2011年7月30日土曜日

日本周遊紀行(157) 宮崎 「マイ・ファミリー」

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 日本周遊紀行(157) 宮崎 「マイ・ファミリー」   、




宮崎は神代四代の地、そしてこの宮崎の地に我等四代のファミリーが訪れた・・! 、

国保・保養センタ-「あおしま太陽閣」は、昨日夕刻になって予約を入れた為、夕食抜きの朝食のみの宿泊となった。 
温泉は普通に入れて身体を癒すことが出来、大洋と青島に面した大浴場は大変良く、特に露天風呂は爽快だった。


宮崎は、日本でも源泉素材の温泉が比較的少ない県と承知していたが、まして、青島が温泉地であった事は恥ずかしながら存じなかった。 
青島温泉は、青島を中心に太平洋沿いに広がる温泉地で、豊富な湯量を誇るという。
数ある効能のなかでも特に美肌効果が高いといわれ女性に人気だとも。 

温泉の泉質は炭酸水素塩泉(弱アルカリ単純泉)、単純硫黄泉(24~44度)で一般的適応症、痛風、冷え性、動脈硬化症、消化器病、神経痛などに効果がある。



何時(いつ)ものことながら朝湯を頂いて軽い散歩の後、朝食を摂ってホテルを後にする。
今朝の出発はいつもと違って心うきうき晴れやかである、何故なら、小生の家族(上さん)ほか義母及び娘一家が午前9時頃この地・宮崎空港へやって来るのである。 

予定としては、今日、明日で宮崎から鹿児島を周遊し、明日夕刻宮崎港から最後の航海記念となる「マリンエクスプレス」に乗り込むためである。 
小生もこのタイミングに合わせて、今まで行動してきたのであったが。 

空港近くのレンタカー営業所へ向かい、ワンボックスの車をチャーターして空港へ向かっい、時間的にやや早かったので空港周辺を散歩してみた。 

現在の宮崎空港は、平成2年の大幅改装でオープンした新しい空港で、気持ちのいい明るい雰囲気のターミナルである。
地方空港としては珍しく空港にJR鉄道が直接乗り入れ、 (JR九州 宮崎空港線)空港ターミナルに直結しているし、JR宮崎駅へは凡そ5kmと非常に近いので何かと便利である。 

空港ビルの周囲は南国らしく椰子の木が植えられ、花壇には南国ムードを増す特有の植物が植栽してある。
これが、南国の青空に映えて何とも結構な風情なのである。 

滑走路は東西方向から海岸へ向かい離発着しているようで、周りにはまだ畑が沢山残っている。人気の宮崎観光では、夏休みやゴールデンウィークなどいわゆる繁忙期の観光シーズンはいずれの便も集中し、かなり混雑するようであり、席の予約は早めがよいという。


一時して、予定時間より少々遅れたが、皆の元気な姿を拝見できた。 
特に、孫共の三人が「ジージ」と言いながら駆け寄って来て、頬擦りあい抱擁したのには些か感激であった。 
孫達は女児、男児、女児と未だ未就学の三人で、外孫とはいいながら人懐こく、可愛さは満点である。


車に乗り込んだ後の、観光の道順は昨日小生が巡ってきた逆方向を辿ることにした。 
先ず青島であった、初夏の炎天下での水遊びは最高で、レイの洗濯板に先ず驚き、そして孫達は早速、溜まり水の中の小貝や小魚を追い回していた。 

全員で青島をバックに写真に納めて出発する。 
すぐ先の「堀切峠展望台」で一休みし、日向灘の大海と眼下に広がる例の洗濯板を眺めた。 
南海のフェニックスロードは一段と快適で、明るい大洋を望みながらも車内では小生の道中話は勿論、既に、20日間に及んで留守にしている自家の様子等話は尽きないのであった。


鵜戸神宮では波打ち際の断崖絶壁に建つ豪快な社、岩屋の中に建つ絢爛なる本殿に驚愕していた。 
この日も昨日同様、天候のわりには波が高く、奇岩怪岩に打ち寄せる波頭の飛沫にもビックリ圧倒されていた。

大鳥居から八丁坂参道沿いの「三ツ和荘」というお食事・お土産どころで昼食となった。 
客数も少ないとあってか、給仕のお姐さんが妙に親切である。 
料理も大満足の美味さであったが、地元産の「甘夏柑」・・?の絞りたてを全員にサービスしてくれて、おまけに、お替り自由との事であった。

「お土産、沢山買わんといけないネ・・」、 
「そげなつもりはなかよー、気にせんといて・・、でも、少しは買って欲しいカナ・・、」 

旅の疲れを癒してくれる気軽な会話に、ホンノリした気持ちになる。 
尤も、上さんは孫のために少々の買い物をしたようだがだが、オモテの暑さに閉口しながらも、再び車中の人となる。

御土産やの姐さんの話だと、詳しいことは判らないと言いながらも、青島神社が「」だとすると、ここの鵜戸神宮は「子」であり、宮崎の宮崎神宮は「孫」の三代に亘っていると言う。 

尤もであり更に神社、神宮ではないが、同じ宮崎県内で北部地区の延岡・北川町の境には「可愛山」というのが聳え、可愛山稜という墓稜がある。

この可愛山稜は天孫降臨の最初の神である「ニニギ」が降り立った所とされ、(鹿児島・川内の可愛山稜と二つの共通伝説が有る)この神はヒコホホデミ・山幸彦(青島神社)の親とされる。 
このニニギを合せると宮崎地方には四代の神々が祀られていることになるのである。 


思えばこの宮崎の地で、現在の我らの家族も義母(上さん:妻の母親)を親とすれば、子が2人、孫2人そして曾孫が3人と、合せて6人の四代が居合わせているのであり、何やら通じるものがあって妙な気持ちになるのである・・?。 


ともあれ、これら神社、神宮には大昔の海彦、山彦や乙姫、浦島太郎伝説が関わっているともいわれる。 
歴史物の好きな娘・主人(孝博氏)は『 天孫降臨くらいは知ってたが、宮崎神宮は「神武天皇」を祭っているのか・・?、実際は、奈良の「橿原神宮」がそのはずであるが・・? 』と素直な疑問を呈し、小生と車内で神や神社について雑談風に話していた。 

特に、孝博氏の住む近くには「大国魂神社」が祀ってあり、小生の至近には相州・一の宮「寒川神社」が鎮座していて、何れも、祖神である出雲やお伊勢に関係する神社であり、我家の年中行事には欠かせない社宮なのである。

ともあれ、我家のファミリーはこれから後、周辺観光しながら鹿児島・指宿温泉まで向かうこととなる。
  

次回は、「神々の譜系





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2011年7月29日金曜日

日本周遊紀行(157) 宮崎 「青島」

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 日本周遊紀行(157) 宮崎 「青島」   ,




「鬼の洗濯板」と言われる海食岩盤


弥生橋と青島


島内、ホデミ(山幸彦、他二神)を祀る「青島神社・本殿」



鬼の洗濯板と神話の「青島」・・、

鵜戸神宮より先の海岸国道は「日南海岸」といって南国の陽光が降り注ぎ、亜熱帯植物が生い茂る日本有数の景勝地である。 
特に、日南海岸の巾着島から戸崎鼻に至る間の海岸にみられる俗称「鬼の洗濯板」といわれる特異な風景は、眼を奪うほどである。 

洗濯板」とは波打ち際に平坦に広がる岩盤のことで、これらの表面が小さな波を打った様なギザギザになっていて、一見、洗濯板のように見えることからの譬(たとえ)である。 
洗濯板と言っても今の若い人には馴染みが無いであろうが、タライなどを用いて衣類の洗濯の時に使うギザギザの“刻み目”のある板のことである。

鬼の洗濯板」は専門的にいうと「隆起海床と奇形波蝕痕」というらしく、海面部分が波浪侵食を受けて互層の堅さの違いにより侵食され、規則的に凹凸を生じ形成されたもので、干潮時には海岸線から幅約50mから100mにわたって見られるという。

堀切峠付近(日南海岸の展望地)は、フェニックスの葉越しに広がる大海原・日向灘が実に気持ち良く眺められる。
峠の下は一面の「鬼の洗濯岩」で、この見事さは意図的に演出したような景観であり、日南海岸のハイライトでもあろう。 
日南フェニックスロードの風景を満喫しながら、海岸沿いの堀切峠を越えると「青島」である。



国道の案内板に従って、「青島」への案内通路を抜けると広い白い砂浜に出る。 
その中央の陸橋(弥生橋)を渡して青島が横たわっているが、例によって海面には鬼の洗濯岩が陸橋の左右に広がっている。 

干潮時の凹部には小魚やウニ・ヤドカリ・イソギンチャク・貝など沢山の海中小動物を見つけることが出来、子供達は大賑わいで、大人も童心に返り結構楽しんでいるようである。
中央に「弥生橋」といって、優美な橋が海上より青島え架けられている。 

青島は、周囲1kmほどの小さな島であるが、亜熱帯植生の椰子科の植物・「ビロウ樹」(国指定天然記念物)が5千本ほど自生し、ビロウ樹の密林に入るとトロピカルムード一杯である。 

島の中央、ビロウの密林の中に「青島神社」が鎮座していた。
神社は、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)そして、塩筒大神(シオヅツノオオカミ・神話では竜宮で山幸彦を案内、指示したとされる白髭老の神)の三神が祭られており縁結び・安産・航海・交通安全などの御利益があるという。 

