2015年1月31日土曜日

新・日本紀行(18)相良牧の原 「お茶と田沼意次」


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 新・日本紀行(18)相良牧の原 「お茶と田沼意次」 





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牧の原台地を新緑の茶畑群が一面に覆う。柱は防霜ファン





「牧の原台地」


大井川を渡り吉田町から榛原町、相良町を行くと、右手方向の高台に沿って緑の絨毯が敷き詰められている。 茶畑である。 
日本国内の約半分の生産量を占める静岡県の内、およそ7割が標高150メートル前後の、この「牧之原台地」で作られているという。


明治維新の時、幕府の瓦解で食の糧(かて)を無くした幕臣が大挙して静岡に移住し、そのなかで元新徴組隊士200人余が隊長・中条景昭とともに荒地の牧の原台地に入り開墾したという。 
それに続いて大井川渡しで失職したの川越人足達数十人も加わった。 
開墾は苦難の連続で脱落者も出たが、やがて近隣農民達にも開墾を促され、牧の原台地は東洋一の大茶園に変貌した。


ここでチョットお茶談義を・・、

お茶の銘柄で「やぶきた」とよく言われるが、これは米のコシヒカリ・ササニシキと同じ品種の名称で、全国で8割以上が「やぶきた」品種を栽培しているという。 

よく言われることだが・・、
緑茶」とは製造工程で高温の蒸気を当てるため、葉の中の酸化酵素が働かなくなり、鮮やかな葉緑色がそのまま残ることから言われる。
ここが酵素で酸化発酵させる紅茶やウーロン茶との違うところであり原料は同じらしい。 

緑茶には、旨味成分としてアミノ酸のアルギン酸やテアニン、渋味成分のタンニン、カフェインなどを含み、栄養成分ではビタミンCとEや各種ミネラルを含み、滋養飲料として重宝がられる所以であろう。 

製法では「深むし茶」、「浅むし茶」と比較されるが、深蒸し茶はその名のとおり茶葉を蒸す時間が長いため苦味や渋味が柔らかになって飲みやすい。 いわゆるマイルドな味わいのお茶をいう。 
蒸し時間の短い若蒸し製法(浅むし茶)は、お茶の葉の質がストレートに出る製法で、長時間蒸すことにより香りと渋味を消してしまった深蒸し茶にくらべ、香りや甘みが増すという。

最近の消費者は渋味を嫌い、また忙しいため、お湯をそそぐとすぐに出る深蒸し茶の需要が高くなっているともいう。
しかし、丹精込めて育てた山のお茶のすばらしさを味わうには、若蒸し茶が最適だとも愛好家は言う。



榛原町の海岸は遠浅の砂浜が延々と続き、砂丘には松林が品良く連続している。

特に「静波海岸」は良い。
100メートル位沖まで歩いていけるほど遠浅で、その名のとおり波静かな静波海水浴場は逸品である。
水質も良く、規模も東海一の静波は全国的にも知られ、毎年夏には100万人前後の海水浴客で賑わうという。

元々水好きな小生、子供が幼少の頃はこちらへ数回訪ねたことがある。 
車にテントを載せて、東名の吉田インターからは一投足で「静波オートキャンプ場」へ着く。
松林に囲まれたオートキャンプ場は設備も良く整っていて、実に勝手が良かった。 そして、なにより海は目の前にあった。 
よちよち歩きの赤ちゃんでも安心して、波打ち際で遊ばせることが出来るのは、ここぐらいだろう。




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相良の街と田沼意次公






相良(さがら)の街へ至る。 

ここは善と悪との評判高い、大名「田沼意次」(たぬま おきつぐ)の城下街である。
紀州藩主・徳川吉宗が将軍として江戸に上がった時、300石の旗本として御供をした父意行(もとゆき)の子として江戸で生まれている。 
八代将軍の徳川吉宗に登用され、九代将軍家重、十代将軍家治に仕える。
遂に老中を兼任するまでに至り、相良藩5万7千石の大名に取り立てられた。 

このころより「田沼意次」を中心とした幕府の閣僚は、農業より商業を優先した数々の政策・幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれ権勢を振るう。
町人・役人の生活が商業金銭中心のものとなり、その為、贈収賄が横行したとも言う。 
「意次」も政策実行のため「袖の下」を利用し、所謂「ワイロ政治」と呼ばれた。

この時代、天災、飢饉、疫病が多発し、江戸商人への権益を優先したことを理由に賄賂疑惑を流され、田沼政治への批判が高まる。
更に、急激な改革が保守的な幕府閣僚の反発を買い、将軍家治の死亡後に遂に失脚することになる。 失脚後は蟄居を命じられ、領地も没収される。

次の松平定信(陸奥・白河藩主)の時代になって「倹約政策」が実行され、賄賂や庶民の贅沢は一切禁じらた、「寛政の改革」という。

1758年に田沼意次が相良藩主となり、12年かけて築城した相良城は、三重の堀をめぐらし、建物も「けやき」づくりで、遠く海上からも眺められ、まるで竜宮城のようであったと言われている。 
「相良」における藩政は、下町の整備、産業の奨励、飢饉対策や相良湊の整備など地元民には多いに貢献している。

 『 白河の 清きに魚も 住みかねて 
          もとの濁りの 田沼恋しき
 』 

現代ではかなり問題であるようが・・!!


次回は、「御前崎






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2015年1月30日金曜日

新・日本紀行(17)焼津 「日本武尊と大井川」 


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 新・日本紀行(17)焼津 「日本武尊と大井川」 






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http://1.bp.blogspot.com/-B6GPmsD3Pcs/T0tWDCPPbCI/AAAAAAAAQ2E/CD13f415PTU/s1600/IMG_4127.JPG
日本武尊所縁の地・焼津に鎮座する焼津神社




焼津は「日本武尊」伝承の地

焼津へ到達した。 
昔から全国一遠洋漁業の盛んな街であり、焼津漁港の全水揚げの6割がカツオ、3割がマグロといわれる。 
江戸期には焼津産の鰹や鯛を駿府城に隠居していた徳川家康にも献じたといわれ、所謂、駿府城御用達でもあった。


焼津は静岡市との境に「東海の親不知」とも言われる駿河湾に面した深海湾が、険しい大崩海岸というリアス式海岸を形造っている。
この険しい地を、日本坂トンネル(1979年7月、トンネル内で発生した事故火災により、数十人の死傷者と170台の車が延焼したことで有名)を抱える東名高速やJR、国道がひしめきあっている。

それとは対照的に南側には、大井川の扇状地である志太平野が焼津の町・港を形成している。
この様な特殊な海岸地形が、昔から漁業が盛んだったともいわれる。



JR焼津駅の南西約1kmに「焼津神社」が鎮座している、祭神に「日本武尊」(ヤマトタケル)を祀っていて、この地はその伝説の地でもあった。

古事記における日本神話では日本武尊の東征のとき、この地の国造(くにのみやっこ:古代の世襲の地方官)が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち陥れようとした。 日本武尊は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで熱田神宮の神体である)で周囲の草を薙ぎ、向火(迎え火:山火事などを抑えるのには有効といわれる)を放って難を逃れたと伝える。 
その様相が烈火のように見え、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名されたといわれる。

又この後、この剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と命名されたとされる。
尚、日本武尊の東征の様子は、東日本編の「千葉・木更津」の項で記載してあります。
千葉・木更津URL::http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-16-5.htm




 http://onakasuitakibun.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_9c7/onakasuitakibun/IMG_0797-fbccb.JPG?c=a1



http://www.city.yaizu.lg.jp/g07-006/images/skyview_mtfuji_dropshadow.jpg




意外と水量が少ない広大な大井川河口付近。(河口に一番近い大平橋より)





市内を過ぎると、道は地方道(県道)31号を行くようになる。 石津辺りの松並木が実にいい雰囲気を造っている。 
大井川町の海岸部は、大井川河口のデルタ地帯といえる見通しの良い平坦地が続く。
その大井川の港を迂回して河口に一番近い「大平橋」を渡る。

広大な河口は砂州と水流の部分が半々ぐらいであろうか、橋の長さも2kmに及ぶようだ。 
大井川は,3,000m級の山、南アルプスを源流とする大河であり、日本でも有数の急流河川として知られる。   
だがこの辺り、広い川幅の河口の割には比較的水量は少なく見受けられる。 渇水期でしかも上流に多くのダムが作られているせいもあろうか。

しかし、昔は違っていたとよく言われる。

  『 箱根八里は 馬でも越すが、
           越すに越されぬ 大井川
 』

といわれるように、往時は東海道を基点に上・下流の遠方まで橋は架けられていなかった。


大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。
流域の平均年降水量は3千mmと多雨地域に当たり、古くから水量の豊富な河川であった。 
加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にある為土砂流出量も多く、広大な河原を形成している。 
中流部は「鵜山の七曲り」に代表される大蛇行地帯でもあり、こうした特徴的な河川形態が大井川を国境として利用され、駿河国と遠江国の境界線であった。 
ただ氾濫により度々流路が変わるため、紛争の原因にもなりやすく、徳川家康や武田信玄の対立の導火線になったといわれる。

