google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 5月 2010

2010年5月29日土曜日

日本周遊紀行(104)石巻 「北上川流域の盛衰」

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日本周遊紀行(104)石巻 「北上川流域の盛衰」


石巻へ来た。 
市街の中心を清冽な「北上川」が流れ注ぐ。

この北上川は「旧北上川」と称しているが、一方、「新北上川」が追波湾に注いでいることは、先回の項目で述べた。
「新北上川」は、旧北上川の流量調節や、農業・水運のため、昭和の初頭、津山(柳津)で分流し、旧追波川を改修、合流させ運河として造成したものという。

北上川は岩手の中枢を流域とし、往時は水運文化として栄え、栄華を極めた地域である。
その流域には、一関、平泉、衣川、前沢、水沢、胆沢(いさわ)、江刺、金ヶ崎、北上、花巻といった、既に大和朝廷時代の古代から知られる地域名が多く並んでいる。 



古代奈良期の頃までは、この辺りは未だ東国・蝦夷といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう。 
大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 
そして最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(後述する)で、彼によって決着をつけられるのだが、この時期に北上川は多いに利用され改修もされたという。

後には俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれる安倍氏の反乱である「前九年の役」などを経ながら藤原全盛期を迎えることになる。 
平泉の藤原三代の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される奥州・藤原文化のように東北独特の文化圏を形成した。 
それには「北上川」が社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。
宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」といえる。 

ただ、岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、

『 古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。こんな国が他にあるだろうか・・、』、とも述べている。

北上川には国指定史跡、名勝、天然記念物などの多くが分布しているが、それは苦難の歴史を秘めていることでもあり、今は只、ゆったりと流れている。



江戸時代の石巻港は北上川水運によって南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。

伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 
これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。

尚、伊達政宗は北上川に「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。
旧北上川河口から阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約46kmに及ぶ日本最長の運河が延びている。
江戸慶長年間から明治期にかけて建設されたもので、因みに「貞山」とは伊達政宗の謚号(しごう、おくりなで生前の行いを尊び死後に贈られる称号)である。

当時はまだ鉄道もなく、道路も未発達だったので物資輸送は舟運が中心であった。
そこで宮城・岩手間の米輸送に欠かせなかった北上川に着目し、更に、北上川と阿武隈川を結んで東北の輸送の大動脈を造ろうと考えたわけである。
運河は岩手県北上盆地、宮城県仙台平野、福島県中通りの広大な河川交通・物流に供するものであったが、仙台平野においては江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路、排水路としての機能も重要であった。

しかし、北上川の度々の洪水や鉄道輸送との競合によって、近年はその役割を終えている。 現在は、物流に用いられる例はまれであるが、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーに用いられている。 運河沿いの一部には自転車専用道路も設置されているとか。

次回は、「塩釜
尚、「松島」については後頁、「温泉と観光」の項で詳細記載します。




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日本周遊紀行(103)女川 「牡鹿半島」

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日本周遊紀行(103)女川 「牡鹿半島」



国道45はこの後、志津川町からは内陸へ向うので、ここで分かれて沿岸沿いの国道398を行くことになる。 
志津川の市街地を通過して、志津川湾を見ながら、神割の岬から北上町(石巻市)に入ると、やがて、R398は北上川の河岸を行くようになる。 
砂州を両側に形成しながら雄大に流れ、河口がまた広大である・・!!。
間もなく新北上大橋を渡る。


こちらの河川はその名も「新北上川」(追波川)と称しているが・・?、

北上川は、岩手県、宮城県を流れる北上川水系の本流で一級河川、流路延長249km、流域面積は東北最大であり、また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことも特徴となっている。

岩手県岩手町の「弓弭の泉」(ゆはずのいずみ・★)を主な源流とし、東に北上山地、西の奥羽山脈の間の岩手県中央部である盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを貫流しながら北から南へと流れる。 
宮城県に入り、仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、登米市、津山町付近で洪水防止のため新たに開削された「新北上川」と「旧北上川」とに分かれる。 

新北上川はその後東へ向きを変え、石巻市北上町で追波湾(おっぱわん)に注ぐ、古称では追波川とも呼んでいた。 
旧北上川は迫川・江合川と合流、南流し石巻市で石巻湾に注ぐが・・、このことは後ほど。

★「弓弭の泉」とは・・?、 岩手県北部・岩手町御堂観音(いわて銀河鉄道・旧東北本線「御堂駅」)の右裏手にあり清冷な泉の湧く処、古くから北上川の源泉だと伝えられている。 
11世紀半ばの前九年の役で源頼義、義家父子が、この地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと、清水がこんこんとわき出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したという伝承がある。



国道を南下し鎌谷峠のトンネルを抜ける、再び海岸へ出ると女川街道となる。 又の名を「リアスブルーライン」ともいうらしい。 
女川市街の手前まで来ると、崎山展望公園があり、ここからの女川湾が雄大に見渡せる。 沿道の桜の並木が多く、名所になっているらしい。

牡鹿半島の付根にあたる、女川町(おながわ)は東北の原子力発電の街としても知られている。
女川原発では、現在3機が稼動し、東北電力全体の電力量の13%にもあたる発電が操業中とか。 
ちなみに全国の総電力量の約30%は、原子力発電によって造られると言われる。


その女川町は又、金華山沖漁場という日本有数の漁場を抱える。 そこは暖流・寒流が交差する豊かな漁場で、豊富な魚種が数多く水揚げされることで知られる。

女川町は小さな町域であるが、豊かな漁場と原子力発電などの交付金によって財政は豊かであり、そのためか、周辺地域(北上町、牡鹿町など・・)が石巻市と合併する中、石巻市域に囲まれながらも自主独立を保っているという。



牡鹿半島」は小生は勘違いで宮城の「オガ」と読んでいたが、オガ(男鹿半島・秋田)だはなく「オシカ」と呼ぶ。 

その半島の牡鹿町は、永い間「捕鯨の街」だったらしい。
日本沿岸では、昔からセミクジラの回遊があり、湾や入江に迷い込んだ”クジラ”やシャチ等を捕獲していた。 また南氷洋での操業が始まった昭和初期には、国内の大手捕鯨会社が集まって、牡鹿の鮎川浜は捕鯨の基地となっていた。 
しかし、昭和47年、捕鯨を取り巻く国際的な環境が変化し、圧力も年々増し、ついに昭和62年(1987年)を最後に、一部の鯨種を除いて捕鯨が全面禁止となってしまったという。
日々の食卓に欠かせなかったクジラ肉が姿を消し、有数の捕鯨基地であった牡鹿町もかっての面影はなくなった。

現在、ミンククジラについては、IWC(国際捕鯨委員会)でも資源量が十分であることがすでに確認されている。 国と牡鹿町では、沿岸捕鯨の再開とともに、南氷洋で増え過ぎたミンククジラの「年間50頭の捕鯨の再開」をIWCなどで訴え続けているという。

半島の大部分を占める牡鹿町は、2005年4月1日に石巻地域1市6町で合併し、石巻市となった。



牡鹿半島南端のすぐ東に、気象通報でお馴染の「金華山」が在る。
奈良朝期、東北地方で我が国最初の金が産出され、朝廷に献上されたことから「金華山」と呼ばれるようになったという。
港の正面に、その名も「黄金山神社」が鎮座している。
1200余年前に創建されたという、歴史ある黄金山神社の本殿、拝殿等の社殿が立ち並び、祭神は、金銀財宝を司る金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)、金山毘賣神(カナヤマヒメノカミ)であると。

金華山は、出羽三山、恐山とともに東奥三大霊場とされ、明治以前までは女人禁制の島・霊島として、全国から尊崇を集めていたという。 

島全体が鬱蒼(うっそう)とした原生林が生い茂り、四季おりおりの美しさがある。
また野生の鹿が「神の使い」として大切に守られ、参拝の人々を出迎えてくれるし、角切りの神事も行われてるという。


次回は、「石巻」



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2010年5月27日木曜日

日本周遊紀行(102)気仙沼 「ふかひれ」

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日本周遊紀行(102)気仙沼 「ふかひれ」


白砂と松の緑で目の保養しながら、更に国道45を南下する。 
広田湾を見ながら、宮城県に入ったようである。 

三陸名物のリアス海岸を味わえる場所としては唐桑半島もその一つであろう。 半島の何れからも、断崖絶壁が広がり、眼下には大小の鋭い奇岩・怪岩が連なる。 
半島の東側にある二つの岬、シンボルは巨大な石柱で「折石」という、高さ16m、幅3mの大理石の石柱で、荒波の海にヌッとそそり立っている。 
なんでも「折れ」と頭につくのは三陸大津波で先端が折れたかららしい。 
風光明媚な海岸線が続く唐桑半島であるが、その地形から過去に大きな津波の被害を受けてきた地域でもある。 



G・S(ガソリンスタンド)に寄り、昼時(ひるどき)なので「何処っか、美味いラーメン屋はないかね」、「すぐ其処に有りますよ」・・と小生の車のプレートNoを見ながら「気仙沼はフカヒレラーメンですよ・・!」と、ニコニコしながら云う。 

言われるままに紅いノレンをくぐって早速食してみた。
ヌルッとした食感はサッパリ味で良い、汁も実にいい味を出していた。


フカヒレといえば、漁業で栄えた港町・気仙沼が本場であった。
ふかひれはサメのヒレを晒して干した白色か淡黄色の半透明状の食品のことで、高級中華料理の材料として知られてる。 
フカヒレスープやフカヒレ姿煮として加工され、ふかひれラーメンやふかひれ寿しは気仙沼の味として全国的にも有名である。栄養価としてもコンドロイチンやコラーゲンが多量に含み、不老長寿、百薬の源と健康食としても優等生と言われる。


気仙沼は全国でも珍しい「魚食健康都市宣言」をしている都市だとか・・!。
水産業は東北でもトップクラス、全国有数の水揚げ高を誇るのは周知のことであり、食卓にお馴染みのマグロ、カツオ、サンマなどをはじめ、特に、エビ、カジキ、シイラ、そしてサメは陸揚量全国1位を誇るという(平成16年度)。


