2012年3月31日土曜日

日本周遊紀行(218)珠洲 「須須神社」

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日本周遊紀行(218)珠洲 「須須神社」 . 



須須(スズ)神社
写真:生みに向かって立つ須須(スズ)神社の大鳥居と燈篭


蝉折の笛と弁慶の守刀
資料:「蝉折の笛」と弁慶の守刀



狼煙(のろし)と須須神社の関わり・・、

内陸伝いの山道から、一転海岸に出たところ寺屋地区に「須須神社」があった。
鄙びた部落の様相とは不釣合いな程の五段の台座に一対の石灯篭を従えて、立派な鳥居が海岸道路沿いに立っている。 日本海の大洋に向けて真東に向いていて、時期、時刻によっては鳥居の正面に太陽を迎えるが如く輝くという。 
参道の奥には二の鳥居、更にこの奥に三の鳥居が控えていて、そこからは鬱蒼としてやや苔生した感じの奥参道もあり、社殿はその奥に鎮座しているという。 
無論、この海岸からその姿をここからは拝見できない。
1万坪にもおよぶ境内の社叢は、スダジイを主とする照葉樹林(暖帯系常緑広葉樹林)であり、種々の温帯、冷温帯の植物が見られることから、照葉樹林の北方的限界性を示しているともいいう。 一帯は国の特別天然記念物に指定されている。 
神域は、派手々々しさはないが何か格別な古社を感じるのである。

須須神社は通称、神仏混交時代の名残で三崎権現とか三崎明神と称した。 
又、当社は高座宮(たかくらぐう)と称し、すぐそばにある金分宮と山頂・奥宮の三社合わせて須須神社と呼ぶ。 
祭神は天津日高彦穂瓊瓊杵尊(アマツヒダカホコニニギノミコト)と木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、それに土着神(氏神)の美穗須須美命(ミホスズミノミコト)、他に建御名方命(タケミナカタノカミ)、武甕槌命(タケミカヅチオ )、保食神(ウケモチノカミ)等の錚錚(そうそう)たる神々が祀られているのである。



これらの神々を復習のつもりで一寸解説してみよう。
瓊瓊杵(ニニギ)はアマテラスの子(又は孫)で九州の日向・高千穂に降臨した神で日本の建国の祖神と言われる。 
木花咲耶(コノハナサクヤ)は大山祇神(オオヤマズミ:山の神)の子(姫)で、桜の木の命名の由、富士山をご神体とした浅間神社の総本社でもある。 この両

神は「夫婦神」で後、海幸彦、山幸彦を生む。 山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇とされる。
建御名方(タケミナカタ)は大国主(オオクニヌシ)の子で、長野県諏訪地方の大神:諏訪大社の主神である。 そして、武甕槌(タケミカヅチ)は、元々は鹿島(茨城・鹿島)の土着神で雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰され鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている神である。 両神は、出雲の「国譲り」で最終的に争った神とされ、結局、武甕槌が建御名方を打ち破り、後に、諏訪の地に押し込めたとされる。 このことから両神は「相撲」の起源ともされている。 
保食(ウケモチ)は、祖神であるイザナギとイザナミの子で、食べ物を受け持った(ウケモツ)神様、五穀の食物起源の神で多くの神社に祀られている。
  
須須神社の創建は古く、一説には二千年前とも言われる。これはもう神代の時代である。 
鎮座の位置、方位性などから東北鬼門、日本海の守護神としてあまねく信仰され、古代より縁結びの神として知られる。 

この「結び」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく安産・育児・病気平癒・槌児祈願、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・・鬼門除け等、人としての総ての生業(なりわい)をいうらしい。
社宮は元々、来る途中の山稜、狼煙地区の「山伏山」(鈴ケ嶽)に鎮座していたらしく、八世紀半ばにここ寺家(じけ)の地に遷宮し、分社されたという。 山伏山には今も奥宮が鎮座する。 

その昔はこの奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、夜ごと大神に献燈(狼煙)しており、これが日本海を航行する船舶の狼煙としての印にもなったという。 奥宮の鎮座する地は、狼煙(のろし)町と呼ばれるのもこのためであり、社名の「須須」は、煤(すす)という解釈ともとれる。


又この社は義経に纏わる伝説がある。
義経一行が奥州へ向かったのは能登、珠洲の経路であり、義経の妻は能登(珠洲市)へ流された平時忠の娘であることは先に記したが、妻を伴った義経一行が奥州へ逃れる途中、義父・時忠を訪ねて珠洲にしばらく滞在したと伝えられている。 
能登から奥州へ向かう途中、一行が珠洲岬の沖合で暴風に遭った為、海上守護神の三崎権現(須須神社)に必死に祈ったところ、たちまちに風が止んで難を逃れたと伝承はいう。 

その時のお礼に平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛・「蝉折の笛」(せみおれのふえ:鳥羽天皇が宋の国〈中国〉から送られた蝉のような節のついた漢竹の笛で、その節のところから折れてしまったところからついた名前とされる)と弁慶が寄進した「左」という銘入りの守刀を奉納したのが今に残るという。

平成17年度のNHK大河ドラマに「源義経」が放映されているが、同様に義経は昭和41年にも大河ドラマの題材に取り上げられている。 
その時の原作者・村上元三は珠洲を訪れて・・、


『 義経は 雪に消えたり 珠々の笛 』 と詠んでいる。 

当社にその歌碑も建っている。
この海岸に向かって屹立する大鳥居の寄進者は「北海道・札幌市」の人であるという。 
奥能登にひっそりと佇む神社の鳥居を札幌の方が寄進されたということは、珠洲地方と北海道とは深いつながりを示し、氏の先祖が珠洲地方の出身だといわれる。 
因みに、明治30年頃の石川県民の北海道移住者の数は珠洲地方が最大だったらしい。


次回、 「伝説とロマンの里



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日本周遊紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」

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 日本周遊紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」  .



キリコ
資料:須須神社の日本一のキリコ


長手の岬からは所謂、能登半島の内側に入り込む内浦湾(富山湾)である。
間もなく「蛸島」という小さな町に入った。 辿り着いた「のと鉄道」の終点の蛸島駅は、ボロボロで落書きだらけのコンクリートの駅だった。 
田畑に面して細く延びてきたレールが途中で途切れていて、ホームから周囲を見渡せば海側の高台に「弁天公園」という展望台も見られた。 
内浦湾に沿って穴水駅から蛸島までは、直前まで「のと鉄道の七尾線」が結んでいた。 だが2005年3月限りで全線が廃止されている。

廃線に向けた動きが出てきた頃、存続を求める沿線住民らで市民団体が結成され、激しい廃止反対運動が展開されたらしく、廃線が決定した後も復活に向けて現在も活動中であるという。 
しかし、廃止後の代替バスの運行状況も芳しくなく、二社の路線とも利用者が少なく、難渋しているようである。
  

珠洲の市街に来たようである。 
市街といってもビルが林立するような喧騒の地ではなく、シットリとした緑豊かな、落着いた雰囲気の町並みである。 
しかし、珠洲の町は昔は違ったようだ。 
一説には古代能登文化は此の半島突端の珠洲地区から発祥したとも云われる。  
往時から出雲、佐渡、蝦夷と並ぶ海洋交通の主要地として、弥生期には出雲方面から鉄器文化を導入し、開田の営みも自ら促進していたことが伺えるとされる。
万葉集に・・、


『 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎくれば 
             長浜のうらに 月照りにけり
 』

大伴家持(奈良後期の天平時代)が能登国主を兼任した折、当地に来て珠洲湾の景勝を詠んだ有名な句である。 


珠洲市の「スズ」は、須須神社からの由来とされ、祭神が美穂須須見命(ミホ・ススミノミコト)で、そこから地名をとったと考えられてる。 
ミホ=ミ(海とか神霊)、ホ(抜きん出て秀でている様)を指し、ススミ=烽(煙や火ののろしをあげる所)と解釈でき、「珠洲の地は、大海に突き出た地であり、海難等の海を守るため須須神社を奉り、この社にて狼煙を揚げて航海の安全を見守った」とする。 

その他、アイヌ語を語源とするという説も根強く、能登地方にはアイヌ語を語源とする地名が散見されると言われているが、能登はノット(突き出たところ)、珠洲はスズ(先っぽ)で同義語でもある。


珠洲は、日本海へと伸びる能登半島の最先端に位置し、三方を海に囲まれた「伝説とロマンの里」とされる。 
世界に存在する全ての造成物は海に生まれ、そしてやがて土に還る。 
そんな神々の創造を強く感じさせる大自然がそこにあり、珠洲市は神々を祀る、祭りの宝庫ともいわれる。 
祭りの主役はやはり「キリコ」に関係が多いらしく、飯田地区は「飯田燈籠山祭り」(7月20日・21日)、日本一の大提灯を囲む「ちょんがりまつり」(8月6日)、「宝立七夕キリコまつり」(宝立町・8月7日)、日本一の大キリコが登場する「寺家の秋祭り」(三崎町寺家・10月第1土曜日)、「奴振り」(正院町正院:9月15日)、「早船狂言」(蛸島町・9月11日:県指定無形民俗文化財)、と珠洲市内だけでもこれだけある。 