江戸時代には江戸防衛のために架橋や渡船が禁じられていたという。 
そのため人や馬の背に乗せて旅行者や荷駄を渡河させる川越(かわごし)が行われた。これによって、東海道でも1,2を争う難所とされ、増水の際は川留めとなった。



慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東海道筋の大名は秀吉の恩顧に反し、揃って東軍・徳川方に付き、その功あって戦後は山内一豊は土佐へ加増転封されたのを始め、堀尾吉晴(ほりお よしはる:豊臣政権三中老の一人、出雲松江藩)や中村一忠(秀吉重臣・一氏の嫡男、伯耆米子)等の諸大名は西日本へ転封となった。 

その後は、東海道筋は天領・親藩・譜代(徳川家近臣)の大名で固められ江戸の防衛に当っていた。 
大井川に関しては、当時平均水深が80cm余りあり急流であったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たす為、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされたという。 
この為武家大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河する川越(かわごし)が行われた。
こんなことで、大井川を渡河する拠点の宿場町として「金谷」等が発展したという。


この河口上流・東海道線に「金谷」の駅が在る。
名物、大井川鉄道のSL列車が大井川に沿って「千頭」まで上る。 SLの郷愁を感じつつ、大井川の清流と広大な川根茶の畑を眺めながら、秘境・寸又峡の景観に触れ、温泉に浸かる。 
2,3度訪れたことがある良き旅の思い出であるが、尚、千頭駅からさらにアプト式鉄道井川線(スイスで生まれた、歯車を使って急坂を登る特殊鉄道で、2本の線路の間に歯車用のレールを付けたもの。急な坂を専用機関車を連結し力強く登って行く)で接阻峡温泉駅そして南アルプスのふところ深く「井川」まで延びている。
秋の紅葉シーズンに是非訪れたい処である。


次回は「牧の原、御前崎







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2015年1月28日水曜日

新・日本紀行(16)静岡 「駿府と家康」


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 新・日本紀行(16)静岡 「駿府と家康」 





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http://www43.tok2.com/home/yumc/photo2/ike_23_8682.jpg
駿府城と徳川家康公像(駿府城本丸跡碑)





駿府・「久能山と家康」

再び国道150を行くことになる。 
右手の山裾、丘陵地にはビニールハウスが毀れんばかりに並んでいる。 
イチゴハウスである。

久能は石垣いちごの名産地であり、この街道、通称「いちご街道・いちごライン」と呼んでいる。 
今年(2005年)の早春、孫の家族と一緒に当地へ来てイチゴ狩りを行なっていて、「ストロベリーフィールド」という農園を訪れている。 
後で知ったのだが、この農園は、昭和初期より皇室御用立てであり、けっこう文化人らが来園していたらしい。 特にヘレンケラー女史(米国の世界的な教育家・社会福祉事業家)が来園していたことはビックリであった。


入園料を払って、指定されたイチゴ畑へ行くと、そこははかなりの急傾斜地で、ビニールハウスが階段状に並んでいる。 中へ入るとほんのり暖く、イチゴの甘酸っぱい香りが鼻に響く。
石垣にぶるさがった青い葉の間に、大粒の真赤に熟れたイチゴ実が食欲をそそる。 
摘んで頬ばると本当に甘い、実に旨い、この味はスーパーでのイチゴでは味わえない美味であった。


当時を思いながら、久能山へ向かう。
海岸線の真近をR150は行く、太平洋・駿河湾の青蒼が目に沁みる。 
やがて「久能山・東照宮」の大きな案内板に従って、右方角へ行くと立派な鳥居に突き当たった。
海側の参道入口で、久能山東照宮は山の上に在る・・、と聞いていたので、これより階段の上りとなる。
手前に、階段の説明があり、覚悟の数字が記してあった、1159段(いっぽいっぽごくろうさん)。 

先ずは、歩を進める。 
それこそジグザグの”つずら折り”の登りで、下界の視界が徐々に広がってくる。
急ぎ足で15分くらいか、宮の入口へ到達した。 
受付が有って、参拝料が必要らしく、小銭の用意が無く、無文の小生は仕方なく受付で案内書を戴き、周辺を見物して、元来た道を引き返した。
 


徳川家康は1616年、73歳で駿府城で死去している。
遺言によりこの地、久能山東照宮に遺骸が埋葬された。 
久能山は、「 あたかも桶を伏せたるが如く 」といわれるような、断崖に囲まれた天然の要害の地である。
奈良期(世紀600年頃)、久能忠仁によって開かれ一寺を設けたといわれる。
久能忠仁(くのうただひと)は、渡来民族・秦氏の直系一族である。

秦氏は古代、中国からの百済を経て日本に渡ってきた渡来民族であり、秦始皇帝の後裔とされるが、確実性は疑問ともされているというが。 
百済から渡来帰化した数多い渡来系氏族の中でも多くの人員を擁した集団で、全国規模に分布したとされる。 
秦集団は養蚕・機織製品の貢納から、土木・建築を含め活動を拡大し、様々な国の事業に加わり、朝廷内の諸宮司にも進出したとされる。


6世紀後半から7世紀にかけ山背(山城=京都)の太秦(うずまさ・京都太秦撮影所付近で、隣地・広隆寺)に本拠地を置き、氏の族長的人物は「秦河勝」であった。
静岡県では、大井川右岸榛原郡初倉村(現、島田市初倉)に秦一族が居住繁栄したという。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。
彼は聖徳太子に仕え、太秦に広隆寺を創建したことで知られる。 

久能忠仁は、その秦河勝の子、又は孫とされている。
はじめ寺名を補陀落山・久能寺と称し、久能山の名称もこれから起こったといわれる。
その後、僧・行基を始め、多くの名僧が訪れ住み建物寺院の数も一時は330坊も建ち並び、隆盛を極めたという。


永禄11年(1568年)武田信玄が山上に城砦を設けて久能山城と称し、東の北条氏、西に徳川氏への備えとしていた。 
武田氏が滅びて駿河の国一帯が徳川氏の領有することになるが、家康は死の真際に望んで、西の諸大名が異心を抱き、謀反など発起させぬよう、睨みを効かす為に険峻高地の久能山に菩提寺を選び、亡骸を西側に向かせて葬るようにと、遺言したという。




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 http://www.sushi-yas.com/wp-content/uploads/2013/12/%E4%B9%85%E8%83%BD%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE.jpg




久能山東照宮の楼門と御社殿;漆塗、金箔装飾、微細彫刻を施した華麗にして豪奢な社殿





二代将軍秀忠により、権現造の極彩色で造営された社殿は、荘厳な雰囲気で見る者を圧倒している。 拝殿等の社殿は権現造、総漆塗り、極彩色に彫刻、模様、組物は桃山風の技法を施し、江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されている。
又、楼門、神厩[うまや]、神楽殿等、重要文化財が立ち並ぶ。

家康公は後に「東照神君・東照権現」となり、平和、開運、学問、厄除の神として崇められ、全国東照宮の根本大社として幅広い崇敬を受けている。
祭神は「正一位 徳川家康公」、相殿に「正一位 豊臣秀吉公」「正一位 織田信長公」を祀る。

正一位とは平安期、律令制における官位のことで、いずれも天皇から授かる。
一から五位まで正と従があり、正一位は最高官位である。
20年の後に、三代将軍家光によって、御霊[みたま]は日光東照宮へ移された。
 
ご存知、三者を現した句に・・、
『 啼かぬなら 殺してしまえ 不如帰 』 信長
『 啼かぬなら 啼かせてみよう ホトトギス 』 秀吉
『 啼かぬなら 啼くまで待とう ほととぎす 』  家康


天下統一を果たし、270年にも及んだ江戸幕府を開いた家康は1542年、当時、松平氏として岡崎で生誕している。 
幼少時分は苦労の連続で今川氏の駿府城下、家康は今川家の人質として19歳までの12年間を過ごしている。
不自由な生活に耐えることで忍耐強い性格がここで形成される。

織田信長の台頭により岡崎城主として復活している。 
後に浜松に城を移し、城主となった1572年、上洛中の信玄に「三方ヶ原の戦い」で大敗を喫する、家康初の敗戦である。 
その後、織田信長、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と手を結び次第に勢力を伸ばしていった。 
両氏亡き後、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の合戦」で、徳川東軍を勝利に導き、更に、豊臣遺子(秀頼)を「大阪の陣」で滅亡させる。

1603年、江戸に幕府を開き徳川政権下、征夷大将軍になったが、わずか2年で秀忠に将軍職を譲り、駿府に戻って大御所と呼ばれるようになった。
晩年になって、天下統一を果たした家康は、忍従と波乱に満ちたの一生であったといえる。



