2011年11月30日水曜日

日本周遊紀行(186) 美保関 「昭和の決断」

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 日本周遊紀行(186) 美保関 「昭和の決断」   、




島根半島と中海(中央が大根島   衛星写真・wiki)


「昭和の決断」、中海の大干拓事業中止・・! 、

国道431から中海サイドを経て島根半島の「美保関」へ向かう。 
中海は地図上を見ると大根島(だいこんじま)、江島と二つの島が浮かぶ。 
この二つの島が「八束町」(やつかちょう)を形成している珍しい町域であった。(2005年松江市と合併) 
更に、車窓からも眺められるが長大な堰堤(堤防道路)で島の間と湖岸を結んでいるのである。
厳密に言うと湖岸部分は橋で結ばれていて、実はこの堰堤部分は干拓事業の名残という。

神話の海、まほろばの海と呼ばれる「中海」の美保関側を干拓して農地を作ろうという、当時の米増産時代の思いつきだった。 

一般的な見方であるが、公共事業は一旦動き出したら止まらないというのが普通で、好例なのが長崎・諫早干拓であろう。 
漁業被害や環境破壊が報告されているにも関わらず止まる気配がないのが実情であった。


「昭和の国引き」は失敗・・?? 、

しかしながら、この中海干拓に関しては事業が相当部分進行してしまったにも関わらず中止が決定したという。 
中海の大規模干拓および淡水化は、古来、出雲地方でよく言われる国引きの神話になぞらえて「昭和の国引き」とも言われ、1960年代に事業が開始された。 
この間、一部完成して共用されるまでに及んだが(南部、揖屋地区)、その後、時の地元出身の竹下総理の肝いりもあり、国の減反政策が本格的になり、又、水質汚染や環境破壊を懸念した反対運動が高まり、近年では、県の財政圧迫なども発生して、結局、凡そ40年を経て、中海・宍道湖の淡水化を目的とした大規模干拓事業は2000年に完全中止が決定したという。


無駄な公共事業費、800億円がパーー・・!! 、
結局、中海と境水道を仕切っていた中浦水門は(江島と境港間)は取り壊された。
かっては、水門の総延長は414m、10門の二段式ローラーゲート(上層と下層の2つの扉体を操作する)と中央部に設置された3門の閘門(こうもん:運河・放水路などで、水量を調節するための堰)から構成されていた。 

閘門の上の部分は、船舶が通過する時に備え、跳ね橋としての機能も持っていたという。 
現在、これらの建造物は「世紀の遺物」となり、やがて消えてしまった。
この水門の構築には100億円かかり、更に、取り壊しに100億円かかって、合計200億円がパーになったという。

結局、総じて無駄な公共事業費は700億とも800億とも言われる。


次回は、美保関・「関の五本松






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2011年11月29日火曜日

日本周遊紀行(185)玉造 「三種の神器」

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 日本周遊紀行(185)玉造 「三種の神器」   .




写真:出雲大社の参道奥左、波の上の「勾玉」を大国主が天を仰いで崇敬している姿




因みに、「三種の神器」について  、
三種の神器(サンシュノジンギ)とは、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指す 。

三種の神器は、日本の歴代天皇が継承している宝物である。 
神器とは神の依代(よりしろ)を意味する。

天皇の即位に際し、この神器の内、鏡と剣のレプリカ及び勾玉を所持することが日本の正統なる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。 三種の宝物は八咫鏡(ヤタノカガミ)、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)のこと。 


神器という言い方が一般化したのは南北朝時代ごろからと言われているが、本来人間が持たなければならない「三徳」、つまり鏡は知、勾玉は仁、剣は勇というように、智・仁・勇、至徳・敏徳・孝徳としているともいわれる。 

又、「命」と「愛」と「知恵」の意味を尋ねると、「命」が光の放射する「八咫の鏡」であり、「知恵」が「草薙の剣」で、「愛」が「八坂瓊の勾玉」ともいわれる。


草薙剣(クサナギノツルギ:天叢雲剣)  、
須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇を倒した場所は出雲国とされ、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」であるという説がある。 倭姫命(ヤマトヒメ)から、蛮族の討伐に東へ向かう倭建命(ヤマトタケル)に渡されたとされる。 剣は全ての問題を切り分け、整理整頓して解決し、適材適所に配置するという働きがあり、 「草薙の剣」というのは、宇宙創造の時の三大根本神力の一つとされる。 「中海」の南に位置する安木市は須佐之男命が八岐大蛇を退治し天叢雲剣を獲得した地とされる。 又、この地は、古来、砂鉄を産し、現在でも鉄鋼の生産で有名な安来市の山奥、奥出雲町でをが獲得したと古代製鉄と神話の深い関係を伺わせる。 「安木」は、神代からの名称とされ、都市名では最古の部類の属するという。
この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺では「たたら吹き」(タタラ=多多良、鈩、踏鞴、鞴韜)、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んであったがためオロチ伝説が生まれたとされている。 天叢雲剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされ、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄で川が濁った様子を表しているとする説もある。


八咫鏡(ヤタノカガミ)  、
三種の内、一番大事なのが「八咫の鏡・ヤタノカガミ」とされる。 記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命(イシコリドメノミコト)が作ったとされる。 天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、そして再び世は明るくなったと記紀に記されている。 八咫鏡は天照大神自身ともいわれる。 天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された。 「鏡」は、「輝く身」であり、姿を映す鏡というのは、あくまでも裏面の話であって、光り輝く、輝くのが「鏡」なのである。 「輝く身」という意味で天照大御神の一番中心の働きを現わし、形式的に見ても皇室の御紋章(十六菊の御紋章)であるとされている。 菊の花弁である十六の方向に放射されてるということで、十六とは無限を表し、実際はそれを無限に複雑化したものを全部束ねたのが「八咫の鏡」ともされる。 無限に輝いて、全体を総まとめにしたような姿、それで十六菊の紋章として模型がつくられているともいう。


八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)  、
「神璽」(シンジ:天子の印、御璽・ギョジ=御名御璽)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠(ヒスイ)などの石を磨いてつくった勾玉(カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト、櫛明玉命ともいう)は、玉造部(たまつくりべ)の祖神とされ、「職人集団」の祖神であるとする。 家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊(マサカキ)は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった鏡と勾玉をかけた神木を模したもので、その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡に対して、「月(陰)」を表しているのではないかという説もある。 後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けられたとする。 「勾玉」というのは、お玉じゃくしのような「曲がった玉」というが、これは表面のごく一部のことで、実際は、「マアカタマ」と言い、「マアカ」というのは「完璧な玉」という意味がこめられ、その中には「無限の、全ての、完璧な形あるもの全部」という意味を込めるという。 宇宙であり、地球であり、安定した全ての形(球)あるもの全部「勾玉」とされる。 それを全部ひっくるめて束ねて、国土を安定させた姿の全体像が「八坂瓊の勾玉・ヤサカニノマガタマ」である。 
出雲大社の参道奥左に、「海幸彦 山幸彦」の一シーンと言われる像が在る、波の上にのる勾玉を大国主が天を仰いで崇敬している姿である。


次回は、「美保関





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2011年11月28日月曜日

日本周遊紀行(185)玉造 「八坂瓊の勾玉」

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 日本周遊紀行(185)玉造 「八坂瓊の勾玉」   .



