2011年8月31日水曜日

日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」

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 日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」   




九州の「関が原」と言われる「耳川の戦い」が・・、

国道10号線を快適に北上する。
川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっている。 
広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことが想像できる。

日豊本線を跨ぐように、直線の高架線が走っている。 
以前になるが日豊本線の都農駅から美々津駅まで、リニアモーターカーの実験が行われていた所らしく、現在は、実験の舞台が山梨に移されていて、施設は取り壊されることなく現在もそこに居残っているのであろう。 

まもなく、日向市に入り「美々津」という港へきたようだ、清流・耳川の河口に当る。
耳川は一般の川の趣きとは異なり、巨大な中州を持つ湖のような泰然とした川である。 
川面は珍しく青緑、エメラルドグリーン、黄緑と天候や見る場所によって色が変化する不思議な川だという、五色川ともいうべきか。 
耳川は、九州山地(椎葉村三方山)に源を発し東へ向かって宮崎平野を流れ、日向市美々津町から日向灘に注いいでいる、長さ100kmの水系で美々津川とも呼ばれているらしい。


この川に「幻の魚」と呼ばれる、「アカメ」という魚が生息することでも知られてる。 スズキ目アカメ科の魚で、名前の通り目が赤く、北川、耳川のほか、高知県の四万十河口域など汽水域(真水と淡水が混じった水域)に生息し、体長1メートル、重さ20kの巨大魚になるという。 地元では“マルカ”とも呼ばれているらしい。 
尤もアカメは、ここ数年は魚影が見られなくなって、2007年には環境省のレッドリストの中の「絶滅危惧種」に指定されているとか。


ところで、往時はやはり「耳川」も河川流通路としての重要な地位を占めていたという。 
江戸期、この地方の産物である木材や炭を高瀬舟で河口の美々津に集め、大型船・千石船で大阪方面に送り出していた。
当時の美々津はそれら特産物の積出港として大いに賑わい、元禄年間には回船問屋や商家が数多く軒を連ね、「美々津千軒」とも呼ばれるほどの繁栄ぶりであったという。

現在、美々津、耳川の南部、国道10号線と海岸に挟まれた狭い一角は、江戸時代の回船問屋や明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれており、当時の隆盛ぶりを知る事ができる。 
中でも現在、日向市歴史民族資料館となっている元廻船問屋・旧河内屋は間口が広く、美しい京格子と白壁で当時の繁栄を偲ばせている。
この美々津の町並みは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。


この耳川の南部地区は今でこそ鄙びた景観を呈しているが、この周辺、特に木城町にかけては古戦場としても今なお秘められた足跡を残しているという。 
戦国期の天正6年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(木城町)を主戦場として激突した合戦で、「耳川の戦い」とも云われる。  ぞくに九州の「関が原」とも言われる。


九州の覇者「大友氏」(九州探題)と九州南部に勢力を持ち北部への進出を目論んでいた「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦いで主戦場は高城地区の(現、木城町南部)、そこを流れる小丸川を境に両軍は対峙することとなる。 
激戦の末、勝敗は大友軍が三千余の将卒を失い、壊滅状態となって敗退した。 
大友方は、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したともいわれる。 

結果は、島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行くが、更にそのことが起因して、天下を平定しつつある豊臣秀吉の九州出兵を促す原因となる。 
結末は秀吉軍が島津を抑えて、九州地方は平定されることになるのだが。


ところで、この合戦に島津勢が勝利した戦いを「耳川の合戦」と呼ばれるが、一方では、主戦場は耳川ではなく、宮崎県児湯郡木城町にある高城城下の高城川(現在の小丸川)であることから、「高城の戦い」とするのが妥当とする向きもある。 

耳川と高城川は、南北に凡そ20キロ離れているが、豊後地方に勢力をもつ大友軍から見ると、この耳川は南進北帰の生命線であり、そしてこの地で追撃する島津軍に完敗した地であることから「耳川の合戦」が妥当であるとも言われる。

その後、大友宗麟の要請もあり九州攻略のため本州勢力の秀吉軍が大挙して島津軍を攻めることになる、この時の主戦場がやはり高城であった。
秀吉の先鋒として戦ったのが大友の残兵(大友義統)でもあり、結果、秀吉軍が勝利したため大友家は豊後一国を安堵されている。 
この戦は「高城の戦い」とも称している。


次回は、日向・「美々津





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2011年8月30日火曜日

日本周遊紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」

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 日本周遊紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」   ,



(クリック大)
石川英輔著 『泉光院・江戸旅日記』の本




「厳重を極めたといわれる箱根の関所も、江戸後期ともなると・・、」 
野田泉光院の『日本九峰修行日記』より・・、


泉光院は文化9年9月(1812年10月)に佐土原を出発、全国の諸山を巡る修行と九州・鹿児島から北は出羽・本荘まで全国各地を訪れ、文政元年11月(1816年12月)佐土原に帰国している。 実に6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。
この時、泉光院が江戸表の島津家の江戸藩邸に入参した時期は文化14年4月であった。 合わせて江戸藩邸の先代藩主・島津忠持と会談しているが、「恐れあらば記さず」(業務上の秘密)として、記載されていない。
この書は旅道中に関して表向き(政治や経済のこと)のことは一切記されていないが、江戸の仇敵とされる主家・島津家に対しては、相応の内実情報がもたらされたことは想像できる。 

どちらかといえば、書は当時の風俗を生き生きと活写しているのが特徴で、歴史家によれば貴重な史料として高く評価されているともいわれる。


前記したが佐土原は中世の頃、伊東氏から島津氏へと領主が代わっている。
鎌倉時代において佐土原・伊東氏は、鹿児島で勢力を伸ばしてきた島津氏と日向の支配をめぐって激しい戦いが繰り広げられ、徐々に島津氏が優勢となり、遂に伊東氏は豊後国へと追い払って島津の支配が始まる。 

「関が原の戦」で島津は徳川に破れ苦杯と怨念を強いられるが九州南部は安堵され、最初の佐土原城主は島津家久、次いで江戸期以降には島津の支配体制が整っていく。 

野田泉光院の全国行脚の時期は江戸後期であり、当時の佐土原は島津の支配下にあって、島津氏より相当の援助があったことは伺える。

江戸末期、この江戸薩摩藩邸が騒がしくなるのは50年後の事である。


ところで、江戸後期の泉光院行脚中時代は、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成しているし(1814年)、当時の文化・文政の時代(1800年前期)には、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著し(1802年)、間宮林蔵が樺太を探検している(1814年)。 又、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができ(1832年)、歌川広重の「東海道五十三次」ができる(1833年)など、各階、各層の人々の諸国漫遊も盛んであったのである。




因みに、作家・石川英輔氏の「泉光院江戸旅日記」の中で、小生の居住地である神奈川県厚木市近郊の“くだり”について抜粋してみると・・、

『 文化十四年丁丑(ていちゅう)元年:西暦1817年2月16日・・五月八日(6月22日)~十日(24日)鎌倉の主要な神社仏閣巡り・・・藤沢から寒川泊まり、 十一日(25日)相模一の宮(寒川神社)そして四之宮(平塚・前鳥神社)を参回している。 ここでお供の平四郎が二と三はいいんですかい・・と理屈をいったが、泉光院は無視している--平塚八幡、坂東札所・金目山(第七番・光明寺)へ参って納経印をもらいに行くと、住職に笈仏(箱に収まっている戒名)を開帳して欲しいと頼まれた。 長々、読経せられたり・・。石田村(伊勢原市石田)の浄心寺泊り。 十二日(26日)大雨なので、「憂きことの はてや旅路の 五月雨」と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀なら、もう1日いなされ、といってくれた・・、幸いなりと滞在す。かようなるときは発句も役に立つものなり・・。 十三日(27日)、アツ木(厚木市)へ出て相模川を船で渡り、相模国分寺(海老名市国分)参詣。坂東札所・星の谷(第八番星谷寺・座間入谷)の門前に泊まった。 十四日(28日)、坂東札所・飯山寺(第六番・長谷寺(厚木市飯山)、日向薬師(伊勢原市日向)に参り、門前に泊まった。 十五日(29日)大山不動尊(伊勢原市大山)に参詣、菖蒲団子というものを買うて数十匹の犬に食わす・・。 尾尻村(秦野市尾尻)の寺に泊めてもらう。 十六日(30日)十六日坂東札所・飯泉山(第五番・勝福寺 ・小田原市飯泉)参詣。酒匂川を渡って塚原村(同市塚原)泊まり。 十七日(7月1日)この家に笈(背負う荷物箱)を預けて道了尊(最乗寺)へ上って参詣す。――― 十八日(2日)箱根山を登って関所を通ろうとしたところ、引っかかってしまった。  役人「その方ども、江戸屋敷からの関所手形を出せ」 「われわれは日本回国の行者で往来手形はあるが、他には存じませぬ」 「 江戸屋敷へ行って頼むことが出来るはずだ・・」 「 江戸屋敷は存じません、又、お屋敷へ出るほどの身分ではございません」 「そのほうら名を何と申す・・」 「私は一葉坊、この者は合力助と申します」 「今回は内聞で通してやる、次回はそうはいかんぞ・・!!」 「へい・・」・・泉光院が名乗った一葉坊は俳号であった・・、役人とのやりとりが面白いし、関所も、そこそこいい加減であったことが判る。 』



以上本文よりであるが、神奈川県の鎌倉へ入って、箱根を出るまでの神奈川県央、県西部にかけて11日間を要している。 
その気になれば山道を1日60kmをも平気で歩き通せる頑健な人であるが、この相模地方は意外とゆっくり、じっくり歩を進めていることが判る。
見所が多かったのであろう。