尚、江戸期の頃までは神聖な場所であるため、祭日以外に一般人が立ち入ることは禁じられていたが、1737年(元文2年)以降、弥生(旧暦の3月)後半の一時期に限り一般人の参詣が許されるようになった。 
更に、明治以降は年間を通して立ち入りできるようになったという。

神社の境内には、祭神の由緒と日向神話(海幸彦と山幸彦の物語)を蝋人形により判りやすく伝えている「日向神話館」もある。


青島は、トロピカルな自然と同時に、古代ロマンにもひたれる人気のスポットである。 
又、青島ビーチは日本一綺麗な青島海水浴場といわれ、波の静かな海で夏場は多くの海水浴客で賑わうという。

小生に言わせれば、湘南地方(相模)の「江ノ島」のミニ版といったところか・・?。
青島は所謂・陸繋島といわれる砂州で陸と繋がった島であり、我が江ノ島も同様なのである。



宮崎の主要観光のコースは、宮崎の駅又は空港から先ず青島に至り、日南海岸、鵜戸神宮を巡るのが一般的であるという。
昭和30年代から40年代にかけて宮崎は空前の新婚旅行ブームであった。 その観光の第一ポイントが、ここ青島界隈である。 

当時、日南海岸での新婚旅行を唄った歌にデュークエイセスの「フェニックスハネムーン」というのもあり、新婚旅行ブームをよく物語っている。 

しかし、今現在は当時の面影は無く、町全体が寂れてしまっている感じは否めない。
島へ通じる土産店の多くはシャッターが下りているし、青島海岸の一等地にある橘ホテルは、遠目には白い建物が青空に映えているが、倒産して15年以上も放置され廃墟と化している。 

青島市街にはこのような寂れた風景が、あちこちに窺えるのである。
夕刻迫る中、今夜の泊まり宿、国保保養センタ-・「あおしま太陽閣」へ向かった。

次回は、「マイ・ファミリー



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2011年7月28日木曜日

日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(2)

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 日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(2)  、




神宮参道
写真:鵜戸神宮の参道界隈、

鵜戸神宮本殿
岩屋の中の本殿



そして鵜戸神宮は、日本神話に語られる「山幸彦・海幸彦」の物語の舞台となった場所でもある


山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)から借りた釣り糸を海へ落としてしまい、失くしたの釣り針を探すために海宮(龍宮)へと向かった。 
この時、海神の娘の豊玉姫命と知り合い深い契りを結んだ。 

山幸彦が海宮から帰られた後、身重になっていた豊玉姫命は「 天孫の御子を海原で生むことは出来ない 」として、この鵜戸の地に参ることになる。 
霊窟に急いで産殿を造っていたが、屋根の鵜の羽や茅も葺き合わぬうちに御子が誕生になった。 
故に、その子の御名を鵜葺屋葺不合命「ウガヤフキアエズノミコト」と申した。 
鵜戸神宮はこの御子を主祭神として祀る社である。



鵜戸神宮の創建は、崇神天皇(すじんてんのう:第10代の天皇、年代不詳)の御代ともいうがはっきりしないようである。 
782年(延暦元年)に天台宗の開僧・光喜坊快久が神殿を再興したといい、快久は同時に寺院も建立して初代別当となり、勅号「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」を賜って、神仏両道の道場として栄えたという。 

明治になって廃仏毀釈によって寺院が廃止され、鵜戸神社、更に鵜戸神宮と改称されて現在に至っている。
神宮はその伝説のためか縁結び、夫婦和合、子授け、安産などの御利益で近隣の人々の信仰を集めてきた。 
古くは日向の国のみならず、大隅、薩摩からも御利益を求める人々が鵜戸への街道を辿ったという。 

かつて昭和中期の年代に宮崎と日南海岸が新婚旅行ブームで賑わった時代が有ったが、それは、新婚夫婦が鵜戸神宮の御利益を願った参拝が主目的であったともいわれる。


小生が鵜戸神宮へ向かったのは、海岸沿いの車のすれ違いがやっと出来る、海岸に面した断崖上の細い道であったが、昔はこんな道はなかったらしい。 
今でも、通常の駐車場は(大型車等)鵜戸港より国道220号線の旧道を行ったところの山上にある。 

鵜戸神宮は日向灘に面した波打ち際に築かれた社なので、従って、参道は日本でも珍しい815段という長い階段を降りて参拝することになる。 
この石段は「八丁坂」といい、よく見ると石段の中央部は弓なりに磨り減って凹んでいる。
それは人々が繰り返し、繰り返し鵜戸山参りした往還の証だともいう。


近年、参道の整備によって、険しい石段を上り下りする苦労は軽減されたが、参道の険しさが一層、鵜戸山参りに人々を駆り立てるともいわれた。 
昔は、花婿に轡(くつわ)をとってシャンシャン馬に乗せ、鵜戸山参りをすることが、新婚夫婦の恒例行事なっていたともいう。

社務所の建つ付近には、土産物屋が軒を並べて参拝者の旅の疲れを癒してくれる。 
それにしても鵜戸神宮は太平洋に面し、燦々とふりそそぐ南国の太陽の下にあり、大変明るい神社でもある


参考までに、御祭神(神々)の系譜(日本書紀系)について、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)がおられた。 そして、その子の一人(神)が天照大御神である。


天照神以降の譜系
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代神、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命=トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命=タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹=玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 

天照大御神から代代辿って神武天皇までは六代目に当り、神武天皇の父君が、こちらの鵜戸神宮の宮に当たる。


【神々の譜系】 、



次回は、「青島




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2011年7月27日水曜日

日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(写真集)

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 日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(写真集)   、




鵜戸神宮境内略図(鵜戸神宮提供)
①吾平山陵 ②御本殿 ③お乳岩 ④お乳水 ⑤霊石亀石 ⑥八丁坂 ⑦別当墓地 ⑧社務所 ⑨儀式殿 ⑫磨崖仏 ⑬千鳥橋 ⑭玉橋 ⑮神門 ⑯楼門 ⑰鵜戸千畳敷奇岩 ⑱山窟前の嚴岩 ⑳鵜戸ヘゴ北限自生地(木正のシダ)


神門前の茅の輪


神宮上部境内より観た日向灘と海食岩のパノラマ


玉橋より本殿への階段参道


岩屋の本殿前鳥居


岩屋の御本殿


本殿前からの海岸遊歩道と海食岩の造形美


日向灘の荒波が飛沫を上げる嚴岩


岩屋窟前の霊石亀石


次回も「鵜戸神宮




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2011年7月26日火曜日

日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(1)





日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(1)   、
(鵜戸神宮の写真は次項に掲載します)




鵜戸神宮には神武天皇の父君が祭られている・・!!  、



日南・油津から宮崎への国道220は、道路沿いにヤシの木が整列に並んで南国っぽい雰囲気の海岸線であり、最高に気持ちいいロードである。 

程なくして「鵜戸神宮」への入口標識があり、案内に従って海岸沿いの細い道を行くことになる。 
波打ち際には怪異な波うつ岩盤が広がっている。 

小さな鵜戸崎灯台を右に見ながら、程なく社宮駐車場へ着いた。 
気がつくとこの社は、珍しく海岸の断崖の上に建つ神社らしい。鳥居に軽く会釈をして前へ進むと神門・石灯篭があり、その手前に藁(茅)で造作した「茅の輪」が設けられてある、茅の輪くぐりの輪であった。

茅の輪くぐり」とは、延命長寿や無病息災を祈る「大祓」の行事の一つで、「輪越祭」ともいい、古くから各地の神社で行われている。 
「大祓」はわれわれが日常生活の上で知らず知らずのうちに犯したり触れたりした罪・穢(あい:けがれること、けがらわしいこと)を祓い清める神事の一つで、一般に年に2回行われ、6月の大祓を「夏越の大祓」、12月の大祓を「年越の大祓」といいという。 

古くは飛鳥時代・天武天皇の御代に始まったとされ、「すがぬけ」(ちの輪くぐり)の神事ともいわれて、その起源は、古事記や風土記にも記され、神代の昔まで遡ると言われる。
ついては、この「鵜戸宮」は神代の宮であれば納得である。 

茅の輪くぐりは左、右、左と三回ずつくぐるようで、∞文字を描くことになる。 
実は神主さんが扱う“祓い串”(おはらい)と同じで、自分の身体を神主さんの祓い串に見立てて同じように「」の字を描くという事のようである。


ところで、「」は昔、(今でも・・)屋根を葺くのにつかわれた草木(チガヤ、スゲ、ススキ、ヨシ、アシなど)の総称で、一般に水茅、地茅に分けられ、特に、屋根葺きは産地や地方によって使い分けしているという。 

チガヤ」・地茅はススキが代表的で、原野や山地で群生する多年草で根茎は茅根といって薬にも用いられる。 
又、「ヨシ・アシ」などの水茅は湖沼や河川、湿原に群生して生息するイネ科の植物である。 

一面に生い茂るヨシ原は水辺に美しい景観を作るだけでなく、魚類や水生昆虫、水鳥たちにとっては大切な産卵、生息の場所でもあり、さらに、ヨシは一本で20リットルの水を浄化させる機能があるということが近年注目されている。 
昔の日本は、美しい“豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国”と呼ばれていた。

茅の輪」は、このような青草のもつ霊力をもって、日本古来の風習として悪縁を切り、厄を祓い、無病を祈る願い事に使われたのである。
 


神門から社務所を通って楼門に到ると華美な朱色の門は壮大で参拝者を迎える。 
手前左には「吾平山上陵」へと続く小道があり、小さな鳥居が並んでいる。 

宮内庁の管轄となっている吾平山上陵は、鵜戸神宮の祭神である鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の陵墓ということで、鹿児島県の吾平町にある吾平山稜から分霊されたものとされるが、、こちらが本物という議論もあるという・・?。

