google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 1月 2014

2014年1月30日木曜日

新・日本紀行(129)東京 「江戸城とお茶壺道中」








新・日本紀行(129)東京 「江戸城とお茶壺道中」



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http://www.p-albion.jp/dp/1110/img/1023daigarahaiti_4.jpg
将軍献上の御茶壺



大名格式の「お茶壷道中」・・?、

甲州街道では大名行列にも劣らぬ大行列があった。
お茶壷道中」というのがそれで、幕府に献上される「京・宇治の茶」を、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入り江戸に向かった。

御道中は将軍通行と同じ権威をもち、この道中に行き当たったら、たとえ大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。 


庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・」というのは、どこかで聞き覚えがある。 
このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間といい、ほぼ江戸時代を通して続いていたという。
新宿・百人町を過ぎた辺りから「下にー、下にー・・、」と掛け声も一段と大きくなり、正面「半蔵門」を通過した行列は、やがて西の丸である将軍世継ぎの住居居間か大奥へ運ばれたのかも知れない・・?、

因みに、「お茶」というのは、昔は貴重な飲用物であった。
織田信長などの戦国武将は「茶が万病の薬」であることに気づき、武将の為の戦の重要な飲み物として「お茶」を大切に扱い、それが更に発展し利休や文化に造詣のある武士たちが茶道という作法を作り、「お茶」に権威付けしていた。
そして江戸時代には鎖国という特殊な環境から、益々日本文化の頂点として「お茶」が花開いていく。

御茶壷道中」は、江戸初期の1632年(寛永)に三代将軍・家光が始めたとされる。
この頃の「お茶」は、武将の為の重要な飲み物で、武士以外の人は特別な事情が無い限り、お茶を飲む事は出来なかった。
つまり「お茶」はお殿様だけの飲み物だったのである。

そのため「御茶壷道中」の「お茶」に、大名行列と同じ権威付けをし、大名でもないのに一般庶民は御茶壷に頭を下げ、一度抜かれれば二度と追い越せない事になっていた。
これには庶民は大変不満だったようで、ご存知の「わらべ歌」に残っている「茶壷に追われてどっぴんしゃん」というフレーズは、この「御茶壷道中」を皮肉った一般庶民の抗議の歌ともいわれる。


この童歌は誰に習うこともなく覚え、掌を丸めて遊んだものです。
そしてそれは私から娘に伝わっています。でも改めてその意味を考えるとなんのことやら分かりません。

「胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。 お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。 そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。

ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。」ということらしいです。



次回は、「江戸城炎上








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新・日本紀行(129)東京 「半蔵門と甲州街道」






新・日本紀行(129)東京 「半蔵門と甲州街道」







江戸期と現在の「半蔵門」

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江戸城・表門の大手門に正対する「半蔵門」の曰く因縁、

東日本・前編の「甲州街道」でも述べたが、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。 

名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。

立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。



天正10年(1582年)5月、徳川家康は駿河国拝領の礼のため織田信長の居城・安土城を訪れていた。
そして6月2日、祝賀を終えた家康は帰路、堺で遊覧中に京都で起った「本能寺の変」を知ることになる。 

信長と義兄弟の間柄にもあった家康は、当然、光秀の襲撃の対象にされていた。
この時の家康の供は、小姓衆など少人数だったので極めて危険な状態となり、狼狽した家康は感極まって信長の後を追おうとするほどであったという。 
この時、側近の本多忠勝に説得された家康は、服部半蔵の案内と護衛を受けて伊賀越えを決行し、加太越(現在の鈴鹿峠)を経て伊勢国から海路で居城である三河に向かい、かろうじて戻ることができた。

服部半蔵の見事な采配振りを高く評価した家康は、後に半蔵を伊賀同心(甲賀同心)として幕府警護のため江戸に出府(幕府の所在地たる江戸に出ること)を命じることになった。


甲州街道は江戸城・半蔵門に直結していて、一般の街道基点である日本橋には繋がっていない。
現在も今の国道20号線、つまり「甲州街道」がこの城門に直結しているのである。

それは何故か・・?、

家康は江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 
江戸と各城下町を結んだ街道造りもその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。 
日本橋から京都の三条大橋に至る最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。
五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられたことは周知である。



その「参勤交代」であるが・・、

沿道には東海道には145家日光・奥州街道には41家中山道には30家の各藩があった。
では甲州街道では何家の大名が使ったか・・?、 実は三家だけであった。

この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、それに3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。
しかも、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。