因みに、坂東札所・星の谷(第八番・星谷寺・座間入谷)には、当時のメモ帳なる「つづれ草」が置かれていて、ここを訪れた泉光院のことが記されている。

『 「つづれ草」37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国・佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は「周應」であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった 』、とある。

気が付くのは泉光院が記した『日本九峰修行日記』には文化十四年五月十三日とあるが、星谷寺の記録には文化十三年五月十三日になっている、丁度一年違いになっているが・・??。



次回は、日向・「九州の関が原




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2011年8月29日月曜日

日本周遊行(164) 佐土原 「野田泉光院」

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 日本周遊行(164) 佐土原 「野田泉光院」   ,




(クリック大)
佐土原町上田島の大光寺にある野田泉光院の墓(市指定 史跡;宮崎市提供)





「野田泉光院」は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて・・、

鎌倉末期の1335年、領主・伊東祐聡(祐明から4代目)は、佐土原町上田島の一角に「大光寺」を建立し、以降、伊東氏代々の菩提寺とした。 
後に戦国期、領主が島津氏に代わると以降、島津氏の菩提寺になっている。 
寺院は、国の重要文化財に指定されている名刹でもある。

この古寺・大光寺の山手の静かな森の一角に「野田泉光院」の墓がある。
「泉光院」は、佐土原の真言宗・安宮寺(新城地区に在った今は無き寺跡〉の八代目住職で、寺跡には、日本九峰修行供養塔があり、彼自身の墓は大光寺境内にある。 

本名を野田成亮(のだしげすけ)といい、泉光院とは修験者の院号である。 
当時の最高水準の知識人であり高僧だったという。

尚、由緒ある佐土原町(さどわらちょう)は、2006年1月1日、宮崎市に編入され消滅している。



1811年(文化8)、56歳の時に斉藤平四郎という30代の男性を従え、6年2ヶ月にわたる全国の山伏寺を回る旅に出た。
泉光院は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて、後に、『日本九峰修行日記』を著している。 
日記は当時の庶民の姿を知る貴重な資料となっている。

作家・石川英輔氏が、野田泉光院の『日本九峰修行日記』を、ノンフィクションに訳して『泉光院江戸旅日記』を著している。

泉光院江戸旅日記』の書が新聞の広告に出るなり興味八百と山好き、旅好きの小生は早速買い求め、熟読し、大切な蔵書の一角を占めている。 

副題には『山伏が見た江戸期庶民のくらし』となっていて、帯紙には表側に「 文化文政の6年間、南は鹿児島から北は秋田まで日本を歩き回った僧・泉光院の見聞録 」とあり、裏側に「泉光院の足跡⇒佐土原⇒宮崎⇒鹿児島⇒指宿⇒阿蘇山⇒長崎⇒名護屋⇒彦山⇒中津⇒小倉⇒長府⇒萩⇒広島⇒津和野⇒大山⇒鳥取⇒大江山⇒丹後半島⇒三方五胡⇒伏見⇒京都⇒福知山⇒姫路⇒大阪⇒草津⇒白山⇒金沢⇒能登⇒富山⇒野麦峠⇒松本⇒身延山⇒甲府⇒江戸⇒秩父⇒前橋⇒日光⇒浅間山⇒戸隠⇒立山⇒鶴岡⇒出羽三山⇒本庄⇒金華山⇒仙台⇒山形⇒那須野⇒筑波山⇒成田⇒銚子⇒鎌倉⇒箱根⇒下田⇒富士山⇒岡崎⇒岐阜⇒伊勢⇒白浜⇒和歌山⇒吉野⇒高砂⇒岡山⇒今治⇒大分 他」とある。


主人公の泉光院は56歳で当時としては老年といっていい高齢であった。 
そして、執筆者の山伏は出発当時の地位、要職として高地位にある寺院の住職であった。 大先達という高位の山伏として日向一国の山伏を支配するという階級位であった。 尚且つ、佐土原の島津家の縁者として禄も受けており、佐土原では弓術の指導などもしていたという人物であった。

本人著書の『日本九峰修行日記』に示す記録の中から興味深いのは、そのような有能な人物が敢えて貧しい人々の間を托鉢・修行をしていて、当時の一般の人々、特に農民の生活の一端をも垣間見て、そのことを詳細に記載しているのである。 
ところで面白いのが、長いたびの間斉藤平四朗というお供が付いていた。 そして、この男は佐土原の町人で、ある種、道楽人であったらしい・・?。


旅は経路を現在の地名と照らし合わせつつ、当時の一般の生活を浮き彫りにしようという主旨で書かれている。 
この住職(泉光院)は6年間、ほんとにまめに日記を付けていたらしく、行程は本著の帯紙の通りで、南は鹿児島から北は秋田の本庄(本荘市)まで、日本中を歩き抜いている。

更に驚くべき事は、巡国しながら日本の名だたる山岳聖地を登攀しているのである。
そのことは、彼が著した旅日記・『日本九峰修行日記』にも多くの山名も記載されている。

作者は旅日記を「修業日記」と題したように、修業、参詣の宗教的目的をもって巡回訪国している。
登山もこの宗教的目的の下に行われているが、回国修業の登山にしては当時としては一流の登山家とも考えられている。
山好きの小生としては興味あるところなので、その内容を記してみる。



野田成亮の日本九峰とは・・、

西より英彦山、石鎚山、箕面山、金剛山、大峯山、熊野山、富士山、羽黒山、湯殿山などである。
これらは何れも国内有数の山岳霊場で、世に知れ渡っている名山である。
しかし、これら九峰修業の旅以外で、彼はもっと多くの山に登拝しているのである。

九峰以外の主な遍歴の山を列記すると・・、
九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま) 
山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山) 
山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山
近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山
北陸・・白山 石動山 立山 
東海・・光明山 秋葉山
信越・・浅間山 米山   
関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山
奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山
等・・等・・。


引き続き、「野田泉光院・旅日記




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2011年8月28日日曜日

日本周遊紀行(164) 佐土原 「佐野原聖地」

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 日本周遊紀行(164) 佐土原 「佐野原聖地」   、




佐土原は、神武天皇の幼少時の名前・「サノハルノミコト」から起こった・・!

一旦、一ッ葉道路に戻って間もなくすると海岸から離れて10号線に合流する。
ここは既に佐土原である。 
九州流に言うと“サドバル”であるが、こちらは標準語らしく“サドワラ”と読むらしい。 


こちら佐土原も、伝承では「神武天皇」が誕生された地とされている。
佐土原町上田島地区の小高い丘、昼なお暗く鬱蒼と茂る木々の中に、ぽつんと小さな「」が鎮座している。 
この地が「佐野原聖地」と呼ばれる聖なる地というが、拝殿や賽銭箱などはなく、扉に掛かる鍵は壊れかけていて、まるで森の中に放置されたような空間、年月から無視されたように建っている。 
後に、大和の国を平定した人(神)が生まれた場所にしては、あまりに寂しいのである。

佐土原は、始めサノハルと称し「サノハルノミコト」(サノノミコト)は、神武天皇の幼少時の名前である。 

この社は、都於郡(とのこおり:現、西都市)から宮居を遷し、鵜茸草茸不合命(ウガヤフキアエズ)が天下を治め、玉依姫命(タマヨリヒメ)を妻に迎えたとされる地で、後に神武天皇が生まれた場所でもあるという。
日本の初代天皇の聖地としては余りに粗末であると思われるのである。




鎌倉期以降の「佐土原」について・・、
ところで、鎌倉期に源頼朝から日向国・地頭職に任命された工藤祐経が佐土原を支配し、この時期に佐土原神社が創建されたといわれる。
工藤氏は姓を本来の姓である伊東と変えながら400余年に亘り、この地の支配体制を確立している。 第10代・伊東義祐の頃には佐土原城を中心とし日向・四十八城を支配したともされている。

日向・飫肥(おび)の項でも記したが・・、
工藤祐経は鎌倉のお膝元で起きた「曽我兄弟の変」の主たる登場人物で、当の本人は兄弟の仇討ちで殺されてしまう。 

では何故、佐土原の初代領主なのか・・? 
鎌倉期、既に領地を与えられていた祐経本人は鎌倉の地で頼朝の信任厚き重臣として務めを果たしているのであり、領地の管理は、その代官が行っていた。

祐経亡き後、その子伊東祐時の四男祐明、つまり工藤祐経の孫が現地に赴いて実質拝領し、初代「田島氏」と称した。 
佐土原は、当初は「田島の庄」とも呼ばれていたからである。 

佐土原城は戦国期に伊東氏の中心的城郭となり、伊東義祐が居城した頃が全盛期と言われる。
戦国期、島津氏の大軍は伊東氏の本拠である佐土原を目指して進撃を開始し、戦況不利と見た義祐は戦わずして退却し、豊後の大友氏を頼い、大友宗麟はその要請をいれて伊東義祐らを庇護した。 
その後、大友軍は島津軍と戦ったが敗戦、兵を退くところを追撃され「耳川の戦い」で潰滅的敗北を喫し、こうして、大友氏も一気に勢力を失墜することになった。 


奇しくも、伊東氏の出実は伊豆の「伊東の荘」であり、大友氏の出実は相模の小田原の「大友郷」である。 
伊豆と小田原はほぼ隣接していて、東国の雄は親しく九州でも隣国同士となり、共に滅び去ったのである。 

そして滅ぼした当の島津氏も大元(初代都城:島津忠久)は頼朝のご落胤との説もあり、この三者とも頼朝のお声がかりで、九州の平家残党の抑えとして派遣された共通目的があった。

