2011年9月30日金曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」(2)

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 日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」(2)   、





写真:関門海峡に面した「みもすそ公園」にある源義経(左)と平知盛の動的な両勇姿像


写真(下):平家一門を祀った「赤間神宮」




『 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり・・ 』 

時は平安末期の1185年3月、平氏は平宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将として、世紀の決戦が始まることになる。

今まで源氏軍側は軍船を揃えることが出来ず、また海戦に不慣れな為、あくまで陸戦で決着をつけてきが、ここ最後の決戦に至り、遂に敵の土俵に登らざるを得なかったし、平家の目論見もそこにあった。 
平家軍は、海戦に不慣れな源氏軍を自慢の水軍を持って殲滅しようと、そこに一縷の望みを掛けたのである。

緒戦は目論見どおり平家が優位たった、潮の流れに乗り戦いの先手を取ったのである。 
しかし潮の流れが変わると状況は一変した。 

寿永4年(1185年)2月、義経の奇襲攻撃により屋島を退いた宗盛率いる平家軍は、長門国・彦島に陣を構える知盛との合流を果たす。
彦島は、現在のJR下関駅、関門海峡西口にある島で、小瀬戸と呼ばれる潮が川状に流れていて、本島とは分離されている島であるが、今は人工的に陸繋されている。

3月24日、源氏軍が大軍を率いて来襲、平家軍はこれを壇ノ浦で迎え撃つ。 
戦いは卯の刻(午前6時頃)に始まり、潮流を利用した平家の善戦の前に、源氏軍は苦戦を強いられる。 
しかし、潮の流れが変わると形勢は一転、相次ぐ味方の離反、義経のセオリー無視の攻撃により、平家軍は惨敗を喫するのである。 

清盛の妻・二位尼は八歳の安徳天皇を抱いて入水(じゅすい)し、一門も次々と海に飛び込み、総大将宗盛は入水するが、生け捕りにされて鎌倉で引き回された後、都において斬首されている。
平家は完全に敗北となり、ここに平家一門は滅亡するのである。

因みに、壇ノ浦の合戦では瀬戸内の海賊(海軍)が、どちらの側に付くかが勝敗を左右した事でも知られるが、逆に言えば本来は瀬戸内の海賊衆を支配下に置いていた平家が、見限られた時点で勝敗が決していたとも云われる。 

この時、初め平家側に就いていた阿波の水軍凡そ300艘が寝返って源氏方に付き、平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、この時から知盛の作戦は失敗し平家の敗北は決定的になったとされる。 
元々、関東騎馬武者に海戦を指揮しろといっても所詮無理で、それでも屋島の戦いのエピソードでは、後ろへも漕げるように逆櫓(さかろ)を取り付けようと進言した者に対して、義経は「馬鹿なこと言うでねえだ・・! 」と突っぱねたのは有名な話であるとか。



関門橋の下を通って、車の往来の激しい国道9号線を下関市街に向かうと、右手高台に「赤間神宮」が見えてくる。 
今から800年前、源平最後の合戦の際、僅か八歳で壇ノ浦に崩じた「安徳天皇」を赤間関の阿弥陀寺境内に葬ったとのが、今のこの社宮である。
建久2年(1191)朝廷は、長門国に命じて御陵上に御影堂を建立し、勅願寺として天皇のご冥福を祈られたという。

赤間神宮の左隣には安徳天皇陵がある。 
赤間神宮の水天門は朱塗りの竜宮造りで丘の中腹に位置し、海峡を通過する船からよく望見できる。 
境内には壇ノ浦で亡くなった平氏一門を祀った「七盛塚」があり、平教盛(のりもり):清盛の弟、平知盛(とももり)、清盛の四男・平経盛(つねもり):清盛の弟、清盛死後一門の長老・平教経(のりつね)、経盛の子、義経を追いつめるが討ち漏らす平資盛(すけもり)、清盛の長男重盛の子・平清経(きよつね)、平有盛(ありもり)など等が祀ってある。 

清盛の長兄・重盛の死後、平家一門を背負ってきた知盛は、安徳天皇と二位尼の入水を見届け、「見るべきほどの事をば見つ、今はただ自害をせん」と言って入水したという。知盛の墓と伝えられる石塔と供養塔が対岸門司の「甲宗八幡神社」にあるという。


かの有名な「平家物語」の巻頭一節・・、

『 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹(さらそうじゅ・インド原産の常緑高木。菩提樹と並び仏教聖木の一つとされる)花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえに)に風の前の塵に同じ・・、 』


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談物語・「耳なし芳一」の説話・・、

『 その昔、この阿弥陀寺(現、赤間神宮)に芳一という琵琶法師がいた。夜毎に平家の亡霊が来て、何処ともなく芳一を誘い出すのを、ある夜、番の僧がこれを見て後を追えば、芳一はやがて行くほどに平家一門の墓前に正座し、一心不乱に壇ノ浦の秘曲を奏でているのである。 気がつけば、その辺りの情景は数知れぬ程の鬼火が飛び往い、芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相となっていた。 さすがの僧も慄然として、和尚に告げれば一山たちまち驚き、これは平家の怨霊、芳一を誘いて八裂きにせんとするものである。然らば、和尚自ら芳一の身体、手足に般若心経を書き点けると、不思議なことにその夜半、亡霊が再び来て芳一の名を呼んでも応えず、見廻しても姿がない、ただ、暗夜に見えているのは芳一の両耳だけであった。 亡霊は見えている芳一の耳を切取って、何処ともなく消え失せた。是より人々は芳一を「耳なし芳一」と呼ぶようになったという。 』


次回は、「巌流島



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2011年9月28日水曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」

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日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」  、




壇ノ浦(関門海峡)での合戦模様「義経像」



関門海峡・長門の浦・「壇ノ浦」で最後の決戦が行われる・・! 、

夕べは、帰館してから泊り客で、旅の途中でもある若者達と暫し談笑した。 
特に、小生もそうだが北海道へは日数をかけて巡遊したらしく、その話で多いに盛り上がり、特に利尻や礼文島には感銘を受け、知床でヒグマに会った話や「カムイワッカの湯」には三人とも拍手、歓声で納得しあったものである。  

海産干物のつまみにウイスキーがどんどん減ってゆく、若者二人はいずれも酒豪らしく平然としている。 旅人は、こう在りたいし、これも旅の楽しみである。 
初めの口約束どおりPM11時には就寝した。
実は小生はこの時点では、利尻や礼文島へは未だ訪れてはいなかったが、若者たちの話に刺激を受け、直後の年に訪ねている。 

北海道道北・「利尻・礼文」旅行記 URL 
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hakkaido1.htm 




翌朝、小生は6時前には起きて、若者二人の旅の安全を祈ってこっそり退出した。
気が付くと盛んに船の汽笛というか霧笛が聞こえてくる、早朝の出口である前庭に出てみると納得であった。 海峡はおろか辺り一面は濃いガスに覆われている。かなりの濃霧であって、航路の安全を確認するため盛んに霧笛を鳴らしているのである。

先ず、昨日素通りした公園へ立ち寄った。 
あの壇ノ浦の源平合戦で一大決戦を行なった両勇姿、源義経と平知盛の動的な像が華やかに据えられている。 
石碑には「壇ノ浦古戦場跡」とあり、同じく、「安徳天皇入水の碑」があって、刻字に「長門本平家物語所収の二位尼(平清盛の妻)辞世の歌」として・・、

『 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 
          波の下にも みやこありとは
 』

と刻まれている。

「みもすそ(御裳)川」は、関門道の下関I・Cから火の口山、海岸に至る道の脇を一部暗渠(あんきょ)となって流れる小さな谷川で、海峡に達している。 
途中の町並みは「みもすそ町」といい、海岸公園も「みもすそ公園」と称している。


海峡は本州・下関と九州・門司間の関門海峡をいい、地域的には大瀬戸、早鞆瀬戸(はやとものせと)とも言う。 
壇ノ浦とはこの海峡の一部をいい、高速道の下関側に「壇ノ浦P・A」が在るように、この町一帯を壇之浦町ともいい、この町の海峡に面している一帯を「壇ノ浦」と称しているようである。 
勿論、通常、「壇ノ浦」というと古戦場、源平の最後の合戦地を表していることには論を待たない。


源平の戦いの中の一つ「壇ノ浦の戦い」は、数ある合戦の中でのただ一度の海戦であった。
ところで平安期、平氏・平家台頭の要因になったのは、世に言う「保元・平治の乱」からである。 
保元元年、皇室・朝廷内部で崇徳上皇と後白河天皇および摂関家(摂政関白の藤原両家・頼長と忠通の争い)に起った内乱は、後白河側に付いた平清盛・源義朝の軍を主力とした戦いで勝利を収める。 
元々、武力をもって朝廷貴族を守るべき立場の武家が、この乱での政界進出の大きな契機となったといわれる。 
特に、平清盛はこの時、武力によって一瞬ともいえる数時間でこの戦の勝利を治めたという。

続いては平治元年、今度は藤原両家を含む、平清盛と源義朝の武家同士の勢力の争いで、所謂、最初の源平合戦は清盛の活躍で平氏が勝ちを治め、源義朝は尾張で最後をとげる。このとき、幼少だった頼朝、義経は命乞いで助かっているが・・・!、

以降、清盛は武家である軍事力を背景に都で警察権を握り、これを地方、全国にまで拡大してゆくことになる。 
併せて清盛は、これまで貴族中心だった朝廷政治への介入を果たし、政治の中枢へと勢力を拡大してゆく。 
清盛の身内は摂関家、天皇家との政略的婚姻を進めてゆき、次第に高位高官を占めるようになり、自らも経済援助などで天皇家へ接近しつつ、遂に最高役職である貴族最高官位・「従一位太政大臣」にまで昇りつめる。 今で言う内閣総理大臣である。 
清盛の娘・徳子は後白河法皇の皇子・高倉天皇と結婚、後に安徳天皇をもうけることになる。

政界をほぼ掌握し、驕れる平家は次第に傲慢になりつつあった。 
子弟の貴官は専横な振舞が多くなり、この頃から「平家にあらずんば非人なり」と叫ばれ、市中には密偵を放ち、平家の悪口を言う者は捕われ、上流にあっては貴族への暴力へとエスカレートするようになる。

見かねた後白河法皇は、次第に清盛の意向から離れるようになり、遂に、法皇は高貴高官等による平家追討の為の所謂、「鹿ヶ谷の謀議」と言われる密議へも参画した。 
鹿ヶ谷は、現在の京都市左京区大文字山の西麓にある地名で、この地で1177年、俊寛僧(後白河法皇の近臣、法勝寺執行)、藤原成親、僧・西光(藤原師光・平治の乱後に出家、後白河法皇の近臣)らが会合して平家を滅ぼそうと談合した山荘で、その跡を談合谷ともいう。 