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家康公の遺訓

『 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。 堪忍は無事長久に基、怒りは敵と思え。 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る、己をせめて人をせめるな。 及ばざるは過ぎたるよりまされり 』

『 人はただ 身のほどを知れ 草の葉の 
          露も重きは 落つるものかな
 』  家康

1541~1616年、75歳の生涯を駿府(静岡)で、その幕を閉じている。


静岡駅前の中心地に駿府城・史跡公園が在る。

駿府城は、中世(南北朝期)清和源氏・足利一族の名門である今川氏によって、この地に今川館が築かれたが始まりという。 
織田信長、武田信玄、徳川家康の侵攻で今川氏滅亡と共に、一旦失われたが、その後、駿河を支配した家康によって築城されている。

戦国末期、秀吉が天下統一の総仕上げに小田原・北条攻めを実行する時、この駿府城で家康と談義し、北条亡き後、家康は江戸に封じられることを知らされる。 
駿府城は秀吉傘下の中村氏(秀吉の譜代家臣、一氏、一忠)が入城する。 
秀吉没して、関ヶ原の合戦の後、再び徳川家が領する。


江戸初期には、大御所となって駿府に隠居した家康によって大修築が行われる。
城の構築は、家康自ら名だたる諸大名に普請手伝いを命じた。 

御殿の設計は、小堀遠江政一(建築、造園の大家・小堀遠州)、設計者も大工も共に、名古屋城と同じ人であり、出来栄えも名古屋城と同じだったという。
城郭・五重七層の大天守閣が慶長12年(1607年)に完成している。この大御所政治時代、城下町・駿府は、政治・経済の中心地として大いに繁栄した。



国道150から静岡市内への途中、東名高速を過ぎた所に有名な「登呂遺跡」がある。
戦中の昭和18年発見され、終戦後昭和22年から大規模な発掘調査が行われた。

この遺跡は弥生式文化の後期集落遺跡であり(2000年前)、古代日本の地方農村の状態を知ることができる貴重な遺跡であるという。

その後昭和41年、東名高速道路の工事のため再発掘調査も行われた。 
特別史跡」に指定、現在「登呂遺跡公園」として保存されている。 

尚、この遺構発掘は青森・三内円山遺跡(青森市:縄文前期・中頃から末期、約5500年前~4000年前の大規模集落跡) 佐賀・吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡:我が国最大の弥生時代の遺跡で600 年間の集落跡)などの発見のさきがけにもなったとも言われる。



静岡の西に「安倍川」が流れる。 
普段の安倍川は、広い河川敷には不似合いの極わずかなの表流水が縞状に土砂の間を流れている。 
本来、安倍川は国内でも有数の急流河川であり、おまけに、日本三大崩れ(富山・鳶山崩れ, 長野・稗田山崩れ)の一つの「大谷崩れ」をかかえる川で、源流部の梅が島地区は大崩壊地となっている。 

大谷崩れ」によって夥しい量の土砂が駿河湾に流出し、これによって清水の三保半島が形成されたと言われる。
もっとも、現在では安倍川の河川改修が進み、尚且つ土砂・砂利の採取で海への流出が抑えられ、逆に三保海岸・羽衣の松周辺の砂浜海岸の侵食が進んでいるという。
そのため沖合いに波浪防止・波消しブロックが投入され、美観と自然防災の、はざ間にたっている、という笑えぬ状況も起きているという。 

又、安倍川の流れが山麓部の扇状地、即ち静岡平野を作り上げ、集落・部落が出来、田畑が広がり人口も増え、現在の静岡市が誕生したとされる。 その前進が弥生期における登呂の遺構であった。


2003年4月、静岡市と清水市は対等合併により新静岡市が誕生している。 
2005年、静岡市が政令指定都市(人口50万以上の指定都市)に移行するとともに、旧清水市域に清水区、静岡市域は葵区、駿河区という区政が新たに設置された。 


次回は「大井川の渡し






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2015年1月27日火曜日

新・日本紀行(15)清水 「三保の松原」







 新・日本紀行(15)清水 「三保の松原」 





https://encrypted-tbn2.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSkPUNFfJK3XKlQYatW8j6ZaqAA_JM7oU4yjh0Xhb_1j3x1EmbLMg



 http://mohsho.image.coocan.jp/miho-toyokuni01.jpg




三保の松原」は駿河湾を挟んで白砂青松と紺碧の空に、白い雪を被った富士山が望まれる景勝の地。







清水の街から国道149で三保の分岐へ出る。 
そして羽衣伝説の「三保の松原」へ向かった。

案内に従って進むと「御穂神社」が在った。 緑に囲まれた静寂の地に立派な拝殿、本殿が鎮座している。

御穂神社は大国主命が姫(三穂津姫命)と羽車に乗り、東方へ新婚旅行に来た際、景勝の地で海陸の要衛でもある三保の浦に降臨して、我が国土の隆昌と皇室の繁栄とを守るため、三保の森に鎮座されたのが起こりという。

三保は歴史的には、日本書記にある『白村江の戦い』(はくすきのえのたたかい:663年)に古代・清水から出兵した「庵原の君」の根拠地としての伝承もある。
7世紀頃の東海地方は、相武(さがむ)の国、師長(しなが)の国、朱流河(するが)の国、蘆原(よはら;後に庵原の国となる)の国があり、其々が合併して相模国、駿河国ができたといわれる。
この庵原の君とは、この蘆原国の国造(くにのみやつこ:国守)ではないかとされている。


又この地は、戦国時代以降は武将の戦略の拠点として今川氏や武田信玄、徳川家康も海上交通の拠点としていた地である。
そして古代より御穂神社は海の守り神、海の神として尊崇されていたという。

一般民衆よりも三保大明神として親しまれ、両神(三穂津彦命・大国主命)は国土開発の神様であり、又、二神は夫婦和合の縁結び、航海安全、農漁業、文学や歌舞・音曲の神としても仰がれている。

神社正面より海岸へ向かって、松樹の道が整然と延びている。 この道は「神の道」と称している。 きっと、両神がお渡りになった道なのだろう。 




年代嵩む「羽衣の松」;近年、世代交代が行われるらしい)
(追記;2010年10月、羽衣の松が数世紀ぶりに世代交代を行う。詳しくは下記静岡市観光課H・Pへ)
静岡市観光課:http://www.city.shizuoka.jp/deps/kanko/hagoromo.html




この三保の松原は、静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地であり、その美しさから日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されている。

また、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。

なお、「三保の松原」は名勝としての指定名称及び世界文化遺産・構成資産一覧として明記されたが、その際、「三保松原」と表記されているという。
新聞等ではハンドブックにより「三保の松原」で表記を統一しているところもあるらしい。




付近を近所のオバサン達が清掃に励んでいた。
「 羽衣の松はこちらでよろしいのですか・・? 」
「はい、車を置いた、すぐ先にありますよ」 

整備された緩やかな階段を行くと、品のいい松の林が広がっていた。 
気が付くと、処所で中年の女性たちが、熱心にキャンパスに筆を入れていた。 そして「羽衣の松」は、海岸近くに柵に囲まれて堂々と貫禄充分で有った。 だが650年という歳月を背負ってか、幾分、老衰気味であったのがやや気掛かりである。 ベテランの樹医の下で、充分な生気を取り戻して欲しいものである。



三保の「羽衣伝説

『昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は大喜びして返す気配を見せません。すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。やがて空高く天に昇っていきました。 』
御穂神社には、羽衣の切れ端が今も保存されているという。


又、「天の羽衣伝説」は三保の松原以外の各所にも残っている。 
余呉湖(よごこ:滋賀県北部、伊香郡余呉町および木之本町にある湖で、「よごのうみ」とも読む。日本最古とされる羽衣伝説の地として知られる)や京都峰山(近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる)、千葉・佐倉等でもあるようだ。 


中でも佐倉の天女伝説 は、『 平将門が佐倉の「おもが池」に赴いたとき、一人の天女が羽衣を脱いで遊んでいた。将門は羽衣を奪い取り、天女を連れ帰って契りを結び、三人の子を生ませた。その後、天女は羽衣を取り戻し、子供を置いて天に帰っていった。 しかし、さすがに子を思う情は尽きず、三通の便りを送ってきた。その時、月の石(千葉石:隕石とも言われる)に便りを結びつけて、天から降らしたという 』



大正時代に選定された新日本三景には、大沼国定公園の「大沼と駒ヶ岳」、耶馬・日田・英彦山国定公園の「耶馬渓」、そしてもう一箇所が冨士を背景にした「三保の松原」が選ばれている。

それと「三保の松原」は福井県敦賀市の景勝地・「気比松原」 (けひのまつばら)そして「虹の松原」(佐賀県唐津市の唐津湾)と共に日本三大松原の一つでもある。



駿河湾を挟んで白砂青松と紺碧の空に白い雪を被った富士山が望まれる景勝の地、其れに羽衣伝説も加わっての「三保の松原」は古今、伝承と名勝の地である。


次回は「駿府(静岡)と家康







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2015年1月26日月曜日

新・日本紀行(15)清水 「清水次郎長」


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 新・日本紀行(15)清水 「清水次郎長」 





http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/5/5f/Mt_Fuji_at_Nihondaira.jpg
現在の清水港