このサメだが・・、

多くはマグロの延縄漁の際に釣れるのが「サメ」だという。
そして鱶鰭(ふかひれ)は、大型のサメのひれ(主に尾びれや背びれ部分)を乾燥させた食材である。
日本は元々、世界有数のふかひれ生産国であり国内では、ここ気仙沼の水揚げが最も多いのである。
フカヒレはジンベエザメ、ウバザメのものが最も高級とされ、アオザメ、イタチザメなどのものも高級であるが、一般的にはヨシキリザメのものが使用されることが多いという。
日本の気仙沼産が特に有名で且つ高級品として扱われるのは、加工技術(乾燥など)が優れているためとも言われる。


気仙沼は県の北東端に位置していて、こちらも代表的なリアス海岸を形造っている。

このノコギリの歯のようなリアス海岸一つでもある気仙沼市街地の正面に、半島の如く南へ突き出しているのが実は「大島」という島であった。
本土とは大島瀬戸によって隔てられ、最も狭い場所で230mしか離れていないという。 
鳴き砂海岸」などでも有名だが、自然が豊かな島であり、地元作家の水上不二氏(詩人、童話作家、絵本作家、作詞家・気仙沼市に生まれ育つ)によって「大島よ永遠にみどりの真珠であれ」と称えられた。 
気仙沼港は、元より気仙沼湾の深く入り組んだ処に在り、更に、湾口部には「大島」があることで湾内は常に穏やかであり、「気仙沼の防波堤」の役割を果たしている。 よって気仙沼漁港は天然の良港なのである。


国道45は別名「東浜海道」ともいう、並行して気仙沼線が海岸を行く。
元吉町の大谷海岸から小泉海岸は明るい景観が続く、特に小泉海岸は砂浜の美しいところである。「白砂青松100選」にも選ばれ、若者がサーフィンに興じていた。


歌津町は緑の濃い街で小さな町域である。

伊達藩政以前は、歌津をはじめ三陸一帯の海岸には一本の黒松もなく、見渡す限り荒涼たる浜で怒涛が岩をかみ、飛沫は遠く飛散して内陸に及び、作物は塩害に晒されたという。 
この状態を見て「伊達政宗」が殖産のため防潮林の育成策を打ち出し、それから三百余年の今日まで、種子が次々と飛散して三陸沿岸一体が黒松林で覆われるようになったと伝えられている。
三陸界隈の松林は、自然林ではなく人工林だったのである。 

南下の途中、緑濃き三陸地域に感心していたが、古人の英知に改めて敬服し、敬意を表したい。
志津川町・歌津町は合併協議が順調に進み、来年度「南三陸町」として新たに発足することが決まっている。


次回は、「女川、牡鹿半島」





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日本周遊紀行(101)陸前高田 「松原と啄木」

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 日本周遊紀行(101)陸前高田 「松原と啄木」 



陸前高田・「高田松原」 


石川啄木の「一握の砂」・・、

国道.45にはリアス海岸の小さな半島を越えるたびに、いくつもの大小の峠を越えるようになる。
大船渡の細長い町並みを抜けると広田半島(末崎半島)・・?の付け根に当たる山地を行くようになる。 
この通岡峠は、その中でも比較的大きめの峠であろう。 標高はわずかに170mであるが海から一気に登るので、そのわりに道は急坂で険しい。
峠からは遠くに海を臨むことができ、すぐ南に神奈川県民としては懐かしい「箱根山」というのが聳えていて、三陸を代表するような松の緑も秀麗で目を潤す。


この通岡峠を境に「陸前高田」に入る。
峠直下では「三陸自動車道」のトンネルが掘削中のようでもある。 
国道45のドライブで、そろそろ一息入れたいと思っていた時に「道の駅・高田松原」が現れた。 
ゆっくり休憩しながら案内板を見ると、このすぐ裏手に名勝「高田松原」があった。 
小雨模様の薄暗い様気も今はすっかり晴上がっているし、上機嫌で脚を延ばしてみた。



三陸の海岸は、リアス海岸で断崖絶壁ばかりかと思われているが、実は平坦美景な砂浜も多少はある。 
中でも有名なのが、ここ「高田松原」であろう。
こちらも三陸を代表する景勝地で、約2km続く弓形の砂浜は、背後には樹齢300年を超える数万本の赤松や黒松が続いている。 日本百景にも数えられる白砂青松の浜はさすがであった。 
「高田松原」は、往時の江戸初期の頃は、ただの砂浜や湿地帯であったらしい。 気仙川から運ばれた土砂が、広田湾の沿岸流によって堆積され、これが高潮の時や風によって「飛び砂」となり、地域の人々は難渋していたという。 
だがその後、この荒涼とした高田の浜は、人為的に改良されたのであった。


高田松原は江戸初期(1667年)菅野杢之助(かんのもくのすけ)翁が仙台藩の許しを得、地元民の力をかりて「松」を植栽したのが始まりで、三代にわたり植えられ保護されてきたという。 
更に、享保年間(1716~1736)には、松坂新右衛門翁が植栽を続け、ここに、現在にいたる松原の原型が誕生したとされる。 
しかし、昭和35年のチリ地震津波では、200メートルにわたって砂浜が流失してしまったというが・・!。
高田松原は、自然にできたものではなく、数百年の永年にわたり、人の手により作られ保護されてきたものであった。


地元・盛岡出身の歌人・「石川啄木」は折に触れてこの地を訪れ、高田松原や広田半島などの自然に浸り、時を忘れ、その美しい風景に感動して多くの歌や句に詠んでいる。

砂浜を漫ろ(そぞろ)歩きしながら、啄木の歌を思い出した。

 「東海の 小島の磯の 白砂に 
         われ泣きぬれて 蟹にハサマル
」と、駄洒落る。



石川啄木は「一握の砂」の詩集の冒頭に・・、

『函館なる郁雨・宮崎大四郎君(啄木に対し変わらぬ敬慕の情を抱き、物資両面にわたって援助を惜しまなかった歌人・宮崎大四郎:郁雨・いくう)。 同国の友、文学士花明・金田一京助君(アイヌに造詣のある言語学者)に、この集を両君に捧ぐ。 予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。 従つて両君はここに歌はれたる歌の一、一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。・・「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり・・』とある。 


表題の『一握の砂』の内、砂に纏わる歌集を集めてみた。

『我を愛する歌』 より・・

 『 東海の 小島の磯の 白砂に 
          われ泣きぬれて 蟹とたはむる 』 

 『 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の 
          いたみを遠く おもひ出づる日 』

  『 大という 字を百あまり 砂に書き 
          死ぬことをやめて 帰り来れり 』

  『 頬につたふ なみだのごはず 一握の 
             砂を示しし 人を忘れず< 』 啄木は、東京朝日新聞の朝日歌壇の選者になったのを機会に、更に歌人として精進したいと考え、従来、「一行」で発表した短歌を「三行書き」に改め、新作を加えて551首の『一握の砂』という題で明治43年に刊行している。 
望郷と漂泊の天才詩人として知られる石川啄木は、僅か26年の生涯ながら「歌は私の悲しい玩具である」、 「歌を作るのは不幸な日だ」と告白しながら、「一生に二度とは帰って来ない命の時の一秒」をいとおしみ、消え去る刹那の感動を見事に表現しているという。 

啄木は、岩手県玉山村(盛岡市北東の村、2006年:平成18年1月10日に、盛岡市に編入合併されて消滅した。)生まれ、1902年、盛岡中学を自主退学して上京し与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねている。
病気で帰郷の後、 故郷での代用教員、北海道での新聞記者生活のなどを経て、1910年「一握の砂」を発表、出版している。
1912年肺結核のため東京で26歳の若さで永眠する。 第二歌集「悲しき玩具」は死後出版されたものという。

ただ、石川啄木が、この地「高田松原」の砂浜に、腹這いしたかどうかは、定かでない。


陸前高田市街地の北部、大船渡線で一駅の地区に「竹駒」という地区がある。 あの演歌歌手「千昌夫」の出身地である。
彼は高校2年のとき、修学旅行で上京した際、作曲家・遠藤実氏の門をたたき、「北国の春」を歌ったのは周知である。 
北国の春は1977年発売、最終的に 300 万枚を売上げたという超ヒット曲で、今では日本以外のアジア各国でも大ヒットし、中国では、現在でも最も有名な日本の楽曲の一つとされている。

寒い北風の中、氷点下の冬を過ごす北国に住む人にとって春の到来を告げる南風は待ち遠しい。 
「北国の春」は、千昌夫の故郷、出身地である陸前高田の竹駒地区を連想させるが、実際は、この歌を作詞した「いで・はく」は信州・南牧村の出身で、故郷の野辺山周辺をイメージして作詞したといわれる。

余計だが、カラオケ好きの小生にとって「北国の春」は、良く唄う歌ではあるが、それ以前にヒットした「星影のワルツ」が強烈に印象に残っている歌なのである。
私事ながら、東京へ転勤になって一人寂しい暮らしが始まった時でもあり、その孤独感を癒してくれた或る女性とのつかの間の「愛」を育んできたが、とある事情で露と消えてしまった時期でもあった。 
この時に大ヒットしていたのが「星影のワルツ」であり、巷では厭でもこの曲が流れていて耳に入る。 
まるで悲壮感漂う小生の心境を謳いあげているような錯覚さえしたもんであり、この曲だけは歌好きの小生でも、今も歌うことが出来ないのである。


星影のワルツ』 曲:遠藤実(昭和43年)

別れることは つらいけど
仕方がないんだ 君のため
別れに星影の ワルツをうたおう
冷たい心じゃ ないんだよ
冷たい心じゃ ないんだよ
今でも好きだ 死ぬ程に


次回は、「気仙沼」



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2010年5月25日火曜日

日本周遊紀行(100)三陸地方 「大船渡」

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日本周遊紀行(100)三陸地方 「大船渡」


激しく入り組んだ三陸の地は相変わらず山坂が多く、国道45は喘ぐように走っている。

この辺りの三陸リアス海岸は、奥行き数キロにも及ぶ半島と入江や湾とが交互に入れ替わり、地図を見ても所謂、ギザギザの地形が連続しているのが判る。 
半島部分は概ね山岳地となっていて、ヘアーピンカーブの峠やトンネルを登り降りしながらの走行となる。