これも歴史の面白さであろう。


次回は、佐土原の「野田泉光院






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2011年8月27日土曜日

日本周遊紀行(163)宮崎 「神武天皇」

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日本周遊紀行(163)宮崎 「神武天皇」 ,






写真:宮崎神宮、神門より拝殿


【神武天皇の譜系】





宮崎神宮」は、地元では親しみを込めて「神武(じんむ)さま」と呼ばれていて、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)=神武天皇(初代の天皇)を主祭神とし、父君・ウガヤフキアエズ、母君のタマヨリヒメ(玉依姫命)を相神としている。 
創建は社伝によると神代までさかのぼるが、現在の社殿は明治40 年に建て替えられたものという。 

社伝によれば、鎮座地である宮崎は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた天皇の孫とされる建磐龍命(タケイワタツノミコト)が、その縁に因んでこの地に創祀したという。
この神は、日本神話にも登場する人物で、阿蘇神社の主祭神であり、神武天皇の孫として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。


最初の天皇といわれる神武天皇が誕生した地は、同県内の高原町の「皇子原」といい、奇しくも、祖神であるニニギが降臨したとされる高千穂峰の山麓に当たる。 
幼名が「狭野尊」(サノノミコト)といわれたため同地に「狭野神社」が祀られている。
その後、宮崎神宮に西方、「皇宮屋」(下北方町)というところに住むようになった。

45 歳の時、「 東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る・・」と察し、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)稲飯命(イナヒノミコト)と共に全国統一をめざして兄弟三人で日向を発つ。 
そして現在の日向市の美々津(みみつ)港から船で東方へ旅立ったと伝えられている。(詳細は美々津の項で記載) 


天下を統一し、政治(まつりごと)を行うべく、はるばる東遷の途に立たれたが、神武天皇は直接、大和に入ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。 
日向⇒宇佐⇒筑紫の国の岡水門(おかのみなと)⇒安芸の国の埃宮(えのみや)⇒吉備の国の高島宮(たかしまのみや)と、数年かけている。

その後、浪速の津(大阪)へ上陸して生駒山の方から大和に入ろうとする。
ところが大和の長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい抵抗に合い、進路を阻まれる。
このとき、神武天皇の長兄のヒコイツセは傷を負い、それが元で亡くなっている。 

神武天皇は、「太陽に向かって攻撃するのが良くない」として、熊野のほうに迂回する。 
回り道をし熊野の地にたどり着いたが、今度は、熊野の荒ぶれる神の毒気に当たり病に伏せる。
元気を取り戻した彼は、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末にナガスネヒコを滅ぼし、こうして幾多の困難に遭いながら東征から6年目で漸く(ようやく)大和の国に到達し安住の地とした。 

畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の宮において即位の礼(神武天皇に即位)を挙げ、天皇を中心とした国の基を建てられ(建国)、荒ぶる国々を平定された。 
大和三山の一つ畝傍山の北東麓、玉砂利の参道と素木の大鳥居が立つところに神武天皇御陵があり、その南側に、明治天皇により創建された神武天皇祭神の「橿原神宮」が鎮座する。


神武天皇は、日向の国・高千穂に降臨したニニギノミコトから数えて四代目、天孫族の頭領・アマテラスからは六代目(又は五代目)そして、国生みの神々の祖神とされるイザナギ・イザナミからは七代目に当たるとされる。 

日向の「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。

参考までに、高祖神々の系譜の概略を述べてみよう(参考・日本書紀系)・・、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされるイザナギとイザナミがおられた。そして、その子の一人(神)が天照大御神である。


天照神以降の譜系は・・、
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代、高千穂神社、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命・ トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命・タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹:玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 天照大御神から代代辿って、神武天皇までは六代目に当る


日向・宮崎は、神話と伝説の古里と言われており、天地が作られた天地開闢(テンチカイビャク)から天孫降臨、そして神武遠征まで様々な言い伝えが残り、宮崎の各地に祀られている。 
市内では、国生み神生みの日本最古の神、イザナギとイザナミのご神体を祀る「江田神社」、イザナギノミコトが禊(みそぎ)を行ったとされる阿波岐原のみそぎ池、イザナギノミコトを祀るイザナキの禊にまつわる「小戸神社」、イザナギの禊(みそぎ)の際に綿津見三神(ワタツミ・アマテラスの姉弟、住吉三神)を祀った「住吉神社」、ニニギの妻で海幸彦・山幸彦の母であるオオヤマツミの娘・コノハナサクヤが祀られている「木花神社 (きばな神社)」、山幸彦、豊玉姫のご夫婦神を祀っている青島神社、それにニニギは、高千穂町の高千穂神社、北川町に墓稜とされる可愛山稜に祀られている。
そして、神武天皇の東征前の皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや・皇宮神社)、初代天皇である神武天皇とその父の鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト) と母の玉依姫命(タマヨリヒメ)を祀る「宮崎神宮」などがある。


次回は、「佐土原




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2011年8月26日金曜日

日本周遊紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」

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 日本周遊紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」  ,




写真:宮崎神宮、拝所とその奥が拝殿




神武天皇を祀る宮崎神宮・・、

一ッ葉道路は、国道10号の交通渋滞を解消するバイパスとして主に海岸を北上して佐土原に至っている。 別名「くろしおライン」ともいう。 

北部地域には、隣接している「フェニックス・シーガイア・リゾート」のグリーン地帯があり、こちらは世界でも屈指の施設で、自然と環境を備えた世界に誇れるリゾートだと当事者は自認しているようである。 
因みに、シーガイアとは、英語で海を意味する「Sea」と地球を意味する「Gaia」を組み合わせた造語である。


昨夜は、この道路のP・Aで夜を明かした。
車には柔らかな朝日が入り込んでくる、今日もいい天気のようである。 
海岸へ出ると陽光が海面に反射して一寸眩しいくらいである。 陽気のわりに打ち寄せる波は大きく白の飛沫を上げている、やはり日向の海である。 

近くのセブン・イレブンで配送したての朝食と、沸かしたての熱ったかコーヒーで鋭気を注入して、朝日に見送られながら出発である。 
今朝一番は、先ず宮崎市街地の「宮崎神宮」へ向かう。 


JR日豊線のその名も宮崎神宮駅は、神宮を模した木造建築で、赤の銅版屋根と朱に塗られた柱などの神宮との調和と風情を考慮したデザインの駅舎である。 
だが、木造の建物駅舎は長年風雨に晒され痛みも激しく、近年、取り壊しが決まっているらしい。 

目の前に宮崎神宮の銅板張りの大きな鳥居がデーンと建っていて、その奥に鬱蒼とした緑の森が広がっている、神宮の森であろう。

駅前からゆっくり進めると、東神苑という大きな駐車場が現れる。
我が愛車をこちらに止めて、そこから左方向へ玉砂利が敷き詰められた参道を行く。 

両側を宮崎を代表する照葉樹(シイ、カシ、タブノキ等)の森が鬱蒼と広がり、限りなく続いているようである。
境内の広さは広大で、何でも東京ドームの五倍以上もあるという。 
いかにも神苑の森といった感じで、その神聖な空気を味わいながら、暫くすると本殿正面のエリアに到達する。

西神苑の御奉安所というところには古代船・「おきよ丸」と称して、神武東征の神話を基に、西都原古墳群から出土したという“舟形埴輪”をモデルとした和船が展示されている。

秋の10月下旬に行なわれる御神幸行列で、神武天皇役やその姫であるアヒラツヒメ役らが乗船し、祭りの新しい目玉の一つになっているという。

ニの鳥居、三の鳥居から立派な社務所をすぎると、真っ直ぐな参道がいよいよ本殿に達している。 
先ず神門があって、その左手前には「手水所」があり参拝のための手や口を清める、所作は左手、右手の順に洗い、そして水を口に含んで清めるのが作法である。


本殿を模したとされる神門も豪奢な造りであり、左右の門扉には如何にも天皇家の祖神らしく神紋である大きな「菊の御紋」(正確には「菊花・三つ割菊に矢」というらしい)が配されている。 

神門をくぐると、石組みの参道が拝所まで真っ直ぐに延び、石畳みの両側は整然と掃き清められた玉砂利が敷かれている。 
神門も拝所も本殿と同じ「神明造り」といわれる造りで、屋根上には突き出た「千木」(社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木;一般に先端が水平にきられている場合は女神、先端が垂直に切られている場合は男神とされる)や「鰹木」(神社本殿などの棟木の上に横たえ並べた装飾の木、数は奇数は男神、偶数は女神の社に見られる)が乗っている。 

拝所とは我等がお参りするところで、こちらで、心新たかにして鄭重に参拝を済ませる。 
この拝所には「神武天皇」と書かれた立派な額がかかっており、初代・神武天皇の御社であることが判る。
周囲は菊の御紋を記した、小さな御旗が取り囲んでいて、一層、厳かな雰囲気を醸し出している。

拝所の奥に、荘厳な拝殿が配してある・・?。 
拝殿の左右二つの左側が神饌所(しんせんどころ:お供え物を調理する所)、そして、右側に御料屋(神事を行うための色々な道具類を保管する一種の倉庫)と称している。
そして中央奥に正殿があるが社殿に隠れ、殆ど見ることは出来ない。

因みに、拝所と拝殿は、何れも本殿(正殿)に安置されている御神体を礼拝する場所であり、同じ意味合いを持つようであるが、ここでいう「拝所」は、一般参拝者が正殿に礼拝する所であり、「拝殿」は、正殿に宮司や神職のたちが神饌(神に供える飲食物、稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜ソサイ・塩・水など)を調理し、奉げて礼拝するところであり、又、記帳して御祓いを受ける参拝者が拝礼するところと理解する。