しかし、これは平家の密偵により事前に発覚し、各官は捕らわれの身となって終わる。 
一説には出撃直前、清盛の西八条邸を多田行綱(源行綱、後白河法皇の近臣)が訪れて、平氏打倒の謀議を密告したともされている。

絶頂期にある清盛は、1180年、安徳天皇を奉じて一時、新都を福原(今の神戸市兵庫区)に置いたが、公家たちの反対が多く半年で京都に復帰している。
一門の繁栄は、後継長子・重盛の若死を契機に、やがて内部の結束が乱れはじめ、清盛の求心力も次第に弱まる。 

この時期、清盛は宮中における不平貴族の諸氏を乾坤一擲の大粛清を強引に行っている。 清盛の軍事クーデターとも言われる。 
それから間もなく清盛は64歳で死去し、この頃より源氏が胎動が始めるようになる。 

あの時期、幼少のため命乞いして助かった頼朝、義経が、いよいよ源氏の白旗の幟を揚げることになる。
その後、平清盛没後(1118~1181)4年にして、平氏の嫡流はここ関門海峡・長門壇ノ浦で最後の決戦が行われるのである。


引き続き「壇ノ浦



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2011年9月26日月曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「本州西端の都市」 

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 日本周遊紀行(173) 下関 「本州西端の都市」    、




下関ユースホステルと愛車




本州最西端の都市・下関は古代から近代まで華やかな歴史に彩られていた・・、

高速道・下関I・Cを下りて、とりあえず今夜の宿泊所を訪ねてみた。 
海峡に面した「火の山」という小山の山腹に「ユースホステル火の山」というのがあり、その名も火の山ロープウェイの乗り場(駅名は壇の浦)のすぐ近くで、緑に囲まれた清閑な地であった。

火の山」(ひのやま)というと火山をイメージする山のようだが、その名は実は、かつて山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙台(のろしだい)が設けられていた事に由来しているという。 
明治の中期には、山頂に砲台が置かれていて重要な軍事拠点でもあったらしい。
現在は瀬戸内海国立公園の最西端にあたり、関門海峡に面した風光明媚な場所になっている。



玄関を入ると食堂兼広間があり、カウンターにハキハキした男性の係員がいて、とりあえず受付を済ませた。 
なかなか清楚、清潔な建物であり、過日世話になった安芸の宮島口のY・Hとは大違いである。表の庭園は野外食事場でバーベキューなどが出来る様に設備が整っていて、尚且つ、関門海峡にも面しているので、往来する大小の船舟や豪快に架かる関門橋も一望できる景観の地でもある。

部屋に案内されると既に若者二人が先着していた、一人は千葉在住の日本縦断徒歩旅行者、もう一人は大阪・浪速の自転車全国巡りの旅人であった。 
その場に相応しくないような老年(熟年・・?)の小生も、一通りの挨拶と自己紹介をした。その後、入浴、食事のため部屋を後にし下関市街へ向かった。


国道へ出ると其処は既に関門海峡に面していて、海峡沿いには歴史を刻む史跡でもある公園が細長く展開している。 
勿論、頭上はるかに圧倒的迫力をもって、あの「関門橋」が両陸を渡している。 又、国道を挟んで、こちらは関門(下関-門司)を結ぶトンネルが、地下に下関側入口としてあった、「関門トンネル人道」というらしい。 

入口からエレベーターで地下へ降りること30秒、あっという間に地下55mに到着し、武蔵と小次郎のキャラ絵が迎えてくれた。 
四角い隧道であり、天井コーナーには蛍光灯が明るく照らしている。
普通の地下道の様でもあり、数人の歩行者がいて会話がボワーンと響いて聞こえてくる所は、やはりトンネルである。


ところで、関門を渡るルートは幾通りかある。
先ずはご存知関門海峡のシンボル的存在の「関門橋」で、本州と九州を結ぶ高速自動車道に架かる橋である。 
それと関門を繋ぐトンネルで、先ず新幹線が通る「新関門トンネル」と在来線が通る「関門鉄道トンネル」、更に、上が自動車道、下が人道の二重構造になっている「関門国道トンネル」と、トンネルだけで三ルートある。 
あとは航路で、下関市場近くの唐戸港と門司を結ぶ関門連絡船が五分で九州を結んでいる。
その他、関門海峡フェリーなどを合せると実に7ルートが存在するという。


先刻、調べておいた下関唯一の天然温泉「日の出温泉」へ向かう。
カーナビに従って、海岸の国道9号線を下関市街からJR線を過ぎ、メーンルートでもある駅の西側を少々行き、コンビニの前の路地にその温泉はあった。 
何かの引っ込み線であろうか、やや古びた線路の向側に運河のような小瀬戸が見渡され、すぐ向かいは彦島が横たわっている。 

夜になると人影も疎らになり、こんなところに温泉があるのかとちょっと不安になったが、温泉マークのネオンがチャンと点いていた。 
玄関上には派手な赤色の電飾看板が辺りを照らしていて、如何にも銭湯といった雰囲気はある。


日の出温泉は、昭和28年(1953年)に銭湯を開設しようと井戸を掘ったところ、偶然にも湧き出す水は生ぬるくて、湯気がたちあがったという。
早速、水の分析をしたところ正真正銘の温泉であることが判り、昭和34年に正式に温泉利用許可を得て、天然温泉の銭湯として営業しているらしい。

脱衣所は明るくて清潔な感じで、近所の人で賑わっているようだ。 
タイル張りの浴室も所謂、町の銭湯といった感じで派手さはないが、大浴槽には無理やり取り付けたようにジェットバスが付いている。
又、小生は苦手だが、サウナもあるようだ。 
無色透明の天然温泉であり、成分的には弱アルカリの単純温泉である。
備品などはなく石鹸持参は正解であり入湯料360円は納得であった。

「日の出温泉」 URL  
http://www5.ocn.ne.jp/~hinode/ 

湯上りに、市内駅近郊の「下関シーモール」(ショッピングセンター)の一角で、下関港名物の“回転すし”で舌ずつみをし、今夜の泊まり宿へ戻った。


次回は、「下関・壇ノ浦
 




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2011年9月24日土曜日

日本周遊紀行 北九州・門司  「ヘッドライト・テールライト」

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 日本周遊紀行 北九州・門司  「ヘッドライト・テールライト」   ,




夜の関門橋(フリー写真)



夕景の平尾台を左に、そして,暫くすると右手に、黄昏に煌々と光を放って海上に浮かぶ「北九州空港」が見え隠れしている。

さて、国道10号線から九州道の小倉東I・Cから関門橋を経て、13日間滞在した九州を離れることになる。 
先刻、九州へ向かう折、下関側から高速道の「壇ノ浦PA」で関門橋の勇姿や真向かいの門司の港は特と拝見したが、ここで、過ぐる年(2008年)北九州地方を巡遊したとき門司を訪れているので、序に一言・・、

関門橋のほぼ真下に位置する門司は海の街と想像しがちであるが、地形的には凹凸のある山の町でもあろうか・・!?。 
九州の最北端に位置しており、企救半島(きくはんとう・関門海峡に突き出た半島)の大半の地域を占めていて、沿岸部は門司港や門司港駅周辺を中心とした「門司港レトロ」と称して賑わっている。

「門司港レトロ」(もじこうレトロ)というのは、門司港にある特に整備された観光スポットで、JR門司港駅や外国貿易で栄えた時代の建造物を中心に、ホテルや商業施設などを大正レトロを基調とした観光スポットとして多くの客で賑わう。 

1963年の北九州の主要な五市合併(門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市)により、旧門司市の地域が現在の北九州市門司区となっていて、国土交通省の「都市景観100選」をも受賞している。


宵闇が迫る中、ヘッドライトを照らしながら関門橋を渡っているとき、カーラジオから「中島みゆき」の切なくなるような、咽ぶ(むせぶ)様な『ヘッドライト・テールライト』という楽曲が流れてきた。
まるで、小生自身の今の心情、気脈に触れるほどの感覚で歌い上げていた・・・!!。
この後、中国地方の山陰から若狭、能登、北陸と巡回する予定で、「旅はまだ終わらない」のである。



ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲:中島みゆき

語り継ぐ人もなく
吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は
忘れられても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

足跡は降る雨と
降る時の中へ消えて
称える歌は
英雄のために過ぎても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

行く先を照らすのは
まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは
あどけない夢
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない


題名の「ヘッドライト・テールライト」はNHKの過去の番組「プロジェクトX」のテーマソング(エンディングテーマ)で、小生も好んで視聴していたもんであった。

「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」はドキュメンタリー番組で、2000年3月から2005年12月まで放映されていた。
番組内容は、戦後のさまざまな開発プロジェクトなどが直面した難問を、どのように克服し成功に至ったかを紹介するドキュメントである。 
無名の日本人リーダーと、それに従い支えた多くの人々による挑戦と努力、そしてその成果の紹介がテーマであるが、無名とは言えない本田宗一郎や毛利衛が登場する回もあった。

技術開発(新幹線、YS-11、ロータリーエンジンなど)の話を中心に取り上げた他、人命救助や環境保護活動などの分野についても数多くの事例を取り上げていた。

最終回では「中島みゆき」自身が出演し、エンディングテーマの『ヘッドライト・テールライト』を感情豊かに歌っていた。


『プロジェクトX』の 最終回に歌った 中島みゆきの「テールライト・ヘッドライ」の“youtube”よりの生歌
http://www.youtube.com/watch?v=4nBj69MdE3A&feature=fvwrel 



次回からは「西日本編の後編」へ続きます。
中国地方の山口県から、主に日本海沿岸を北陸地方まで巡ります。
ご期待下さい。


次回、「山口・下関




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2011年9月23日金曜日

日本周遊紀行(172) 中津 「中津城」

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 日本周遊紀行(172) 中津 「中津城」    .