いつもの風景であるが、集落や街へでると概ね海岸であるが、しかし直ぐに山中へ分け入るのである。 
こんなことの繰り返しで、些かウンザリしそうだが、気が付くと岩手の海道は黒松、赤松の緑が多く、小雨に濡れて更に緑を色濃く彩っている。 

過日、通過した日本海側、特に秋田県側の荒涼とした松枯れの風景とは対照なのが面白く気になったが、深い緑は目には良いことは確かである。
(黒松については、後の項=「気仙沼」・・?あたりで記載します)

概ね並行して「三陸鉄道」が走っている。 
この鉄道も、各半島付け根に当たる山岳地の殆どの部分がトンネルで、こちらも喘ぎあえぎ走っていることだろう。 
三陸の鉄道の歴史も新しく、近年僅かに20数年前の開通とか。 

一般に「三陸地方」と言われるが、東北地方東部の宮城、岩手、青森の三県に跨る太平洋岸沿いの地域を指している。 
三陸とは陸前・陸中・陸奥(むつ)の昔の地名に基づく呼称である。

陸前」は今の宮城県と一部は岩手県に属し、「陸中」は今の岩手県と一部は秋田県に属する。 「陸奥」は大部分は今の青森県と一部は岩手県に属する。 
広義に「陸奥国」は、江戸時代まで日本の地方区分である国の一つであり、奥州とも呼ばれた。 
現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県の県域に相当する地域を称していたが、明治維新後の明治元年に、陸奥国陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代の5ヶ国に分けられた・・?。



その三陸海岸は、宮古市を境に北部は隆起地形で断崖絶壁の海岸となっているため、港に適した場所が少ない。

八戸市から久慈市辺りの海岸沿いでは、台地状でなだらかであるため、漁業よりも農業・牧畜などが盛んなのに対し、宮古市よりも南は沈降地形のリアス海岸となっているため、水深の深い入り江が多く、これが天然の良港となっているため漁業が盛んなのである。 
世界三大漁場と言われる「三陸沖」には、この南部の漁港から主に出漁している。 
従って、海に面した急峻な谷間にできた僅かな沖積平野部が、陸上の主な生活の場となっている。

三陸海岸の南部「三陸町」は、国の市町村合併政策の先駆けとして、早々、隣町の大船渡市と2001年に合併を果たし、新大船渡市として発足している。
その大船渡市は三陸町との合併により平成13年、「サンリク・オオフナト共和国」として「銀河連邦」に仲間入りしたという。 


「銀河連邦」・・??、 

普通このような呼称については、或る世界において用いられる架空の国、S・F、空想の社会での話であるが、実際は真面目に未来志向の研究がなされている共同体らしい。
今、日本の宇宙科学分野では、宇宙科学研究所(現、独立行政法人)と言う文部科学省管轄の研究部門が各地にあるという。 

これら各施設をかかえる2市3町が提携した友好都市関係のことを「銀河連邦」と呼んでいるらしい。 
そして、構成している自治体、各市町を共和国、首長(市長・町長)のことを大統領と呼んでいるようである。 
北は秋田県から南は鹿児島県まで、研究施設のある市町(3市2町)が握手し共和国として、昭和62年11月に発足、誕生しているという。



因みに、各共和国と研究内容は・・、

サンリク・オオフナト共和国』(岩手県大船渡市)=三陸大気球観測(昭和45年開設)の施設が在り、科学観測用の気球の飛行実験、気球追跡、気球との送受信施設などを研究している。

ノシロ共和国』(秋田県能代市)=能代市南部の浅内浜に「能代多目的実験場」があり、鹿児島宇宙空間観測所から打ち上げられる観測ロケットや宇宙探査機打ち上げ用のM型ロケットの開発のため、必要な各種個体ロケットモーターの地上燃焼試験、およびエアターボラムロケットなどの将来型推進器の基礎研究を行っている。

サク共和国』(長野県佐久市)=臼田宇宙空間観測所の施設が在り、ハレー彗星観測用惑星探査機「さきがけ」、「すいせい」やその後の火星探査機「のぞみ」、小惑星探査機「はやぶさ」等の惑星探査機との通信用観測を行う。太陽系内にて観測を行っている深宇宙探査機に向けての動作指令や、探査機からの観測データの送受信を行えるよう、東洋一の大きさを誇る64mパラボラアンテナを持つ。「サガミハラ共和国」(神奈川県相模原市)=宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究本部相模原キャンパスがある(昭和58年開設)。飛翔体環境、構造機能等の試験等を行う。相模原は首都圏にも近く、全国の宇宙科学研究所施設の中核となってる。

ウチノウラ共和国』(鹿児島県内之浦町)=鹿児島宇宙空間観測所、観測ロケット及び科学衛星の打ち上げ、追跡、データ取得のための実験場を行う。

以上の共和国は、互いの研究状況を連携し共有しあい、その他の行政や文化、物産、女性問題・・?、スポーツ、又、子ども達との交流に伴う人材育成、観光物産振興等、広範な地域交流を通じて友好のきずなを深めいるという。



大船渡の名勝・・、

碁石海岸==大船渡市末崎半島の東南端約6kmの海岸線を「碁石海岸」と呼び、背後のアカマツや草花が彩りを添えるなど、変化に富んだ素晴らしい海岸景勝地で、「国の名勝・天然記念物」に指定されている、「日本の渚・百選」。 なかでも、穴通磯(アナトオシイソ)は、碁石海岸を代表する絶景スポットで、波の侵食作用により大きな洞門が三つ開いたその姿は、まさに自然の造形美であると。 又、乱曝谷(ランボウヤ)は数十mの切り立った岸壁が向かい合う海の谷間で、激しくぶつかって砕け散る波濤の迫力は強烈であると。 

大船渡貝塚群==大船渡湾岸には、蛸ノ浦貝塚、下船渡貝塚、大洞貝塚など多くの貝塚や遺跡がみられ、何れも国の指定史跡になっている。 三陸沿岸は世界の三大漁場といわれ、北に親潮と南の黒潮がここで合流し、寒流、暖流の魚群が多く、食の豊富であった。 この地は、縄文期から人が住み着き、生活を営んでいた形跡があり、貝塚からはアサリやカキ、ホタテなどのほか、マグロ、ブリ、カツオなどの魚の骨もあり、当時の海の豊かさを今に伝えている。


大船渡の市街地を抜けて、高台の展望休憩地に「新沼謙治の出身地」と大きな看板が目に入った。

彼の唄 では「津軽恋女」がいい・・、 



津軽恋女』 新沼謙治

津軽の海よ 竜飛岬は吹雪に 凍えるよ
日毎夜毎 海鳴りばかり 愚図る女の泣く声か
津軽の女よ 別れ唄ひとつ 口ずさむ
濁り酒に 思い出浮かべ かじかむ心の 空を見る
降り積もる雪 雪 雪また雪よ
津軽には 七つの雪がふるとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の女よ ・・

次回、陸前高田




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日本周遊紀行(99)釜石 「鉄の街」

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 日本周遊紀行(99)釜石 「鉄の街」 


「鉄の街」、釜石にやって来た・・、

ギザギザ三陸海岸、陸中国立公園のリアス海岸のほぼ中心に位置しているのが釜石市であろう。 山中の屈曲した上下動の激しい道で、時折、長いトンネルを抜けると入り江の突端の海岸に出る。 
これらを何回か繰り返しながら国道45は釜石港を見下ろしながら、高台の地に至ると釜石ならではの「鉄の博物館」が在った。

釜石市立「鉄の博物館」


先ず、釜石は近代製鉄業発祥の地であった。

釜石周辺は、既に平安期頃には砂鉄を原料とした製鉄が行われていたという。
江戸期には鉱山師(山師)らにより広大な磁鉄鉱と黄銅鉱を主とする鉄鉱石が発見され、幕末の安政年間には、「大島高任」(おおしまたかとう)が我が国最初の洋式高炉(溶鉱炉)を導入、築造し本格的な銑鉄の製造に成功している。
明治維新を迎えると、官営製鉄の釜石製鉄所となり、やがて富士製鉄、新日鉄と推移してゆくのであるが。 

昭和60年、創業100年の期を境に不況と鉄鋼業界の変質も加わり、順次高炉の火も消えていった。 
現在では僅かに遺跡があるのみで、我国の鉄産業発達史上唯一の文化遺産として、その意義を残しているのみであった。


大島高任は文政9年(1826)、南部藩・盛岡に生まれている。

大島家は代々馬医として南部藩に仕え、父・周意は南部藩医師として仕えていた。 
高任は17歳から家督にそって、医学を習得するべく江戸にて蘭学などを学ぶ。 そして、21歳の時長崎にて医学修業中の傍ら、西洋流兵法、砲術、採鉱、精錬なども学んでいる。

嘉永6年、その功績が水戸藩御用人「藤田東湖」(尊皇攘夷の祖)の目にとまり、水戸藩主徳川斉昭から招かれ反射炉を常陸・那珂湊に築造している。 
その際、徳川斉昭は高任の才能を見抜き、水戸藩は300石で召し抱えようとするが、「臣籍220余年の恩義が盛岡藩にある」と言って辞退している。
その後、鉄鉱石が産出している盛岡藩の釜石・大橋へ出向き、大橋にて洋式高炉一座を竣工し、初出銑(高炉より熔けた鉄:銑鉄を取り出す)に成功する。



ところで、昨今の釜石は新日本製鉄の跡地を利用して生け簀(いけす)などを造り、官民・第三セクターが一体となって珍魚の養殖に取り組んでいるという。

一つは「蝶鮫」(チョウザメ)の養殖である。 チョウザメは世界三大珍味として知られる”キャビア”の親である。 
ロシアや北米などに生息しているが、生息数は極度に減り、幻の魚になるのではないかといわれる。 又、この魚の肉は淡泊な味で、身の締まりも非常に良く、和・洋・中華風いずれにも適しているそうである。
因みに、蝶鮫の鱗(うろこ)は文字通り”蝶”の形をしているという。