各社殿は、霧島神宮や鵜戸神宮の色彩豊かな華やかさとは違って、伊勢神宮に模した古代の神社様式とされる見事な「神明造り」である。 

落ち着いた木目の入った白木造りの建屋に、屋根は銅板葺きで千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が設けられ、その直線的で簡素な佇まいには、やはり伊勢神宮様式の影響が顕著である。
尚、伊勢神宮・正殿の場合は、他の神明造りとは異なり独自の様式を備えているため、特に「唯一神明造り」とも呼ばれている。



ここで、「社殿」について一言・・、
日本における古代神物(仏ではない・・、)信仰には、神社とか社殿などは元々存在しなかった。 
本来、神は目に見えない存在であり、特定の場所に常住しているわけでもなく、古代の人々は、祭りの度毎に祭祀場を設けて、神聖視された巨岩や樹木に神を迎えて、祭りが行われた。 
神が降臨し、依り代とされる神籬(ひもろぎ:古来、神霊が宿っていると考えた自然物である山・森・老木などの周囲に常磐木を植え巡らし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)という様式は、今でも地鎮祭などの祭場が小規模、簡素化した姿が見られる。

」が人間の住む家の形をした神社(かみやしろ)が建てられ、社殿の内に常住するようになったのは寺院様式の建築の影響が大であるとされる。 

仏教伝来以後に初めて、寺院に真似て神社の社殿が造られるようになったとする説は、史学界では有力とされ、仏教伝来が6世紀頃とされるので、それ以降に神社、神殿が造られ始めたことになる。

だが、神の住居としての独自性を強調するために、仏教寺院建築の様式とは別の、古来からの建築様式を神社の本殿建築に採用したともいう。
それは、弥生時代からの伝統である高床式の倉庫建築であるといわれ、穀倉倉庫を模した建物であるとされている。
それが高じて高床式建物は神聖視され、更に神に近づくため次第に高所化され、出雲大社のような高床の社殿が出来上がったのかもしれない。(出雲大社はこの後、記載します)


社殿造営で、古代の神社様式とされるのは神明造り、大社造り、住吉造り といわれる三つの古社様式である。
春日造り(奈良の春日神社本殿の形式・近畿地方に広く分布)、流造り(賀茂御祖神社・賀茂別雷神社の本殿の形式、全国に広く分布)、八幡造り(宇佐八幡宮本殿の形式)などが採用されるのは奈良・平安時代になってからとされる。


銅板葺きの屋根飾りには「鰹木と千木」が装飾されているが、神社本殿などの棟木の上に横たえて並べた装飾の木を鰹木といい、形は円柱状で鰹節に似ていることからという、勝男木とも書く場合がある。

千木は屋根隅の破風と呼ばれる所に、先端が延びて交叉した木のことで、祭神が男神の社は千木先端を垂直に削り、女神の社は水平に削るとされている。
また鰹木の数は其々、奇数は陽数で男神、偶数は陰数で女神とされていて、何れも、他の神社でもこれに倣っているものが多いという。 

当然、当社宮の祭神は神武天皇なので、拝殿の鰹木は7ヶ(神門は5ヶ)で千木先端は垂直の切込みである。 
因みに、伊勢神宮・御正殿は、祭神が女性の「天照大神」なので鰹木は10ヶ、千木先端は水平に切られている。

千木・鰹木ともに、元々は補強のためのものであったと考えられ、今では装飾として古来の建築方法に倣っている。


次回は、「神武天皇




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2011年8月25日木曜日

日本周遊紀行(163)宮崎 「グッバイ・ファミリー」

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 日本周遊紀行(163)宮崎 「グッバイ・ファミリー」   、





宮崎F・Tの岸壁には、既に「マリンエキスプレス」が接岸していた・・、

宮崎自動車道から宮崎市内へでる。
今夜、ここ宮崎フェリーターミナルから最後の航海と言われる「マリン・エキスプレス」が出航するとのことで、我等の家族もこの船で帰路出航することになっている。
出航が午後8時頃とのことで、先ず、宮崎のF・Tを出向いて下見と出航手続をすることになる、手続といっても乗船券に交換するだけだあるが。

未だ、たっぷり時間があるのでお土産や夕食をとる事になったが、さてどちらへということになり、結局、かって知ったる宮崎空港へ行くことになった。 
大淀川を渡り返して空港へ向かう、やはりフェリー埠頭とは違って空港ターミナルは賑やかであり、お土産屋も食堂、レストランも充実していた。


夕闇が迫り、町の明かりが灯る頃、一時を過ごしたエア・ターミナルから再びF・Tへ戻る。 空港とF・Tは、宮崎市街の中心を流れる大河・「大淀川」を挟んで其々対岸に在り、一ツ葉道路という宮崎道と直結した湾岸を通る道路で、空港やF・Tを結んでいる。

宮崎 F・Tは、白の四角い事務所の手前が駐車場になっていて、(乗船用ではない)その横つまり事務所の正面の海側に、岸壁をつなぐ大きな道路が走っている。 
つまり、ターミナル事務所とフェリ-船は直結されてなく、乗船の際はこの大幅の道路を横断して勝手に乗り込めということらしい。 
しかも、事務所玄関から船着場までは、そこそこの距離があり、お年寄りやヨチヨチ歩きの子供は大変だろうことが想像できる・・!。
車優先の人間無視の造りである。


岸壁には既にマリンエキスプレスが接岸していた。 
人の気配も先ほどより、さすがに多く、孫たちに「あの、大きい船に乗るんだよ・・」と言うと、既にハシャギ回っている。 
乗船の客は、既に土産の大きな荷物を抱えて各自待機しているようで、その内、乗船の合図があった。 各自、一目散に船へと向かう。 元気のいい人は駆け足である。 
やはり、思案していた通りになった。

実は急ぐ必要があったのだ。
二等船室はフリースペースの部屋なので、より良い場所を確保するためである。 
我等も幼時三人と80歳の老婆を引き連れて、それでも急ぎ足で向かったが、やはり思ったとおり最悪の状態になったようである。 

指定された二等船室のスペースは、既にコーナーなどの良場所は人が満ちて、中程の中途半端なスペースのみが残されていた。 心配していたことが的中してしまったのである。 
小生は娘に、駄目を承知で「空き個室」の有無を確認するように言いつけた。 

早速、娘と上さんが、実際の交渉に出かけたようだ。 
我らは孫の為にデッキへ出て見物と洒落こんだが、余りの船の大きさに孫たちはピンときてないようである。 
ジジはここでお別れだから、元気でお家へ帰るんだよ・・」、孫達はキョトンとして
ジジ、どうして帰っちゃうの、どうして船から下りちゃうの・・、」と怪訝そうである。

小生は無論、この後「西日本周遊」の後半部分を巡らなければならないのである。
そのことを父親が説明に躍起であった。



ところで、カーフェリーは、昨今の交通網の発達や原油高騰などの煽りを受け業績が悪化し、分社化や廃止を余儀なくされている。 
宮崎カーフェリのマリンエキスプレスは、2005年6月の川崎港発の宮崎港行き(京浜航路)の最終航海をもって、航路は全て休止となっているらしい。 

今回の乗船は最終航路の記念として、特別に旅行会社がツアーを企画したものであった。
「マリンエキスプレス」は、総トン数・12000t級、全長200m弱で速力25ノットの仕様らしい。


因みに現在、船の大きさは総トン、排水トン、載貨重量トンなど、船の容積や重量であらわされている。 
総トン数とは、船の大きさを表すもので「トン」という呼称が付くが、船そのものの重さを表しているわけではなく、船の容積を基に算出したものである。 

無論、数字が大きいほどその船は大きく、商船や漁船などでもっとも広くつかわれている。 他に載貨重量トンとは積める貨物、燃料、清水などの重さをあらわし、おもに貨物船や原油タンカーなどでつかわれている(積載総量)。 
又、排水トン数は船の重さをあらわし、船を水に浮かべたときに押しのける水の総重量で表され、主に軍船などでつかう。

日本では昔、船の大きさを五百石船とか千石船というように、積むことができる米の石数で表していた。 
当時の日本経済は、米を基準の物指しとしてたので、石数であらわすほうが便利だったからである。
明治時代になり、貿易がさかんになると国際化が進み、トン数であらわすようになった。

船や飛行機の速度単位は「ノット」と称して、国際標準の速度の単位であり、時速何海里かということである。 
つまり、1ノットは1時間に1海里進む速さと定義されている。 1海里 = 1852メートルなので、1ノットは1時間に1.852キロメートル進む速さとなる。 

ところで1海里は、地球上の緯度1分(地球の円周:約40000Km÷360度÷60分)の長さに等しいとされ、航空機や船舶は地球上を長時間航行するので、地図上では非常に判りやすい単位となっている。 

因みに、毎時25ノットを換算すると、25ノット*1852メートル=46.3キロメートル毎時である。



航海の無事を祈って皆々と別れ、小生は下船した。 
かなりの高位にあるデッキから可愛い孫たちが、絶叫に近い声で別れを惜しんでいて、何かジーンとくるものがある。 

天候は良さそうなので、きっと、いい船旅ができるだろう、それを祈るばかりである。
別れを惜しみながら、レンタカーを返却するため再再度、空港方面の大淀川の一ッ葉大橋を渡り返す。 

大淀川は、河口に近いこともあろう、1キロメートルにも及ぶ川幅一杯に満々と水を湛えて、滔々と流れ下る。
川は、九州でも五番目に大きい川で、その源を鹿児島県に発し、各支流を合わせつつ都城盆地を貫流して宮崎平野を潤し日向灘に注いでいる。 