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Shimizu_Jirocho.jpg
侠客・清水次郎長


 http://shop.columbia.jp/upload/img/service_goods/45385_2.jpg






真下といっていいほど、左手に駿河湾の紺碧がキラキラ揺れている。
間もなく清水へ入った。
清水港は近代的な築港埠頭が並ぶ。 

往時の清水港は、「三保の岬」が港の近くまで突き出ていて美観を呈していたという。
そして、ここに稀代の侠客・・?が現われた。 

その名は『清水の次郎長』という。

♪♪~~旅ゆけば~、
駿河の国に茶の香り~、
名大なり東海道、
名所古跡の多いとこ~、 
中で知られる”羽衣の松”と
並んでその名を上げし、
海道一の親分は~、
清水港の次郎長~~♪♪


御存知、お馴染みの、(否・・?今の若い人は、あまり御存知でも、お馴染みでもないかもしれないが)初代・広沢虎造の「清水次郎長伝」、サワリ(唄い出し)の一節である。

小生家族、子供が未だ小さかった頃(小学以下・・)、車で旅行などに出掛ける時に、退屈しのぎに清水次郎長伝・ 「石松金比等羅代参」や「石松三十石船」などの長編カセット一式を持って、聞きながら道中を行くのである。 

はじめ子供達は「なんだ、このペンペン・・、つまんないよ・・」と言いつつ、知らずのうちに聞き始まり、うるさかったのが静かになって、やがて聞き始まっていた。 
そのうちうる覚えに覚えてしまって、一緒になって唄いだす始末である。 
遂には、車で出かける際には「お父さん、例のカセット持った・・?」などと催促されるまでになってしまったのである。

特に、子供達の評判が良いのは、やはりこのあたりであった。

石松金毘羅代参の一節・・、

森の石松が、親分・次郎長に人を切って穢れた刀を讃岐(四国香川)の金毘羅さん(金毘羅神社)に代参として納めるように頼まれる。 そして、無事に讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めることができた。 勤めをすませて大阪へ戻り、八軒家(今の天満橋あたり)から船に乗って、好きなお酒を飲みながら京都伏見までの船旅となる件(くだり)となる。 当時の川船が、所謂、三十石船で、この船中の乗合衆の話がが表題になっている。 

そして、石松と船客の会話では・・、
石松: 「呑みねえ,呑みねえ,鮨を食いねえ,鮨を・・、もっとこっちへ寄んねえ、江戸っ子だってねえ」
江戸っ子: 「神田の生まれよ」
石松: 「そうだってね,そんなに何か,次郎長にゃいい子分がいるかい」
江戸っ子: 「いるかいどころの話じゃないよ、千人近く子分がある中で、代貸元をつとめて、他人(ひとに)に親分兄貴と言われるような人が二十八人、これをとなえて清水の二十八人衆・・この二十八人衆のなかに、次郎長ぐらい偉いのがまだ五,六人いるからねえ」
石松: 「ほう、呑みねえ、呑みねえ、鮨を食いねえ、鮨を・・、もっとこっちへ寄んねえ、江戸っ子だってねえ」
江戸っ子:「神田の生まれよ」

  ・・・・


浪曲は心の故郷、大人の子守唄」とも言われ、昭和の良き時代は浪曲(浪花節)全盛であった。 中でも「虎造節」とまでいわれた。 「清水次郎長伝・ 石松金比羅代参」は一世を風靡したのである。


ここで浪曲の事を語るつもりは無いが、清水が生んだ清水次郎長のことである。

清水次郎長は1820年1月1日、静岡県清水市の船頭の家に生をなし、長五郎と名付けた。 後に山本家に養子にゆく、そして、次郎長と呼ばれるようになった。 当時、元旦生まれの子は、よほどの偉人か、悪人になるという言い伝えがあったようであるが、確かに次郎長は生涯の前半はヤクザの親分として森の石松代参事件や吉良の仁吉の荒神山の争いなど、虚実おりまぜて語られてきた。 遊侠の徒、裏街道の人性としては「悪人」(悪い人の意味ではない)の部類に入るかもしれないが。


「荒神山の血煙」を終え、次郎長が東海の大親分となったとき、時代は大きな転換期を迎えていた。
幕末動乱期、官軍は東海道を上り江戸の総攻撃をもくろむ。 江戸城城代「勝海舟」は、それを阻止すべく側近の「山岡鉄舟」に密書を授け、官軍総督・西郷隆盛の元に派遣する。 この鉄舟の道中の護衛役を次郎長が果たしている。 江戸戦争回避に一役かったのである。 

以降、次郎長は山岡鉄舟によって苗字帯刀(武士の身分)を許され、この東海道の取締方に任ぜられてる。
次郎長はその後、咸臨丸事件の収拾や維新後の清水の発展に多々貢献をする。 
三保の新田開発、巴川の改修(次郎長生家のすぐ前)、油田開発、英語学校の設立、又回船を蒸気船にし、海運会社の設立等。
中でも有名なのは茶畑の開墾事業である。 これには、次郎長自らも鍬をふるい、昔の子分衆たちも次郎長を慕って集まり、一緒に原野を耕してたという。 そして全国の家庭に、そのお茶が届けられている。
このように後半生は偉人としてその名を残しているのである。


因みに、咸臨丸事件とは・・、

戊辰戦争もほぼ終結し、官軍勝利におわった。 
品川沖に集結していた咸臨丸をはじめ幕府艦隊はこれを嫌って脱走してしまう。 咸臨丸は途中故障し損傷して脱走不可能と判断され清水港へ入った。 追手の新政府の討伐隊は清水港の咸臨丸めがけて攻撃し、斬合いが始まり、あっけなく勝負がついた。 政府軍は艦内にいる乗員を見つけ出しては手あたりしだいに斬り殺したり、泳いで逃げる者を小銃隊は射撃したりした。 
討伐隊が去って数日、港は死臭で耐えられなくなったという。 討伐隊は死体を内海に投げすてていったのである。 賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされ、付近住民は暫くは誰も恐れて手を下さなかったという。 清水次郎長は港内各所に流れついた死体を夜になって集め、こっそり無縁墓地に葬ったという。

死体収容にあたり、次郎長は
『 人の世に 処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ、若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや 』(生きている間、賊や敵であっても、死んでしまえば罪は全て消え失せ、皆んな仏様よ) と言ったと言う。

後に、山岡鉄舟がその志に感じ入り「壮士墓」と書いて与えたという。
清水の次郎長が人を引き付けるのは、前半生の侠客としてであろう。 義理と人情の世界に生きた人間味溢れるところであり、日本人の原点がここに見出せるからであろう・・? ここが講談や浪曲によって語られ、表現されている所以であろう。


昨今、大衆娯楽芸能で漫才や落語はもてはやされているが、残念ながら、講談や浪曲は下火のようである。 
誰かが言っていた。
「浪曲は忘れられている。かってあれだけ誰もの心をとらえ、鼓舞し、われわれ日本人の中にある『にっぽん』を作り上げてきた。その途方もない力をなぜかみんなきれいさっぱり忘れている。浪曲に対して、われわれ日本人は恩知らずである」・・と。


明治26年、74才で大往生をとげた次郎長は大政小政たちと一緒に、市内・梅蔭寺に眠ってる。 
境内には、次郎長愛用の品々を展示する記念館もある。 現在、市中には「次郎長通り商店街」があって年に一度の「次郎長祭り」に、この商店街を次郎長一家28人衆が練り歩くという。 
ごく近くに梅蔭寺がある。

平成15年(2003年)4月1日、清水市は静岡市と合併し、新静岡市として吸収されてしまった。 
清水市としての由緒ある名称が又一つ消えてしまたのであり、御大・清水の次郎長は、妙にも「静岡の次郎長」に成ってしまったのであろうか・・??。


旅姿三人男

1 清水港の名物は        2 富士の高嶺の 白雪が
  お茶の香りと 男伊達        溶けて流れる 真清水で
  見たか聞いたか あの啖呵     男磨いた 勇み肌
  粋な小政の 粋な小政の      何で大政 何で大政 
  旅姿                  国を売る

3 腕と度胸じゃ 負けないが
  人情からめば ついほろり
  見えぬ片眼に 出る涙
  森の石松 森の石松 
  よい男
 

次回は「三保の景勝






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2015年1月25日日曜日

新・日本紀行(14)蒲原・由比 「由比正雪」 







 新・日本紀行(14)蒲原・由比 「由比正雪」 



http://yuru-walk.net/wordpress/wp-content/gallery/tokaido11-3/img_2464.jpg




蒲原ノ宿跡と安藤広重の東海道五十三次画から「蒲原・夜之雪





国道1号線へ出て、富士川の長い鉄橋を渡ると間もなく蒲原で、東海道五十三次の蒲原宿である。
安藤広重」が、とある一行に加わり、東海道を京まで旅行したときに描いたのが「東海道五十三次画」であるのは承知だが、中でも傑作なのが雪の蒲原宿を描いた「蒲原・夜之雪」と言われる。 

