47)南部 「南高梅」 


南部地方の「南高梅」 

国道42を一山越えれば南部町である。  
『 一目百万、香り十里 』と言われ、南部(みなべ)梅林や岩代大梅林といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。
そして日本一の、みなべの南高梅・梅干の産地であることは周知である。

は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 
中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として健康食に利用されてきた。 
日本では平安期より既に梅干として利用していたという。

 
南部地方は、元よりあまりコメが育たない田畑であった。 
これを見た南部地方を治める「田辺藩主」は、以前からあった「やぶ梅」に注目し、米のできないやせ地や山の斜面に生命力のある梅を植えさせ、梅の育成につとめたという。
やぶ梅」は果肉が薄く小粒であったが、果肉をこめかみに貼り頭痛を治したり、握り飯に入れたり、その価値は大きいものであった。 
江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 
又、梅を栽培するのにも、この地方の自然環境も大いに役だった。 
先ずこの地方が温暖で多雨であること。 更に、地質的にも植物の成長には欠かせない 炭酸カルシウムの成分が多く含んでおり、梅は特にカルシウムを好むという。
南部の土は梅の生長にうってつけだったのである。

梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。 
その内の一つ「南高梅」は南部で誕生、定着した梅である。
明治期、「 大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体 」、これらを母樹とした高田梅という品種が更なる品種改良が行なわれ、昭和期になって県立南部高等学校の研究によって今の南高梅ができたという。 
南部高等学校を通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅の新品種であることからこの梅を「南高梅」と命名したという。


現在、「南高梅」は梅の条件とされる「 皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい 」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含み、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占める梅のトップブランドとして全国に、世界に知られるようになった。
今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。

南部」は、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む、2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。

日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか。

次回、有田の「蜜柑・みかん」


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2010年11月27日土曜日

日本周遊紀行(46)田辺 「弁慶と闘鶏神社」

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 日本周遊紀行(46)田辺 「弁慶と闘鶏神社」 



田辺市湊町に鎮座する闘鶏神社


田辺は武蔵坊弁慶の出身地、その闘鶏神社との取り合わせは・・?、

崎の湯を後にして、昨日の牟婁の温、白良浜海岸から湯崎と白浜地域を半周して田辺へ向かう。 
県33号をそのまま田辺市街へ行くと、ほぼ中心に「闘鶏神社」なるものがある。


闘鶏神社とは妙な名称である。

鶏(にわとり)の種類の一つにシャモ軍鶏)がいる。
最近では余り見かけなくなったが、遠い昔から世界中で行われてきた闘鶏を目的に品種改良された屈強頑丈な鶏である。 
現在では、動物保護団体、宗教団体などの反対にあって闘鶏はほとんど禁止状況に置かれているが、大昔からの歴史もあり、人々の暮らしの中で楽しみの一つに挙げられた事実がある。
この熊野の国の田辺も闘鶏が盛んだったようで、或る事がきっかけで闘鶏神社の名が付いたと言われる。


鶏神社は、由緒正しき熊野参詣の宮であった。

紀元400年代(古墳時代)に創建されたという闘鶏神社は、元々は由緒正しきは「田辺の宮」、「新熊野権現宮」と呼ばれていたらしい。
熊野権現(現本宮大社)を勧請し田辺の宮と称したが、更に、後に熊野三所権現(熊野速玉大神、那智大社、熊野本宮大社)を勧請し、熊野三山各社の御祭神に替えたと云う。
いわば三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を担ったとされる。

神社は熊野街道の分岐点(大辺路・中辺路)である要衝地としての田辺に鎮座している。
遥々、京・大阪から「熊野詣」に来た人々の多くは、ここからが本来の険しい「中辺路参詣道」、「大辺路参詣道」である。
これら先の急峻な道には耐えられず、ここで「熊野まで来た・・!!」ということにして、多くの人々が熊野三山に擬して拝み、引き返したとのことである。 
熊野三山側が「出張サービス」をして、この地に鎮座した権現宮なのである。

主意書によれば歴代の上皇、法皇、公達の高家の人々も熊野参詣時は当宮に参詣宿泊し、心願成就を祈願したといわれる。


闘鶏神社と湛増、弁慶の因縁

JR紀伊田辺の南方400mのところに、その熊野別宮・闘鶏神社が鎮座して、境内には「@湛増」と「弁慶」の像がある。 
田辺市は「弁慶」の生誕地であることは地元では広く信じられていて、熊野別当湛増(熊野水軍の首領)の子だとも言われるが詳細は不明だという。 

弁慶が若い時分には鬼若と命名され、比叡山に入れられ自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。 
その後も乱暴狼藉を繰り返し、「京」では千本の太刀を奪おうと道行く人を襲い、既に999本まで集めてあと一本ということろで五条大橋で義経と出会う。
大橋で笛を吹きつつ静かに通りすがる義経めがけて弁慶は挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経に適わず返り討ちに遭ってしまう。弁慶は降参して、それ以来義経の純朴な家来となった。 
時代は移って源平の合戦の頃、「一の谷」の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになった。 
熊野水軍の統率者である熊野別当・湛増への働きかけが戦の勝敗のポイントとなり、源・平双方共「湛増」を味方に引き入れようと激しさを増していた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に戻り、父・湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽を源氏、紅い鶏七羽を平家に見立てて(紅白の運動会などの対抗戦は、源平合戦が由来)闘わせ、「神意」を確かめた。

結果、白い鶏が圧倒したことで弁慶の「源氏」側についた。
湛増指揮のもと弁慶を先頭に総勢ニ千余人、二百余隻の舟に乗って堂々と「壇ノ浦」に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たしたのである。(@NHK大河ドラマ「義経」で放映・・)

後には兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行、山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。 
平泉で急襲を受けた弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて仁王立ちのまま死んだ。 
怪力無双の豪傑と主に対する従順なる僕として、古来「弁慶」は日本人に愛され、各種物語の舞台や弁慶に因む言葉や名前が多く残るのである。

この時の闘鶏の地が「田辺の熊野別宮」で、それ以来この宮を「闘鶏神社」と異名を付けたと言われる。 武蔵坊弁慶の出生地とされる田辺市には「弁慶まつり」があり、彼に所縁のある史跡も多いというが・・。


田辺は辺路の分岐点でもあり、口熊野とも称した。

田辺は、熊野三山への主要な参詣道である中辺路(内陸国道311号沿い)と大辺路(海道R42号に沿う)の分岐点にあたる、別称「口熊野」とも称している。 
中辺路は、熊野古道でも最も良く整備保存されている古道で、歴史国道にも指定されていて川湯温泉や湯の峰温泉、本宮大社に到る古道である。
大辺路は海の景観の良い海道で、山道で白浜温泉、串本、那智勝浦温泉から那智大社や青岸渡寺、新宮大社に到る道である。


田辺の、「南方熊楠」(みなかた くまぐす)翁の事

紀伊山地・・」が、2004年に世界遺産に登録されたが、明治後期から大正期にかけて南方熊楠の自然保護活動によって、熊野の大自然は護られたといわれる。 
この活動が無かったら、熊野の神仏に纏わる自然林は伐採され、跡形も無くなり、古道は破壊されて今日の世界遺産どころではなかったかもしれないのである。

南方熊楠 (みなかた くまぐす:1867年4月15日~1941年12月29日)は、和歌山が生んだ博物学者、菌類学者、民俗学者で、菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。
幼い時から、驚くべき記憶力の持ち主で、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者でもある。 
東大に入学するが同期には夏目漱石、正岡子規、秋山真之(海軍参謀中将・日露海戦でバルチック艦隊を破る“本日天気晴朗ナレドモ浪高シ”“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”などの名句がある)などがいたが、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退してしまう。 
19才の時にアメリカに渡り、粘菌の魅力に採りつかれて研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど、苦学しながらもその後には渡英する。 

その抜群の語学カと博識で、大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表しているという。 
また、孫文と知り合い意気投合、以後、親交を結んでいる。 33才で帰国すると、紀州・田辺に居を構えている。
それ以降も、精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。
一切のアカデミズム(学問・芸術至上主義、また、学問・芸術における権威主義的傾向)に背をむけて・独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は、奇人呼ばわりされたが、実はやさしい含羞(がんしゅう:はにかむ、てれる)の人でもあり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。


昭和天皇に拝謁し、標本進献した南方熊楠

南方熊楠は明治政府の発した「神社合祀」(神社整理ともいう・複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させる)には真っ先に反対し、運動を始める。 
神社林が伐採されることにより、研究材料である隠花植物(いんか・・、花や種子を生じないで胞子で繁殖する植物及び菌類の総称・コケ、シダ、藻類)や粘菌が絶滅してしまうことを危惧したというが、同時に自然保護運動に傾注し、(自然保護運動の先駆者)明治政府や地元行政官を説得し、これを成功させるのである。
こうして熊野の森は護られたのである。
1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行っている。 
この時キャラメル箱に入れた粘菌標本を、昭和天皇に進献したエピソードはよく知られているという。

1941年(昭和16年)、75歳にて死去。田辺市中屋敷に南方熊楠旧居があり、白浜半島先端に@南方熊楠記念館(博物館)が在る。
南紀の海を望む館の前には、昭和天皇御歌碑が建つ。
後年(1962年)昭和天皇は、南紀白浜に再訪された時、海上の神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んでいる。