「玉造」はその名の如く、「三種の神器」の一つ、八坂瓊の勾玉(ヤサカニノマガタマ)の製造元であった

松江の南に、玉造温泉がある。
小生、若かりし頃(20代)出張仕事のついでに山陰を旅行した際、宿泊した温泉であるが記憶は全く無い。
宍道湖へ注ぐ玉湯川沿いに、数寄屋造りの高級和風旅館が多く並び、歓楽色は一切なく、歴史を重んじた落ち着いた風格を見せる。 
出雲国風土記にも記載があり、奈良時代開湯といわれる古湯で、神の湯として知られる。

ところで、玉造という名の由来は「三種の神器」の一つ、八坂瓊の勾玉(ヤサカニノマガタマ)が櫛明玉命(クシノアマルタマ・出雲国玉作祖:ニニギと共に降臨したとされる)によってこの地で造られたことに由来するという。 
玉造の温泉街のはずれ、玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っており、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されているという。 


玉作湯神社の縁起的資料には・・、

『 櫛明玉神は豊玉、玉祖神などの異称をもち、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた「八坂瓊之五百箇御統玉」は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」 』・・と。

要約すると・・、
八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、長い紐につなげた勾玉のことで、別名を「八坂瓊乃五百箇御統玉」(やさかにのいほつみすまるのたま)といい、特別な名前が付いている。
「玉」は鏡や剣といっしょに古代王権(現在でも)の象徴で、神話では天岩戸に引きこもった天照を引っ張り出すために賢木(さかき=榊)へ鏡や木綿(ゆう)といっしょにかけられたという。 製作者は玉祖命(たまおやのみこと)という神様で、「八坂」は八尺のことをいい、「五百箇」は多数、沢山を意味し、「御統」は多くの玉を連ねて輪にすることをいう。 「玉」はヒスイ、メノウや碧玉(へきぎょく)製品で、所謂、貴石、宝石であり、貴重な宝物である。 宮中にあっても、たとえ天皇はおろか、何人も眼にすることは許されていない宝物とされている。 

平安時代の頃に伝承が有って、時の冷泉天皇が、箱をあけて中を見ようとしたという伝えがあるが、その時、突然に白煙が立ち上り、驚いて止めたという。



玉造は「メノウ」の産地で特に、青メノウは玉造だけに産出するという。 
伝承館には2トンもある大きい赤メノウの原石が展示されている。 又、玉造温泉入口の公園には真玉の勾玉が飾られ、温泉街の各所に勾玉のモニュメントが置かれている。

明治以後、天皇即位の式典に際し、この地で作られた碧玉や瑪瑙(めのう)が献上されたという。 


次回は、その「三種の神器





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2011年11月27日日曜日

日本周遊紀行(184) 松江 「小泉八雲」

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 日本周遊紀行(184) 松江 「小泉八雲」   、





写真:松江城のお堀端に面する旧小泉八雲邸




小泉八雲が「神々の国の首都」と言わしめた松江・・、

お城を下って堀川の北部、その名も「北堀町」の古い屋敷群をのぞいてみた。 
堀川をレイの遊覧船が水面をゆっくり滑って行く。 

お堀端には古齢の松が、幹をくねらして水面に掛かる。 
だが、路上にある松の幹根部を良く見ると、舗装に覆うわれていて、植物に対する細心さが無いようで、これはチト残念ではある。 
全体としては、趣のある良環境を造りだしていて、この辺りは時間がゆっくり流れているようでもある。

この一角に「塩見縄手」という看板がある。
縄手」とは城郭の構えを定めるとき、先ず、縄張りをして塁壕や形態を定めるもので、今の基本測量のことである。 
城下町では縄のように糸筋に伸びた道路を「縄手」と称した。 

藩祖・松平氏の町奉行「塩見古兵衛」が城を縄張りし、改修したので、その名が付いたという。 
彼の旧屋敷が路の反対側に屋敷群と共に在り、やはり、長屋門を構えた豪勢な屋敷である。



付近に旧小泉八雲邸があった。
しっかりした門構えで表に「史跡小泉八雲旧邸」とあり、只今公開中の札が下がっていた。 
純和風の建物で、表庭には枯山水の庭園が施してある。 

彼が如何に日本贔屓の彼であったことが判る。 
小泉八雲(こいずみ やくも)は、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンという名でいなじみであろう。 
アイルランド人で1850年、40歳とき日本に帰化している。 
日本研究家として知られ、一方で紀行作家、随筆家、小説家でもある。 

名前の「八雲」は、一時期当人が松江に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなんだとされる。
さすがに日本贔屓のハーンであった。



我々は、小説『怪談』の中の「耳なし芳一」、「ろくろ首」、「雪女」などでお馴染みである。
実は妻・セツの昔話が小説の元になっていることや、幼い頃の暗闇体験の恐怖が基になって、数々の名作が生まれたという。
「耳なし芳一」は先に記したが、平家滅亡時の壇ノ浦での話である。


小泉八雲の随筆文・「神々の国の首都」より・・、

『 松江の一日は、耳朶の裏でどくんと搏つ脈拍のような音で目覚めることから始まる。厳かでやわらかな鈍い低音は――規則正しく奥深い心臓の鼓動に似ており、聞こえるではなく感じるという方が相応しい様子で枕越しに震える。何のことはない、米搗き杵を使って雑穀する音だ。その次は禅宗の洞光寺(とうこうじ)の大釣鐘がゴーン、ゴーンという音を町の空に響かせる。 次に私の住む家に近い材木町の小さな地蔵堂から朝の勤行(ごんぎょう)の時刻を知らせる太鼓の物悲しい響きが聞こえてくる。 そして最後には朝一番早い、物売りの呼び声が始まる、「大根やい、カブやカブ」と大根その他、見慣れぬ野菜類を売り回る物、そうかと思えば「もややもや」と悲しげな叫び声は炭火をつけるのに使う細い薪(まき)の束を売る女たちである 』


洞光寺は八雲の好きな寺であったようで、明治6年(1873)に松江で最初の小学校が洞光寺に置かれていた。

2005年3月、松江市は八束郡鹿島町・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町の1市6町1村が合体合併し、新制による松江市が発足している。


次回は、「玉造




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2011年11月26日土曜日

日本周遊紀行(184) 松江 「松江城」

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 日本周遊紀行(184) 松江 「松江城」   .



松江城
写真:松江城天守閣



松江城は、やや小振りだが・・?信州・松本城に類似している・・?、

松江に向かっている。 
松江市街に入り西末端部の宍道湖と大橋川に架かる宍道湖大橋を右に見ながら左折すると、すぐに高めに「松江城」の優雅な姿が見受けられた。 
大手門前の有料駐車場を利用して、高台の本丸に向かう。

先ず目に付いたのが石垣の下に佇む松の緑に囲まれた清楚なお壕、お堀端である。 
そこに、遊覧船、観光船、或いは案内船と言うべきか、ロマンチックな木製の渡し船が船頭さんと共に、静かに待機し、運行していることである。 

尤も、実際のお壕の名称は「堀川」といって堀川の渡しであり、それは一種の「水郷」である。 
思えば松江の町自体が、水郷の都、水の都なのである、町の中心が宍道湖と中湖の間に挟まれた地域で、そこに大橋川とそれらの支流が編み目の様に流れ、城壕の堀川はその一部のようなのである。 
幾多の城を巡ってきたが、お城周りにこれだけ風雅な雰囲気を残しているのは見当たらない。 

松江市は、中国の「松江(しょうこう)」に似ているところから名づけられたとか。
お城の周辺には、古い町並み、屋敷跡、著名人の館が残り、更に、情緒と雰囲気を盛り上げている。
いわば松江の町のシンボル的存在になっていて、歴史、自然を大切に温存している様子が判る。