能登地方(口能登、中能登、奥能登)においても、春夏秋冬合わせると、何と100以上もの祭り行事が存在するという。 
これはもう、この地方は年柄年中お祭りのようなものあり、能登地方の豊かな生活基盤、深い歴史観が存在すことが見て取れる。
  

鵜飼地区から内陸へ入ってしまったが、この先の海岸沖に見附島というのがあり、別名「軍艦島」ともいう。 30mの高さの船縁(ふなべり)をもつ巨大戦艦が、こちらに向ってやって来るようであるという。

武骨な厳(いかめしい)しい名称の軍艦島に対して、こちらの海岸線は何ともロマンチックな「恋路海岸」と称している。 
地名に恋路とつけるあたりは、シャイな能登人の感覚が知れるが、確か伊豆半島のアッチの方にも「恋人岬」と言う地名が在ったようだ。

七尾線が走っていた頃は「恋路」(こいじ)という、艶かしい駅名も在ったらしく、若い女性には人気の的だったという。 
思えば、北海道の内陸地方にも「愛国駅」とか「幸福駅」があって、全国的なブームを巻き起こして有名になった駅があったが、こちらも当の昔に廃止になっている。 ただ、今だに各駅前売店ではキップが販売されているという。 こちらの「恋路駅」はどうなんだろうか・・?。
  
この先、国道249号線の沿岸に「九十九湾」という景勝地がある。 
能登の海というと半島を東西に分けた海、外浦と内浦に囲まれていることは言をまたないが、この様相たるや全く異なるのである。 
冬の季節風がモロに吹きつける外海、能登金剛に代表される荒々しい景観が売りであるが、内浦は恋路海岸の如く穏やかで、優しいイメージの様である。 
その内浦のほぼ中央に位置する九十九湾(つくもわん)は、更に深く入り組んだ入江となっていて、湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。


次回、「九十九湾



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2012年3月28日水曜日

日本周遊紀行(218)珠洲 「禄剛崎燈台」

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「旅の終わり、そして本当の旅の終わりは・・?」

日本周遊紀行(218)珠洲 「禄剛崎燈台」 .



禄剛崎北端
写真:能登の最北端表示


禄剛崎灯台
禄剛崎燈台


禄剛埼の中心に、さほど背は高くないがドーンと鎮座しているのが白亜の灯台「禄剛崎灯台」である。 
どっかの灯台の項で記したが、こちらの灯台も「日本の灯台の父」と呼ばれるスコットランド出身の鉄道技師・リチャード・ヘンリー・ブラントンによるものであった。

明治16年、初点灯の禄剛崎灯台はブラントンの設計により、日本人の手による洋式灯台の最初の建設であり、「国産の証」である日本で唯一の菊の紋章が灯台正面の記念額にに掲げられている。 
灯塔の高さは12m、三角形のガラス板を幾何学的に組み合わせた巨大なレンズはフランス製で、3秒毎に明滅して、約35km先まで光を届けることがでるという。


日本では明治以降、灯台守を職業とする人達がいた。 
灯台守として禄剛崎灯台を始め、全国を渡り歩いた内の一人である「小坂長之助」氏は、美保関(島根県)、烏帽子島(福岡県)、大立島(長崎県)などへ妻子とともに赴任して、1928年に伏木(富山県)の地で生涯を終えたという記録がある。 
この灯台はその後も長く灯台守の常駐体制を守り、昭和38年(1963)4月になって無人化さたという。 当時、灯台守は映画にもなった「喜びも悲しみも幾年月」を地で行くような人材が、全国に数多く居たのである。


奥能登にあって120年余の風雪に耐えてきた禄剛崎灯台は、今もなお現役の「航路標識」であるとともに、明治の面影をとどめる貴重な近代化遺産とも言われる。 
遺産としての禄剛崎灯台、実は、日本の灯台の23基の中の「保存灯台」にも選ばれている。 平成10年11月1日、灯台記念日に日本の灯台50選にも選定され、11月1日は灯台記念日としている。 
灯台は航路標識の一種で、すなわち灯火によって船舶の航行を支援する施設の一つである。 因みに江戸時代は「灯明台」と呼ばれていた。 

航路標識とは、一般に灯光、灯標、立標、浮標、霧信号所などの標識によりその位置または航路や障害物の所在を示すものとされる。 航路標識を管理する「海上保安庁」は、標識(灯台)が正常に機能するよう定期的に点検整備を行い、航路標識の消灯や故障に対しても直ちに復旧できるように努めている。

映画やTVの「海猿」で馴染みになって御存知とは思うが、海上保安庁の主業務は警備業務、海難救助業務、海洋情報業務とそれに交通業務がある。 
その交通業務の中に、灯台の設置・管理、航行支援システムなど、海の交通警察・海事情報提供機関としての業務がある。
海上保安庁の北陸地方の海域(新潟県=本部、富山県、石川県、何故か海の無い長野県も含む)は、第九管区海上保安本部が受け持つ。

よく北朝鮮の船舶「万景峰号(まんぎょんぼうごう:Man Gyong Bong)」(日本と北朝鮮の間を不定期ながら年20~30回くらいの頻度で行き来し、人と貨物を運んで新潟に入港する。日本と北朝鮮を結ぶ唯一の貨客船 )が入港する際の管理、監督は第九保が受け持っていることは周知である。 能登地方はその中の七尾海上保安部・ 能登海上保安署が担当しているという。 
従って、名灯台と言われる「禄剛崎灯台」は七尾市に管理所が在ることになる。


灯台」と「燈台」について・・、
灯台は構造物を表す言葉で、ごく近年建てられた一部の灯台を除き、殆どの灯台では地点を表す固有名詞の後に「燈台」を付け正式名称としていた。 これらの多くは、常用漢字として「灯台」が採用される以前に命名された灯台である。 
常用漢字が制定されてからは、燈台と言う名詞が付いているにもかかわらず「灯台」の字が使われることがある。

しかし、基本的には人名同様、既に記されている固有名詞であり、常用漢字が制定された以前に「燈台」と名前が付いている灯台は、燈台で良いのである。 
つまり、「禄剛崎灯台」は、「禄剛崎燈台」が正しいと言える。 
もっとも、この様な事例は他にも沢山あるが・・?、


地域の名称が役所の都合で簡略に変換(漢字の変換)されることには、小生も疑問符をもち、地域の固有名詞は人名と一緒の筈である。 
何時の日か、小生もウッカリして人の名前の「廣」という字を「広」と書いてしまって、当人にお目玉を頂戴した記憶が有る。 

当用漢字は1946年11月に公布,教育漢字は1948年に公布されている。 
更に、常用漢字は1981年10月に内閣告示された漢字のことで、当用漢字に代わるものとして告示された。 
実際、常用漢字は一般の社会生活における漢字使用の目安とされ,日常生活で日本語を表記する「目安」として定められたもので、専門分野や固有名詞は対象としていないともいう。


能登半島の北東端で、海面上46mの段丘上に灯台があって、灯台下の崖下には「千畳敷」といわれている平らな海食棚が広がる。 
干潮になると姿を現し満潮になると海中に没するらしいが、規模的には九州・日向(宮崎)海岸の「鬼の洗濯板」に比ぶれば可愛いものである。


次回は、「須須神社




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2012年3月27日火曜日

日本周遊紀行(218)珠洲 「狼煙の禄剛崎」

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「可愛い子には旅をさせよ」(日本の諺)

日本周遊紀行(218)珠洲 「狼煙の禄剛崎」 .



日本列島中心
写真:日本列島中心表示碑
禄剛崎2
禄剛崎方位表示


この先、曽々木トンネルの道路サイドには「垂水の滝」というのがあり、落差35メートルの滝水は荒磯へ直に流れ落ち、押し寄せる潮風によって飛散している。 
厳寒の候には、季節風により白い波頭が岩に砕け、渚一面にふんわりとした綿花状となって、風に吹きちぎられる、土地の人は「波の花」と呼んでいるらしい。

この辺りから町域は珠洲市(すずし)となる。 
国道249は更に荒々しい海岸を進み、前記の平時忠の配流地・大谷の地で内陸の大谷峠を越えて恋路海岸の飯田へ向かっている。 

小生は、このまま県道28号の海岸沿いを進み、能登の最先端「禄剛崎」へ向かう。  
日本周遊の中で、全てが海岸に面している国土において岬は付き物である。 
しかも、自然景観に優れている岬巡りは楽しみの一つであり、そして概ね、この岬には概ね灯台が配置されていて、こちらも必見なのである。 
こちら能登半島の突端に立つ禄剛埼や灯台は、避けては通れないチェックポイントである。


木の浦のS字カーブを過ぎ、折戸の海岸を過ぎると能登の最先端の港・狼煙漁港へ着いたようである。 
このまま進むと港海へドボン・・!、と落ちそうなくらい道は海岸埠頭へ接近していた。 

防波堤に囲まれた港は波音なく静まりかえり、既に今日の仕事を終えたのか十数艘の漁船が岸壁に係留たっていた。 
人の気配は全くなく、能登先端の静かな漁港である。 
地域名で狼煙(のろし)というのはすごく珍しい地名のようであるが、何か曰くは有りそうだ・・?。 