楼門をくぐって本殿へと向かう参道は、右手に日向灘を見下ろす断崖の上を辿るようになる。千鳥橋を渡り、さらに玉橋を渡ることになり、更に、灯篭が配され良く整った急な石段を下ると、本殿の建つ海蝕洞へと導かれる。 

なかなか巨大な海蝕洞窟で、朱色の華麗なる鵜戸神宮・本殿がすっぽりとその中に収まって鎮座しているのである。 
入り口には御札を取り扱う巫女の姿が真に慇懃清楚で、此方の方も気持ちが洗われるようだ。 
先ずは本殿に額ずいて、賑々しく謝礼参拝を行う。

眼下の波打ち際の磯辺には、二柱岩や亀石桝形岩といった奇岩怪岩が横たわり、その造形美にも目を奪われる。 
参道石柵の向こうは、直下の絶壁で打ち寄せる波濤が、これらの岩盤に砕け散って飛沫(しぶき)が足元へ飛来しそうである。 
太古の昔、初めてこの岬を訪れ、目にした人々はその奇観に畏怖し、神々の鎮座するところと思ったのも無理からぬことのように思える。


参道真下の岩場に亀の形をした「亀岩」というのがある(居る)。
その背の部分には注連縄(しめなわ)で囲まれた窪み(凹み)があり、それをめがけて願掛けの「運玉」を投げ入れ、見事に中に入れば願い事が叶うという。 

この亀岩は、ウガヤフキアエズの乳母として玉依姫がやって来た時に乗ってきた亀ともいわれ、背中の凹みは自然のものだという。 
運玉は五個ワンセットで男性は左手で、女性は右手で投げ入れ、一願成就、見事凹みに命中したら願い事が叶うという。


日本神話に語られる伝説を持ち、この地方の人々の信仰を深く集めてきた鵜戸神宮だが、太平洋を望む岬は景観も素晴らしく、境内の随所に見られる南国の植物も独特の風情を醸している。 

玉橋を渡って石段を降りた洞窟の周辺は、かつては霊域として神職以外の者の立ち入りが禁じられていた時代もあったという。
今では、宮崎県南部の観光名所のひとつとしての意味合いも大きく、気軽に参拝客が訪れている。 
神宮は地元の人に「鵜戸さん」と愛称され、風光明媚な国定公園日南海岸の一角にもなっている。


次回、「鵜戸神宮の写真集




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2011年7月25日月曜日

日本周遊紀行(156)日南 「飫肥藩・伊東氏」





 日本周遊紀行(156)日南 「飫肥藩・伊東氏」   、



「曾我兄弟の仇討ち」で、打たれたはずの伊東氏が・・? 、


伊東氏は江戸時代、飫肥藩の領主として現在の宮崎県日南市を中心として栄えた一族である。元々は、鎌倉・頼朝時代に当地へ移封された豪族で、関東の伊豆地方(本拠は静岡県伊東市)の伊東氏をルーツとしている。 
そして伊東氏と言えば、「曾我兄弟の仇討ち」で有名であり、その当事者でもあった。


早速ながら、その「曾我兄弟のあだ討ち」について一寸・・、
結論を先に述べると、日向の伊東氏は「」を討たれた方の家系である。 
鎌倉当時、伊東氏と工藤氏は同系の一族であるが、氏名も変更している。

平安末期、頼朝が伊豆へ流されたとき、平家方として幽閉された頼朝を見張っていたのが伊東次郎祐親である。 
同族、祐親の甥子・工藤(藤原)祐経は、領地争いのことで祐親には常ずね恨みを抱いていた。 

或る時、祐親を狙った刺客の一矢が、祐親ではなく一緒にいた祐親の嫡男・伊東(河津)三郎祐泰に当たってしまい、祐泰は憤死する。 
その結果、祐泰の子である一萬丸と箱王が遺児として残されてしまった。
二人は、成人した後の伊東(曽我)十郎、伊東(曽我)五郎の兄弟である。
後の曽我の姓は、頼朝から相模国足柄郡曽我庄を賜ったことから命名された。


1193年5月、源頼朝は富士の裾野で盛大な巻狩り(狩猟が主であるが戦闘訓練の意味もある)を開くが、この巻狩りに、曽我兄弟と兄弟の仇敵・工藤祐経も参加していた。 
この時、兄弟は積年の父の恨みを晴らさんと祐経の寝所に押し入り、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たした。 

兄弟のその後の様子は後にして・・、
頼朝の信任厚かった工藤祐経は討たれてしまったが、過去に奥州征伐(1189年源頼朝が奥州藤原氏の本拠平泉を突いてこれを討ち滅ぼした戦役)において功があったとして、九州・日向国の地頭職をその子である祐時に与え、収めることになる。(同時に祐時の弟・工藤祐長は奥州安積郡の領主となる)

この時、日向に領地を得た工藤家は、元の家名である伊東家を名乗り、以降、南北朝から戦国期頃には日向から現在の熊本県八代市、球磨地方あたりまで勢力図を広げ、戦国大名としての地位を築いた。 

戦国末期、島津氏の台頭によって、やがて大名の地位すら奪われ凋落するが、 関ケ原合戦後は現在の日南市の飫肥地方にて復活し、明治維新まで飫肥藩領主として続くことになる。 


因みに、曽我十郎・五郎兄弟は仇討ちを果たした後、騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、兄弟はここで10人斬りの働きをするが、十郎祐成は新田四郎忠常(頼朝家臣)に討たれ、五郎は捕らえられて頼朝の面前で仇討ちに至った経緯心底を述べる。 
頼朝は一時、助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡したとされる。



飫肥」と書いて「おび」とは読み難いし。 
謂(いわ)れは不明だが「飫」の意味は腹いっぱいに飲み食いすることで、「肥」は字の如くで土地が肥えて、食物が豊富をいう。
即ち、土地柄が良く、作物や天然資源が豊富で人々が安心して暮らせる地域という意味であろう。


当時、飫肥村その後、町域になったが、1950年1月に南那珂郡、吾田町、油津町および東郷村の4町村が合併して「日南市」が誕生する。 
市名の由来は、当地が「日向(宮崎県の旧国名)の南、日本の南」であることから名づけられたものとされる。 
風致優美とされるこの町・飫肥は、NHK朝の連続ドラマ「わかば」の舞台にもなった。

次回は、「鵜戸神宮




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2011年7月23日土曜日

日本周遊紀行(156)日南 「油津と堀川運河」

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 日本周遊紀行(156)日南 「油津と堀川運河」  ,




写真:堀川運河と堀川橋(向こうに吾平津神社の鳥居)


吾平津神社(乙姫大明神)



「油津」は神代の浦であり、自然が織りなす天然の良港であったが・・、



南郷の目井津港の正面に瓢箪の様な形の島が見えている。 「大島」といい人口僅か10数人と言われる優雅な島である。
島は奇岩なども多く亜熱帯性の植物が繁り、季節には、あちこちでハイビスカスの花が咲き、なかなかの景勝地である。
ダイビングやキャンプに訪れる人も年々増えて、釣り客や島を散策に来る人のための民宿もあるとか。 


気が付けば、既にここは日向の国・宮崎県である。 
日向灘の紺碧の大海を望みながら、日南フェニックスロードと呼ばれる国道を北上する。

日南市に入って先ず「油津」という所へ来た。 
対岸に細長く突出した大節の岬に囲まれた天然の良港で、今はヒッソリとした港町のようである。 
油津は古くは「吾平津」(あいらつ)と呼んでいて後に「アイラ、油」と、訛ったという説が一般的である。 

神武天皇のお妃、「吾平津妃」がお立ちになったとされる故事に由来し、堀川端に鎮座する「吾平津神社」の縁起にもなっている。
その御陵が「吾平山陵」であるこのことは先に記した。


日南市の油津港から砂州の広がる広渡川の河口から凡そ1.5kmで結ぶ「堀川運河」が、江戸初期に拓かれている。 
運河は、地元特産の飫肥杉(おびすぎ)を運搬する目的で、飫肥藩が水路として開設したものである。 

この運河は日向・飫肥藩主・伊東祐実(五代藩主)によって開削されたもので、主に広渡川を流して運ばれた木材を油津港へ送り込むことを目的としたものだった。 
運河が開削されるまでは、北郷あたりの山地から産出した木材は広渡川を下って一旦、海へと出ることになる。

その後に梅ヶ浜の沖から尾伏のハナ(現在の大節鼻)を廻って油津の港へと曳かなくてはならなかった。
かなりの遠回りで、時には潮流や強風などによって損失する木材も少なくはなく、また危険も大きくて効率の悪いものだった。 

1683年(天和3年)の12月に始まった堀川開削の工事は、1686年(貞享3年)の春まで、およそ2年4ヶ月の期間を要したという。 
運河の開削は当時の技術では決して楽なものではなく、特に吾平津神社下あたりの岩盤の掘削はかなりの難工事であったという。
言い伝えによれば当時、生贄(いけにえ)として「人柱」が立てられたという噂もある。

その後の油津は、最盛期には周辺一帯、一面に材木の山が積まれていたという。
その河口よりやや遡った所に堀川橋がある。 

明治36年(1903)、飫肥の名石工・石井文吉によって完成させたという由緒ある石橋で、油津を横断する堀川に堂々たる姿を、現在でも残している。 
俗称、優雅に「乙姫橋」とも呼ばれ、この界隈を今でも乙姫町としている。 