さてお城である
中央に手摺を設けた幅の広い、ゆったりした石段を少し登ったところ、よく整備された生垣の庭園が大きく広がっていて、そこに威風堂々の天主城郭が天を指していた。 
石垣の上にドンと構えた黒塗りの城壁は一見、やや小振りだが信州「松本城」を思い出した。 

天守閣は望楼様式になっていて、ここから望む風景は絶大で、眼下の宍道湖をはじめ松江市街の向こうに中湖まで遠望できるにちがいない。 
屋根上には雌雄で鱗(しゃちほこ)が天に構える。 

内部は時間的に接見できなかったが、支柱や構造材は木造で、築城当時の様子がよく残しているという、所謂、戦国時代の特徴を良く残しており、非常に実戦的な天守の構造をした貴重な遺構だという。 
このあたりも平城の松本城を彷彿させる。 

天守地階には籠城用の生活物資の貯蔵庫、中央には井戸も残っているという。 
なんでも、全国に城郭が多数ある中、築城当時が現存するのは12ヶ所のみで、松江城はその内の一つであり、山陰では唯一の天守閣であるとする。

その内、天守閣の大きさ(平面面積)では、2番目、古さでは6番目とのこと。 
因みに、記録に残っている日本の城と言われる総数は25000にも達すると言われ、その中には、天守閣を備えた立派な城もあれば、柵で囲っただけの砦の様なものもある。 

だが、江戸時代の末期にはすでにその数は200を切り、その内天守閣があった城は70箇所程度という。 
その中で、現在も昔の様相、形式、築造方式が残っているのはたったの12城という。 
古くからの形を留めているのはこれだけで、あとは復元、復興等後から建てられた物という。  
12城とは、弘前城(青森)、松本城(長野)、彦根城(滋賀)、丸岡城(福井)、犬山城(岐阜)、姫路城(兵庫)、備中松山城(岡山)、丸亀城(香川)、高知城、松山城(愛媛)、宇和島城(愛媛)そして松江城(島根)である。


松江城の歴史は江戸初期に始まる。
慶長16年(1611)初代城主である堀尾吉晴(秀吉子飼い)から三代の忠晴にかけて、5年の歳月をかけて完成したものであり、特に吉晴は加藤清正と並び称される程の普請上手と言われていた武将であったという。

吉晴は16歳の時、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に出会い、その家臣になっている。 
家臣とはいっても子飼いに近い存在で、名は茂助、秀吉には大変可愛がられたようで、穏和な人柄に人望があり、「仏の茂助」とも称された。 
以来秀吉に従って戦功をあげ、小田原征伐後は大大名に出世している。 

堀尾忠晴の後は京極忠高(いずれも嫡子無くお家取り潰し)、その後、徳川家康の孫に当たる松平直政が信州松本から移封され、以来明治維新まで松平氏が10代234年間に渡り18万6千石を領していた。  

松江城が、信州・松本城に類似しているのは、松平直政の影響が有ったのかもしれない。

次回も「松江




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2011年11月25日金曜日

日本周遊紀行(183) 斐川 「宍道湖」

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 日本周遊紀行(183) 斐川 「宍道湖」   、





宍道湖から松江方面(秋鹿なぎさ公園から)



その宍道湖の北側を進む。
出雲大社から来ている一畑電鉄大社線が並行して走っている。 
布崎駅から園駅辺りから宍道湖の湖面が見え出した、走行してても湖面から緩やかに風が吹き込んでくる。 

湖面を眺めながらの、余所見(よそみ)運転をしながら(危険です・・!!)湖岸をしばらく走ると「秋鹿なぎさ公園」という休憩所が現れた。 
勿論、今の時間帯では人の姿は見えない。 
砂浜に出て見た。 細粒の奇麗な砂浜で、小波に洗われている。
湖面は風のせいで、漣(なぎさ)というより、かなり波立っていたが。


宍道湖は、島根県東部に位置する全国第六位の広さを有する天然湖で、東側に隣接、位置している中海は第5位の広さで、海としているが同じく天然湖である。 

宍道湖、中海とも同様に汽水湖(淡水と海水がまざる湖のこと)で、松江を挟む大橋川で繋がっているが、境港の境水道を介して日本海とつながっている中湖の方が、宍道湖に比べて塩分濃度は高い。 当然である。 
宍道湖の塩分濃度は海水の約5~10%、中海の塩分濃度は海水の約20~50%になっている。



歴史的の視ると石器、縄文期前期の頃の宍道湖はまだ存在してなく、付近を網の目のような斐伊川が、今の神戸川と合体して大社湾へ流れていたらしい。 
その後、海面上昇によって大きな出雲湾、入り江ができ大社町、平田市は日本海に面した巨大な半島を形成していったとする。 

その後、海面降下、又、斐伊川、神戸川の土砂の堆積によって出雲平野が形成され、出雲湾は次第に埋め立てられて、今のような宍道湖が出来上がったとという。 
併せて出雲大社南部の海域は「神門水海」という湾又は汽水湖が出来上がった。 

この頃が弥生後半の時期、つまり紀元が改まる2000年前頃と想定でき、出雲大社創建の頃とされる。 
この時期の大社は海に面していたと想像でき、大社本殿の前に昇殿用の階段があるが、階段の下を「浜床」といい、当時、浜の近くに本殿が建てられたのでこの名前が付いたと想像できる。

その後、沖積地は今の湖の東から流れ込む斐伊川の河床に運び込まれる土砂で次第に高くなり、堰き止められて概ね淡水湖としての今の宍道湖が誕生したとされる。 

又、中海は弓ヶ浜の砂州が本土側の間と繋がったり離れたりを繰り返し、平安期の頃には砂州が固定化してできたとされる。 
斐伊川の東流以降、宍道湖は西からの埋め立てが急速に進み、江戸期より現在までは埋め立てや干拓による自然の改変が進んでいるという。


塩分の薄い汽水湖であり、栄養豊富な宍道湖は日本一のシジミ産地として有名である。 
ヤマトシジミは全国で約2万トンの漁獲があるといわれるが、そのうち約30%~40%は宍道湖でとられているという。 
宍道湖は全国一のヤマトシジミの産地であり、宍道湖においてとれる魚介類のうち90%以上がヤマトシジミであるという。

因みに、国内の主なシジミに「マシジミ」がある。
こちらは河川の砂地に生息するのに対し、ヤマトシジミは河口、淡水と海水が混じる汽水域の砂礫泥底で多く見られる。
干潮になると水がなくなるような干潟でも生息している。 
尚、宍道湖のヤマトシジミは種苗として全国に供給もされているという。


次回は、「松江




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2011年11月22日火曜日

日本周遊紀行(183) 斐川 「オロチ伝説と斐伊川」

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(現在時間;1分毎に美女と時刻が変わるよ) .