『 雨にけふる 神島を見て 紀伊の国 
            生みし南方 熊楠を思ふ
 』

と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる 。

闘鶏神社の社殿背後に仮庵山(かりほやま)という、鬱蒼とした自然林が在る。 

南方熊楠は仮庵山のことをクラガリ山と呼んでいたようで、熊楠は「 @当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べている。 
クラガリ山の老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に講議し、そのお陰でそれ以上の伐採は免れたという。 
熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」としていたともいう。

田辺は2005年5月に龍神村、中辺路町・大塔村、本宮町と合併し、新しい田辺市となった。 これにより面積が1,000km2(全国市町村・22位、全国市・16位)を超える近畿地方最大の面積を持つ市となっている。

次回は、南部(みなべ)の「南高梅



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《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


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2010年11月25日木曜日

日本周遊紀行(45)南紀白浜 「崎の湯」

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日本周遊紀行(45)南紀白浜 「崎の湯」



白浜名物「崎の湯」(波が荒い時は波打ち際の浴槽は使用不可になる)


南紀白浜の海辺の「崎の湯」は絶品であった

白浜の「かんぽの宿・白浜」は白を基調とした三階建てで、「くの字」に曲がった建物はチョットしたホテルを連想させる。 清楚な館内はホテルの堅苦しい雰囲気を取り除いた気楽な感じでもあった。

順調に目覚めた後は、先ずは朝湯に駆け込む。 

著名な温泉場故の当然24時間営業である・・?。
良質な温泉の場合は小生、必ずと言ってもいいほど、滞在した宿では三回入浴することにしている。 先ず到着後の食事前に一風呂、就寝前に二風呂、そして翌朝の目覚めに三風呂というふうに。

脱衣所では海が傍であるせいか、開いた窓の隙間から強い潮風の香りが感じられる。
白浜に来てるんだなと実感である。  浴室はこじんまりとしてはいるが清潔感があり、露天風呂も揃っていた。
しかも内湯に炭酸泉、露天風呂は含食塩重曹泉といった2種類の構成になっていて満足である。


眠気をサッパリと洗い落とした後は、朝食までの時間を観ながら「千畳敷」へと散歩へ出かける。 宿の横からスロープを下った、松林の向こう側にあり、徒歩で3分位であろうか・・?。

千畳敷は白浜の名所の一つになっていて、観光プポットになっている。
白浜の中心地より1kmぐらい下った、瀬戸崎から太平洋に向かって突き出した、広大に広がる岩盤地帯をいう。
今日も快晴無風、早朝の陽光が岩肌に反射してキラキラと光り輝いて見える。
 

心身ともリフレッシュして、「かんぽの宿・白浜」を出発とした。
先ずは昨日定休日であった「崎の湯」へ向かう。


豪華、波打ち際の露天風呂・「崎の湯」
白浜でも波打ち際の露天風呂という特徴があり、白浜の数ある外湯のうち最も人気があって、どうしても訪れて見たかった場所である。 
海岸道より路地風の横道を入ると、わりとゆったりした駐車スペースが在った。 入浴客としては小生が、どうやら一番のりらしく、午前8時から開場している事は昨日訪れていて既に承知していた。 300円の入湯料を払い、何故か瓦屋根つきの門構えを潜って浴場へ向う。

木戸を開けると木の塀で囲まれて、手前側と海岸よりの奥にと二箇所の野天風呂があった。 粗末な(純朴で良い・・)脱衣場もこの一角にあり、手前側の石垣の間から出る湯口の周りは既に析出物でびっしり、勿論、湯船の回りもである、温泉成分の濃さが判るというものだ。

何はともあれ、早速、湯に浸かる。
露天浴槽に入りながら波立つ大洋を見ることができ、潮騒の音が心地よい。 海辺に近い浴槽などは大きめの波がくるとザザーッと飛沫を被る時もある。
いやはや正しく、風流さもさることながら、豪快そのものでもある。
源泉温度は83℃というが、適度に下げてあって小生が入ったときは丁度の適温湯だった。


聞くところによると、この湯はつい最近までは無料であったらしいが、2003年から拡張工事(特に女性湯)と改修のため、工事費用に数千万円かかり、そのための有料徴収しているとのこと。
因みにこの「崎の湯」は日本最古の湯と言い伝えられ、先に記したが日本書記に有間皇子や斎明天皇、中大兄皇子も浸かったと記録が残っている由緒正しき温泉なのである。
入口の表示板にも八代将軍・吉宗(江戸幕府の第八代将軍・徳川御三家の紀伊藩の出身)の入浴も記録されているという。


帰りしな係員のオジサン(小生も完全なるオジンだが)が小生に寄って来て、

「 相模No だけど神奈川からかね・? 」
「 ハイ、厚木です 」
「 私は相模原だけど、数年前、定年退職で白浜に住宅を求め、住むようになったかですよ・・なつかしですな・・! 」
「 いやー、そうですか、それにしても結構なところへいらっしゃって、結構な仕事も見つけられて、結構な事ですね 」

・・と、しばらく雑談にふける。
聞くところ、未だ開店間もないのが毎度のことで間もなく駐車場は満杯になるそうだ。
気が付くと数台の車が横付けされ、すでに浴客が向っていた。 やっぱり、この湯は有名どころで人気もナンバー1らしい。


実は私達夫婦は2002年9月に南紀地方の主要部、つまり熊野三山参詣や熊野古道の一部を観光している。 
その後、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのであった。
これらの紀行内容について、ここ南紀白浜が出発地であったことも併せて、別の項世界遺産と「紀伊山地の霊場と参詣道」として記しているのでお楽しみいただきたい。
ただ、今回の「日本周遊」の旅とは、進行方向は異なるので地域によっては記述の内容が、若干重複している箇所があるかもしれない。

日本の世界遺産  『紀伊山地の霊場と参詣道

次は、田辺・「弁慶と闘鶏神社



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2010年11月24日水曜日

日本周遊紀行(45)南紀白浜 「温泉と都人」

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 日本周遊紀行(45)南紀白浜 「温泉と都人」 



牟婁の湯
白浜湯崎にある立寄り湯の「牟婁の湯」


平安期・都人の保養地・「牟婁の温湯」

峠のトンネルを抜けると白浜町である。
下りきったところが「椿温泉」で白浜温泉の隠れた温泉地だといわれる。 
海岸の岩間から湧出している冷泉で、その泉質はきわめて良質、湯治には最適といわれている。 江戸時代から紀州藩の武士や近郷の農家の湯治場で、奥白浜温泉との名称でも親しまれているという。 
国道沿いに数件のホテルや旅館が海に面して点在している。 
明るい砂浜の海岸は海水浴場のようだ。


紀伊の名湯・「白浜温泉」
国道42号は富田川岸から富田橋を渡り、更に白浜温泉方面への県道34号に分かれる。 
白浜空港下のトンネルを抜け、名勝の三段壁や千畳敷(別項記載)を通過して温泉中心街の湯崎へ向かう。 
海岸に出たあたりで、外湯で磯浜にある「崎の湯」を覗いたが、あいにく本日は定休日とのこと・・残念無念!!。


この辺りはすでに硫黄の香りが感じられる、気が付くと崎の湯の入口付近には源泉タワーがモウモウと白煙を噴出している、さすがに温泉地・白浜である。 
近くにオッサンらしい(小生もオッサンだが・)人が居たので・、

「 崎の湯は休みなんすね・・、他に外湯というか、共同湯てのはございやすかね・・? 」、
「 温泉かね・・、ホレ、あすこに見えるんが ムレの湯ちゅう、共同浴場だがね・・、
 」 

確かに白っぽい二階建の建物が防波堤越しに見えていた。 


海沿いからY字路になっている間に在り、浴場の前は小さな園地と駐車場になっていて、何やら石碑がデンと座っていた。 
玄関上に大きな看板で「牟婁の湯」(ムレでなく、ムロと読む)とある。おもムロ(シャレたつもり)に引き戸を開けて中に入る。
復古調のフロントがあり、なかなかいい雰囲気である。
浴室は両窓がついて明るく、二つの浴槽が有って、それぞれ違った源泉の湯が注がれている、聞くと其々源泉種が異なると言う。 


牟婁の湯に早速、浸かる・・熱い!!、でも気分爽快・・!
源泉湯船には、各々名前が付いていて「行幸の湯」という、何とも意味深な名である。 
こちらは含重曹食塩泉といい、入るとツルツルし泉温はかなり高い。 
飲泉も可能で味は、さすがに海辺のせいか塩っ辛い。 他方は「砿湯(マブユ)」といい、こちらは食塩泉でもっと塩っ辛い味がする。 
熱くて(源泉70~80度)当然水で薄めてはいるが、元々温泉成分が濃いためか、温泉臭が充満していて満足である。 
一つの施設で二種類の湯が味わえる、さすがに名湯・白浜である。

外の石碑には「湯崎七湯」としてあって


『 ふる国の 磯のいで湯に たずさわり 
             夏の日の海に 落ちゆくを見つ
 』


茂吉(斉藤茂吉)とある。 


湯崎温泉は奈良朝以前より「牟婁の温湯」と呼ばれ、明治初期から崎の湯、屋形湯、阿波湯、疝気湯、元の湯、浜の湯、砿湯の七湯を「湯崎七湯」と称し、来泉客に親しまれた。 
併せて、明治初期 鉛山村の図と記されていて、下に当時の温泉の略図が描いてある。