映画「男はつらいよ」-寅次郎の青春編-(シリーズ作)に登場した町のシンボルでもある。

油津にかつて訪れた野口雨情

『 水と筏を 堀川橋の 石の手すりは 見て暮らす 』
と詠んでいる。 


そして1921年、野口雨情は本居長世の作曲で童謡「乙姫さん」を残している。 
その橋の袂に吾平津神社があるが、この神社は「乙姫大明神」ともいい、近隣の人々は今も親しみを込めて「乙姫さん」と呼んでいるという。


乙姫さん』 詞 野口雨情  曲 本居長世

龍宮の龍宮の 乙姫さんは
トントンカラリン トンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました

浦島太郎も トントンカラリン
黄金のたすきでトンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました



「吾平津神社」は海の民・油津の人たちの氏神でもあるが、古代神話に彩られる鵜戸の岩屋(現、鵜戸神宮)同様、油津も神代の浦であり、古代から自然が織りなす天然の良港であったという。 

江戸期には油津港を基地として、飫肥杉使用する造船場が多い播磨地方に千石船 (俗称・弁財船、)で運ばれ、木材積出し港として最盛期を迎える。 堀川運河と広渡川の連結部には当時の「石堰堤」が今も残る。

この石堤の上流は妻手川、酒谷川、広渡川、益安川などの四つの河川が合流し大きな砂州、河川敷を形造っている。 
この酒谷川の上流域で凡そ5kmのところが飫肥地区である。

飫肥(おび)は、戦国期(1588年)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏の5万1千石の城下町として栄えたところで、町の中央部に清らかな酒谷川が流れ、深い山々に囲まれた景観と静かな佇(たたず)まいを漂わせている。 

復元された飫肥城大手門、本丸御殿をはじめ、藩校や武家屋敷通、町並みと合わせて「九州の小京都」とも言われている。 
また、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。


藩主・伊東氏は周辺山々の植林に力を入れ、飫肥杉という銘木を造り上げた。
その後、合わせて製紙業も盛んになり藩は大いに潤ったという。 

飫肥杉は南九州の豊富な降水で育った山間部の杉であり、山間部の厳しい気候で育った飫肥杉は腐りにくく、強靭な杉として造船材などに多く使用されている。
 

次回は、「飫肥藩・伊東氏



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2011年7月22日金曜日

日本周遊紀行(155)都井 「都井岬の野生馬」

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 日本周遊紀行(155)都井 「都井岬の野生馬」  ,



写真:都井岬と野生の国産馬




日本原産の野生馬・御崎馬とは・・

都井岬は野生馬の生息地として有名である。 
御崎馬」(みさきうま)と呼ばれる野生馬が約100頭が、ハーレムというグループをつくって生活している。 
約300年も前に放牧したものが野生化し繁殖したもので、体高は130cm程度で首が短く毛並みが荒い純度の高い日本馬で、寿命は永く40才位まで生きるという。 

野生馬なので蹄鉄を打つ必要がなく繁殖は自然まかせだが、牧草の管理等は人の手が入り、岬の入り口には柵や門が設けて管理されている。

御崎馬(岬馬)は、信州の木曽馬、陸奥の南部駒や北海道の道産馬などとともに日本古来の在来馬と言われ、日本種ではあるが約2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて古代・中国(蒙古系)大陸から導入された馬がその起源とされている。 

その後、日本では馬の生産が盛んに行われ、各地に多数の官営の牧場が作られていて、特に平安後期から鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果たした。

又、牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られた。
九州南部では日向の駒を集めて都井村の御崎の牧(御崎牧場)で生産され、これらの馬を御崎馬(岬馬)と呼ばれた。 

御崎馬は主に高鍋藩・秋月家の乗用馬として管理され、現在もその面影を残していると言われる。 
農耕にも使用したが本来は乗馬用であり、瞬発力も持久力もあったという。 

御崎馬は、牧場開設当初から殆ど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治期には御崎組合の共有牧場となったが、その粗放な飼い方は、そのまま続けられてきたという。
そのため御崎馬の風貌や習性あるいは体型や資質は野生状態そのままで、これが「都井の野生馬」と言われ、自然な日本に特有の家畜として国の天然記念物に指定されている。


ところで、日本の名馬といわれる陸奥の「南部駒」や「甲斐の黒駒」の血統種はよく知られる。

源頼朝が藤原氏の陸奥の国を平定した後、「南部駒」の特産地であったことに目を付け、貢馬(くめ)といって馬を年貢として納めるようにしたという。 
この時期、頼朝は馬産地で知られる陸奥の国へ、甲斐源氏(現在の山梨県)出身の南部光行(なんぶ みつゆき)を転封している。 

甲斐の国は「甲斐の黒駒」で知られる名馬の産地で、光行は馬の育成には詳しく、赴任先の陸奥の国では国造りの傍ら、牧場経営にも当たらせ、大いにその手腕を発揮したという。 


戦国の世、馬は軍用として極めて貴重であり、この馬の管理,貢馬のための行政組織が「」の起こりといわれる。 
」とは広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 
その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。

尚、甲斐の国は、飛鳥以前の古墳時代といわれる頃から牧(牧場)が作られ、馬の生産地とされてきたとされる。
この馬は「甲斐の黒駒」として古事記や日本書紀にも登場し、聖徳太子に献上されたともいわれている。 
これにより馬に乗る聖徳太子の伝説が全国に広がったという。


平安時代、武士の道を選んだ清和源氏はこの甲斐の馬を手に入れたことでその勢力を強め、騎馬の将・源頼信の話が「今昔物語」でも精彩を放っている。 
戦国初期、一世の雄・武田信玄もまた清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一人であり、甲斐の騎馬軍団が関東地区を席巻したことは余りにも有名である。


話はチョット反れたが、日本在来馬には乗系(軽種・騎馬用:乗馬に適したもの)と駄系(重種・農耕用・肉用:荷物を載せ運ぶのに適したもの)の二つのタイプ(型)に分けられるという。 

乗系は体形的には足や首が長く、運動が滑らかであり、瞬発力、持久力があり、駄系は大型で、ずんぐり形で肉が付きやすく奮発力、持久力に優れ、肉食用としても重宝される。



広大な芝生が広がる都井岬の丘陵地帯には、野生馬の「御崎馬」が生息しているが、江戸期・元禄年間、高鍋藩・秋月家が軍用馬や農耕馬を岬に放牧したのが始まりと言われ、昭和30年代までは地域農業の担い手として活躍していた。 
だが、農業の機械化が進んだ今日、観光用として現在まで繁殖し続け、今では約100頭が棲息しているという。


馬の社会は一夫多妻制で、一頭のオスを中心に4~5頭のハーレムをつくる。 
ただこれは優秀なオスだけの話で、子孫を残せない悲しくも寂しいオスの群れもあるという。 
手付かずの自然ゆえ苦難の歴史もあり、最大で160頭もいたものが戦後の一時期、草原の減少や病気などで50頭位にまで減少したこともあったという。 
その後、昭和28年(1953年)に国の天然記念物に指定されたことから、寄生虫の除去などの保護活動が本格化したことで何とか持ち直したという。

野生馬の中には、水道の蛇口を首でひねって水を飲む賢い馬もいるという・・!?。 飲み終わった後、閉めることはどうかな・・?。


都井岬の最南端標高250mの断崖には、白亜の都井岬灯台が建つ。 
灯台の最上階は展望室になっていて、天気のいい、空気の澄んだ秋の晴れた日には大隈半島から遠く種子島、屋久島まで見渡すことが出来るという。
この灯台は九州で唯一、内部が見学できる観覧灯台でもあるとのこと。

他にも、都井岬には馬の生態や岬の自然を紹介する都井岬ビジターセンター「うまの館」がある。(入館料大人500円) 

又、都井岬の先端部の断崖に御崎神社があり、この御崎神社の創建は和銅元年(708)と伝えられている古社で、周辺にはソテツの自生地などもあり公園化されている。 
宮崎に来たのなら日南海岸の序に、「都井岬」も是非見て欲しいお薦めのポイントであろう・・!!。


次回は、日南・「油津



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2011年7月21日木曜日

日本周遊紀行(154)志布志 「志布志千軒町」

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 日本周遊紀行(154)志布志 「志布志千軒町」  ,




志布志は、古来より南九州の海運、交易の中心であった・・



太平洋、志布志湾沿いの大崎町へ入って間もなく、大隅半島の東の入り口である志布志湾に面した国道220号線沿いにある「道の駅・くにの松原おおさき」へ来た。 

入り口に巨大なカブトムシの、つがいのモニュメントが出迎える。
大隅半島は「カブトムシ」の採取に適した自然豊かな地域だといい、大崎町は7月に「カブトムシ相撲大会」も開催されことで子供らに人気があるという。


裏手の志布志湾に面した海岸は「くにの松原」と言われる。 
数十万本ものクロマツの美しい松林が、海岸線沿いに帯を成して美観を造っている。 

日南海岸国定公園内に位置し、長さ約7kmにも及ぶその見事な景観は「日本の白砂青松100選」にも選ばれている。
この地は神代から日向(ひむか)の国、救仁(くに)の地として栄えたところで、ここから「くにの松原」の名称が付いたという。 

