2017年6月16日金曜日

平成日本紀行(183) 斐川 「宍道湖」 







 平成日本紀行(183) 斐川 「宍道湖」   、






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/e/e9/Lake_Shinji_Furue.jpg/800px-Lake_Shinji_Furue.jpg
宍道湖からの夕景





その宍道湖の北側を進む。
出雲大社から来ている一畑電鉄大社線が並行して走っている。 
布崎駅から園駅辺りから宍道湖の湖面が見え出した、走行してても湖面から緩やかに風が吹き込んでくる。 

湖面を眺めながらの、余所見(よそみ)運転をしながら(危険です・・!!)湖岸をしばらく走ると「秋鹿なぎさ公園」という休憩所が現れた。 
勿論、今の時間帯では人の姿は見えない。 
砂浜に出て見た。 細粒の奇麗な砂浜で、小波に洗われている。
湖面は風のせいで、漣(なぎさ)というより、かなり波立っていたが。


宍道湖は、島根県東部に位置する全国第六位の広さを有する天然湖で、東側に隣接、位置している中海は第5位の広さで、海としているが同じく天然湖である。 

宍道湖、中海とも同様に汽水湖(淡水と海水がまざる湖のこと)で、松江を挟む大橋川で繋がっているが、境港の境水道を介して日本海とつながっている中湖の方が、宍道湖に比べて塩分濃度は高い。 当然である。 
宍道湖の塩分濃度は海水の約5~10%、中海の塩分濃度は海水の約20~50%になっている。



歴史的の視ると石器、縄文期前期の頃の宍道湖はまだ存在してなく、付近を網の目のような斐伊川が、今の神戸川と合体して大社湾へ流れていたらしい。 
その後、海面上昇によって大きな出雲湾、入り江ができ大社町、平田市は日本海に面した巨大な半島を形成していったとする。 

その後、海面降下、又、斐伊川、神戸川の土砂の堆積によって出雲平野が形成され、出雲湾は次第に埋め立てられて、今のような宍道湖が出来上がったとという。 
併せて出雲大社南部の海域は「神門水海」という湾又は汽水湖が出来上がった。 

この頃が弥生後半の時期、つまり紀元が改まる2000年前頃と想定でき、出雲大社創建の頃とされる。 
この時期の大社は海に面していたと想像でき、大社本殿の前に昇殿用の階段があるが、階段の下を「浜床」といい、当時、浜の近くに本殿が建てられたのでこの名前が付いたと想像できる。

その後、沖積地は今の湖の東から流れ込む斐伊川の河床に運び込まれる土砂で次第に高くなり、堰き止められて概ね淡水湖としての今の宍道湖が誕生したとされる。 

又、中海は弓ヶ浜の砂州が本土側の間と繋がったり離れたりを繰り返し、平安期の頃には砂州が固定化してできたとされる。 
斐伊川の東流以降、宍道湖は西からの埋め立てが急速に進み、江戸期より現在までは埋め立てや干拓による自然の改変が進んでいるという。


塩分の薄い汽水湖であり、栄養豊富な宍道湖は日本一のシジミ産地として有名である。 
ヤマトシジミは全国で約2万トンの漁獲があるといわれるが、そのうち約30%~40%は宍道湖でとられているという。 
宍道湖は全国一のヤマトシジミの産地であり、宍道湖においてとれる魚介類のうち90%以上がヤマトシジミであるという。

因みに、国内の主なシジミに「マシジミ」がある。
こちらは河川の砂地に生息するのに対し、ヤマトシジミは河口、淡水と海水が混じる汽水域の砂礫泥底で多く見られる。
干潮になると水がなくなるような干潟でも生息している。 
尚、宍道湖のヤマトシジミは種苗として全国に供給もされているという。


次回は、「松江



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/


2017年6月9日金曜日

平成日本紀行(183) 斐川 「オロチ伝説と斐伊川」 






 平成日本紀行(183) 斐川 「オロチ伝説と斐伊川」   、






さて、早朝の「出雲大社」参拝見学を終えて一旦、宿に戻り、遅い朝湯と朝食を頂いて宿を出る。
国道9は丁度朝のラッシュの時間帯らしく、上り・・?の松江方面が予想外に混雑していた。

そのため宍道湖へ出る手前で、北回りの国道431号へ回ることにした。 
国道9号線は、宍道湖の南面を行くようになるが、その宍道湖手前の県道23(斐川一畑大社線)を北へ向かう。 

宍道湖西側へ流れ込む中小の河川を渡りながら、右側にかすかに宍道湖の湖面が覗かれ、左手は広大な平地が見渡せる。 
この辺りは「斐伊川」が宍道湖に注ぐ際、土砂により埋め立てられてできた沖積平野で、山地の多い島根県としては数少ない出雲平野が連なる米どころである。


斐伊川は、島根県と鳥取県の県境に位置する船通山(せんつうざん)に源を発し途中、大馬木川、阿井川、久野川、三刀屋川、赤川等、大小の支川を合わせながら北流し、出雲平野でその流れを急激に東に転じ宍道湖、大橋川、中海を経て日本海へ注いでいる一級河川である。


古来、斐伊川は「暴れ川」として洪水を繰り返し、多くの被害をもたらし、日本における代表的な「天井川」としても知られる。 

天井川(てんじょうがわ)とは、砂礫の堆積により川床が周辺の平面地よりも高くなった川である。 
つまり川に堤防が作られて氾濫がなくなると、川底に堆積した土砂の上を川(水)が流れるようになり、次第に水面が上昇して天井川になる。 天井川が氾濫すると、水は行き場を失い長時間ひくことがない。
従って、近代になっても洪水防堤や放水路等の治水工事が後を絶たないというわけである。


斐伊川の中上流域は・・?、

スサノオは高天原から出雲地方にやってきたとき、船通山から天降ったとされる。
その後、ヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメと結ばれるという神話・「ヤマタノオロチ退治」は有名である。 

日本最古の歴史書といわれる「古事記」に記載されている神話のヤマタノオロチ伝説は、雲南市(2004年、6町村が合併成立)の周辺には、それらの伝承、伝説の地として数多く残っているという。 


斐伊川は、神話の国・出雲の「国造りの川」としても知られ、「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という伝説は、この斐伊川が原点だとも言われる。 

船通山を源として各支流と合流しながら、日本海へ向かって流れ落ち、出雲市街の東を通る辺りから、まるで鎌首を曲げるようにして宍道湖へ流れ込む。


古代神代の物語で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)以外には、蛇と名の付くものは殆ど出てこないという。 
この斐伊川に代表される八岐大蛇伝説は、この性状、姿形からして一つの人為及び自然現象として合理的に説明できるのである。

大蛇の頭が八つとされるのは、斐伊川河口付近では扇状の地となって多くの支流を造っていること。
また、が八つとされるのは、上流の谷筋で多くの支川を集めていることで説明できる。 
胴体に苔や樹木が生えているのは、川岸の苔や草があり周辺は樹木で覆うわれている。 
が常に血でただれているのは、中国山地の土には砂鉄が多く含み、酸化すると赤くなっている現象とする。 

又、神話で大蛇の尾から神剣が出現したとあるのは、この地域で砂鉄を取り出し、タタラ(炉へ足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご)で精錬して、製鉄や刀剣製作に用いたことで説明がつく。


ヤマタノオロチ伝説」は、大和朝廷が出雲に進出する過程で、出雲の製鉄集団を征服、武器などの鉄器をこの地方で供給するようになったことが史実として反映しているとも言われる。 

ヤマタノオロチとされる製鉄集団説では、古事記に描かれている「赤いホオズキのような目」としているのは、真っ赤に燃えるタタラの炉を表しているとされる。 
船通山を水源とする斐伊川は肥川、肥の川ともいわれ、その畔は酸化した鉄分であちこちが赤く染まっているという。 

古来、中国地方は砂鉄に恵まれ、土で作った炉に木炭と砂鉄を入れ、タタラで風を送り込み燃焼させて、砂鉄を溶かし鉄にする。
所謂、「たたら製鉄」が行われてきたと「出雲風土記」にも記載がある。 


スサノオがヤマタノオロチを退治した際、尻尾からが出てきたといっている。
これは純粋な鉄が炉から取り出された状態を言ったもので、いまでいう銑鉄、あるいは鋼鉄の事であろう。
鉄はまず剣や刀に作られたのである。 

スサノウは取り上げた一振りの剣は、天照大神に献上され、これが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙の剣)であり、この剣は天皇の象徴である「三種の神器」の一つとされている。 
元より古来、日本人の精神性と刀剣との関わり合いは深く、特に江戸時代からは刀は「武士の魂」とも呼ばれた。



昭和64年(平成元年)1月7日、昭和天皇が崩御された僅か3時間後に、皇居正殿では第125代天皇になられた今上天皇に対して、三種の神器の内の宝剣「天叢雲剣」と神璽「八坂瓊勾玉」(しんじ・やさかのまがたま)が引き継がれたという。 

三種の神器は歴代天皇が継承するもので、今期の皇室典範にも「剣璽等継承の儀」として謳われている。 
この模様、儀式は史上初めて報道陣にも公開され、皇族や三権の長が居並ぶ中、侍従が神璽を陛下前に捧げる姿がテレで放映された。 

小生は、この厳かな儀式をテレビで拝見したのを未だに覚えている、それにしても崩御まもないこの時間帯に素早く、滞りなく行われた事に感心しながら・・!。


又、オロチが毎年乙女を食し、最後に奇稲田姫(クシイナダヒメ)を食しようとする話であるが。
姫は名のごとく稲田のことであり、毎年、斐伊川が氾濫して田畑が流され、凶作になることを、蛇に食われると言っているのである。 
そして「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という段は、この地方の王、豪の者が治水政策を行ったとすれば理解できるのである。


更に話を進めると・・、
スサノオは荒々しい風の神、風雨神であり、青山緑地を泣き枯らすという表現がある。 
一方、父神のイザナギから海を治めよと言われた話もある。 

海の暴風、台風が襲来すると多量の雨を山地に降らせ、洪水が起こり、山は荒れ、川下の稲田は全滅させる。 

古代の土木技術と労働では、大河の治水は容易ではなく台風神、川水神を祀って災禍をもたらさないように祈るほかはなかったのである。 

古代人はその畏怖すべき敵の最大、最強なるものを祭り、和わらげ、媚び鎮めようと祭神を祀り鎮めたのであった。
ヤマタノオロチ伝説」は、これらを擬似化したものでもあったのだろう・・!。


斐伊川は、山域を約80kmを流れて宍道湖に至り、宍道湖から中海、美保湾に至るまでは、その長さは約150kmにもなる。


次回は、「宍道湖

2017年6月8日木曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社の遷宮」





 平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社の遷宮」  .