白浜は鉛山村・・?白浜は先ず奈良朝の日本書紀や万葉集などに「牟婁の温湯」、「紀の温湯」という名で登場してくる。 
戦国後期に鉛鉱山が発見され、江戸期には紀州徳川藩の直轄領となっていて、その頃から鉛山村と称していたようだ。 
鉛が採れなくなった頃から鉛山温泉、湯崎温泉と名前が変わって湯治場として発展し、昭和15年、町制の施行によって「白浜町」となったという。


白浜は往時、貴人の保養地として有名であり、しかも、ある種の事件の背景にも成っていた。 
奈良朝期、大化の乱(大化の改新)に関係した有間皇子(ありまのみこ)、斉明天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじが・後の天智天皇)らが湯崎の仮御所として保養に来られた。
又、斉明天皇の他にも持統天皇、文武天皇等が行幸し、白浜温泉は都人にとっては、この上もない保養地であったという。

日本書紀」によると、この白浜の地で有間皇子(孝徳天皇の子、中大兄皇子等が行なった「大化の改新」によって大化元年・645年、父の孝徳天皇が即位している)は謀反のかどで中大兄皇子に裁かれ絞首されている。 
大化の改新から13年の後であった。


序ながら、中大兄皇子、藤原鎌足等が行なった「大化の改新」とは・・?、
飛鳥時代に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革であり、天皇中心、中央集権の政治への転換した一大政治改革である。
6~7世紀にかけて、聖徳太子の上宮王家(上宮:聖徳太子の別称)を滅ぼし、大和の朝廷で権勢を振るう大豪族・蘇我一族の蘇我蝦夷(そがのえみし)、その子入鹿(いるか)は専横を極め、天皇家を凌ぐ力をもった。 

しかし、中大兄皇子らのクーデターで宮中での蘇我入鹿は暗殺、蘇我蝦夷は自殺した。 
この蘇我宗家の滅亡事件をこの年の干支に因んで乙巳の変 (いっしのへん) という。 その後の中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足らによる一連の改革を、年号「大化」としたため大化の改新と呼ぶに到った。


《追記》
以前から奈良の明日香村ではキトラ古墳や高松塚古墳といった。
飛鳥時代の古跡が発見されていて、周辺には石舞台や大型建物跡の遺跡も見つかっていた。 

又、本年(2005年)、今度は蘇我一族の館、特に、理想と野望の独裁者と言われる「蘇我入鹿」の邸宅の一部とみられる建物跡が明日香村の甘樫丘(あまかしのおか・天皇の宮殿のあった飛鳥盆地を見下ろす超一等地)で見つかったという、事実であれば世紀の大発見とも言われる。
これらの事柄は、乙巳の変、大化の改新、壬申の乱(じんしんのらん)といった事件の中で日本書紀に記載されている事項と一致する部分もあるとか。 

元来、古事記や日本書紀は伝説、伝承部分が多く、事実、真実は少ないとされてきたが、昨今の遺跡の発掘等によって、これらの史書の信憑性が高まるのではともいわれている。
 

白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)にして、また三大温泉地に数えられる湯処である。


さっぱり湯から更に車を進めると、「白良浜」の海岸が南国情緒たっぷりに広がっている。 間もなく海水浴シーズンで、この温泉場も一段と賑やかになることだろう。 
白良浜沿いの浜通りから入ってすぐ、銀座通りに「足湯横町」なるものが真新しく出来上がっていて、足湯に浸かりながら飲み物や軽食を食することが出来るという。
全国初の試みとか・・??、何ともユニークでご満悦なことだろう。

白浜の湯とメインタウンをぶらついて、今夜の宿、千畳敷の真近くにある「かんぽの宿・白浜」に入った。
尚、「熊野地方」については、世界遺産・「紀伊山地の霊場と参詣道」に記載しています。

世界遺産  『紀伊山地の霊場と参詣道』 

次回、更に「白浜



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白浜湯崎にある立寄り湯の「牟婁の湯」


平安期・都人の保養地・「牟婁の温湯」

峠のトンネルを抜けると白浜町である。
下りきったところが「椿温泉」で白浜温泉の隠れた温泉地だといわれる。 
海岸の岩間から湧出している冷泉で、その泉質はきわめて良質、湯治には最適といわれている。 江戸時代から紀州藩の武士や近郷の農家の湯治場で、奥白浜温泉との名称でも親しまれているという。 
国道沿いに数件のホテルや旅館が海に面して点在している。 
明るい砂浜の海岸は海水浴場のようだ。


紀伊の名湯・「白浜温泉」
国道42号は富田川岸から富田橋を渡り、更に白浜温泉方面への県道34号に分かれる。 
白浜空港下のトンネルを抜け、名勝の三段壁や千畳敷(別項記載)を通過して温泉中心街の湯崎へ向かう。 
海岸に出たあたりで、外湯で磯浜にある「崎の湯」を覗いたが、あいにく本日は定休日とのこと・・残念無念!!。


この辺りはすでに硫黄の香りが感じられる、気が付くと崎の湯の入口付近には源泉タワーがモウモウと白煙を噴出している、さすがに温泉地・白浜である。 
近くにオッサンらしい(小生もオッサンだが・)人が居たので・、

「 崎の湯は休みなんすね・・、他に外湯というか、共同湯てのはございやすかね・・? 」、
「 温泉かね・・、ホレ、あすこに見えるんが ムレの湯ちゅう、共同浴場だがね・・、
 」 

確かに白っぽい二階建の建物が防波堤越しに見えていた。 


海沿いからY字路になっている間に在り、浴場の前は小さな園地と駐車場になっていて、何やら石碑がデンと座っていた。 
玄関上に大きな看板で「牟婁の湯」(ムレでなく、ムロと読む)とある。おもムロ(シャレたつもり)に引き戸を開けて中に入る。
復古調のフロントがあり、なかなかいい雰囲気である。
浴室は両窓がついて明るく、二つの浴槽が有って、それぞれ違った源泉の湯が注がれている、聞くと其々源泉種が異なると言う。 


牟婁の湯に早速、浸かる・・熱い!!、でも気分爽快・・!
源泉湯船には、各々名前が付いていて「行幸の湯」という、何とも意味深な名である。 
こちらは含重曹食塩泉といい、入るとツルツルし泉温はかなり高い。 
飲泉も可能で味は、さすがに海辺のせいか塩っ辛い。 他方は「砿湯(マブユ)」といい、こちらは食塩泉でもっと塩っ辛い味がする。 
熱くて(源泉70~80度)当然水で薄めてはいるが、元々温泉成分が濃いためか、温泉臭が充満していて満足である。 
一つの施設で二種類の湯が味わえる、さすがに名湯・白浜である。

外の石碑には「湯崎七湯」としてあって


『 ふる国の 磯のいで湯に たずさわり 
             夏の日の海に 落ちゆくを見つ
 』


茂吉(斉藤茂吉)とある。 


湯崎温泉は奈良朝以前より「牟婁の温湯」と呼ばれ、明治初期から崎の湯、屋形湯、阿波湯、疝気湯、元の湯、浜の湯、砿湯の七湯を「湯崎七湯」と称し、来泉客に親しまれた。 
併せて、明治初期 鉛山村の図と記されていて、下に当時の温泉の略図が描いてある。

白浜は鉛山村・・?白浜は先ず奈良朝の日本書紀や万葉集などに「牟婁の温湯」、「紀の温湯」という名で登場してくる。 
戦国後期に鉛鉱山が発見され、江戸期には紀州徳川藩の直轄領となっていて、その頃から鉛山村と称していたようだ。 
鉛が採れなくなった頃から鉛山温泉、湯崎温泉と名前が変わって湯治場として発展し、昭和15年、町制の施行によって「白浜町」となったという。


白浜は往時、貴人の保養地として有名であり、しかも、ある種の事件の背景にも成っていた。 
奈良朝期、大化の乱(大化の改新)に関係した有間皇子(ありまのみこ)、斉明天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじが・後の天智天皇)らが湯崎の仮御所として保養に来られた。
又、斉明天皇の他にも持統天皇、文武天皇等が行幸し、白浜温泉は都人にとっては、この上もない保養地であったという。

日本書紀」によると、この白浜の地で有間皇子(孝徳天皇の子、中大兄皇子等が行なった「大化の改新」によって大化元年・645年、父の孝徳天皇が即位している)は謀反のかどで中大兄皇子に裁かれ絞首されている。 
大化の改新から13年の後であった。


序ながら、中大兄皇子、藤原鎌足等が行なった「大化の改新」とは・・?、
飛鳥時代に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革であり、天皇中心、中央集権の政治への転換した一大政治改革である。
6~7世紀にかけて、聖徳太子の上宮王家(上宮:聖徳太子の別称)を滅ぼし、大和の朝廷で権勢を振るう大豪族・蘇我一族の蘇我蝦夷(そがのえみし)、その子入鹿(いるか)は専横を極め、天皇家を凌ぐ力をもった。 

しかし、中大兄皇子らのクーデターで宮中での蘇我入鹿は暗殺、蘇我蝦夷は自殺した。 
この蘇我宗家の滅亡事件をこの年の干支に因んで乙巳の変 (いっしのへん) という。 その後の中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足らによる一連の改革を、年号「大化」としたため大化の改新と呼ぶに到った。


