google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(129)東京 「桜田門外の変と井伊直弼」

2014年2月4日火曜日

新・日本紀行(129)東京 「桜田門外の変と井伊直弼」









 新・日本紀行(129)東京 「桜田門外の変と井伊直弼」 



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井伊直弼・・、

徳川譜代の四天王といわれる酒井、本多、井伊、榊原のうち、井伊家はその筆頭とも言われ、江戸期には近江・彦根藩 35万石の譜代大名となっている名家である。 

その彦根藩の第13代藩主が井伊直弼である。 
藩主の十四男として生まれた直弼は、17歳から32歳頃までの15年間を部屋住み(次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者)として過ごし、この間、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らしていた。 
この頃和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していて、あだ名を「チャカポン(茶・歌・鼓)」とか囁かれたれらしい。

ところが兄弟達の不慮の死去により家督を継ぐことになり、第13代藩主・掃部頭(かもんのかみ)となって急遽江戸へ遷任する。

隣国の国情や外国事情を多少でも知っている直弼は、アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには既に開国を主張し又、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福(よしとみ)を推挙、一橋派と対立する。

その後、安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂を将軍継嗣に決定する。




大獄と桜田門・・、

大老の強権をもって「将軍継嗣問題」、「条約調印問題」などの懸案事項を強引に解決しようと日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印、将軍継嗣にも決着をつける。しかし、水戸をはじめとする攘夷急進派達はこれらに徹底的に反対する。

大老・直弼は懐刀・長野主膳を攘夷の本山とも云われる京都に遣わして、尊皇攘夷派の調査や裏工作を指示していたが、結果、過激志士達の処罰を進言する。 
直弼も直ちに幕府政策における妨害となる思想や行動、幕府の秩序を乱す行い、京都朝廷に擦り寄る反幕派や水戸密勅事件(天皇が水戸へ直接に勅諚を下した)の水戸側関係者に対して一斉取り締まりを行い、不貞の輩は処罰して一掃を行う事を決定する。 所謂、「安政の大獄」である。

大獄の結果は、橋本左内(越前藩士)、吉田松陰(長州藩士)、梅田雲浜(小浜藩藩士:尊攘志士)などの刑死、又、水戸の徳川斉昭、一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城、山内豊信など各藩主、川路聖謨などを蟄居、謹慎にした。


藩主らを謹慎させたことに更に猛反発した水戸藩攘夷過激派は脱藩して浪人になり、独自に大老襲撃を断行することを決め、薩摩からは有村が一人加わった。
そして遂に当日の雪の朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした後、外桜田門へ向かうのである。

藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した。
井伊家には前もって警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかったといい、更に当日は季節外れの雪で視界は悪く、襲撃側には有利な状況だった。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが全くの想定外で、彦根藩側の油断を誘うことになる。

合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。雪の中、彦根藩士たちは柄袋(刀の柄にかぶせる袋、一般には旅行・雨天などの時に用いる)が邪魔し不利な形勢だったが、二刀流の使い手もいて襲撃者たちをてこずらせたが、次第に護る者も居なくなり、直弼が乗っていると見られる駕籠に向かって次々と刀が突き立てられた。

さらには有村次左衛門(ただ1人の薩摩藩士)が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出し、有村が発した居合いで首は鞠のように飛んだという、享年46であった。

襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事で、一連の事件の経過と克明な様子は、狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)などにも鮮やかに描かれているという。

井伊大老が断行した「安政の大獄」は、結果として幕府のモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因ともなったとも言われてる。



『大老』から・・、

井伊家の上屋敷のあった憲政記念館の北部隣に「国立劇場」がある。
奇しくもこの劇場で2008年の秋口、中村吉右衛門が主役で井伊直弼役の題して『大老』が、歌舞伎で演じられていた。 
小生も観劇して感激したが、一心に国政を担うことになった直弼の波乱の生涯を、妻や家臣、敵対する人々とともにダイナミックに演じられていた。 

そして最後の幕では・・、
”降りしきる桜田門外、水戸の浪士たちが登城する直弼を襲撃、駕籠に留まった直弼は、『大義をあやまるな・・!!』と浪士たちに叫んで、凶刃に倒れる”


次回、維新前夜の「江戸城







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