写真:中津城(天守閣は昭和39年に建設されたもの)




ビッコの軍師・「黒田官兵衛」が中津の礎(いしずえ)を造った・・

山国川河口には、壮麗優美な「中津城」が立つ。
築城の名手といわれた黒田如水が、心血を注いで築城を開始した名城といわれ、戦国期の16世紀後半頃より築城が始まり、継承して細川氏の時代に完成をみている。 
その後、江戸・藩政時代は小笠原氏、奥平氏と変じて明治を迎えている。


豊前・中津は天正16年(1588) 、豊臣秀吉による九州征伐の軍功により豊前16万石を与えられた黒田官兵衛孝高(如水・よしたか) が入部し、中津城の築城に着手しながら城下町造りをもスタートする。 
しかし、孝高は城および城下町づくりが未完のうちに福岡へ転封され、その後を受けて入部したのが 細川 忠興だった。 

実際は家督を 忠興の三男・忠利(ただとし) に譲って中津の町づくりが継続しておこなわれることになる、これが今の中津の原形となっている。 

県北の雄藩として歴史や文化を育み、「西の博多か、東の中津」(明治の鉄道唱歌)と唄に歌われている。



黒田如水は戦国期、豊臣秀吉の側近として、竹中半兵衛亡き後「ビッコの軍師・官兵衛」として活躍する。 

織田信長に反旗を翻した荒木村重の説得に向かったが、「友人の荒木村重が私に危害を加えることはない」と“たか”をくくっていた為に油断し、捕縛されて土牢に押し込められる。 

1年後に救出されるが、長きにわたる土牢生活のために脚部の関節に支障を来たし、上手く歩くことが不可能となったという次第である。 
官兵衛孝高(かんべえよしたか)の軍師としての活躍については、小生も読んだ司馬遼太郎の「播磨灘物語」( 播磨は官兵衛の出身地)に描かれている。

官兵衛は、さらに主君・秀吉にもその底知れぬ才覚を逆に恐れられたという。
それは後に、秀吉の名だたる側近が軒並み大大名となるなか、官兵衛は天正15年(1587年)、僅か豊前国内6郡(現・大分県中津)に12万石を与えられただけであった。 

官兵衛の才覚は、本能寺の「信長討ち死」の報を聞いた時、即座に秀吉に天下取りを進言したとも言われる。 
そのことで秀吉は、「自分の死後天下を取るのは黒田官兵衛である」と思うようになり、更に、「私の後釜を孝高が狙っているのではないか・・?」と、秀吉に危惧を抱かせたためとの説もある。
その子の「黒田長政」は筑前国・福岡藩の当主として活躍していることは、既に、福岡の項で述べている。

中津藩(大分県中津市)城下の蔵屋敷で下級藩士・福沢諭吉が生まれている。 
明治期の思想家で慶應義塾の創設者として有名、明治の六大教育家に数えられ、一万円札の肖像にも使用されているのはご承知である。



国道10号を走り出してまもなく、豪奢な施設の「道の駅・豊前おこしかけ」というところで小服した。 
先ず立派なトイレにビックリした、なんでも“駅造り”の目玉に、TOTOとプロジェクトチームを組んで“日本一思いやりのあるトイレ”の完成を目指し誕生したという。 

駅の名が「豊前・おこしかけ」という変てこな名称も、文字通り“お腰掛け”で、なんとなく頷けるのである・・?。 
尤も、あの宇佐神宮に祭られている「神功皇后」が旅の遠征の途中、休憩と景色を眺めるために座った大きな石がこの地に有るとされ、この石を「おこしかけ」というそうだが・・。


国道10のバイパスになっている有料道路「椎田道路」を行く。 
行橋から再び一般道のR10を北上する頃、苅田町辺りから左遠方に点々とした山波状の丘陵地が見えている。
平尾台」といって、高知県と愛媛県の県境にある天狗高原・「四国カルスト」、山口県「秋吉台」とともに、日本の三大カルスト台地の一つである。

「カルスト」とは、ヨーロッパ南部の小国・スロヴェニアのカルスト地方に見られることから、その名が付いたといわれる。
石灰岩の台地でカレンフェルト(鋸歯状の地形)、ドリーネ(スリ鉢状の窪地)などといった石灰洞などが発達する特有な地形である。 
石灰岩の表面が雨水によって溶解浸食を受けやすく、又、割れ目に沿って滲み込み、周囲の岩石を溶解して内部に鍾乳洞などの洞窟を造りやすい。

ここ平尾台も、広大な草原のところどころに「カレンフェルト」と呼ばれる大きな石灰岩が散在する独特の風景で知られる。 
標高300~700m、南北6km東西2kmの日本でも有数のカルスト台地で、緑の中に白い石灰岩が羊の群れのように顔を出す風景から“羊群原”とも呼ばれ、千仏鍾乳洞や牡鹿洞などの鍾乳洞が有名である。 

台地全体が国指定天然記念物になっていて、場所柄も福岡南部の至近にあり、地域の人々の行楽地にもなっている。 


次回、「ヘッドライト」で九州を離れる。




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2011年9月21日水曜日

日本周遊紀行(172) 中津 「耶馬溪」

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 日本周遊紀行(172) 中津 「耶馬溪」  ,





本耶馬溪の山国川に架かる「八連の石橋」(オランダ橋)




頼山陽(らいさんよう・江戸後期の歴史家、漢詩人、文人で芸術にも造詣が深い)が「耶馬溪山・天下無双」と言わしめた・・、

宇佐神宮から、このまま、裏参道の緑陰の中を戻り、整然と並んだ茶店で冷たいものを戴いて車中の人となった。 
本日中に九州を抜ける思いで先を急ぐ、国道10号線を再び飛ばす。

この辺りは豊後平野が青々と広がっている。 そして大地の向こう、左方向に耶馬渓の山地が望める。 
清流・山国川を渡る頃、気がつくと、この川が県境で渡り終わると既に、筑後・福岡県であった。 
この山国川の遡ると中流から上流奥部は、「耶馬溪」といわれる九州の代表的な景勝地の一つである全国耶馬渓の総本山でもある。

振り返ること数過月、「東日本周遊」で北海道の襟裳岬から日高地方へ向う途中、様似町にある道内でも高山性植物で著名な「アポイ岳」の麓の海岸を「日高耶馬溪」と称していた。
山塊が海岸にまで押し迫り、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大平洋に落ち込み、美しい海岸美を形造っている。


そして、こちらが本耶馬溪である・・!。 
今、小生が本耶馬溪と称したのは、景勝地としての耶馬溪全体を指したものであるが、実際に観光地域としての「本耶馬溪地区」と行政地名としての「本耶馬溪町」とが存在する。 尚、耶馬溪町も在る。 
ところが、平成17年3月1日、耶馬渓町、本耶馬渓町は、山国町・三光村とともに中津市に編入され、各々の行政上の地名は消滅しているのである。 チョットややこしかった・・?。


耶馬渓」は中津・日田・宇佐の三市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。 
大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さく開けた平野に集落が点在している。

耶馬溪」は本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬と各地区ごとに別れ、何れも、山国川沿い、或いは周辺に奇岩、奇峰群が連なっている景観が圧巻である。
その中で一際壮観なのが本耶馬(耶馬溪町)に展開する「青の洞門や石橋」や古刹・羅漢寺が名所のポイントにあげられる。 
又、耶馬溪の奥には英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫も存在する。 
江戸後期の歴史家・陽明学者、漢詩人と言われる頼山陽が「耶馬溪山・天下無双」と称えた名勝なのである。

其々の耶馬渓を一言で紹介すると・・、
本耶馬渓は「青ノ洞門」を中心とする山国川上流一帯をいい、羅漢寺の禅海和尚が参拝客が難所を渡る際に命を落とさないようとノミ一本で掘り抜いた自然のトンネルとして著名である。 

深耶馬渓は、山国川支流金吉川支流に位置する渓谷で、「一目八景」が有名。一度に秀峰の峰々が八つ眺望できることから名付けられたといい、近くには鴫良(しぎら)、深耶馬渓などの温泉がある。

裏耶馬渓は、金吉川上流の渓谷で浸食を受けた岩壁が屏風のように屹立した光景は見事であり、近くには伊福温泉もあって温泉水を使って養殖したスッポン料理が名物であるとか。

奥耶馬渓は、山国川上流に位置し、「猿飛の景」と名付けられた猿飛千壺峡が有名。
奥耶馬渓の奥山中には、修験道で著名な「英彦山」(英彦山神宮奉幣殿;当時の日本三大修験道の山)が鎮座する。

他にも椎屋(しや)耶馬渓といわれる岳切(たっきり)渓谷一帯、そして津民耶馬渓といわれる山国川支流の津民川に位置する渓谷等、手付かずの自然が残る穴場もある。

又、かつてはこの他に羅漢寺耶馬渓(本耶馬渓に含む)、麗谷耶馬渓(深耶馬渓に含む)、東耶馬渓、南耶馬渓もあり、これらを称して「耶馬十渓」とも呼ばれていた。

九州旅行;耶馬溪羅漢寺、耶馬溪、英彦山の項 、
http://orimasa2009.web.fc2.com/ks08-8.htm


ところで、本耶馬渓の「青ノ洞門」のことであるが・・、
この中津の街より凡そ10km上流の地、羅漢寺の住職・禅海和尚がノミ一丁で掘った手彫りの洞門として有名である。 

江戸中期、諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれていた難所を越す際、通行人が誤って転落し命を落とすこともあったことを聞かされる。
これはいけないと一念発起、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと托鉢勧進しながら掘削のための資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。 

完成を見たのは江戸中期の1746年のことであって、後に資金還元の為洞門の通行を有料にし、人は四文、牛馬は八文徴収したそうで、この手彫りのトンネルは日本最初の有料トンネル、有料道路とも言われている。 

洞門の長さは350mあり、工夫が3人並んで掘っていたと推定されていて馬に荷物を積み込んでも十分通行出来るだけの大きさに掘られていたという。

この手彫りの洞門は、明治期に大型重機移動の為の道路を作る必要性から、爆破によりことごとく破壊されたが、現在の国道212号線から一段下がった所に、当時のノミの跡がハッキリ残された洞門の一部が発見され「手彫りの洞門」として保存され、現在公開されている。 

トンネルの傍の園地に禅海和尚がノミで掘削している立像が建っている。 
この逸話を元にして書かれたのが菊池寛の『恩讐の彼方に』であり、「青の洞門」という名称は、この小説の中で命名されたものという。


青の洞門の下流500mに位置している橋で、「耶馬溪橋」というのがある。 「八連の石橋」(オランダ橋)で当時陸軍の工兵中尉、永松昇県技士によって設計されたという。 
観光道路として大正11年に着工し大正12年に完成し、我が国唯一の長崎式石積みのアーチ形石造橋として美景を誇っている。

こちらも、青ノ洞門同様、文豪菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の舞台となった橋で、長さは116m、アーチ形石造橋としては日本一の長さで、「耶馬溪三橋」の一つであり、県の有形文化財に指定されている。


次回は、「中津城



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2011年9月20日火曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「八幡宮と東大寺」