《追記》
以前から奈良の明日香村ではキトラ古墳や高松塚古墳といった。
飛鳥時代の古跡が発見されていて、周辺には石舞台や大型建物跡の遺跡も見つかっていた。 

又、本年(2005年)、今度は蘇我一族の館、特に、理想と野望の独裁者と言われる「蘇我入鹿」の邸宅の一部とみられる建物跡が明日香村の甘樫丘(あまかしのおか・天皇の宮殿のあった飛鳥盆地を見下ろす超一等地)で見つかったという、事実であれば世紀の大発見とも言われる。
これらの事柄は、乙巳の変、大化の改新、壬申の乱(じんしんのらん)といった事件の中で日本書紀に記載されている事項と一致する部分もあるとか。 

元来、古事記や日本書紀は伝説、伝承部分が多く、事実、真実は少ないとされてきたが、昨今の遺跡の発掘等によって、これらの史書の信憑性が高まるのではともいわれている。
 

白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)にして、また三大温泉地に数えられる湯処である。


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白良浜沿いの浜通りから入ってすぐ、銀座通りに「足湯横町」なるものが真新しく出来上がっていて、足湯に浸かりながら飲み物や軽食を食することが出来るという。
全国初の試みとか・・??、何ともユニークでご満悦なことだろう。

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尚、「熊野地方」については、世界遺産・「紀伊山地の霊場と参詣道」に記載しています。

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次回、更に「白浜



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「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)
八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

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2010年11月23日火曜日

日本周遊紀行(44)すさみ 「枯木灘」

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日本周遊紀行(44)すさみ 「枯木灘」 ,


枯木灘残照」・

左に串本の人気スポット「串本海中公園」を見ながら、「すさみ」へ到る。
すさみ」とは、ひらがなの妙な名前だなと思ったが、元々は「周参見」であり、周参見村が前身であった。 
読み難いので安直に「すさみ」にしたのだろうか・・? 


こちらにも大辺路街道の熊野古道が残る地域である。
JR周参見駅の国道42号沿いから、途中山間に分け入って、熊野灘を望む屈指の景観と往時の佇まいを残す、「長井坂」を抜けて見老津駅(みろつ)にかけてのコースである。
周参見の街外れ、周参見川辺りには熊野古道所縁(ゆかり)の「周参見王子神社」が残る。

古くから紀州の海、周参見の沖合いを航海する船乗りの間では、この地方を「枯木灘」と呼んでいた。

明治43年(1910年)発行の「周参見村郷土誌」には、『 周参見港より以南二色の袋港に至るの海上数十里一帯を枯木灘と称し、古来東牟婁郡大島港出港の上り船は、周参見港湾に寄港して風を避くるの外他に良港無きを以て、其海上を枯木と称し船人警戒するところなり、 』とあって、古くから呼称されていたことが伺える。

和歌山県が昭和29年、県立公園として「枯木灘海岸」の名称で制定し、周参見町と江住村の境界から、串本町有田の錆浦までの地域を指していた。

この枯木灘の参見駅湾に浮かぶ「稲積島」がいかにもいい。
神武天皇ゆかりの島というが、神武東征の折、食糧の稲をこの島に積み上げたという伝説からきた島名であるといわれる。 
青の海面に半円状のホッコリして浮かぶ緑濃い島で、色彩コントラストが良くここから望む夕景もまた絶品という。

地元紀州・新宮出身の作家・中上健次が長編小説『枯木灘』を描いている。
中上健次は1975年(昭和50年)、『』で第74回芥川賞を受賞している作家で、所謂、「紀州サーガ」と呼ばれる紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、独特の土着的な作品の世界を作り上げた。

又、最近では@歌手・都はるみが『枯木灘残照』を歌っていた、残照とは日が沈んでも、なお空に残っている光や夕焼けをいう。

枯木灘残照』  詞 道浦母都子

両手(もろて)にて君が冷えたる頤(おとがい)を
包みていしは冬の夕駅
君に妻われに夫(つま)ある現世(うつしよ)は
姫浜木綿(ひめはまゆう)の戦(そよ)ぐ明かるさ
歳月(とき)はながれて 歳月はながれて いまひとり
あゝ残照の枯木灘
 

歌の文句はチョッと判りにくいが、@歌人・道浦母都子(みちうら もとこ)の文語調の歌詞が良い。



紀伊は、紀伊山地と言われるほど、重畳たる山脈でその殆どは覆われている。 
しかもこの地域は日本一雨量の多いところである。 
折り重なるような山稜の間を、屈曲しながら多くの河川が急流を成して、太平洋、熊雄灘に落ち込んでいる。
これらの河川は上流、中流をとわず多種多様に造形されて自然の景勝を見せている。

@日置川は紀伊山地のほぼ中央部に水源を発し、中辺路や大塔村を経て日置川町、熊野灘、枯木灘に注ぐ、途中、日置川峡谷をはじめ多くの景勝地が見れる。 
水量も年間通じて多く、アユ釣りの本場であり、カヌー族のポイントでもあるという。

@日置川町は古座川同様、河川名を地域名にしていて、河口付近は巨大な中洲を形成している、このあたりも古座川に類似している。 
国道42は新道、旧道が折り重なるように、日置川の中洲を渡る。

日置の町はそんな河口のデルタ(三角州)地帯に、正に川と海の狭間の三角地帯に形成されているユニークな街である。
町のキャッチフレーズにも「山と川と海の街」と、真にズバリである。 
町の西側海岸は「志原海岸」といって、日置川が運んできたのだろう小さな玉砂利の明るい開けた浜辺が続く。

近くに「道の駅・志原海岸」が在ったので、小休止して、後は今夜の目的地「白浜」へ向った。

次回は「白浜



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2010年11月19日金曜日

日本周遊紀行(43)串本 「潮岬」

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 日本周遊紀行(43)串本 「潮岬」  、



潮岬灯台


潮岬で「地球の丸さ」を感じる・・??、

古座町の国道海岸を行くと、陸続きのような大幅な「大島」が至近である眺められる。
海岸を更に行くと、その大島に向って奇妙な岩の柱が縦隊になって並んでいる、名勝「橋杭岩」である。

詳細は別項、「世界遺産・南紀熊野」に記載
http://orimasa2005.web.fc2.com/nk-2.htm



日本中の海岸線を走っていて、海辺の風景を眺めるにつき壮絶なる断崖絶壁や多種多形の奇岩怪岩を目にし、自然の悪戯(いたずら)に思わず息をのんだり、呆れたりする。
昨年の東日本周遊の時で印象的だったのは、青森県・下北半島の佐井村の「仏ヶ浦」であろう。
国道(R338)が近くを通っているとはいえ、一般観光客には近ずき難く、人跡僻地のような海岸に奇岩が幾重にも屹立しているのである。
この橋杭岩は仏ヶ浦には及ばないにしても、弘法大師の伝説も有り、西日本では有数の景勝地であろう。


串本の街中より潮岬の灯台・・、

潮岬は、串本と砂州で結ばれた陸繋島(りくけいとう・砂州によって陸地とつながった島、潮岬・函館山など)で、この陸繋島全体を潮岬と言っているようである。
陸繋のつながった部分は殆どが串本の市街地となっていて、国道、鉄道も岬本島の陸繋部分にのりあげているようである。

潮岬へ向かうには西寄りの海岸を行くようになる。 足下の岩礁地帯が不気味である。 
対岸の海岸線もすっきり見えて、串本の海中展望塔らしき建物もぼんやり覗える。 
岬に着くと、そこは、さっぱりした広場は芝生で覆われていて(望楼の芝)、のんびりリラックスできそうである。
本州最南端の石碑などが設置してあり、眺めるまでもなく太平洋は絶景で、地球の丸さが実感できるのである。


「地球の丸さ」・・??、

ここで『閑話休題』、地球の丸さを机上で実証してみよう。
北海道・室蘭の「地球岬」でも記したが、水平線や地平線が丸く見えて、これが「地球の丸さ」を現しているというのはどうも錯覚らしく、地球の「丸み」は人の目の視界が感じさせるのだといわれる。

実際、或る大型客船の乗組員が4~50mのマストの上から見ると水平線は丸く見え、(どう見ても角ばっては見えないだろう)その水平線までの距離は10数kmにすぎないという。
つまり半径10数kmの円の弧(円弧=水平線)を見ていることに成る。 
因みに、富士山(標高3776m)から見える水平線までの距離は凡そ220kmといわれ直径・440kmの円が見えてることになる。

地球規模で計算してみと、地球の平均半径を6000km(実際は6371km)とする、これを1億分の1に縮めると半径6cmの円 となる。
ノートに描くには丁度良い大きさで、実際に円を鉛筆で書いた場合、周囲の黒い線の幅は約 0.5mmとして、0.5mmを1億倍すると50kmになる。 
エベレストの山頂は8850mであるから、当然この線の幅の中に入ってしまう。 
これに人間の絵に描くとすると、人間は細菌より小さくなる。
序に、旅客ジャンボ機の飛行する高さは凡そ10km、積乱雲の高さは最も高いものでも20kmぐらいで、通常の人間の活動は、この「鉛筆の線の幅」の中に入ってしまうのである。 
つまり地球は、これほどデカイのであり、丘の上から海上の水平線を見て、「地球は丸い」と思うのは錯覚らしい。