 日本周遊紀行(183) 斐川 「オロチ伝説と斐伊川」   、




早朝の「出雲大社」参拝見学を終えて一旦、宿に戻り、遅い朝湯と朝食を頂いて宿を出る。
国道9は丁度朝のラッシュの時間帯らしく、上り・・?の松江方面が予想外に混雑していた。

そのため宍道湖へ出る手前で、北回りの国道431号へ回ることにした。 
国道9号線は、宍道湖の南面を行くようになるが、その宍道湖手前の県道23(斐川一畑大社線)を北へ向かう。 

宍道湖西側へ流れ込む中小の河川を渡りながら、右側にかすかに宍道湖の湖面が覗かれ、左手は広大な平地が見渡せる。 
この辺りは「斐伊川」が宍道湖に注ぐ際、土砂により埋め立てられてできた沖積平野で、山地の多い島根県としては数少ない出雲平野が連なる米どころである。


斐伊川は、島根県と鳥取県の県境に位置する船通山(せんつうざん)に源を発し途中、大馬木川、阿井川、久野川、三刀屋川、赤川等、大小の支川を合わせながら北流し、出雲平野でその流れを急激に東に転じ宍道湖、大橋川、中海を経て日本海へ注いでいる一級河川である。


古来、斐伊川は「暴れ川」として洪水を繰り返し、多くの被害をもたらし、日本における代表的な「天井川」としても知られる。 

天井川(てんじょうがわ)とは、砂礫の堆積により川床が周辺の平面地よりも高くなった川である。 
つまり川に堤防が作られて氾濫がなくなると、川底に堆積した土砂の上を川(水)が流れるようになり、次第に水面が上昇して天井川になる。 天井川が氾濫すると、水は行き場を失い長時間ひくことがない。
従って、近代になっても洪水防堤や放水路等の治水工事が後を絶たないというわけである。


斐伊川の中上流域は・・?、

スサノオは高天原から出雲地方にやってきたとき、船通山から天降ったとされる。
その後、ヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメと結ばれるという神話・「ヤマタノオロチ退治」は有名である。 

日本最古の歴史書といわれる「古事記」に記載されている神話のヤマタノオロチ伝説は、雲南市(2004年、6町村が合併成立)の周辺には、それらの伝承、伝説の地として数多く残っているという。 


斐伊川は、神話の国・出雲の「国造りの川」としても知られ、「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という伝説は、この斐伊川が原点だとも言われる。 

船通山を源として各支流と合流しながら、日本海へ向かって流れ落ち、出雲市街の東を通る辺りから、まるで鎌首を曲げるようにして宍道湖へ流れ込む。


古代神代の物語で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)以外には、蛇と名の付くものは殆ど出てこないという。 
この斐伊川に代表される八岐大蛇伝説は、この性状、姿形からして一つの人為及び自然現象として合理的に説明できるのである。

大蛇の頭が八つとされるのは、斐伊川河口付近では扇状の地となって多くの支流を造っていること。
また、が八つとされるのは、上流の谷筋で多くの支川を集めていることで説明できる。 
胴体に苔や樹木が生えているのは、川岸の苔や草があり周辺は樹木で覆うわれている。 
が常に血でただれているのは、中国山地の土には砂鉄が多く含み、酸化すると赤くなっている現象とする。 

又、神話で大蛇の尾から神剣が出現したとあるのは、この地域で砂鉄を取り出し、タタラ(炉へ足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご)で精錬して、製鉄や刀剣製作に用いたことで説明がつく。


ヤマタノオロチ伝説」は、大和朝廷が出雲に進出する過程で、出雲の製鉄集団を征服、武器などの鉄器をこの地方で供給するようになったことが史実として反映しているとも言われる。 

ヤマタノオロチとされる製鉄集団説では、古事記に描かれている「赤いホオズキのような目」としているのは、真っ赤に燃えるタタラの炉を表しているとされる。 
船通山を水源とする斐伊川は肥川、肥の川ともいわれ、その畔は酸化した鉄分であちこちが赤く染まっているという。 

古来、中国地方は砂鉄に恵まれ、土で作った炉に木炭と砂鉄を入れ、タタラで風を送り込み燃焼させて、砂鉄を溶かし鉄にする。
所謂、「たたら製鉄」が行われてきたと「出雲風土記」にも記載がある。 


スサノオがヤマタノオロチを退治した際、尻尾からが出てきたといっている。
これは純粋な鉄が炉から取り出された状態を言ったもので、いまでいう銑鉄、あるいは鋼鉄の事であろう。
鉄はまず剣や刀に作られたのである。 

スサノウは取り上げた一振りの剣は、天照大神に献上され、これが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙の剣)であり、この剣は天皇の象徴である「三種の神器」の一つとされている。 
元より古来、日本人の精神性と刀剣との関わり合いは深く、特に江戸時代からは刀は「武士の魂」とも呼ばれた。



昭和64年(平成元年)1月7日、昭和天皇が崩御された僅か3時間後に、皇居正殿では第125代天皇になられた今上天皇に対して、三種の神器の内の宝剣「天叢雲剣」と神璽「八坂瓊勾玉」(しんじ・やさかのまがたま)が引き継がれたという。 

三種の神器は歴代天皇が継承するもので、今期の皇室典範にも「剣璽等継承の儀」として謳われている。 
この模様、儀式は史上初めて報道陣にも公開され、皇族や三権の長が居並ぶ中、侍従が神璽を陛下前に捧げる姿がテレで放映された。 

小生は、この厳かな儀式をテレビで拝見したのを未だに覚えている、それにしても崩御まもないこの時間帯に素早く、滞りなく行われた事に感心しながら・・!。


又、オロチが毎年乙女を食し、最後に奇稲田姫(クシイナダヒメ)を食しようとする話であるが。
姫は名のごとく稲田のことであり、毎年、斐伊川が氾濫して田畑が流され、凶作になることを、蛇に食われると言っているのである。 
そして「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という段は、この地方の王、豪の者が治水政策を行ったとすれば理解できるのである。


更に話を進めると・・、
スサノオは荒々しい風の神、風雨神であり、青山緑地を泣き枯らすという表現がある。 
一方、父神のイザナギから海を治めよと言われた話もある。 

海の暴風、台風が襲来すると多量の雨を山地に降らせ、洪水が起こり、山は荒れ、川下の稲田は全滅させる。 

古代の土木技術と労働では、大河の治水は容易ではなく台風神、川水神を祀って災禍をもたらさないように祈るほかはなかったのである。 

古代人はその畏怖すべき敵の最大、最強なるものを祭り、和わらげ、媚び鎮めようと祭神を祀り鎮めたのであった。
ヤマタノオロチ伝説」は、これらを擬似化したものでもあったのだろう・・!。


斐伊川は、山域を約80kmを流れて宍道湖に至り、宍道湖から中海、美保湾に至るまでは、その長さは約150kmにもなる。


次回は、「宍道湖




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2011年11月21日月曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「出雲大社の遷宮」

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(1分毎に美女と時刻が変わります) .




 日本周遊紀行(182)出雲 「出雲大社の遷宮」  .




