google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」

2010年12月7日火曜日

日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」

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日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」



岸和田「ダンジリ」のポスター


「ダンジリ」の岸和田と楠木正成の係わり合い

加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る。
大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へ乗り、岸和田P・Aで一服しながら気が付くと、休憩舎の建物の壁に「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。 


岸和田に関して、チョッと歴史を紐解くと、
現在の岸和田地区は南北朝時代の初めの頃は、「」と呼ばれていたらしい。
1334年(建武元年)楠木正成の甥御・和田高家(正成の弟・正季の子)が、正成の命で「岸」に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれるようになり、 「岸」と「和田」で「岸和田」の地名の起こりになったと云われている。

江戸中期,藩主・岡部氏は城内三の丸に稲荷社を建立。 稲荷祭は京都の伏見稲荷を城内に勧請し祭礼を施したもので、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 1785年、例祭の際北町、大津から古い地車を借りたが、大きすぎて大手門が通れない為、杉丸太で柱を造り替え、城内に入ったという。
これが現在も行われている「だんじり祭」の地車引きの始まりとなったとされている。
江戸時代のだんじり祭は6月・8月・9月と年3回行われていたらしい。江戸期発祥以来約300年続いていて、現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。


岸和田の勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいい、東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。
岸和田では、特に「地車」と書いて「だんじり」と称しているようで、地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く四輪で重い物をひく車のこと。 

「ソーリャ、ソーリャ」の威勢のよいかけ声に、太鼓や笛などの音が響き渡るなか、重さ約4トンのだんじりが街中を駆け回る。スピードに乗せて曲がり角でだんじりを一気に方向転換させる豪快な「遣りまわし」が決まるたび、見物客からはひときわ大きな歓声と拍手がわき起こる。

だんじりの山車は、欅の白木造りで重さ約4トンもあり、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。欄干を巡らした座室より太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。 
辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。
遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。 
遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。


この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる、といった事由があるかも知れない。 日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる。

氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる。
だんじりの地車には華美な彫刻の装飾が施されているが、 岸和田縁の楠木正成をはじめ後醍醐天皇など「太平記」の南朝側の英雄を飾ることが多いようだ。


冒頭にも記したが、岸和田は南北朝時代の英雄・楠木正成の支配地であった・・!。
その岸和田のほぼ20km東方、金剛山の麓に「千早」という地名があり、更に「千早赤坂村」がある。
ご存知、大楠公・楠木正成の出生地であり、鎌倉軍と激戦を繰り広げた地でもある。
正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。 
河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。

鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。反幕のかどで、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。

1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。(この時期に岸和田城が造られた) 
鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせ、主導的立場にあった尊氏も新政を離反し下野する。 
尊氏追討の命を受けた新田義貞だが箱根で激戦の末敗北し、足利軍がさらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、しかし、楠木正成や北畠顕家らの宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し九州へ逃れる。 
足利尊氏は九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、楠木正成は新田義貞の旗下での出陣を命じられ、そして「湊川の戦い」(神戸市)で尊氏の実弟・足利直義の軍との戦い敗れて戦死する。
正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って差し違え亡くなった。 
彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。 正行は父・正成の仇を打つべく高師直(北朝・足利尊氏の軍師)軍と大阪・四条畷で決戦(四条畷の戦い)を挑むが、大敗して戦死している。 この時、岸和田を領していた和田高家らも参戦、同時に討ち死にしたといわれる。


東に金剛山そして葛城山の山稜が天空を走っている。
北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。浪速・大阪の人に言わせれば夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。 
その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。
飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった。

では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうかと浪速の彼らは考えた・・?。 そのことを確かめるために東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか。彼らは驚き、平伏して拝礼した。 彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祀りする「伊勢神宮」を開いたともいう。

金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である。 
又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという。

次回、大阪の「浪速とミナミ



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