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「八幡宮と東大寺」   ,




宇佐神宮と大和・東大寺は「神仏習合」の元祖であった・・、

時は下って、奈良朝における宇佐神宮創建(725年)の頃、45代天皇に即位した聖武天皇は奈良東大寺の大仏建立を計画する。 

だがその当時、国内では金の産出量が少なく、仏像を飾る金が不足していた。 
この時を待っていたかのように宇佐の神は、「必ず黄金を国内で産出できる」という御神託を発し、何と、その言葉どおり陸奥の国から大量の黄金が発掘されたという。 
その光り輝く黄金900両を献上した人物が「百済王」といい、神託が下されてから僅か1年余後のことであった。

待望の金が産出されたと聞き、宮廷歌人で当時の陸奥国の長官であった大伴家持(おおとも・やかもち)は大喜びで天皇を讃え・・、

『 すめろぎの 御世栄えんと 東なる
              みちのく山に 黄金花咲く
 』 
と詠んでいる。


この時期、日本に亡命した百済王族の子孫である「百済王敬福」(くだらおうきょうふく)は、官僚社会を比較的順当に勤め上げ、46歳の年(743年)に陸奥守(現在の知事)に任じらている。 

半島国家の盛衰が渡来系の人たちの動きを活発にし、日本国内での影響力も増したと言われている。 特に5,6世紀から生活の基盤を日本に移した渡来人は、その財力を背景に次第に朝廷内部にも存在感を持った勢力として認識されるようになっている。

6世紀の仏教文化の渡来以来、秦氏の稲荷神社創建に象徴されるような、日本古来の神(カミサマ)との神仏融合にも成功し、恐らく遷都や寺院建築といった事業に際しては率先して財貨・人材を提供して協力を惜しまなかったのではないかといわれる。 


黄金900両を献上した百済王を天皇は大いに喜び讃え、位(従三位)を与え河内国交野郡内にも広大な土地を与えた。 
しかし、彼・敬福は、実入りの多い国司などを歴任したにもかかわらず家には余財などは無く、豪放磊落な豪傑肌の人物であったようで、聖武天皇が遇したのもこのような彼の性格を愛したことによるもので、決して黄金を献上したことのみではないともいう。 

又、天皇より大僧正の位を授かった「行基」が大仏鋳造を大いに支援しているが、行基も同様、百済系の渡来氏族ともいわれる。


順序として「宇佐神の託宣」⇒「黄金の発見」⇒「東大寺大仏の完成」⇒「九州と都との連携の強化」と成り、渡来人の先見性と技術力、財力で当時の日本の象徴的大寺院・東大寺が完成したのである。 

後に全国各地に「国分寺」、「国分尼寺」が造られるきっかけとなり、行基は全国に勧進行脚に出かけた中、各地に寺院を開山し、土木事業にも精を出し、連日、汗水流してブルドーザーのように働いたという。 

又、各地で温泉を発見したり、整備したりしていて、行基にまつわる温泉も多い。「疲れた人夫たちをくつろがせるには、温泉が一番じゃ」と・・。


こうして、宇佐神宮と東大寺が親密連携するようになって、「神仏習合」(神と仏という相異なる性格を持つものが平和に共存する、同時に信仰されているということで、以降の“神仏習合”の元祖ともいわれる)と言う形をなし、宇佐宮は益々強力になってゆく。 

やがて「八幡大菩薩」と称され、一般社会に浸透し、「はちまん」さまと呼ばれることが多い神様になる。

元々の呼び名は「やはた」様であった。 その意味で「や・はた」とすると、「」は『強い・多い・大きい』を意味する強調言葉だとされ、最も分かりやすい解釈が渡来系の代表選手・秦氏の「はた」ではないかという見方ができる。 
末広がりで強い「や・八」に、秦がひらめく「幡」で「八幡」から、やがて「はちまん」と呼ぶようになったとされている。 
又、はだ(秦)の呼び名は、朝鮮語のパダ(海)によるとする説もある。


秦氏は朝鮮半島から渡来した氏族で秦始皇帝の末裔(まつえい:血筋、子孫)と称し、わが国文化、産業の基層を造ったすごい氏族なのである。
本拠は京都・太秦(うずまさ;京都撮影所で有名)の他、周辺各地に点在している。



宇佐神社は、東大寺の守護神として奈良・手向山に鎮座(手向山神社)し、他の神社とは異なり積極的に仏教との習合を深めた神とされる。 
仏教側でもこれを喜び仏様の守り神と崇めて『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ』の尊称を奉ったのである。 

そして時代が下り、平安時代になると、平安京の裏鬼門(南西の方角)を護るため京都・男山に、応神天皇を主祭神として石清水八幡宮が勧請され、こちらも朝廷の篤い尊崇を受けている。


第56代清和天皇の直系、清和源氏の祖といわれる源満仲(みつなか)の頃より「八幡宮」を崇め、源義家(みなもと・よしいえ)は京都・岩清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と呼ばれるようになる。 
ここから八幡さまが源氏の氏神、武門の守護神として祀られるようになった。

鎌倉・鶴岡八幡宮は、1063年源頼義、義家公が奥州を平定する際、源氏の氏神として出陣の時に合わして、京都の石清水八幡宮を鎌倉・由比ヶ浜辺にお祀りした(元八幡)のが始まりで、その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝が、1180年、鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を、現在の地に遷宮し、1192年に鎌倉幕府の宗社となっている。 

宇佐神宮(宇佐八幡宮)、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)、鎌倉・鶴岡八幡宮は、日本三大八幡宮と言われる由縁である。 
主祭神は八幡大神を祭神とする応神天皇で、相神に神功皇后、比売大神としている。



宇佐神宮境内東の最奥部に大尾山があり山腹に「護皇神社」がある。 和気清麿公を祭神として鎮座されている社である。 
世に「宇佐八幡神託事件」、「道鏡事件」と言うのがあった。 
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が“宇佐八幡の御神託である”と嘘をついて帝位に即こうとするが、一方、和気清麿はこれを抑えるべく宇佐八幡に赴き、正規の御神託を仰ぎ、道鏡の意思を退けて「万世一系の天皇制、国体擁護」を説くという。 
ここでは前項、(備前・和気町)に記載したので省略する。

岡山県和気町・「和気清麿と道鏡事件」
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html



写真:宇佐神宮の神域を画す寄藻川(よりもがわ)に架かる屋根付きで朱塗りの優美な橋・「呉橋


帰路、西参道を通ってみた、寄藻川に架かる「呉橋」がある。
勿論、通常この橋は扉が閉鎖されていて、一般の我々は通ることは出来ない。 
川幅いっぱいに宮社風の建物が弧を描いて施してあり、屋根は茅葺で(檜皮・・?)外観は朱漆が鮮やかであるが、歳月を経てやや色落ちしている。 
しかし、たかが小さな川に架かる橋としては豪奢そのものの造りであり、すぐ下流には一般人通行用の神橋も架かっている。 

天皇及び勅使参詣に関しては先に記したが、この西参道を勅使街道と称した。 
呉橋はその宮人・勅使、天皇達のやんごとなき(貴人)方々の専用通路であるが、後期の一時期は一般の人もこの橋を渡って参詣したこともあるという。 

鎌倉期の1301年(正安3年)に、勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成が、

『 影見れば 月も南に 寄藻川
             くるるに橋を 渡る宮人
 』
という歌を詠んでいる。


従って、鎌倉時代にはすでに橋が架けられていて、室町時代には既に屋根付の橋であったとされる。 当時、小倉、中津を領した細川家によって造営され、現在の橋は昭和初年の国費による造営という。

呉橋という名の由来もはっきりしないが、昔、呉の国(中国)の人が掛けたとも云われ、この名が付いたとあるが、その名から古い時代に渡来人によって架けられたとする伝承もある。 尤も、宇佐神宮そのものが大陸の影響を受けていたところをみると、この呉橋の造りそのものが如何にも大陸・中国風、唐風なのである。


次回は、「中津



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2011年9月16日金曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐八幡・応神天皇」 

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐八幡・応神天皇」   、




神社の数のランキングは1位・稲荷神社、2位・八幡神社、3位・神明神社・・、

日本で一番多くある神社はご存知「お稲荷さん」であるが、では二番目に多い神社は?と聞かれたとき、すぐに答えられる人は余程の神社通といわれるが・・?。 

全国の神社のおよそ三分の一、実に3万社が八幡神社だという。 
関西では京都・岩清水八幡宮そして関東では鎌倉・鶴岡八幡宮が代表的に知られているが、その大元締めともいえる総本社が宇佐市にある宇佐八幡宮(宇佐神宮)で、日本史の中では八世紀頃に最も注目を集めた神様だと言われる。


現在の場所に宇佐神宮が正式に鎮座したのは西暦725年(神亀2)頃と言われている。 
その時の主祭神は応神天皇(誉田別尊・ホンダワケノミコト)であり、歴代天皇の中でも「神」という文字が「贈り名」(諡号・人の死後に、その徳をたたえて贈る称号)に含まれている三人(神武、崇神、応神)のうちの一人で、古代史の中でも別格の存在なのであるという。

その母親が、三の御殿に祭られている神功皇后である。 
次に731年に祭神となったのが比売大神であり、いずれも太陽や海あるいは航海を司るのに縁のあるカミサマである。 

では、何故、神功・応神親子と海のカミサマを一緒に、お祭りする必要が当時の九州にあったのか・・?、その理由は、かなり明確に分かっている。



三韓征伐」について・・、
三韓征伐とは、神功皇后が行ったとされる朝鮮半島の新羅への出兵を指し、新羅が降伏した後、三韓の残りである百済、高句麗の二国も相次いで日本の支配下に入ったとされる。

このことは、4世紀後期ごろから倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されていて、倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦っていたことも記されていて、史実を反映したものとする評価もある。


時代は下って、記紀(古事記、日本書紀)などの記述によれば、神武以来、国内全土の平定が紆余曲折を経て進められていたが、7世紀頃には大陸で巨大な統一国家(中国・唐)が生まれていて、強力な先進文明を背景とした大陸、半島勢力が何時、日本本土へ進攻してくるかが問題であり、これが日本の実情でもあった。 

7世紀後半には、その余波をもろに受けて朝鮮半島内が大混乱となり、相次ぐ戦乱、国家の盛衰が日本にも影響をもたらしてきた。
戦乱の結果、今からでは想像もできない規模で人・モノ・技術(それはいかにも文化そのものといってもよい)の流入があり、次に起こり得る事態に備えなければならなかった。 