出雲大社の参道松並木
参道は真中と両側と松並木によって三つのゾーンに分かれている。 
昔は、中央の参道は皇族の方々や例祭の時の天皇の勅使が通られる道とされていたという。



参道横、勅使館と手水舎の間に因幡の白兎でお馴染みの「大国主神と白兎」の像が立つ。



出雲大社の本殿は半世紀ぶりの遷宮されるという・・、

素人目には判りにくいが、出雲大社の神殿、特に本殿は外観から痛みが判るほど進んでいるらしい。
従って、平成20年春頃には御神体を遷し、国宝・本殿の大修理に着手し、改修することになっているという。 
完成には数年かかる見通しで、昭和28年以来、半世紀ぶりの大事業となる見込みだとか。

但し、修理は本殿だけではなく、全ての摂・末社及び修理を必要とする諸建物も本殿と平行して事業は継続され、おそらく10年近い事業になるのではないかとも思われている。

平成20年始めには、祭神・大国主を仮のお住まいとして御仮殿(現拝殿)に遷し、そのときには「仮殿遷座祭」を行うという。 

修造が整う平成25年頃には、元の御本殿にお還りになり、その時も再度「本殿遷座祭」を執行するとしている。



「遷宮」は式年遷宮といって20年に一度の定期的建て直しの「伊勢神宮」があるが、神宮の正殿の隣りには同じ広さの宮地がもう一つ用意され、いわば神々のお引っ越しである。 
だがこちら、大社の遷宮は同敷地内での建て直しとなる。 

造営遷宮とは新しく社殿を建て替え、旧社殿から新社殿へ祭神をお遷しすることで、たとえば、寺院は基本的に倒れたり、火災にあったりしない限り建て替えられないから、法隆寺のように世界最古の木造建築物として残されている。 

ところが、神社の場合は一般に定期毎に、又は、建立されてから一定の期間を過ぎたり、壊れたりなどした時に立て替えを行い、新装成った社殿によって、神様の霊験を一層パワーアップするという考え方である。 
これら神仏に対する造営的考えも日本文化の一つであると言える。


因みに大社本殿の重層な屋根の場合、檜皮葺の厚さが1m以上にもなり、全国のヒノキの立木から皮をはいで集めるという。
本殿の他にも八足門や神々の宿になる東・西十九社などの重文の建築物も修理をすると数万枚もの驚くほどの量の檜皮が必要だという。


平安期、「雲に分け入る千木」と高さ十六丈(48m)もの壮大さが詠われた本殿であるが、現在の国宝・本殿の高さは半分(24m)になる。 

この社殿の形式的高さ、平床面積・六間四方(約120㎡)を最小単位として、これを「正殿式(せいでんしき)」と呼ぶらしく、これに満たないものを「仮殿式(かりでんしき)」として分類している。 

鎌倉中期(弘安年間)より約330年間は「仮殿式」で造営され、以降、江戸寛文年間に「正殿式」に復し、ほぼ現在の本殿の姿となっている。 
今回の遷宮は当然、現行の正殿式で行われるという。



小生、本殿境内横の神楽殿から入場したため、正順の参拝順路ではなかったが、参拝の後、正規の参道側へ回ってみた。
風雪を刻む樹齢数百年の松並木の参道が整然と並び美事である。 

よく見ると参道は真中と両側と松並木によって三つのゾーンに分かれている。 
昔は、中央の参道は皇族の方々や例祭の時の天皇の勅使が通られる道とされていた。 

今は、誰でもが大社に託すそれぞれの思いを胸に、自由に通れる時代になっている。 
この松並木と玉砂利の参道は、いかにもご神域の神々しさを感じる。 
勅使館と手水舎の間に、「因幡の白兎」でお馴染みの大国主神と兎の像が立つ。
(「因幡の白兎」については後述)
振り返って本殿境内を覗くと、相変わらず例の女性がせっせと「御百度参り」の願掛けに勤しんでいた。



出雲大社は地域的には、出雲市ではなく大社町に鎮座していたが、2003年(平成15年)12月 出雲市、平田市、佐田町、大社町、多伎町、湖陵町との合併により、出雲市に存在することになった。 

一方、宍道湖に面する斐川町は、出雲市との合併に際して、住民による合併賛否の投票が行われた結果、反対多数となり単独町制の道を選んでいる。
斐川町は、現在、出雲市、雲南市、松江市の巨大地域に囲まれていて、見るからに窮屈そうである。

尚、昨今(2008年)、出雲市との合併に関する住民説明会などを開いて、住民同士の話し合いが再度行われているようである。 
その、斐川町方面へ向かう。


次回は、斐川・「大蛇伝説と斐伊川




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2011年11月20日日曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「出雲神話と史実」

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 日本周遊紀行(182)出雲 「出雲神話と史実」  .




「神無月」というが、出雲地方に限って「神在月」という・・! 、

ところで、オオクニヌシが行った「国造り」とは、列島のどのくらいのエリアに及んだのか・・?。 
記紀や「出雲風土記」などによると、先ず、「紀伊の国」(和歌山)へ出掛けている。 
又、「越の国」つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。 
同様に、北九州の筑紫にも出向いているし、朝鮮半島の新羅に天降って後、出雲に来た説とした渡来人の説もある。 

天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子の一人は、長野の諏訪(諏訪大社)まで逃げている。
出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいるし、大和にも多い。 

こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシすなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになる。

これを古代の日本列島の状況に照らしてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる動きに類似し、それが日本の縄文社会に次第に浸透し、次の時代の弥生文化とされる新たな文化圏、云わば出雲文化圏から大和文化圏への移行とも言える。 
このことは九州の渡来人伝説と共通し、日本の縄文から弥生の文化の過渡期とも想像できるという。 


この頃、同時に台頭してきたのが高天原の神々つまり「大和朝廷」(ヤマト王権)であった。
オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫るのが所謂、前述した「出雲の国譲り」である。


国譲りという説話(話し合い)になってはいるが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをしながら、武力で奪い取った色彩が強い。
いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族(大和朝廷)が武力で奪っているわけである。 

この時、オオクニヌシは『私が支配していた国は、次の天神の子に統治権を譲ろう。しかし、「八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守る』と宣言する。 

つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのである。 
譲るのは、出雲の国ではなく葦原中国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけであった。 
この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示し、出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと倭国の支配権が移動した事実を伝えている。 
大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で収奪しているのである。 
出雲の国譲り神話や神武東征伝説が語っているのは、このような古代日本の構造の変革ではないかとも云われるが・・?。



これを古代の日本列島の状況に照らしてみると・・ 、
縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から多くの移民が渡来し、それらの移民によって農耕文化が伝わり、それらが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていくイメージなのであろう。 

つまり、九州の渡来人伝説と共通し、出雲の縄文文化圏から、大和の弥生文化に取って変わる過渡期の時期であったのではないかとも想像することが出来るのである。



本殿を囲む瑞垣(みずがき・神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣、玉垣、神垣のこと)にそって、東西の両脇に長い社殿が立ち並ぶ。 
それぞれ十九の細かい社殿に別れており、旧暦の10月11日から17日までの間、全国の神々が出雲大社に集う際に滞在する神所といわれる。 

他の地方ではこの月日を「神無月」というが、出雲地方に限って「神在月」と呼ぶのは、全国の神がここで神の会議を行うからである。

古来出雲の国において、出雲大社の影響は、単なる信仰や崇拝の対象であるだけでなく、一つの政治勢力として出雲の国、及びその周辺勢力に影響を及ぼしていたのである。

一方、神無月の語源は、神を祭る月であることから、「神の月」とする説が有力とされ、即ち、神無月の「無」は、「の」を意味する格助詞(助詞の一類)であるとしている。 

その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じ、「神無月」になったとする説もある。 

同様に「水無月」は、水の無い月と書くが、水が無いわけではなく、「水無月」と同じく、水無月の「無」は「の」にあたる助詞の古語で、「水の月」という意味になる。 

陰暦6月は、日本列島は梅雨の時期であり水は豊富であった。この時期、田に水を引く月でもあり、水の月、即ち水無(の)月と言われるようになったとする見方もある・・?。

だが、この「神無月」には例外がある。
このことは前にも記したが、記紀神話に基づく起源としては、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギ)の降臨に先立ち、出雲を支配していた大国主命が「国譲り」の際、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫ったのに対して、大国主の長男 建御名方命(タケミナカタ)が、国譲りに反対し、大和の軍勢である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦って負けたことから、信濃の諏訪まで逃れて、その地で諏訪王国を築いたとする。

この時、戦に負けて命乞いをした結果、二度と諏訪から出ないことを条件に助命されたとする。 
従って、全国の神様が出雲に集うため当地方では「神無月」といわれたが、信濃の諏訪の神は出雲へは出掛けられず、この地に留まっていたため、諏訪地方では「神在月」とされている。
即ち、全国が「神無月」であっても、出雲地方と諏訪地方は、「神在月」なのである。

因みに、建御名方命(ケミナカタ)を祭った神社が諏訪大社で、上社には男神の建御名方命、下社には、妻であり、女神である八坂刀売神(ヤサカトメ)・妃神が祀られてある。

次回は、「出雲大社の遷宮







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2011年11月19日土曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」

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 日本周遊紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」   .