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出雲大社の参道松並木
参道は真中と両側と松並木によって三つのゾーンに分かれている。 
昔は、中央の参道は皇族の方々や例祭の時の天皇の勅使が通られる道とされていたという。


 http://www.g-rexjapan.co.jp/ishikawahironobu/wp-content/uploads/2016/10/201101301235040dd.jpg
参道横、勅使館と手水舎の間に因幡の白兎でお馴染みの「大国主神と白兎」の像が立つ。



出雲大社の本殿は半世紀ぶりの遷宮されるという・・、

素人目には判りにくいが、出雲大社の神殿、特に本殿は外観から痛みが判るほど進んでいるらしい。
従って、平成20年春頃には御神体を遷し、国宝・本殿の大修理に着手し、改修することになっているという。 
完成には数年かかる見通しで、昭和28年以来、半世紀ぶりの大事業となる見込みだとか。

但し、修理は本殿だけではなく、全ての摂・末社及び修理を必要とする諸建物も本殿と平行して事業は継続され、おそらく10年近い事業になるのではないかとも思われている。

平成20年始めには、祭神・大国主を仮のお住まいとして御仮殿(現拝殿)に遷し、そのときには「仮殿遷座祭」を行うという。 

修造が整う平成25年頃には、元の御本殿にお還りになり、その時も再度「本殿遷座祭」を執行するとしている。



「遷宮」は式年遷宮といって20年に一度の定期的建て直しの「伊勢神宮」があるが、神宮の正殿の隣りには同じ広さの宮地がもう一つ用意され、いわば神々のお引っ越しである。 
だがこちら、大社の遷宮は同敷地内での建て直しとなる。 

造営遷宮とは新しく社殿を建て替え、旧社殿から新社殿へ祭神をお遷しすることで、たとえば、寺院は基本的に倒れたり、火災にあったりしない限り建て替えられないから、法隆寺のように世界最古の木造建築物として残されている。 

ところが、神社の場合は一般に定期毎に、又は、建立されてから一定の期間を過ぎたり、壊れたりなどした時に立て替えを行い、新装成った社殿によって、神様の霊験を一層パワーアップするという考え方である。 
これら神仏に対する造営的考えも日本文化の一つであると言える。


因みに大社本殿の重層な屋根の場合、檜皮葺の厚さが1m以上にもなり、全国のヒノキの立木から皮をはいで集めるという。
本殿の他にも八足門や神々の宿になる東・西十九社などの重文の建築物も修理をすると数万枚もの驚くほどの量の檜皮が必要だという。


平安期、「雲に分け入る千木」と高さ十六丈(48m)もの壮大さが詠われた本殿であるが、現在の国宝・本殿の高さは半分(24m)になる。 

この社殿の形式的高さ、平床面積・六間四方(約120㎡)を最小単位として、これを「正殿式(せいでんしき)」と呼ぶらしく、これに満たないものを「仮殿式(かりでんしき)」として分類している。 

鎌倉中期(弘安年間)より約330年間は「仮殿式」で造営され、以降、江戸寛文年間に「正殿式」に復し、ほぼ現在の本殿の姿となっている。 
今回の遷宮は当然、現行の正殿式で行われるという。



小生、本殿境内横の神楽殿から入場したため、正順の参拝順路ではなかったが、参拝の後、正規の参道側へ回ってみた。
風雪を刻む樹齢数百年の松並木の参道が整然と並び美事である。 

よく見ると参道は真中と両側と松並木によって三つのゾーンに分かれている。 
昔は、中央の参道は皇族の方々や例祭の時の天皇の勅使が通られる道とされていた。 

今は、誰でもが大社に託すそれぞれの思いを胸に、自由に通れる時代になっている。 
この松並木と玉砂利の参道は、いかにもご神域の神々しさを感じる。 
勅使館と手水舎の間に、「因幡の白兎」でお馴染みの大国主神と兎の像が立つ。
(「因幡の白兎」については後述)
振り返って本殿境内を覗くと、相変わらず例の女性がせっせと「御百度参り」の願掛けに勤しんでいた。



出雲大社は地域的には、出雲市ではなく大社町に鎮座していたが、2003年(平成15年)12月 出雲市、平田市、佐田町、大社町、多伎町、湖陵町との合併により、出雲市に存在することになった。 

一方、宍道湖に面する斐川町は、出雲市との合併に際して、住民による合併賛否の投票が行われた結果、反対多数となり単独町制の道を選んでいる。
斐川町は、現在、出雲市、雲南市、松江市の巨大地域に囲まれていて、見るからに窮屈そうである。

尚、昨今(2008年)、出雲市との合併に関する住民説明会などを開いて、住民同士の話し合いが再度行われているようである。 
その、斐川町方面へ向かう。


次回は、斐川・「大蛇伝説と斐伊川




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2017年6月6日火曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲神話と史実」






 平成日本紀行(182)出雲 「出雲神話と史実」  .




「神無月」というが、出雲地方に限って「神在月」という・・! 、

ところで、オオクニヌシが行った「国造り」とは、列島のどのくらいのエリアに及んだのか・・?。 
記紀や「出雲風土記」などによると、先ず、「紀伊の国」(和歌山)へ出掛けている。 
又、「越の国」つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。 
同様に、北九州の筑紫にも出向いているし、朝鮮半島の新羅に天降って後、出雲に来た説とした渡来人の説もある。 

天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子の一人は、長野の諏訪(諏訪大社)まで逃げている。
出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいるし、大和にも多い。 

こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシすなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになる。

これを古代の日本列島の状況に照らしてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる動きに類似し、それが日本の縄文社会に次第に浸透し、次の時代の弥生文化とされる新たな文化圏、云わば出雲文化圏から大和文化圏への移行とも言える。 
このことは九州の渡来人伝説と共通し、日本の縄文から弥生の文化の過渡期とも想像できるという。 


この頃、同時に台頭してきたのが高天原の神々つまり「大和朝廷」(ヤマト王権)であった。
オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫るのが所謂、前述した「出雲の国譲り」である。


国譲りという説話(話し合い)になってはいるが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをしながら、武力で奪い取った色彩が強い。
いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族(大和朝廷)が武力で奪っているわけである。 

この時、オオクニヌシは『私が支配していた国は、次の天神の子に統治権を譲ろう。しかし、「八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守る』と宣言する。 

つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのである。 
譲るのは、出雲の国ではなく葦原中国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけであった。 
この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示し、出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと倭国の支配権が移動した事実を伝えている。 
大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で収奪しているのである。 
出雲の国譲り神話や神武東征伝説が語っているのは、このような古代日本の構造の変革ではないかとも云われるが・・?。



これを古代の日本列島の状況に照らしてみると・・ 、
縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から多くの移民が渡来し、それらの移民によって農耕文化が伝わり、それらが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていくイメージなのであろう。 

つまり、九州の渡来人伝説と共通し、出雲の縄文文化圏から、大和の弥生文化に取って変わる過渡期の時期であったのではないかとも想像することが出来るのである。



本殿を囲む瑞垣(みずがき・神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣、玉垣、神垣のこと)にそって、東西の両脇に長い社殿が立ち並ぶ。 
それぞれ十九の細かい社殿に別れており、旧暦の10月11日から17日までの間、全国の神々が出雲大社に集う際に滞在する神所といわれる。 

他の地方ではこの月日を「神無月」というが、出雲地方に限って「神在月」と呼ぶのは、全国の神がここで神の会議を行うからである。

古来出雲の国において、出雲大社の影響は、単なる信仰や崇拝の対象であるだけでなく、一つの政治勢力として出雲の国、及びその周辺勢力に影響を及ぼしていたのである。

一方、神無月の語源は、神を祭る月であることから、「神の月」とする説が有力とされ、即ち、神無月の「無」は、「の」を意味する格助詞(助詞の一類)であるとしている。 

その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じ、「神無月」になったとする説もある。 

同様に「水無月」は、水の無い月と書くが、水が無いわけではなく、「水無月」と同じく、水無月の「無」は「の」にあたる助詞の古語で、「水の月」という意味になる。 

陰暦6月は、日本列島は梅雨の時期であり水は豊富であった。この時期、田に水を引く月でもあり、水の月、即ち水無(の)月と言われるようになったとする見方もある・・?。

だが、この「神無月」には例外がある。
このことは前にも記したが、記紀神話に基づく起源としては、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギ)の降臨に先立ち、出雲を支配していた大国主命が「国譲り」の際、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫ったのに対して、大国主の長男 建御名方命(タケミナカタ)が、国譲りに反対し、大和の軍勢である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦って負けたことから、信濃の諏訪まで逃れて、その地で諏訪王国を築いたとする。

この時、戦に負けて命乞いをした結果、二度と諏訪から出ないことを条件に助命されたとする。 
従って、全国の神様が出雲に集うため当地方では「神無月」といわれたが、信濃の諏訪の神は出雲へは出掛けられず、この地に留まっていたため、諏訪地方では「神在月」とされている。
即ち、全国が「神無月」であっても、出雲地方と諏訪地方は、「神在月」なのである。

因みに、建御名方命(ケミナカタ)を祭った神社が諏訪大社で、上社には男神の建御名方命、下社には、妻であり、女神である八坂刀売神(ヤサカトメ)・妃神が祀られてある。


次回は、「出雲大社の遷宮





2017年6月4日日曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」 






 平成日本紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」   .