地球の丸さを実感するには、昨今の映像からも判るとおり、どうやら人工衛星なみの高度(300~1500km・静止軌道35000km)以上が必要ということになるらしい。
 



本州最南端に位置する潮岬灯台は、岬の突端に真っ白な姿で立っていた。

多くの灯台は、人里離れた小高い山の上などにあるのが普通だが、潮岬灯台は公園の一角にあり、皆がくつろぎながら身近に感じる灯台である。
灯台の基部には資料室、展示室らしい四角い建物が付帯し、灯台上部には見学用の展望テラスも在る。
小生は時間の都合で入場は控えた。


江戸末期、多発する海難事故にそなえて幕府は、イギリス・フランス・オランダ及びアメリカ四カ国と締結し、江戸条約というのを結んで主用地に灯台建設を決めた。

観音埼・剱埼(神奈川・三浦半島)・野島埼(千葉房総)・佐多岬(鹿児島大隈半島)・潮岬そして、隣の大島の樫野埼等・・、これらの灯台を「条約灯台」と言われるていた。
条約灯台とは、イギリス公使パークスから提示され、各国代表者との商議して決められた約束のもとに建設された灯台のことである。

潮岬と大島東端に立つ樫野埼灯台は、閃光灯の灯台としては明治初期には開設した日本最古のものといわれる。 
設計と建設指導者は、イギリス人技師「リチャード・ヘンリー・ブラントン」という人によって行われた。 

彼は、8年間日本に滞在して、困難に立ち向かいながら日本全国の沿岸に30余りの主要灯台を建設し、日本の灯台システムを確立した人物で、日本の灯台の父といわれる。
彼の胸像が横浜に貢献した人として、横浜スタジアムのある横浜公園の中、日本大通に続く入口近くにある。 台座の銘板に「リチャード・ヘンリー・ブラントン Richard Henry Brunton 1841-1901」とある。



串本・大島は実際の島で、途中、苗我島を挟んで二つの橋で結ばれている。 樫野埼灯台は大島の東の岬にある。 
この大島は「エルトゥ-ルル号遭難地」としても知られている。

明治23年、宮様夫妻(小松宮彰仁殿下)がトルコを訪問し国王に拝謁した答礼として、オスマン・トルコ帝国(現、トルコ共和国)のアブドル二世は、明治天皇への特派使節としてオスマン提督を日本に派遣した。 使節団650人は横浜港に入港し、3ヵ月間、両国の友好を深めた後、エルトゥ-ルル号は日本を離れ帰路に就いた。 

しかし、この時期、猛烈な台風に遭い、紀州・和歌山の串本沖で沈没してしまう。
このとき乗組員中600人近くが死亡したといい、69人は地元民・大島の村民による懸命の活動により救助された。
そして後に、日本の巡洋艦でトルコに送還されたのだったが、このことは、善意の遭難事件としてトルコの歴史教科書にも掲載され、国内でも同様で、当時、子供でさえ知らない者はいなかったという。 

その後、イランイラク戦争時の邦人のトルコ航空機による大量救出(NHKの「プロジェクトX」で両国に放送された)やトルコ大地震の義捐等、トルコと日本の間では、この遭難事件が縁で今も密接な親善関係が続いているという。

熊野灘の海流激しきこの海域を、本州最南端の潮岬灯台は西の海域を、大島の樫野埼灯台は東の海域を今も照らし続けている。


串本節』 和歌山民謡

ここは串本 向かいは大島
仲をとりもつ 巡航船
アラヨイショ ヨイショ
ヨイショ ヨイショ ヨイショ

潮の岬に灯台あれど
恋の 闇路は照らしゃせぬ
(以下繰り返し)

一つ二つと橋杭立てて
心とどけや 串本へ

串本といえば、この歌にあるように大島へは連絡船が売り物であった。
近年は串本大橋が架橋されて車で便利にアクセスできるようになり、時代の流れを感ずる。
 
次は、周参見の「枯木灘



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2010年11月17日水曜日

日本周遊紀行(42)古座 「古座川」

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 日本周遊紀行(42)古座 「古座川」  ,



清流・古座川と水爆実験の犠牲・第五福龍丸の因縁・・?、

紀伊浦神は静寂な浦神湾に面するが、熊野の古道はここを起点に熊野灘から分かれ山間に入りこんで、小さな峠越えを繰り返しながら那智の浜をめざしている。 
古道は浦神駅から国道やJRと別れて裏手の道に入り、休平を越えてその先太田川、市屋峠、ゆかし潟へと進む。

道の途中には石の階段、地蔵尊の道標等、古道の面影が随所に残り、コースの途中には先に通過した湯川温泉・南紀勝浦温泉等といった名湯も点在している。
ゴールの浜の宮王子(補陀洛山寺)で本道(R42)と再び合流し熊野速玉大社へ向かっている。


紀伊田原から古座の町に入る。

ほぼ中央に一級河川の古座川が流れる。 
海岸よりは「古座町」であるが、内陸部には古座町でなく「古座川町」もある。 むろん古座川を中心とした街で、町名の由来も川の名を当てたものであろう。 
清流・古座川は天柱岩、一枚岩、滝の拝といった10kmにも及ぶ奇岩巨岩が並び、上流では、まぼろしの滝、七川ダムといった名勝、景勝が並ぶ渓流でもある。


古座川河口付近には巨大な中洲がある。
現在は草むして水鳥たちのコロニーとなっていが、克っては住宅や工場が建ち並び、上流部には広場があって各種の興行や運動会なども開催されたという。
その中洲の下流部には木造漁船を造る造船所があって、一昔前の1947年(昭和22年)、かの「第五福龍丸」がここで建造されたという。 
そして、竣工した第五福龍丸は、日本有数のマグロ基地である焼津に引き渡された。

そして、1954年(昭和29年)3月、遠洋航海のマグロ漁にでた第五福龍丸は、中部太平洋・ビキニ環礁で行われたアメリカの「水爆実験」で被災し、「死の灰」を浴び、23人の乗組員が急性放射能症となったことは年配者の方ならご存知かもしれない。


乗組員たちは・・

『 夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱(せん光)が天に向って立ちのぼるのを目撃、空は黄色みがかった白から赤に、そしてオレンジに染まり、船員のひとりは、「太陽が西からでた」と叫んだ。その6、7分の後、大爆音があたりをゆるがせ、やがてキノコ雲が・・』
広島に投下された原爆の約1000倍の威力という。 

そして、被爆から半年後「久保山愛吉」氏が死去した。
間際に臨んで「 原爆被害者は、私が最後にしてほしい・・! 」と絶叫しつつ死んだという。

当時の世相は東西冷戦の最中と朝鮮戦争休戦後という状態であった。
そのため、日本国内で起った強烈な反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「 米国の責任を追及しないこと 」との確約を日本政府から受け、事件の決着を図ったよいう。 
そのため被災者に渡った補償金は微々だったともいう。

実験後の死の灰や残存放射能の影響で、マーシャル諸島周辺には健康被害者が多発、政府に認定された島民は2003年末で約1870人に上り、うち約840人が死亡したという。


映画・「ゴジラ」の真意は・・?、

といころで、「ゴジラ」という映画はご存知の方も多いが、このビキニ環礁の水爆実験が映画のできるきっかけになったことは余り知られていないようだ。

ゴジラ」は水爆実験で太古の眠りから覚め放射能を帯びた怪獣となったゴジラが東京湾に上陸し、超高温の放射線を吐きかけて人間や建物を次々と消し去り、破壊していくという。
この映画は後に「 原水爆の恐怖と戦争の悲惨さを怪獣という形で象徴させた反戦・反核映画 」ということで評価も生んだ。


古座町には、「第五福龍丸」建造記念碑があり、東京・新木場「夢の島」にも、都立・第五福龍丸展示館があるという。

平成17年4月1日、和歌山県古座町は、串本町と合併し「串本町」となっている。

次回は、串本・「潮岬


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日本周遊紀行(41)新宮 「神倉神社」

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 日本周遊紀行(41)新宮 「神倉神社」  ,



巨大な岩塊がご神体の「神倉神社」



熊野川を境に三重県から、「紀の国」・和歌山県となる

河口付近の大河・熊野川は、熊野神社(速玉大社)を抱くように、巻くようにS字状に屈曲蛇行しながら流れる。
本来、川は急激蛇行などを嫌い、河跡湖(三日月湖)などを形成しながら、直線に流れようとするのが自然である。 だが、この地は堅い岩質である千穂ヶ峰・権現山という山塊に阻まれているためである。 


千穂ヶ峰の北部中腹には、御燈祭などで知られる「神倉神社」が鎮座している。
速玉大社は、元々は神倉山に祀られている神倉神社が元宮であったが、後に現在地に遷宮された社であり、そのため神倉山の古宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになり、町名の由来にも成っているという。

現在の神倉神社は、熊野速玉大社の摂社にあたり、新宮市西端の権現山の中腹に社殿はある。
神社社殿は急斜面の参道の上にあり、参道は見る者を圧倒するほどの、自然石を組み合わせ、積み重ねた数百段の石段からなる。 社殿裏には巨岩群があって、これが神倉神社の御神体の「ゴトビキ岩」と呼ばれるものである。


岩塊の周囲は注連縄で括(くく)られている。
ゴトビキ岩の下からは、弥生時代の遺跡である銅鐸などの破片も発掘されていて、おそらくは昔の縄文時代の祭事場ではないかと想定されている。
神道や神社などというものが存在する以前にゴトビキ岩は神として崇拝されていたのであろう。