日本地図をみると、本州の太平洋側に比べると日本海側は比較的凸凹が少ない。 
そのなかで突出して目立っているのはが能登半島である。 
その大きな出っ張りは、航海者にとっては紛らわしかったであろう。 

何故かと言えば昔の航海は、陸地からは余り離れず、陸の地形を頼りにしてのである。 
半島の大きな出っ張りは、目印にはなったが、又、一方面倒な存在でもあった。 
特に、夜間や天候不順の日は目印が必須であった。 
この高台の岬には以前は大きな狼煙台があったに相違なく、 それがこの地域の名称になって残っているのは納得である。


現在の珠洲(すず)という地名は、「すすみ」(古訓で狼煙・のろしのこと)に由来するとも言われ、それに因んで狼煙町、狼煙港、狼煙海岸などの地名が今に残っている。 

この狼煙は1883年(明治16年)に白亜の石造灯台・禄剛埼灯台が建設されるまで活躍していたという。 
実際に、地元氏神の三崎権現(現在の須須神社:これより2km先の寺家地区)には、大昔から狼煙を行っていたという伝承も残っているという。


港の後背部は岬の高台になっていて「禄剛崎」(ろっこうさき)という。 
先端には禄剛崎灯台も有るはずで、港の海岸を一当たり見渡して、近くの商店に伺いをたてると、「歩いたッで、すぐそこでぇ・・」と返事が返ってきた。 

車を港の岸壁に置かせてもらって、カメラ一っ丁で出向いた。 
5~6分あるいたところで、東屋のある原っぱへ出た。 
やはり展望は抜群であり、前方左右で外浦、内浦を分ける岬の先端に居ることを実感する。 その又先端に貫禄十分の灯台があった。 
囲いで囲ってはいるが、門構えがあって「能登半島国定公園・禄剛崎」とあり、「禄剛崎灯台」と両門に掲げてある。 灯台の他に送信等と思われる鉄塔が建ち、そこに・・、


『ここは能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところです。「海から昇る朝日」と「海へ沈む夕日」が同地点で眺められろ貴重な場所であります。又、晴れた日は、立山連峰から佐渡島が遠望できます。この灯台は・・』と記されてあった。
 

又、下の駐車場の案内板には「最果ての地・狼煙町」と書いてあったけど、灯台の近くにあった碑には「日本列島ここが中心」と書かれている。 

版図には禄剛埼を中心に円が描いてあり、その中にすっぽり日本列島が収まっているのである。 
実際に地図上で能登・禄剛埼を中心に円を描くと、ほぼ北海道の中央部から九州の中央部が円の線上に位置している。

小生は、日本一周で北海道の稚内(宗谷岬)から、九州南端の佐多岬を巡りつつ現在、禄剛埼に立っているが、この位置が日本の中心というのは一種、感慨深いものがある。


この一角に“面白い標識”があった・・、

東京・302km、上海・1598km、釜山・783km、ウラジオストク・772km』とある。
輪島の項でも述べたが、やはり能登からウラジオ・・へは近かったのである。 

周辺は一部石畳など敷かれ芝生が植えられた広場になっていて、ゆっくりと寛ぐことがでる。灯台近くの崖の斜面に生えている木が斜めになっているのは、季節風による厳しい吹き付けによるのだろう、今は穏やかな雰囲気が味わえる岬である。 


次回は、「禄剛崎燈台




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2012年3月26日月曜日

日本周遊紀行(217) 曽々木 「時国家(ときくにけ)」

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「旅することは、生きること」
(アンデルセン;おとぎ話、童話作家として有名なアンデルセンは、実は無類の旅好きであった。生涯で何度も旅に出て、数多くの旅行記を書き残した。)


日本周遊紀行(217) 曽々木 「時国家(ときくにけ)」 .




窓岩
写真:曽々木の窓岩
上時国家
写真:建坪189坪、最大級木造民家の本家「上時国家」


高所から次第に坂道を下る途中、正面に絶壁のような峰がそそり立つ。
これが日本海に落ち込んでいる岩倉山(357m)である。 
手前には僅かに一筋の川(町野川)が流れ、この川が造ったものであろう、僅かな砂洲の平地に「曽々木」の小さな部落があった。

その部落の砂浜の向こうに奇体な大岩が迫り出している。 
「窓岩」といい中ほどにポッカリと窓のように空洞を開けていて、源義経が矢を射ってあけた穴とも言われているが・・?。
 

この地は、既に、輪島の市街地から約20kmほどのところ、一昔前なら人跡未踏の僻地のようであるが、ここに、茅葺きの二つの・上時国家と下時国家という名代の旧家が建っているという。(輪島市町野町・字南時国) 
この両家の意味というか、読みは「上(かみ)の時国(ときくに)の家」といい、一方は下(しも)の・・・家である。

平地を見下ろす高台に建っているのが本家・上時国家で、少し町野川下流側にある見るからに歴史を感じさせる古い佇まいの家が分家・下時国家である。 
両家とも、北陸地方でも最大級の規模と歴史を有し、特徴ある建築様式は江戸末期の民家風建築である。


これらの二つの旧家は、源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠(ときただ)の末裔とも言われる。 
両時国家の二つの家は、約800年の歴史を受け継ぎ、上時国家は24代、下時国家は23代を数えるといい、これはまた凄いことである・・!!。


因みに、ロッキード裁判の時、田中元首相を裁いた裁判官に「時国」という裁判長がいたが、彼はこの時国家の出身といわれる。 
時の権力者・田中元首相を裁いたことで左遷されたともいわれるが、名門の出の矜持(きょうじ:自分の能力を信じていだく誇り)が、そのような圧力にも屈せず、田中元総理を有罪に持ち込んだのかも知れない。

ロッキード事件とは、1976年2月に明るみに出た戦後の日本を代表する大規模な汚職事件である。 全日空の新型旅客機導入選定に絡み、前内閣総理大臣で自由民主党党首の「今太閤」、「コンピューター付ブルドーザー」と称された田中角栄が引き起こした贈収賄事件で、同年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されるという前代未聞の事件となった。 「総理の犯罪」の異名を持ち、田中前総理の他にも運輸関係大臣が逮捕され、戦後の疑獄事件を代表する大事件となった。
  

平安末期、平時忠は平時信の子として京都に生まれ、姉の時子は平清盛の妻となっている。 又、妹の滋子は後白河天皇の后(きさき)となり、建春門院と称し後の高倉天皇を生むことになる。 
高倉天皇は、時子と平清盛の間にできた徳子を皇后とし、安徳天皇を産むことになる。 
徳子は国母(天皇の母)となり、後に建礼門院と称した。 

このように平時忠は平清盛の小舅として、権勢並ぶ者なきの地位にあった。 
そして官位も中宮大夫、検非違使別当、左大弁などを歴任し、権大納言正二位まで昇進した。
時忠は平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから平家一族の纏め役として実質上の頭領であった。 

しかし、壇ノ浦の戦いで平家一族が敗れて海の藻屑と消え去った際、時忠は生きて捕らえられた。 
時忠は、三種神器の神鏡(八咫鏡:やたのかがみ)を義経に奉じ、また、娘・蕨姫(わらびひめ・義経の側室)を義経に献じて身の安全を図り、助命されたといわれる。

義経が時忠の娘婿となったという情報は直ちに鎌倉に届く。 
元より源頼朝は義経について「行状不届き」として、既に追われる身になっていたのであり、この知らせによって一層、義経に対する不信感をつのらせた。 


平時忠が流罪になったのは文治元年(1185)で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地(これより10kmほど先の地)である。 
その約40日後に頼朝は義経追討の院宣を得て、五畿七道(全国)へ義経の追討令を出していた。 
時忠は、波乱に富んだ生涯をこの配流地・大谷の地で閉じたとさ、時忠の墓は現在、国道249号が恋路ガ浜へ抜ける大谷峠の手前にあるという。  

時忠没前の文治3年頃、追われる身の義経は妻(蕨姫)の縁を頼って、この大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっている。 
義経と妻・蕨姫は時忠に会い、最後の親子の対面をしたのかもしれない。 

義経の北陸や能登における伝説は無数にあり、先の「窓岩」の一見も満更ではと思いたくもなる。


 
尚、時忠の後を継いだ子の時国は、平家の子孫ということであるが、頼朝自身は義経追捕と奥州藤原氏の対立に躍起になっていて、能登の時忠の子孫などには眼中に無かったようである。 

時国はその後、町野の地に移り、館を構えたといわれている。 
時国家は町野川下流域に勢力を伸長し、代々の当主の努力によって当地の土豪となり、近隣の村々を統治したという。 
又、鎌倉幕府の世にあって、平の姓を名乗り続けることに支障を感じたので、その後、実名の「時国」を姓とするようになったとする。 

上と下に分立する以前の時国家は、今の時国家より少し上がった町野川の河原にあり、その頃の時国家は母屋の間口が約50mもあったそうで、建築時期は室町時代の文明15年(1483)頃に立てられたとの伝承もある。 
その他に土蔵や酒蔵、厩舎、稲蔵などもあり、さらに曽々木海岸の浜には塩蔵もあったことが古書文献や絵図によって判っているという。


次回、「珠洲




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2012年3月25日日曜日

日本周遊紀行(216) 名舟 「棚田と御陣乗」

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「旅を思い出すことは、人生を二度楽しむ事である」
(フェリックス・メンデルスゾーン;作曲家)

日本周遊紀行(216) 名舟 「棚田と御陣乗」 .



