google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 平成日本紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」

2016年12月27日火曜日

平成日本紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」


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 平成日本紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」   ,




石川英輔著 『泉光院・江戸旅日記』の本





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「厳重を極めたといわれる箱根の関所も、江戸後期ともなると、」 
野田泉光院の『日本九峰修行日記』より、


泉光院は文化9年9月(1812年10月)に佐土原を出発、全国の諸山を巡る修行と九州・鹿児島から北は出羽・本荘まで全国各地を訪れ、文政元年11月(1816年12月)佐土原に帰国している。 実に6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。

この時、泉光院が江戸表の島津家の江戸藩邸に入参した時期は文化14年4月であった。 合わせて江戸藩邸の先代藩主・島津忠持と会談しているが、「恐れあらば記さず」(業務上の秘密)として、記載されていない。
この書は旅道中に関して表向き(政治や経済のこと)のことは一切記されていないが、江戸の仇敵とされる主家・島津家に対しては、相応の内実情報がもたらされたことは想像できる。 

どちらかといえば、書は当時の風俗を生き生きと活写しているのが特徴で、歴史家によれば貴重な史料として高く評価されているともいわれる。


前記したが佐土原は中世の頃、伊東氏から島津氏へと領主が代わっている。
鎌倉時代において佐土原・伊東氏は、鹿児島で勢力を伸ばしてきた島津氏と日向の支配をめぐって激しい戦いが繰り広げられ、徐々に島津氏が優勢となり、遂に伊東氏は豊後国へと追い払って島津の支配が始まる。 

「関が原の戦」で島津は徳川に破れ苦杯と怨念を強いられるが九州南部は安堵され、最初の佐土原城主は島津家久、次いで江戸期以降には島津の支配体制が整っていく。 

野田泉光院の全国行脚の時期は江戸後期であり、当時の佐土原は島津の支配下にあって、島津氏より相当の援助があったことは伺える。

江戸末期、この江戸薩摩藩邸が騒がしくなるのは50年後の事である。


ところで、江戸後期の泉光院行脚中時代は、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成しているし(1814年)、当時の文化・文政の時代(1800年前期)には、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著し(1802年)、間宮林蔵が樺太を探検している(1814年)。 又、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができ(1832年)、歌川広重の「東海道五十三次」ができる(1833年)など、各階、各層の人々の諸国漫遊も盛んであったのである。




因みに、作家・石川英輔氏の「泉光院江戸旅日記」の中で、小生の居住地である神奈川県厚木市近郊の“くだり”について抜粋してみると・・、

『 文化十四年丁丑(ていちゅう)元年:西暦1817年2月16日・・五月八日(6月22日)~十日(24日)鎌倉の主要な神社仏閣巡り・・・藤沢から寒川泊まり、 十一日(25日)相模一の宮(寒川神社)そして四之宮(平塚・前鳥神社)を参回している。 ここでお供の平四郎が二と三はいいんですかい・・と理屈をいったが、泉光院は無視している--平塚八幡、坂東札所・金目山(第七番・光明寺)へ参って納経印をもらいに行くと、住職に笈仏(箱に収まっている戒名)を開帳して欲しいと頼まれた。 長々、読経せられたり・・。石田村(伊勢原市石田)の浄心寺泊り。 十二日(26日)大雨なので、「憂きことの はてや旅路の 五月雨」と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀なら、もう1日いなされ、といってくれた・・、幸いなりと滞在す。かようなるときは発句も役に立つものなり・・。 十三日(27日)、アツ木(厚木市)へ出て相模川を船で渡り、相模国分寺(海老名市国分)参詣。坂東札所・星の谷(第八番星谷寺・座間入谷)の門前に泊まった。 十四日(28日)、坂東札所・飯山寺(第六番・長谷寺(厚木市飯山)、日向薬師(伊勢原市日向)に参り、門前に泊まった。 十五日(29日)大山不動尊(伊勢原市大山)に参詣、菖蒲団子というものを買うて数十匹の犬に食わす・・。 尾尻村(秦野市尾尻)の寺に泊めてもらう。 十六日(30日)十六日坂東札所・飯泉山(第五番・勝福寺 ・小田原市飯泉)参詣。酒匂川を渡って塚原村(同市塚原)泊まり。 十七日(7月1日)この家に笈(背負う荷物箱)を預けて道了尊(最乗寺)へ上って参詣す。――― 十八日(2日)箱根山を登って関所を通ろうとしたところ、引っかかってしまった。  役人「その方ども、江戸屋敷からの関所手形を出せ」 「われわれは日本回国の行者で往来手形はあるが、他には存じませぬ」 「 江戸屋敷へ行って頼むことが出来るはずだ・・」 「 江戸屋敷は存じません、又、お屋敷へ出るほどの身分ではございません」 「そのほうら名を何と申す・・」 「私は一葉坊、この者は合力助と申します」 「今回は内聞で通してやる、次回はそうはいかんぞ・・!!」 「へい・・」・・泉光院が名乗った一葉坊は俳号であった・・、役人とのやりとりが面白いし、関所も、そこそこいい加減であったことが判る。 』



以上本文よりであるが、神奈川県の鎌倉へ入って、箱根を出るまでの神奈川県央、県西部にかけて11日間を要している。 
その気になれば山道を1日60kmをも平気で歩き通せる頑健な人であるが、この相模地方は意外とゆっくり、じっくり歩を進めていることが判る。
見所が多かったのであろう。

因みに、坂東札所・星の谷(第八番・星谷寺・座間入谷)には、当時のメモ帳なる「つづれ草」が置かれていて、ここを訪れた泉光院のことが記されている。

『 「つづれ草」37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国・佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は「周應」であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった 』、とある。

気が付くのは泉光院が記した『日本九峰修行日記』には文化十四年五月十三日とあるが、星谷寺の記録には文化十三年五月十三日になっている、丁度一年違いになっているが・・??。


次回は、日向・「九州の関が原

  
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