もう一つはカレイの一種の「マツカワ」という魚のの養殖である。 マツカワはカレイ科の魚で、天然物の水揚げが少なく、浜でも滅多にお目にかかれない幻の魚だという。 
カレイ類特有の白身魚で、適度に脂肪がのり、身の締まりも良く鮮度の持ちも非常によい魚らしい。

釜石は鉄の産業から食品産業、養殖産業に切り替わりつつあるようだ。



次に、釜石で特筆すべき事は、やはり冬の花形スポーツと言われるラグビーであろう、小生も大ファンである。 
北の鉄人」と呼ばれ、日本ラグビーの歴史に偉大な足跡を残した新日鉄釜石ラグビー部がある。 

釜石が製鉄で華やかなりし頃、 新日鉄釜石ラグビー部は連続V7を含む通算8度の日本一に輝いたということは「知る人ぞ知る」であろう。
赤ジャージを身に纏い、主将・松尾雄治を擁して1978年度から1985年度まで、前人未到の日本選手権7連覇を達成したのはいまだ記憶に残る。 
本社の業績が悪化し釜石製鉄所も苦しい中、地元の期待を背負い勝ち続けるその姿から「北の鉄人」と称されたのである。 
東北を中心とした高校出身者を基礎から鍛え上げ、東北人特有の忍耐強さと、地域、会社をあげての応援で、その実力をいかんなく発揮した。

だが鉄人にも落陽は訪れる、松尾が引退した翌年、新鋭・神戸製鋼に敗北して以来の後、国立競技場に帰ることは無かった。
そして、合わせるように1990年には、溶鉱炉の灯も消えることになるのである。



釜石付近の名勝

御箱崎千畳==箱崎半島の先端にあり、広大な千畳敷や岩礁、入り江などが広がり、大自然の海岸美を堪能させてくれる。外洋に面しているので、海の色もひときわ美しく、荒れたときには波濤渦巻き圧倒される。陸中海岸を代表する景勝地である。

釜石大観音==昭和45年、鎌崎の先端に釜石港を見守るように立っている真っ白な観音様。 身長48m、胸元に魚を抱く魚藍観音で、正式な名称は石応禅寺・釜石大観音といい、人々の幸せと世界平和を祈願して落慶されたという。 大観音の内部は13階に分かれ、拝殿、三十三観音安置室などがある。 海抜120mの高さにあるこの展望台からは、釜石湾の美しい景観が一望できる。 

三貫島==箱崎半島沖合に浮かぶ無人島で、オオミズナキドリ、ヒメクロウミツバメの繁殖地として国の天然記念物になっている。

仙人秘水と仙人峠==釜石鉱山から湧く自然天然の水、体にやさしい弱アルカリ性ミネラルウォーターとされる。  この付近に内陸と沿岸を結ぶ「仙人峠」があり、往時は釜石街道の最大の難所として知られていた。 仙人峠の名前の由来は、仙人が住んでいたなどの説があり、古くから海岸部と内陸部を結ぶ最短の道として利用されてきたという。 平成18年の完成に向けて「新仙人峠道路」の開発も進められている。

五葉山==仙人峠の南に位置する五葉山は(標高1,351m)、作家・田中澄江の『花の百名山』にも掲載され選ばれていて、春はツツジ、初夏にはシャクナゲが咲き誇り、登山愛好者や市民からも広く愛されている。 自然が豊かでブナ、ミズナラ、ダケカンバなどの広葉樹や、ヒノキ、コメツガなどの針葉樹の原生林はすばらしいという。

又、五葉山県立自然公園は「21世紀に残したい日本の自然百選」に選定されている。


次回は、大船渡




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2010年5月24日月曜日

日本周遊紀行(98)三陸宮古 「宮古湾海戦」

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日本周遊紀行(98)三陸宮古 「宮古湾海戦」



宮古湾の湾口にある「浄土ヶ浜」


維新時の「宮古湾海戦」とは・・、 


田老町は、2005年3月で宮古市になる。
小雨の中、国道45を南下しながら、山間地を抜けて見通し良くなったところが宮古市である。入り江になっている宮古湾が大きく見渡せる。
宮古湾は向かい側・重茂半島(おもえ:三陸海岸最大の半島)の閉伊崎(へいざき)から凡そ10kmもV状に入り組んだ深い湾になっている。 

その湾口部・喉仏の様なところの先端に、陸中海岸を代表する景勝地である「浄土ヶ浜」がある。 
300年以上前、この地を訪れたお坊さんが、「さながら極楽浄土のごとし」とその美しさに感嘆したことからこの名がついたとか。 
このあたりの地質が白い石英であることから、太平洋の荒波に削られて様々な形状で林立する岩や砂浜は白く、透明度の高さを誇る美しい海(日本の水浴場88選)の群青とのコントラストが美しい。真夏にはこの景観を愛でながら海水浴客で賑わうという。

この浄土ヶ浜の南側に宮古港が広がっている。

宮古は、陸中海岸国立公園のほぼ中央に位置し、美しい海岸風景が続く。 その宮古港は、古くから三陸沖の漁業基地として位置付けられてきた。
又、浄土ヶ浜を初めとする美しく、勇壮な景観の海岸が多く存在する観光の町でもある。
古くは明治維新当時、宮古以北には艦隊が物資を補給できる良港がなかったため、蝦夷に向かう船は必ず宮古港に停泊したといわれる。


榎本武揚率いる旧幕府軍もまた蝦夷に向かう途中の明治元年(1868)10月、宮古湾に入港して兵糧等を補給、出航した記録が残っているという。
そして、その凡そ半年後、宮古港内で維新史の戦争末期、日本海戦史に残る壮大な海戦が行はれたことは余り知られてない。 
その名も「宮古港海戦」という。


明治2年3月、榎本武揚の率いる旧幕府軍は、箱館の五稜郭にたてこもって官軍と対峙していた。 
この時、榎本軍を攻略すべく北上する政府軍の軍艦「甲鉄」を旗艦とする艦隊が、宮古湾に進入、停泊するとの情報を得た。 これを知った榎本は「甲鉄」の乗っ取りを企てるのである。 
そして3月20日、榎本武揚率いる幕府軍艦、回天を旗艦に蟠龍、高雄の三艦が南下出撃する。

乗っ取り作戦には特に訳があった。 
艦長・榎本が最も信頼していた幕府旗艦「開陽丸」が明治元年11月、大嵐のため江差沖で座礁し沈没してしまったのである。 不慮の喪失であった。 
海軍の将・榎本としては、何としても代替の新鋭艦が欲しかったのである。

時に宮古湾に投錨していた官軍の軍艦は、「甲鉄」を先頭に八艦停泊していた。 
甲鉄はアメリカから購入した当時の最新鋭艦であり、艦砲の他にガトリング砲まで装備していた鉄鋼艦であった。

ここで榎本軍率いる旧幕軍の艦隊は、思わぬアクシデントに見舞われるのである。 
南下の途中、暴風にあって各艦は離ればなれになってしまい、「蟠龍」が行方知れずとなり、24日には嵐がやや静まったものの、25日までに山田港(宮古湾)に到着できたのは「回天と高雄」のみだった。 
25日早朝、回天は米国旗、高雄は露国旗を掲げて宮古港に接近したが、更に、高雄が機関故障を起こして作戦から離脱、旧幕府艦隊はやむなく回天のみで作戦を敢行することになった。

3月25日未明、回天は甲鉄に直角に接舷し、土方歳三を始め新選組の元隊員らが乗り込んで斬り込みを掛けた。 
その壮絶無比な戦闘は、新政府艦隊「春日」の三等士官として乗り込んでいた「東郷平八郎」(後の海軍連合艦隊司令長官)はその衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として対馬沖海戦(日本海海戦)のヒントになったとも言われる。

しかし、回天の突入部隊は、ガトリング砲(速射砲・手動式機関銃)などの反撃で壊滅的損害を出し、わずか30分で回天は撤退した。 
回天と甲鉄は甲板の高さに差があって、回天から飛び下りた斬り込み部隊の多くが足を挫き、そこをガトリング砲で狙われたと言う証言もある。 
又、更に不運だったのが、追跡して来た新政府艦隊・春日(出撃体制にあって艦砲合戦がまともに出来たのは春日だけだったらしい)によって、機関故障中の「高雄」が田野畑沖で発見され、激しく砲撃されて座礁し、多くの乗組員が戦死している。 
この時、座礁してやむなく上陸した乗組員を、政府軍兵が虐殺したとも伝えられている。 尚、蟠竜と回天は後に合流し、二隻共に翌明治2年5月の戦闘まで生き残り、最期は函館湾で座礁・沈没している。

政府軍による虐殺行為は、「天下の官軍が蛮族の行為をおこなった」と酷評し、函館戦争の敗戦後、榎本達の助命嘆願の一因となる効果を生んだともされる。 
事実、函館戦争終戦時は、榎本以下旧幕軍の主な幹部は土方を除いて殆どが助命されていて、尚且つ、新政府の要職に付いたという。

この海戦は、わが国近代海戦史上初の海戦であり、後の、日清、日露の海戦の勝利へとつながったともいわれる。
「宮古湾海戦」と銘打った国際戦史にも記録されたこの作戦は、近代戦史では、特に東洋では特筆すべき戦役であったともされている。

宮古港から車で10分ほどのところに陸中海岸の景勝地である「浄土ヶ浜」があり、この浜の一角、台場展望台へ向かう道の入口のところに「宮古港海戦記念碑」がある。


宮古の名勝

★浄土ケ浜=ダイナミックな断崖や奇岩が複雑に入り組んだ岩塊が続く合間に、白い砂浜が在る、透明度の高い青い海と緑の松のコントラストは絶景。
★トドヶ崎=最東端の岬、灯台は本州で最も東に位置する、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の手記の舞台となったことで知られる。
★ロ-ソク岩=高さ40メ-トル、幅7メ-トルの文字通りのロ-ソクのように天にそそりたっている。
★潮吹穴=荒波が押し寄せるたびに、幅約30センチの岩の隙間から海水が吹き上がり、荒天時には30メ-トルにも達する。