現実の大問題が発生したのは633年に起こった「白村江の戦」(はくすきのえのたたかい:前記)であり、唐・新羅の連合軍に敗北(百済と日本の連合)を喫した後、日本は半島への足がかりを全く失うことになり、今度は逆に、半島からの進攻を防ぐ手段を真剣に考慮しなければならない事態になった。


政治の中枢に居る人々は先ず、九州の守りを固めるべきだと九州の地に出来る限りの防御陣地を築き上げ、(今でも九州福岡の各地に遺構が残る) 尚かつ最も威力のある「守護神」を最前線に建て、国や土地を守りぬく必要があった。 

その守護神として、神功皇后の三韓征伐を実績に、その帰路の途中に生んだとされる応神天皇(現世の初代天皇ともいわえる)が祭られ、武神として崇めたといわれる。 
幸いなことに宇佐に祀られることとなった応神天皇の威光は強力新たかなもので、異国からの進攻によって国内が混乱することもなく、表面的には平和な日々が続いたとされる。


その神功皇后とは、応神天皇の母ということになっているが・・、
神功(じんぐう)皇后は、戦前は教科書にも登場する古代の女帝であり、皇后は妊娠中でありながら朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済・高句麗をも帰服させて日本の支配下においた。(神功皇后の三韓征伐) その帰国後に応神天皇を産むことになる。 


応神天皇については、日本が未だ倭国又は邪馬台国と言われた三世紀頃、神功皇后の下で若くて摂政職を賜り、後、第15代の天皇となり史的にも実在性が濃厚な最古の天皇といわれる。 
応神天皇自身も、何かしら大陸との関係があり、大陸の史書によれば、倭国の朝鮮侵出を指揮したのは応神天皇の可能性も指摘されている。

又、応神天皇は、神功皇后の三韓征伐の帰途中に宇瀰(うみ、福岡県宇美町)で生まれたとされていて、成長して大和入りを果たす。 
この事は神武天皇の東征伝説と似通っていて、応神天皇は大阪の「河内王朝」の始祖と見なす説などもある。 
現在、墓陵は大阪府羽曳野市誉田六丁目の誉田御廟山古墳(前方後円墳)がある。  


この時代、海に面したこの地は、大陸との交通も盛んで朝鮮半島から多くの渡来人が渡ってきて、水田開発や酒造などの技術や文化が伝えられたともいわれる。 
その王朝の守護神が住吉大社(住吉三神を奉る)で、神功皇后が加わって御祭神となっている。 
実際の遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神の加護を受け、住吉津(現、大阪浪速)から出発したとされる。


引き続き「宇佐神宮






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2011年9月15日木曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・祭神」 

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・祭神」   、




写真:宇佐神宮拝殿(三社祈祷殿)、この奥に八幡造りの本殿が鎮座する




宇佐神宮の主祭神である比売大神は、「女王・卑弥呼」であった・・?

さて、祭神は左社殿(写真)から一の御殿は「応神天皇」(おうじんてんのう:八幡大神)を、中央に位置する二の御殿には「比売大神」(ひめのおおかみ:三女神)が、そして右手の三の御殿には「神功皇后」(じんぐうこうごう)をお祀りしている。 

尚、神宮皇后と応神天皇は母子関係にある。


ここで気が付くことは、最も大きく豪華なのが比売大神の社殿で、意外にも八幡神と同一視されている応神天皇ではない。
やはり太古に降臨し、宇佐を開いた国造(くにのみやこ)の最初の神ということで主神なのであろう。 

この神は三人一組の女神で、元々、比売大神は「宗像三女神」とも呼ばれ、アマテラスとスサノオの娘とされている。 
因みに、彼女達は普通の生まれ方をしていない。 スサノオが持っていた剣を姉のアマテラスが三つに折り、そこから生まれたという。 このことから彼女たちはアマテラスの娘であるとも言われる。 

神宮の資料館にある絵には、三人とも古代の剣を持っている。
この宗像三姫の末姫・市杵嶋姫(イチキシマヒメ)が邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)と言う説もある。 つまり、宇佐神宮の主祭神・比売大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのではと。


宇佐神(八幡神)は応神天皇の神霊であると言われ、一の御殿に祀られているが、拝殿の配置を見ると中心に祀られているのは比売大神で、最も大切に祀られているのが判る。
つまり、応神天皇と神功皇后は比売大神を守る形で左右を固めているように見える。

そう考えると二神ともに八幡であり「武」に関係の深い神であることから、この配置は比売大神を守護しているのだとも考えられている。
比売大神は、筑紫の国(現、宗像市)宗像大社の三女神の主神として祀られていることは周知で、海、航海の安全の神として信仰を集めている。


ところで皇室は、奈良期以降の千数百年の間、ほぼ五年に一度勅使を宇佐に派遣しているという。 
この間、近くの伊勢神宮には参拝せず、国家の大事や天皇の即位時には真っ先に宇佐神宮に勅使が必ず派遣されるという。 
これを「宇佐使い」と呼び、現在も十年に一度、勅使参向(勅祭)が行われている。


宇佐宮は、大陸・朝鮮半島には近い地域にあるが、王朝(大和)の在位する地からは比較的遠い。 にもかかわらず古代から最も多く「天皇の御使い」つまり勅使の奉幣・奉告などが定期的に行われた。 
なかでも最も重要視されたのが、天皇の即位の奉告であり、これを「和気使い」とも言っている。

因みに京の石清水八幡宮に祀られている神は、正殿では中央の神殿に主祭神である応神天皇が置かれ、左右の神殿には西に比売大神、東に神功皇后をお祀りしているという。 
何故か宇佐宮とは違い、比売大神と八幡神の位置が入れ替わっているのである。 

つまり、宇佐の比売大神は京都には行かなかった、というより必要がなかったのである。 
石清水八幡宮は、あくまで京を鎮護するために宇佐の神を勧請されたもので、守護神である八幡宮が主神なのである。 
孫神とされる「鎌倉八幡」やその他、全国の八幡社も概ね、主祭神を応神天皇としているのである。 

尚、応神天皇は別名で誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)ともいわれ、各地の八幡社では誉田別尊を祭神としている場合も多い。

つまるところ、宇佐宮は本来、比売大神が地主神であり、女王・卑弥呼の墓所ではないか・・??、と考察される所以なのである。 


卑弥呼についての人物評として、国内においては歴史上特定されてなく諸説あるようだが、「魏志倭人伝」では日本の弥生時代後期において邪馬台国を治めた倭国の女王(倭王)であり、封号(国家が近隣の従属国の君主ないし周辺諸民族の首長に対して傘下に置くために授与した称号のこと、爵号ともいった)は「親魏倭王」と表記されている。
邪馬台国つまり九州王朝の女王とする見方もある。
このため崩御された後は九州の地主神とされ、宇佐神宮の主神となり、この地に墓稜として眠っているとされる。 

更に、「邪馬台国の主要地は宇佐地方である」と言う説も有力で、高木彬光の小説「邪馬台国の秘密」は、宇佐神宮の亀山が前方後円墳であり、これが卑弥呼の墓であると書き、上宮の三之神殿の手前の白砂の中に、卑弥呼の棺が眠っていると熱っぽくと説いている。
そのため、現在でも熱心な信奉者がいるという。 

従って、比売大神は各地に遷座することなく、遷座する必要もなく、強いて言えば、皇室がさせなかったともいわれている。 
比売大神をそれほど大切に祀るということは、皇室の先祖として遇してきた。 つまり、宇佐宮は皇室の始祖の墳墓の地ということになり、歴史上における皇室の大祖ということになるのである。


後述するが「和気清麻呂」が、なぜ伊勢神宮でなく宇佐神宮へ来たのか・・?、 
宇佐に天皇家の宗廟が置かれているのはなぜなのか・・?、 
宇佐地方は天皇家にとって古代にどれほどの聖地であったのか・・?、 
平城京から近いのは伊勢神宮のはずなのに、清麻呂が伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かうのはどうしてなのか・・? 
万世一系が途絶えるかもしれないお国の一大事に・・??。

これ等の謎が幾分かは解けたようだが、更に清麻呂の宇佐使いについては後ほど。

次回は、宇佐宮・「応神天皇




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2011年9月14日水曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・参道界隈」

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・参道界隈」   、



宇佐鳥居
写真:宇佐神宮参道と鳥居(二の鳥居)



全国八幡宮の総元締・「宇佐八幡宮」は、国東半島・六郷満山仏教の源流でもあった・・、

宇佐I・Cから案内板に従って「宇佐神宮」へむかう。 
ナビで確認しながら至近に来ているようではあるが町並みは全くの普通で、特に社寺町といった重々しさは感じられない。 
ほぼ10号線に面して、平坦な地に忽然とその(おやしろ)が姿を現した。

先ず、巨大な駐車場が目に入る。 その横に並んで、初めて門前町らしいお土産横丁が店を並べている。 
土産横丁が途切れたところから、いよいよ大鳥居をくぐり境内に入る。とはいってもこの大鳥居は外境内(第一の鳥居)の門である。 

こちらの一角には、何故か古きよき時代の・・?、蒸気機関車が陳列されている。 
この機関車は明治24年にドイツでが製造され、宇佐参宮線の主役となっていたらしいが、昭和40年8月に廃線、廃止になているという。

道なりに右へ曲がると境内を取り巻くように、清流・寄藻川(よりもがわ)が流れる。宇佐神宮の神域を流れる川で、末端は周防灘に注いでいる。 
朱色の欄干に、僅かに弧を模(かたどる)った「神橋」を渡ると、第二の鳥居がある。

大きさ、形状とも第一の鳥居と殆ど同じであるが、宇佐の鳥居の特徴は「八幡造り」といって、上部両端が湾曲して天に跳ね上がっているとこであろう。 
これは伊勢神宮の水平でシンプルなのに比して、こちらは重々しさを感じる。 
気が付くと普通の神社にある、社名を刻んだ額名がない、それだけ、古式を表しているともいわれる。

鳥居の手前右手に、ちんまりした朱色の黒男神社(くろおじんじゃ)がある。 
御祭神は武内宿祢命(タケノウチスクネノミコト)で、この神子は景行天皇(第12代天皇・日本武尊ヤマトタケルの父君)から仁徳天皇(第16代天皇:名前の通り仁徳であったらしい)の五代の天皇に240余年もの間、大臣参謀として仕えたと伝えられ、数多くの功労と忠誠を尽くされたとされる。
ここ宇佐神宮・摂社として御祀りされて、八幡大神(宇佐神宮の本来の名称)に御奉仕された神として祭り古くから大鳥居の外に鎮座し、大神をお護りしているという。