往時、陸上交通の未発達の頃、大淀川は流域で生産された物資などを舟を使って河口まで運ぶ行路であった。 
河口部に位置する赤江港(河口の南側地区)からは更に千石船に積み替え、江戸や大坂へ運んだという。 
特に、内陸に位置する「都城」は日向地方の中心地であり、交通路は大淀川の船便に頼ったという。 

しかし、この川には難所が在った、都城盆地の北部「」地区というのがあり、その名の通り「白浪、厳に轟く」と言われるほどで、船を止めてしまうほど「瀬と滝」があったという。 

江戸期、都城領主であった島津久倫(しまずひさとも)は、激流のなかで開削の難工事を三年がかりで完成させ、都城から大淀川河口まで舟の通行を可能にすることができたという。(寛政の開削工事)、


空港近くのレンタカー事務所で車の返却手続中、娘からの電話で「 個室の申し込みは首尾良く『特等室』が二部屋取れました・・! 」と喜びの連絡が入った。 
小粒の孫三人と年寄りを抱えての船旅なので、何よりもホッとしたところである。

レンタカーの事務員に温泉施設の有無を確認したところ、幸いにすぐ近くに「がらっぱの湯」というスーパー銭湯が在るとのこと。 
「がらっぱ」とは、日向、薩摩地方で「河童」のことらしい。 

早速、その「河童の湯」を訪ねると、自前の温泉ではないが、岩風呂には霧島温泉の湯を直送しているとの事であった、ご苦労さん・・!。 

心身サッパリしたところで、今夜の泊まり場は久しぶりに愛車内とした。

次回は、「宮崎神宮




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2011年8月24日水曜日

日本周遊紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」

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 日本周遊紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」   .




母智丘は巨石文化の跡・・?

先ず、九州南部の火山について・・、
九州南端の鹿児島から、大分県南部を含む九州中央部まで、これらの地域の地表面から深さ10~70cm付近には、橙黄色のガラス質火山灰が堆積しているという。 

この火山灰は、凡そ約 6,000年前に「鬼界カルデラ」という巨大カルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地のこと)が生成された時の大噴火の際に噴出したもので、この火山性土壌を特に「アカホヤ」とも呼ばれている。
この土壌は農業には適さないもので、地元・宮崎県の農家の人たちが、恨みを込めて名付けたともいわれる。


平家物語でも、平家に陰謀を企んだとして俊寛僧正らが流罪にされた島で有名な鬼界ヶ島であるが、現在、これらの島の場所ははっきりしないとされるが、鹿児島県南部の海域である薩南諸島の島のいずれかと考えられている。 

鬼界ヶ島で起きたとてつもない大噴火で、(鬼界カルデラを形成した噴火)上空高く舞い上がった火山灰は日本列島を縦断し、東北地方まで達しているともいう。 
火砕流という 噴火現象は、最近では1991~1995年の雲仙普賢岳噴火が思い出されるが、噴火の規模は、雲仙普賢岳などは対象外で、何でも、富士山一個分が全部吹き飛んだくらいの規模に相当するともいわれる・・?。


カルデラ形成を伴う大規模な噴火は、日本列島では1万年に1度くらい発生しているらしいが、有史時代以降には例がないという。 
人類としては、6000年前もの縄文人が唯一の目撃者で、残念なことに当時の縄文文化はこの時、一旦、ほぼ壊滅状態に陥ったことが推定されるという。 
大規模な噴火は、文明をも滅ぼすほどの大影響が有ったとされている。 

鬼界カルデラは、鹿児島県の南方に位置する竹島や硫黄島などの島々は、カルデラの縁の一部で、その殆どは海中に没しているともいう。 
因みに、鹿児島県下には他に、凡そ2万4、5千年前に鹿児島湾奥に生じた姶良火山(あいらかざん)というのもあり、桜島は姶良カルデラの外輪火山に相当するものともいう。 
九州は今でもそうだが、中央部の阿蘇から南部まで火山王国でもあった。

母智丘に巨石を奉ったとされる縄文人、あるいわ有史以前の人類は、この巨大な火山活動で絶滅の危機に陥ったことは確かだそうで尚、知恵をもって一筋の生命を絶やさなかったのも事実であるとされている。


そして、再び、巨石について・・、
石と人との付き合いは、つめれば人類が発生した当初から有ったと想像されてる。
道具として初め使用したのは「自然石」であっただろうが、後には石を加工して使用するようになり、生活用の備品としても使われた。 
以降、人間は自然と石を崇敬するようになり、ここから巨石文化、文明というのが日本を含め世界中に広がったとされている。
そして、これらは遺跡として現在に残されている。

巨石文明遺跡とは、明かな意志を持って人が築き上げた建築物であり、自然の悪戯で移動や加工された岩ではない。
しかし、巨石文明という言葉が生まれたように、数千年前のある時期に極めて広範囲に渡って巨石建造物が出現したことは事実であり、このような慣習が広い範囲に渡って生まれた背景は、尚、考察すべき価値があるといわれる。 


有名なエジプトのピラミッドのように、古代史の一角に占めるものはともかく、石器から縄文時代において巨石を加工し、運搬し、高位に揚げる技術は超人間的行為とされて、更に、研究推考が残されているという。 

いずれにしても、巨石文明は人為儀礼、太陽崇拝、天文台説などに繋がるともいわれる。 

母智丘神社の主要な巨石は全て「神石」とされ、巨石の前には赤い鳥居が設えてあって、その結界を示している。
ところで、普通に見られる神社などの「鳥居」というのは、最初は石の門であったとの説もある。
石門は結界(俗世間と神域の境目)への出入り口として非常に重要視され、それは普通の石ではなく巨石のカタチであるとされ、それが今の鳥居としての原型が継承されているとも言われる。


母智の丘の巨石は、麓から積み上げた超人間的な造作物か、霧島辺りの大噴火で吹き飛んできて堆積した自然造詣のものかは、尚、創造、研究が待たれるともいう。 

尚、この神社に似たような巨石に縁が深いと言われるのが、隣の山田町に在る「東霧島神社」(つまきりしま)であるという。 
ここの階段は自然石でてきており、「鬼が一夜にして積んだ」という伝説がある。 
神石といわれる別名、「裂磐(さくいわ)」もあり、巨木と巨石の林立する境内は、古代人の祭祀跡や住居跡があったともいわれる。 

東霧島神社、母智丘神社とも天孫降臨の「高千穂の霊峰」が望まれ、尤も、都城の町からも高千穂峰を主峰とする霧島連山が仰げる。 
地元の人は、高千穂峰のことを「おてんじょだけ」といい、「御天上獄」と書いているらしい。 
昔から都城盆地内に住む人達の祖先は、この山を「父なる山」と崇め、こう呼んできたという。


次回、「グッバイ・ファミリー




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2011年8月23日火曜日

日本周遊紀行(162) 都城 「島津の荘」

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 日本周遊紀行(162) 都城 「島津の荘」    ,




母智丘神社
写真:母智丘神社・拝殿

陰石
御神体とされる「陰石」




都城は、薩摩・島津氏の本家筋であった・・

東九州道を経て国道10号より「都城」へ入った。
地元の人はミヤコノジョウではなくて、薩摩風に“ミヤコンジョウ”と発音するそうである。 

南九州の山間の盆地であり、牛、豚、鶏などの畜産飼育が盛んでJA(Japan Agricultural Cooperative:農協)は日本の中で5本の指に入るくらいの豊かさだという。 
交通網も古来より発達していて、今では鉄道、高速道は勿論一般道も蜘蛛の巣のように張り巡らせている。 
平成18年1月1日、都城市、山之口町、高城町、山田町、高崎町の1市4町が合併し、新・都城市が誕生するという。



この地は、薩摩・島津の本家筋であることは意外と知られていない。
平安時代の後期に、大宰府の役人(平季基・たいらのすえもと)が当地を開いて「島津荘」を起こしたといわれる。 
以降「島津の庄」と称し、鎌倉期になると南九州一円に広がり日本最大の荘園になっていて、中央文化も流入し神社や寺院の建立など繁栄を極めたという。 
その頃の島津荘の中心であった都城一帯を、中世を通じて近年まで「庄内」とも呼ばれていた。

鎌倉幕府が成立すると、惟宗忠久(これむねただひさ)という人物が日向、大隅、薩摩の守護地頭としてこの地方を治める事になる。 
忠久は源氏宗家出身で、頼朝の子(御落胤)という説もあり、後に姓を地名に因んで島津と改め、島津の元祖となっている。 

戦国期、九州の関ケ原といわれる島津一族の伊集院氏と島津氏の内紛・攻防である「庄内の乱」というのが勃発する。
この内戦は、都城盆地を舞台に約一年余り続いたというが、ついに伊集院氏が降伏、北郷忠能(ほんごうただよし・島津家の筆頭分家)が城持領主となり、薩摩藩最大の私領(支領)として幕末まで都城を領している。

「都城」の地名は都乃城(城郭)から起こっていて、14世紀頃に北郷氏が当地、都島に築城された故に「都之城」と名付けられ、後に一帯の地名と由来となったといわれている。 
行政名として「都城」が発祥するのは比較的新しく、明治初期の「新県設置の令」が発せられ都城県が置かれたのが始まりという。


神話の国、天孫降臨の日向の国であるが、実際はどうであったか・・?
都城、つまり庄内にはいつ頃から人が住み着いたか確定はされていないが、遺構、遺物等から凡そ、10,000年~6,000年位前の縄文時代早期には既に人が生活していたと言われている。 
その痕跡が、市街地の北西に鎮座する「母智丘神社」にあるといわれている。 