千枚田
写真:その名も「白米の千枚田」

海上鳥居
奥津姫神社の海上鳥居



国道249を更に半島先端へ向かって行くことにする。 
海岸とはいっても、斜面のかなりの高台を走るのであるが、深見を過ぎた辺りからは山が迫ってくる感じで、道程も急峻さを増してきた。 

千枚田」という小さな休憩所にやってきた、正確には「道の駅 千枚田ポケットパーク」という。 
レッキとした道の駅だが小島商店という看板が掲げてあり、個人商店のドライブインといった感じである。 

ただ、ドライブインにしては食堂などはなくチョット寂しげであるが、ここは高台だけあって見晴らしは素晴らしい。 
海岸沿いの急斜面に、無数の小さな水田が階段状に連なっていて、その向こうに日本海の大洋が広がっていて、末端の基部の水田などは大洋の波が洗っているようにも見える。 

説明のよると能登の「名勝・千枚田」といわれる棚田で、実際に1000枚の棚田が存在するともいう・・!。 

一つ一つが小さい田代で、それが幾重にも重なり合って棚田が形成されている、真に人々の生に対する執着が、このような労作を造りだしたのであろう。 
今でこそ我々は観光地化された当地を「いい眺め、まさに絶景」などと言って満足しているが、先人達の弛まぬ労苦も知るべきであろう。
 

2006年5月に当時の小泉純一郎首相がこの地を訪れ、「絶景だよ、絶景」と褒め称えたエピソードは、地元マスコミで大きく取り上げられた。 
これに因んで、同年秋に収穫されたコシヒカリは『絶景千枚田』の名で商品化されたともいう。 

今はまだ、田代の面には緑の幼い穂がのぞいているにすぎないが、刈り入れの時の秋季ともなれば黄金の波がそよぐに違いない。 
現実の作業は、急斜面の狭い田んぼで農業用機械が入らないため、田植えや稲刈りは全て手作業であるという。 
しかも、農家の高齢化や後継者難で休耕田も増えたため、昨今では輪島市や農協の呼びかけでボランティアによる田植えや稲刈りが始まり、併せて景観保全が図られているという。


この時期になると有志者によって、棚田の中で結婚式も行はれると言う。 
併せて、参列者や希望者には」ボランティア等による稲刈りも行なわれるという。 
千枚田での結婚式は、中央部に特設ステージを設けて、招待者、関係者、それに野次馬・・?あわせて盛大の行われ、千枚田の神様に見守られながらの新しい人生をスタートする。 

二人にとっては思い出の記念になろう。 実りの棚田が二人を祝福するように、総出の稲刈りと併せて、収獲時の一つのイベントになっているようだ・・!。

この一帯の地域名称は「白米地区」(しろよねちく)といい、これぞ取って付けたような、これ以上ない地名である。 
国指定名勝で「日本の棚田百選」にも選ばれている。



ここから、一投足で「名舟の海岸」に出た。 
気が付けば、防波堤防の内側海中に鳥居が屹立している。 
そして、それに対するように、山側には急な階段の上、鬱蒼とした森に「奥津姫神社」(名舟神社)が鎮座していて、前記の「御陣乗太鼓」で有名な「名舟の大祭」はこの神社で行はれる。 

7月31日夜、海上に建立された鳥居まで漁船に乗った神輿五本が、「キリコ」(※)とともに行進を始め、海上を渡御する。 
これは舳倉島(みくらじま)から奥津姫の神様をお迎えする意味があるといい、奥津姫神社に到着した後、子供組から若衆組と御陣乗太鼓の奉納打ちが披露される。 
神社近くに設置された舞台で迫力満点・御陣乗太鼓の奉納本番打ちが行われると祭りは最高潮に達する。 


※「キリコ」とは・・、能登地方の夏秋の祭礼には、各町内からキリコと呼ぶ巨大な御神灯を神輿のお供に担ぎ出す習慣がある。 

キリコとは「切子燈籠」のことで、「切籠」がキリコと略されたようである。 
始めは、手持ちの御神灯であったが、徐々に大型になり、江戸時代中期以降になって、高さ10mをこえる大型で豪華なキリコが出現したといわれる。 

現在でも、能登地方の夏秋の祭礼には大小あわせると7、8百本ものキリコが用いられ、信仰心の篤い能登の土地柄をあらわしている。 
夜空をいろどるキリコの姿は形容しがたい美しさを秘めているともいう。


次回、「曽々木の時国家




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2012年3月23日金曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島・朝市」

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「若いとき、旅をしないと、年とってからの物語がない」


日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島・朝市」 .  




朝市
写真:輪島の朝市風景
 

輪島の町並みで、河合町という商店通りは「輪島・朝市」で有名なところである。 
河合町一丁目の一角、海を背にして家屋の間に簡素な「市姫社」がある。 

市姫神は、宗像三神の中の「市杵島姫命」(イチキシマヒメノミコト) を祀っている。 
又、河合町の住吉神社境内にも市姫神社が建っている。 


この市姫神社や住吉神社は、元々、海の神、海上交通の神として崇められ、両神は概ね、瀬戸内海、日本海を通って大陸へ向かうルートに沿って、お祀りする神社が多数並んでいるといわれる。 

宗像三神の一神である「市杵島姫命」は日本土着の水神として祭れれていたが、平安期の神仏習合で「弁才天」となり、神社の祭神としても祀られることが多くなった。 

近世、いわゆる七福神の一つとして祀られる「弁才天」は、財の神、水の神の他、農業神・穀物神として崇められている。 
そして市姫神社は北陸から関西にかけて、名の通った「市場」の守護神に祭られているという。


輪島では千年も前の平安時代から、神社の祭礼日などに生産物を持ち寄って物々交換しあっていたのが市(いち)の始まりだと言われている。 
海の幸、地の幸を持ち寄って姫社に手向け、持ち寄るうちに、これが自然と我が家に無い物を戴き、他家に無いものを差し上げる、生じて市社の前に交換所の様なものが出来上がり、これらが総じて「市」になったとされる。 


そして、輪島の市は、我が国の市の起源であるとも歴史学者は考証している。

輪島・朝市は朝の7時半頃から店が出はじめ、8時頃にはだいたい出揃うが、人出が多くなって賑わいをみせるのは9時から10時頃になる。 
通称「朝市通り」といわれる約360メートルの通りに、多いときには250軒の露店が並び、午前中いっぱい開かれている。 

朝市が終ると今度は通りに面した各商店で買手となり、そこで又、コミュニケーションが行われる。 
こうして朝市の売手と買手と各商店は、もちつもたれつの関係が千年もの間続いて来た。 
観光的価値はともかく、朝市が果してきた役割は、物と物を介しての人と人のすばらしいコミュニケーションの場でもあり、根底には商売繁盛の神である「市の神」に対する深い市姫信仰が根付いているとされる。 

輪島の朝市は岐阜県の高山、勝浦の朝市と並ぶ「日本三大朝市」の一つである。

因みに、住吉神社の境内でも露店市を開いていて、此方は「夕市」とし称しているようだが、余りパッとしないという・・?。


次回、「名舟




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日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島塗」

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「長旅はつらいが、楽しみのがビール待っている」

日本周遊紀行(215) 輪島 「輪島塗」 .



輪島塗
写真:朱色の漆塗りに「輪島漆器」


道の駅・輪島、「ふらっと訪夢」の和風造りは、地場産の集成材(多数の板材・角材を接着剤で接合して作った木材)を利用し、内部の柱には「漆」(うるし)を施し、「輪風」(外観の切妻屋根と格子に代表される輪島らしさ)を表現して輪島地方の文化、伝統の発信拠点にしているという。 物産館も併設してあり、中には「輪島塗」の品々が陳列してある。


輪島塗、輪島漆器は全国でも屈指と言われる。
漆器はお茶の道具、箱物、膳物、椀物、盃物と日用品から趣向品、飾り品から工芸品まで多種多様で、製品は世界共通語の「ジャパン・メイド」と呼ばれるほど有名な器であるとか。 
漆器は、古来から日本が世界に誇れる最も素晴らしい工芸品であり、日本の誇るべき伝統文化でもある。


輪島塗の塗装素材は漆である。 
漆は、ウルシの木の樹液で、古来は主として塗料、塗装剤のほか接着剤としても用いられている。


私事ながら、幼少の頃、漆の木を切って、皮を剥いて、刀を作り、チャンバラごっこをして遊んだ。 そんな幼少の頃は、漆の木や樹液で「かぶれる」などということは露ほども知らなかった。 手の平に付いた黒い物(漆の液が汚れたもの)は、石鹸でいくら洗って も落ちることはなく、数日経ったら手足の皮膚といわず、顔から股座、チンポまで、荒れに荒れ、膨れに膨れて散々な目にあった。 後日、医者で診てもらったら「漆のかぶれ」ということが判明した。 その後も、これ程でなかったが、数回軽い炎症を起こしたのを記憶している。 漆の樹液は人によって“被れる” (かぶれる)のである。