古代の人は絶壁の上に神が宿ると信じていたらしく、自然岩を神体としているのは、先に記した「花の窟神社」や、滝を御神体とする那智の「飛瀧(ひろう)神社」とともに、古代の熊野の自然崇拝の姿を今日に伝えているものとされる。

熊野三所大神(熊野三山の神)が、熊野において最初に降臨した聖地が神倉山とされ、神倉山は熊野の根本であるとも考えら、熊野根本大権現とも呼ばれた。 

今でこそ速玉大社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)であるが、本来は速玉大社の御祖神であったのである。
尚、速玉大社など新宮周辺の所縁地については、別項で記載してます。

日本の世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道



新宮の市域は、大半が熊野の山地である。 
狭い街の中央を国道42号が南北に貫通していて、市の外れよりR168が熊野川に沿って、その上流域である「瀞峡」や「熊野本宮社」へ向かっている。


小生はこのまま国道42号線を下る。 

宇久井の浜、赤色海岸と海の蒼を堪能しながら、紀勢本線(愛称・きのくに線)と並行しながら、那智勝浦の町へ入る。
那智大社方面へ向かう道の角に「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)がある。
世界遺産にも登録され、平安初期、南方に補陀洛浄土(海の彼方にある極楽浄土)を目指し渡海する上人達の出発点として知られてる。 


補陀洛渡海とは・・

生きながらにして小さい船に閉じ篭もり、観音浄土を目指すという。
つまり、生きたまま海の彼方にある観音浄土へ向い、生身のまま成仏(じょうぶつ)・即身仏(そくしんぶつ)になるという、日本宗教史上における稀有な現象として知られ、チベット仏教伝来の修行信仰の一つとされる。

補陀洛山寺は渡海上人を送り出し、また、その上人を御祭りしているお寺である。
現在は御堂が僅かに1棟座してはいるが、由緒ある寺院で「世界遺産」にも登録されている。
尚、詳細は日本の世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道』へどうぞ。



南紀・東海岸から・・、 

国道沿いには那智勝浦温泉のホテルの各種看板が目立つ。 
中でも那智勝浦港への大きな案内版があり、港はこの国道より2kmほど先に在る。
この港の周辺が「勝浦温泉」の中心で、入江や岬、島に巨大ホテルが乱立している。
中でも、先般、我ら夫婦が泊まった「ホテル浦島」は、この地域で1、2を競う大きなホテルで独特な温泉である「大洞窟温泉忘帰洞」でも有名である。  (詳細は別項リンクに記載) 

南紀勝浦温泉は、良質の温泉と熊野三山周辺の行楽観光の拠点として人気があり、さらに昨年(2004年)熊野三山周辺地域が世界文化遺産に指定されたことで、一層の賑わいをみせるだろう。



湯川トンネルを抜けると湯川温泉・・、

その昔熊野詣での湯治場として栄えたといわれる由緒ある温泉場である。 
一昔前は、こじんまりした温泉街であったが、R42の新道建設で分断され、中途半端な位置づけにされたために観光客が少なくなったといわれる。 
近年は、豪奢な勝浦温泉とは一線を画す方針を貫いており、保養、湯治を中心としている家庭的な小型旅館が数件存在する。 
当然、遊興ムードとは一切無縁で、根強いファンも多いという。


温泉場の一角、国道のすぐ右手に共同浴場の「桜湯」があったので、入浴することにした。 
建物のすぐ前に車を止めて、シャレタ引き戸の玄関から入る。
手持ち無沙汰のオバサンに、チョッと高目の500円の入浴料金を払って早速湯船に浸かる。 
他に客は無く、独り占めの貸切状態である。 お湯はさらりと透明・無臭で、とりたてて特徴は無いようであるが、檜の露天風呂は緑の景色が穏やかで良い。 
この湯場は、公営の浴場かなと思いきや、私的なもので隣の「旅館さくら」と同一であった。


この先の国道沿いに「ゆかし潟」という、妙な名称の「汽水湖」(淡水と海水が混じり合う瑚)がある。
湯川海水浴場まで細い水路でつながっていて、そのため小さな汽水湖を形成しているらしい。
多くの車が行き交う国道42号線沿いにありながら、湖のような静かな佇まいを見せていて、春は桜が咲き誇り、冬には多くの水鳥が訪れるという。


温泉でさっぱりして先を急ぐ、湯川のシーサイドを抜けると丘陵地帯になる、左に大きな岬半島が見えてきた。鯨で有名な「太地」の岬である。 
400年も前から鯨の町として知られ、昨今では国際捕鯨委員会(IWC)による日本の商業捕鯨の中止によって、図らずも衰退してゆく。

優美な玉ノ浦の入江海岸を左に眺めながら、突端にあたる「紀伊浦神」へ至る。 
古来、この地の「玉の浦」は、熊野海道・大辺路の中でも風光明媚な地として知られ、熊野往来の道すがら、万葉歌人らが多くの詩を残している地でもある。


『 荒磯(ありそ)ゆも まして思へや 玉の浦の 
               離れ小島の 夢にし見ゆ
 』  詠み人知らず

(荒磯よりもいっそう心惹かれたからか、玉の浦の離れ小島を夢にまで見えることだ)



ところで、世界遺産に登録された熊野古道は「小辺路」(高野山を起点として熊野本宮大社へ、高野街道)、「中辺路」(田辺市から本宮大社~那智大社から補陀洛山寺の浜の宮王子へ至る内陸山間の遍路道)、「大辺路」、「伊勢路」、「奥駆け道」等がある。 大辺路は、中辺路に対し海の道に当たり、田辺市から新宮速玉大社に到る、概ねR42に沿っている。
実際に世界遺産に登録されている古道は歴史的遺産ということで、条件としては痕跡を整備し、古跡が残っていて、しかも現在でも活用可能であることらしい。

日本の世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道


小生は、今後この所謂昔の「大辺路」か、大辺路に沿いながら紀州の和歌山を経て攝津の大阪まで巡ることになる。

次回は「古座川



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2010年11月15日月曜日

日本周遊紀行(40)熊野 「花の窟神社」

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日本周遊紀行(40)熊野 「花の窟神社」 ,



巌魁が御神体の「花の窟神社」



伊弉冊尊(イザナミノミコト)の御陵とされている「花の窟」 ,

獅子岩から1kmほどの先の右手に巨岩が林の間から見え隠れしている。 
こちらが「花の窟」と言われる、その名も「花の窟神社」(はなのいわや)である。

この巨岩塊が花の窟神社の御神体であり、高さ70mに及ぶ岩壁が聳えている。
小さな鳥居の脇には、似合わぬ程の大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」と記されていて、その奥には社のような建物のようだが、実は社殿では無くチョット似合わぬが神門のようなものであろう。

この神社は、本来の社殿がなく拝殿のみであり、まさに「自然崇拝、自然神信仰」の神社なのである。 地元の人々はこの神社に日本中の八百神(ヤオヨロズノカミ)が、遊びに来られると信じているようである。

主祭神は日本創生の神・「イザナミの命」であるが、ここは、イザナミの墓がある場所ともされている。 
全国に、イザナミ神を祭る神社は幾多もあるが、「御稜」(尊い方の墓地)として存在している場所は唯一ここだけといわれ、この岩盤の向こうは、黄泉の国へ通じる場所とも云い伝えられている。
実際には、縄文期頃の古くからの漁民の葬送地、祭祀の遺跡ともいわれ、花の窟の名称は太古から花をもって祀る土俗・風習があったからと言われる。

花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火の神・加具土命(カグツチノミコト)を産み、この地で亡くなったとされ、後に葬られた御陵であるといわれる。
この花の窟には無数の洞窟があり、又、巌の表面には窪みが数箇所ある。 
これらは死者の霊が一旦とどまる場所、他界への入り口という信仰があって、昔は近辺に水葬の伝承もあることから、水葬の基点として神聖視されたとの説もある。

又、岩の窪みが女陰の形に想定されることから母神である伊弉冊尊を祀り信仰していたとする説もあり、 至近の新宮市に鎮座する神倉神社の御神体である「ゴトビキ岩」を陽石(父神)として、花の窟と対をなすとの見方もあるようだ。

神社は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続き、信仰は厚いという。

境内の案内板に・・、

『 神代の昔より花を供えて祭るので花の窟という。 窟の頂上より掛け渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり 』

と記されている。

「日本書紀」に記されている事が今に引き継がれ、2月2日と10月2日には神々に舞を奉納し、地元・有馬の氏子や人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。 

綱は藁縄7本を束ねて花をつけた3つの縄旗で、日本一長いといわれる約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木に渡すという。
この神事は太古の昔から行われていて、「三重県無形文化財指定」されている。 


花の岩屋」の石碑は、紀州藩・徳川宗直(ムネタダ)が1723(享保8)年に寄進したものと言われ、国学者・本居宣長も

『 木の国や 花のいは屋に 引く縄の 長くたえせる 里の神わさ 』

の歌を詠んでいる。



又、この地は熊野三山参詣の本宮社と速玉社(新宮社)の分岐点に当たり、いわゆる熊野古道として残されている。 
伊勢道より遥々やって来た参詣人達は、先ずここ「花の窟」をお参りして、其々、本宮大社、又は、速玉大社(新宮大社)に向かうのである。