遠目から見ると、お椀を伏せたような小山が点々と有り、その内の一角に、こんもり丸いカワイイ山がその名も母智の丘といい、読みは「モチオ」というらしい。 
社宮は、江戸期の創建で神社としては比較的新しく、本殿もごく普通の造りで特に派手な煌びやかさはない。
御祭神は豊受姫神(トヨウケヒメノカミ)と大年神(オオトシノカミ)で、豊受神はご承知、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神宮に由来し、因みに、神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。


又、この神社の特徴的なのが「磐座・巨石」を御神体とし、聖なる石として崇めていることだろう。 
社殿の裏には石峰稲荷という一枚岩の巨石を中心とした巨石群が散在する。

この丘の巨石群は、実際は火山の噴出によるものとも言われるが当時は、火山灰であるアカホヤ土(赤ボラともいう※)という地中に埋まっていたもので、母智丘神社再建工事のときに発掘されたという。 

巨石はワニ石、稲荷石、陰陽石などと命名され、特に、陰陽石は数m規模の大きさで雌石、雄石を表し母智丘神社の主神体になっているという。 
陰石(雌石)はこの神社の象徴で、願水をかけると縁結び、安産の霊験があるとされている。

ある筋の専門家に言わせると、この丘は巨石を積み上げた小山(高さ約30m位のピラミッド)に違いないと称し、ストーンサークルやストーンヘンジのような巨石を配した巨石文化の象徴であり、日本のピラミッドである可能性もあるともいわれるが・・?。
  

次回、「母智丘の巨石




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2011年8月22日月曜日

日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩と土佐」

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 日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩と土佐」  ,



城山の麓、鹿児島市内を見守る「西郷どん」




「薩摩には 偉大な山が 三つあり 桜に開聞 西郷どんよ」・・、

鹿児島市内から再び九州道に乗り、加治木JCTから東九州道を経て都城へ向かう。
朝方の雨模様から、今はすっかり青空の区域が広がっている。
雨で洗われたせいか、鹿児島市街の上空も澄んでいて、再び煙がたなびく桜島の勇姿が望めるようになっていた。

鹿児島の錦江湾に浮かぶ桜島は、どこから見ても雄大で美しく見るものを圧倒する。
そして、鹿児島では桜島にも引けをとらない偉大なる人物で人気者は、やはり「西郷どん」であろう。

過日、市内の名所を訪れた時に、西郷隆盛のことを記したが、「西郷と言えば薩摩、薩摩と言えば西郷」と言われる程である。 
克って、土佐の竜馬は西郷を「西郷は馬鹿である。しかしその馬鹿の幅が、どれ程大きいか判らない、小さく叩けば小さく成り、大きく叩けば大きく成る」と言っている。 

一方、西郷も竜馬のことを、「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と称している。


『 薩摩には 偉大な山が 三つあり 
           桜に開聞 西郷どんよ
 』 小生


思えば、西郷の薩摩と龍馬の土佐は共通項が多いのに気が付く。
前述した焼酎に関しては、土佐も焼酎造りが盛んで、鹿児島県のいも焼酎はともかく、土佐は栗焼酎が有名である。 
土佐の高知は古来より栗の特産地で、特に四万十流域に多いと言う。 

地域的には、鹿児島も高知も江戸や京から覗うと辺境・僻地である。 
日本の果てといっていいほど、どちらも江戸・東京から遠い、遠すぎるのである。 

江戸時代には、島津の殿様は江戸と鹿児島を片道50泊かけて参勤交代したとされ、江戸からはどれだけ鹿児島が遠いところか分かる。 
だが、高知も遠さでは負けていない。本州の果てから瀬戸内海を渡ると、四国を横断する峻険な山地が控え、更に吉野川上流の大歩危・小歩危という渓谷を縫って、やっとの思いで高知に着く。 
紀貫之の「土佐日記」にも記されているように、京の人が土佐に旅することは、地の端に行くような覚悟が必要だったのではないだろうか。


ところで、中央から遠いからなのだろうか、薩摩も土佐も人柄が純朴そうなイメージがあり、薩摩は「ぼっけもん」、土佐は「いごっそう」というい、男子は、とても頑固で硬派な感じは共通する。 
薩摩隼人は怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー・・!」と掛け声を上げ、土佐人は腹が立つと「なめたらあかんぜよ・・!」と相手を威嚇する。

又、武士や藩主の間柄も共通部分が多い。
先にも記したが、薩摩武士(薩摩隼人)には城下士と郷士という身分制度があり、この間で格差、確執が激しかった。 
土佐では江戸初期に山内家が土佐に入り、山内士(やまのうちさむらい・城士)と旧来の一領具足(前領主・長宗我部氏によって行われた農兵制度、後には土佐藩・郷士の別名となる)所謂、郷士との身分格差による抵抗が激しかった。 

これらの相容れない競争意識が幕末、国を動かす原動力になっているのである。 
これに幕末には藩主・土佐の山内氏、薩摩の島津氏ともに改革派の名君として知られる。

又、現在でも、鹿児島も高知も教育熱が高い土地であるということも共通している。 
鹿児島はラ・サールや鶴丸、高知は土佐・高知学芸といった進学実績の高い名門高校も多く、高校野球も強い。 

そして何といっても、鹿児島と高知は歴史を変えた一大地域である。 
なにしろ鹿児島は西郷高知は龍馬の出身地で、彼らが成し遂げた大業は革命であり、その後の近代日本の国家百年の運命を決定づけ、日本史を変えた両雄であることは言を待たない。


次回は、「都城




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2011年8月21日日曜日

日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩・芋焼酎」

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 日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩・芋焼酎」   .




鹿児島県は、全国生産量の7割を越す焼酎王国である・・、

再び、川辺I・Cより指宿スカイラインに乗り、国道225で鹿児島市内へ向かう。
途中、昼食を摂りながら同店内の、かなり大きな薩摩焼酎の展示、試飲及び御土産店を覗いてみた。 
主に鹿児島県内特産の各種“薩摩芋焼酎”をずらっと展示し試飲させている。 
人気のブランド一品購入する、更に、娘婿が気を利かして小詰(180mm)の芋焼酎を数本頂いた。 
飲兵衛の小生にとっては有難いことである。 


鹿児島の焼酎は、主として甘藷(カンショ・さつまいも)を原料にしていることは、愛飲家ならずともご承知である。
そもそも、焼酎は蒸留酒の一種で、一般的に、日本酒の製造過程の際の醪(モロミ)または酒粕を蒸留し、水で薄めたものである。 
焼酎の原料は多彩で米、麦、粟、黍(キヒ)、稗(ヒエ)、トウモロコシ、甘藷、馬鈴薯、糖蜜など各種で、つまり、デンプン質を含むものなら何でも可なのである。

因みに、お酒は醸造酒、蒸留酒、混成酒(醸造酒、蒸留酒、アルコール:飲用エチルアルコールに種々の果実、香料、甘味料などを加えて造った酒。
リキュール、果実酒、みりんの類などの再製酒)の三つに大別され、焼酎はむろん蒸留酒である。 

醸造酒の代表的なものには、うるち米と米麹(こめこうじ)を主原料とする清酒、もち米と麦麹でつくる紹興酒(紹興酒・中国の酒)、麦芽を主原料とするビール、ぶどうからつくるワインなどがある。 

蒸留酒は醸造酒を蒸留したもので、代表的なものは清酒を蒸留したものが米焼酎、ビールからはウィスキー、ワインからはブランデーがつくられる。 
実際には漉(こ)して澄んだ液(酒)を蒸留しても旨みが無いので、漉す前の発酵液を蒸留することになる。


焼酎の発祥は中近東、東南アジアとも言われ、それが中国に伝わり、更に、中国と交易のあった琉球へと伝わったという。 
東南アジアは米の原産地であるので、当然原料は米が主であり、琉球では泡盛(造るときに、蒸留器から滴る成分が泡になって、器に盛り上がるからその名が付いたという)と称していた。 

16世紀前半、薩摩には中世の港町であった「坊津」(ぼうのつ・※)を通じ、中国や琉球を経由して東南アジアの蒸留酒が伝えられたという。 
米の麹を唯一の原料とする琉球泡盛が本土九州に伝えられると酒粕、甘藷、麦などのほか、雑穀を原料として多種多様な焼酎が生まれた。 

元々、薩摩地方は火山国であり、桜島や開聞岳からの火山灰が積もった土壌(シラス台地)は稲作に不向きで、藩では米を他藩から買い入れて不足を補っていたともいう。 

シラス台地は稲作に適さないので、米の代用食として畑作のサツマイモが発達した。 
サツマイモは甘藷、唐芋といって、これも中国、琉球から伝わってきている。
甘藷の伝来が正確に何時のことであったかはともかく、米不足の薩摩で琉球から伝わった蒸留酒の原料になる米の代わりに、甘藷を使用するのは当然の成り行きであった。 
現在でも7割が畑として利用されており、畑地率が高く、畑作を代表する地域が薩摩半島南部である。

米のかわりに甘藷を使い、強い酒を生み出す唐芋焼酎づくりは急速に普及し、天明3年(1783年)には島津領内には3000軒の焼酎屋があったと言われている。 
その後、米麹と甘藷と水を一度に甕へ仕込む、「どんぶり仕込み」という製法は大正時代の初めまで続いたといい、 現在、鹿児島県は全国の7割を越す焼酎王国でもある。


(※) 「坊津」は薩摩(鹿児島)南端・西部海岸に位置し、古代から中国や南方諸国の受け入れ口として栄えた。
中世からは島津氏の中国・琉球貿易の根拠地でもあり、倭寇や遣明船の寄港地でもあった。 江戸時代になると貿易港としての重要地は長崎へ移り衰退するが、薩摩藩の密貿易の地としてその地位は保っていた。伊勢の「安濃津」、博多の「那ノ津」と並ぶ日本三古津の一つとされる。