漆は、漆の木から採取される樹液で、天然の高分子化合物であり、化学的にはフェノール系の樹脂で、防腐剤のクレゾールなどと同類だという。 
弱い体質の人が漆にかぶれるのは、フェノール系の物質が皮膚のタンパク質と反応して起こるアレルギー現象という。

漆は酵素と反応して硬い皮膜をつくる性質があり、硬化する温度(25℃)と湿度(85%)が必要なので、謂わば、カビの発生しやすい環境が漆の硬化に最適という。 
然らば、日本の気候にピッタリ当てはまるのである。 

熱硬化性プラスチックのフェノール樹脂と同じ現象で、昔は鉄砲や大砲、鉄鍋などに、錆び止めとして使われていたらしい。 
漆は酸やアルカリ、塩分、アルコール等に対しての耐薬性、それに防水、防腐性もあり、電気に対する絶縁性もある。 

更に、浸透力が有りその塗膜が乾固しても、中で酵素が生き続けていて、表面の色艶が褐色から徐々に透明感を増し、美しい色合いへ鮮やかに変化するという。 
これは千利休が求めていた美の世界の「わび」とか「さび」に通じるものだという。
 

数千年も前から食器類をはじめとする日用品や船舶、建築物等に塗料として広範囲に利用され、そのルーツを辿ると何と足長蜂にたどり着くという。 
足長蜂の巣の付け根の部分に黒いものが固まっているのが漆であり、自然の中で蜂は本能的にそのことを知っていたのである。 
それを知った人間が狩猟の時に使う鏃(やじり)の取り付け、部分接着剤として利用したのが人と漆の出会いの始まりと言われている。 
その後、食文化と共に発展をしてきた訳で、漆と漆の技法は大陸の仏教文化や食文化と共にシルクロードを経て日本に伝えられたという。 正倉院宝物や法隆寺の宝物館には、それを窺い知ることができるという。
 

漆:うるしの語源は「麗し(うるわし)」とも、「潤し(うるおし)」ともいわれている。
漆の艶や塗り肌を表現したもので、日本の永い歴史の中で漆が愛され続けられたことが言葉の中に残されている。 
知れば知るほどに不思議で奥の深い漆は、自然の天然素材で地球環境にやさしい無公害の塗料とのことで、中国をはじめアジアの各地で遥かな昔から生活のなかに取り入れられていたようである。 
漆の木からにじみ出る樹液は、枝が折れたり、虫や動物に傷つけられた時、手も足も出ない漆木は、漆汁をにじみ出して傷を直そうとする。 
自然の治癒力であり、人が怪我をした時にできる「カサブタ」に相当するもので、人間がこの現象を逆手に取ったのである。 

成木になった漆木に欠き傷を入れて、滲み出てきた樹液を人間が取ってしまい、治癒出来なかった漆木は、やがて枯れる運命にある。
天然漆は環境に敏感である。 
従って、日本では国産漆が塗りやすく、また仕上がりも美しいといわれる。 

しかし、産出量は年々減少傾向にあり、いまでは輸入漆液で需要の九割以上を補っているのが現状だという。 
漆器の品質は、国産漆をどれだけ使うかが一つのバロメーターといわれるが、ここ輪島は国産漆を最も多く使っている漆器の産地として名高く、近年、塗師達は自家用として自宅で漆木の栽培を始めたといい、これも輪島の「本物志向」の表れである。 
輪島の漆木は、能登の気候にも合っているのかもしれない。


次回は、「輪島・朝市



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2012年3月21日水曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」

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「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る」 
<アラブの諺>  

 日本周遊紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」  .


御陣乗太鼓
写真:能登の奇祭・御陣乗太鼓


南北朝時代に足利尊氏に従い、室町幕府創立時の功績によって能登、越中を領する守護大名に列せられるのが「畠山氏」であった。 
かの、鎌倉幕府創立時、頼朝の重臣として大活躍する「畠山重忠」を祖にもつ名門であり、室町時代には斯波氏や細川氏とともに三管領家(将軍を補佐して幕政を統轄した官位)として名を連ねていた。


天正5年(1577年)の戦国期、能登・畠山氏は上杉謙信によって滅ぼされる。 
この時、上杉軍が畠山残党退治に遠征してきたとき、名舟(輪島市名船町)の地で村人達が鬼面や海草を顔に付け陣太鼓を鳴らして驚かせ、追い払ったといわれる。 

これは伝説の域をでないが、この事が有名な「御陣乗太鼓」の発祥、起源とされている。 
御神乗太鼓は、名舟大祭といわれ、白山神社の祭礼で披露され、御輿の渡御・還御の先導として露払いを務める役割を担うという。


天正5年、越後の上杉謙信は能登・七尾城を攻略して、

『 霜は軍営に満ちて  秋気清し 
越山を併せたり  能州の景
 』

と詠じ、その余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。
 

現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。  
武器らしいものがない村の人達は、鍬や鎌で打ち向かったが散々な負け戦であった。 

そのような時、村の古老の指図に従い、急場の一策として樹の皮をもって仮面を作り、海草を頭髪とし、太鼓を打ちならしつつ上杉勢に逆襲をかけた、この奇襲作戦が功を奏し、戦いを勝利に導いたという。 
面をつけ、太鼓を打つことによって、「御陣乗っ取り」を果たしたのである。

この戦勝は舳倉島(へぐらじま)の奥津姫神社(白山神社)の御神威によるものとし、毎年、神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)には仮面を被り、太鼓を打ち鳴らしながら、御輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っているという。 
以来名舟の村人たちは、戦勝の感謝を氏神に捧げるために、この御陣乗太鼓を叩くようになり、400年以上にわたって今に伝えられる。


始めはゆっくり、次にやや早く、最後はもっと早く、即ち序・破・急の三段で打ち切り、各自が自由な形で見えを切り、面に応じ、個性を生かした芸を入れるのが御陣乗太鼓の見どころであり、聞きどころであるという。 
又、御陣乗太鼓の踊り手は、地元に生まれたものにしか資格がなく、地元の子供たちは週2回、大人は毎晩太鼓の練習をし、一般に御神乗太鼓は男性が打つものとされ、女性の演奏は単に太鼓演奏として区別しているという。 

尚、ゴールデンウイークの4月29日(土)から「道の駅・輪島 ふらっと訪夢」でも夜に実演されるといい、御陣乗太鼓は今や、すっかりテレビでもお馴染みでになっている。


次回も更に輪島で、「輪島塗



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2012年3月20日火曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「越の国」

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「旅は真の知識の大きな泉である」 
(ベンジャミン・ディスレーリ;イギリスのヴィクトリア朝期の政治家、首相 ) 

日本周遊紀行(215) 輪島 「越の国」 .


古代のある時期まで、富山から東は縄文遺跡、福井から西は弥生遺跡が多いと言われる。 
そんな中で石川県能登地方は両者が拮抗しているいわば縄文と弥生の接点になっている地域であった。 

この地は縄文期におけるアイヌの痕跡もあり、アイヌ語も色濃く反映しているという。 
「能登」の地名の由来もアイヌ語の「ノッ」で「岬、あご」という意味だそうで、「ノッ」が「能登」というように変化したというのは納得である。


この頃の、国としての名称は能登を含む北陸一体は「越の国」といわれた。 
今の新潟から福井・若狭にかけての越後、越中、越前である。 

これには日本列島へ中国江南の「越人」(※)が直接、又は、朝鮮半島南部を経て到来し、青銅器や稲、鉄器を中心とした弥生文化を伝えたものとする一説がある。 
その意味で、「越」の地名が日本列島にあっても、特に不思議ではない。 


北陸地方の「」が、越人に由来するかどうかは確定はされてないが、おそらく、中国の「越」という国名、地名が先にあって、それが「古志」や「高志」、又は「越智」などの漢字表記の際に当てられたものではないかともされている。 

尚、北陸における「越」の地名は、京(平安京)に出向くのに山を幾重にも越えてゆく、遠方の北の陸地(北陸地方)であるから名付けられたとする説もある。 
だが、実際はこれよりはるか以前(奈良期以前に・・)に、既に「」というのは存在していたという説が大勢らしい。


(※)紀元前8世紀頃の古代中国・春秋時代における中国江南地方・長江下流域に「呉」、「越」などの国があり、中流域に「楚」があって所謂、古代春秋三国時代といわれた。 古代中国の物語として呉、越の国の争いで、「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」という故事が生まれたとする。 尚、古代中国江南地方は稲作発祥の地とされていて、一方、現在のベトナムは漢字で書けば「越南」であり、この地は現在の浙江省周辺にあり、古代中国の江南地方に当っている。


紀元前3、4世紀に日本に成立した稲作は、この中国長江流域が元祖といわれる。 
又、同時期に金属、鉄器が大陸で発明されていて、これらの総合文明が縄文期の未開の文明を刺激しないはずは無く、後年、日本海の狭い領域を超えて九州、山陰、北陸の地へ次々と移入してくるのは必須であった。 

この当初の日本は、日本神話で語られる神代の時代であったが、その後、大和王権(後の大和朝廷とは異なる)が設立されるに及んで、日本各地を席巻、統一してゆくことになる。
同時に、日本民族の文明が大陸によってもたらされ、所謂、大陸ルーツの文明が花開く時期でも合った。

古代中国の越人によってもたらせれたかどうかはさておき、移植された「稲」は各地を点々しながら越前の地(福井平野とその周辺)に、ひとまず定着したとされる。 
飛鳥、奈良期における越前の米の石高は国内一であり、越前は日本一の裕福な国であった。(今でもそうらしいが・・?)