さて、次に向かおう・・

沿岸地域に迫る重畳たる紀の国、木の国、鬼の国の山塊も、鬼ヶ城、獅子岩あたりで終わりをつげ、今度は対照的に明るく開けた、そして、ほぼ直線で平坦な熊野灘の海岸を行くことになる。 
実に開放感たっぷりで気分も爽快である。 
すぐ右手に紀勢本線のローカル列車がのんびりと走っている。 左は防風林と思しき青松群が平行していて、時折、紺碧の海原がキラリと光らせている。

ここは御浜町(みはま)の「七里御浜・ひちりみはま」で、町名が先か地名が先かは定かでないが、この浜は特徴ある浜様を呈しているようである。
道の駅「パーク七里御浜」もあったが、その向い側の浜辺の休憩所・阿田和PAに車を止めて海辺をのぞいて見た。 

遥かなる水平線の青松と白砂の海岸(・・?)が延々と続いている。 
浪打際をよく見ると、白砂と違って玉砂利が敷きつめられた砂礫の海岸であった。 
これが、ゆるやかに円弧を描きながら延々と続いている。そんな風景を見るだけで、気分が晴れ、大らかになれるが気分がする。

気が付くと、小波が打ち寄せるときもそうだが、返す波の時に小石の転がる音が、「シャラシャラ」と何とも心地良い音がよく響いてくるのである。 
これらの玉砂利は「御浜小石」と呼ばれ、黒色や青色、オレンジ色などカラフルで、色の模様や形も多彩なためアクセサリーとしても人気を呼んでいという。 
そういえばこの地方は碁盤の黒の碁石である「那智黒石」の産地でもあった。 

半島を流れる急流河川の熊野川が途中で岩盤や地質帯を渓谷が削り、砂礫となって御影石やカラフルな縞模様の石などになる。 玉砂利の海浜では日本一長いとも言われる。
序でながら、この玉砂利は素足で歩くと健康に良いといい、昨今の健康ブームでこの浜を素足で歩く人が増えているという。



「花の窟」付近からは熊野本宮へ到る道が今のR311号線として分岐している。 
神木から阪本の間には横垣峠道、そして風伝トンネル付近は風伝峠道と、いずれも古来の熊野古道の雰囲気が残っているという。 

尚、R311は熊野川・瀞峡、本宮社から大峯山、吉野山と龍神から高野山と近畿主要地を縦断する東側の入口にも当たる。 又、本宮社より熊野街道・中辺路を経て、西海岸の田辺に至る。 


紀勢本線の「鵜殿」の駅前を過ぎ町内を通り越すと、視界を左右に振る程の広大な川幅を有する熊野川が、水の動きもユッタリとして流れ動いている。 
川岸を走って熊野大橋にかかる頃には、向う岸にこんもりした森が見渡せる。
既に新宮市であり森は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」である。

地域は既に「紀州・和歌山県」に入っていた。


熊野三山は、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(はやたまたいしゃ)、熊野那智大社(なちたいしゃ)の三つの神社の総称で、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

尚、世界遺産に関した「熊野三山」界隈は別項・に記載してあります

世界遺産: 『日本の世界遺産』 
世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道


次回は新宮・「神倉神社


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日本周遊紀行(40)熊野 「熊野地方」

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 日本周遊紀行(40)熊野 「熊野地方」  ,



熊野市と熊野地方

地域は既に熊野、正しくは「熊野市」に入っていた。
熊野というと、普通、熊野地方のことで紀州・和歌山の地域と錯覚しそうであるが、熊野市はれっきとした三重県である。
三重県は通常は名古屋圏、中京地区で東海地方(東海三県:愛知、三重、岐阜)とも言われるが、こと熊野市に到っては県の最南部、紀伊半島に深く入り込んで和歌山県と接している。 
従って、市は歴史、風俗、習慣とも紀州圏・熊野地方の属していると見るべきだろう。

尤もで、市の中心市街地は古くから木本地区で、この地は奥熊野代官所が置かれ、熊野地方一帯の行政の中心であった。 
それゆえ明治の廃藩置県で三重県に編入された時には支庁がおかれ、現在も三重県の熊野地方を管轄する官公庁が多く存在するのである。



クマノ(熊野)とは一体如何なる意味をもつのか・・?、

一般に「熊野」とは、熊野三山が鎮座する所謂、熊野地方をいうが、嘗ての紀伊国・
さて、「熊野」という地名が何を意味しているのか、語源としては定かでないが、「クマ」、「カミ」で「神のいます所」や「クマ」は「こもる」で「神が隠る所」の意、又、「クマ」は「こもる」で「死者の霊魂が隠る所」の意、と諸説はある。

いずれにしても「熊野」とは開けた明るいイメージはなく、木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地という意味合いが強い。 
実際、熊野3600峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の厳しい所が多く、人が農耕をして暮らすにも不便な場所であった。
飛鳥以前には、それこそ熊野は「神のいます所」、「神が隠る所」で神域であった。


熊野の地名が初めて登場する文献「日本書紀」では、熊野は伊邪那美神(イザナミ)の葬られた土地として登場する。 その墓所は市街隣地「花の窟」というところであった。(次回詳細)

奈良期になって仏教が倭国に入ってきても大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界として意識されていた。 
従って、人々は熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、この事が高じて後に死者の国である「浄土」と結びつけられ、浄土信仰が盛んになったとされている。

後の神仏習合という新しい思想では、熊野三山である「本宮」は阿弥陀如来の西方極楽浄土、「新宮」は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、「那智」は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。


熊野が広く世に知られるようになったのは平安期以降で、都・宮中での上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われ、熊野信仰に熱が入り、熊野は浄土信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立した。
その後、貴族が止むようになると武士や庶民による熊野詣が盛んになり、参詣道も整備されて遂には「蟻の熊野詣」とも称されるようになった。

現代においても、それらの信仰は曲折があったにせよ世代に引き継がれ、又、これら諸々の施設である遺跡や遺産は、一般無信仰の人々にとっても好奇の対象とされ観光化されてていって、相変わらず多くの人を参集しているのである。

そして、遂には世界遺産:「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されるまでに到った。

世界遺産には神仏習合「熊野」以外にも紀伊山地では修験道の「吉野」、密教の「高野山」と三つの異なる宗教の山岳霊場が選ばれ、それら三大霊場を結ぶ参詣道である「熊野参詣道」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」などが選定されている。

或る著名人が、この紀伊山地の世界遺産の重要性、特徴的で、尚且つ異色なのを次のように挙げている。

『 それは三つの霊場がそれぞれ「異なる宗教」の霊場であるという点です。修験道の吉野、神仏習合の熊野、真言密教の高野山。異なる三つの宗教の霊場が紀伊山地にある。それぞれが在るだけでなく熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。このことはとても大切なことだと思います。 神と仏が敵対するのではなく、融合し、共存している。異なる宗教が敵対せずに共生している。この共生の文化こそが世界に誇るべき日本の文化遺産なのです 』・・と。



尚、熊野地方の世界遺産については、別項に記載してます。


日本の世界遺産リンク: 『日本の世界遺産
熊野の世界遺産リンク: 『紀伊山地の霊場と参詣道



次回は熊野・「花の窟神社



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2010年11月13日土曜日

日本周遊紀行(39)尾鷲 「紀伊の鬼」

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日本周遊紀行(39)尾鷲 「紀伊の鬼」 ,


三重県熊野市木本町の海岸にある鬼の国の象徴・「鬼ヶ城」




一鬼から九鬼、九鬼義隆、「鬼が城」そして鬼は修験道に通ず

尾鷲」はNHKのラジオ第2放送の気象通報でお馴染みの名称である。
「おわせ、風力3、晴、1013ミリバール」(今はミリバールとは言わないが・・) 

ところで尾鷲の北部地域の大台ケ原や大杉谷あたりは日本国内で最も雨量の多いところである。 この尾鷲では1968年9月26日、最大日降水量(1日の降水量)806mmという、とてつもない雨量を観測している。 これは地域別にみると、国内の最高記録になっているという。

市の後背部は広大な山域を有し、温暖多雨な気候と合い間って尾鷲は林業が盛んである。
中でも「尾鷲ヒノキ」は、鮮やかな赤みと強靱な良質の材木として全国的にもその名を知られてる。

又、江戸期から良港として知られている尾鷲漁港はブリの水揚げでも全国有数を誇るよいう。 大正期には一面の浜は、足の踏み場が無いほど大漁が続いたという。
九鬼岬の氏神・九木神社の例祭はブリ漁が本番を迎える1月に行われ、「鰤(ブリ)まつり」としても有名だとか。
この九木神社は九鬼氏の祖を祭ってあり、その九鬼の祖は藤原隆信という説もある。
そして地名の九鬼は、あの九鬼水軍発祥の地であるともいわれる。(前項、英虞湾でも述べた) 
尾鷲の九鬼は市街地を抜けてR42が分岐するR311を行く、長い「九鬼山トンネル」を抜け入り江に出たところが「九鬼の浦」である。

南北朝の頃に佐倉中将(伊勢国、四日市奥の佐倉)と呼ばれた藤原隆信は、吉野南朝の宮廷に仕えた宮人であった。 
戦乱の末、九木浦へ落ち延びてからは藤原姓を改めて「九鬼氏」と称し、直ちに築城や水軍を養成したと言われる。
その後、勢力をのばし、紀伊の名族として知られるようになる。 