国道45号・陸前浜海道は、宮古湾を見納めると再び山中となる。 
並行している三陸線も山間を曲がりくねって延びている。  
最高所の「石峠」を越えると山田町である、間もなくその山田湾に出た。

山田湾には無数の筏が浮かぶ、カキ、ホタテに代表される養殖漁業であろう。 又、ウニ、アワビなどの漁獲も多い、この街の活力源であり観光資源でもある
その筏群の中にお椀を伏したような、コンモリした中央に浮かぶ大小の島を「オランダ島」という。

凡そ、360年前の江戸初期(1643)年、水と食料を求めたオランダ商船・ブレスケンス号が、山田湾に入り大島に停泊した。 
知らせを聞いた大槌代官所の奉行はとりあえず給水を許可し盛岡藩主に報告、盛岡藩は幕府に指示を仰ぐ。
しかし、幕府からは逮捕命令が出てしまい、やむなく船長ら10人が逮捕され江戸に護送された。
ただ、山田村民の強い解放願いもあって、江戸で取調べを受けた後は国内を見物しながらも、9カ月後、長崎からオランダへ帰っていったという。
このことがあって大島は後に「オランダ島」と名付けられたという。 この事件は、ブレスケンス号事件として、地元では今も語りつがれていると。 
平成12年、オランダのザイスト市と山田町は友好都市の締結を行い、現在お互いの町を行き来する交流が続いているという。

山田港にオランダ島行きの乗船場・桟橋があって、今は渡し舟は停泊してないが、長閑な雰囲気が漂っている。 
島の周囲は、緑の森、砂の浜、海の青が相まって大変な美しさである。



次に、「船越湾」沿いを行く、この辺りも実に良い眺めである・・!。
そして「吉里吉里」(きりきり)という地名に目が止まった。 

昔、自称、吉里吉里人・井上ひさしの「吉里吉里王国」という本がベストセラーになったのを思い出した。 東北地方の小さな村が突如日本から独立するという1981年に刊行された井上ひさしの同名小説・『吉里吉里人』である。

吉里吉里とは・・、
昔、この辺りは「吉里吉里村」というのが存在していて、明治期に町村合併で大槌町となった経緯が或る。 この地を、井上ひさし氏は実際に尋ねているらしい。
因みに、元々、「キリキリ」とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味しているらしく、吉里吉里の海岸線は美しい透明な砂と水が自慢のビーチであった。
今は、あくまで長閑な田舎町であった。 

次回は、鉄の町「釜石



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2010年5月21日金曜日

日本周遊紀行(97)田老 「三陸地方と津波」

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 日本周遊紀行(97)田老 「三陸地方と津波」


リアス海岸と津波・・、

昨夕は、小本温泉の「黄金八大龍王の湯」という仰々しい名前の冷泉で身を清めた後、田老町までやってきてマイカー泊まりとなった。 
尚、小本温泉については、この後「温泉と観光」の項で述べています。


夜半よりバタバタと車を叩く雨の音が気になった。 山間の「道の駅・たろう」は小雨模様で、やや冷んやりとしていた。 先ず熱いコーヒーを口にして、眠気を取り払う。


三陸の田老町は、リアス式海岸の湾の奥に位置し、幾度も津波の被害を受けているため、総延長数kmにも及ぶ高さ10mの防潮堤を建設するなど、津波に対して強い街づくりを進めているという。

この辺りの地へ来たら、やはり三陸特有の様子を記さねばなるまい。
田老町を過ぎて宮古市あたりから、宮城県の松島の海岸線に至る地域は独特の地形をしている。 

一般に「リアス海岸」と呼ばれ、海岸線の入り組んだ「溺れ谷」といわれる地形が連続している。 
溺れ谷というのは、陸上の谷が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾のことで、最終氷期から後氷期に入った1万年から5千年前までの海面上昇で世界中の海岸にできたという。
大きな川の河口近くなどでは砂泥に埋められて平野となったが、砂泥の供給の少ない所(愛媛県南部・若狭湾・三浦半島南部・三陸海岸など)には今も残 っている。  
リアス」というのは、スペインのリアス地方で見られることから命名されたスペイン語で、リア (ria) は入り江を意味する。 

リアス海岸は複雑な地形、特異な様相をしているため、断崖絶壁、大小の鋭い奇岩、渦巻く波飛沫など、見るべきところが多く、景観地を形成している。 
特に、この先の大船渡湾に突出した末崎半島の碁石海岸やその南の唐桑半島は秀美な風景を呈していると。 
又、複雑に入り組んだ入り江は風の影響が少なく波も立たない、従って、三陸海岸は筏(いかだ)による養殖漁業が盛んで、カキやホヤとホタテガイなどが生産されているという。
波の無い、鏡のような静かな海面に、筏が浮かぶ様子は一服の風情でもある。


三陸地方の津波について・・、

ところで、三陸海岸のリアス海岸では入り江は湾口に較べて奥の方が狭くなっており、更に、浅くなっている。 
この様な地形は津波が襲来した場合、波高が通常よりも高くなって被害が大きくなる、そのため、高波を防ぐための高い防潮堤を設けている所が多い。 
この田老町も津波との闘いの歴史だという。 

なかでも慶長16年及び明治29年、昭和8年の3回は再起不能といわれるほどの壊滅的被害を受けている。そんな中 、昨年、2003年「津波防災の町」を宣言している。

現在では市街地を世界最大級の高さ10メートル、総延長2.4kmの防潮堤が街を囲み災害に備えてある。 コンクリートの壁は、軒を連ねる住宅を見守るように延々と町を横断している。 防潮堤建設と同時に、区画整理も行はれ災害に強い、安全な町ずくりが進められたという。
尚、このコンクリートの壁は、すばらしい自然景観を損なうとして、防潮堤には大壁画を施してあるとか。


三陸地方の主な津波被害

   年代   地震   死者不明   流出家屋   最大波高
慶長16年   松島沖   1800人   多数    不祥
明治29年   三陸沖   22000人   6880人   24m
昭和 8年   三陸沖   2700人    5435   15m
昭和35年   チリ地震   61人    1500   6m

明治29年、三陸地震津波」での地域の津波高さは、三陸綾里湾奥:33.8m(本州最大)、吉浜村:24m、綾里村白浜:22m、宮古市重茂村姉吉:18.9m、田老町:14.5m、北海道襟裳岬:4mなどであり、因みに、ハワイは2.4~9,1mであったという。  


この項も書き終わって暫くして、破天荒なニュースが飛び込んできた。 あまりの衝撃的な「地変」なので、ここに記憶としてと止めておきたい。
史上最悪の津波災害は、死者30万人を超えるとも・・!!! 
2004年12月26日(日)午前8時(日本時間26日午前10時)、 インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった。

次回は、「宮古



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2010年5月20日木曜日

日本周遊紀行(96)田野畑 「無医村に将基面氏」

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 日本周遊紀行(96)田野畑 「無医村に将基面氏」 


無医村だった田野畑村・・?、 

十府ヶ浦の海岸線から再び山間に入ったところは「普代村」である。 この村は、丁度北緯40度にあたるという。 
「東北・西沿岸編」でも記したが、日本海側の大潟村(旧八郎潟)を通った北緯40度線は、秋田・岩手の北部を横断してこの村に達していた。 
記念碑のシンボル塔が海岸に建っている。 

又、この村に「鵜鳥神社」という社があり、平安時代の初めに創建されたと言われ、この宮は源義経によって建てられたとも言われている。 
義経は、実の兄・頼朝に追われ、平泉で自刀したが、人々は、義経は平泉から逃げ延び、蝦夷地を目指した、という「義経北方伝説」を残した。 
その途中、ここ鵜鳥神社に立ち寄ったと伝えられる。

平成17年度、NHK大河は「義経」が放送された。



田野畑村」も海の山岳地・海のアルプスと言われ、かっては陸の孤島であった。

沿岸に在りながら、大絶壁に阻まれ、周りは重厚な山地に囲まれている。 
深い谷、山地が人々の往来を遮った。あまりの道の険しさに、このまま行こうか、それとも引き返そうかと思案したという「思案坂」や「辞職坂」と言った呼称の地が国道45号の界隈に残る。 
このように陸の孤島といわれる村で、当然と云うにはおこがましいが、この地区は無医村というか、医者が来ても直ぐ辞めてしまうという。

この無医村だった田野畑村に医師として赴任し、19年にわたり地域医療に貢献した人物がいた。 将基面 誠(しょうぎめん まこと)という。 
チョット珍しく印象的な姓名であるが、昭和57年4月、千葉県がんセンター婦人科医長の要職にあった将基面氏は、医師が不在だった村の診療所に赴任し、以来、19年間にわたって村民の健康を守り続けてきた。 
在任中は医療の傍ら、幼児から高齢者まで一貫した健康管理に取り組み、また、医療と保健、福祉の体制を強化し、三者を総合的に推進する「ほっとピア構想」というのにも取り組んだ。 

平成8年には、これらの地域医療に対する功績が高く評価されて保健衛生と社会福祉の分野で最も権威のあるといわれる「保健文化賞」を受賞されたという。  
彼は医療の分野だけでなく、多方面にわたり村の振興に献身したとも云われ、「花笑みの村」と銘うって、「亡くなった妻が好きだった梅の花で、村を一杯にしてほしい」と副賞の全額250万円を村に寄付、診療所や公園などに約200本の梅の苗木を植樹してきた。 
今、これらの梅の木が美しい花を咲かせ、成長しているという。 

平成13年、田野畑村での村医を辞め妻の故郷・千葉県木更津に帰っている。
地域医療のあり方を描いた感動の人間ドラマとして、『無医村に花は微笑む』がフジテレビ系で2006年1月に放送された。 
医師・将基面氏を演じるのは三浦友和、その彼を支え続けながら45歳の若さで亡くなった妻・将棋面 春代さんを伊藤蘭が演じている。




断崖絶壁が続く「北山崎」


田野畑の海岸線は、この山地をギザギザに切り裂いた様な断崖絶壁が連続する。 
この一角は「北山崎」といわれ、陸中海岸の中心的スポットでもある。 
JTBが自然資源・海岸の部で、国内で唯一最高ランクの特A級に評価し、名実ともに日本一の景観を誇る海岸であるという。 