神話の古事記や日本書紀による神代の神武天皇までの譜系図
(出典;http://www.taimayamaguchi-jinja.org/index.php?%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C)





「出雲の国」とは・・??  、

神話の古事記や日本書紀にはアマテラスやニニギ、その後の神代三代と天孫降臨の神々については九州南部(宮崎、鹿児島)あたりで概略記載しているが、神代の太祖にあたるのがイザナギ、イザナミである。
この両者から生まれたのがアマテラス、オオヤマズミ、そしてスサノオであって、アマテラスとスサノオは姉と弟の姉弟関係にある。

この弟はかなりの“”(若気の至り・・?)であり、この悪さが極まったのが「天の岩戸」事件であった。 
弟の悪さで業を煮やしたアマテラスが高天原の岩戸に引きこもり、お隠れになってしまい、世の中(高天原も葦原中国も)が真っ暗闇になってしまう事件で発生する。 

この時、アメノウズメが奇態な踊りを見せて、アマテラスを誘き出し一件落着するのだが、この時、アマテラスをはじめ八百万の神々は相談し、スサノオに罪を償うために弁償の品物を科し、高天原から追放したのである。 
追われたスサノオは、葦原中国(本州)の出雲の国へ降りたったとされる。


出雲へ降り立ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣・クサナギノツルギ、都牟刈の大刀:ツムガリノタチとも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる)を天照大神に献上した。 
この時スサノオは、八岐大蛇の餌食になりそうだったクシナダヒメを助け、そして妻として迎える。

そこでスサノオは次の歌を詠んだ。

『 八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 
八重垣つくる その八重垣を
 』  古事記

(出雲の地に、新妻を迎へ宮を造ろうとすれば、雲の幾重にも立ち上るような、そして八重垣を造るような如しである) 

妻を迎へたことの喜びの歌で、新婚の二人を寿ぐが如くその喜びは幾重にも雲が湧き上がるようである。 その愛でたさは八重垣をなす。 
幸せの気持ちを繰り返す様を「八重垣」に見立てて朗々と歌ひ上げている。 
この歌は日本初の短歌とされている。

この時スサノオは、この国を「八雲立つ出雲」つまり「出雲の国」と定めている。


スサノオの若年における悪行の意味は、「スサ」は神名で”荒れすさぶ”の意として嵐の神暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、勢いのままに事を行うとする説がある。

スサノオによるヤマタノオロチ退治の英雄伝承物語は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た象徴とされ、天叢雲剣の取得はその“”を得た事象であると解釈できる。 
そしてスサノオは、日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有し、人間の成長、そして国土の発展が伺えるのである。


スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、クシナダヒメと幸福な結婚生活を送るが、やがて根の国(冥界)に下ってしまう。 
その後、出雲神話の中心人物となるのは大国主;オオクニヌシである。 

オオクニヌシはスサノオの息子とも、数代後の子孫ともされている。(記紀により異なる)
オオクニヌシは国造神のほか、因幡の白ウサギの説話(後述)からわかるように医療の神としての性格もあり、又、邪悪な自然を避けるための「呪術」(まじない)を定めた神でもあり、祭祀王(祟りは大和朝廷の関係ともされる)としての資格をも備えた神、つまり「大国主神」となる。

葦原中国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた。
この時、共に国造りを行ったとされる少名彦神(スクナヒコ)で、農耕神としての性格があるという。


次回は、「神話と史実


2017年6月3日土曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」






 平成日本紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」    .





出雲大社への拝礼は、希望や願望と同時に、“厄災を起こさずに鎮まってて下さい”という意味でもあるとか・・、

出雲大社の広大な境内(実は、境内そのものは伊勢神宮や宇佐神宮よりかなり小規模)の内、拝殿、本殿などの敷地、つまり銅鳥居の内側を「荒垣内」と称し、本殿周囲の垣を「端垣内」と称している。 

一般参拝人が寄れるのは荒垣内で、八足門の内側・端垣内へは禁足となっている。


境内、特に荒垣内、端垣内には、筑紫社(宗像大社に祀られている神)や御向社(大国主神の嫡后である多紀理比売命・タギリヒメを祀る)など、数社の摂、末社が祭られている。 
その荒垣内摂社の中に素鵞社(そがのやしろ)が本殿の真後北側に、南面つまり本殿同様の向きで鎮座している。 
小社(小さな御社)であるが四方を鬱蒼とした樹木に囲まれ、一段高い位置で神威豊かに祀られている。 
祭神は、有名な素戔鳴尊(スサノオノミコト)である。


スサノオは天照大神(アマテラス)の弟神でもあり、出雲の国に赴いとき八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話は周知である。 
オオクニヌシの親神(日本書紀)として、大国主に「国造り」の大任を授けられた出雲の太祖でもある。 
即ち、本殿の真後ろから暖かく大国主を見守られているといった感じなのである。(昔、出雲大社の主祭神とされていた時代もあったという) 

素鵞社は、本殿の後陰になったいるため一般参拝人には気が付きにくいのであるが、ただ、我々参拝者が「拝殿」に頭を下げ、「八足門」に額ずくとき、主神の大国主神には、前述したように横向きのため参拝者の真意が直接伝わらないが、本殿越しに鎮座している「素鵞社」には伝わるのである。 
つまり、われわれが出雲大社に詣でる時、知らずのうちにスサノウをお参りしていることにもなるのである。


ところで、大和系の神社(伊勢神宮や熊野神社など)は「2礼2拍手」で礼拝するが、しかし、出雲系は違って、現在の礼拝は「4礼4拍手又は2礼4拍手」である。 
かっては「16礼16拍手」であったという時期もあり、明治時代になって礼拝方式が簡略化され、今に至っているとのこと。 
多礼多拍手の儀礼は、「祟り封じ」の為に作られた挙礼挙手の方策の一つだったかも知れない。 


神社とは、祭神が祀られているところであり、鎮守の森に囲まれ鎮座している所である。 
又、鎮祭という儀式もあり、諸神を鎮め固めるための祭儀であるとしている。

我々は神社に参拝するとき、いろいろ祈願をする。 
無病息災、家内安全、交通安全、五穀豊穣、安全平和、等々、裏を返せば自然界はままならぬもので、人災、天災、争い事と後を絶たないのである。 

これらを、特に日本人は神の厄災と観るのであって、古代中世の人々は、この傾向が強く、特に神に祈るとき希望や願望は同時に「厄災をおこさずに鎮まってて下さい」という意味としている。

出雲大社は、大和の神々に虐げられ滅ぼされた神なのであり、御神心は怨み1000年の怨念の神なのである。 
それだけに絶対的に鎮座をお願いする神でもあるのである。


神社は定期的に神を祭る儀式、神社の祭りがある。 その中でも重要な要素の一つは、神にお供えものを献じることである。
マツリ(祭)という言葉は、マツル(献)から出たものだといわれている。 

神に神酒・緒食をたてまつることがマツリの原義である。 
日本人の考え方では神は、祭りの機会ごとに祭神が来臨され、祭りが終わると帰っていかれると考えられていた。 

現在でも祭りの基本的儀礼構成は、まず神を迎え、神酒・御食を供えて仕えまつり、願いや感謝の祈りを捧げ、時が来ればお送りするという形をとっている。 

祭礼の日のみ、鎮座している神が天下に降りてこられて俗世と交わり、俗界を伺い、俗民は神の霊力を戴くのである。


次回は、「出雲の国と神話


2017年6月1日木曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」

 平成日本紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」   、





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古代・出雲大社の想像図(資料)



大国主が、大和の神へ「国譲り」を行ったとされる真意は・・? 、

出雲大社が最初に創建されたのはいつのことなのか・・?、
その具体的年代を知る事は非常に困難であると言われる。 

出雲國風土記」や「記紀」(古事記、日本書紀)に創建の由緒や社殿の壮大な様がはっきりと記されてはいるが、創建の年代については、神話伝承の時代に溯る故に確定するのは難しいとされる。


出雲大社が神話伝承の時代から、次の歴史的実話に登場するのは、第11代の垂仁天皇の御代であるとされ、在位は紀元前後1世紀とされているので、大社創建はそれ以前ともされている。

この出雲大社の本殿に祭られているのは、ご承知、「大国主神」(オオクニヌシノカミ)である。 
その大国主によって出雲は「国譲り」の地、国譲り伝説の地とされ、出雲大社は国譲りの神・大社とも言われる。 


然らば「国譲り」とは一体何か・・? 。
大国主はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれた。 
それは全てのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。
そして、この国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされている。  


弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷(最近は「ヤマト王権」ともいう)は、各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったとされている。 
須佐之男命(いろんな書き方がある)にしても、大国主命にしても出雲土俗の統治者、或いは神とされていたものが、無理やり大和朝廷によって統合されたものとされている。
それらの経緯が神話や祭儀となって組み入れられたのが「国譲り」とされた。
ただ、その裏には実は制圧された出雲の怨念がこもっているともいう。 


「国譲り」の真意・・?? 、 
双方の見方を変えてみると国を譲ったのか、或は国を奪われたのかと言う事である。 
記紀に記されているものは、大和朝廷成立後、大和側から書かれたものであり、普通、勝者側からは都合の良いことは書かれ、悪いことは書かれていないのが自然である。 

大和朝廷(天照大神)から見れば、出雲王朝(大国主命)は邪魔な存在であり、大和朝廷による出雲の国の収奪戦が行われたとという見方もある。 
大和朝廷からみれば出雲を奪ったことになるが、出雲王朝からみると国を譲ったことにもなり、記紀には、出雲が大和に穏やかに(・・?)国を譲ったと記されているが、内実は、この時、激しく紛争や騒乱が起き、場合によっては戦乱によって大国主命の殺害などもも考えられる・・?。


古代における陰謀や暗殺、殺害といった事件には、必ずといっていいほど敗者には「祟り」という現象が付き物で、この事は当然ともされた。 
平安初期、菅原道真が宮廷の陰謀によって九州に左遷され、無念のうちに死してから、京では道真の怨霊)などによって大事な災厄を被っている。 
当時の人々に取って「祟り」は日常的であり、祟りほど恐ろしいものはなかったのである。

出雲の国を奪った大和朝廷は、大国主命を神格化して出雲の地に最大の神殿を作り、大国主の祟りを鎮めようとした。 それが「出雲大社」の始まりとも考えられるのである。 
大層な大社造りを見ると大和朝廷がいかに「祟りを恐れた」か分かるともいう・・?。 
又、それは、前述した本殿の神格の配置にも観られことである。



話は些かとぶが・・
信州・諏訪地方に諏訪大社による、ご承知奇祭と言われる「御柱祭」なるものがある。 
御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭であり、祭神は「建御名方命」 (タケミナカタノカミ )で、越後出身の神(実は出雲である)であり、武神、農耕神、狩猟神といわれる。 
古事記では、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、更に追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
祭神・建御名方命は、越後の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。

ある時、建御名方命は出雲へ渡ったものの、高天原の神々(武甕雷男神:タケミカズチ、鹿島神宮、春日大社祭神)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれていると。 
これは記紀つまり、記紀の編纂は高天原(大和朝廷)サイドからの捏造された見方であって、出雲サイドから見れば出雲族は堂々と戦い、そして無念ながら敗れ去った。 
その時に、からくも大国主命の息子は母方の実家の越後え逃げ、その後、諏訪に入ったのであり、建御名方命は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ諏訪大社に祀られているとするものである。

建御名方命は大国主命の息子ということで、神々が出雲大社に集まる神無月にも出雲へは行くことができず、諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪地方でも承知している話である。

御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。 
祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。