出雲の国とは・・??  、

アマテラスやニニギ、その後の神代三代と天孫降臨の神々については九州南部(宮崎、鹿児島)あたりで概略記載しているが、神代の太祖にあたるのがイザナギ、イザナミである。
この両者から生まれたのがアマテラス、オオヤマズミ、そしてスサノオであって、アマテラスとスサノオは姉と弟の姉弟関係にある。

この弟はかなりの“”(若気の至り・・?)であり、この悪さが極まったのが「天の岩戸」事件であった。 
弟の悪さで業を煮やしたアマテラスが高天原の岩戸に引きこもり、お隠れになってしまい、世の中(高天原も葦原中国も)が真っ暗闇になってしまう事件で発生する。 

この時、アメノウズメが奇態な踊りを見せて、アマテラスを誘き出し一件落着するのだが、この時、アマテラスをはじめ八百万の神々は相談し、スサノオに罪を償うために弁償の品物を科し、高天原から追放したのである。 
追われたスサノオは、葦原中国(本州)の出雲の国へ降りたったとされる。


出雲へ降り立ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣・クサナギノツルギ、都牟刈の大刀:ツムガリノタチとも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる)を天照大神に献上した。 
この時スサノオは、八岐大蛇の餌食になりそうだったクシナダヒメを助け、そして妻として迎える。

そこでスサノオは次の歌を詠んだ。

『 八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 
           八重垣つくる その八重垣を
 』  古事記

(出雲の地に、新妻を迎へ宮を造ろうとすれば、雲の幾重にも立ち上るような、そして八重垣を造るような如しである) 

妻を迎へたことの喜びの歌で、新婚の二人を寿ぐが如くその喜びは幾重にも雲が湧き上がるようである。 その愛でたさは八重垣をなす。 
幸せの気持ちを繰り返す様を「八重垣」に見立てて朗々と歌ひ上げている。 
この歌は日本初の短歌とされている。

この時スサノオは、この国を「八雲立つ出雲」つまり「出雲の国」と定めている。


スサノオの若年における悪行の意味は、「スサ」は神名で”荒れすさぶ”の意として嵐の神暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、勢いのままに事を行うとする説がある。

スサノオによるヤマタノオロチ退治の英雄伝承物語は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た象徴とされ、天叢雲剣の取得はその“”を得た事象であると解釈できる。 
そしてスサノオは、日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有し、人間の成長、そして国土の発展が伺えるのである。


スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、クシナダヒメと幸福な結婚生活を送るが、やがて根の国(冥界)に下ってしまう。 
その後、出雲神話の中心人物となるのは大国主;オオクニヌシである。 

オオクニヌシはスサノオの息子とも、数代後の子孫ともされている。(記紀により異なる)
オオクニヌシは国造神のほか、因幡の白ウサギの説話(後述)からわかるように医療の神としての性格もあり、又、邪悪な自然を避けるための「呪術」(まじない)を定めた神でもあり、祭祀王(祟りは大和朝廷の関係ともされる)としての資格をも備えた神、つまり「大国主神」となる。

葦原中国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた。
この時、共に国造りを行ったとされる少名彦神(スクナヒコ)で、農耕神としての性格があるという。

次回は、「神話と史実





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2011年11月18日金曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」    .





出雲大社への拝礼は、希望や願望と同時に、“厄災を起こさずに鎮まってて下さい”という意味でもあるとか・・、

出雲大社の広大な境内(実は、境内そのものは伊勢神宮や宇佐神宮よりかなり小規模)の内、拝殿、本殿などの敷地、つまり銅鳥居の内側を「荒垣内」と称し、本殿周囲の垣を「端垣内」と称している。 

一般参拝人が寄れるのは荒垣内で、八足門の内側・端垣内へは禁足となっている。


境内、特に荒垣内、端垣内には、筑紫社(宗像大社に祀られている神)や御向社(大国主神の嫡后である多紀理比売命・タギリヒメを祀る)など、数社の摂、末社が祭られている。 
その荒垣内摂社の中に素鵞社(そがのやしろ)が本殿の真後北側に、南面つまり本殿同様の向きで鎮座している。 
小社(小さな御社)であるが四方を鬱蒼とした樹木に囲まれ、一段高い位置で神威豊かに祀られている。 
祭神は、有名な素戔鳴尊(スサノオノミコト)である。


スサノオは天照大神(アマテラス)の弟神でもあり、出雲の国に赴いとき八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話は周知である。 
オオクニヌシの親神(日本書紀)として、大国主に「国造り」の大任を授けられた出雲の太祖でもある。 
即ち、本殿の真後ろから暖かく大国主を見守られているといった感じなのである。(昔、出雲大社の主祭神とされていた時代もあったという) 

素鵞社は、本殿の後陰になったいるため一般参拝人には気が付きにくいのであるが、ただ、我々参拝者が「拝殿」に頭を下げ、「八足門」に額ずくとき、主神の大国主神には、前述したように横向きのため参拝者の真意が直接伝わらないが、本殿越しに鎮座している「素鵞社」には伝わるのである。 
つまり、われわれが出雲大社に詣でる時、知らずのうちにスサノウをお参りしていることにもなるのである。


ところで、大和系の神社(伊勢神宮や熊野神社など)は「2礼2拍手」で礼拝するが、しかし、出雲系は違って、現在の礼拝は「4礼4拍手又は2礼4拍手」である。 
かっては「16礼16拍手」であったという時期もあり、明治時代になって礼拝方式が簡略化され、今に至っているとのこと。 
多礼多拍手の儀礼は、「祟り封じ」の為に作られた挙礼挙手の方策の一つだったかも知れない。 


神社とは、祭神が祀られているところであり、鎮守の森に囲まれ鎮座している所である。 
又、鎮祭という儀式もあり、諸神を鎮め固めるための祭儀であるとしている。

我々は神社に参拝するとき、いろいろ祈願をする。 
無病息災、家内安全、交通安全、五穀豊穣、安全平和、等々、裏を返せば自然界はままならぬもので、人災、天災、争い事と後を絶たないのである。 

これらを、特に日本人は神の厄災と観るのであって、古代中世の人々は、この傾向が強く、特に神に祈るとき希望や願望は同時に「厄災をおこさずに鎮まってて下さい」という意味としている。

出雲大社は、大和の神々に虐げられ滅ぼされた神なのであり、御神心は怨み1000年の怨念の神なのである。 
それだけに絶対的に鎮座をお願いする神でもあるのである。


神社は定期的に神を祭る儀式、神社の祭りがある。 その中でも重要な要素の一つは、神にお供えものを献じることである。
マツリ(祭)という言葉は、マツル(献)から出たものだといわれている。 