甲州街道を進んでいくと、御存知あの「東京・新宿」(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)がある。 そのすぐ北側・新大久保辺りに「百人町」がある。 
更に進むと八王子には「千人町」があり、その後、山梨・甲府城につながる。 


甲府城は武田家亡き後徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり徳川幕府が治めている。
つまり、甲府は徳川の領内のようなものであった。

因みに百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所、千人町は、千人同心(治安、警察の事をつかさどった役人:郷士身分の幕臣集団)が住んでいた場所である。
その訳は、もしも江戸幕府に事変が発生した場合、将軍は服部半蔵の部下に守られながら甲州街道を進み、そして百人鉄砲隊に護衛され、更に千人の同心に守られながら幕府直轄の甲府に逃げるのであった。 
つまり、甲州街道は軍事用の目的があったのであり、甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていたという。

次回、「お茶壷道中」




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2014年1月29日水曜日

新・日本紀行(129)東京 「江戸城城郭」(Ⅱ)







 新・日本紀行(129)東京 「江戸城城郭」(Ⅱ) 




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http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/62/eb/momonakai/folder/566975/img_566975_18033678_0?1291533104
現在の皇居の一角。
左側の高い方が本丸。左手前に富士見櫓。左奥に天守台が見えている。
右側が二の丸。現在は、宮内庁の施設が多い。





因みに、参勤交代で江戸城へ参じた各大名などによる本丸までの登城コースとしては、大手門⇒下乗橋⇒三の門⇒中の門⇒中雀門⇒玄関⇒本丸と、各橋を渡り各門を経て辿ることになる。

大名により異なるが、ランクにより大手門・下乗橋前で下馬(駕籠や馬から下りる)し、武家最上位の御三家でも中の門までで、玄関にまで乗り物を横付けできたのは朝廷からの勅使だけだったという。 

普通は大勢の家臣を持つ大名でも、付いてきた供の数も各門で減らされ、最終的に玄関から先は藩主か名代一人になったという。



城内を囲むお壕、所謂「内堀」は概ね現存するお壕で、日比谷門、馬場先門の在る日比谷壕から大手門、竹橋の竹橋門、武道館の在る田安門、千鳥が淵、半蔵門、桜田壕の桜田門などがある。 

一方、更に内堀から大名屋敷や町人その他の屋敷を取り囲む「外堀」は、東は江戸湾に面した浜御殿(浜離宮)から隅田川の両国、浅草、ここより山手線に沿った神田川が当時の外堀で、秋葉原近くの筋違御門、水道橋の小石川御門、飯田橋の牛込御門、市谷の市ヶ谷御門、四谷御門そして赤坂御門、溜池から虎ノ門、新橋に至るルートである。


又、この外堀には御門のほかに、三十六見附(みつけ:数の正確性は疑問)といわれる、所謂、敵の侵入を発見し、防ぐための構築物、見張り番所の城門がある。

現在でも「牛込見附」、「市ヶ谷見附」、「四谷見附」、「赤坂見附」の名称などは今も残っているのは周知である。


次回は、その「半蔵門




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新・日本紀行(129)東京 「江戸城城郭」





 新・日本紀行(129)東京 「江戸城城郭」 








江戸城内堀と天守閣の想像図(資料)





江戸城は、元は千代田城と呼ばれた、

大田道灌築城(前回記載)の江戸城は、後に北条氏(小田原・北条氏綱以降)の支配下となり、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅びると、徳川家康の居城となった。
江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあり、別名は「千代田城」ともいい、江戸幕府の最高政庁であった。

家康公が初めて江戸城に入城した時は、城といっても名ばかりで、形ばかりの石垣を築いた簡素なもので、城自体も屋根は腐り雨が降ると天井から雨水が落ちるという。
あまりの荒廃ぶりにビックリしたそうである。

その後、栄華を誇った江戸城は、徳川家康、秀忠、家光の三世代にわたり諸大名の天下普請により30年をかけて築かれたといわれる。
完成時の江戸城は、五層六階(地下室もあった)の高層で約60メートルの高さがあり、当時の日本最大の木造建築物であったという。

参考までに、当時の城は大阪城の倍の面積があり、将軍様のお成りになる天守閣としては空前絶後の威容を誇こったとい。
総構えとしての全体の面積も、世界最大を誇る城郭であったといい、主な城郭は、本丸、大奥(中奥、表向)、二の丸、三の丸、西の丸、紅葉山(家康を祀る東照宮をはじめ、歴代将軍の霊廟がつくられていた)などである。

