google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

2012年5月31日木曜日

新・日本紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

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海道を行く 

新・日本紀行(16)鶴岡 「出羽三山」





樹林帯の中にひっそりと、だが豪快に建つ「出羽三山・五重塔」


出羽三山神社:「三神合祭殿」







羽越線・鶴岡駅前の中心街より真東に向かうと、羽黒町の田園地帯が広がる。 
この田園のど真ん中、羽黒山域(神域)の入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居が天を指す。羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つであることは周知だが、今日でも山伏の修験の山としても広く知られている。 

その歴史は蘇我馬子(推古天皇期・西暦626年:飛鳥時代の政治家、「馬子」であるが男性である)に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子(第一子ともいわれる)とされる蜂子皇子(はちこおうじ:聖徳太子の従兄弟)に始まるという。 

皇子は蘇我馬子の更なる魔手を逃れるため宮中を脱出して「弘海」と改名し、日本海側の由良(京都府宮津由良海岸)から船で北上し、由良の浦(鶴岡市由良海岸:どちらも「由良」と同じ名称であるが偶然か、はたまた丹後の地域名を継いだのか、などは不明)に上陸したと伝承されている。 
そして推古元年(593年)、羽黒山にたどり着きに開山したとされている、さらに月山、湯殿山を併せて開山したという。

後に、役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだといい、この蜂子皇子の苦行が発展し、転化したのが羽黒山の古修験道になったといわれる。 
平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離が実施された神社でもある。



大鳥居をくぐって神域に到ると「神路坂」と称される坂道があり、正面に「羽黒山正善院黄金堂」という古刹がある。

1193年、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平(といさねひら:相模の国・湯河原、桓武平氏の流れをくむ、鎌倉創生期の源頼朝の重臣・御家人)に建てさせたという。 
総門からは大杉林に沿って長い石段の先、朱塗りの太鼓橋を渡ると、有名な「羽黒山五重塔」へと至る。
五重塔は、「羽黒年代記」によれば創建は、平将門が寄進したという伝説もある。関東以北では最も美しい塔と言われ、第一級の国宝に当たる名建築であるとされる。

克っては周囲に多くの堂舎が建っていたが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により破壊され、この五重塔だけが破壊を免れたといわれる、あまりの美事さに破壊を免れたのかもしれない。

ただ、周囲が太古の杉林に囲まれ、湿り気が多いはずである、しかも当地は豪雪地帯でもある。長年の風雪に耐え、悪条件の中の地形に屹立していて腐食しないものかと心配もし、はたまた感嘆するのみである、国宝に指定。


この先、「出羽三山神社」までは、荘厳なまでの古老の杉並木の石段を延々と登ってゆく・・。思えば紀州・熊野、那智大社の熊野古道の「大門坂」を彷彿させるが、尤も、此方(こちら)のほうが自然の中で森閑としているようでもある。 
「出羽三山神社」の大社殿の前に額ずいた。 
社殿正面の上部には大額縁が飾ってあり、月山神社を中心に出羽神社、湯殿山神社と記してある。 こちら羽黒山の社殿は、三社の神を併せて祀る三神合祭殿なのである。

普通、出羽三山といえば羽黒山、湯殿山、月山を言う。 
湯殿山神社は湯殿山中腹、標高1500mのところに社殿をもち、月山神社は月山山頂(1984m)に風雪に耐えながら鎮座している。
湯殿山は山自体がご神体であるし、月山も山頂に社殿があるだけで神社社殿としては羽黒山だけなのである。通常は、羽黒山の出羽神社合祭殿で三山祭祀が行われ、従って、合祭殿をお参りすれば出羽三山を参拝したことになるという。
羽黒神社は、全国に200社ほどある支社の本社でもある。


出羽三山はもともと修験道の行場の山であって、修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。 修験道の実践者を修験者または山伏といい、開祖は役行者(役小角)とされている。 

因みに全国の修験道場は、江戸期・徳川幕府により京都聖護院「本山派」と京都醍醐寺三宝院「当山派」の二派に統括されるといわれるが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山(ひこさん)は特別に別派として公認されていたらしい。


神仏融合とは・・?、
古来、日本では自然の山や川を神として敬う山岳的信仰の「神道」と、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教体がある。 
所謂、神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、土着の神的信仰と仏教的信仰を折衷して、一つの信仰体系を再構成することで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも、本地垂迹(ほんじ‐すいじゃく)ともいう。

この思行によると、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変え、実体を表したもの、即ち、迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、平安時代頃から盛んに信仰されるようになった。

平安初期に中国より伝来した密教(真言、天台など)との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により集合体は禁止され、神と仏とは分離された。 
又、その後に定められた廃仏毀釈により、仏閣、寺院など関係する物などが破壊された。だが、著名な神社寺院においては、この神仏混淆の強い思想に影響され、一部はそのままの形で残った地域もある。

出羽三山の神仏習合について・・、
出羽三山に現在祭られている神々は、それぞれ出羽神社が伊氏波神[いではのかみ]、月山神社が月読神[つきよみのかみ]、湯殿山神社が大山祗神[おおやまづみのかみ]、大己貴神[おおなむちのかみ]、少彦名神[すくなひこなのかみ]などで、日本古来から崇拝してきた神々である。

奈良時代に入ると仏教流布と共に仏教者達が修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。

出羽三山においては、羽黒山神の本地体を観世音菩薩とし、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が各々定められた。
神仏習合の宗教形態として、はじめは神社の境内に神宮寺、別当寺を建てて神々を補佐するような立場であったが、次第に神々と統合し、後には祭事は全て仏式で行はれるようになった。
これらが明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いたのである。 

平たく言えば、全ての祭事事項が神式から仏式に変わった、つまり、仏が神に成り代わり、仏が神を乗っ取ってしまったのである。 
明治期の神仏分離により出羽三山は一応は神社ということになっているが、紀州・熊野三山などの比べると、多分に寺院としての性質が未だ色濃く残っているとも言える。

出羽三山では、現在も修験者や山伏が闊歩して法螺貝を吹き、社域には宿坊が並び、参拝される人々の拝礼の仕方も神式、仏式どちらでも良い感じである・・?。 
どだい、出羽三山の「山」という表現の山号(さんごう)は、仏教の寺院名に付与される修飾語の一つとされる。これは中国伝来の仏教用語で、禅宗系に所在するの寺院に「山」の名称を付けている場合が多い事でも理解できるのである。


次回、「出羽三山と芭蕉





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