google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行 小樽 「小樽運河」

2012年8月24日金曜日

新・日本紀行 小樽 「小樽運河」

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 新・日本紀行 小樽 「小樽運河」 



小樽
「小樽運河」




余市から国道5号線にのって「小樽」へ入り、いきなりあの有名な「小樽運河」へヒョッコリ出た。

ここは小樽でも最大の観光スポットであろう、好天でしかも今日は気がつけば日曜日(平成16年9月26日)とあって大層な人出である。 

以前、「冬の小樽」を訪れた時、小樽運河を中心とした界隈で、雪の路端に小さなキャンドルを灯した「雪明りの道」を、ソゾロ歩きした幻想的な景色を思い出した。


小樽運河で顕著なものは、何と言っても向こう岸に並ぶ古き「倉庫群」であろう。

当時は、沖合い海上に停泊していた船舶から、積荷の揚げ降ろしを艀船(はしけ・荷役作業の小船)にて運河を通じ、これらの倉庫へ出入りしていたのである。
現在これら倉庫群は運河食堂、工芸館や各種観光施設となり、周辺は散策路やガス灯が整備され、小樽の一大観光スポットになっている。

「小樽運河」とその周辺地区は、1996年に「都市景観100選」を受賞している。 因みに、景観100選には道内では「札幌・大通り」、「函館・西部地区」など5個所程らしい。 




ところで、この「観光運河」は実は半ば偶然の産物らしい。

当時の運河は川幅(実際は海である)は今の倍もあり、札幌をはじめ北海道の海上流通の拠点として多いに賑わっていた。
しかし港湾が発達するに従って、この「運河方式」は衰退してゆき、次第に無用の長物になっていった。 
当局は埋め立てを計るが、市民団体の反対もあって、なんとか公園として一部を残したという、これが現在の「小樽運河」である。



歌にも唄われる「ロマンチック小樽」であるが・・、

小樽の町の歴史は、北海道開拓の歴史とほぼ並行するもので、特に江戸末期から、明治、大正期、昭和中期にかけては、真に北海道の経済産業の中心地であって、「文化遺産」などが豊富にあるのは北海道において函館と江差そして、小樽以外にはないという。

江戸中期に、松前、江差方面ではニシンの魚影が姿を消し、回遊して其の中心を「タカシマ」、「オタルナイ」へと移っていった。 

回遊の移動と共に、松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになり、以来、昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まったと言える。


松前、江差の出稼ぎ鰊漁夫は、最盛期には、寝る暇も、食べる暇も、用を足す暇すらない状況になり、4ヶ月間の給金は現在に換算すると150~250万くらいの悪くない稼ぎであったという。 
その間、「網元」の利益は計り知れないものがあり、得られる利益は膨大なものとなったという。 

ニシン御殿」と言えば誰でも知っているように、豪華絢爛な建築物として知られ、高島、祝津地区のニシン御殿、青山別邸などが、栄華の一端が伺えるのである。 しかし、小樽も同様で、明治27年の大豊漁以来、次第に漁獲を落として、昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和20年代には激減、30年代以降ニシンは全く姿を消してしまったという。

小樽の鰊漁が盛んになると同時に、日本海には、蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれた。 この船は別名「北前船」と呼ばれ、大阪から酒、木綿、砂糖、塩などを積み、日本海にまわり敦賀で縄、ムシロ等のニシン漁用具を、新潟、酒田で米、白玉粉を積み込み1ヶ月から1ヶ月半で小樽に到着した。 
帰りは、カズノコ、サケ、ニシン、昆布、ニシンカスなどを積み込み大阪へ帰還した。 年一回往復の厳しい航海だが、得られる利益は莫大ものがあったという。 
だが、「北前船」と呼ばれた弁財船は和船のため、構造的に沿岸航海向きであり、速度も遅く日数がかかったという。

明治期には、次第に西洋船が導入されはじめ、しかも増加していく。 
その後、小樽、東京、函館の間に定期航路も開設され、物資だけでなく人的移動も急増していった。



その頃、かの裕次郎の父・石原潔が山下汽船という船会社勤務で、1937年(昭和12年)に転勤で小樽に引っ越してきた。 

小樽の港に「石原裕次郎記念館」があるのは、裕次郎ファンならずとも周知であるが、裕次郎3歳のときで、当時、小樽では開道70年北海道大博覧会が開催されていた頃であった。

石原氏は、樺太から木材を切り出して、船で小樽に持ち込む仕事を監督していた。 
ノンキャリアの叩き上げで剛胆な男であったという彼は、海運業で稼いだ給金は死ぬまで女房・子供に贅沢をさせたといわれる。

慎太郎19歳、裕次郎17歳の時に亡くなったという・・、享年52歳。



小樽が幸いしたのは、ニシンは全く来なくなった時期に併せるように、物資の流通量が急増してきたためであった。 
明治30年頃には、積み降ろしの施設として運河方式が検討された。 
運河と聞けば、普通は陸地を堀込んで作っていくが、小樽の場合は海岸から数十メートル隔てて埋め立てをし、水路を造っていくという方法で作られている。 大正12年12月には小樽運河が完成している。

最盛期には、艀(はしけ)400隻以上運河を航行するという混雑状態であったが、逆に、効率が落ち、前述したが港湾築港にともなって、昭和の戦後には無用の長物になってしまったのである。

物流量が増え船舶の重要性に併せて、小樽は本格的な鉄道建設に取りかかり、明治13年に小樽-札幌間が日本では三番目として鉄道が開通している。 

新橋-横浜間がイギリス式が採用されたのに対し、北海道はアメリカ式であり、アメリカ西部開拓と同様な牛よけのガードが付いた機関車が走ったという。 
輸入された2台の機関車に「義経」「弁慶」と粋な命名がされたのは、アイヌ達を意識した開拓使の心意気であったのだろうか。 

小樽-札幌間35.9kmを、3時間かけて走り抜けるのだから、随分のんびりしたものであるが、当時としては驚くべきスピードであったに違いない。



函館本線の小樽駅前通りを港へ向かって坂を下りていくと大通りにぶつかる。 
この交差点より、日銀小樽支店までの一帯は「北のウォール街」として昔から呼ばれていた。 

その名の通り、日銀小樽支店、三井銀行、安田銀行、第一銀行、拓銀、道銀をはじめとする銀行建築が並び、三井物産、カネタツ鈴木、三菱商事などの商社、日本郵船、大阪汽船、山下汽船の運輸関連などが軒を並べ、北海道一の経済繁栄を誇っていた。

因みに、道都である「札幌市」も同様な市街を形成していたが、そのほとんどは近代化され、今、当時の姿で残っているものは数えるほどしかない。 
小樽の場合、それらの建造物が、その時代のまま殆どが現存している、という点で驚異的であるという。 戦後、国際貿易港としての役割を終え、北海道経済の要は札幌市へ移ると、本州資本や大手銀行は次々と引き上げ、ほとんど残るものはなかった。

しかし、これらは遺産として数多く残され、「小樽」は今や、これら遺産を含めた「遺産観光都市」として、多くの人々を呼び寄せているのである。



次回は、「雄冬岬と神居岩温泉




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