広重はこの絵を契機に風景画の第一人者としての出世するのだが。 
ただこの絵の不思議なところは広重が京に向かうのは夏季であり、ましてこの地方は温暖で冬でもめったに雪は降らないし、余り見かけない、 その蒲原が何故雪景色なのか・・?。
未だこの謎、疑問はまだ解かれていないとか・・!。 
きっと広重は当地で「北国の冬景色の夢でも見たのだろうか・・??」
 

次の「由比」は賑やかなところである。 
はじめ国道1号線は太平洋の雄美な海岸線を走っていたが、東名高速と交差する辺りから、今度は東名が海上をゆくようになる。
そのすぐ横を国道1号線、さらに東海道線、そして地方道、この間に住地が密集している。 おまけに東海道新幹線が山の端から顔を出しているのである。

山腹が海岸近くまで迫り出しているため、こんな風景を形造っているのだろう、時折、ポスターなどにも描かれているようだが、国内でも珍しい処だろう。 
由比は、チョッと騒々しく賑やかなところである。 




http://rail.hobidas.com/guide/08_07_25_satta.jpg


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fc/Tokaido53_Yui.jpg


https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSetMrRvGK_QVJkTz1GNbsTVjgW2GEMxxy4EQzSZc0mnlrbaJv0
由比の浜の今昔と由比正雪の碑



江戸初期の慶安期、徳川幕府を批判しクーデターを計った事件が発生する。 世に慶安事件という。
事件の首謀者は「由比正雪」。 由比町の紺屋・染物屋の出身である。

江戸初期の頃の幕府の政策は、所謂、武断政治(武力を以って行なう強圧的な政治)が強行されていた。
問題を起こした諸大名はお家断絶や取潰しも珍しくなく、浪人が発生する要因にもなっていた。 

江戸で軍学塾を営んでいた由井正雪は浪人に人気があり、幕府の強圧政治に不満を持つ彼や浪人衆は、三代将軍・家光の死を機会に江戸、駿府、大坂、京で決起挙兵をもくろむ、現在で言うクーデターであろう。 
しかし、計画は事前に漏れ発覚、同腹の丸橋忠弥が逮捕されて死刑になると、発覚を恐れた由井正雪は駿府で自害してしまう。 クーデターは失敗に終わったのである。

この時代、幕府の強圧政策や浪人圧迫に対する反撥で、江戸庶民の間にも関心を呼び、「慶安太平記」などの芝居となったり、講談にて語られた。 近代では浄瑠璃・歌舞伎にも演じられているようである。 
この事件が契機で、幕府の武断政策は文教政治の方向(儒学者の新井白石などを登用する)へと転化されるに至ったという。
(平成17年:2007年5月23日訪問)



【 閑話休題 】
走行中、或るニュースを耳にした。
北海道の稚内で今日、日本列島最後の桜が開花した」という、時に本日は5月23日(2005年)である。 
今年の桜前線は1月15日に沖縄の石垣島でヒカンザクラが咲いてスタートし、4カ月少々かけ北上して稚内に最終ゴールしたことになる。

序ながら、桜の開花に関する事について・・、
桜花が開花する時は「開花予想」と「開花宣言」という呼称があるという。
開花予想については、現在は気象庁のコンピューターで計算している。 まず、花芽が休眠から目覚める日を「起算日」(事柄を計算する時の初日、桜花開花の場合、気象庁が管轄する部署で花芽を見て起算日を決める)とする。
一般に、花芽が目覚めてから平均気温15度の日が21日分あれば、開花の準備が整うといわれる。 開花宣言は、観測地点ごとに定めた「標本木」の開花状況を見て出される。 各地区によって標本木の本数と桜の品種によって決められている。 

因みに東京地方の開花と満開の定義での対象樹は「ソメイヨシノ」で、靖国神社の開花基準木(標本木)三本中二本の木でそれぞれ5~6輪の花が開いた状態を東京地方の「開花」と言い、また、「満開」とは、同じ開花基準木(標本木)三本中二本の木で花が80%以上咲いた状態を東京地方の「満開」と言うらしい。 
標本木は、日当たりのいい平地に生育するものを複数本選び、各管区気象台技術部観測課の職員が予想開花日の一週間ほど前から毎日観測箇所に行き、観測は肉眼で数輪咲けば開花、80%以上咲けば満開と称しているという。



次回は、清水・「清水の次郎長







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2015年1月23日金曜日

新・日本紀行(13)沼津 「原と白隠」








 新・日本紀行(13)沼津 「原と白隠」 





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沼津グルメ飲食街




伊豆長岡から国道414にて沼津へ向かう。

市街地から狩野川の港大橋をわたって、沼津魚市場方面へ。
千本港町、沼津魚市場は早朝から魚介類の取り引きの威勢のよい掛け声が響く。 
周辺には寿司屋や飲食店、土産品店が軒を並べ、沼津港で水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を味わうことができる。

先達て上さん(妻)と、この地を訪れて時期物ではあるボリュームたっぷりの「サクラエビ」の唐揚げが絶品だったのを思い出す。 



更に、県道380号線を行く。
松の林が限りなく・・?、続く海道で緑の美しい景観は、日本100選の「千本松原」である。
狩野川の河口から、富士市の田子の浦にかけて続く総延長約10kmに及ぶ海岸線で、千本どころか30数万本の松の木が植えられておるという。
旅の僧・増誉上人が近隣の人々に呼び掛け、5年の歳月をかけて復活させたと伝えられている。

増誉上人は、千本山乗運寺(浄土宗・千本松原の近くに寺院がある)の開祖で、始め長円といった。
増誉上人をめぐる千本松原の物語は、今なお人々に語り伝えられているという。 
一説によると、天正8年(1580年)武田対北条の激しい戦いが行われた時、無惨にも千本松原の松を伐り倒してしまったという。 荒廃したこの地に、一人の旅の僧(長円)がやって来て、土地の人々が塩害に苦しんでいる姿を見るにみかね、一本一本お経を唱えながら松の苗を植えたという。
千本松原の恩人として、千本公園に像が建てられている。



チョッと序ながら、沼津に縁のある歌舞伎の話。

先般、新橋演舞場で中村吉右衛門、中村歌六、歌昇兄弟達による演目で、「伊賀越道中双六:沼津」を拝見した。

日本の三大仇討ちの一つとされている「伊賀越の仇討ち」(他に「曾我兄弟の仇討ち」、「赤穂浪士の討ち入り」)を狂言風の歌舞伎にしたもので、昔から歌舞伎や講談に取り上げられている有名な演目である。
歌舞伎では大長編の通し狂言「伊賀越道中双六」として演じられ、「沼津」はその第六段として登場し、この中で沼津の宿や千本松原が物語の背景として形作られている。

伊賀越道中双六「沼津」の段のあらすじ
《上杉家家老・和田行家の息子志津馬(渡辺数馬)は沢井股五郎(河合又五郎)の奸計で家宝の刀正宗を質にとられた上、役目落度で勘当される。志津馬の姉お谷を妻に望んで断られた股五郎は行家を殺し、出入りの呉服屋十兵衛の案内で九州相良へ逃亡。足を負傷した志津馬は馴染みの遊女瀬川、今は本名お米の故郷・沼津で養われている。
沼津」の段のあらすじ
お米の老父平作は荷持人足。荷持をさせた縁でお米の美しさに魅かれた十兵衛は貧家に泊まるがこの人物が親子兄弟と判り、千本松原の地で平作は命をすてて十兵衛から股五郎の行方を聞きだす。》



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沼津の千本松原



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原地区の松蔭寺



「千本松原」中間地にJR東海道の原駅がある。
今は普通の町並みであるが、旧東海道の原宿で東海道五十三次の13番目の宿場であり、昔は相当に賑わったところである。
この一角に「松蔭寺」がある。
 
  『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり、
           富士のお山に 原の白隠
 』  白隠


白隠 慧鶴((はくいん えかく・正宗国師)、江戸中期の名僧である。
1686年、駿河国・原宿(現・静岡県沼津市原)長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、のちに病となるも、内観法(身心を安楽にする観法)を授かって回復し、信濃の国・飯山の正受老人の厳しい激励を受けて悟りを完成させたという。以後は地元に帰って布教を続け、衰退していた臨済宗を復興させている。

現在ある臨済宗十四派(京及び鎌倉の大本山寺院)は全て白隠が中興したとされている。 その内の代表である京の妙心寺は広大な境内を持つ臨済宗の大本山で江戸期に中興され、その第一座に白隠禅師が住持(僧衆の長)している。
因みに、小生の田舎(いわき市白鳥町)の菩提寺・龍勝寺は、京都・大本山妙心寺の末寺である。

白隠は江戸中期(1763年)、隣町で三島市の龍澤寺を中興開山し、現在、両寺には彼の描いた禅画、禅筆が多数保存されている。 禅師の墓は原地区の松蔭寺にあって、県指定史跡となっている。
師の著書の一つに「夜船閑話」(やせんかんな・過度の禅修行による病いの治療法として、身心を安楽にする観法を説いたもの)がある、小生、入院療養中の時、その解説書を読んだが、現代にも通ずる古式健康法とでもゆうのだろうか・・?