この四本の柱とは何を意味するのであろうか。 
これら柱祭の起源には柱が神の依代(よりしろ)であり、四本の柱が宮殿を表すとされて柱を七年ごとに新規に取り替えた名残り、つまり、「遷宮」とういう名残ではないかという諸説もある。


更に、ここでは出雲大社の本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?、
四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 

諏訪大社は上下あわせて四社(上下2社ずつ)ある。 
出雲本社の本殿の高さは、当初は96m、あるいは48mもあったとされているが、このことは先に記した。 

本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物には当然、巨大な芯柱や大柱が必要である。 
又、大柱は切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。 

諏訪大社では、本家、出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも想像できるのである。

大和側から見れば、出雲はやはり恐ろしくも偉大な神であった。
これだけに本殿を高くするという意味合いは、御霊を天上に追いやって天下に下りて来難くすることで、祟りや呪いを出来るだけ遠ざける事だったのかもしれないのである。


御柱祭」が行われる前年、北安曇郡小谷村(信越国境)の二つの諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌(なぎがま)を打ちつけるという、珍妙な祀り行事がある。 
「薙鎌」とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、この時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのか・・?。 


建御名方命が高天原の神との戦い(国譲り)に破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
この薙鎌は大和の神が「許してやるから、ここからは出るなよ・・! 」という印とも言われている。 

一方で、出雲の国で須佐之男命が殺したとされる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたのが草薙剣で「三種の神器」の一つとされる。 
その薙鎌は、その草薙剣を模写したもので、この剣を出雲王家の怨念を柱に打ちつけ、天下の末代まで呪柱、忌柱として祀る印ともいわれる。 


引き続き、出雲大社・「拝礼の意義


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2017年5月31日水曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「御本殿」





 平成日本紀行(182)出雲大社 「御本殿」    ,






http://www.dokuritsuken.com/izumo/images/2008/08/08/DSC_1489.jpg
出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Izumo-taisha11n4592.jpg/1024px-Izumo-taisha11n4592.jpg
出雲大社・本殿(Wik)





本殿内部の祭神配列の異様さ・・? 、

その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 

こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 

その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。


その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 
千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。


現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) 
ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48メートル、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。

普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 
背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。


2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 
48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。

平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。 

ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、即ちその本殿へ誘う階段がまた長大であったという。 だが本殿そのものの建物(建屋)は現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。
いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。


ここで、(ヤシロ)と(ミヤ)の概念について。 
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 
代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く示された場所を表す。 
つまりヤシロとは社であって聖域を指している。
又、屋代(ヤ・シロ)は宮のことで、社の一角に臨時に屋根をしつらえて神事を行う場所のこと、つまり神仙(神様)の住居としてのミヤ(御屋・宮)のことで、本宮とか本殿とも呼ばれる。 

出雲大社はその起源からして祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ち、神の宮であり、神宮本殿・なのである。
その出雲の宮社(本殿)が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである



出雲大社御本殿内部の祭神(御神体)配列について・・、



写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)


出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという。
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 
御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。

大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 
その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 

しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 
従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。
つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 

要するに、我々参拝者と大国主神とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っているともいえる。
このことは大和神(天孫神)の意に反して、主神が「祟り」を起こすための「行い」を監視しているともとれるのである。
このことは、神話における大国主が大和神へ「国譲り」を行った結果、その構図が現れているとも観れるのである。(「国譲り」については次回後述)


以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるという。
先ず、古代の住宅様式における居住まいは、入口部と最上席との位置、配置関係は御本殿のそれと一致するという。(現在でも通じる)
出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。

又、古代では西の彼方には「常世(とこよ)の国」(霊魂が鎮まるところ)があると信じられていた。
そして出雲大社のすぐ西には「国譲り神話」の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされている。
大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 
現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事があるという。

いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建時の様子が隠されているのかもしれない。


御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 
上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 
出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる。

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 
            八重垣作る 其の八重垣を
 』

という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊と社の後方に聳える八雲山との縁により描かれているとされる。
だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば、何故七雲しか描かれていないのか・・?、という疑問である。 
このことも、「国譲り」伝説の影響による出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊の歌と絡めて疑問視されてきているという。


次回は、「国譲り


2017年5月30日火曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」




 平成日本紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」   、




http://www.dokuritsuken.com/izumo/images/2008/08/08/DSC_1489.jpg
出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG/800px-Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG
出雲大社・拝殿 (以上はWikから)




出雲大社での参拝は四礼四拍手一礼が基本で、四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通ずるという・・、

出雲大社の拝殿、本殿に向かうには、本来は、松の参道から本殿境内とされる銅鳥居から入殿し、拝殿へ向かうのが本筋である。 
小生の場合、いきなり神楽殿の前へ来てしまったので、これより通じている横参道より直ぐに、本殿境内の拝殿に立ってしまった。

拝殿は本殿の手前にあり、総ケヤキの切り妻風・「大社造り」といい、珍しく妻入り部分(妻の方に入口を設けて、これを正面とする様式)が拝所になっていて、上部に神楽殿に次ぐ大きさの注連縄が下がる。 
早朝、全く静かな雰囲気で神妙なるお参りが出来、ホッとする。 


出雲大社での参拝は、四礼四拍手一礼が基本で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけらしく、その起源は分かっていないという。 
四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通じているともいい、又、賽銭も“しじゅう御縁”が有りますようにとの意で、「45円」が妥当との事らしい。 
御縁は“男女の縁結び”も合わせて、四拍手つまり“幸せ”に巡り合いますよう祈願するものという。

因みに、お膝元の島根県の離婚率は日本一低いらしく、これも地元の人は出雲大社のご利益としていて、やはりというか「縁結びの神様」なのであり、「縁を離さない神様」なのである



拝殿奥の本殿・拝所においても四礼四拍手一礼を行う。

気が付くと、一人の女性が真剣に拝礼している姿があった、未だうら若き女性である。 
早朝の静寂の中、手持ちの物も無く、拝殿、そして本殿・拝所(八足門)と正規の石畳の通路を往来しながら一心不乱にお参りしているのである。
「お百度参り」であろう・・!。 

拝礼参拝は、先祖の供養、自分と家族の健康、平安、無事など、心に思い願い事すべてに功徳があり、又、自分の反省、懺悔にて心身が洗われることをより強く祈願することだという。
 この女性には如何なる願いがあるのやら、神仏に百回(数多くという意味もある)お参りする行為に見とれながら、満願成就することを願うのみである。


更なる御神域に囲まれた、本殿・拝所は一段高いところに本社(ほんやしろ)がある。 その至近正面にあるのが「八足門」といって、一般の参拝はここまでである。 
本殿と八足門との間にあるのが本殿・楼門で、この門は二階づくりになっており、階段の一番上(15段目)、つまり二階の部分が本殿の床のと同じ高さになっているという。
 尚、階段の下の部分を「浜床」といい、昔は浜の近くに本殿が建てられていたらしく、この名前がついたともいう。


次回は、「大社・本殿



2017年5月27日土曜日

平成日本紀行(182)出雲 「日本人と藁」







 平成日本紀行(182)出雲 「日本人と藁」   、





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出雲大社の注連縄




引き続き、注連縄に絡んだ「藁」(わら)について・・、

序ながら、昨今、都会では「」を見かけなくなったが、それでもお正月になると注連飾りなどで、藁に接する機会がある。 

注連縄を作るために、農家では秋の収穫の時に茎の長い青い藁を蓄えておくという。 
藁(わら)とは稲の米をとったあとに残る葉や茎の部分の乾燥したものを言い、古来より、藁は日本人の衣食住の全てを、その温もりで包んできた。 

その水田や藁葺(わらぶき)屋根は、安らぎを感じる日本の原風景でもあろう。 
藁葺屋根をはじめとして、日本全土で受け継がれてきた藁細工には草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、俵(たわら)、蓑(みの)、雪長靴 お櫃(ひつ)などの各種保温材、そして藁人形など様々な種類があり、それらは地域によっても形が異なるが。


鰹(かつお)どころ土佐では、タタキ造りに [藁焼き] が一番とされ、藁は火力が強く、しかも藁の燃える時の香りはより一層、鰹の風味を引き立たるという。

藁は筒状で中が空洞になっているので燃え易く、藁の強い炎は鮮度のよさを示す「鰹の肉色」を損なう事無く、表面のみを瞬時に焼き上げ、藁が燃える時に発する「けむり」や「におい」には、魚の脂の酸化を防止し、尚且つ、殺菌効果のある成分「フェノール類」が含まれているという。 

又、茹でた大豆を藁づとに包み、藁についている納豆菌で自然発酵させたものが納豆である。 
最近でも季節になると報じられて見られるのが、風物詩ともいえる金沢・「兼六園」の藁縄による雪釣りの風景である。 
芯柱と呼ばれる棒を立てて、縄を渡す「りんご吊り」というらしい、芯柱は高いもので16mにも及ぶと言う。


藁は、我々現代人が考えている以上に強いといい、湿れば伸び、乾くと縮む性質がある。 
この性質を上手に利用したのが藁で編んだ「」である、縄で物を縛る時(祭屋台など・・)、湿らして縛ると後に乾く時にきつく締まるのである。 

藁といえば幼少だった頃、故郷田舎で牛舎の藁小屋で、藁まみれになって遊んだのを思い出す。
日本人と藁は、今でも切っても切れない関係に有るのである。


藁は単に米をとった後の残り物などではない・・、! 
燃料であり、様々な生活の道具を作る素材であり、新たに息を吹き込まれるべきものである。 
今、日本人の生活からどんどん失われようとしているものが多数あるようで、藁文化もその一つであろう。 
先人達の暮らしを知って、それらを残し、更に回帰・復古的にも行使、実施してゆくことは、環境問題にも一役かうかもしれない。

最近では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にあるという。
特に、或る研究機関は「バイオマスエタノール」(バイオマスとは生物から発生できるエネルギー量で、これをエタノールに変換し、内燃機関の燃料としての利用)の製造実験も発表されている


ところで、都会では米が白い状態のまま田んぼに出来ると思っている子供達がいるという。
そして、米のとぎ方も知らない若い母親もいるという。
冗談のようで何とも切なく悲しいな話である。 

故郷は遠きにありて思うもの」も結構だが、米のできる日本の田舎、田園、故郷、古里をもっと知らなければならない。


次回は、「出雲大社・社殿


2017年5月26日金曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社」 




 平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社」   、






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG/1024px-Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG
出雲大社の神楽殿を飾る日本一の「大注連縄」