この頃、越前の国の富を背景に、越前出身とされる継体天皇(けいたいてんのう:第26代天皇、応神天皇の5世孫)が、大和朝廷の大王(天皇)として迎えられたといわれる。 

大国・越の国は、奈良期の7世紀後半、律令制によってに分割され越前、越中,越後の三つの国に分かれた。 
さらに、養老2年(718年)には、越前の国から羽咋、能登、鳳至、珠洲四郡を割いて「能登国」とし、弘仁14年(823年)には、江沼、加賀の二郡を合して「加賀国」としたとする。 この時点で近代の北陸地方の地域名が固められたという。


次回、「能登・御陣乗




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2012年3月19日月曜日

日本周遊紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」

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「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」  

 日本周遊紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」  .


プラット訪夢
写真:旧輪島駅の「ぷらっと訪夢」

旧輪島駅
写真:旧輪島駅ホームと「シベリア」行きの次駅表札



能登道路の終点である穴水の此木から、一般道を「輪島」に向けて走ることにする。 
途中、別所丘P.Aで一息入れる。 
このPAは、僅か数台のみの駐車場で、実に小規模でサッパリしたところである。 

だが、目の前にはこの名に因んだ「別所岳」がドーンと座っているし、エリア内には小さな丘があって、そこから能登島や能登の海・七尾湾が一望できる絶景の地でもある。

此木から輪島までは内陸の一般道・県道1号線(輪島-七尾線)になる。 
古い手持ちの地図には能登鉄道が、この道路と並行して輪島まで達しているのだが、実は極最近の2001年に乗客減少が著しいということで穴水⇔輪島間が廃止されたのである。 


克っては、能登観光の交通は、金沢からJR七尾線が七尾まで、更に七尾から輪島までの鉄道が走り、金沢から直通の急行「能登路」や自社のパノラマ気動車を使用した急行「のと恋路号」が運転されていたらしいが、しかし、時代の趨勢には勝てず穴水~輪島は廃線となってしまった。


因みに、穴水から半島の東部を行く「のと鉄道能登線」(穴水⇔珠洲市蛸島)は、その後も暫く存続していたが同様に乗客の減少が続いており、遂に2005年3月限りで全線が廃止され、路線バスに転換されたという。 
ただ、廃止決定後、地域住民の活動が活発化し、2005年3月には県議会議員の間で「廃止」ではなく「休止」にしようとする論調も強まり、廃線となった後も、能登線を復活させようという動きが続いているという。

その代わりかどうかわ知らんが穴水、輪島の中間地点である三井町に、「能登空港」が2003年夏、開港している。


輪島市、穴水町、能登町にまたがる木原岳周辺に整備された空港で、滑走路長は2,000mあり、エプロン(駐機場)は小型ジェット機、プロペラ機各2機が同時駐機できるという。 

日本初の試みとして、空港ビルと行政機関(奥能登行政センター)が合築されており、交通だけでなく、奥能登地域の広域行政の拠点としても位置付けられている。  
又、道の駅・能登空港は、道路を拠点とした能登地域の情報や観光情報を提供しているという。

航路として当面は、東京国際空港への1日2往復のみのようだが、ただ、開港時、年間平均搭乗率が70%未満の場合は、県と地元自治体が航空会社に2億円まで損失を補填するとした全国でも珍しい「搭乗率保証制度」を導入している。 
逆に目標以上の利益が得られた場合は、地元に還元するとしているが、如何かな・・?。
  


輪島の市街へ入って自然と脚が向いたのがやはり「旧輪島駅」であった。 
木板張りの外壁と黒光りした瓦の大屋根に大商屋風の木造の建物が建ち、「ぷらっと訪夢」という、取って付けたような名前が付されている。 

今度は道の駅・輪島として再出発しているようであり、廃止された「のと鉄道」の旧輪島駅の駅前広場を活用して新しく建てたようである。 
だが、旧駅舎であろう・・?、白いコンクリートの建物が、和風の大屋根の奥上から見えていて、変に違和感を覚えるが・・?。 

「ぷらっと訪夢」の中の半分は観光案内所になっていて、輪島の有名な祭り「きりこ祭り」(後述)の“きりこ”が飾られていて、もう半分はかってのJRの旅行センターとなっていて、みどりの窓口の看板も見える。 

その奥には、元のホームの復元というか痕跡というか、旧のホームと線路があり、旧輪島駅を起想させている。 
そして「メモリアルホーム旧輪島駅」と表示があった。 
ホームには昔懐かしい次駅表示板があって、当駅・輪島、前駅・「のといちのせ」、まではよかったが、何故か次駅は「シベリア」としてあった・・?。 
このユーモアは判らんでもないが、せめて「ウラジオストク」くらいにしてほしかった・・が?。
  

太古・古墳時代の頃、日本は中国などから「」と称され、能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの人が渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきた。 

渤海交流史などを見ても、この国から何度も荒波を超えて日本へ使節を派遣していると記され、その中でも石川県にたどり着いた回数が一番多いという。 
その大陸の者たちが、輪島や能登半島の先端を見つけたとき、倭の半島を島と勘違いし「倭島」と呼び、これが、現在の輪島の名の由来だといわれる。


渤海又は渤海国は、かって8世紀から10世紀始め頃まで実際に存在した国であり、今の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方のことで一部シベリヤも含み、中心がウラジオストク辺りとされてる。 
これで旧輪島駅のプラットホームの駅表示に次駅名をシベリヤ(ウラジオストク)としたのは、ジョークとはいえ納得できるのである・・?。


次回、「能登・越の国



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2012年3月17日土曜日

日本周遊紀行(214) 門前町 「曹洞宗・祖本山」

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「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」 
<松尾芭蕉(奥の細道)>  

 日本周遊紀行(214) 門前町 「曹洞宗・祖本山」  .




総持寺山門
写真:豪壮な総持寺祖院の山門



この辺りの地名で、「門前町」というのは一寸な奇異な感じもするが・・?、

一般に、地域区割で門前町といわれる市町村は多々あろうが、門前町をそのまま行政名にしているのは極めて珍しい。 

能登・外浦に面する門前町はこんな町である。 その門前町の本院は「総持寺」である。 
外浦の八ヶ川を少々内陸部に入った地に、大本山総持寺が在り、この辺り、門前町門前というからご丁寧である。



1321年に瑩山禅師(けいざんぜんじ)が開き、永平寺と並ぶ曹洞宗の修行寺として栄えてきた。 
その後、明治31年(1898年)の大火で多くを焼失し、本山は神奈川県の鶴見へと移された。 
現在では、祖院として、大本山のおもかげを偲ばせる幽玄な寺院となっていて、焼失を免れた経蔵、伝燈院、慈雲閣などが境内にたたずみ、また、七堂伽藍も再建され、威厳と風格を今に伝えている。


私事ながら、横浜・鶴見は母の実家であり、小生が若かりし頃一時住んでいた地域であった。 
鶴見・総持寺は、首都圏である京浜工業地域の真っ只中にあり、東海道、京浜、京急などの各線が走る鶴見駅の駅前という、好立地・・?にも恵まれている。 
山門を入った広大な境内には幾つもの伽藍が林立してたのを覚えている。

因みに、近くには「生麦事件」(江戸末期、薩摩藩主の行列にイギリス領事館員が馬で行列を妨害し斬殺された。薩英戦争のきっかけになる)で有名な生麦地区があり、又、1963年(昭和38年)11月9日、国鉄・鶴見事故が発生し、死傷者300人を出した地域でもある。


曹洞宗」の本山は、現在はこの鶴見・総持寺と御存じ越前福井の「永平寺」である。
大本山永平寺は、高祖・道元禅師(どうげんぜんじ)が鎌倉期・1244年に開いたのが始まりで、今では全国に1万5千の末寺、檀信徒は800万人といわれている。 
無論、禅師が入滅した地でもある。 


道元禅師の後、数えて4世にして瑩山禅師に受け継がれ、師は、58歳にして、能登国の諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されたのを期に、名を総持寺と改称し禅寺に改め、瑩山禅師教えの「大本山諸嶽山総持寺」とした。 

今でこそ、半島の外れの片田舎にあり、八ヶ川が造りだした小さな小さな盆地、清流と新緑に囲まれた幽玄の地に忘れかけたように大伽藍群が静座しているが、大本山当時は、時代が遡るに従って信徒をはじめ多くの人物が往来し、隆盛の極みであったという。