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北斎の田子の浦



http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-88-6b/bouchan0325/folder/1068676/64/46052664/img_1?1389180803
現在の富士市田子の浦




原から更に松林をゆく、この辺りの松林は手入れがされてなく、雑木下草に覆われて雑然としている。 せっかくの常緑樹林が美観を損ねているのは残念である。

道は東海道線と並行してゆく。
吉原は、今は製紙業が盛んな街だが、昔は東海道・吉原宿で風光明媚なところ、目前に田子の浦をひかえ、万葉集にも詠われた地であった。
  
  『 田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 
             富士の高嶺に 雪は降りける
 』
(田子の浦をずっと歩いて、やっと見晴しの良い地点に出て見ると、遥かに雪が降り積もっている富士山が望まれた) 

誰でもご存知の名句である。 
時は奈良時代、山部赤人が詠んだ万葉集の一句であり、小倉百人一首にも選ばれている名句である。 



次回は「蒲原、由比







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2015年1月22日木曜日

新・日本紀行(12)伊豆長岡 「温泉と源氏」







新・日本紀行(12)伊豆長岡 「温泉と源氏」








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あやめ小路とあやめ湯



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湯谷神社と温泉寺



内浦湾の優美な西浦や淡島を左に見ながら、伊豆長岡温泉へと向かう。

市街地の主要道を左に曲がり、ナビに従って「源氏山」の麓の温泉街へ来た。
この辺り一帯を「古奈温泉」とも称している。 
古奈温泉(こなおんせん)は伊豆長岡の中でも1300年の歴史ある温泉地で、伊豆では伊豆三古湯(伊豆山:熱海、修善寺、古奈)の一つとして数えられ、弘法大師や源頼政、源頼朝、北条氏らにも所縁のある由緒ある温泉場でもある。 

老舗旅館が軒を連ねる通りの一角に「あやめ小路」という石畳小路があり、浴衣姿で散策し、昔ながらの温泉街の風情を感じるには良いところである。
ここの角に目的地の立寄り湯の「あやめ湯」があった。 

近所のお上さんさんであろうか・・?、
「 こちらの温泉に入りたいけど、駐車場はどちらですか・・? 」
「 駐車場は特に無いようだけんど、お風呂に入りに来たんなら、ここへ止めてもいいよ 」 
気さくな返事が返ってきた。
確かに大きな駐車場で、看板に西淋寺専用駐車場とあった。 すぐ横はお寺の参道になっている。 お寺の人かな・・?。


先ず、湯に浸かろう。建物はひなびた銭湯風で洒落た敷戸の玄関から300円の入湯料をはらって早速湯船へ。 
透明なお湯があふれている、気持ち良い掛け流しである。
さっそく漬かるとけっこう熱い、お湯は癖がなくさっぱりしている。
泉質はアルカリ性単純温泉、泉温60度、熱い湯に浸かっていると体の芯まで熱くなってきた。


この辺り「あやめ小路」、「あやめ湯」、「あやめ祭り」、と「あやめ」の呼称が多い。 別にあやめ花の名所でもないらしいが・・?。

平安期、この地に、「あやめ」という女性(にょしょう)が誕生し、成長した後上京して近衛家の院に仕える。 その美しさは宮廷随一といわれ、和歌も嗜(たしなむ)んで、やがて歌道に優れた武人・源頼政公と結ばれた。 しかし、頼政は源平の戦いで露と消え、あやめ御前は伊豆長岡・古奈の里へ戻り、頼政の霊を弔いながら89年の生涯を静かに閉じたといわれる。 
あやめ御前の霊は、この寺「西淋寺」に祀ってあるという。



平安末期、源平の争乱で平家打倒の真の先兵は「源の頼政」とも云われる。
頼政は摂津源氏の祖である。 

保元の乱(1156年;天皇と院の争い)の時に後白河天皇方について戦い、又、平治の乱(1159年;院の体制近臣の争い・源平の争いで平清盛と源義朝の合戦、この時嫡子頼朝が伊豆のこの地へ流人となる)では源氏でありながら平氏方に付き、平氏政権では軽役人から何とか従三位にまで上る。 

ところが、京で栄華遊興に耽る平家に業をにやし1180年、75歳という高齢の身でありながら以仁王(もちひとおう・後白河天皇の子=皇太子)に平氏打倒の話を持ち掛ける。 以仁王がその気になったものの、謀反の動きは平氏方に漏れ、体制を整えないまま合戦に突入してしまい、宇治の平等院あたりで討ち死にしてしまう。

この事がきっかけになって、以仁王の令旨(皇太子、親王および王の女院の命令を伝える文書)に呼応して立ち上がった源義仲、源頼朝らによって平氏政権は滅亡することになる。 
それは既に頼政、以仁王の死後のことでもあったが。



あやめ御前は、頼政をこの地に弔っている。 
そして、この地で源氏の旗を揚げた頼朝によって頼政の復讐もかなったのである。 

歴史は因果である。
その時期、あやめ御前は鎌倉で旗上げした頼朝に逢っているかもしれないのである。
その時、どんな話をなされたのか、興味津々である・・?。




伊豆長岡の市街から狩野川の千歳橋を渡ると、伊豆鉄道の伊豆長岡駅に出る。
一つ手前の駅が「韮山」で、この辺りが蛭ケ小島といわれる所である。

平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼(平忠盛の正室)の命乞いによってこの地に配流されている。 
1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされる。

流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったとされ、箱根、伊豆山、三島の三社詣でや天城山での巻狩りを楽しみ、そして北条政子との結婚などの逸話も残る。 


このあたりは狩野川の流域にあたり、後年「蛭ケ小島」と呼ばれるようになったとう。 
現在は周辺の公園整備が進み、平成16年、富士に向かって頼朝と政子が寄り添って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」が立っている。




 
伊豆長岡;蛭ヶ小島公園に立つ、新婚当時の頼朝と政子のブロンズ像



1180年、以仁王の令旨(後白川法王の皇太子による指令)、頼政の訓令を以って頼朝は兵を挙げた。 
一行は真夜中に北条館を出発、蛭ケ小島の近くの山木館へと向かった。 
激戦の末ついに陥落、流人・頼朝の監視役だった山木判官平兼隆は討ち取られた。 
源平合戦の初戦、頼朝の旗揚げは勝利で飾ったのであったが、その後、源氏・鎌倉時代が到来することになる。
 



伊豆長岡は良き温泉と源氏の故里でもあった。
伊豆長岡町は2005年4月1日、韮山町、大仁町と合併して「伊豆の国市」が誕生している。

伊豆の国市は京・平安期の頃は流人の国と言われてきたが、縄文・弥生時代の文化から始まり、源頼朝や北条氏にまつわる数多くの史跡を残している。 

又、韮山は後の室町期、伊勢新九郎長氏、後の北条早雲(小田原北条)が一時、伊豆全土を支配下した拠点でもあった。


因みに、伊豆半島で伊豆と付く行政地域名は「中伊豆町」「東伊豆長」「南伊豆町」「西伊豆町」「伊豆市」そして、「伊豆の国市」で六市町と多彩である。 
伊豆の人は、これだけ「伊豆」という地名に愛着、執着があるのだろう、くどい様だが解る気もする。

次は東海道・「沼津







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2015年1月21日水曜日

新・日本紀行(11)戸田 「造船と日露友好」


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 新・日本紀行(11)戸田 「造船と日露友好」 





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国道136号線は土肥からは中伊豆の湯ヶ島から伊豆中央道(下田街道)にも通じている。
小生は、土肥からの海岸沿いの県道17号(沼津土肥線)で大瀬崎へ至ることになる。 
この辺りは、本州にも近い伊豆半島の付根付近に在りながら、急峻な山岳地であるため近年まで陸の孤島的存在であった。 
車道陸路が通じるのは近年の昭和に入ってからで、尚、暫らくしてからのことであった。


この日は平日とあって道は交通量は少ないものの、九十九(つづら)折れが多く極端に狭い所もあり、対向車には充分注意しながら舟山の展望駐車帯に着く。
本来、富士の展望が秀麗なところだが、今朝は薄雲がその姿を隠している。  
七曲を繰り返しながら、戸田(へた)の小さな港へ着いた。 
波止場に面した処に、程よくコンビニ(ヤマサキ)があって、戸田の美しい港を見ながらの朝食となった。
御浜岬の先端部の真っ赤な鳥居が印象的である。