次回は、「薩摩と土佐




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2011年8月20日土曜日

日本周遊紀行(160) 知覧 「麓と“ぼっけもん”」

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 日本周遊紀行(160) 知覧 「麓と“ぼっけもん”」   ,



知覧武家屋敷の石塀; :頑強堅牢な石造りの門は、戦さの時のみならず南国に多い台風に対しても有効であった



「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」 薩摩藩内規・・、

再び、「知覧武家屋敷群」を訪れた。 それは、薩摩・鹿児島特有の出城でもあった。
1602年、江戸開幕(幕府を開く)の頃、島津家久は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて鶴丸城(鹿児島城)が城山の南麓に築城された。
同時に、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋(麓の政庁、支庁舎)を中心に「」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。


江戸期に至っては幕府の政策の一つである「一国一城令」により、全国に散らばっている殆どの城が廃城となった。
しかし、薩摩国は幕府の権力が、遠方且つ、力のある島津には及ばなかったので、外城はそのまま残存したという。

江戸中期、薩摩藩は地方行政区分(現在の支庁)の外城を「」に改めている。 
藩内を113に区画し、「百二の外城」といわれる地頭仮屋を設けその周囲に「麓」、「郷」といわれる武士集落を構成し、地域の行政を執り行う外城(とじょう)制度を設けた。 

更に、薩摩には(特に幕末から)厳しい階層があり、薩摩の藩士達は鹿児島城下に住む「城下士」と、地方に住む「郷士」に大きく分類した。

薩摩藩は77万石といわれ、100万石の加賀藩に次ぐ雄藩といわれるが、しかし米高に直すと37万石程度であり、又、総人口の4分の1が士族で、この比率は全国平均の6倍もあり、財政的には非常に苦しかったようである。 

しかるに外城に勤める藩士の多くは、普段の生活では農耕に携わり、定期的に軍事訓練を受けて、イザ・・!事が起きれば武士集落がそのまま軍となってなって戦う制度になっていた。 
それに、財政的に逼迫していたため、、藩士(郷士)は自給自足を原則とし、そこに藩の精神とが重なって、謂わば、屯田兵制度(北海道の警備と開拓のために設けられた兵制)のようなものでもあった。


このような生活習慣があって、薩摩では「郷士」と「城下士」の対立は非常に激しく、郷士は専業武士である城下士に絶対服従というきびしい身分差があった。
因みに西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)は城下士であり、一方、郷士出身者には有馬新七、田中新兵衛、中村半次郎(桐野利秋)ら多数が輩出している。

この敵対意識が明治維新後の西南戦争の引き金となったとも言われている。 
従って、「郷士」と言われる武士達は、城下の武士達以上に武士らしい気概、気構えで暮らし、農耕における体力増進をも兼ねていた。 

男とは、こういうものだ”、という薩摩武士の見本が薩摩の「ぼっけもん」と言われるようで、薩摩隼人が怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー! 」と掛け声を上げる。 
これらが、薩摩国内各地の「麓」におけるに「郷士」達のおおよその姿であった。 

しかし、本来の「武士道」には優しき味があり、薩摩での武士精神には利口者を卑しみ、朴訥(ぼくとつ)を是としたといわれる。 
その朴訥はユーモアに通じ、優しさの裏付けともいわれ、純真な心持を尊重するものでもあった。


明治維新後は、俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め、地主として成功した者も多いといい、それに、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士も多かったとも言われる。 
西南戦争とは、「明治」という近代日本がもう始まっているというのに、未だに武士でいた者たちの自滅の戦いでもあるとも言われ、この戦いを最後に薩摩武士がこの世から消えたのである。

特攻記念館を見て、特攻隊の大和魂と薩摩武士の“ぼっけもん”が重なって見えなくもない・・!? 。


次回、「鹿児島の芋焼酎





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2011年8月19日金曜日

日本周遊紀行(160) 知覧 「映画になった特攻隊員」

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日本周遊紀行(160) 知覧 「映画になった特攻隊員」 ,




『ホタル』、そして石原慎太郎氏が作った映画・『俺は、君のためにこそ死ににいく』・・、

2001年、「ホタル」という映画が上映された。
小生は残念ながら観ていないが、(後日、ビデオで観ました)当時、富屋食堂(実名)は若者達に、母親のように親しまれていた山本富子(鳥浜トメ役:奈良岡朋子)が経営していた。 
ここは、少年たちの自由に出入りが出来る憩いの場であり、彼女は何くれと無く彼等を面倒見た。 
彼らは食堂の主人を「カアさん・・!」と自然に呼ぶようになった。 

或る日、韓国出身の金山少尉(実名・宮川三郎役:小澤 征悦)に出撃命令が下った。
その夜、富屋食堂で彼が自国の唄・「アリラン」を歌い、「私が亡くなったら、明日この時間にホタルになって帰ってくるという」と言い残し、戦地へ旅立った。 
翌夜、何時ものように富屋食堂には、若い特攻隊員たちが集まっていた、この時、予告した時刻に一匹のホタルが食堂に入ってきた、皆シーンとホタルを見ていた。

そして画面は現代に替わる。 
鹿児島の小さな町・・、 
山岡(高倉健)は病弱の妻(田中裕子)とともに静かに暮らしていた。 
特攻隊の生き残りである山岡の脳裏には、折に触れて戦争当時の悲しい思い出が甦る。 
志半ばにして命を散らした若者たち、引き裂かれた恋、この物語の中心に位置するのが富屋食堂であり、その女主人であであった。 

ある時、この女主人(カアさん)から金山の遺品を届けるのと慰問のため、山岡に故郷の韓国へ行くようにお願いする。 
やがて、彼はさまざまな思いを胸に、金山の故郷の韓国を訪れる。

幾つもの傷を心に負った生き残り特攻隊員の出会いと運命を描いた、東映50周年記念製作で、主演、高倉 健、田中裕子を始めとする充実のキャスト、監督・降旗康男である。

鹿児島湾、桜島、開聞岳や青森の八甲田山など、美しい日本の四季の移ろいを交えて 丁寧かつ重厚に描き出す。 
物語のクライマックスは韓国の魂が息づく伝統の村・ 河回(ハフェ:金山少尉の実家)の地に高倉らがロケーションを敢行。 
富屋食堂の主人・鳥浜トメを演ずるのは名女優の奈良岡朋子、そして、ここ特攻記念館も脇の役目で登場している。

映画「ホタル」が平成13年夏に上映されて以来、知覧を訪れる人が急増したといわれる。



記念館の前には、『慟哭の誓い・・この鎮魂、慰霊、慟哭のなかに、我ら国を超え、民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う』と歌った、堂々たる歌碑もある。 

当時、運輸大臣・石原氏(現東京都知事)が当館を訪れ、その後、鳥浜トメ氏を尋ねている。 
彼はトメさんの感動的な話を聞き、身を正したという。 
拝見した古いアルバムは、ほとんどの写真が剥がされ、黒い台紙が残るのみであった。
それは戦後、知覧を訪れた遺族に乞われるまま、貴重な写真を分け与えてしまったからである。
そして、「ここにこうして残っているのは、韓園と台湾出身の方々のものばかりです 」・・と。

その際、石原氏はトメさんを「国民栄誉賞」に推薦したそうであるが、時の首相・宮沢氏の無理解により賞の授与には至らなかったという。
石原都知事は“タカ派”の国会議員として知られるが、記念館を見学し、鳥浜トメ氏のに会って、現状日本を政治家としてどう感じたか、興味のあるところである。

その後、石原氏は2007年5月、『俺は、君のためにこそ死ににいく』という映画を、脚本・制作総指揮して製作している。 
太平洋戦争末期、知覧で飛行訓練を受けていた美しい青春が、特攻のために無残にも散っていった物語で、そこには、陸軍飛行兵や母親のように慕われていた鳥浜トメ氏、そして特攻隊員となった青年達を描いている。


ところで、館内に掲示されている1036もの遺影は、60年間続いた平和日本に安堵しているのであろうか・・?。 
何時々々までも、この館が人々にノーモァー戦争を、そして憲法9条の遵守を呼びかけ、平和を希求する館であって欲しいとは思うが、尚言えば、現状、半ば平和ボケしている「日本の実情」をどう感じているか・・?も、気になるところではある。 
館内にいると次第に、何か心が閉ざされた、やや陰鬱な気分になるのは先日の訪館の時と同じであった。会館から出て公園の緑と空の明るさを見て、気持ちも元に開放されるのである。


車へ戻る、今はまだ十数台の数であるが、この大きな駐車場は平日でも大型バスを連ねて、ほぼ満車状態になるというし、まして休日などは見物客で大混雑するという。
少々、穿った(うがった)見かたをすれば、知覧特攻平和会館は確固とした反戦・平和理念の施設で、特攻隊に関するあらゆる資料を集めて、その本質を追求するところではあろうけれど、昨今、記念館や資料館の建設ラッシュにも見られるように、むしろ特攻をネタにした観光施設の色合いが濃い所と言えなくもないと思ったが・・?。


近隣の武家屋敷へ向かう道々、整列に並ぶ「特攻灯篭」を見て上の孫は「あれ、ナーニ・・」と問われて、適当に返事はしておいた。 
ただ、初め見た目は「珍しさ」もあったが今、冷静に見て、由緒ある神社仏閣が控えているならともかく、たかが(・・?)記念館でここまでやるか、という感触も否めなかった。
いっその事、実際に特攻神社なるものを創建してみてはどうか・・?、(不遜な考えに無礼もうし候)


だいぶ上空も明るくなって、一部には青空も見えている。“”と言われる「武家屋敷跡」に着いた。 
孫達は道端の清流に悠然と泳ぐ鯉の群れに嬌声を上げている。

小生は先刻頂いた案内書を元に、武家屋敷の路地へと案内した。皆は個々別の屋敷前に佇む庭園の見事さに驚嘆していた。尤も、この地域は別名「武家屋敷庭園群」とも言われる程なのである。

次回は、その「」について






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2011年8月17日水曜日

日本周遊紀行(160) 知覧 「特攻平和会館」

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 日本周遊紀行(160) 知覧 「特攻平和会館」   、


飛行機
写真:特攻平和会館前の実物大の戦闘機(零戦・・?)