福井の「永平寺」を「越本山」と称したのに対し、こちらは能登の総持寺能本山」と称した程である。 曹洞宗の拠点寺であったためか、鶴見への移転には多くの信徒達から反対された経緯もあったらしい。

曹洞宗を開いたのは、道元禅師であるが、今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)は、幕府や貴族階級など時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依(きえ)を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていったという。 

この辺りにも、庶民相手とする大本山が能登の僻地へ構えたのも納得できる。
2006年2月1日、門前町は隣接する輪島市と新設合併し、新しい「輪島市」となった。


【追記】  、

平成19年(2007年)能登半島地震・・、
2007年(平成19年)3月25日9時41分58秒、日本海の輪島市西南西沖でマグニチュード(M)6.9(気象庁暫定値)の地震が発生し、門前町(輪島市)も震度6強を記録したという。 

幸い死者は無かったが、門前町地区(旧門前町)の中心商店街(総持寺通り商店街)では主要な各商店も傾き、崩れた商品がいたる所に散乱、特に160年にわたって続く造り酒屋の酒蔵も崩れ、「のれん」を下ろすという。 

避難した住民の中には、「もうこの町は元には戻らない」と焦りの声も聞かれるという。

頑張れ・・!、門前町民・・!!。


次回は、「輪島



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2012年3月16日金曜日

日本周遊紀行(213) 能登 「能登金剛」

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「旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」 <イギリスの諺>  

日本周遊紀行(213) 能登 「能登金剛」   .


ヤセの断崖
写真:能登金剛のヤセの断崖(東尋坊より高い・・?)

世界一のベンチ
写真:志賀町増穂浦の世界一長いベンチ(ギネス登録) 



気多大社から海岸道の国道249を行くべきを、勘違いで県道から七尾湾に出てしまった。
仕方なし有料道の七尾・輪島線の徳田大津インターから輪島へ向かう。 


“勘違い”で能登の内陸を行くことになってしまったので、ここで、能登の西海岸について述べておこう。 

志賀町の福浦港から関野鼻までの約29km区間は、断崖絶壁が連なる海岸線が続く。 
この辺りを「能登金剛」といわれている。 
“荒ぶる”日本海の波濤が岩を削り、浸食しながら岩塊の芸術品を造り上げている。 

岬の先端まで行くことができる関野鼻は、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台にもなった「ヤセの断崖」というところで高所恐怖症の人は足がすくむという。 

又、二つの岩が太いしめ縄で結ばれた「機具岩」は、能登二見の夫婦岩ともいう。 
高くそそり立つ「鷹の巣岩」、 更に、波の侵食により岩に大きな穴が開いた「巌門」の姿も圧巻だという。


更に近くには、かぶと岩や義経一太刀の岩、弁慶二太刀の岩などが見応えあり、「義経の舟隠」という源義経主従が奥州渡航の際に隠れ場所とされる岩棚の溝も圧巻だという。

能登金剛」の名前は、北朝鮮にある金剛山が海に張り出し、千変万化の岩礁美をもっていて海金剛と呼ばれているところから、その景勝にも優るとも劣らぬ日本の国定公園として名付けられたものという。


烈しい景勝地である能登金剛の中にあって対比され、もっとも美しい海岸といえば、「増穂浦海岸」(ますほがうらかいがん)という。 
能登金剛の北側、高岩岬に囲まれた地域で、緩やかに弧を描く海岸線が美しく、この海岸は、「日本の水浴場55選」にも選ばれ砂浜が実に美しいところという。

ここ、増穂浦の小高い丘の上に、海を見下ろす様に作られている世界一長いベンチがあり、何と長さが460mもあり、過去に1346人座った記録があるとという。 
因みに、徒歩を分速80メートルで計算すると、世界一長いベンチの端から端まで往復12分かかることになる、これはギネス・・?。 
ここからは増穂浦海岸が一望でき、特に夕日が美しく、気分リフレッシュにはよいとか。


ところで、小生が若年の頃、読書、特に推理小説にのめり込み、当初に読んだのが松本清張の「点と線」や「ゼロの焦点」などであった。勿論、その内容については全くの忘却の彼方だが・・。


ゼロの焦点」の筋、
『 北陸の金沢や能登半島を舞台に、新婚早々失踪した夫の足取りを訪ねるうちに、ヒロインの禎子が事件に巻き込まれていくというミステリー、 夫の秘密の領域に徐々に踏み込んでいく妻の疑惑がサスペンスをかき立てられる。 とともに、日本海に面した北国の12月、暗くもの哀しい風景が、この作品の雰囲気や色調を決定づけている。夫の自殺現場である能登金剛の絶壁・「ヤセの断崖」の頂上テラス(平坦地)から花を手向けに来た主人公は、そこで意外な話を語りはじめるのだった。 暗い過去を隠ぺいするための悲劇、後の名作「砂の器」を彷彿とさせる先駆的作品となり、冬の北陸の荒涼たる風景をバックに、哀しい人間のドラマがあぶり出されて行く・・』
 

又、能登半島の後頭部に相当するのが、奥能登の外浦海岸であろう。 
以前は人が近寄れない秘境と言われたが、最近になって観光用の道路が整備されつつあるようだ。 
それでも、猿山岬灯台などへ向かうには、娑婆捨峠辺りまでしか行けず、あとは遊歩道を歩むようになる。 
こちらも、海岸の景勝地であるが「雪割草」の群落原生地で有名だという。 

荒々しい日本海の風景と可憐な雪割草の花とが対照的で、観光地としては喜ばれているという。 
だが、今でも秘境の地に変わりはなく、日本の秘境100選の一つでもある。


次回、「門前町



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2012年3月15日木曜日

日本周遊紀行(212)羽咋 「気多大社・由緒と現在」

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「旅から戻ってくると、故郷の煙さえも甘く気持ちのよいものである。」
(グリボエードフ;帝政ロシアの外交官・作家・作曲家) 

日本周遊紀行(212)羽咋 「気多大社・由緒と現在」 .



気多大社神宮寺の正覚寺


気多大社が文献に初めて見えるのは「万葉集」である。 
天平20年(748年)、万葉歌人でお馴染みの越中守・大伴家持(おおとものやかもち)が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、


『 之乎路から 直超え来れば 羽咋の海 
             朝凪ぎしたり 船楫もがも
 』

(はるばると羽咋の地に赴けば、羽咋の千里の海は朝凪ぎで素晴らしい景色である。ここに船や楫(かじ)が有れば、漕ぎ出してみたいものよのう・・)


と早速詠んでいる。

本社がいかに重んじられ、後に能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。 
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、このような国家の厚遇は、北越、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではないといわれる。 

能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威は中央国家にまで及んでいたのである。
  


普通、を「」と発音すべきか「け」と発音すべきかで、両方の読み方があろうが、この辺り、北陸地方では「」と読むのが慣わしらしい、敦賀に気比(けひ)神宮、こちらは気多(けた)大社である。


「気」という字は、気になる字である・・!。 
大げさに言えば全ての生き物には気が生じていて、これが生命の基本になっていることは確かである。 
しかし、それよりも尚、自然の営み、自然現象そのものが、気の力で成り立ち、地球そのものが気なのである。 

戻して、人間同士、気が気を呼ぶ、気多で、気が多いのは困るが、合縁気縁(奇縁・・?)女性の方は気麗になって気縁を結ぶ。 


気多大社は、出雲大社と同一神であり、縁結びの神なのである。 
気多大社は女性に関する催し物もあり、昨今では、うら若き女性に大変人気があるとか。 

「超」と付くほどの由緒ある神社で、真剣に願を賭ければ気が多く受けられて、必ずや適う事請け合いである。


本殿西隣に「正覚院」(しょうがくいん)という寺院がある。
越前・平泉寺を開基した「泰澄大師」が伊勢内外宮を参拝しての帰り、夢枕の歌として


『 恋しくば 尋ねても見よ 能く登る 
            一つの宮の 奥の社へ
 』
 
のお告げを受け、かの地に神宮寺を創建したと言い伝えられる。 

その一院が正覚院である。
院は元々、千年以上にわたり気多大社神宮寺で別当寺(神宮寺)であった。 
明治初頭の神仏分離により、主要な寺院の長福院・地蔵院・薬師院などが廃退したが、ただ一つ正覚院のみが残存し、現在に至っているという。 

元神宮寺・正覚院の配置を見ると、建物はは気多大社の本殿に向かって建っているといわれる。 
本院も、他の神宮寺に見られるように、神社を支配下に置き、仏事で社宮の祭り事を行われたことを伺わせる。
  