戸田港の防波堤のように延びる「御浜岬」(戸田観光協会)



小生個人的には、「戸田村」は西伊豆では最も好きな地域であった。 
東名高速を使うと比較的短時間で行けるし、港や顎の形をした静かな御浜湾と御浜岬は、美景であり心が和む。 
子供達が未だ幼少の頃、夏の時期に何度も訪れたことがあり、御浜の白い砂浜での海水浴は実に良かった。


戸田村」は、最近までは伊豆半島そして静岡県として唯一つの村域だったが、平成の大合併で無理やり・・?、沼津市と吸収合併されたようである。


ところで、今般の平成の合併劇で「」が、隣の町や市と吸収合併されて、どんどん姿を消しているという・・!!。
しかし、中には行政上、何とか遣り繰りして村を存続させる。 或いは、「 多少の財政上の困難さを覚悟しても、おらがの村はそのまま残すんだ・・! 」という声も聞こえる。
更に、地方の何処かの「村」は、”合併して本来は町か或るいは市に昇格せれるべきところを、わざと村(むら)として存続させた”という事例を聞いた事もある。

その行政の長が曰く
『 今、「村」は貴重な自然豊富な地域なのであり、素朴な人々が住む桃源郷のようなものである。 村は、風土的にも日本の原風景でもあり、貴重な自然遺産でもある。その貴重な「村」という名目が、行政上の損得勘定で無くなってしまうのは、いかにも残念である 』と、 合併相手の町長もしくは村長も、その意を汲んで「村」として新たに発足したという。  

合併しても尚且つ、本来町以上の行政組織に成るところを敢えて「村」とした、その行政の長に改めて敬意を表したい。

尚、「村」としての行政上の立場は、憲法に基づく地方自治法においては「村は地方公共団体の一つで、都道府県と対等の関係にあり市・町と並立する」としている。
「村」の読み方を「そん」、「むら」のどちらになるのかは各自治体で規定しており、「そん」で統一されている県、「むら」で統一されている県、「そん」「むら」が混在する県があるという。

因みに、行政単位の「」がない都道府県は西から長崎県、佐賀県、山口県、広島県、兵庫県、愛媛県、香川県、福井県、石川県、滋賀県、三重県、栃木県そして静岡県である(2008年4月現在、13県)。
その静岡県は2005年4月、「戸田村」が沼津市と合併したことから村としての歴史に閉をじ、村の無い一県になったのである。





http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-13-b2/enzaburou/folder/335304/21/33515221/img_2?1289787920




http://homepage2.nifty.com/kirislab/chap10_var/newYear04/courseMap.gif










この静かな戸田の村に江戸末期、意外な歴史が存在した・・!!。

江戸末期、この戸田の港にロシア人が大挙して訪れ、その後、この港でこれらのロシア人を帰国させる為に、日本で初めての洋式船「戸田号」が完成し、無事ロシア人を祖国へ送り届けたという。 ロシア人・47人の命をである。


1854年、ロシア使節・プチャーチンが、日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。(この項は先般「下田」の項で述べた)だがこの年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲う。 
後に安政の東海地震と呼ばれたこの震災は、大きな津波を伴い下田の町も一瞬にして呑み込み、被害は町全体に及び、875戸中871戸が流失全半壊し、死者は122人と全滅に近い大惨事になった。

津波によって生じた渦巻きにより停泊していたディアナ号も大破してしまい、その時に、亡くなった水兵の墓は今も下田・玉泉寺の敷地内に残っている。 
損壊したディアナ号は、船底に穴が空きロシアに帰れる状態ではなくなり、取り敢えず修理をする為の港を捜していた。 
そんな時に湾が入り江を成して、しかも三方が険しい山に囲まれ、情報が漏れにくい戸田湾を選定したという。 しかもこの戸田村を探し当てたはロシア人という。

そして、ディアナ号が下田から自力で戸田に向けて出航したが、途中、駿河湾で座礁し、さらに曳航中、嵐に遭って現在の富士市の富士川河口付近の三四軒屋(現富士市三四軒屋)沖で遂に沈没してしまう。 
この時、ロシア人達は三四軒屋から、収容施設の整った戸田村に徒歩で一泊二日の行程で整然と並んで戸田村にやって来たという。(ロシア人達は船は懲りたので、駿河湾岸を歩いたともいう)

因みに、富士市五貫島の「三四軒屋緑道公園」の一角にディアナ号の錨が展示してある。 
全長4メートルの大きな錨と並んでプチャーチンの提督像が立ち、この地がディアナ号ゆかりの地であることを今に伝えている。(昭和51年8月に三四軒屋沖の海中から引き揚げられたものであるとか)

その後、ロシア人が帰国する為の船の建造が急がれた。
戸田号はロシア人が帰国する為の船であり、津波の影響で結局、駿河湾へ沈んでしまった軍艦・ディアナ号の代替として造られた。 
はじめは言葉の障害もあり、大変な難工事だったという。

ロシア人は早く帰りたいと願い、日本の船大工も職人の誇りを掛けて外国へ安心して航海できる丈夫な船をとの思いが通じ、僅か、三ヶ月で出来あがったという。
この時出来上がったのが戸田号で、日本で初の洋式船舶であったという。 



「戸田号」は戸田村を出航した。 
太平洋から津軽海峡を渡り、樺太のアムール川をさかのぼり、後は歩いてサンクトペテルブルグまでプチャーチン以下47人は無事に着いたという。

この地の船大工による洋式造船技術を習得したことが、後の日露戦争、太平洋戦争、そして戦後まで続く造船大国の礎となったともいわれる。 

第一号として洋式船・戸田号が完成して以来、その後何と同型艦が11隻も作られ、開国要求のために当時の鎖国体制を破って入港してくる諸外国の艦船に対する守りとした。 ただ、この時携わった技術士、職人、船大工達が、その後、全国に派遣されていったことは余り知られていないという。 
そして、石川島、三井、三菱などの現在では世界に名を轟かせている造船会社も、発足当時は、この地の船大工、職人の獲得に凌ぎを削っていたという。


戸田号を造船した所は「牛ヶ洞」と言うところで、県道の岬入口辺りに、この名前のバス停がある。
そしてその地に、「戸田号造船地、日本洋式帆船発祥記念碑」の石碑が立っている。


戸田号を建造した戸田の職人のうちの一人に「上田寅吉」がいる。

洋式船舶の造船技術を会得した彼は、後に長崎の海軍伝習所の一期生に入り指導的立場で活躍した。 当時彼は平民ではあるが給金を貰い、後に苗字帯刀(江戸期の武士の身分の象徴)を許されたという。 
同期生には勝海舟がいた。

後に海舟は咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断していることは周知である。 
二期生には榎本武楊がいて、後の開陽丸の建造に携わる。
間もなく明治維新となり、上田寅吉は榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になるが、明治三年釈放されて横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成っている。 又、長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造製している。 後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計したという。   


緒明菊三郎」(おあき きくさぶろう)は、戸田号造船時には13才だった。
雑役をしながら洋式造船の技術を学び、後に江戸に出て船舶業て財を成し、東京のお台場で緒明造船所を造った。 
日清戦争、日露戦争の頃は日本の造船、海運王にまで成ったが、お台場の土地を使用出来たのは同じ戸田村の出身の船大工、上田寅吉の縁で榎本武揚が世話をしといわれる。 その後、緒明家は静岡銀行の創業者して著名である。


因みに、プチャーチンは明治14年明治天皇から外国人では始めて、日本で最初に最高の勲章・勲一等旭日章を授与している。 
帰国した彼が和親条約の改定や通商条約の締結交渉で、その後、数度来日している。 その時に、航海中の和船が、時化でカラフトなど北方へ流され、漂流民となった日本人を親切に扱い度々帰国させたという。 その数は何十、何百人とも言われる。 
人道上最大の貢献をしたということで、日本で最高の勲章を貰ったのである。


岬の先端、赤い鳥居のある猪口神社の近くに造船郷土資料博物館がある。 
安政元年(1854年)に戸田沖に沈没したロシア軍艦・ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船(戸田号)建造の記録が保存展示されている。
又当時、現地で三人のロシア人が死亡したとされ、それらの霊が宝泉寺に眠っている。

戸田町の南外れに、その「宝泉寺」があり、ロシア使節のプチャーチン提督が泊まった寺として知られる。 
船が完成までの約三カ月間、ロシア船員も滞在し、境内には滞在中に亡くなった乗組員の墓がある。


ところで、今年(2005年)は日露修好150周年記念に当たる。 
ロ日友好協会では、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ市、国内では下田市、戸田村、富士市の各地で祝典行事が行はれたという。 
戸田村(現沼津市戸田)の海岸に建立されたモニュメントの除幕式を行い、又、下田市の海岸で開かれた政府主催の記念式典には外務省の招待で関係者、山口戸田村代表が出席した。 