神に神酒・緒食をたてまつることがマツリの原義である。 
日本人の考え方では神は、祭りの機会ごとに祭神が来臨され、祭りが終わると帰っていかれると考えられていた。 

現在でも祭りの基本的儀礼構成は、まず神を迎え、神酒・御食を供えて仕えまつり、願いや感謝の祈りを捧げ、時が来ればお送りするという形をとっている。 

祭礼の日のみ、鎮座している神が天下に降りてこられて俗世と交わり、俗界を伺い、俗民は神の霊力を戴くのである。


次回は、「出雲の国と神話




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2011年11月17日木曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」   、




高層大社
写真:古代・出雲大社の想像図(資料)



大国主が、大和の神へ「国譲り」を行ったとされる真意は・・? 、

出雲大社が最初に創建されたのはいつのことなのか・・?、
その具体的年代を知る事は非常に困難であると言われる。 

出雲國風土記」や「記紀」(古事記、日本書紀)に創建の由緒や社殿の壮大な様がはっきりと記されてはいるが、創建の年代については、神話伝承の時代に溯る故に確定するのは難しいとされる。


出雲大社が神話伝承の時代から、次の歴史的実話に登場するのは、第11代の垂仁天皇の御代であるとされ、在位は紀元前後1世紀とされているので、大社創建はそれ以前ともされている。

この出雲大社の本殿に祭られているのは、ご承知、「大国主神」(オオクニヌシノカミ)である。 
その大国主によって出雲は「国譲り」の地、国譲り伝説の地とされ、出雲大社は国譲りの神・大社とも言われる。 


然らば「国譲り」とは一体何か・・? 。
大国主はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれた。 
それは全てのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。
そして、この国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされている。  


弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷(最近は「ヤマト王権」ともいう)は、各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったとされている。 
須佐之男命(いろんな書き方がある)にしても、大国主命にしても出雲土俗の統治者、或いは神とされていたものが、無理やり大和朝廷によって統合されたものとされている。
それらの経緯が神話や祭儀となって組み入れられたのが「国譲り」とされた。
ただ、その裏には実は制圧された出雲の怨念がこもっているともいう。 


「国譲り」の真意・・?? 、 
双方の見方を変えてみると国を譲ったのか、或は国を奪われたのかと言う事である。 
記紀に記されているものは、大和朝廷成立後、大和側から書かれたものであり、普通、勝者側からは都合の良いことは書かれ、悪いことは書かれていないのが自然である。 

大和朝廷(天照大神)から見れば、出雲王朝(大国主命)は邪魔な存在であり、大和朝廷による出雲の国の収奪戦が行われたとという見方もある。 
大和朝廷からみれば出雲を奪ったことになるが、出雲王朝からみると国を譲ったことにもなり、記紀には、出雲が大和に穏やかに(・・?)国を譲ったと記されているが、内実は、この時、激しく紛争や騒乱が起き、場合によっては戦乱によって大国主命の殺害などもも考えられる・・?。


古代における陰謀や暗殺、殺害といった事件には、必ずといっていいほど敗者には「祟り」という現象が付き物で、この事は当然ともされた。 
平安初期、菅原道真が宮廷の陰謀によって九州に左遷され、無念のうちに死してから、京では道真の怨霊)などによって大事な災厄を被っている。 
当時の人々に取って「祟り」は日常的であり、祟りほど恐ろしいものはなかったのである。

出雲の国を奪った大和朝廷は、大国主命を神格化して出雲の地に最大の神殿を作り、大国主の祟りを鎮めようとした。 それが「出雲大社」の始まりとも考えられるのである。 
大層な大社造りを見ると大和朝廷がいかに「祟りを恐れた」か分かるともいう・・?。 
又、それは、前述した本殿の神格の配置にも観られことである。



話は些かとぶが・・
信州・諏訪地方に諏訪大社による、ご承知奇祭と言われる「御柱祭」なるものがある。 
御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭であり、祭神は「建御名方命」 (タケミナカタノカミ )で、越後出身の神(実は出雲である)であり、武神、農耕神、狩猟神といわれる。 
古事記では、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、更に追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
祭神・建御名方命は、越後の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。

ある時、建御名方命は出雲へ渡ったものの、高天原の神々(武甕雷男神:タケミカズチ、鹿島神宮、春日大社祭神)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれていると。 
これは記紀つまり、記紀の編纂は高天原(大和朝廷)サイドからの捏造された見方であって、出雲サイドから見れば出雲族は堂々と戦い、そして無念ながら敗れ去った。 
その時に、からくも大国主命の息子は母方の実家の越後え逃げ、その後、諏訪に入ったのであり、建御名方命は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ諏訪大社に祀られているとするものである。

建御名方命は大国主命の息子ということで、神々が出雲大社に集まる神無月にも出雲へは行くことができず、諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪地方でも承知している話である。

御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。 
祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。

この四本の柱とは何を意味するのであろうか。 
これら柱祭の起源には柱が神の依代(よりしろ)であり、四本の柱が宮殿を表すとされて柱を七年ごとに新規に取り替えた名残り、つまり、「遷宮」とういう名残ではないかという諸説もある。


更に、ここでは出雲大社の本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?、
四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 

諏訪大社は上下あわせて四社(上下2社ずつ)ある。 
出雲本社の本殿の高さは、当初は96m、あるいは48mもあったとされているが、このことは先に記した。 

本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物には当然、巨大な芯柱や大柱が必要である。 
又、大柱は切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。 

諏訪大社では、本家、出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも想像できるのである。

大和側から見れば、出雲はやはり恐ろしくも偉大な神であった。
これだけに本殿を高くするという意味合いは、御霊を天上に追いやって天下に下りて来難くすることで、祟りや呪いを出来るだけ遠ざける事だったのかもしれないのである。


御柱祭」が行われる前年、北安曇郡小谷村(信越国境)の二つの諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌(なぎがま)を打ちつけるという、珍妙な祀り行事がある。 
「薙鎌」とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、この時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのか・・?。 


建御名方命が高天原の神との戦い(国譲り)に破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
この薙鎌は大和の神が「許してやるから、ここからは出るなよ・・! 」という印とも言われている。 

一方で、出雲の国で須佐之男命が殺したとされる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたのが草薙剣で「三種の神器」の一つとされる。 
その薙鎌は、その草薙剣を模写したもので、この剣を出雲王家の怨念を柱に打ちつけ、天下の末代まで呪柱、忌柱として祀る印ともいわれる。 

引き続き、出雲大社・「拝礼の意義





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2011年11月16日水曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「御本殿」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「御本殿」    ,






資料:出雲大社の銅鳥居内の神殿配列(左下より拝殿、八足門、楼門 御本殿の各神殿)



写真:出雲大社・本殿(資料)



本殿内部の祭神配列の異様さ・・? 、

その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 

こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 

その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。


その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 
千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。


現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) 
ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48メートル、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。

普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 
背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。


2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 
48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。

平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。 

ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、即ちその本殿へ誘う階段がまた長大であったという。 だが本殿そのものの建物(建屋)は現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。
いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。


ここで、(ヤシロ)と(ミヤ)の概念について。 
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 
代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く示された場所を表す。 
つまりヤシロとは社であって聖域を指している。
又、屋代(ヤ・シロ)は宮のことで、社の一角に臨時に屋根をしつらえて神事を行う場所のこと、つまり神仙(神様)の住居としてのミヤ(御屋・宮)のことで、本宮とか本殿とも呼ばれる。 

出雲大社はその起源からして祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ち、神の宮であり、神宮本殿・なのである。
その出雲の宮社(本殿)が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである



