google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」

2011年2月27日日曜日

日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」

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 日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」  ,




寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、

若かりし頃、瀬戸内の直島で半年間仕事をしていたことは先に何度も述べたが、その頃、高松には青春の捌け口として、よく遊びに来たことがあった。 
こんな思い出多い「高松」ではあるが、今回は残念ながら寄らないで四国を離れることにする。



その前に四国・讃岐に関して最後に一筆だけ書き加えたいことがある。 
高松の南西地域、南北に細長い「大川郡寒川町」がある、「さんがわちょう」と読むらしい。

ところで話はチョッと飛ぶが・・、
小生の住む神奈川県厚木市の南隣接した所に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、こちらは「さむかわちょう」と称するが。 
この小さな町の中央に地域でも有名な「寒川神社」が鎮座していて、小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。

寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。
歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。 
祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)、寒川比女命(サムカワヒメノミコト)と兄妹神で、いずれも水の縁のある神様である。

水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる。 昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれで、 この辺りは広範にわたる低地帯であったことが想像できる。 
現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに、鎌倉期に建造された「旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。

因みに鎌倉期創世の頃、この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる。
尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというらしい・・?。

丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。
相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしい。



では話を戻そう・・、

寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、
ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「 水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし 」とある。

大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。

地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。

治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。
つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。


では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 
古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 
房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。
そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。

又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。


ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。 社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。
この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 
倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる。 だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。
いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 

斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。
斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。

詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。
伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。
いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。


これらは、あくまでも仮説であるが・・、
歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。

尚、伊勢神宮周辺には別宮、摂社、末社などが多数鎮座していて、人々の生活に密着した多数の神々が祀られている。
因みに、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(下宮)の其々の数は、正宮(内1、外1)、別宮(内10、外4)、摂社(内27、外16)、末社(内16、外8)、所管社(内30、外4)、別宮所管社(内8、外0)で内宮合計92、外宮合計33、合わせて125の各種社宮が鎮座している。(伊勢神宮・宮社の一覧表より)




ところで、2002年(平成14年)4月大川郡津田町、大川町、志度町、長尾町そして寒川町の5町が合併して市制施行し「さぬき市」となっている。 
今回、縁あって大川郡寒川町を記述したが、歴史的町名が又しても消滅していくのは残念である。 
しかも、新市名が”かなもじ”であることは、これまた如何なものか大いに疑問を生ずる次第である。
又、東に位置する香川県大川郡引田町、白鳥町、大内町が2003年4月1日に合併、市制施行して「東かがわ市」となってる。
やはり仮名文字であり、更に「東」の方位文字は深い意味合いは無いらしい。

この結果、大川郡という由緒ある古名は消滅した。
この辺りの大部分の地域は明治期まで千年以上もの間「大川郡」と呼ばれてきたらしく、地域住民、行政担当諸氏は1000年以上もの由緒ある歴史的地名を、あっさり捨てたのである。 
部外者で大きなお世話であろうが、せめて、さぬき市は堂々と「讃岐市」、東かがわ市等は古名に則って「大川市」(福岡県に既に有るが)、又は、「讃岐大川市」などとしてみては如何であったろうか・・?。 

地域の名称は、必ずと言っていいほど歴史的意味を持つものである。 
新名称を付与するに当っても、最近の流行や感情に流されず、歴史を顧み、その事実を尊重して可能な限り未来へ残したいものである。 
過去に付与されている漢字の地域的名称は、独特の歴史的意味合いをもつものであろう。

「かな文字」は元来、漢字から発生、派生したものであり、平仮名文字に変換された時点で漢字の持つ意味は、半減または無意味なものにしてしまうのである。 
四国全般を見ると、平仮名文字で表した市町域が、その他にも「まんのう町」(香川県)、「東みよし町」(徳島県)など六カ所にも及んでいるようであるが・、如何なものであろうか・・?。 
尤も、小生の実家、田舎も福島県の「いわき市」といって「かな」表示であり、これも重々不納得であるが。

次回からは「四国」を離れて・・、



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01. 15.

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