鬱蒼と茂る緑の大木・イチイガシに覆われた参道が長々と延びている。 
右に、日本三沢の池の一つ、「初沢の池」(奈良の猿沢の池、京都の広沢の池と共に古くから有名)を巡って宝物会館、参集殿が並び、神宮庁・斎館と社務の館が並ぶ。 

この先右方向に、西参道と呼ばれる立派な参道が延びていて、寄藻川には神橋・「呉橋」という朱塗りの優雅な宮風の屋根付きの橋が架かる。
こちらは、嘗ての勅使街道の一部であり、国家神としての八幡神に対して、朝廷より派遣された「宇佐使い」と称される勅使が通る専用の道橋だったらしい。

表参道は更に、手水舎、本社・応神天皇の御子神を祀る春宮、須佐乃男尊(スサノオ)を祀る八坂宮などの各末社があり、神聖さをいやがうえにもかきたてる。 

この西側一帯は昔の神宮寺である「弥勒寺」の金堂や講堂の旧蹟があったところで、神宮寺・弥勒寺は、聖武天皇の勅願寺であって、宇佐神宮とともに古い由緒を持っているが、江戸時代末期から廃寺となり、今は旧蹟だけが残っているという。
通称の神宮寺とは、平安初期の日本において、神仏習合思想に基づき神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂のことで、寺院の中で仏が仮の姿となって神(権現)を祀る神社における仏式行方が営まれるようになった。


国東・六郷満山について・・、
宇佐神の神宮寺である「弥勒寺」の創建により、平安時代には宇佐地方にも国東(くにさき:大分県の西側に突き出た半島)を中心としたの「六郷満山」といはれる天台密教の仏教文化が隆盛を誇り栄華を見た。 
国東・六郷満山仏教の源流は宇佐八幡宮であり、宇佐に発生した「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)の思想が神仏習合を醸成し、六郷満山全域に権現(権化・仏が化身して日本の神として現れること)信仰を発展せしめた。

国東半島は、神と仏が複雑に交錯する独得の文化が根付いた地であり、古くは宇佐神宮の神領地で、神宮の神の化身である仁聞菩薩(にんもんぼさつ:実在の人物とする説もあるが、宇佐八幡神「比売大神・ヒメノオオカミ」そのものを人格化したものであるという説が有力である)が開いたとされる寺院が数多く点在し、広く信仰を集めてきた。 
これらの寺を総称して六郷満山といい、現在でも「仏の里」と言われる国東半島の霊場は、宇佐神宮と33ヶ所の札所で構成され、半島一帯に数多くの古刹、名刹、社宮が残り、参詣者、観光客の来訪者が絶えない。 
又、この霊場の特徴は、国東塔に代表される石造文化財が多く残されていて、石像や石塔を特長とする文化が花開いたとする。 
寺院の山門に立つ仁王像も石造りが多くあり、素朴でダイナミックな造形はどこか日本離れした面影を感じさせるともいわれる。

小生H・P「六郷満山と宇佐神宮」;  
http://www.geocities.jp/orimasa2001/ks08-5.htm




門前の賑わいに比べて、境内は参拝者の姿もまばらで、シーンと静まり返り神域と言う雰囲気を醸し出している。 
それにしても広い境内、長い参道である、下宮(摂社 大神祖神社・おおがそじんじゃ)が見えてる辺りから左の方へ進むと、ようやく本殿に到着したようである。 

老松に囲まれた朱塗りの社殿は「八幡造り」と言われる代表的な建物で、荘厳華麗と言う表現がぴったり当てはまる。 
国宝になっているだけあって、その立派さには目を見張るのみである。


本殿は三つの社殿から成っていて、向かって左より一之御殿、二之御殿、三之御殿といい、参拝の順序も建物順に行い、拝礼は「二拝四拍手一拝」にて行うとある。 
小生も神妙な面持ちで、小銭を振舞いながら作法に則り参拝を行った。


神社参拝については一通りの作法があるので、ここで略儀ながら記しておきたい。
正参道を進み神域の入り口鳥居に到着、くぐる前にかるく一礼する。 
参道では真ん中を避け、左端を歩くようにするらしく。 これは参道の真ん中は「正中」と言いって、神様の通り道だという。 
神域にある水が湧き出ている小屋、これを「手水舎」と言い、どこの神社にもあるはずで、ここで身を清める。 
作法としては左手、右手の順で、次に左手で口をゆすぐとされる。 
社殿の前では、鳴り物が有るときは鳴らし、賽銭箱に入れて「二拝二拍手一拝」の作法で参拝する。 
この「二拝二拍手一拝」の作法が一般的な作法とされるが、神社によって異なる場合があり、代表的な例ですが出雲大社で二拝四拍手一拝が作法とされ、ここ宇佐神宮も同様である。 
願掛けなど神妙に参拝の場合は、時に自分の住所・氏名を名乗ると良いともいう。


次回も「宇佐神宮」、






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2011年9月13日火曜日

日本周遊紀行(170) 安心院 「ストンサークル」

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 日本周遊紀行(170) 安心院 「ストンサークル」   、





米神山の「ストンサークル」(案内図より)




安心院町熊地区では「米神山巨石祭」という珍しい神事が執り行われる・・、

安心院・妻垣地区から北東の方角、高速道路を挟んで佐田地区があり、この地に妻垣山にも模した端正な「米神山」が盛り上がっている。 
この山の7~8合目以上には、100基にも及ぶ立石遺跡があり、「佐田京石」と言われるが、更に、山頂付近には環状列石・ストンサークルと思しものも存在する。 何れも人間の背丈ほどもある列石で、誰がなんの為に造ったか定かではないという。 

又、一部の石柱の下からは写経が出土しているものもあり、埋納経の標石かとも思われるが、こちらも何時ごろ、何のために納めたかは定かでなく、しかも全部の石柱から出土している訳ではなく、摩訶不思議な石柱だといわれる。 

写経を埋めた石柱は、仏教的には「一字一石経を根本に納める」という思想もあるようで写経石とも呼ばれ、経石から転じて「京石」になったともいわれるが・・?。 

何れも太古の祭祀場、鳥居の原型、埋納経の標石といろんな説があるようで、人が営むための祭祀の場所であったといわれる。 


それにしても、「ストンサークル」というのは、世界遺産にも認定されているイギリスの謎の巨石建造物・「ストーンヘンジ」でも超有名であるのは周知である。
世界各地にも在り、日本でも特に北海道や東北地方のは有名で、縄文中期後半から後期に築造されたものという。 
他にも日本各地で発見例があるが、ただ、九州地方では珍しいと言われる。


米神山の巨石群を縄文時代の人々が何のために造ったかは、実態は解明されていないという。 又、京石(経石)は鎌倉~江戸の遺構とされているが、仏教関係者が何故写経などを縄文時代の石柱に刻し埋めたかは未だ疑問とされている。 

米神山はこれらの遺構、史跡が学術的に未解明の部分が多いナゾの霊山聖地とされ、超古代の巨石文化遺跡として全国各地より熱い視線が集中し、今後も学者の間で研究が期待されているという。

安心院町熊地区では毎年3月、「米神山巨石祭」という珍しい神事が執り行われ、佐田京石群を祭祀し奉るという。



それにしても、安心院の妻垣山一柱騰宮・妻垣神社が建立された伝記・伝承といい、米神山の巨石の遺構建造物(・・?)といい、これらには何らかの関係や繋がりが有るのか・・?、これが究明された時、“あじむ”という妙な呼称も判明されるかも知れない。


安心院町の北隣は院内町であり、いずれも「」の字を含むことから宇佐市を含めて、これらの1市2町を総称して宇佐両院(うさりょういん)とも呼ばれている。 又、安心院町の「」という文字を使った自治体は、全国でもここだけと言われる。


次回は、「宇佐神宮



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2011年9月12日月曜日

日本周遊紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」 

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 日本周遊紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」   、




一柱騰宮
写真:一柱騰宮の案内標柱




「安心院」と書いて“あじむ”と読む、この地は「宇佐」の下院でもある・・、

津久見の町外れから高速道が繋がっている。 近年繋がったと見えて、真新しい「東九州道」であった。 
その高速道から一気に「宇佐」まで走ることにした。

大分の町並みを右に望み、更に別府の町並みが遥か下方に見えている。 
別府湾S・Aで小休止をとったが、このS・Aは風光雄大なところで別府市街から別府湾が一望の下である。 
更に、あの懐かしい鉄輪温泉の湯煙がそちこちから漂い、反対側からは明礬温泉の特異な地形が見て取れる。 
ほのかに硫黄の香がするようだが、きっと、そこから漂ってくるのだろう・・?。


日出JCTより安心院、更に宇佐に至る。 
ところで、安心院と書いて「あんしんいん」ではなく「あじむ」と読む。 
大昔は、この辺りは葦が生えてる湿性盆地であったらしく、ここから葦が生える、あしうむ、「あじむ」に変じたという。 だが、どうも納得できない読みと語字である。 
発音からすると渡来語のような気もする、北に位置する、あの八幡様の根源・「宇佐八幡」は渡来の守り神とも言うし、その南側に隠れた様に位置するのが安心院である。 
他に仏教的意味合いの読みではなかったか・・?、尤も仏教そのものが渡来の物であったが・・。


ところで、安心院は豊後国と豊前国の境にある町で、古来、北の隣町・宇佐との関わり合いが深い。
特に、八幡信仰の総本社・宇佐八幡(宇佐神宮)とは関係が深く、宇佐神宮の八摂社の一社である「妻垣神社」が鎮座している。

安心院の中心街から南へ3kmほど、安心院盆地にお椀を伏したような端正な小山・妻垣山が聳える。 
この山裾に、古社とされる妻垣神社が鎮座している。

県道50号線沿いの神社の入口には「一柱騰宮・妻垣神社」と記された大きな案内標柱も建っている。 
一柱騰宮”とは、地元の人は“いっちゅうとうぐうさん”と称しているようだが、正式(古式)には「あしひとつあがりのみや」と、ゆかしい読み方らしく、このことは古代歴史書・日本書紀に記されているらしい。 


日本書紀の「神代」の記載の一項には・・、
日向(美々津)から大和を目指して東征する神武天皇が、先ず最初に寄ったのが筑紫の国の宇佐の地であり、天皇は、一帯を治めている菟狭(宇佐)津彦(ウサツヒコ)と菟狭(宇佐)津媛(ウサツヒメ)の兄妹達とお会いになり、この時、「一柱騰宮」を造って天皇を饗応したとある。 