次回も、江戸城郭



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2014年1月27日月曜日

新・日本紀行(128)千葉 「千葉神社」





 新・日本紀行(128)千葉 「千葉神社」 



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千葉神社


http://granpartita.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/05/30/002.jpg
千葉・寒川神社







千葉市繁華街中心、千葉駅東方に妙見様と言われる「千葉神社」がある。
初め、千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立されたもので、千葉氏宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、宗家の相続元服は代々この寺で行われたという。
また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていたという。

江戸期までは、真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって千葉神社となり、本尊も祭神:天之御中主大神(アメノミナカヌシノカミ:古事記でいう天地創造の神で、天孫降臨以前の高天原の最初の神とされる)に改められた。 
ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年、神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が「妙見信仰」として祀られている事には変わりがないという。

妙見様」とは妙見菩薩のことで、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩で人の福寿を増すといい、特に、眼病平癒を祈る妙見仏の本尊として広く信仰されているという。



千葉市内のもう一社:上総の国の「寒川神社」についても触れておこう。 我が相模の国(神奈川)の一宮である寒川神社とは兄弟神に当たるからである。

千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。
相模の寒川神社が元宮であろうといわれているが実際には不明だとか、元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神に祀っている。

天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めている。
尚、「寒川神社」とはどのような神社なのか・・?これらの詳細は私論を含めて「日本周遊紀行:西日本編」の「茅ヶ崎:寒川神社」の項に記載いたします。



更に、千葉についてだが・・、

戦国末期、豊臣秀吉が天下を統一すると、関東の地を徳川家康に与えている。
次いで家康が江戸に幕府を開くと、両翼とされる相模の国同様、「房総・千葉」は江戸のおひざ元として、経済的にも軍事的にも重要な地になった。 
幕府は、当地に外様はもちろん譜代の藩も置かず、天領、旗本領として直轄支配していた。
こうして「千葉」は江戸幕府直轄地として発展し、現在に至っているのである。

次回は大東京、お江戸の象徴・「江戸城

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新・日本紀行(128)千葉 「千葉城」






 新・日本紀行(128)千葉 「千葉城」 



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http://otakeya.in.coocan.jp/info01/inohanazu.jpg




四層五階の「千葉城」って実際に在ったの・・?

今の千葉市に根拠を持った「千葉城」(別名、亥鼻城・いのはなじょう)は、源平争乱の時期、常胤の父・千葉常重によって築城されたといわれる。

当時の千葉城は都川の下流、東京湾に臨む「亥鼻丘」(千葉市亥鼻:いのはな)に築かれ、西は絶壁、北は都川が自然の水堀となり、南は細長い侵食谷、東は台地が続く天然の要塞であったという。 

だが、城郭としての天守や石垣はなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した典型的な中世期の城郭であったという。


その千葉城跡の遺構は今はほとんど残っておらず、土塁や堀切の一部にその面影を留めるのみであるという。


尚、亥鼻山の北側の麓には史跡・「お茶の水」という井戸がある。

千葉氏の祖・平良文(平安中期の武将、千葉氏を含む坂東八平氏の実質的な祖とされる)の子、忠頼が生まれた時にこの泉が湧き出しと伝えられ、以降、千葉氏は代々この水を産湯としたと伝えられる。

源頼朝が千葉城に立ち寄った時、千葉常胤はこの湧水で茶を献じたという。



現在、亥鼻丘の千葉城跡は「文化の森」と呼ばれ、市民の憩いの場所になっていて、園内には昭和42年に四層五階の天守が小田原城を模して築かれたという。

天守の前には千葉常胤の銅像が建つ。 


しかし、今の模擬天守閣は、もちろん鎌倉から室町期においては、このような天守閣がありようはずもなく、復元ではなく近世の天守閣に擬した創作物であるとされている。

周辺には、北東の台地上に千葉大医学部があり、台地続きの南側に千葉県文化会館、千葉県立中央図書館、千葉城の西約400mの低地には千葉県庁などといった公共施設が多い。

ただ、前述したように、元々の千葉城は天守閣など持たない中世期の木造の平城であった。 従って、この四層五階の「千葉城郭」に関し史実とは異なるのではないか・・?、
これは行政による偽造であり、捏造だと一部有識者が問題提起しているようである。

又、歴史の偽造を平気で行う当局・千葉市も問題であるが、それを批判しないで持ち上げるマスコミ・新聞もおかしいのではないか・・?、という批判も相次いだと言われる。

観光目的の見世物であり、似非物のお城だとすれば・・、これは一体どうなるのだろうか・・?。

次回、千葉神社






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01. 15.

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