古代、ここ内之浦から大崎・志布志に至る大隅国中央部から日向国の南部にまたがる広大な地域を救仁院、救仁郷と称していたらしい。


志布志町の町並みに入ったが、思ったより小さな町並みに感じられる。 
志布志湾というと、九州南部地方では極めて利便性の良い港であり、古来より海運業が盛んだった港町にしては意外と地味に思われた。 
尤も、最近になって国の重要港湾・九州唯一の中核国際港湾として指定を受け、コンテナ関連施設の整備が進められているともいう。



かっての志布志は、藩政時代には密貿易で栄え、「志布志千軒町」と唄われたほどの港町であったという。
既に、平安時代末期には島津御庄と呼ばれた大荘園(貴族・豪族の私有地)の唯一の水門(港)でもあり、「志布志の津」として歴史書の中にその名が記されている。 
豪族達が戦略上の重要な地域として、また港の交易による利益をめぐって攻防の歴史をくり返したでもあった。

又、志布志は過去に“水の輸出”という珍しい地域でもあったという。
南九州地方は、特有の広大なシラス台地で、長年に渡り自然ろ過された清浄な水が豊潤に湧き出している地帯でもあり、湧水は古来より秀吉や加藤清正などともゆかりが深いという。
彼等により、戦国時代以降は海外にもこの清水が運ばれ、その水は味が変わらない名水であるとされて時の権力者達に喜ばれたという。  


江戸時代の志布志は薩摩・島津氏の外城としてが置かれ、「麓の港」として南西諸島(琉球、その他)や京阪地方との交易による廻船(江戸時代の定期船のこと)で賑わい更に、江戸時代末期になると密貿易の基地として「志布志千軒町」と呼ばれるほど賑わいを見せたという。 

同時期に大慈寺、宝満寺、山宮神社などの数多くの寺社仏閣が建立され、武家屋敷の庭園など多くの歴史的遺産も残されていた。 
しかし、これらの遺産も明治期の政策の一つとして寺社分離、廃仏毀釈(寺院をとりこわして神社を大事にする明治政府の天皇制をすすめるための政策)が行われ、特に薩摩地方では激しく、由緒ある寺院や施設が壊されている。


志布志町役場の一角に大慈寺(県指定所有)がある。 
室町期・1340年の創建といれる古刹で、京都の臨済宗妙心寺(拙宅の菩提寺と同じ)の末寺でもあり、江戸期の隆盛時には16の支院と100名以上の僧坊がいたという。 

当然ながら明治2年の廃仏毀釈により一時は廃寺となったが、明治12年に一部を再興し現在に至っている。 
克って、この寺に参道門に石造の立派な金剛立像の呵形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)が立っていたという。
寺院取り壊しの際、難を逃れるために地下に埋設して隠したとされ、寺の再興の際に再び掘り起こしたものという。
だが、据付したのは一体だけで、もう一体は廃寺となっていた同系の寺・海徳寺に据えたという。


因みに、「呵・あ」、「吽・うん」とは印度仏教・サンスクリット語の“初めと終わり”を意味する。
尤もで、日本語の五十音も全く同じである。 

阿・吽の呼吸」というが、口を開く「阿」と、口を閉じて発する「吽」から、そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、両者が息を合わせることを「阿吽の呼吸」と言うようになった。 

又、「あー」と口を開けて吐ききる「」と、「」と口を閉じて鼻から空気を吸う「」が「呼吸」であり、これが正しい呼吸法ともいわれるが・・?。



現在の志布志港は、日本有数の農畜産地帯への飼料供給など、南九州地域における拠点港として発展しているという。
港湾と都市部を結ぶ南九州自動車道や都城・志布志間地域の整備計画が具体化しおり、今後さらに都市機能の整備や産業の振興を図って、世界に開かれた南の拠点づくりを目指している。


志布志町は2006年1月1日に有明町・松山町と対等合併して市制施行し「志布志市」となる。 
因みに市役所の支所には、鹿児島県志布志市志布志町志布志志布志市役所志布志支所というのがあるらしい・・?。 
簡単に読めますかな、冗談ではなく大真面目である・・!!。


国鉄・大隈線については前に記したが、志布志は西からの国鉄大隈線と東からの日南線の終点であった。 つまりは中継点でもある。 
そして、この先志布志湾沿いを志布志街道(R220)が日南線と並行して走っている。
そう、志布志を抜けると間もなく「宮崎県」である。


ところで小生はこの後、串間市の南端に位置する「都井岬」へ向かう予定であったが、知らぬ間に内陸を抜けて日向灘・日南海岸に面した南郷に到っていた。 
小生のうっかりミスと言ってもよいが、標識を見落としてしまい通過してそのまま南郷まで来てしまったのである。 
南郷沿岸の日向道路のT字路の標識へ来て始めて気が付いたのであり、今更もあって都井岬へは断念してしまったのである。

次回は、その都井岬について述べてみたい。




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2011年7月17日日曜日

日本周遊紀行(153)鹿屋 「航空基地」

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 日本周遊紀行(153)鹿屋 「航空基地」  ,



垂水市街から「桜島」の展望



鹿屋基地から特攻出撃して戦死した人々の員数は凡そ千人弱とも言われる・・! 

 
国道220から垂水に近づくと、いよいよ眼前に迫力ある「桜島」が迫る。
昨日通った国道10号の「大崎の鼻」からは丁度反対側からの眺めになるが、垂水市内から桜島の展望が効く位置の所々で、その勇姿をカメラに収めて戻ることにする。 


垂水市の海岸道の柊原から古江辺りの国道220号は、道路面の拡張、改修されていつ実に広々として走り良い。
更に、付近住民の理解と協力があってか、素敵な町並みが出来上がっている。 
望むならば、この国道町並みをもう一工夫して、例えば洒落た街灯などを設置すると更に引き立ち、名所・櫻島や鹿児島にも近いので、街の名物として成り得ると思うが如何であろうか・・?。 


確か、昨秋訪れた北海道東部の音別町辺りだったと思うが、市街地を貫通する国道38号線には、町花である「エゾリンドウ」をモチーフにした街路灯が連続して設置されてある。
夜ともなると、真直ぐ続く街頭の明かりは宛ら(さながら)遠くから眺めると滑走路の様だともいわれ、ドライバーにはすこぶる評判が良く、更に、霧がかかると幻想的で、音別町の「ふるさと自慢」の一つにもなっている。


その、海岸の鹿屋市古江からは内陸方向の鹿屋の中心市街地へ向かう。 

気持ちのいい海岸道路であるが、目を内陸方向に転ずると海岸からいきなり急峻な山並みが競り上がっているのが判る。
この山地は高隈山系といって1000m以上の山塊が連なっていて高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地もある。

そして、日本におけるブナ林の南限であり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定された地域でもあるらしい。
高隈山系の最高峰は、チョット珍しい山名の大箆柄岳(おおのがらだけ:1237m)といい、頂上からの眺めは素晴らしく、桜島や開聞岳、大隅半島、霧島連山などの大パノラマが展開するという。

山地は、東側に向かってなだらかな裾野を広げている。 


その裾野は鹿屋の町であり、そこには広大な丘陵台地が広がっていて、この台地を利用して昭和の昔に飛行場が建設されている。 
市域の西部に広がる航空基地は、今は海上自衛隊鹿屋航空基地となっているが、戦前戦中においても一大航空基地でもあった。



1936年(昭和11年) 日本海軍・鹿屋海軍航空隊が結成されると同時に、飛行場も建設された。 
そして、第二次大戦における海戦においては、特に沖縄の戦闘は戦艦大和など戦史にも残るほど熾烈なものであった。 

この時期、日本の戦局は絶対不利の状態となっていて、ここに退勢挽回を図るため秘策を試みるに至った、即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して計画したと言われる特別攻撃、つまり「特攻」であった。

鹿屋基地において戦時中期頃までは、中国大陸に対する爆撃やマレー沖海戦、イギリス東洋艦隊の攻撃などで戦果があったとされといる。 

特に零戦(零式艦上戦闘機)は大戦中には大量に製造され、世界的な名機といわれて太平洋戦争初期には圧倒的な力を誇ったという。

世界を震撼させた零戦は、海軍鹿屋航空隊でも頻繁に出撃していったが、この鹿屋基地は、戦時末期にはアメリカ軍の沖縄侵攻により、特攻出撃の航空基地となってしまうのである。


太平洋戦争末期には鹿屋基地には第五航空艦隊司令部が置かれ、「神風特攻隊」の出撃基地となり、爆弾を抱えた零戦をはじめ戦闘機は、その運動性能を充分に生かすことなく、搭乗員とともに特攻作戦を展開しながら南の海に散っていった。 

特攻機が離陸するに当たり、知覧基地では「開聞岳」が最後の見送りの地となったが、鹿屋基地からは「桜島」が最後の想いの地になったものと思われる。
この基地から出撃、特攻戦死した人々の員数は908名とも言われる。


現在は、海上自衛隊の航空基地で、対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地でもあり、日本の南西海域の安全保障や奄美諸島から甑島列島に及ぶ広大な海域・離島の海難・急患輸送に欠かせない基地となっているという。 
その滑走路脇には今でも、戦中から使われていた零式艦上戦闘機の勇姿が展示されているという。



国道220号は大隈半島を、ほぼ直角に横断するように延びている。 
その中ほどに「串良町」がある。

この町域のだだっ広い丘陵台地には、緑の絨毯が広がっていて名産の葉タバコが育成されているようである。 
おはら節に『 花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは 桜島 』と歌われているように、この地方は古来より葉タバコの生産地であった。 
昨今は、原料葉たばこの輸入(中国、インド、ブラジル・・)や専売公社の民営化、消費の低迷などによる減反政策のため減少傾向にあるという。 