この「一柱騰宮」があったのが、安心院の「妻垣」の地であると言い伝えられていて、神代の昔から祭祀されていた伝説の宮といわれる。 
又この時、神武天皇は妻垣山に、母である玉依姫(比咩大神)の霊を祀る廟を造営し、侍臣の天種子命(アマノタネコノミコト・神武天皇の侍臣)に廟の守護を命じて東征の途についたという。 


案内標柱の奥には鳥居そして参道石段が連ねて、古社らしい厳かな雰囲気が漂い、その頂上に燦然と朱塗りの神門そして流れ屋造りの本殿が鎮座している。 
本殿横には「磐座」への案内板があり、そして社殿の正面には標高241メートルの妻垣山(ともかきやま・「共鑰山」とも書く)が控えている。 

その山頂直下に、石の囲いが施された苔むした巨岩が祀られていて、これが「磐座」であり、“いわくら”と読むらしい。 
巨岩信仰の一つであろう、神秘的な雰囲気が漂っていて、この磐座が一柱騰宮の奥宮とされている。 

ここには案内板もあって、『 共鑰山の院(御神山)の謂われ、・・比咩大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)である。・・玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、ここは共鑰山の「ご神体の相当する」場所である。従って、「安心院」の名所は、玉依姫が、この磐座(いわくら)の院の内において「安心」された事に由来する訳である。  妻垣神社 』、と記されてある。 

要約すると、「御神山(共鑰山=妻垣山)は、玉依姫命が降臨された御在所であり、この院の内において玉依姫命と共に利生(りしょう・仏用語:仏が衆生に御利益に叶うこと)についての語らいをされた。つまり、この磐座は、妻垣山の御神体に相当する。安心院の名前の由来も、玉依姫命がこの磐座で安心されたから」ということになる。

「磐座」は、原始信仰という形で聖地とされ、古代より現在まで引き継がれ、残されているものであろう。 
つまり、現在の妻垣神社は、上社・下社の二社からなっていて、山宮・里宮とも呼ばれる。 

山宮とされる山中にある「磐座」は、神の依代として古代より奉祀していたものだが、(元より古代は社殿を持たない)、時代が下り麓の村里が発展するにつれて、身近な山麓に勧請して建てたのが社殿を有する妻垣神社であり、里宮とされている。


妻垣神社の祭神は、主祭神を比咩大神比売大神と同じ、玉依姫命・・?)とし、相神を応神天皇(八幡大神)とその母君・神功皇后であり、これは宇佐神宮の祭神と全く同じである。 
「妻垣神社由緒記」には、『神武天皇東征の砌(みぎり・とき、おり、ころ、時節)、宇佐国造の祖菟狭津彦(うさつひこ)此ノ処ニ宮殿を建立、奉饗シ旧跡デ、当時、天皇、天種子命ヲ以テ比咩大神ヲ祭ラセ給ウ。当社ハ比咩大神ヲ祭ッテ八幡宮ト号シ云々』、と記され、つまり、比咩(ひめ)大神が八幡神であると伝えている。

「比咩大神」については、次項の「宇佐」でチョッと詳しく述べるが・・、
比咩神(ヒメノカミ)は、神道の神で、神社の祭神を示すときには、並んで比売神とも書かれるともいう。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神の総称を指すものともされている。 最も有名な比咩神は、八幡社の比咩大神である。 
この比咩大神は宗像三女神、又は三女神の母后ともされ、三女神の末姫が三人の男子を生み、それぞれ成人すると長男は伊予国へ、次男は土佐国へ、そして末っ子の「ウサヒコ」は母とともに残って宇佐の国造りを始めると言う伝説が残されている。 

宗像三姫の末姫は「イチキシマ姫」(弁天様で知られる)といい、邪馬台国の女王・卑弥呼と言う説もある。
つまり、宇佐八幡宮の祭神・比咩大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのでは・・、という説である。


ところで、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん・中国の正史・「三国志」の中の「魏書」に書かれている日本に関する条項)によると、邪馬台国(昔の日本)の中心は大分県中津市から宇佐市にかけての一帯に位置していたという表記がある。(豊前説)

邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒメコと訓む)は、宇佐神宮の比売(ヒメ)大神であり、宇佐神宮の亀山の地が卑弥呼の墓であるとも言われる。
更に、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大神(アマテラスオオカミ)であるという説もある。 
いずれにしても、神代よりまします比咩大神は、かくと断定され得ない神ともされている。


妻垣神社は、元より八幡信仰の総本社・宇佐神宮とかかわりが深く、「宇佐神宮行幸会八社」の一社で境外摂社とされている。 
大神(邪馬台国の女王卑弥呼ともいう)の降臨の宇佐島はこの妻垣山であり、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はこの安心院であり、女王・卑弥呼の墓は妻垣神社の境内にある一柱騰宮であるという史家もいるほど謎のある神社でもある。

古代、九州の政治・経済・文化の中心は筑紫、日向にあり、ここから豊後の国東半島を経て瀬戸内海へむかう位置に「宇佐」がある。 
ここから潮流に乗って大阪にあがり、奈良の都へ出る古代の海の道があったことは、伝記・「神武天皇の東征」と一致する。 
一柱騰宮-妻垣神社-玉依姫-宇佐-神武天皇-大和という繋がりは、たとえ神武東征説話が架空だとしても、古代史の謎を解く鍵としては、歴家たちは興味津々であろう。


今は亡き推理作家の巨匠・松本清張は、代表作の一つと言える短編・『陸行水行』を残している。 
当時の歴史世評は邪馬台国のブームと言ってもよく、この時、清張自身も安心院の妻垣神社を訪れ、日本の古代史に興味を持ったとされている。

物語は、『東京の大学で歴史科の講師をしている私は、「宇佐の研究」のため安心院の妻垣神社へやって来る・・、』から始まり・・、宇佐神宮が最初のテーマとなり、安心院の風景があり、宇佐神宮の奥宮とされる妻垣神社のことが描写されている。 

そして、耶馬台国はどこにあったか・・?、など、古代の旅路を自ら辿りながらスリラー風に描かれている。


次回は、安心院・米神山




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2011年9月11日日曜日

日本周遊紀行(169) 津久見 「大友宗麟」

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 日本周遊紀行(169) 津久見 「大友宗麟」   、




津久見は、大友宗麟の最後の居住地であり、終焉の地でもあった

向かう道路は番匠大橋で国道10号線と別れ、佐伯市内は海岸沿いの国道217号線となっている。
市内を去って程なく海岸の高台に至ったとき、佐伯の町並みが鮮やかに望下できた。
その正面遠方に元越山(もとごえざん・582m)であろうか、尖がり山が佐伯の町を見守っているようだ。 山は国木田独歩が佐伯に滞在中数回登り、あまりの景色の素晴らしさに感涙したという。

変化の激しい海岸道を行くうち、こちらは、ほぼ三角形の「彦岳」が眼前に迫る。 その裾野の海岸ギリギリのところを日豊線と国道が走っている。 
これらの地域は、山腹がいきなり海岸に落ち込んでいる険しいリヤス海岸で、所々、トンネルが貫通して無理やり通ってる感じでもある。 


程なく津久見へ達している。 市域としては比較的小さなエリアのようである。 
平成の大合併で自治体の数が少なくなり、その分、各自治エリアが広くなっているはずでがあるが、そんな中、津久見は隣の市町、臼杵市、上浦町に対して合併協議を申し入れているが、いずれも合併に対して、慎重な姿勢を変えていないという。


ところで、九州のなかでも大分県は、日本の「懐」というべき瀬戸内海や豊後水道に面し、台風の襲来や冬の厳しい季節風から守られているため、比較的温暖な気候に恵まれているという。 そういえば、九州地方が台風や梅雨時の大雨による被害が報告される中、大分地方は意外とニュースになっていないのに気が付く。 
津久見は、この温暖な気候と地形を利用してのミカンの栽培が盛んで、「津久見ミカン」は全国でも有名ブランドでもある。


その津久見は、戦国期には大友氏の支配下にあり、大友宗麟が津久見を最後の居住地と位置づけ、宗麟(1530~1587)終焉の地でもあるという。 

宗麟は、大友家の嫡男として豊後府内城に誕生、世に言う「大友二階崩れの変」(豊後大友家での御家騒動)で家督を継いだ。 
その後、毛利氏や秋月氏等との抗争を続けながら、その最盛期には豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向と四国・伊予半国を支配し、強大な戦国大名となった。 

ところが、九州の関が原といわれる「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人達の反乱が相次ぎ、島津義久などの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。 
こんな中、天正14年(1586年)宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請し、了解した秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っていく。 
だが宗麟自身は戦局が一気に好転していく中で病気に倒れ、豊後国・津久見で病死している。享年58歳であった。

九州征伐後、秀吉の計らいで長男・義統(よしむね)には豊後一国を安堵した。
その前に秀吉は宗麟に日向の地を与えようとしていたらしいが、宗麟自身は既に統治意欲を失っていて、これを辞退したという。 もしくは直前に死去したとされている。
だが、義統自身も朝鮮の役で秀吉に咎められ豊後を改易されている。
宗麟の墓は津久見市内と京都市北区の大徳寺にあり、さらに津久見市上宮本町の響流山・長泉寺に位牌がある。



キリシタン大名としても知られる大友宗麟である。
天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との最初の出会いであった。
その後、キリシタンに帰依(洗礼名をフランシスコ・ソウリン)し、キリスト教の領内での布教を許可したり、施設団をローマ教皇のもとに送ったりしている。 
宗麟がキリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。 

一方では、領主・宗麟がキリシタンになったことから大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人衆の蜂起という形で、不利な立場に置かれ国を滅ぼすことに成ったのは皮肉である。 

宗麟は信仰を深めるほど、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世との間で葛藤し続けたともいう。


次回は、安心院(あじむ)





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2011年9月10日土曜日

日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」

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日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」 .