更に、北山崎と並んで「鵜の巣断崖」と言われるのもある、200メートルの落差の圧倒的なスケールを誇る絶壁、中腹には「ウミウ」の巣があることから名づけられた。 
五列に連なる断崖は巨大な屏風の様だといい、展望台からの大パノラマが楽しめるという。

次回は「田老」




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2010年5月19日水曜日

日本周遊紀行(95)久慈、野田 「琥珀と塩」

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日本周遊紀行(95)久慈、野田 「琥珀と塩」


琥珀の「久慈」と塩の「野田」といわれたが・・、 


国道45線は、別名「浜海道」と称している。 実際の国道はかなり内陸へと進むようになるようだ。 
山間の上下曲折を繰り返し、国道395と合流すると間もなく久慈市街、久慈湾が望まれた。 
久慈といえば、日本で唯一の「琥珀」(こはく)の産地であるという。


琥珀について・・、

琥珀」というのは数千万年前の松や杉などの樹液が、石のようにカチカチになって化石状になったものをいう。 
色は多様であるが主に黄褐色を帯び、ネットリした水あめ色が一般的なようである。 

久慈地方の琥珀は、中世代白亜紀後期のいわゆる「恐竜時代」に属するもので、およそ8500万年前のものともいわれる。
琥珀の中には、植物や虫の死骸が閉じ込められた、所謂、「虫入り琥珀」と呼ばれるものもあり、数千万年という気の遠くなるような時間の経過状態で、その姿を残しているのもあると。 
虫入り琥珀には、生物のDNAも保存されているといわれ、昆虫などの進化をはじめ、太古生物の生活環境さらには、当時の地球の様子などを知る手がかりを与えてくれる極めて学術的価値にも高い貴重な化石だと言われる。

そう、あの大ヒット映画、マイクル・クライトンの『ジュラシックパーク』(Jurassic Park)において、琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜の血液を採取し、その中に含まれているDNAを採取することで恐竜を蘇らせるという設定を用いた。
だが、実際にその年代の蚊が琥珀に閉じ込められていたとしても、長い年月の間に石の中で化石化するため、現実にはそのアイデアは実現し得ないともいう。 これはあくまでも小説の世界である。


古来、琥珀は「パワーストーン」、「マジカルパワー」を秘めてると信じられていた。 
昔は琥珀を称して「悪魔的なものに対する強い防御能力」、「生命を高揚する能力」、「心の奥に秘めた想いを伝えるテレパシー能力」、「物事に対するサクセス能力」などがあると信じられ、古代の貴人達に重用したといわれる。 

昔から珍重されてきた人類最古の宝石・琥珀。 
久慈地方の琥珀を使った勾玉・なつめ玉・丸玉などが、奈良県を中心とした有力者たちの古墳から数多く出土しているという。
交通手段のない古墳時代に久慈から奥州路・東山道を通って、大和朝廷に運ばれた琥珀、この道を「アンバーロード」とも呼ばれている。 
アンバーとは琥珀(こはく)のことである。

英語の電気(electricity、electrum など)の語源は、琥珀を意味するギリシャ語のelektronであり、琥珀を擦ると静電気が発生することが由来とされている。 しかし、琥珀そのものは電気を通さないため、この性質を利用し戦時中は絶縁体として使われていた。

現在、市街地の南西部の山麓に、国内に一箇所だけの「久慈琥珀博物館」があり、館内では琥珀のアクセサリーなど手づくり体験もできるという。
現在では、琥珀は宝石やペンダント、ネクタイピンなどの装飾品や装身具として利用されているのは周知である。



久慈の市街地から再び国道45は山間地に入る、そして又海岸へ出る、それらを何回か繰り返す。 そう、ここは「三陸沿岸」である。

久慈市から宮城県塩釜に至る太平洋岸は、大断崖や海食による洞窟や洞穴、奇岩に白波の立つダイナミックな「リアス海岸」が続くのである。 
久慈市から宮城県気仙沼市まで約180kmが陸中海岸国立公園に指定され、気仙沼から塩釜市付近まで約130kmを南三陸金華山国定公園域とされている。 
そのためか・・?、透明度が高く透き通った青い海が続く。


その海岸線を国道45号線が走る、間もなく「野田村」である。
この海岸沿いには野田村、普代村(ふだい)、田野畑村と県内では比較的小規模な村域が連なる。 
何れの村も、昨今の「平成の大合併」にも頓着せず、堂々と自主村域を維持しているところ立派と言えるだろう。 是非、頑張ってほしいものだ・・?!。


野田村についてだが・・、

そちこちの古い峠道には、かつて「ベコ(牛)の道」と呼ばれた狭い山道が残っているという。 
塩の道と言われる「野田塩・ベコの道」で、先人が築いた足跡は、現在は追分けの庚申塔や道祖神が、その歴史を刻み込んでいるという。

野田村の海岸では、古くから製塩が行われていたという。
ここで造られた塩は北上山地を越えて雫石や盛岡近在にまで運ばれ、米、粟、そば、豆などの穀物と交換されていた。 
この地方の塩を運ぶ人々は、牛の背につけて運ぶことが多かったので「野田ベコ」と呼ばれ、この塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいる。

私事ではあるが、信州白馬村の別宅に面したところにも「塩の道」が走っている。 日本海に面した糸魚川から内陸の信州松本へ至る街道であ。 
戦国期、塩に窮した武田信玄が、敵将でもある越後の上杉謙信に信濃の国に塩を送りよう要請したところ、快く引け受けてこの街道より塩をおくったとされている。 
ここも当時の面影である、庚申塔や道祖神など数多くの史跡が残っているが、その他にも日本の各地に「塩の道」は存在しているという。

海のない内陸部の人たちは、塩行商の野田ベコが来るのを待ちこがれていた。 
長くて厳しい東北の冬を過ごすには、塩漬けの保存食は必需品であり、当時は特に塩は生活に欠かすことのできない貴重品だったのである。

それに塩の道は、東北の内陸と沿岸部を結ぶ重要な交易の道でもあった。 
これには背景もある、野田の海岸で早くから鉄の生産が行われていたともいわれる。 
日本有数の砂鉄の産地でもあったこの地方では、塩を煮る鉄釜を容易に手に入れることができたようである。

「塩の道」を通して、野田村の歴史と文化が各地に伝えられている。 
塩の道とは、当時の一般庶民の生活の道でもあり、庶民文化の道であり、文化を伝える道でもあったといえる。 


南部牛追い唄』 岩手県民謡

田舎なれどもサーハーエ
南部の国はサー
西も東もサーハーエ
金の山コーラ サンサーエ

南部牛追い唄」は、南部の人里離れた奥山路を二晩も三晩も野宿を続けながら、ゆうゆうと旅する牛方達のよって歌われた「牛方節」で、哀調溺々たる中に落ちつきと気品を備えた陰旋の美しい唄である。 小生の好きな民謡の一つでもある。

野田の十府ヶ浦は、紫色の小豆砂に覆われ、山陸地には珍しい緩やかな弧 を描いて続く3.5kmの海岸線である。 
夏には、ここで村のビッグイベント「野田砂祭り」が行われるという。

次回は、「田野畑」



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2010年5月18日火曜日

日本周遊紀行(94)階上、種市 「洋野町」

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日本周遊紀行(94)階上、種市 「洋野町」

「洋野町」は瑞祥地名・・? 


県道1号は、海岸に沿って八戸線と並行して走っている。
八戸線は、八戸市の八戸駅から久慈市の久慈駅を結ぶJR東日本であり、「うみねこレール」という愛称が付けられているとか。 
間もなくその踏切を横切って、国道45号へと合流した。

途中、用を感じたので案内に従って「道の駅・はしかみ」へ寄った。
気がつい付いて、「はしかみ」は当地「階上町」のことであった、「かいじょう」では無いらしい・・、妙な名であるが。
「かい」は音読みであることは判るが、「はし」と訓読みであろうことは気ずかなかった。 

因みに、漢字は中国の文字でるが、日本に伝えられて、そのまま使われているわけではなく、例えば、「山(サン)」、「川(セン)」のような中国読みを「音読み」として、そのほかに、「山(やま)」、「川(かわ)」というような日本読みを「訓読み」というらしい。 

「階上」は音読み、つまり中国式読み方で「はしがみ」となる。 
いやはや、日本語は難しい・・。


町によれば、「はしかみ」の語源については定かでないが、往時、糠部五郡の中に階上郡があり、当時の郡役所の仕事をしていてた役人たちが「階上岳」という山の北麓にある八つの村を統合する名称として「階上・はしかみ」 と命名されたのではないかといわれている。
明治の大合併で、旧八カ村を合併して「階上村」となり、昭和55年には、町制施行により「階上町」となったとされている。



既に、「岩手県」に入っていたようで、 種市町である。

またまた、合併の話であるが、種市町は内陸部の隣村、大野村と合併協議が進み、新町名「洋野町」(ひろのちょう)として発足するらしいが、事実、2006年(平成18年)1月1日同町村がが正式合併し、九戸郡「洋野町」が誕生したという。

この地域は八戸市の生活圏、経済圏に属していることから、八戸市との将来的な越境合併も視野に入れて、広域圏の中心である久慈市との合併を拒否していた経緯があったらしい。 
結局、八戸、久慈市の両市とも合併せず、九戸郡種市町と同郡大野村の2町村だけの合併を選択したようである。

町名は一般公募により「洋野町」と決められた。 
だが「洋野町」という名称は、一種の「瑞祥地名」ではないか、という批判もあったという。 
洋野の「野」と大野村の「野」は直接な関係はないというが。 

瑞祥地名(ずいしょうちめい)とは、目出度い意味の言葉をそのまま地名にしたり、良い意味合いの言葉から地名を創作したりするものとされる。

古里、故郷、ふるさとは、人間のアイデンティティ(精神的同一性、自己の存在証明、同一性)を形成するのだともいわれる。 
合併などにより新しい自治体が誕生する度に、ツルンとした瑞祥地名をつけるのは住民を「精神的根無し草」にする可能性を秘めていろと、ある専門家はいう。 「それは故郷を失ったに等しい」とする見方でもあると。 
そして合併の際にどちらの地域も自分の地名を残したい一心で、双方から一文字づつ取って作る「合成地名」も結果は同じであろうと。