英虞湾の項でも述べたが、九鬼嘉隆は第九代目の分家にあたり、波切を舞台に水軍を主力として、志摩の波切から伊勢鳥羽へと勢力を広げ、五万石の大名へと出世する。 
だが、こちら本家の九鬼家はこれに反して衰退してゆくことになる。


その「九鬼」ついて 
くき」という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山や谷などを指すという。 
又、鬼は鬼道すなわち修験道のことで、「九鬼」のように上につけられた数字は修験道場の開かれた順番であるともいわれる。

平安時代から鎌倉・室町にかけて天台・真言などの修験僧や、また山岳信仰を奉じる修験者たちが各地に進出して修験道場を開いた。 
この熊野地方は新宮がその本拠で、新宮から1番目の市木は「一鬼」、二木鳥(二鬼)と東に向かい、尾鷲市内では三木里(三鬼)、七鬼、八鬼、そして九鬼と続くという。 
九鬼は、元はといえば修験道場として栄えた所で、それが地名になったのであった。

序ながら九木神社は南北朝時代、後醍醐天皇をお守りして南朝を奉戴し、初め「九鬼神社」であったが、徳川政権時代に入って北朝に縁のある徳川氏の命により、南朝に寄与した九鬼氏の名及び関係する呼名を改めて「九木」としたものであるという。 



国道42は熊野の山深い矢ノ川峠を行く
長いトンネルを越えた山中に「道の駅・熊野きのくに」が在った、そう、ここは既に熊野市である。 時刻も昼時なので軽い食事を戴き、合わせて紀の国、木の国、「鬼の国」の清涼な雰囲気をゆったりと味わう。

面白いことに
この道の駅・「熊野・きのくに」の経営母体は、「鬼の国・物流共同組合」という。 組合の鬼の字は、「オニ」と呼ぶか、「」と呼ぶか定かでないが、鬼の国からの由来であろう。 
この先の名勝に「鬼ヶ城」というのがあり、鬼は修験道に通じ深山幽谷、波濤打砕のこの地はいかにも鬼が出そうで妙に納得するのである。


吉野方面へ通ずるR309(東熊野道)と合流して、やがて熊野灘の御目当て「鬼ケ城」に出た。 
早速、「鬼ヶ城センター」為るものに500円の駐車料金を払って出向いてみた。
断崖絶壁、というほどでもないが岸壁が奇妙な形をしていて目を引く。 
人力で造作したと思われる岩場の階段には転落防止の鉄柵が施してあり、若干のスリルも味わえる。 

千畳敷と言われる「鬼床」は造ったような広い平面盤で、その上部の巨大な岩魁が覆い被さっている。 ここでは雨露も凌げ、波濤と遥か大洋面を望みながら鬼(修験者)が修行するには好適地であるようだ。
隅っこで地元のおばさんが地元産品の小店を気だるそうにを開いていた。

鬼ケ城」は、伊勢志摩から延々と続くリアス式海岸の南端に位置し、熊野の山塊が熊野灘に突落ちてくる岩壁が、永久の時の波蝕作用で出来上がった洞窟である。 
岩場全体が名勝で、古くから紀州名物として親しまれている。 
鬼ケ城の海岸線に沿って、約1キロの遊歩道があり、この間には、熊野灘の荒波の浸食による大小様々な洞穴があって、大きなものには夫々に名称が付けられているようである。

この「鬼ケ城」を中心として、地元有志会(熊野市観光協会)において、毎年8月17日に「熊野大花火大会」が開催されていることは全国的に知られている。 
各種スターマイン、二尺・三尺玉、海上自爆水中花火、海上自爆三尺玉、ナイアガラと見どころはつきない。
お目当ての見物(みもの)はなんといっても鬼ケ城仕掛けで、岩場や洞窟に花火を直置きするという荒技で、信じられないほどのド迫力の地上大爆発の連続が数分も続くという。 是非、一度は拝見したいものだ。



熊野灘に向かって吼える「獅子岩」


鬼ケ城のトンネルを抜けると、これまた名物の「獅子岩」が在る。
鬼ケ城ほどの大迫力とスペクタクルは無いものの、「日本のスフィンクス」(・・?)とも呼ばれる獅子岩は、高さ25m、周囲約210mの岩塊で、地盤の隆起と波の浸食によって造形されたもの。 
あたかも獅子が太平洋に向かって吠えているかのような姿からこの名が付いた。 学術的価値も高いものだと言われている。

次回、「熊野地方」



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日本周遊紀行(38)紀伊長島 「マンボウと古道」

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 日本周遊紀行(38)紀伊長島 「マンボウと古道」  .



「紀伊長島マンボウ」という道の駅・・?、

神武台峠は南島町と次の道程の紀伊長島町の町界にあたる。
峠からヘアーピンカーブを下り、新道の孫太郎トンネルを抜けると、内陸からやってくるR42と合流する。 
間もなく道の駅「紀伊長島マンボウ」で小休止とする。

紀伊長島までは判るが、マンボウとはいかに・・?、 聞くところ、マンボウは紀伊長島のシンボル魚となっているとか。
昔、紀州の殿様が領内を見まわりに長島浦(紀伊長島町)へやってきたとき、浦の人びとはお殿様に一番おいしいと思われる「マンボウ」という魚を食膳に出した。 
殿様は「 カツオはいつも食べてはいるが、このマンボウとやらははじめてだ。こんなおいしいものとは知らなかった。今後、浜に揚げたなら、必ず和歌山のお城まで届けよ 」と言った。 

浦の漁師たちは、すっかり困ってしまい、それ以来、長島浦の浜にはマンボウは一匹も揚がらなかったという・・??。 
ところが、漁方の家ではマンボウの肉を相変わらず食べていた。 実は捕まえたマンボウは、沖で切りきざみ形をわからなくしてから手桶に入れて家に持って帰ったからである。 
この習慣はずいぶん長い間つづき、戦前までマンボウは魚姿で長島の魚市に出されることはなかったという。

「マンボウ」はフグ科の魚類で、巨体と独特の体型が愛らしいのが特徴である。
全長4m、体重1500kgに達し、身体はタマゴ形で胸ビレが小さくて尾ビレがない。 尾ビレのように見えるのは背ビレと尻ビレが変化したもので、遊泳時はこれを大きく左右に動かして進む。 各地の水族館では人気者で、肉は白身で柔らかく、刺身(肝和え)や天ぷらなどで食べられて美味しいという。



紀伊長島は古来、交通の要衝といわれた

紀州の南海道を熊野古道の「大辺路」(おおへじ)と称し、新宮より東の「東熊野路」を経て紀伊長島に達する。 
更に、ここより北方内陸へは「伊勢路」で引き継がれ伊勢、松坂へ通じている。
総じて大阪・住吉から伊勢までを熊野街道熊野参詣道)ともいっている。(何れも2004年:平成16年7月世界遺産に登録されている。 世界遺産ついては後述)
現在は国道42号にある「荷坂峠」が紀州の玄関口となっているが、昔は荷坂峠の西に位置するツヅラト峠が熊野古道の主役であったという。

紀伊長島の北方、R42と紀勢線が交差する荷坂トンネルの北方に「梅が谷」(紀勢線の駅名でもある)があり、ここより西方向の栃古を経て「ツヅラト峠」へ至り、志古より紀伊長島に到る。 
峠は、大内山村と紀伊長島の町境であるが、昔は伊勢-熊野の国境でもあった。 
ツヅラトの名は「九十九折れ」に由来し、山道はまさにヘビのように曲がりくねっている。 

ツヅラト古道は約千年の昔、伊勢神宮より熊野三山詣での道として開かれた信仰の道であり、海抜357mの峠は熊野古道有数の難所でもあった。
峠の南側は約300mにわたって階段状の石畳が続くが、10世紀頃から民衆の力で築かれたものといわれている。
山間の大小さまざまな坂を上下しながら進む道は、容易に通行でなかったことが窺える。

様々にして坂道を登りつめ、この峠に立って初めて熊野の海「浄土に続く海」を見ることができたという。 
山脈の遥か向こうに補陀落極楽浄土、「補陀落」については後述)の光る海を眺め、巡礼の人々は信仰の聖域に辿り着いた実感に、疲れも吹き飛ぶ心地になったといわれている。
だがしかし、ここ紀伊長島の峠から熊野までは、まだまだ道のりは遠い・・!!。


伊勢と熊野の国境にあたる荷坂峠が、熊野街道のこのルートに転じたのは江戸初期の頃であり、昔からの難所でトンネルも多く樹林に囲まれた荷坂峠には、かつて茶屋も店開きしていたという。
江戸時代に刊行された「西国三十三所名所図会」には、
『 向こうを眺望すれば東海の蒼海・びょうびょうとして、風景言語に絶す 』
と、遠く広がる熊野灘への想いが綴られてる。

現在は、地元のボランテアの人々によって古(いにしえ)の古道はよく整備され、ハイキングと古道を偲ぶ歩道として人気があるという。 
今は国道42線が走り、海よりの荷坂峠越えに変わっている。

紀伊長島町と海山町(みやまちょう)の2町が合併し「紀北町」(きほくちょう)となる、時に平成17年10月。 海山町は文字通りの海と山の街であった。 
海山の路は尾鷲に向かっている。

次は紀伊海岸の「」とは・・?、


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「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


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01. 15.

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