以前にも、知覧の項で「特攻」について述べたが、更に・・ 、

食後、ホテル周辺の緑豊かな庭園を孫達とじゃれ合いながら散策したいと思っていたが、ところだが生憎の雨模様である。 
代わって広い館内をぶらつきながら、部屋へ戻って孫たちと一暴れした。 

テレビがニュース、天気予報を伝えていて、地元地方の予報によれば、本日は「曇り時々雨」と伝えていた。 


ぼちぼち出発である。
先ず、景勝「池田湖」へ向かった。

近くを通るR226(南薩道路)を池田湖の南部から辿ってみた。
薩摩富士の開聞岳が至近のはずであるが、今は靄に煙っていて、その姿はホンノリ見えるのみであった。

それでも僅かながら三角錐の形が幽かながら見て取れた時、「ヘー、あれが薩摩富士か、やっぱり富士山だな・・!」と婿殿が感心していた。 
西側湖畔を行くが、湖面は灰色に沈んでいて、この辺りは鹿児島南部の景勝地の一つでもあるが、この日ばかりは、その美事さは感じられず、その辺の湖沼と変わらないような陰気な様子で佇んでいる。

やはり、自然の景観は晴れた日の、太陽の下での立体的な輝く姿が、より印象的であろう。 小生が先日訪れた湖畔の園地を訪れてみたが、やはり、小雨に煙ぶっていて芝生は濡れて歩きにくく、本来、湖面より浮かび上がる薩摩富士の勇姿は、こちらも同様であった。
 


指宿スカイラインを、昨日とは逆に北上する。
知覧付近は、例によって延々と(遠々と・・)茶畑が広がっている。 静岡に次いで西日本一の知覧茶の産地ということで、皆々驚いていた。

先ず、知覧の「知覧特攻平和会館」へ既行者として案内する。 
特に子育て真っ最中の若夫婦にはジックリ見てもらいたいのである。 

幸いに館前に着く頃には、すっかり明るくなって雨も上がってきたようだ。 
広ーく、整備された公園を孫達は、跳ねるように車から飛び出していった。 
その先は、やはりあの二機の戦闘機が外部展示してあるところであった。

「ワー・・飛行機だ・・!」 乗り物に興味を持ち始めた4歳の男孫である。
「かっこいいナ・・」実物大の飛行機を、こうやって触りながら見るのは、勿論初めてだろう。
父親も「おお、スゲー!!」といってニコニコ顔で一緒に写真に納まっていた。

所定の入館料を払って全員で入場した。 
先ず、壁一面にずらりと並んだ1036名の若い顔の遺影、達筆で書かれた遺書品々、日の丸への寄せ書き等々、小生は、一応拝見しているので冷静であったが、若夫婦をはじめ、年寄りの義母、そして上さんも、それらの品々に食い入るように観ていて、徐々に吸い寄せられていくようである。 

面白がっていた孫達も親と一緒に眺めてて「これ、ナーニ・・?」と質問されて、親は説明、返答に窮しているようだが、そのうち飽きてきて嬌声を発し、飛び跳ねはじめた。
子守は勿論、小生である。 大人の真剣さと、孫の無邪気さが好対照で面白い・・?。

近くで見物していた茶髪の少女・女学生風の数人が「ウッソー・・」、「マジ・・?」などと言って、俄かに信じられない風であったが、次第に食い入るように特攻隊員の遺書を読んでいる姿が見て取れる。 

当時、桜の小枝を打ち振って特攻隊員の死への門出を見送る知覧高女の女学生達がいたのはご存知かな・・?、
これら隊員たちを見送ったのは、丁度貴女たちの年代でしたよ・・!。


次回は、知覧・「特攻隊員




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2011年8月16日火曜日

日本周遊紀行(159) 指宿 「ホテルと温泉」

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日本周遊紀行(159) 指宿 「ホテルと温泉」 ,




写真:指宿フェニックスホテル



「砂蒸し湯」の周りで、孫たち3人も素っ裸で・・、

「指宿フェニックスホテル」は、指宿名物・砂蒸し風呂や洞窟露天風呂で人気があるようだ。昨夜は、我が家族一行が到着しだい、これらの名物風呂を堪能した。 

娘夫婦と上さんが「川の字」になって砂に埋もれている。 
係員に許可をもらって孫3人も素っ裸で川の字の回りを、はしゃぎながら砂を掛け合っている。 
「顔に掛けちゃ駄目だよ・・」、
「はーい」、
「ハーイ」、
小生は先日体験したので、今回は遠慮して孫の監視役である。


砂湯は先ず、受付の係りのおばさんに案内され、手早く浅い穴を砂に掘り、頭を乗せる枕代わりに一箇所砂を少し高く盛り、その上にタオルを敷く。
その穴に横たわると、今度は身体の上に砂がかけられていく。 
上半身から下半身へ、勢いよく砂を乗せられると下腹部に重さを感じる。 

顔以外すべて砂に埋まったら、後はおとなしく10~15分そのままボーッとしている。 
すると、砂はじんわり温かく知らぬ間に汗が出てくる。 
低温火傷というのがあるらしく、どんなんだか不明だが、そんな時は身体をモコモコ動かすといいらしい。 砂の重みのせいか、ズキンズキンと自分の脈動を感じるのである。
まあ、この砂の重さと温かさが心地よいのである。 


砂むし温泉は、いわば天然のサウナであり、砂の重みはマッサージ効果もあるようで、あつい砂の中に体を横たえるとじわじわと温まり、爽快な汗とともに気分もすっきりリフレッシュできる。 
指宿の旅で、思い出一つの体験としては絶妙であろう。


次に、砂を落して広大な室内浴場、露天風呂へと浴槽入浴に移る、孫達とっては遊園地のようなプールである。 
幸いにと言うか、この広い浴場に他の客は誰一人居無く、貸切り状態なので気兼ねは不必要であった。 
ただ、孫たちが勢いよく突走って、転ぶのが心配だったが。 
大浴場、露天風呂とも展望もよく、気持ちよくレフレッシュできた。



指宿温泉は、薩摩半島の南端の海岸沿いに5kmにわたって湧き出る温泉で、豊富な湯量に恵まれ、市内いたる所から湧き出る。 
一日の温泉湧出量は約12万t、泉源は約800箇所在ると言わ、源泉温度は60から80度の高温泉で、泉質のナトリウム・塩化物泉は神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、肩こり等々に良いとされる。 


旅館やホテルが建ち並ぶ温泉街のメインストリートは、フェニックスの街路樹が茂り、年間を通してハイビスカスやブーゲンビリアなどの花が咲き、南国情緒あふれる地域である。 

かつては静かな湯治場として親しまれていたらしいが、現在でも町内には10ヶ所程の共同浴場が在り、何れも入湯料200円前後浸かれるという。 
今も自炊施設を持つ宿もあり、湯治の長逗留の人も結構いるらしい。

そして、指宿温泉の特徴は、何といっても名物の「天然砂むし風呂」であろう。 
摺ケ浜(すりがはま)海岸の砂浜に湧く天然の砂むし湯は、日本唯一の天然砂むし風呂が体験できる温泉地ある。 
砂蒸」そのものも、300年以上の歴史があるといい、近隣の海岸に出て適当に砂を掘れば、場所によっては砂蒸しができる場所がある。 

海岸なので海水浴をし、その後、砂蒸しをするという優雅な温水浴ができる。

また、高温の場所に「薩摩芋」あるいは「生卵」を埋めておけば、ふかし芋あるいはゆで卵が出来上がし、味付けは海水で十分であるという。


お風呂の後は楽しい食事である。
ホテルの食事は夕・朝共にバイキング方式で、皆でワイワイ言いながら楽しくガツガツと戴きである。 
孫達は爺・婆が世話役で、当の親の娘夫婦は承知したもんで、まかせっきりの素知らぬ顔で箸を口に運んでいる。 

もっとも、小生はビール片手に、上の孫とお喋りをしながらの食事で、手は懸からないのであるが。 
そんなこんなで、久しく賑やかな一日を家族と共に過ごし、枕を並べて夢路を辿ったのであった。




目覚めると久しぶりの雨の様気である、長々と雨無しのカラカラ渇水期が続ていたので、少々お湿りが欲しいところであるが、家族との楽しい一時である、今日だけは欲しくなかったのが。 

孫達は、まるでランダムに転がしたように、アッチャコッチャの寝姿である、夕べの宵っ張りが効いてか未だ未だ(まだまだ)夢の中である、どんな夢かって・・? 
幼児も夢見るよネ・・?!。


小生は例によって朝湯である。 上さんも起きてきて一緒に出掛けた。 

大浴場から露天風呂の表へ出てみると、柔らかに降る雨は辺りをシットリと湿らせ、庭園の木々は緑を一層光らしている。 
朝の入浴は身体を特に洗うことなく、のんびり入って体中の神経の目覚めを待つのである。 

サッパリ湯上り後にホテル内をブラついて、後はご一行と朝食である、さすがの孫どもも半睡半眠(半覚半眠・・?)で、時々、ダダも・・!!


次回は、再び「知覧」へ





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01. 15.

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