ところで、二千年にも及ぶ歴史と伝承の聖地に、世知辛く、俗人による宮司の継承について醜い争いが生じている事を偶々(たまたま)知った。 

羽咋市の気多大社の現宮司・三井氏が不都合を起こして、神社本庁(東京)より懲戒免職を言い渡された。 しかし氏は宮司の座を譲らず、恒例の神事である豊漁や海上安全などを祈願する伝統の「御贄祭(みにえさい)」が、新旧二人の「宮司」によってそれぞれ営まれたという異例の事態になった。 つまり、8月29日付で免職となった三井氏、そして翌30日、相手宮司との対面も致さず、事務引き継ぎも行われないまま執り行はれ、又、一方新しく任命された宮司・厚見氏も初めて気多大社の神事を執り行ったという。 
三井氏は、御贄祭などの祝詞を読み上げて玉ぐしをささげた後、「滞りなく終わりました。今後ともよろしくお願いします」と十人余りの参拝者たちに挨拶したという。 一方、式典後、厚見氏は「拝殿を開けていないのが残念だ。三井前宮司には話し合いに応じてもらいたく、今後も氏子や地域住民が納得できる神社運営をしたい」と意欲を語った。 両者の相克は暫く続きそうで、古社のイメージダウンは避けられないという。
気多大社は昨年(2005年)9月、神社本庁からの離脱を表明しその手続きをとったが、同本庁側が神社規則変更内容に不備があると指摘して却下した。 石川県、文科省を巻き込んでの騒動で、現在でも裁判沙汰は続いている模様であり、神社は神社本庁の包括下に置かれているという。 若い女性に「縁結び」で人気の気多神社の混乱は、しばらく尾を引きそうだ。
尚、今年2006年に行われた「鵜祭」の鵜は、放たれた後数分後に台の上(案上)に乗ったという。 古老の見立てでは「来年は後半がよくなる」とのお告げらしい。 だが、これが裁判所の判断にどう結びつくかはどちらも予想できないと・・?。



ところで追伸ながら、2007年3月25日午前、能登半島の沖の日本海でM6.9の地震が発生した、「平成19年(2007年)能登半島地震」という。 

本震では、石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強を観測し、石川県・富山県を中心に死者1名、負傷者が279人も出している。 

電気・ガス・水道などのライフラインの寸断し、能登空港も被害を受け、能登有料道路の徳田大津IC~穴水IC間では、数ヶ所の道路崩落が生じた。 
半島北部、羽咋市周辺でも家屋の被害が多数出している。 

これは、或いは社霊を蔑ろにした、気多大社の御神霊による厄災ではなかったか・・、と思うのは考え過ぎ・・??。


次回、「能登金剛




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2012年3月14日水曜日

日本周遊紀行(212)羽咋 「気多大社」

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「旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。」  <アントニオ・マチャド>  

日本周遊紀行(212)羽咋 「気多大社」   .


気多大社
写真:気多大社の大鳥居と本殿
けた大社本殿2


千里浜を左に見ながら、柳田のインターで高速より出る。
ほぼ同時に「気多大社」の大鳥居が目に入った。 

4本の支柱に支えられ、風雪に耐えているかの如く、やや色褪せて木製の大鳥居が天を刺している。 
鳥居をくぐり石畳の 広い境内を100mも行くと、神門の奥に開放感のある本殿に達する。 

参拝礼拝・・!! 。


ご神域は、2000年以上の歴史を持つといわれるが、社殿群はともかく境内一円の自然の成合(なりあい)は太古の史を重ねていることに納得させられる。 

特に、本殿裏に広がる鬱蒼とした、ほの暗い社叢林(しゃそうりん・神社の森)は古来より「いらずの森」として、その名の如く人の出入りが厳重に禁じられてきたという。 

森は北陸地方の代表的な照葉樹林で、凡そ、3ha(ヘクタール)の自然林が茂っている。 
樹齢三百年から五百年で、古くから神域として信仰の対象となり、住民の出入りが禁じられてきたという。 


ところで先般、森の実勢調査をしたところ、強い季節風で倒木の箇所も多く将来が心配されることが判り、県内をはじめ山形、新潟、鳥取などから国天然記念物に指定されている同種の神木の種を集め植林したという。 
幼木が生育するまで最低二百年はかかるという。 

克って昭和天皇が昭和58年5月、全国植樹祭のみぎり当大社の 「入らずの森」を視察され、お詠みになった御歌。


『 斧入らぬ みやしろの森 めづらかに 
           からたちばなの 生ふるを見たり
 』 

と歌碑にある。


気多神社(きたたいしゃ)と読みそうであるが、正しくは気多大社(けたたいしゃ)と呼び習わされてきたという。  
能登一宮として知られ、国幣大社(全国六ヶ所)であり、日本四神宮(気比神宮・気多大社・香取神宮・鹿島神宮)の一つに数えられる。 
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命と同一)で、能登開発の大神と仰がれている。 


出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた「大国主命」は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせながら、地方を平定開拓するともに、美姫・奴奈河姫(ヌナカワヒメ:大国主の妻・子の建御名方命は後に諏訪の大神となる)を求めて越の国に渡ることになる。 
大国主は能登の小木港(珠洲郡内浦町)に漂着し、七尾市所口に鎮座し、(気多本宮)これより能登を開発しながら、鹿西町から羽咋の港に鎮座した(気多大社)といわれる。 この間の邑知平野(おうちへいや)の開拓を進め、後に伏木港(越中・高岡)より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。
邑知平野は、気多神社の辺りから羽咋川、七尾線に沿って七尾湾に至る細長い平野で、能登半島一の穀倉地帯でもある。


次回、「気多大社祭礼



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2012年3月13日火曜日

日本周遊紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」

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「さすらいと変化を愛するものは生ある者である。」by(ワグナー)   

 日本周遊紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」  .



千里浜
写真:羽咋市の「千里浜なぎさドライブウェイ」



金沢市を後にえしt能登を目指す。

能登入り口にあたる海岸線の「能登有料道路」を目指す。
北陸道を横切り、県道60にて海の端・栗橋(内灘町)のインターから高速道へ乗った。 
いきなり日本海が目に飛び込んでくる。 
ここからしばらくの間、左手に海を観ながらのクルージングロードとなる。


能登ハイウェイは、金沢から内灘町、そして穴水まで全長83kmを結ぶ能登半島の大動脈であり、内灘から柳田あたりまでは海岸線を、柳田から終点の穴水までは内陸部を走ることになる。 
能登一周するのであれば柳田ICで下りてR249を北上するのがベターのようである、とりあえずその柳田を目指す。


海岸線は比較的多くのインターが設けてあるようで、その中の高松町に「道の駅 高松」があった、高松S・Aでもある。 
有料道路の北向き(能登方面行き)と南向き(金沢方面行き)と別々に道の駅があるようだが、 断然お勧めなのは能登方面行きの駅の海側だろう。 

金沢方面行きが山側に位置するので眺めの良さが全然違うのである。 
こちらの駅からはすぐ海岸に降りれるようになっていて、足下にはすぐに白い砂浜が広がっている。  

もともと能登有料道路上の「高松SA」として造られ、その後「道の駅」と認定されたため、上り線と下り線の2ヶ所に「道の駅 高松」があるというチョット変わった道の駅になっている。 
「道の駅・高松」は能登有料道路からはもちろん、一般道からも利用することができるようである。 つまり、ハイウェイではS・Aであり、一般道は道の駅なのである。


落ち着いた和風ムードのレストハウスで、日本海を一望しながら時間的にはやや早いが、軽い昼食を摂る。 
一服して再び走り出すと間もなく今浜というところを通過する。 

この地は、先般、家族で北陸旅行した際に、最も印象に残った箇所で千里浜という海岸線である。
羽咋市域南部か今浜辺りは千里浜といって「千里浜なぎさドライブウェー」で有名なのである。 

家族を乗せたワンボックスカーが、道路でない波打ち際の砂浜を、否、波打ち際の砂浜の道路を走り抜けるのに、子供たちがキャーキャー言いながら感嘆してたのを覚えている。 

海岸およそ8kmの渚のドライブウェーは、車が通れる砂浜として全国的にも知られていて、それは、他の海岸の砂の粒径は1mmから0.5mmほどだが、千里浜の砂は細粒で4分の1mmほどしかないらしい。 
それに海水がしみこんで固い砂浜を作りあげ、波打ち際を自転車からバスまでも走ることができるのである。 

この道路は、れっきとした国道249号線の海岸道路なのである。 
ただここで、バイクの人は注意が必要であろう。 

千里浜の出入り口付近は砂の水分が少なくフワフワしており、タイヤを取られる恐れがあるという。 
そのうえ砂の上なのでさすがにスタンドが立ちにくく、あらかじめ板状の物を持っていく必要があると思う。 
又、渚ではバイク、車共に潮が付くのでドライブウエイから出たらスグ洗車を要するであろう。 
バイクの場合は特にエンジンむき出しだしのため、チェーンに砂が絡みつくので必ず洗車した方がいい。
 

千里浜の北側では毎年7月中頃、羽咋市主催の恒例行事「千里浜なぎさフェスタ」が開催され、この砂浜を利用した「砂の像」やその他の催しが行われる。 
周囲の砂丘で見られるクロマツの林は、飛砂防止のために江戸時代に植林されたものであり、砂浜には、ハマナスやハマヒルガオなどの海浜植物も見られる。 
遠浅の海は、潮干狩りや海水浴場としても賑やかであるとか・・!。


次回は、「気多大社



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01. 15.

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