先ず、出雲大社の日本一の大注連縄について・・、

午前6時を回った頃の早朝、国道9から国道431にて大社方面へ向かった。
国道は、それなりであったが大社の町は未だ朝の静けさの中であった。 

歴史を感じる古い家並みへ入ると、国道は急に狭くなってきて、老舗とおぼしき旅館なども目に入る。 右横に大きな駐車場があったが、早朝であまり人の気配が無いので、おもいっきり車を奥まで進めてみた。

左に祖霊社(信徒祖霊を祀る、法事なども行う仏寺院のようなもの・・?)と言われる社宮の参道が延びていて、右側には大社殿に一番近いと思われる門前横丁の商店街が並んでいる。 広い通りのお土産物商店街は、無論未だシャッターが下りていて、こちらの外れの方に車を置かせてもらった。


この辺りは大社本殿の西側に位置しているようで、正面にはすでに「神楽殿」の一際大きな社殿が鎮座している。 
表面には出雲大社特有の大きな注連縄(しめなわ)が配されて人目をひく。 

長さ13メートル、胴回り9メートル、重さは3トンにもなるという圧倒的な量感に驚かされる。 この大注連縄は、「国引き神話」の出雲を象徴しているともいう。(国引き神話については後述)

下向きの三個の末広がりの注連下がりには、よく見ると、あちこちに硬貨が突き刺さっている、誰が言い出したのか、うまく刺さると願い事が叶うと言われるが・・?。

神楽殿は本殿と同じように朝夕のお祭りの他、時に応じて御神楽や御祈祷が奉仕される。
全国には出雲大社の分社、支社、講社や教会が各所にあるが、それらに属する人々が揃って本社へお参りすることを「おくにがえり」と言い、ここ神楽殿でそのお祭りが奉仕されているという。 

出雲では祭事を行い献納することを「奉仕」と称しているらしく、祭事は8月6日~10日、「おくにがえり」の神事として執り行われるという。



「注連飾り」について・・

出雲大社・神楽殿の大注連縄(おおしめなわ)は日本一の大きさを誇るという。 
その長さといい、重量といい他の神社を圧倒しているが、その何よりの違いは、撚り(ねじり)が左綯い(ひだりない)となっているのが特徴であり、出雲地方の神社は概ねそうらしい。 

この注連縄とは、〆縄とか七五三縄の字も当てられ、又、「注連飾り」とも呼ばれている。 
注連縄は神聖な場所を意味するもので、俗的な世界と神聖な世界とを区別する結界の意味もあり、日本神話の天の岩戸に張った「しめくりなわ」が元祖とされている。

その起源は古事記に、「天照大神が須佐之男命の乱暴を畏れ天の岩戸に隠れた時、この岩戸の前で天宇受売命(アメノウヅメノミコト)らの神々が賑やかな宴を催した。 これを怪しんだ天照大神が覗いたところ、傍に隠れていた天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)がその手をとり天の岩戸から引き出だした。 そして、布刀玉命(アメノフトダマノミコト)が尻久米縄(しりくめなわ・しりくべなわ)をその後ろへ張り渡し『ここより内に戻れませぬぞ』と告げた」と書かれている。


注連」をなぜシメと読むのか・・?、
中国では、人が死んで魂が外に出たとき、戻らないように水を注いで清め、縄を連ねることを注連(ちゅうれん)といい、その縄を注連縄と読んでいたらしい。 
日本神話における「しりくめなわ」が、中国での意味の「しめくりなわ」の意味となり新たな語彙が生じたのかもしれない。


又、注連縄の別の意味合いでは、古神道でいう大自然そのものを現しているという。
大自然そのものの中心になるのが太陽であり、天である、その自然現象を表したのが「注連縄」であるという。  

横に張られた縄の部分が「」、垂れた縄が「」、神垂(紙垂)が「」とされ、その奥にくるのが神様()となり、総じて自然現象を象徴しているといわれる。 
この注連縄を祭りや祭事に付けることにより五穀豊穣に感謝する春、秋祭りの意味を持つことになる。

又、注連縄には清浄・神聖な場所を区画するための境界線としても引き渡される。 
従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸、瀧(滝)、寺院などにも掲げてることろをよく見かける。 
正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、上述の意義により家の中に悪霊を入れず、穢れ(けがれ)を去り、無病息災・家内安全を願ってのことである。 

相撲の「横綱」は土俵入りの際、紙垂のついた注連縄を化粧まわしの上につける。 
相撲界では横綱が最上位であり、穢れてはいけない神に近い存在ともされている所以である。


注連縄は、左捻り(ひだりより)を定式として三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂(かみしで)を一般には4本下げる。 
紙垂は、御幣(ごへい)、幣束(へいそく)ともいい、ご神体(神様)を魔神、魔物から守る力があるという。

因みに、数本の藁(ひもや糸も同様)などを、より合わせて1本にするこのを捻る(よる・撚る)といい、普通、捻りと綯い(ない)は逆になる。

注連飾りには「大根締め」、「ゴボウ締め」、「輪飾り」など色々な種類の形式があるが、最も一般的な大根締めは両端がつぼまり中心部が太くなる形、そして、ゴボウ締めは片側が細太となり、一般に左側が細く右側が太くなるとされる。


又、古代、注連縄の材料である藁自体にも神が宿るといわれ、幸運を呼ぶ力があると信じられている。 
藁は神に奉げる米、稲穂を支えている芯でもあるからである。 

正月には、この藁で注連縄を飾り、小正月や孟蘭盆には藁火を焚いて先祖の霊を迎える。 
正月の注連縄は、その家が神の家であることを示し、注連縄のシメはそこを占める、占有するといった意味で、占有するのは神である。 

建物を建てる時の地鎮祭でも注連縄が張られるが、この地を神が占有し魔物を遠ざけることで、その建物も守られるという考えからきている。


次回は、「」についての考察


2017年5月24日水曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)







 平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)  .






 http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/2/78p1.jpg
大森代官所跡近くにある「井戸平左衛門正明」を祀る井戸神社





序ながら、「いも代官」と言われた大森代官の逸話を一つ

石見銀山」の代官所は大森町に設けられ、幕末まで59人の奉行・代官が交代で赴任したという。
無論、当地の代官は銀山は勿論、同時に村方の支配をも行っていたとされる。


1731年(享保16年)、大岡忠相(ただすけ:越前守)の推挙により、第19代代官に「井戸平左衛門正明」(いどへいざえもんまさあきら)が任ぜられた。 
彼は、60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、銀山奉行のかたわら、領民から「いも代官」として慕われたという。 

その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カライモ:さつまいも)を導入し、普及させたとされ。 
又、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、更に、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したという。


普通、代官といえば私服を肥やし、領民を苦しめる悪代官のイメージがあるが、こちらは善政の見本の如くの人物である。 
しかし、これらの所業は幕府の知られるところとなり、1733年、平左衛門は大森代官の職を解かれ、備中国・笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられた。 

平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたと云われている。 
井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が大森町に鎮座している。


境内の顕彰碑には・・・、
『 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。 』

平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑は490ヵ所にも及んでいるといわれ、島根県の外に鳥取県や広島県にも建てられていりという。




引き続き近世の「石見銀山史」であるが・・、

幕末の1866年(慶応2年)6月、第二次長州戦争において幕府は石見国に近隣藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、その1ヶ月後、浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出し落城している。

これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に、家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。


以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となった後、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。
この後、石見銀山は大正末期の頃には産出微小となり閉山している。 


こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められてきた。

昭和44年(1969)、代官所跡・要害山・山吹城跡、各所の間歩、それに各所の墓・霊所・神社、大久保長安墓が国指定史跡となり、その他、県指定・市指定遺跡が多数存在する。 

又、大森代官所跡に「石見銀山資料館」を開館し、「熊谷家住宅」等が重要文化財に指定され、現存の大森集落が、町並みの「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

そして、2005年9月、政府は世界遺産に推薦することを正式に決定している。


世界遺産の産業遺産としてはアジアでは皆無で、鉱山遺跡は、欧州や中南米にあるが、18世紀以前の所謂、産業革命前の鉱山遺跡としては「石見銀山跡」は稀有の遺産といえるのである。  

尚、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。



【付記】  .

世界遺産に指定された大森地区は山間の狭い地域のために、観光目当ての自動車等が通るスペースが無く、「パーク&ライド方式」がとられている。
パーク&ライド方式とは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自動車等を郊外の駐車場に停車させ、そこから公共交通の鉄道や路線バスなどに乗り換えて目的地に行く方法である。 こちらでは、石見銀山駐車場に車を止め、ここからバスを利用して各要所に移動することになる。
因みに、2007年(平成19年)7月の世界遺産登録後、来訪者が急増し、8月は1カ月間で63625人が来場し、又、今年(2008年)は11月21日現在で、昨年の3~4倍となる32万7533人が訪れたという。(協会発表)

本稿で、世界遺産・「石見銀山」は終了いたしました。 



関係書物は下記石見銀山に関する資料です。

「世界遺産石見銀山を歩く」 穂坂 豊
「石見銀山 四季 暮らし ものづくり」 いなとみ のえ
「石見銀山 (別冊太陽)」江田 修司 田中 琢
「出雲と石見銀山街道 (街道の日本史)」 道重 哲男 相良 英輔
「石見銀山を歩く」―ガイドブック
「江戸幕府石見銀山史料 (1978年)」 村上 直
「石見銀山の港町温泉津紀行」 伊藤 ユキ子

 
 
次回からは再び日本周遊を辿ります。 先ず、湖陵から出雲大社


2017年5月23日火曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」   .