この式典には日本側から小泉首相、ロシア側からロシュコフ駐日ロシア連邦大使も出席し、日露両国の恒久的な友好関係の樹立を誓い合った。

戸田」は日本造船界の礎であり、日露友好関係の原点でもあったのである。
  


夕映えの丘」の高所から見る、戸田港と御浜岬の景色は抜群であった。
井田の村落も美しいところである。
額ほどの田んぼの向こうに、ひっそりと集落が並んでいる。井田地区は「美しい日本の村」景観コンテストで「全国農業協同組合中央会会長賞」を受賞したという。

高い位置より大瀬崎を眺めながら駿河湾の内浦を行く。 
今までの山腹道路と違って本来の海岸線を行く、やや入り江になっているため穏やかな海面である。



次回は源氏の故里・「伊豆長岡








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2015年1月20日火曜日

新・日本紀行(10)堂ヶ島 土肥 「温泉と金」 


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 新・日本紀行(10)堂ヶ島 土肥 「温泉と金」





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堂ヶ島の絶景とホテル群





松崎を過ぎると程なくして「堂ヶ島」である。
新緑の松林越しに深青な海の色が対比をなして実にいい。
西伊豆には珍しくニュー銀水、堂ケ島温泉ホテル、小松ビューホテル、アクーユ三四郎といった巨大ホテルが自然にマッチして建ち並んでいる。

堂ヶ島温泉は、化粧の湯(美人の湯)と言われるように良質の温泉がフンダンに湧出している。 
又、「伊豆の松島」と称され、伊豆を代表する景勝地として知られるように断崖絶壁の奇岩・奇勝と相俟って富士の夕日は有名である。 
堂ケ島で一際美景なのが三四朗島であろう。 干潮時になると幅30mの石の橋で陸地と結ばれ、歩いて渡ることができるという。 
所謂、陸繋島(りくけいとう:砂州によって陸地とつながった島)の島で、この石の洲を土地の人は古くから瀬浜と呼び、海静かな春の干潮の時は磯遊びの好適地となっている。 
洞窟の天井に穴の開いた「天窓洞」に入る遊覧船も人気らしい。
この洞内には鎌倉洞と呼ばれる穴があり、伝説によれば、この洞は鎌倉まで続いていると言われているらしい・・?。


昭和10年の早春、歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻堂ヶ島を訪れた際に詠んだ詩。

  『 島の洞 奥に窓あり 潮ゆれて 
         孔雀の色を 我が船に投ぐ
 』   鉄幹

  『 堂ヶ島 天窓洞の 天窓を 
         光りてくだる 春の雨かな
 』    晶子



堂ヶ島からは国道136は山中へ入る。
トンネルも多いが、道路は良質ですれ違う車も無く、快適である。 
田子、安良里といった海岸へ通ずる道が時々交差する。 ミニ山岳ハイウェイといったところか。

まもなく宇久須川の河口の小さな平野部に出た。 
チョッとした家並みが並ぶ「宇久須」というところである。
ひなびた漁港にある穴場的な場所で夏の海水浴客は人気、通常は海釣りのスポットでもある。国道沿いに日帰り入浴施設もあり、豊富な湯量が湧き出る。
泉質はリュウマチや神経痛などに効能があると言われている硫酸塩泉で、民宿が主の宿泊施設が多いが、ホテルニュー岡部といった大ホテルも在った。
港の両端は黄金崎や恋人岬といった景勝地もあり、その名の通り夕日を浴びて岩肌が黄金色に輝くという。


又、港から内陸の山岳地へ向かう仁科峠に通ずる山道がある。 その先には標高700~800mの場所に宇久須牧場広がる。 近くに宇久須キャンプ場も在り、晴れた日は宇久須の港と駿河湾が一望できる。
伊豆といえば「」と頭の中でイメージする人も多いと思うが、”伊豆の山々・・・、”の歌の文句のように、伊豆は山地のイメージもつよい。

 

宇久須の海岸から再び国道は、山地へ入り山際をグングン登る。
明るく見通しの良い道で、常時、彼方の海岸線が見えてる。上りきった辺りにかなり大きく、立派な施設のある展望台へ来た、「恋人岬」とあった。 

さすがに展望抜群で、大海原が眼前に開け、左方角に宇久須の港が見下ろせる。
手形のモニュメントの横に、駅風の案内板があって・・、

『 ここはこいびとみさき、といおんせんから、つぎはけっこんへ 』・・と掲示してあり、熟年で一人旅の小生にとっては、いささか苦笑気味であったが。 

岬の本来の展望台はこの先500m位先にあるようだ。 途中に愛の鐘というのがあった。 
若いカップルが、おて手つないで思いに耽り、ゆっくり散策しながら、愛の鐘を鳴らして下さい・・!!








http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000A2004030/A2004030-1/A2004030-1_im.jpg



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史跡・土肥金山」に展示されている金塊; ;実物で、さすがに三菱財閥である
(、1gいくら位であったか現在の金価格と比較して計算してみてください)





西伊豆・土肥

何年か前だか定かでないが、「上さん」(妻)と土肥周辺を周遊観光した折、泊まった宿屋が「牧水荘・土肥館」であった。 
港よりやや奥まった処の旅館(ホテル・・?)で、露天風呂の豪快さに驚いたもんだった。 
天然掛け流しの豊富な温泉に、西伊豆随一を誇るといい、数種類の大露天風呂や洞窟風呂に我々はびっくり仰天し、一晩とはいえ大満足したのを覚えている。

「牧水荘・・」の由来は大正期の悠遊歌人といわれた「若山牧水」が伊豆周巡の際、この土肥館をこよなく愛し、延百余日に亘って百数十の詩歌を詠み、晩年は常宿としていたことによるという。

  『 幾山河 こえさりゆかば 寂しさの 
         はてなむ国ぞ けふも旅ゆく
 』   牧水

牧水の残した、遺作品や遺品が多数、館内に飾ってあったのを記憶している。

四季温暖な気候に恵まれている土肥温泉では、明治以来多くの旅人が避暑、避寒に来遊しており、その中には著名な文人・墨客が宿泊逗留したという。 
大正の頃には牧水のほかに、島木赤彦、与謝野鉄幹晶子夫妻をはじめ倉田百三、三好達治、川端康成、中島敦、井上靖、堀江史郎などが土肥を訪れ取材し、土肥を背景にした作品を作り出し、文学で見る近代土肥温泉の歴史でもあったという。


もっとも、「土肥」が最も賑やかになったのは、「土肥金山」が発見され、採掘による事業振興があったからだ、ともいわれる。

室町初期に発見された金山は、江戸時代に第一期黄金時代を、明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った伊豆最大の金山である。 
推定産出量は、金40t、銀400tといわれ、 昭和40年に閉山している。 

坑道の総延長は述べ100km、海底180mまで掘り起こしているという。
一般に、金・1g採取するのに金鉱脈の岩石350kgを掘り出す必要があるといわれる。 金鉱岩石は掘られた後、微細に砕かれ、水洗いし、選別される。 これを何回も繰り返して金の粒子を取り出し、その後、高温の炉で精錬される。 純金(99.99%、一般にフォーナインと言っている)40t採掘するのに、どの位の金鉱岩石を掘り出したか計算して戴きたい。

金鉱山の跡地は、今は観光用として利用され、江戸時代の採掘作業の風景を等身大の電動人形が再現をしている。 
因みに現在まで世界各国で掘られた金の全採掘量は、概ね 25mプール一杯分とかと、どこかで聞いた・・? 

我が家に1kg(三菱M製)の金のインゴット(純金塊)2個所有しているが(これは内緒・・?)、こちらの黄金館(資料館)には 250kg(三菱マテリアル製)の大金塊が展示してある。 
現在の金相場を1g≒1500円として、・・??、世界最大の金塊としてギネスに登録されているとか。 
尚、この資料施設を運営しているのは土肥マリン観光株式会社というが、実質、資本経営(親会社)は三菱M、つまり三菱マテリアル(株)という非鉄金属の製錬、金属加工の会社である。


土肥」(とい)という地名は、その昔伊豆の先住人達が温泉が土中から沸き、金が産出される二毛作・・?に適した肥沃な土地であることから、「土が肥ゆる」で土肥の字があてられたともいわれる。


土肥の山中に中村という在郷がある。 
「湯河原」の項でも記したが、平安期、相模の国の湯河原は「土肥の郷」といわれ、郷主・土肥実平は頼朝時代には信頼厚い側近であった。 
実平は桓武平氏の中村氏の中村宗平の次男とされている。
つまり、その祖先は西伊豆の土肥の庄ではないか・・??と極一部いわれるが、史実には無いらしい。


現在、土肥は行政上の呼称は土肥町とは呼ばない。
政府指令の平成の大合併において、早々、2004年 4月1日- 静岡県田方郡修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町それに土肥町の4町が合併して、「伊豆市」として市制施行している。 
因みに行政名は土肥支所になり、本庁市役所は修善寺(旧町役場)になっている。
 

次回は「戸田の造船」








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01. 15.

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