瑞祥地名であるが・・、

平成の大合併においては市町村名にまで「商品名」のような瑞祥地名が用いられるようになり、和や美、清、栄といった文字を使った地名など、その土地の歴史を反映していないものが多くなっているという。 
地名研究家などからは「安易である」、「個性が無く日本全国どこでもその地名をつける事ができる」などといった批判も多い。 
反面、特に対等合併の場合などどちらの地名を付けるか、お互いが主張しあって難儀である。又、個々の地名はある程度限られた地点の名称であるため、合併により広域となった地域を総称するに相応しい名称が無い場合もあり、これらを考慮して理解を示す向きもあるというが・・?。



突飛で 且つ私事であるが、小生若い頃、東京の「大手町」(東京都千代田区大手町)という地名のある、とある会社に勤めていた。 
大手町は当然江戸城、現在の皇居の大手門に位置する事から名付けられたのは周知で・・、城下町なら何処にでもある町名である。 

大手町の反対側、つまり皇居の反対に位置する赤坂に(赤坂、赤坂見附は江戸城外堀の名称)「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。
この地は、130年前の江戸時代には徳川御三家の「紀州家」「尾張家」と、幕末の大老家である「井伊家」の屋敷が占めていたという。
その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」としたのである。
無論これは近年の合併で生まれた地名ではないし、合成地名の様ではあるが江戸期の昔から界隈の人々が”紀尾井様の居られる処”ということで、自然とこの名が付いたという。 
まことに一語で歴史や当時の様子が窺える由緒ある地名だと、カネガネ思っていたのである。


序ながら、地域の合併、特に近年では「明治の大合併」(1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年では71314から15859に減少)と「昭和の大合併」(1953年の町村合併法施行から1956年を経て1961年までに9868の基礎自治体が3472に減少)の大規模な市町村合併があった。

現在は「平成の大合併」が進行中であるが、この町村合併では、一貫して市町村数は減少する傾向にあり、合併の例が分割の例に比べて圧倒的に多い。 又、合併や分割の協議の決裂により、飛地が発生する場合もあったらしい。 

もし、ここで八戸市と緊密な関係にあった種市町が、希望通り八戸と合併し、新八戸市が誕生していれば、間に階上町が存在していて種市地区は八戸市の「飛地」になるわけである。 
因みに、中間に位置する階上町は、今時、合併話はないらしい・・?。



種市町であるが・・、

種市町のユニークさの一つに、「南部もぐり」というのが有るらしい。
一般にもぐり・潜水というと、素潜り、素潜り漁を連想するが、南部もぐりは古くからの伝統を生かし、技術的に高め、これを確立したことにある。

今から約100年前の明治期、種市沖で貨客船が座礁し、その解体引き揚げ工事のために、房州(千葉)から潜水夫がやってきた。 
この房州潜りの組頭が住民のひとりに ヘルメット式の潜水技術を伝授したのが始まりだといわれている。 
素潜りしか知らなかった彼らが、この技術を広範に広めていき、 そして、この地方に豊富な魚介類を採る沿岸養殖漁業に潜水を利用することを考え、今日の三陸沿岸の養殖漁業の基礎を築いたという。   

戦後の昭和期、潜水士を養成するために、当時としては極めて珍しい岩手県の高等学校で「潜水科」が開設された、種市高である。 
今、現在の種市高等学校の海洋開発科は、学習と実習を通して土木と潜水の基礎知識を学ぶことが出来る全国唯一の学科だそうで、生徒たちは海洋開発に必要な基本的な知識と技術を習得し、海洋工事全般に携わる高度な技術者を養成するための、 資格や免許も取得できるようになった。
卒業生は港湾土木や橋りょう建設、海底調査など国内外で顕著な活躍しているという。


次回は、「久慈




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2010年5月17日月曜日

日本周遊紀行(93)八戸 「近代の八戸」

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日本周遊紀行(93)八戸 「近代の八戸」



更に、「近代八戸」について・・、

寛文4年(1664年)、盛岡藩が主藩となった中、八戸はその内の2万石を与えられ支藩となって新たに八戸城を築城している、藩主は「南部直房」であった。 
しかし、江戸期の大名の格式からいうと城主ではなく「陣屋大名」であった。 このため、八戸城は陣屋ということで、地元では「御屋敷」とも呼ばれていた。 
だが、幕末の天保9年(1838)八代藩主・信真の時、北方の沿岸警備の功により城主格に昇格し、八戸陣屋は晴れて「城」と呼ばれるようになり、晴れて大名格になったのである。

八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、広く久慈市あたりまでが八戸藩であったという。
この八戸藩が、現在の八戸市の近代化発展の礎になり、八戸城は、現在の市の中心地となっている三八城公園(みやぎ・・)にあり、本八戸駅前、市役所、公会堂や城下町には三日町、十三日町など「市」の立つ日を名前とした街が並んでいる。

それにしても青森・南部地方というのは数が好きな地域なのであろうか・・??。

一戸、二戸(四戸は地名は無いが苗字はあるという)から九戸まで、 海岸線にかけて一川目、二川目・・・六川目、他にも三沢市、百石町なども在る。 
「川目」というのは奥入瀬川から北上し次の川までの間を一川目、次の次の川までの間を二川目などと名前がつけられているという。 
間の距離がかなり違うが目印が無かった時代、川を目印にしたのでその名が付いたとも云われる。


現在の八戸市は東北・八戸自動車道をはじめ、2002年12月に東北新幹線が八戸駅まで延伸開業し、東京駅まで最短3時間で結ばれている。 八戸市は南部地方の中心都市であり、八戸都市圏は約33万人の人口を擁する。 

商圏は隣接する岩手県北東部にも及び、東北地方でも有数の約60万人の商圏人口を誇っている。
東北新幹線の駅名は「八戸駅」で、「青い森鉄道」といわれる駅と共用としている。


青い森鉄道・・? 

かっての東北本線であるが、東北新幹線・盛岡~八戸間開業に伴い並行在来線としてJR東日本から経営移管され、東北本線・盛岡~八戸間のうち、青森県内の部分を運営する第三セクターの鉄道会社である。
因みに、岩手県内の部分は「IGRいわて銀河鉄道」が運営する。


県道19号より八戸臨海道路を行くと、左にウミネコの繁殖地で有名な「蕪島」(かぶしま)を見ながら種差海岸に出た。 生憎、小雨が降ってきていたが。

先頃、息子が車で北海道へ行く途中、この種差海岸へ立ち寄って、「親父、種差海岸は良い所だよ・・!心が洗われたヨ・・、のんびりスナック菓子を食べてたら、カモメが寄ってきて、手の平で食べてたよ・・それにしてもカモメて以外と大きいな。」などと言っていたのを思い出す。

天然の芝生が広大に広がっていて、そこに青松が処どころに生い茂っている。 その向こうに青紺の大海原が広がっていた。 
確かに絵のように美しいところだ、気持ちが安らぎ、癒してくれる、カモメはいなかったが。    
だがこの地は、種差海岸の美の一つのポイントに過ぎなかったようだ。 
この一帯は新日本観光地100選、白砂青松100選、日本の渚100選になっていて、今、通ってきた鮫町の蕪島から南東の大久喜までの約12キロ区間の海岸は美的景観地に選ばれているのである。 大須賀、白浜、種差には実に美しい砂浜がある。

又、ここから葦毛崎展望台まで、海岸沿いに約5キロの遊歩道があり、奇岩怪石、ハマナス、ニッコウキスゲ、スカシユリなど、多くの山野草で楽しめるという。 
種差は、広大な天然芝生なので、レジャーマットや、遊び道具でも持っていくと楽しいだろうな、と想像してしまう。    


八戸小唄』 唄・三橋美智也、大西玉子

唄に夜明けた かもめの港
船は出てゆく 南へ北へ
(ハァ ヨーイヤサ)
鮫のみさきは 潮けむり
(チョイサー チョイサ)

大西玉子が唄い、県を代表する民謡となったが、男声では、オーケストラの伴奏で爽快に唄う三橋美智也がよい。 
八戸小唄を唄うとき、むかしは、後の掛け声は「鶴さん、亀さん」の繰り返しだとおもったが、これは亜流ですかな・・?

次回は「洋野町



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日本周遊紀行(93)八戸 「南部と津軽」

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日本周遊紀行(93)八戸 「南部と津軽」


更に、「八戸」が続きますが・・、

序ながら、この地方を「南部地方」というのは周知だが、別名、「県南地方」とも呼ばれている。 
確かに、県南イコール南部とも思われるがそうではない、先にも記したが「南部地方」という名の由来は、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった南部氏が支配したことから付けられている。 
又、「上北地方」ともいわれる、むつ市や下北郡の半島という地理的にも文化的にも下北地方と対比して扱われる場合である。 
一方、「三八地方」とも言う、三は、三沢市のことであると思うが実は三戸町の三であり、八は当然ながら八戸市である。

八戸地方」は、その時の事象によって色んな呼び方が有るようだ。


この青森のもう一つの地方は言うまでも無く「津軽」である。 
「津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。

つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。
この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。 
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。 

それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 
南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」・・と。 


其の経緯として・・、

江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。
最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。

現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。

次回は、「近代八戸」



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2010年5月15日土曜日

日本周遊紀行(93)八戸 「南部地方」

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日本周遊紀行(93)八戸 「南部地方」


南部地方の「南部」とは方角ではない・・!! 