「石見銀山」が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないという。
ただ、「銀山旧記」という説話古文書にはは以下のように記されているという。

『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏が3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・』 とある。


日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 

寿禎は先ず、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。 

寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。 
とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになり、秀吉が朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が今も現存するという。


次に、関が原の戦いに勝った徳川家康は、その僅か10日後には石見地方を直轄化(天領)している。
慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。 

石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。

天領である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。


以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つであり、「石見」の場合の所領は、銀山を中心とする約5万石相当で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。


先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
この「銀山旧記」は現在、「生野書院」(生野史料館;朝来市生野町口銀谷)に展示してあるという。
生野は「生野銀山」として石見銀山同様、大量の国内銀産出地として有名。



ただ、「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされているが、その中に、馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成された「銀山記」なるものもある。 
本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本(手で書き記した書物、写は書き記すという意味)や一般の読み物として流布したものとされている。 

時代が下って銀山が衰退する中、山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を編纂して幕府への貢献をアピールすることも行われたという。 
従って、誇張した表記も多く、真実性にはやや乏しいともいわれる。

その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500kg)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとある。 又、この頃の様子を「慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り」と記している。 

如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう。



一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算がある

16世紀後半から17世紀前半の石見銀の最盛期における産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1が日本の銀が占めていたといわれる。(世界生産量の平均は年間200トン程度)  

そして、その石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていたことは、戦国時代後期のポルトガル人によって石見が「銀鉱山王国」と照会されたことでも判る。 

石見銀山は灰吹法の導入からわずか35年後にして、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれていたのである。 


石見銀山の最盛期の頃は世界史でいう大航海時代にも当たり、西洋では日本とも交流をもったポルトガルやスペインを中心とした航海時代に突入した時代でもあった。 

海上交通や貿易などで人々が地球規模で交わり始めていた中、貨幣価値は世界的にも「」とされていた時代である。 

日本に伝わったとされる「ポルトガルよりの鉄砲伝来」や「スペイン人のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教活動」(いずれも16世紀頃)などにおいて、彼らの本来の目的は日本の「」にあったともいわれている。


石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではなく、人々の往来により、海外から新しい技術や産業などを含め、驚くほど多様な情報や文物が伝わり、当時の庶民生活を豊かにしたともいわれる。


次回は、引き続き「銀山の歴史


2017年5月22日月曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」  .






 http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/4900iwami-ginzan_fig001.gif
石見銀山の尾道銀山道
( このMAPは、筆者・○○氏から拝借したものです。
詳細URL; http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/49iwami-ginzan.html ) 





龍源寺間歩より先は、車では行けず山道となる。 

先にも記したが、この山道こそ石見銀山と温泉津を結ぶ、所謂「銀山街道・温泉津・沖泊道」であり、街道の中でも最重要の銀山ルーとで、しかも一番の難所と言われている。 

降路坂」と呼ばれる頂上部には「妙法蓮華経」という名号が彫られた石塔や石碑などが各所にあり、約1時間で麓の西山部落へ達する。
現在は「中国自然歩道」となって整備されている。

沖泊道は、主に16世紀後半の毛利氏の時代、約40年間にわたり銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地としても機能した港である。

沖泊道よりの北側、大森町の西側に「鞆ヶ浦道」が山間を貫いている。
沖泊道より更に古く、16世紀前半から中頃の大内氏の時代、銀鉱石を鞆ヶ浦から博多に積み出した港である。

二つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残っているという。
道中には運搬に関係した伝承の地跡、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが多数点在して残っている。



当初、銀の搬出は日本海側の温泉津港を使用し、海路により輸送されていたらしいが,海上輸送は危険を伴うため、江戸時代には陸路を通じ、今の広島県尾道へ運ぶルートが整備された。

慶長5年(1600年)9月、関ケ原の戦いが終わると石見銀山は徳川幕府の支配下に入り、初代の銀山奉行として大久保十兵衛長安(石見守長安)を重用し、積極的に開発をすすめた。
長安は、慶長中期(1608年ごろ)以後、銀の輸送は海上輸送から陸路輸送に切り替え、新たに広島県尾道までを結ぶ銀山街道を整備した。

近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道は、天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町・尾道まで運ぶために設けられた街道で、難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。 
尚、この街道は江戸時代には出雲大社道としても往来があったようで、大いに盛んであったという。

大森を出発した銀は、荻原から険しい「やなしお道」(現在の国道357号線の南側、中国自然歩道;平成8年に文化庁の「歴史の道百選」)を抜けて粕淵、九日市、酒谷を経て赤名峠を越え、広島・安芸に入って三次、甲山から尾道まで運ばれた後、瀬戸内海路で大坂や京の「銀座」に集められたという。

この道中、「」の集積中継地として安芸・上下町(じょうげちょう;現、府中市上下町)に代官所が置かれ、幕府直轄の天領として政治的にも経済的にもこの地域の中心となっていた。
陸路の終着である尾道をはじめ豊かな商人が多かったこの宿場町は、現在でも商店街を中心に賑わいを見せており、奥行きの深い白壁の町屋など、文化財的建物が数多く残っている。


尚、大森銀山する生産する精錬された「灰吹銀」は、その都度代官所脇の御銀蔵に貯蔵され、百姓が動員されやすい農閑期に入った時期を見計らって年1回尾道に運ばれた。
尾道からは船で瀬戸内海を通って大阪に運ばれ、大阪銀座か大阪御銀蔵に一旦納められた後、京都の銀座に移され、そこで幕府が発行する銀貨に鋳造されたという。


次回は、 「銀山の歴史


2017年5月19日金曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」





 平成日本紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」   .






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石見銀山遺跡・「龍源寺間歩」入口




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龍源寺間歩の内部





落ち着いた雰囲気の「安養寺」からは道路は山峡の地へ入り、車がやっと一台通れるくらいの道幅である「新切間歩」や「福神山間歩」などがあり、間歩までは約1.5kmの坂道を緩やかに登って行くと最奥に「龍源寺間歩」があった。 
尚、間歩(まぶ)とは、明治以前は坑道(こうどう)のことを指していた。


この「龍源寺間歩」の近くには、前述した「佐比売山神社」があり、鉱山の神様をまつる神社として知られている。
社は参道、鳥居、山裾の階段を登った先、鬱蒼とした木立の中に鎮座している。

佐毘賣山神社は、鉱山開発の祖神である益田の同社・佐毘賣山神社から分霊、勧請したもので石見銀山の主神であり守り神である。 
主神は鉱山の神とされる「金山彦命」を祀る。


面白いのは石見銀山の主神・佐毘賣山神社と同名の神社が、同地域の大田市内の三瓶山の麓にも鎮座していることである。
この社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山の旧山名)山麓に池を穿ち、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたので神徳を仰いで、この地に祀ったという。 
所謂、米造り、金属の神とされる。 

配神として鉱山の神である「金山彦命」を祀ってはいるが、直接の鉱山の神ではないらしい。


だが、新羅(朝鮮)からの伝承をもつ三瓶山であり(国引き伝説)、元より稲作技術、金属精錬、鉱山開発の技術、それらの集団は朝鮮半島より伝わったものとされている。
これらの意味をこめて三瓶山の麓に、自身の山名でもある佐毘賣山神社を祀ったことは道理なのである。

出雲地方に共通した社名が付くのは決して偶然ではなく、神社としては珍しいことに三瓶山の佐毘賣山神社をはじめ、益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の三社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。

佐毘賣山神社の各社は、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生して鎮座している。



さて、「間歩」のことである。

小さな受付小屋があって、「変な・・おじさん・?」が居座っている。 
山蔦に覆われた坑道の入り口に「史跡石見銀山遺跡龍源寺間歩」とあり、現在唯一内部を見学できるのが、この龍源寺間歩のみであるという。 

龍源寺間歩案内板より・・、
『 江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、「御直山」と呼ばれた代官所直営の創業地にあった坑道で、中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。 坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6~2m、幅0.9~1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。  坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。 』


銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)というが、石見銀山に500余り存在するとも言われる間歩の中で、現在一般公開されているのは「龍源寺間歩」のみとう。  
しかしその龍源寺間歩にしても、見学できるのはほんの一部分であり、その奥にアリの巣のように掘られている坑道は見ることができない。 

龍源寺間歩よりもっと大きな坑道もあったようで、 近年までは電動のトロッコ列車なども使用されたようである。


間歩入り口は小さな洞窟で、古い坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残ってている。最盛期の頃は間歩の掘削は1日5交代の24時間フル稼働であったそうで、縦1m・幅60cmの横穴堀は大変な作業であり、当時の技術では熟練の堀子(ほりこ・鉱山労働者)でも1日に掘り進める距離は凡そ30センチがやっとであったと言われている。 

因みに、掘子の賃金は熟練の者で銀2匁(1匁=3・75g)で、今のお金で5000円位であったとか。(江戸・慶長年間) 
壁面に残る当時のままのノミ跡が堀子たちの過酷な労働を想像させる。


龍源寺間歩は、石見銀山に掘られた500ほどの坑道のうち、江戸時代の中頃に開発された坑道で、代官直営坑道「五山」の一つである。 
「御直山五ヶ山」とは、「龍源寺間歩」、「永久間歩」、「大久保間歩」、「新切間歩」などを五ヶ山と呼んでいる。


次回は、「銀山街道



2017年5月18日木曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」  .





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街外れの山襞に苔むして一人寂しく眠る 「大久保石見守長安」の墓



人家も疎らになった山間の地をゆっくりと車を進めると山裾の緑陰の地、古き石段を少々登ったところの静謐の地に「大久保石見守長安」の墓地があった。

石柵に囲まれた一段上部に供養塔を左に配して中央に墓柱が立てられてあり、後背は竹林になっていて、爽やかな雰囲気でもある。
単一のみの墓地なので寂しさは免れず、忘れられた様にヒッソリとしていた。 
しかし、どことなく手入れは行き届いているようであり、何処かに篤志家がいるのだろう。 


長安の孤独の墓地が銀山跡とは言いながら、一基のみで寂しく祀られているには、それなりの理由があったのである・・!!。


大久保長安については、若くして読んだ山岡荘八の歴史大編「徳川家康」の中で、詳しく登場しているので印象に残っている。


大久保長安」は、最強の戦国大名と謳われていた甲斐の武田信玄に見出されている。 
信玄は、長安の優秀な経理の才能を見抜いて、若くして武田領における「黒川金山」などの鉱山開発や税務などの行政官として務めている。

甲斐武田家を数年で藩内政を再建したと言われているが、武田氏滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。 

家康重臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、その庇護を受け、この時に姓を「大久保」に改めている。 

関東250万石の内、100万石は家康の直轄領となったが、このときに長安は関東代官頭として家康直轄領の事務采配の一切を任されている。 


1600年、関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になり、長安は1600年9月に大和奉行、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に再び石見奉行、9月には美濃奉行など、錚々(そうそう;多くのもののなかで傑出している)たる略歴に任じられている。 

同時に幕府年寄(のちの老中)に列せられ、長安は家康から全国の金銀山の統轄や、これらに付随する一切の奉行職を兼務し、長安の権勢は次第に強大になったと言われる。



長安が石見銀山の初代総奉行に任じられたのは江戸開府の時期で1601~1603年の間とされ、彼は直山制と呼ばれる公費投入による「間歩」(まぶ)の開発を行なうなど、様々な改革を行い「」の増産に務めた。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下するに従い、それに合わせるように家康の寵愛を失って代官職を次々と罷免され、1613年、脳卒中のために死去している。

享年69歳であった。


長安の事柄は、ここで終わらないのである・・!!。

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に、不正蓄財をしていたことが発覚、その理由で長安の遺児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあっている。 

更に、こともあろうに家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという行為をやってのけている。 

だが、長安が不正蓄財を行っていたという証拠や見解は殆ど無く、これは近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・本多正純父子の陰謀とも言われているが・・?。 