出雲大社御本殿内部の祭神(御神体)配列について・・、



写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)


出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという。
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 
御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。

大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 
その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 

しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 
従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。
つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 

要するに、我々参拝者と大国主神とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っているともいえる。
このことは大和神(天孫神)の意に反して、主神が「祟り」を起こすための「行い」を監視しているともとれるのである。
このことは、神話における大国主が大和神へ「国譲り」を行った結果、その構図が現れているとも観れるのである。(「国譲り」については次回後述)


以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるという。
先ず、古代の住宅様式における居住まいは、入口部と最上席との位置、配置関係は御本殿のそれと一致するという。(現在でも通じる)
出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。

又、古代では西の彼方には「常世(とこよ)の国」(霊魂が鎮まるところ)があると信じられていた。
そして出雲大社のすぐ西には「国譲り神話」の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされている。
大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 
現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事があるという。

いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建時の様子が隠されているのかもしれない。


御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 
上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 
出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる。

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 
            八重垣作る 其の八重垣を
 』

という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊と社の後方に聳える八雲山との縁により描かれているとされる。
だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば、何故七雲しか描かれていないのか・・?、という疑問である。 
このことも、「国譲り」伝説の影響による出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊の歌と絡めて疑問視されてきているという。


次回は、「国譲り




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2011年11月15日火曜日

日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」

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 日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」   、




出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿



写真:出雲大社・拝殿



早朝から一心不乱に巡拝する一女性(八足門拝所)





出雲大社での参拝は四礼四拍手一礼が基本で、四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通ずるという・・、

出雲大社の拝殿、本殿に向かうには、本来は、松の参道から本殿境内とされる銅鳥居から入殿し、拝殿へ向かうのが本筋である。 
小生の場合、いきなり神楽殿の前へ来てしまったので、これより通じている横参道より直ぐに、本殿境内の拝殿に立ってしまった。

拝殿は本殿の手前にあり、総ケヤキの切り妻風・「大社造り」といい、珍しく妻入り部分(妻の方に入口を設けて、これを正面とする様式)が拝所になっていて、上部に神楽殿に次ぐ大きさの注連縄が下がる。 
早朝、全く静かな雰囲気で神妙なるお参りが出来、ホッとする。 


出雲大社での参拝は、四礼四拍手一礼が基本で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけらしく、その起源は分かっていないという。 
四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通じているともいい、又、賽銭も“しじゅう御縁”が有りますようにとの意で、「45円」が妥当との事らしい。 
御縁は“男女の縁結び”も合わせて、四拍手つまり“幸せ”に巡り合いますよう祈願するものという。

因みに、お膝元の島根県の離婚率は日本一低いらしく、これも地元の人は出雲大社のご利益としていて、やはりというか「縁結びの神様」なのであり、「縁を離さない神様」なのである



拝殿奥の本殿・拝所においても四礼四拍手一礼を行う。

気が付くと、一人の女性が真剣に拝礼している姿があった、未だうら若き女性である。 
早朝の静寂の中、手持ちの物も無く、拝殿、そして本殿・拝所(八足門)と正規の石畳の通路を往来しながら一心不乱にお参りしているのである。
「お百度参り」であろう・・!。 

拝礼参拝は、先祖の供養、自分と家族の健康、平安、無事など、心に思い願い事すべてに功徳があり、又、自分の反省、懺悔にて心身が洗われることをより強く祈願することだという。
 この女性には如何なる願いがあるのやら、神仏に百回(数多くという意味もある)お参りする行為に見とれながら、満願成就することを願うのみである。


更なる御神域に囲まれた、本殿・拝所は一段高いところに本社(ほんやしろ)がある。 その至近正面にあるのが「八足門」といって、一般の参拝はここまでである。 
本殿と八足門との間にあるのが本殿・楼門で、この門は二階づくりになっており、階段の一番上(15段目)、つまり二階の部分が本殿の床のと同じ高さになっているという。
 尚、階段の下の部分を「浜床」といい、昔は浜の近くに本殿が建てられていたらしく、この名前がついたともいう。

次回は、「大社・本殿






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2011年11月14日月曜日

日本周遊紀行(182)出雲 「日本人と藁」

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 日本周遊紀行(182)出雲 「日本人と藁」   、




引き続き、注連縄に絡んだ「藁」(わら)について・・、

序ながら、昨今、都会では「」を見かけなくなったが、それでもお正月になると注連飾りなどで、藁に接する機会がある。 

注連縄を作るために、農家では秋の収穫の時に茎の長い青い藁を蓄えておくという。 
藁(わら)とは稲の米をとったあとに残る葉や茎の部分の乾燥したものを言い、古来より、藁は日本人の衣食住の全てを、その温もりで包んできた。 

その水田や藁葺(わらぶき)屋根は、安らぎを感じる日本の原風景でもあろう。 
藁葺屋根をはじめとして、日本全土で受け継がれてきた藁細工には草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、俵(たわら)、蓑(みの)、雪長靴 お櫃(ひつ)などの各種保温材、そして藁人形など様々な種類があり、それらは地域によっても形が異なるが。


鰹(かつお)どころ土佐では、タタキ造りに [藁焼き] が一番とされ、藁は火力が強く、しかも藁の燃える時の香りはより一層、鰹の風味を引き立たるという。

藁は筒状で中が空洞になっているので燃え易く、藁の強い炎は鮮度のよさを示す「鰹の肉色」を損なう事無く、表面のみを瞬時に焼き上げ、藁が燃える時に発する「けむり」や「におい」には、魚の脂の酸化を防止し、尚且つ、殺菌効果のある成分「フェノール類」が含まれているという。 

又、茹でた大豆を藁づとに包み、藁についている納豆菌で自然発酵させたものが納豆である。 
最近でも季節になると報じられて見られるのが、風物詩ともいえる金沢・「兼六園」の藁縄による雪釣りの風景である。 
芯柱と呼ばれる棒を立てて、縄を渡す「りんご吊り」というらしい、芯柱は高いもので16mにも及ぶと言う。


藁は、我々現代人が考えている以上に強いといい、湿れば伸び、乾くと縮む性質がある。 
この性質を上手に利用したのが藁で編んだ「」である、縄で物を縛る時(祭屋台など・・)、湿らして縛ると後に乾く時にきつく締まるのである。 

藁といえば幼少だった頃、故郷田舎で牛舎の藁小屋で、藁まみれになって遊んだのを思い出す。
日本人と藁は、今でも切っても切れない関係に有るのである。


藁は単に米をとった後の残り物などではない・・、! 
燃料であり、様々な生活の道具を作る素材であり、新たに息を吹き込まれるべきものである。 
今、日本人の生活からどんどん失われようとしているものが多数あるようで、藁文化もその一つであろう。 
先人達の暮らしを知って、それらを残し、更に回帰・復古的にも行使、実施してゆくことは、環境問題にも一役かうかもしれない。

最近では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にあるという。
特に、或る研究機関は「バイオマスエタノール」(バイオマスとは生物から発生できるエネルギー量で、これをエタノールに変換し、内燃機関の燃料としての利用)の製造実験も発表されている


ところで、都会では米が白い状態のまま田んぼに出来ると思っている子供達がいるという。
そして、米のとぎ方も知らない若い母親もいるという。
冗談のようで何とも切なく悲しいな話である。 

故郷は遠きにありて思うもの」も結構だが、米のできる日本の田舎、田園、故郷、古里をもっと知らなければならない。


次回は、「出雲大社・社殿




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01. 15.

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