J・Tからの買取価格も低下しているのが現状のようで、政府も転作を奨励するように働きかけているようである。
葉タバコ生産の産県別にみると熊本、鹿児島、宮崎と九州南部地域が全国ベスト3に入り、凡そ30%を占めているという。 

尚、時代の勢いもあっていずこの地も禁煙運動が盛んであるが、強硬に反対しているのは実は、葉たばこ農家よりもタバコ販売業者達ともいわれる。


串良町の串の字を分解すると、「中中」と読み、「なかなかよい町」という意味にもとれ、町民はそのことを意識しているともいう・・?。 

串良町(くしらちょう)は、今も第一次産業に従事する住民が多く、葉タバコ産業は今後懸念されるが、農業を基幹産業とする町に変わりはなく、「なかなかよい町」であることは確かなようである。 

だが、串良町は周辺の鹿屋市、輝北町、吾平町と2006年1月に合併し、新たに鹿屋市となってしまうという。
従って、行政としての独立性のある「なかなかよい町」は、消え去ってしまうのである。

次回は、「志布志




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2011年7月15日金曜日

日本周遊紀行(152)吾平 「吾平山稜」

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 日本周遊紀行(152)吾平 「吾平山稜」   、




「吾平」と「姶良」は同じ”あいら”と読むのだが、その関連性は・・?  、
 
 
佐多岬の断崖絶壁からの展望を満喫して戻ることにしよう。
R269の大根占までは先刻見慣れた風景である。 

大根占町(旧)の東隣の町に「吾平町」(あいらちょう)がある。 
ここで、先般「薩摩川内」の項でも若干記したが、「吾平山稜」(あいらさんりょう)について更に述べてみよう。

吾平町の中央部に、あの薩摩・鹿児島県の神代三山稜の一つで「吾平山稜」が鎮座している。山陵とは、一般に天皇・皇后の塚墓のことであり、吾平山稜の祖霊は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、 そして御母君である玉依姫(タマヨリヒメ)のものとされている。

境内は清流と神聖な樹木が鬱蒼として清々しく、数百米にわたり玉砂利が敷き詰められていて、別世界のような静かな世界を形成している。
雰囲気が伊勢神宮の内宮に似ている処から「小伊勢」とも呼ばれているという。 


拝殿の前は沼池が配してあり、その向こうに本殿御陵が岩窟の中にあって、神代三山稜の中で随一岩屋の陵になっている。
その窟内に大小二つの塚があり、大きい塚が神武天皇の御父君、小さい塚が御母君の御稜とされている。 

この御陵山を鵜戸山(うどさん)といい、窟を 鵜戸窟と称している。 
鵜戸というと日南の鵜戸神宮と同じで、こちらの神宮は鵜草葺不合を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの六代の皇祖神を相神として奉っている。 
この神宮へは本日、この後訪れる予定である。


吾平山稜は大戦直前の昭和10年11月、昭和天皇が御親拝になり、昭和37年5月には皇太子(現、今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 
正月、初詣には近郷近在から、数万の参拝者がお参りされるという。



ところで、薩摩には「吾平」と「姶良」というの二つの「アイラ」という自治体が存在する。 

姶良は、鹿児島市の北、両半島(薩摩、大隈半島)の付け根に当る地域に姶良郡姶良町である。 
一方、こちら吾平と書くと、普通「ごへい」と読んでしまいそうだが、この二つの「アイラ」には何か関連性があるのだろうか・・?。 


この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川(あいらがわ)で吾平町中心を北流している。
そして吾平町は、以前は姶良郡姶良村という自治体名であったという。 


古代、この地方の大隅国では四つの郡があり、その中に姶羅郡(あいらごうり)というのがあったらしい。
一方、始羅(しら)郡と呼ばれていた地域があったそうで、これらの地名に使われている「姶」と「始」の文字は似ているので紛らわしく判別が付き難い。 
その為、近代以降単純化して「姶良郡」に統一されたとも言われている。 

吾平山稜の周辺地においても姶良村や姶良川等の地名、固有名が存在した。
そして、姶良村は1947年(昭和22年)町制施行の際「姶良」を「吾平」と改めているのである。

吾平という町名は、吾平山陵が由縁であることは確かだが、尚且つ、神武天皇の妃(きさき・妻)の御名が「吾平津姫」(アヒラツヒメ)と称し、故に吾平山稜、吾平町が誕生したともされている。 

吾平津姫は、字のごとく「アヒラツヒメ」と呼んでいたが、旧地名に因んで語呂も良く、吾平は次第に、或は町が誕生した時に「あいら」と読むようになったのかも知れない。


しかし、「吾平町」は周辺の鹿屋市、輝北町と2006年1月1日対等合併し、新市制による鹿屋市となっている。
又一つ、歴史ある町名が消えることになった。



相変わらず見通しの良い海岸道の一本道が続く、R269から一部県道を乗り継いで、R220を行くことになる。 

鹿屋市の高須、天神、古江、垂水市の新城、宮脇、柊原、浜平、垂水と大隈半島・錦江湾沿いの地名が連なるが、かってはこの地を鉄道が走っていたらしい。
日豊本線・国分駅から鹿屋を巡り、高須から大隈半島を横断する形で吾平町を通り、日南線・志布志迄行く国鉄・大隈線であった。 
結局は国鉄合理化の一環として1987年に廃止された路線であり、全通してからわずか15年目のことであったという。 

当時は、鹿児島市と鹿屋市を結ぶ幹線鉄道であったが、鹿児島湾をぐるっと廻る為に鹿児島湾を渡る船便の方が速く、移動するには致命的な欠点があったとされた。 
又、沿線は人口が少ないうえ、自動車の普及が盛んになり、国鉄経営再建のためにも廃止につながったようである。


次回は、「鹿屋



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2011年7月14日木曜日

日本周遊紀行(151)佐多 「佐多岬」

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日本周遊紀行(151)佐多 「佐多岬」





写真:本土最南端の佐多岬



向いの大輪島に建つ「佐多岬灯台」



日本本土最南端の地・「佐多岬」は、有料観光地・・?


一時して、大根占の埠頭に着岸した。
雄川の河口でもある長閑な漁村風の港で、埠頭の周辺には小さな漁船が密集している。 

国道269号を南下すると、程なく道の駅・根占に到着し一服する。 
道の駅・根占」は、本土最南端に位置しているらしい。
やや傾斜地に位置していて、駅舎はその高台にあり、錦江湾・開聞岳の大パノラマを眺められる。
実は、大根占町は2005年3月、田代町と合併して、新しく「錦江町(きんこうちょう)」が発足している。


R269を南下すると間もなく「日英戦争の砲台跡」というのがあった。 
“日英”とあるが、実際は“薩英”が正しい表現であろう、古い石垣からは大砲が錦江湾を睨んでいる、なかなか趣があって歴史を感ずる。


R269はこの先も殆どが海岸沿いの道で、錦江湾の静かなる海原と、その向こうに絶えず開聞岳の円錐形が見守っている。 
こちらは、「南大隅町」といって、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある町で2005年3月、根占町と佐多町が合併して発足した新町である。 

根占という町名は大根占町と根占町と在って、何故か、其々が別の町と合併し、其々の新しい町名を名乗っているのが面白い。
何か、曰く因縁でもあるのだろうか・・?。


この海岸道路は、別名「佐多街道」といって諸島を除く本土最南端に位置する「佐多岬」へ通じている。
その、佐多岬へ向かっているのである、佐多の小さな町並みからは、大隈道という内陸を通るようになる、山間部の多少の上下屈曲を繰り返しながら大泊地区へ出た。

ここからは「佐多岬ロードパークウェイ」というチョット長ったらしい名称が付いている。
ところで、ロードとウェイはどちらも「」という意味であり、呼び名が重複しているのでは・・?、
その有料道路の入り口へ来た。  

通行券には「佐多岬有料道路」とあり、大泊から佐多岬までの約10キロのドライブウェイで、有料道路のわりにはかなり古そうな道で、カーブもかなり急であり、云わば、ワインディング・ロードともいえそうだ。 

だが、沿道には並木や花壇はよく整備され、ハイビスカスやブーゲンビリア、ビロウ、ヤシの木などの亜熱帯植物が生い茂り、さながら南国の植物園に来たという醍醐味が感じられる。 

一見、通行料の1000円は高そうに思えたが、この側道南国植物園で納得しよう。 






途中、「北緯31度」の掲示板があり、はて・・この意味はと思ったが、本土最南端の緯度というわけであろうか・・?。 

その下にカイロ、ニューデリー、ニュウオーリンズ、上海、カラチともかいてあり、主要都市の同緯度を示したのであろう。



ところで緯度とは、経度とともに、地球上の位置を示す座標の一つで、緯度は、地図上では上下方向、つまり、その地点における赤道を中心として北極の天頂、南極の天低までの方向と角度で表される。 

赤道が緯度0度となり、北を北緯(ほくい)、南を南緯(なんい)と言い、北極・南極が90度となる。
又、北緯に+(プラス)、南緯に-(マイナス)を付けて表す場合もある。 

緯度10度分の距離は、6370km(地球の半径)×3.14÷180×10の計算によって約1111km であり、当然、1度は111.1kmである。 1度よりも細かい緯度は、1度=60分=3600秒と分割して表現する。 

又、1海里は、緯度1分(経度も同じで111.1km÷60)の地球表面上の距離を元に作られており、正確には1852メートルと定義されている。 


因みに、北海道最北端・稚内市は北緯45°25'N、東経141°40' E、本土最南端都市・鹿児島市は北緯31°36'N、東経130°33'Eであり、円形地球上の稚内市と鹿児島市の直線距離は計算によって1810kmとなる。 