又、彼の財力と権勢を警戒した徳川家は、粛清や不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。 


一説には、長安は家康より政宗(伊達政宗)のほうが天下人に相応しいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたとも言われ、ある種、謀反の疑いを懸けられたともされてるが・・?。


一般的評判として、権勢をかさにした長安の立居振る舞いは、死後の風評を含めて決して芳しいとは言えず、その後の調査でも事件の有無に対して名誉回復がされたという記述、意見などは無いとされる。 

このような理由で、大久保長安の石見銀山の墓地は、今も銀山史跡の華やかさとは裏腹に、かけ離れた山裾の野辺の地に、ただ一人で静かに眠っているのである。


尚、大久保石見守の墓は「大安寺跡」に建てられている。
大安寺は慶長10年(1605年)、大久保長安が自分の氏名から2文字をとって建立した寺で、墓はいわゆる逆修墓(ぎゃくしゅぼ)の墓とされている。

逆修とは、「生前に自分の法名をつけて墓を建立すると大きな功徳を得られる」との当時の謂れにちなんで建立した墓である。 
ただし、現存する墓石(五輪塔)やその横の石碑(紀功碑)は寛政6年(1794年)のもので、おそらく長安自身が建てた逆襲墓は家康の仕置き直後には当然ながら壊されていた。

紀功碑(きこうひ;功績を記した碑の碑文)を起草したのは、石見銀山第39代代官となった「菅谷弥五郎」であった。
銀山が凋落の一途をたどる時勢のなか、代官・菅谷弥五郎は石見銀山の再興再来を願い、碑文をしたためたのだろう。
寺地内には創建当時の年号が記された墓石など100基以上がある。


次回は、 銀鉱山・「間歩


2017年5月16日火曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」







 平成日本紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」  、




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/Okidomari_1.JPG/800px-Okidomari_1.JPG
深い入り江の「沖泊湾」



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Tomogaura_3.JPG/800px-Tomogaura_3.JPG
穏やかな「鞆ヶ浦」



 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Okidomari_2.JPG/800px-Okidomari_2.JPG
入江で船を係留する岩・「鼻ぐり岩」 (以上、Wikから出典)






温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に、石見銀山の銀の積出港であった「沖泊」(なかどまり)そして「鞆ヶ浦」(ともがうら)がある。  
この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江が数層連なった鄙びた小さな港である。


温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える。 
沖泊港を取り巻く岩場には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。

又、南に鵜丸城跡、北に櫛山城跡という二つの砦跡があり、大内氏や尼子氏それに毛利氏の戦国時代の拠点であり、港を確保し、銀を防衛するための要衝であったことも伺える。


因みに、その鵜丸(うのまる)城跡であるが・・、
温泉津の町並みの入り口から波止場沿いに進むと日村の港に着く。
その対岸から急な坂道を登ると、毛利元就ゆかりの鵜丸城跡である。

1562(永禄5)年、石見を手中にした元就は、勢いに乗じ宿敵・尼子氏の本拠地・月山富田城(安来市)に兵を進め、1566年、ついに出雲をも制覇した。
ところが、三年後、尼子再興を図る山中鹿介らが尼子勝久を擁して出雲に攻め込み、翌年に再び毛利と尼子が激突する。 

事態に驚いた元就が「石見を堅守すべし」と伊藤蔵之丞(温泉津町中の伊藤家の先祖)らに命じ、わずか一カ月で完成させたのが鵜丸城であった。 

標高59mの丘にある小さな城だが、鉄砲戦を想定した三段の帯郭(おびくるわ)が今もよく認められるといい、頂上に立つと、日本海がはるか遠くまで見渡せ、眼下に温泉津港や沖泊に入る船がよく見える。

又、標高38mに位置する櫛山城は更に古い築城で、1281(弘安4)年、元寇(げんこう)に備えて築かれた石見十八砦(とりで)の一つであったとされる。 
戦国時代は毛利氏に対抗した尼子氏の居城だった。


琴が浜に近い「鞆ヶ浦」(ともがうら)はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる。
その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという。 このことは沖泊と共通している。 

港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。
両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。  

昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。

その名残かどうか不明であるが、近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


次回は、 銀山の町・「大森町




2017年5月15日月曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」





 平成日本紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」  .





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温泉津温泉




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/e/e7/Hotspring_Yunotsu_Shimane_01.jpg
温泉津温泉・「薬師の湯」




江津を出ると、すぐに山陰本線の山あいの「温泉津駅」に至った。 
やはり赤い屋根のチョット豪華な民家風の駅であった。

「温泉津」は、普通に読めば「おんせんつ」であるが、確かにさっと見て読み難い、実は温泉(ゆ)の津で「ゆのつ」と読むが、「温泉津温泉」とくると更に厄介なようであるが。 
昔の人は面倒臭いことは言わず、「湯の出る港」だから湯の津なのだ・・!、と言いたげである。 
駅より些か離れた旧銀山街道沿いの温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた和風旅館が両側にポツポツと並ぶする静かな街並みである。


世界遺産に登録された石見銀山の「温泉津」。
この温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し、海外にも輸出していた津(湊)である。
発掘された銀は、周辺の数箇所の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港の先端にある「沖泊」であった。


中世末期(400年前位)、この地から石見銀山の銀が世界へと積み出され、戦国時代は毛利の水軍基地として、また江戸時代の初期は石見銀山の物資の陸揚げ港、そして江戸中期から明治時代までは北前船の寄港地として栄えてきた。 

17世紀初頭には銀山の支配体制を確立するため、柵を巡らして柵内と柵外を区分していたというが、温泉津はその柵内に位置していた。
銀山とこれらの港の間は道が良く整備され、鉱山があった町の大森から鉱石を牛馬に積んで険しい山道や街道を運んだ。この街道は、「銀山街道」(歴史遺産)とも呼ばれ、西部山地を経る全長約12kmの主要街道であった。


温泉津温泉は、銀山を背景とする温泉津港の繁栄と共に、港を利用する多くの湯治客で賑わった。 銀山採掘に関わった人夫や鉱夫、役人まで、この温泉湯に浸かり疲れを癒しながら、一時の風情を楽しんだものと思われる。 

街道に沿って小さな旅籠や問屋、商家の町並みが形成され今も、明治・大正の風情を多く漂わせている。主要な温泉津温泉街は、国の重要伝統的建築物群(町並み保存)にも指定されてもいる。


ひなびた温泉津温泉の中でも、ひときわ目を引くレトロ調で洋風建築物である震湯(しんゆ)、薬師湯(湯元)は、古くから石見銀山の玄関口として栄えた温泉津の町並みの中心地に位置し、日本温泉協会の認定で、中国・四国地域で唯一の最高評価を取得した薬効豊かな湯と共に建築学的にも重要な建物として、専門家の間でも高く評価されている。

ある温泉ライタ―が・・、
『 湯治場の風情を色濃く残す温泉街が、旧銀山街道沿いに500~600m続く。 大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みであり、狭い通りに赤い屋根・石洲瓦の小さな温泉宿が並ぶ 』と書いている。

ここ温泉津の温泉は、小さい頃に童話として聞かされた「いなばの白兎」でお馴染みで、大国主命が病気の兎を温泉に漬けて救ったことから始まったともいわれている。 
確かに古き良き時代の雰囲気を醸し出しており、「フーテンの寅さん」シリーズのロケ地の映画の舞台にもなっているという。  

昔は岩間から湧き出してはいたが、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で湯水の如く、大量に噴出し始めたという。 


「源泉掛流し」は無論だが、自然の力で地底より湧き上がってくる温泉で加熱も、冷却も、無論循環もしない正真正銘の純温泉、これぞ本物といった感じであると。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は49度と熱い。 
薬効として特殊なのが、ある大学の研究所で「原爆症」に対する効能が有るとも報告されている。


次回は、 「沖泊・鞆ヶ浦


2017年5月14日日曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」






平成日本紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」 ,





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/%E4%BD%90%E6%AF%98%E5%A3%B2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.JPG/800px-%E4%BD%90%E6%AF%98%E5%A3%B2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.JPG
石見銀山の守神・「佐比売山神社」(Wikより)



さて石見三田・世界遺産大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜や四季を通じて楽しめる国立公園・「三瓶山」(大山隠岐国立公園)など自然が豊富に揃っている。

大田市街の南に聳え立つ三瓶山は、室の内(むろのうち)と呼ばれる低地より、主峰の「男三瓶」(1126m)に寄り添うように並ぶ「女三瓶」、「子三瓶」、「孫三瓶」などを主として、計六つの峰が環状に連なっている山である。

元より、石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場する。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。

佐比売山として出雲国風土記に出てくる民話「国引き神話」では、八束水臣津野命という神さまが出雲の国を見て
『 ずいぶん小さいな国じゃから、土地を引き寄せてきて大きくしよう 』
そして、『 くにこくにこ(国来国来)と引き縫える 』と言いいながら新羅の国から引っ張ってきた土地を杭につなぎ止められたという。
その引っ張ってきた国が今の島根半島で、其の時の一つの杭が佐比売山・三瓶山だそうだ。


『 出雲の国を造ったとされる「八束水臣津命」(やつかみずおみつぬのみこと;大国主命と同一とされる)は、その国が細く狭かったため、海の彼方にあった国のあまりに綱をかけて引き寄せ、つなぎ止めたというもので、引き寄せた国は日御碕から美保関へ続く島根半島(支豆支の御埼、狭田の国、闇見の国、三穂埼)、綱は大社湾岸の「園の長浜」と美保湾岸の「夜見島」。そして、「堅め立てし加志は、石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり」。すなわち、三瓶山(佐毘売山)を杭としてくにびきの綱を止めた。(一方の夜見島の綱を留めたのは火神岳(鳥取県大山)ともされます。) 』  出雲風土記より


「出雲国風土記」では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
また、「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名が「佐比売村」として残っていた。

神亀3年(726年)ときの朝廷は、全国の山の名や土地の名を「三字名なら2字名」に、凶音をもつ名は好文字の名に変えるように命令した。
佐比売山(さひめやま)という古名をもっていた三瓶山は、このときに改まったと言われている。
(古代の三瓶山は、実は佐比売と三瓶の2つの名を一緒に使っていた。恐らく三瓶は愛称であり、その愛称が正式な名前になった)


三瓶山の山頂には佐比売山神社山頂祠、そして山麓には佐比売山神社の山麓社鎮座している。 御祭神は大己貴命 少彦名命 須勢理姫命など、配祀として「金山彦命」が祀られている。
ただ、三瓶町の「佐毘賣山神社」は、直接、鉱山を祀る神社ではないらしい。


