google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本周遊紀行(58)淡路 「大鳴門橋」

2010年12月21日火曜日

日本周遊紀行(58)淡路 「大鳴門橋」

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日本周遊紀行(58)淡路 「大鳴門橋」  ,



瀬戸内海の最大の「瀬戸」、鳴門の渦潮と大橋


洲本城址から海岸線をそのまま直進して「由良」方面へ向かったが、マリーナあたりで、沿岸を行く県道は工事区間も多く道路事情が良くないとの情報を得たので、やむなく引き返すことにした。
由良」は、淡路国が徳島藩主・蜂須賀氏の領地となり、家老の稲田氏一族が由良城代として居城していた。
古来、友が島を挟んで紀州・和歌山には至近で、浪速・大阪や紀州とも海運が盛んであった、それは南北に細長く横たわる「成ヶ島」を正面にした由良は、昔から天然の良港であったのである。 
しかし、由良の地は背後は険しい山が控えていて発展性の乏しい城下でもあった。 1631年、稲田氏は 由良の地幅が狭く城下の経営には適さないとして、城下町ごと洲本に移転することになる、所謂、「由良引け」が行われた。以後は洲本が淡路の中心となっている。


戻って、国道28の内陸を行く 、
淡路国道とも言われ中央部は松の緑の美しいところであり、その名の如くこの辺りを緑町と称している・・?。 そして、淡路島の南端の「福良」の港へ出た。
鳴門海峡を臨む「福良」は、古くから福良港として明石の瀬戸に始まり、阿波に至る阿波路の要衝として知られる。 
往時より阿波への渡り口として「福良の渡」と呼ばれ、豪快な渦潮を眺めながらの渡海であった。近年の大正期の頃からは汽船航路、更に車社会の陸上交通の発展に伴い、四国へのフェリー航路も相次いで開設された。だが、昭和60年の大鳴門橋開通に伴い、ついに渡津としての役割を終えた。

波止場の正面にはかなりモダンな半円状の建物が在る、そこに鳴門海峡クルージング咸臨丸が停泊している。 
又、建物をくぐって海辺に出ると、次に見えたのは堂々とした白の帆船・「日本丸」で、両船は福良の港にレプリカ船として渦潮観光に活躍しているようである。

咸臨丸は、1856年オランダで建造され、1860年に勝海舟等によって日本人ではじめて太平洋横断しアメリカへ渡った蒸気帆船である、その勇姿をいまに復元したものという。 
又、日本丸は昭和5年(1930)文部省航海練習船として神戸の川崎造船所において進水した。 地球を約45周半(延べ183万KM)航海し、昭和59年まで「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれながら訓練航海に従事し、日本丸がその間に育てた実習生の数は11,500名にもおよぶという。

現役を退いた日本丸は10を越す湾岸都市からの熱いラブコールを受けたが、第2の人生を横浜で過ごすことになり、現在、帆船日本丸は、MM21(横浜ミナトミライ21)の「日本丸メモリアルパーク」にて一般公開されている。


鳴門海峡の淡路の最先端である門崎岬へ向かった見た。
先端は「道の駅・うずしお」があり、ここは既に「大鳴門橋」が頭上に架かっている。
車を置いて徒歩2~3分のとことろに観潮台があり、又、巨大な大鳴門橋の下部ゾーンが見渡せる。 小粒な人間が、これだけ巨大なものを造りだせるものなんだと承知はしていても現物を間近に見せられると、やはり感嘆し圧倒される。 渦潮は、小生どの程度の規模か判断がつかないが、左方に小島(飛島)があり、その付近が帯状に白く泡立っているのが確認できる。
多分、渦潮なのだろう、本日の潮目は何日頃なのかのか不明であるが・・?
渦潮の発生要因としては、勿論、大海の海水が瀬戸内海へ流入、流出する際、淡路島という障壁の隙間をぬって、北側からは明石海峡、南側がここ鳴門海峡の狭窄の地を直接流れこみ、渦を巻きながら激しく流動する時に起こる。

それは、鳴門海峡は中央部がぐんと深く約100mほどあり、この部分は潮流は抵抗なく早く流れる、この流れを本流と呼ぶ。 
一方、本流の両岸は浅瀬になっているため、抵抗があって流れは緩やかである。 
渦潮は、この本流と両岸の緩やかな流れの境目付近で、本流の速い流れに巻き込まれるような形で発生するという。  
大きなものになると直径20メートルにも達し、渦が巻いている時間は数秒から数十秒、渦が出来ては消え、消えては新たな渦が発生し、そして消え、また発生する。上記のようなメカニズムにより、鳴門の渦潮は潮の干満によって発生し、大潮の新月の頃及び満月の頃に最大規模になる。


大鳴門橋は、本州四国連絡橋の神戸~鳴門ルートに属し、渦潮で有名な鳴門海峡の大毛島、孫崎と淡路島門崎を結び、昭和51年7月に着工、工事費約1千億円で建設でされた。
1985年6月に開通して以来、本年(2005年)で20年の節目を迎える。
橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m、海面より45m、マグニチュード8の地震、風速83mに耐え得る構造になっているという。 橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の道路、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。

しかし、本州よりの明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたため、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性は無くなってしまったともいう。 尚、紀淡海峡に鉄道を通し、和歌山から鳴門に至る鉄道について、大鳴門橋を活用しようとする模索は続けられているというが、果たしてどうなることか。 

四国側の橋端は大毛島といって、一見四国本土のように見えるが、小鳴門海峡という細い海峡を挟んで、その名のとおり島である。
この島には、ほぼ中心に大鳴門橋・高速道の鳴門北I・Cがあり、又、県道11号が最北端の観潮船乗り場、記念館や鳴門公園等を経て孫崎の岬に至っている。 
小鳴門海峡には、本島へ到るのに「小鳴門橋」という赤い瀟洒な橋が架けられている。


門崎の観潮台を後にして、四国側へ渡るために一旦、淡路島南I・Cまで戻る。
因みに、淡路島は本州最大の島は衆知のとおりで、暫くは洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、平成の大合併に伴って、2005年1月には三原郡4町が「南あわじ市」に、2005年4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が「淡路市」となった。残る五色町は2006年2月11日に洲本市と合併し、新たに「洲本市」となる予定である。 したがって淡路島は北部、中央、南部の三市の行政区域になることが決まっている。

次回は、いよいよ四国で、阿波の鳴門と四国霊場「霊山寺」
(次回投稿は年明けとなります。 読者の皆さん良いお年を・・!)



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