写真:佐伯を代表する三の丸・櫓門の威容




秀吉子飼の毛利高政が、現在の「佐伯」の基礎を形造った・・、

北川町の道の駅、「北川はゆま」で一寸遅い食事をとる。 
ところで「はゆま」とは早馬(はやうま)から転じたもので、江戸期に設けられた駅制度により、駅(宿場)に置かれた馬のことであるらしい。 
ここは現在は国道10号線であるが、この地に昔の駅舎が在ったかどうか定かでないが、九州南北を縦貫する昔からのメインルートでもあったのは確かである。 


レール列車に駅があるように、車の道路にも全国的に駅やサービス・ステーションがある。
この「道の駅」は、休憩のためのパーキングとしてはもちろん、人と町の交流ステーションであり、地域の文化や歴史、名所や特産品などを紹介、発信する情報交流の場としても魅力を発揮している。 

小生のように、全国を股にかけている旅の者にとっては実に重宝で、一宿一飯の地にもなっている。 
それを示すように、駅の一角に巨大な「駅馬」のモニュメントが建っている。


国道10号線は、宮崎県から大分県に入ったようである。 
緑鮮やかな山間の地で、起伏曲折は多いが、さすがに1級国道で造りは立派、時速にして60kmで悠々と走れている。

内陸部の宇目町、直川町の山地をようやく抜けて、佐伯の町に来たようである。
佐伯市は2005年(平成17年)3月、上浦町・弥生町・本匠村・宇目町・直川村・鶴見町・米水津村・蒲江町が合併し、新市制によって広範な佐伯市が発足している。
元より、この地域は南海部郡(みなみあまべぐん)といって、以前から「佐伯南郡」とも呼ばれ、強い結び付きを有しているらしい。 住民の日常社会生活圏は連帯意識をもち、経済圏もほぼ一体的であったという。
そのため、県内でも最も早く合併に向けて2000年12月には佐伯市・南海部郡5町3村任意合併協議会が設置され、2005年に合併したことから、面積が九州最大となる新たな佐伯市が誕生している。 
本来、各地域は支所や支庁と言われるところ、ここではユニークにも「振興局」という名称が付けられているという。


国道10号線が番匠川に達した辺りから沿岸域に出たようである。
この辺りの海岸線は、凡そ200kmに及ぶ「日豊海岸国定公園」にも指定されてるリアス式海岸が続く峻険な地である。
そんな中、佐伯市街は九州有数の清流・番匠川の豊かな水に恵まれた地域であり、市の中心地はその番匠川の河口に広がる小域な沖積平野に市域を形造っている。


番匠大橋を渡って右折し、川沿いを行くと間もなく佐伯市街に入ったようで、街路案内によって左折すると、いきなり巨大な城門が現れた。 
歩道には石畳を敷き詰め、クロマツの並木を造り、一部区間では電線を地下埋設していて、シットリとした白壁の土塀が続く。
旧藩政時代の武家屋敷の佇まいで歴史的景観、街路の調和が実に良い。

この地域、市内中心部の大手門跡から櫓門前を通り、城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「歴史と文学の道」とされ、「日本の道100選」にも選ばれているという。 
養賢寺は大屋根を持つ本堂や風格のある庫裡、経蔵など初代藩主毛利高政をはじめ歴代藩主の菩提を弔う大寺院で文化遺産でもある。

風格のある城門は三の丸御殿の正門として、寛永14年に創建された櫓門(やぐらもん)といい、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物でもある。


佐伯は、元より海の幸、山の幸に恵まれた富める海辺の村であったが、江戸開府と同時に大いに発展してゆくことになる。 
佐伯藩初代藩主・毛利高政は慶長6年(1601年)、日隈城(ひのくまじょう:大分県日田市亀山町)から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備している。 

町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となり、支流や入江も自然の防御線となっている。 更に湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線にもなっていると言われる。 

番匠川は、下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていたという。 
江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていて、渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていたという。
櫓門を起点にして武家屋敷の町並みが尽きるところに、藩主・毛利家の菩提寺であった名刹、養賢寺があり、裏の高台にもある毛利家累代の御廟所も壮麗である。



この地方は平安期より「豊後・佐伯の荘」と称していた。
鎌倉期には豪族・佐伯氏が領主として豊後守護・大友氏に属し、番匠川の上流の標高224mの栂牟礼山(とがむれさん)の山上に山城を築き、ここを本拠としていた。 だが戦国期の九州騒乱で主家・大友氏が失脚にともない佐伯氏も改易、城を去っている。 

現在の佐伯城(城址)は慶長6年(1601)、豊後日田の日隈城から移封された毛利高政が11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した山城である。 

高政は、豊臣秀吉子飼いの武将で、元々、森を姓としていた。 
ところが天正10年(1582年)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 
ところが高政は、当主・毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にもあり、以後、毛利姓を名乗るようになる。 

その後は、大坂城の築城や秀吉による朝鮮出兵の際の対馬に城を築くなど活躍、豊後・日田二万石の大名となって五層の天守(日隈城)を築くなど威勢を張った。 
しかし、毛利高政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に組したため、徳川家康によって佐伯二万石へ転封された。 

以後、佐伯城は、毛利氏12代の永きに亘って居城となし、明治維新まで続くことになる。 
関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりの礎を固めることになるが、江戸期、多くの藩が移封、転封される中、秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけであるという。

尚、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)、毛利氏三代目・高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 
そして、三の丸への登城門が現在の「櫓門」である。 
尚、佐伯城城郭は、明治の「廃城令」で城が取り壊されて現在は遺構のみが残っている。
山城へのルートは幾筋かあるが、いずれも昔の面影を残しており、山頂からは佐伯の町が一望できる。


次回は、「津久見


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2011年9月9日金曜日

日本周遊紀行(167) 九州山地 「米良地方」

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 日本周遊紀行(167) 九州山地 「米良地方」   .




次に、九州山地の米良地方(めらちほう)について・・、

先ず、伝説を一つ。
日向・高千穂に降臨したニニギノミコトが巡遊しているとき、好漢と見たオオヤマミズミコトは二人の娘のイワナガヒメ(姉)とコノハナノサクヤビメ(妹)の両方を嫁にしようとした。
だが、ニニギは、花のような美人である妹のコノハナノサクヤだけを選び妻とした。 
失意のイワナガヒメは一ツ瀬川を遡り、この地に田を開き、実り豊かな稲作を作られたという。 

ヒメの作った米が非常に「良い米」であったので、この地方に「米良」という名が起こったという。 
そして後々、良い米から米焼酎が作られ、好まれるようになったという。



日向、肥後(熊本)国境付近の山間には椎葉(椎葉山・椎葉荘)と米良(米良山・米良荘)呼ばれる地域があり、山深い地域のため有力大名の支配も及びにくく、半独立的な地域であった。

米良地方は椎葉同様、平家落人の隠遁僻地として知られる。 
なかでも「村所」を中心とする米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題・今川氏(戦国期、駿河地方を支配した今川義元の祖先)に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだといわれる。 

入山した菊池氏は、それ以来、米良姓を名乗り、文武に優れ、礼節を重んじ、村では合議制による民主的な施政を敷き、幕末までの約400年にわたり統治したという。 
そして、明治期の版籍奉還に際し、最後の領主となった米良(菊池)則忠公は、領地の全てを領民に分かち与え、人々の生活を担保したとされえる。
その遺徳は今もなお、米良の歴史とともに語り継がれているという。 

九州では、現在でも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だとも称している。
この米良地方は、近年になって明治22年(1881)に西米良村と東米良村に分割され、更に、昭和期の1962年に一ツ瀬川の銀嶺地区辺りを境に、東側の東米良村は西都市・木城町に編入されている。


西米良村は、九州山地にへばりついている村で、一ツ瀬川の最上流部が村を貫通している。
江戸期まで米良地方は肥後・人吉藩の領地であったらしいが、明治初期の廃藩置県により日向・宮崎県に割譲された。
従って、地風は肥後・菊池氏の影響もあって、人吉・球磨地方の色合いが濃く、宮崎県になって130年たった今でも、米良地方と肥後・球磨地方の人々は、年賀を欠かかさず、お互い交流しあっているという。


ところで、焼酎処とも言われる西米良村の中心地、「村所」の酒屋の店先には、「白岳」、「極楽」といった球磨焼酎の銘柄が正面に並び、日向の「霧島」などは隅っこに追いやられているという。
酒屋さん曰く、「西米良では今は焼酎はつくっとらんが、球磨焼酎がやっぱり地元になりますね、白岳がよう出ます」といった具合で、西米良村民達は、独特な球磨焼酎を求めているという。

人吉地方は、球磨焼酎作りのメッカといわれる。 
垣根の向こうから「ちょっとお茶でもせんかね」(ちょっとお茶でも飲んでいきませんか)と、声がかかる。
それでは えんりょなく」と、垣根の内に入れば 爺さんが球磨焼酎の一升びんと湯のみを持ってくる。 肴は自家製の漬物。これを指でつまみながら、焼酎をちびりちびりとやるうちに心と心がつながってきて・・、 

一方、日向地方は、薩摩が焼酎作り日本一なら、宮崎は焼酎消費の日本一だそうである。
米良地方は日向・宮崎に属しているが、歴史の流れからも窺えるように、人脈、物資の流通は昔から肥後・人吉、八代との繋がりが強いといわれる。
今でも流通路である国道など、熊本県方面は概ね整備が進められているが、宮崎・西都市方面は交通が困難な難所区間がある。


肥後・球磨地方の湯前町から西米良へ通ずる横谷峠越えは、通称・横谷越え(現、国道219号線)と言われる難所中の難所で、昔は、凡そ20k行程の山道を荷駄で行き来した旅人や焼酎のびんを積み上げた馬方さんが往来し、その旺盛な脚力には敬服していたとされ、 

又、近年に至っても、道路の状況はあまり変わらず、ここを走っていた定期運行の国鉄バスのドライバーのテクニックには驚いていると地元住民の評判であったとか。 
現在は、横谷峠直下に長大なトンネルをぶち抜いて、相当に交通が楽になっている。

村は、村所地区を中心にして菊池氏・所縁(ゆかり)の城址、御所跡、神社仏閣、記念館など歴史、文化、自然や風土など地域固有の観光資源がある。 
又、最近では特に、生涯現役元気村と名打って、「カリコボーズの休暇村・米良の庄」等、テーマ性を持たせた地域づくりを推進しているという。 
「カリコボーズ」とは、山を守るもの、森の精霊、神的存在の言霊ともいうべきもので、村おこしのイメージ・キャラクターとしているらしい。


米良で善政を施した菊池氏の本拠は、現在のその名も熊本県菊池市で、古来から市名に名を残す由緒ある一族であり、平安期までは九州の政治・文化の中心地として栄えた。
このような関係から現在、西米良村と菊池市は「友好姉妹都市」を結んでいる。

米良地区は、これまで、2004(平成16)年度に地域づくり総務大臣表彰、2000(平成12)年度に過疎地域自立活性化優良事例国土庁長官賞、優秀観光地づくり賞を受賞しているという。
更に、2004(平成16)年度は黒木村長が観光カリスマ百選にも選ばれ、2005(平成17)年度は、オーライ!ニッポン大賞を受賞していて、正に、地域振興の牽引的役割と見本を示している。 


次回は、「大分・佐伯






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祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
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