序ながら経度は、同じ経度の点を結んだ線を経線と言い、子(北)と午(南)とを結ぶ線であることから「子午線」とも言う。 
そして、経度は地球上の時間(標準時)を定める基準にもなっている。


地球の自転・1回転が1日に当たるので、15度移動すると1時間進むことになる。
つまり、東経0度から東(又は西)に向かって国際時は決められていて、世界標準時は経度ゼロ(イギリスのグリニッチ)の子午線上の時刻で表され、グリニッチ標準時とも言われる。

日本は明石市が東経135度に位置しているので、日本時間は世界標準時より9時間進んでいることになる。 
言いかえれば、日本時間の午前9時が世界標準時の午前0時に当る。 

日本の標準時である日本標準時(JST・地方標準時)は、明石市を通る東経135度の時刻と決められている。 
つまり、イギリスが午前0時のとき、日本は全国が午前9時を示すことになる。 尚、経度180度の線が国際日付変更線となる。



終点の駐車場から歩いていくと隅の遊歩道の入り口にトンネルがあり、中の入り口に小さな小屋があって、ここで通行料として100円を支払うようになっている・・?。
チャッカリしているが、こちらもトンネル通行料は兎も角、園内の環境整備代と思えば良しとしよう。

トンネルを抜けると遊歩道になり、御崎神社という真赤な屋根の派手な社(やしろ)が鎮座していて、航海の守り神として崇められているとゆう。 

神社の右手の道を行く、岬突端の展望台までは起伏のあり、両側が切り立ったやせ尾根の稜線でスリルもあるが展望もすこぶる良い。 
途中、休憩所・レストハウスという建物の脇を通るが、閉鎖されていた。 

最後に、展望台の建物に着く、「日本本土最南端・佐多岬」と標識が立つ。 すぐ前には大小の島々が並び、一段と大きく屹立した大輪島に白亜の灯台が建っていた。

そして、やや遠くなったが相変わらず薩摩富士の姿が遠望でき、周辺海域は地球の丸さ・・?を実感できりのである。 

地球の丸さ云々は脇へおいて、やはり岬の先端というのは当然ながら絶景なる風景であり、何度見ても良いものは良い・・!。




因みに、日本本土・最北部は北海道稚内(宗谷岬)、最東端は同じく北海道根室市(納沙布岬)、最西端は長崎県佐世保市小佐々町(佐世保市小佐々町の神崎鼻先端部であり、神崎鼻公園と本土最西端のシンボル塔が建っている)で、其々、「四極交流盟約」というのがあるらしい。

次回は、「吾平」(あいら)





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2011年7月13日水曜日

日本周遊紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」

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 日本周遊紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」   、




幕末の1863年、錦港湾で薩摩と英国の互角の海戦があった・・!  、


当時のイギリスは世界の海に覇権を樹立してゆく「大英帝国」と呼ばれ、特にアジアへの進出は顕著であった。 

インドを始め東南アジアの諸国諸島、そして、中国(清王朝)へと覇権を延ばし、これ以降、中国は欧米諸国の半植民地に転落していく。
そして、遂にイギリスは日本へも、その食指が向けられるのである。

又、イギリスが日本への進出を目指した他の理由として、当時イギリスは帝政ロシアと対立状態にあり、イギリスの帝国支配に脅威を与えるロシアの南下政策を牽制する目的もあった。


安政5年(1858年)、イギリスは主に対日通商が目的であったろうが、その真意、背後には中国同様の植民地支配の思惑もあり、その為に日本にやって来たのである。 

来日した外交公使のオールコックは、母国イギリスの軍事力、軍艦を背景に大言壮語、虚勢を張りながら、幕府代表を脅しにかかる。 
弱腰の幕府は遂にイギリスと「日英通商条約」を結び、翌年からイギリス公使は東禅寺(東京・品川)を常宿として使用し始めた。


この頃の日本は、ぺリーやハリスの来日で開国が進むが一方、攘夷論(外国を廃す)も沸き上がり多くの事件も発生している。 

オールコックの強引な外交に業を煮やした攘夷志士(主に水戸浪士)たちが、オールコックとその公使館を襲撃する(東禅寺事件)。 

中でも1862年、江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主・島津久光一行の行列が生麦村(現、横浜市鶴見区)に差し掛かった所、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま行列を横切った。
これに怒った一部薩摩藩士が斬りかかり、イギリス商人・リチャードソン1人が死亡、他の2人が負傷した、所謂、「生麦事件」である。


この頃、薩摩藩では久光の兄・斉彬の時代から既に西洋列強に対抗するための軍備近代化 (「集成館事業」と呼ばれる) が進められ、斉彬の死後、頓挫していたその事業を積極的に復活・推進させたのが次期藩主となった久光であった。

この事件でイギリスは、さも当然の如く薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれをガンとして拒否する。 
新しく赴任してきたイギリス公使代理のジョン・ニールは、既に幕府から生麦事件の賠償金として10万ポンドを受け取っており更に、イギリス艦隊を引き連れて鹿児島湾(錦江湾)沖に到着、生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンド(現在の3億円程度)を要求している。

しかし、藩主・久光は「 生麦の一件は、武門のしきたりに従ったまでのこと 」と薩摩藩はこれを断固拒否する。 

結果として「薩英戦争」が勃発するのである。


生麦事件後の薩摩藩はイギリスの要求には一切応じず、攘夷実行の準備を着々と進めていた。
実弾射撃演習などの訓練に励み,鹿児島湾内で模擬実戦をも行っている。

この頃、イギリス東洋艦隊七隻が出動して鹿児島・錦江湾に侵入してきた。 
久光は「 粉骨砕身し、夷賊を誅伐せよ 」の号令とともに、湾岸に配した大砲が一斉に激射を開始するに至る。
英国艦隊も応戦し、激しい砲戦が展開された。 

英国艦隊の艦砲射撃で鹿児島城下北部は焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けた。
しかし、イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷するという大損害を出している。 
艦砲の射程はイギリス軍艦の方が上回るも、薩摩藩は先刻前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確に狙い撃ちができた。 

乱戦の中、イギリス艦隊は桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理しながら鹿児島湾を脱出していった。
無論、薩摩は英国の近代的な兵器に驚き、藩士はイギリスの砲弾を見て、生まれてこの方一度も見たことのない砲弾だったと驚かない者は誰もいなかったという。 
結果として、横浜で両者の和議が成立することになる。


戦乱の結果として、藩主・久光は諸外国の近代化された軍備に驚き、「 もはや無謀の攘夷は不可である 」と悟ることになる。

その後、薩摩藩は軍備近代化の必要性を痛感、生麦事件の賠償金の支払いと犯人捜査を約束し、又、イギリスも薩摩藩の実力を再評価して和解することになる。


これ以後,両者の関係は親密化し、イギリスは幕府支持から薩摩藩など西南雄藩支持へと傾き、薩摩主導の明治維新へと進んでいくことになる。 

更には、明治期の最大の大戦「日露戦争」でイギリスの補佐、協力を得て、日本は歴史的勝利を得るのである・・!。


次回は、「佐多岬




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2011年7月12日火曜日

日本周遊紀行(149)指宿 「休暇村と砂湯」

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 日本周遊紀行(149)指宿 「休暇村と砂湯」  ,






写真:指宿国民休暇村の「砂蒸し湯と露天風呂」(小生です)




日本イレブン、2006年W杯サッカー・ドイツ大会へ六大陸で一番乗り決定・・!! 、

指宿国民休暇村は、魚見港から田良岬の一端に広がる一大リゾート地域にある。  
館の前は広大な芝生が敷き詰めてあり、正面に魚見岳の姿がいい。 

通された部屋は正面が青く光る錦港湾で、左右に広がる砂浜は指宿市のサンビーチ海水浴場でもある。
今夜は大事なTV放送があるので、急ぐようにして入浴、食事を済ませた。


ところで、九州でも指折りの温泉地である指宿温泉「砂蒸し風呂」で有名なところである。 
指宿・湯の浜海岸には「砂むし会館」という砂蒸し専門の名物の風呂が楽しめるところもある。

天然自然の砂風呂は、海岸の波打ち際の砂の上にあり、横たわると係の「砂かけさん」が砂をかけてくれるという。 
指宿の砂湯は既に300年以上の歴史があり、しかも、干潮時に砂を被ると効果が有るともいわれる。

こちら、休暇村の館にも“砂蒸し”はあったが、残念ながら天然自然のではなさそうである。 
ただ、砂蒸しは本日・特別サービスデイで、通常1000円のところ先着30名まで300円で入れるらしい、ラッキー・・!。 

渡された専用の浴衣を着て、係員に穴を掘ってもらった所に寝ると、頭だけ残して砂をかけてもらえる。 
最初は砂が重く感じ、しばらくすると身体全体が熱し、次第に痛痒くなってくるが、15分ほど我慢するとサウナのように汗が吹き出してくる。 
終わる頃は体の芯から暖まり、砂を洗い流す頃にはスッキリ・爽快さを感ずる。 

後は大浴場と露天風呂に浸かり、二度目の癒しを味わう。 
浴室は海岸沿いの松林に囲まれた雰囲気のいい場所に面していて、特に露天風呂がよかった。

風呂からでて食堂にて夕食を食す。単品料理のメニューを見て、鰹のタタキを特注、「う~ん、旨い!」ビールにピッタリである、大瓶2本飲んでしまった。
間を見計らって、大満足の食事を終え部屋に戻り、早速、TVのチャンネルを捻る。


