google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」

2012年8月9日木曜日

新・日本紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」

新・日本紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」




天塩川河口・鏡沼海浜公園に「松浦武四郎」像と歌碑が立つ




歌碑より・・、

   『 蝦夷人の みそぎなしける 天塩川
                 今宵ぞ夏の とまりをばしる 』

     『 ながむれば 渚ましろに 成にけり
                 てしほの浜の 雪の夕暮れ 』




国道232号沿いの「道の駅・てしお」に着いた。

赤レンガの建物が印象的な静かな道の駅で、ほぼ町の中心街に位置しているようだが、手塩の町そのものが全く静かなのである。

北海道開拓の歴史は、アイヌ語で「ベツ」と言われる「河・川」から始まったといわれるが、尤も、文明の発祥、人の生活基盤そのものが、川から始まったのであるが。 

原始林に覆われていた北海道で、唯一の交通手段は川船だったのである。


天塩町は、北海道第二位の川といわれる天塩川の河口にあり、川の恩恵を存分に受けている。無論、海、川の船運を基盤として発展したものであろうが。

天塩の地名は古くから使われていて、「天塩の国」と云われ、古い文献にも良く登場している。 

明治期まで十勝、釧路、石狩などと同じように増毛から稚内あたりまでの広域を「天塩の国」と呼んでいたようで、遠くシベリア・沿海州にまでつらなる太古からの歴史を持っていたともいう。

北海道は勿論、東北北部からは大陸は目の前にあり、縄文期のころより相当なる繋がりを持ってはいたのは確かなようであり、天塩川河口の川口地区には当時の大きな集落跡があり、先住民族の遺跡が残されている。
復元された竪穴住居は千数百年前の擦文文化期(さつもんぶんか)の頃といわれ、当時の住居を模してつくられたものでである。
 

擦文文化期とは北海道特有の文化で(一部、青森県北部も擦文文化圏に含まれるようであるが)、縄文後期には本州より弥生文化が伝わり、この時期に弥生と縄文が融和混合した頃の文化をいうようであり、本州の古墳時代から飛鳥時代に相当する年代でもあると。 

縄目の模様の縄文土器に対して「擦文式土器」とは、刷毛で擦ったようなの文様の土器が登場したことによるもので、その時代は北海道と本州の関係は更に強まり、本州北部の文化とほぼ同じになったとされている。 
擦文人の集落は河川のまわりに立地していて、その集団は縄文人を祖先にもち,後世のアイヌ民族を構成した集団でもあるという。


因みに、北海道の文化の変遷をみると、縄文時代(前期、中期、後期などに分かれ、1万から2千年前)、続縄文時代(2千年前、石器・鉄器:青銅器の併用時代)、擦文時代(5、6世紀~ )、アイヌ時代(12、13世紀~ )に概ね分けられるという。



天塩町は、明治期の北海道開拓史以前から日本海、天塩川での船の往来が多かったところである。

特に、江戸期には「テシホ場所」が置かれ、交易や漁業が繰り広げられ、当時の天塩川河口には7~8百石積の船(大型和船)が行き交い栄えていたといわれる。 
その後暫時、開墾を繰り返し、次第に町としての機能を形成し、大正期には木材積載船で賑わう港町として栄えるなど、町は一気に人口を増やし市街地がにぎわいをみせることになる。

手塩の街のイメージは、やはり大河・「天塩川」に重なるのである。

天塩川(てしおがわ)は、北見山地、上川町の北に位置する天塩岳付近に源を発し名寄盆地を北上、音威子府(おといねっぷ)から天塩平野に出て幌延町と天塩町の境を西へ流れる。

しかし、海岸目前で浜堤、砂丘に行く手を阻まれ、従って、海岸線沿いを10kmほど南流した後日本海に注ぐことになる。 
長さ256kmは日本で4番目に長いが、大きな支流が少ないため、流域としては10番目にとどまるという。 
天塩川の流域を地図で追って行くと音威子府(おといねっぷ)から先の下流域の平地に至ると、いたる所に三日月湖が残されているのが判る。

特に顕著なのが幌延町の南部にある湖・沼などが歴然としている。 
「三日月湖」(みかづきこ)とは、蛇行する河川が長期の侵食などの影響により河道を変えてしまった際、旧河道が取り残されて池や湖となったものである、河跡湖(かせきこ)とも呼ばれる。  
多くの場合、この湖が三日月形となっているため三日月湖と呼ばれる。



「北海道」という名は探検家・「松浦武四郎」が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話から誕生したという。

天塩川流域に関する詳細な調査は、江戸幕府の命を受けた松浦武四郎が最初で、幕末の安政4年(1857年)6月のことであった。 

その調査記録を要約・刊行したものが「天塩日誌」であり、日誌には、それまで知られることのなかった蝦夷地最北端の内陸部の様子を詳しく観察し、川の流れや深さ、川岸の様子、自然や生き物をアイヌ語地名とともに記されていると。 

そこには、アイヌの人々の生活の様子とともに前人未踏の天塩川の自然が描かれてると。 又、武四郎はその中で、音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの家に宿泊し、「アエトモ」という長老から話を聞き「ホッカイドウ」という名の発想をしたという。 

武四郎は、アイヌの言葉を十分理解していたが、「カイナー」(男の意、カイチーが女の意)という言葉を不思議に思っていた。アエトモは「カイ」とは「この国に生まれた者」という意味で、ナは敬語であると武四郎に話した。 

武四郎はこれを元に、この国は「北のカイの道」である、つまり「北加伊道」と命名し、その後「加伊」を「海」にあて「北海道」という名が誕生したという。

音威子府村では「北海道命名の地」を宣言しており、天塩川の川辺には碑が建立されている。 又、手塩町の天塩川河口には「松浦武四郎」の像が立つ。



天塩・テシオとは、アイヌ語のテッシから由来されており、「梁」(やな:川の瀬などで魚をとるための仕掛け。 
木を打ち並べて水を堰1ヵ所に流すようにし、そこに流れて来る魚を梁簀(やなす)に落し入れて取るもの)を意味している。
これは、天塩川に自然に出来た、梁のような場所が数多くあり、天塩川をテッシ・オ・ペツ、魚を捕獲する梁のようなところがたくさんある川という意味からから転訛したといわれる。


次回は、最北・「稚内




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