八戸市の東に「南部町」がある。 
甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとことは先に記した。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。


八戸市街地の西方に「根城」(ねじょう)という地域があり、馬渕川沿いに根城城址がある。

八戸の町の始まりは、南部師行 が陸奥の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ:南北朝時代の公家・「神皇正統記」で知られる北畠親房の長男。 後に村上師清と名乗り、村上水軍の祖となる。北畠家は村上源氏の庶流)に従って甲州からやってきて、根城 に城を築いたときからとされる。

南部氏の祖は「南部光行」とその一族のことであるが、奥州に下向するにあたり出身地の甲州の地には、まだ光行の子息が残されていた。 その子から数えて四代目の子孫が根城南部氏を築いた「南部師行」であり、彼の子孫が八戸氏と称し、これが「八戸南部氏」の始まりといわれる。

これに対し、三戸(さんのへ)に根拠を置いた系統も存在した、これを「三戸南部氏」という。 三戸南部氏の出自については光行の二男・実光の系譜であるとされ、室町期の14世紀半ば頃に奥州に下向したようだが、南部氏が宗家としての地位をどの様に築いたかははっきりしないともいう。
何れにしても八戸南部氏も、三戸南部氏も初代光行の系譜で、ほぼ同格の存在としてみなされる。 

又、室町時代後期には九戸氏も有力者として幕府(室町幕府)に認知されており、元より、九戸氏も南部氏の始祖光行の六男・行連を祖とする南部氏の一族である。
だが、室町期から戦国期にかけての北奥州地域の南部氏には、宗家と呼べるような確固とした勢力、権力を所持する家はなく、何れも地域に根を置く豪族といわれる同族連合の状況であったらしい。

しかし、八戸南部氏はその後衰退してゆくことになり、逆に三戸南部氏が伸張してゆくことになる。 この三戸南部氏が、後の江戸期の南部・盛岡藩に繋がったとされている。



三戸南部氏は南北朝時代以来、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、奥州10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。 
更に、関が原合戦の後の慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知確立されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。

戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。 
因みに、浅野長吉(ながよし:長政・ながまさ)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。 
子には浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。 

引き続き八戸・「南部八戸



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日本周遊紀行(93)八戸 「戸(へ)とは・・?」

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 日本周遊紀行(93)八戸 「戸(へ)とは・・?」 

「八戸」周辺には、「戸」という行政地域が多い。 
その戸(へ)とは・・? 




奥入瀬川の海運橋を渡ると「八戸市」である。
地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。


ここで『』について・・、

平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 

糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。

この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。 所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。
頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになったという。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。 
この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「」の起こりといわれる。

「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。
その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市がある。

だが、四戸がありませんね・・、 

四戸の地名が消えた理由は、四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないか、という説が有力だといわれる・・?。

尚、「四戸」の所領は、現在の馬渕川沿いの「剣吉」から「櫛引」に懸けての地域だったといわれる。 
古文書によると今の「櫛引八幡宮」は、かっては「四戸八幡宮」と書かれてあったとも云われる。

八戸市八幡に鎮座する「櫛引八幡宮」は、南部氏代々が崇拝した南部藩の総鎮守で、南部一の宮とも呼ばれる。 
八幡宮は、奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を建久3年(1192年:鎌倉幕府創立))に六戸・瀧ノ沢村に仮宮として移したのが始まりで、後に櫛引村に神殿を構え櫛引八幡宮と称したと伝えられている。



序ながら、八戸市とその周辺には「えんぶり」という行事がある。

元々は、旧正月に行われていた 田楽・「田植え踊り」の一種で、「八戸えんぶり」ともいわれ、2月17日から20日まで行われる。

「エブリ」(柄振・穀物の実などを掻き寄せ、また水田の土をならすのに用いる)という農機具をを持って踊ったのが始まりとされ、「えんぶり」は、この「エブリ」が訛ったものといわれる。

古くから農作業に活躍した馬の頭をかたどったとされる大きい烏帽子を被った3~5人の太夫が舞い踊る。 舞は二種有って古式にのっとった、ゆったりとした「ながえんぶり」と、新しい形で動きの活発な「どうさいえんぶり」があるという。

えんぶり組は、太夫とその他の舞手、太鼓・笛・手平鉦の囃子方、唄い手など総勢20~30人から成り、少年少女の舞手(稚児)はたっぷり厚化粧して実に可愛らしいという。 
起源、伝説は様々な説があるようだが、南部氏の開祖・南部光行公が奥州下向した頃に始まったというのが通説で、鎌倉時代の始めといわれる。 

八戸藩主・南部光行は、頼朝から奥州糠部郡を拝領し、甲州(今の山梨県)から当国へ下ってきたことは既に述べた。
光行が赴任した奥州で迎える初めての正月に、光行は自分の家来達に武装させ、有力者たちの家を訪問させて酒を酌み交わしたが、酒の勢い余って家来達は抜刀乱舞したため、家人たちは恐れ慄いた。 
このとき、その場に居合わせた農民・藤九郎という機転の利く男が、賑やかに田植歌を歌い、農具を手に持って踊ったところ家来達は刀を納めてその様子を見物し、丸く治まったという。
この藤九郎の機転の利いた様態が、後に上北地方で行われる「八戸えんぶり」に継承されたといわれる。

「えんぶり」の縁日の起りもユニークで・・、

「吾妻鏡」(鎌倉後期成立の史書で、全52巻という長大な書。鎌倉幕府の事跡を日記体風に編述すたもので、源頼政の挙兵から凡そ87年間記載された重要資料)によれば、初代光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談に言ったところ光行曰く「ならば南部の正月は12日だ」と鶴の一声で正月を延期したという。 
以後、南部家の正月は12日となり、正月の伝統行事とされた「八戸えんぶり」は、以降、延々と引き継がれ、継承されたともいわれる。

尚、旧暦正月の1月1日は、通常雨水(24節季の一つ・啓蟄と立春の間で2月19日ごろ)の直前の新月の日であり、現在の1月22日ごろから2月19日ごろまでで、毎年移動する。


このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重であるともいわれる。 
後の南部氏といえば、藩政当時は今の盛岡であり盛岡藩が主藩、主城であり、現在の岩手県中北部から青森県東部にかけての地域を治めた藩で、「南部藩」とも呼ばれるのが通称である。石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。

次回は、南部氏の「八戸地方」、逆も可、八戸の「南部地方・・?」、



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2010年5月14日金曜日

日本周遊紀行(92)三沢 「歴史と基地の町」

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日本周遊紀行(92)三沢 「歴史と基地の町」

わが街・「厚木」もそうであるが、こちら三沢も、やはり基地の街らしいが・・?、

サンダーバーズとブルーインパルスの共演(三沢基地提供)



国道338を南下する。 
三沢に至って六川目という所でのんびり昼食を摂る。

この時(平成16年10月2日AM)、ラジオニュースが大リーグ・マリナーズの鈴木イチローが257本の「安打世界記録」を達成した、と報じていた。 
ウレシイネ・・!イチローといい、ヤンキースの松井といい、日本人大リーガーが活躍してくれることは。


この国道は別名、「東部上北広域農道」というらしい。 南下するに従って五川目、四川目・・・一川目まで順に地名が付いていた。 
川筋を境に付けたのであろうか・・?まあどうでもいい事だけど、なにか曰く(いわく)は有りそうだ。


前項の東通村でもそうであったが、青森県は縄文文化の宝庫であるが、三沢市周辺でも二万年前から人類が住み着き、縄文期の遺跡も数多く発見、出土されているという。 小川原湖周辺の野口貝塚や早稲田貝塚は特に有名であるという。 
この縄文文化が華やいだ三沢の土地は、藩政時代には盛岡南部藩最大の牧場になっていた。 ここは南部駒の産地として知られて、今でも郊外ではゆっくりと草をはむ馬や牛の情景を見る。 

しかし、何と云っても現在の三沢を著名ならしめているのは、やはり「基地」であろう。 
基地といえば、小生の住む「厚木市」の隣町にも、終戦直後マッカーサーが降り立った基地として知られる「厚木基地」が在るが、(実際の所在は綾瀬市と大和市にまたがる)このことは東日本の最終日、地元・厚木の項で述べるとして・・、

太平洋戦争後、広大な牧草地域に米軍三沢基地が建設され、飛行場も開設されている。 
現在、米軍三沢基地を離陸するF16C戦闘機など防空網制圧の特殊部隊として、アジア北東部から中東までの広い範囲をカバーしているといわれる。

小川原湖と三沢市街の間に三沢基地はある。 
昭和13年に旧日本海軍が建設に着手し、昭和17年2月に三沢海軍飛行隊の飛行場として開設している。 
終戦後、米陸軍施設工兵隊に接収され、飛行場等施設の建設改修が行われ、米空軍戦闘航空群が駐留した。 
かの朝鮮動乱の時、三沢基地は前線支援基地として重要性が一段と増し、滑走路等の整備拡張が急速に行われた。 

その後は、在日米軍の縮小計画が発表され、飛行部隊が韓国や米本土へ移駐し、三沢基地から飛行部隊が撤去され、西太平洋艦隊航空隊(厚木海軍航空基地)の傘下に属することとなった。 
一方、航空自衛隊は北部航空方面隊司令部として、在日米軍三沢基地との共同使用を開始している。 

三沢航空基地は、民間・三沢空港も併設され、日本で唯一民間、航空自衛隊、アメリカ空軍の三者が共用する飛行場でもある。

三沢は、縄文遺跡埋蔵の地、広大な牧場の跡地、そして空港のある街と、多彩な顔、多様な歴史と異国情緒あふれる国際都市としての性格を持っているのである。


五川目から・・二川目、一川目を過ぎて、すでに「百石町」に来ていた。
百石はヒャッコクではなくモモイシと呼ぶ。 モモイシとは、アイヌの意味で「流れが豊かな甚だ曲がりくねった川」と称すらしい。

これが地名の由来となったという、あの有名な十和田湖を源流とする「奥入瀬川」は、この地を現在も豊かに流れている。 
百石の街はこの奥入瀬にへばり付くように発展したのだろう。

街の近くに架かる橋を「幸運橋」、川下に架かる橋を「開運橋」と言い、実に響きの良い名称である。

町の北に在る「いちょう公園」の中に、町のシンボル「自由の女神像」が建っているともいう。 
ニューヨークと同緯度で結ばれていることから、北緯40度40分の「4」の数字にこだわり、本家の4分の1の大きさで健立したという、実にユニークである。
橋の名前といい、自由の女神像といい、この街には幸運を呼ぶ何かがありそうだ。

次回は、「八戸」、その「戸」とは・・?



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日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)   八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」



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