来年、2006年はサッカーW杯ドイツ大会である。 
現在、各地、各セクションで予選会が行われているが、日本はアジア地区B組の最終予選に進出し今日は、その最終戦で本戦出場の決定戦である。 対戦相手は北朝鮮だ・・!。 今回の試合は本来、北朝鮮の平壌で行われるはずであったが、前回、平壌で行った他の試合で観客が暴徒化しトラブルが有ったため、連盟が「第三国で観客を入れずに開催する」と処分を決定していた。 そして、今日この会場はタイ・バンコクの無観客の試合となっている。 飛んだハプニングの試合であったが兎も角も本日19時35分(日本時間)、いよいよキックオフになった。
日本は序盤からピッチを支配しが、だが今ひとつ攻撃にスピードがなく、北朝鮮DFに守備を固める時間を与えてしう。 好機を生み出すまでには至らず、要所要所でミスが出て、北朝鮮にカウンターの機会を与える場面もあり、まだ油断できない展開であり、後半、早い時間帯で先制点を奪いたいところだ。
本来なら、ジャパンブルーのサポーターが嬌声で賑やかなところだが、やはり、異様に静かだ。小生は一人、遠い九州の果てでの、テレビの前の応援であるが、チャンスになると「イケ、・・イケイケ」と声援を送るが、どうも前半戦は届かなかった様だ。
後半開始から、本大会ラッキーボーイとなっているFWの大黒を投入し、勝負を仕掛けてきたジーコ監督。 大黒の鋭い動きが最終ラインを脅かし、北朝鮮ディフェンスを混乱させ、ついに後半28分柳沢が先制点を奪った。 当然ながら、ここでは観客が大騒ぎするはずであるが全く静かで不気味である、TVのアナウンサーだけが興奮しながら伝えていて、やはり異様であった。 小生は一人TVの前で、「ヨッシャ・・!!、ヤッター・・!!」と両手のガッツポーズの意気軒昂であったが・・。 その後も日本が完全に試合をコントロールし、守備陣はしっかりと北朝鮮の攻撃をシャットアウト。 試合終了間際には、やはりラッキーボーイの大黒がワールドカップ本戦出場を決める追加点を奪った。この時も「よーし、決まった・・!」とテレビに吼える。 
結果は2対0、日本は六大陸の中で最も早いワールドカップ予選突破、ドイツへ一番乗りを果たしたのである。 普段はスポーツ番組は余り見ないほうであるが、高校野球をはじめ本来スポーツ好きの小生である、特に国際大会になると愛国心旺盛で、応援にも熱が入るのである。 いやー有難う日本勢、実に満足である。
こんな訳で昨夜は、名湯、名食事、そして名勝負の一夜で、気持ちよく眠りに就いたのである。



窓の白のカーテンが、朝日を浴びて輝いている、今日も天気は良さそうだ。
TVを点けると何処のチャンネルも昨夜のW杯の決定戦を映し出している。
あの、2得点のゴールシーンは何度見てもいいし、飽きない。 
無観客のせいか、その反動もあろう国内のサポーターが大変な騒ぎで、熱狂的ファンは半ば狂乱状態であった。 という場面をTVが盛んに映し出している。


さて、例によって朝風呂、朝食と済ませて気持ち良く宿を出て、指宿の埠頭まで車を滑らした。 
昨日のうちに、薩摩半島へ渡るフェリーの時刻を調べておいたのだ、指宿発8時の大根占行きである。


ハイビスカスロードと言われる快適道路を指宿市内へ向かい、案内板にしたがって車を進めると海岸よりチョコンと出っ張っている埠頭があり、そこがフェリー乗り場であった。

小屋風の小さな建物に南九船舶・指宿営業所とあり、指宿⇒大根占とあった。 
小型車~マイクロバスの車輌8~9台くらい航送可能のようで、大型車は不可であった。 
通称、ミニフェリー「なんきゅう」 と言い、航行時間は35分で、運賃は普通車で3300円とあった。 

小生のも含んで小型車3台、定刻よりやや早めの出航となった。 
指宿の街並、バックに聳える「開聞岳」の姿が徐々に遠くなる。
正面にはひっそりとした根占の町並みが遠望でき、遥か遠方に桜島も望めた。



この辺りは錦港湾の中でも大海に近い海域であるが、海面は穏やかであった。 
この穏やかな錦港湾で江戸末期、一大戦争が勃発し歴史に名を留めていることは、知る人ぞ知るであろう。 
幕末、風雲急を告げる大事件は「薩英戦争」と呼ばれた。


次回は、「薩英戦争





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2011年7月11日月曜日

日本周遊紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」

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  日本周遊紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」   ,




写真:松原越しに見る池田湖と開聞岳



「大阪の陣」の後、あの真田幸村が豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち延びた・・?  、



指宿を目指すため、先ず「指宿スカイライン」に乗って頴娃I・Cを目指した。
ところで「頴娃町」・・??、何て読むの・・?、
サッパリ分からない。 

一般に漢字は音読み、訓読みと両方あって普通の漢字なら大抵どちらかが読めるはずであるが、どちらにしても皆目見当が付かない。 
実は、頴娃の2文字で「エイ」と読む。 


地名とか人名の謂れを詮索してもしようが無いが、「頴娃」の2文字の意味はともかく、単字で「頴」は鋭い、秀れる、「娃」は姫、娘、美人、善女などの意味を持っているという。
このような意味合いで付けたかどうかは不明だが、いずれにしても日本的な名称ではなく、古代の渡来人あたりが付けた名であろうと想像は出来る・・?。


近年までは頴娃郡頴娃郷なるものが存在し、中世以降から戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏が領土を支配していたため、その名が付されている。 
現在の頴娃町は揖宿郡(いぶすきぐん)に属し喜入町、山川町そして開聞町などが合併により郡から離れたため揖宿郡唯一の町となっている。 


そして頴娃町は、あの「真田幸村」の伝説地であるとも言われる・・?。

慶長年間・大阪冬の陣があり、そして翌年の大阪夏の陣(冬そして夏の陣で江戸幕府が豊臣宗を滅ぼした戦い)において徳川・豊臣の最後の決戦が行われたが、当の頴娃村の地にも大阪の乱において、豊臣側支援のための軍資、兵員の出費を相当に課せられたという。

夏の陣も終わり、豊臣側の敗戦が決した後、薩摩には豊臣秀頼公を始め、眞田左衛門幸村、木村重成等の上下一千余人の大阪残党が続々と逃がれて来たという。 
真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ち延びたという噂は、童歌にも唄われ流行ったという・・、


『 花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 
              退きものいたよ 鹿児(加護)島へ
 』

・・とある。


薩摩では真田を真栄田(真江田)と名乗り、伝説の古書に残っていて墓地まであるという。 

史実的には幸村は1615年5月、夏の陣において家康の本陣へ突撃し討ち死にしている。 
源義経や楠(木)正成もそうであるが、日本人好みの悲劇のヒーローであり、伝説を生んでいるのかもしれない・・?。



車も少なく、展望の良い快適な「指宿スカイライン」であり、時折、池田湖や開聞岳の円錐形の姿が見え隠れする。 

下りきって程なく湖畔に着いた、「レイクグリーンパーク」というサッパリした園地に着いた。 
芝生の先に満々とした湖面が広がる、その正面に円角錐の勇姿「開聞岳」が立つ。 絵になる風景である。 

池田湖は、周囲15キロメートル程の小さい湖であるが、九州では一番大きい湖で、深さも錦江湾と同じ230mもあるという。 

全体に明るく輝くような雰囲気であるが、湖の東側は切り立った岩山が湖面にまで落ち込んでいて、人を寄せつけない険しさもあり、神秘的な佇まいをも見せている。 

池田湖には謎の怪物ネッシーならぬ、イッシーが生息していると昔から言い伝えもあり又、池田湖の東側にある鰻温泉で知られる「鰻池」とは湖底洞窟で繋がっていて名物の巨大ウナギが生息しているいう噂もある。
 


薩摩半島の最南端の海辺から、いきなり立ち上がる「開聞岳」は標高924mの火山で、日本百名山の一つで別名「薩摩富士」とも言う。 
深田久弥氏が百名山を選んだ基準に「品格」、「歴史」、「個性」とあり、これに付加的条件として、1500m以上の高さが加わるという。 

開聞岳は高さこそ及ばないが、いきなり海上から屹立しているというユニークな山容であり、他の、どの山にもこの様な姿は見当たらない特異な山である。 その為に敢えて加えたのだろう。

開聞岳の北麓に枚聞神社(天照大神を祀るが、祭神には諸説がある)がある、「ヒラキキ」と読む。 

枚聞大神の神霊が宿る御神体山で、古代より信仰の山として崇められ、開聞岳は古くはヒラキキ岳と呼ばれた。 

枚聞岳は薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に位置し、即ち海の門である。 
その雄姿は海の門、即ちカイモンであり、一時は海門岳とも言われたそうで、ヒラキキは開聞で音読みでカイモンとも読むので、自ずと両方の意味合いを取って「かいもん」が開聞と呼ばれるようになったという。

薩摩には大壮な三つの山が在る・・!、
  
『 開聞に 西郷南州 桜島 』  小生



夕刻も迫ってきている。
県道28号(開聞岩本線)で一旦海岸へ出て、案内に従って今夜の泊まり魚見岬の先端に位置する「指宿国民休暇村」へ急いだ。


次回は「指宿温泉




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01. 15.

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