三瓶地区に伝わる物語では、朝鮮・新羅から渡った狭姫「さひめ」が赤雁(益田市に赤雁町というところがある。地名は佐毘売命の神話にある、古代朝鮮から五穀の神を背に飛来した赤雁の伝承によるという)に乗ってきて三瓶へ移り住み、やがて、狭姫(さひめ)を祀ったことから佐毘賣山神社となったといわれる。

更に、朝鮮から狭姫が渡ってきた際、併せて製鉄やタタラ(古代より鋼の製法)の技術を持ってきたとされ、これを契機に、山伏などが製鉄を営んでいたので「さび山」といわれ、サビが転化して「サヒメ」になったともいわれる。

元より、「出雲国風土記」にもあるように、古代出雲ではすでに鉄が生産されていた。 
この鉄の原料は砂鉄で、奥出雲での生産が有名である。 
原料の砂鉄は出雲の海岸では容易に目にすることができ、それも、白い海岸を真っ黒に覆うように砂鉄があるといわれる。
「ヤマタノオロチ伝説」は、最先端の技術であった製鉄、鉄剣の逸話ともいわれる。


古代の製鉄技術や鉱山技術は出雲地方と古代朝鮮の関わりから始まったといっても過言ではなく、その象徴たる神が「佐毘賣山神社」であった。 
ただ、先にも記したが三瓶山の佐毘賣山神社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山)山麓に池を築き、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたという伝承から祭祀されているらしい。
しかし、稲作技術には鋤や鍬が必要なように、製鉄技術と同時に始まったとされ、これが弥生文化の創年の事象ともされている。

三瓶山の佐毘賣山神社には配神として「金山彦神」が祭られているように、製鉄、鉄鉱(砂鉄)そして鉱山の神の一面が明らかに見得ているのである。


佐毘賣山神社の創祀年代は不詳とされている。 
社伝によると天武天皇の頃、また、寛平三年(891)という説もある。 
何れにしても祖神は有史前後にも遡る、古い古い神であることが創造できる。


ところで、益田の鉱山神である佐毘賣山神社の創建も不詳とされている。
社伝によると寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・「金山彦命」を勧請して創建されたらしい。

序ながら、美濃国一ノ宮の南宮大社は別名・仲山金山彦神社ともいわれ、美濃国(岐阜県)でも有数の壮大な社殿を誇る。 全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めているという。
南宮大社は、金気一切を司る神として公権力より認知され、金山彦神は金属精錬の神々として、関連した多くの神々の集積したもので、強いて言えば新しい製鉄の神と言える。
元より、銅鐸とのつながりをもったより古い祭神で、鉄山を管理しながら製鉄神となって、各地に分遷されていったとされている。


歴史と伝承の三瓶山の佐毘賣山神社、鉱山開発の祖神である益田の佐毘賣山神社、更には石見銀山の主神・佐毘賣山神社と出雲地方には共通した社名が付く。
何れも、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生している。

尚、三瓶山の佐毘賣山神社は定かでないが、神社としては珍しいことに益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の両社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。


次回から実際の「石見銀山遺跡」を巡ります。



2017年5月13日土曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」






 平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。
2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。


さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、世界遺産・「鉱山の神


平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」



 平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
        ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。
2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。


さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、世界遺産・「鉱山の神


2017年5月11日木曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」





 平成日本紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」   、




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Susanoo-Orochi.jpg
石見神楽(日本神話におけるスサノオの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治を題材とした内容)


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG/1024px-Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG
スサノオと大国主(縄文の親玉を祀る・・?)を祭る出雲大社(妻入り風の拝殿と最奥は御本殿、高さ24m社建築最大高;後述)



石見銀山」のことに触れる前に、「石見地方」について少々述べたい。

日本海に面した山陰の島根・石見地方に足跡を残したのは平成17年6月であった。
そして、「石見銀山遺跡」が世界遺産に正式に登録されたのが、2007年(平成19年)6月であるから丁度2年前のことになる。

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色彩が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしていることである。 
石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われるそうである。
赤は「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことのようである。 

本編は、この石見銀のことが主題であるが、これは当然この後詳しく述べるとして、その派手色の「」についてチョット触れておこう。


大阪の瓦職人の伝えたという「石州瓦」である。
日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・「飛鳥寺」建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 
山陰地方での石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったという。
石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦といわれる。 

日本の代表的な瓦は、三州瓦(愛知・三河地方と兵庫県の淡路島)とされるが、 石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるという。
石州の粘土は、鉄分の少ない粘土(白土)を使用しているので、高温(1200度)で焼く事ができるため焼き締まって、硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができ、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいという。 

山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。 
現在は、凡そ25社のメーカーからなり、生産量は年間約2億枚で、陶器瓦部門全国シェア第2位を占めている。


石見地方」とは島根県の西部地域を指しているようで、東部地域は無論、出雲地方のことであるが、日本海に面した東西に長い県であるが故、何かにつけて石見地方と出雲地方は比較、対象されるという。 

東部の出雲地方とでは、気候はもちろん人の気質までも大きく異なっていると。
人を指す時も、石見人とか出雲人と云われるそうで、真面目で勤勉といわれる出雲人気質と対象的に、石見の人々は何につけ豪快で開放的であるという。 

古代・飛鳥期の頃までは、石見は出雲地域の一部にすぎなかったが、奈良期の律令制度における地方行政区分として「石見国」が発足している。 
その後、石州とも呼ばれることもある。 

尚、石見地方を更に細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶこともある。

地元、石見観光振興協議会では、「石見という言葉から何を連想しますか・・?」と問うと石見神楽、石見銀山、石見弁、豊かな自然や文化などと答えが返ってくるといい、全国的な知名度は決して高くはないというが・・?。


ここでチョット「石見弁」についても述べてみよう。
石見弁(若干異なると言うが出雲弁と共通)は、島根県地方特有の俗にズーズー弁といわれる。
これは東北地方に共通する方言でもあり、東北の田舎出身の(福島県いわき市)の小生も、当時は普通に使っていた言葉で懐かしく、今でも何かにつけて発する瞬間(とき)がある。


日本映画不朽の名作といわれる松本清張の「砂の器」(1961年)がある。
この映画の謎解きの重要なヒントの一つに「犯人と被害者がズーズー弁で喋っていた」という証言がある。 その結果、犯人像は東北出身者と考えられるのだが、捜査の進展の中で、実は東北弁とよく似た出雲の或る地方だけに今も残っていることが判明する。
この際、東北の捜査では秋田県・「岩城亀田」に出向いている。 
(余分だが、この岩城亀田藩は、これまた小生の田舎に縁のある名称で、江戸期の岩城藩(小生の実家、福島県いわき地方)が出羽の亀田に転封になり、初代の岩城亀田藩が創設されることになる。)
捜査は、秋田県・「岩城亀田」では手掛かりが得られず、後に、実際は出雲地方の亀嵩(かめだけ:奥出雲地方で木次線・亀嵩駅)であったことが判明する。 両者の方言が共通していることから起きた混乱が、捜査を困難にしてしまうという、物語の重要なポイントでもあった。


東北特有のズーズー弁は「縄文語」である、という説が一般化している。
ご存知「出雲地方」は、神話の世界では大国主の「国譲り」で知られる。

出雲王朝(大国主)は旧来の縄文人とも喩えられのである。 
大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が出雲地方にやって来て出雲を平定し、出雲の民である縄文人の一部の彼らが東北地方へ落ち延びたこととされている。

弥生人に駆逐された出雲の縄文人は、その中心を今の東北に移したとも考察され、従って、ズーズー弁である縄文語と呼ばれる言葉は、東北地方に広まっていても何の不思議もないのである。

ズーズー弁の元祖は、出雲地方(石見地方)の縄文人で、その親玉が「大国主命」だったという推論である・・?。


又、同質の説も可能である。
縄文太古の時代の東西の文化、物資の交流は日本海を中心に行われていた。
例えば、青森の「三内丸山遺跡」から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ;古代からの装飾物)が大量に発見されているという歴史的事実がある。 

記紀(古事記、日本書紀)には、大国主が「翡翠」を求めて能登地方を巡りながら越後へ達している。
この時、越後の女王・奴奈河姫と結婚して、かの建御名方(タケミナカタ:諏訪大社の大神)という一子をもうけている。
同時に、大国主は越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたといわれる。
この事は、あくまで考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の広がりが想像できるのである。

出雲王朝は東北の縄文以来連綿と続いてきた文化と同じで、端的に言えば古代出雲王朝は東北地方まで広がる巨大な王朝であったと考えられ、つまり、同質の文化圏を有していた。
縄文語であるズーズー弁は、出雲から東北に至るまで標準語だったのである・


ところで、ズーズー弁の出雲弁は、現在でも出雲地方の山間の一部地域に残っているとも云われる。
何故孤立しているのか・・?、

ズーズー弁が縄文人たちの言葉とすれば、関西弁は弥生人の言葉かもしれない。 
大和王朝の勢力拡大に伴って、日本海沿岸を中心に栄えていた出雲王朝、出雲文化圏の人々の勢力圏を圧迫した。
そして遂には王朝の首都であった出雲を囲むように分断し、出雲弁が孤立するようになったと・・?!

これは歴史の面白さであろう・・!!

小生の「日本一周記」より、
出雲大社:「石見銀山」の後に記載します。 

奴奈川姫と翡翠: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-27-7.htm 


次回も引続き「石見地方


2017年5月10日水曜日

平成日本紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」





 平成日本紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」   、




写真:世界遺産の「龍源寺間歩」、公開中の坑内



世界遺産・石見銀山遺跡(1) 「はじめに」

2007年(平成19年)6月末、「石見銀山史跡」は世界遺産に正式に登録された。
正式名称は『石見銀山遺跡とその文化的景観』としている。

年当初、一旦は綿密な調査が必要などとして「登録延期」(事実上の凍結、落選)の勧告を受けたが、6月末のニュージーランド(クライストチャーチ)で開催されている第31回世界遺産委員会において、更に審議の結果、階級特進の「世界文化遺産」(産業遺産)として正式に登録のはこびとなった。

石見銀山は16世紀以降のもので『産業遺産』としては世界の遺産の中で最も古く、勿論日本では始めての登録となる。 
世界遺産についてのエリアは一般にコアゾーンといわれる核心(中心)部分とそれらを取り巻くバッファゾーンの緩衝地帯に別れている。



「石見銀山遺跡」の核心部分

一つ目に、「銀山柵内」(江戸時代初め柵で厳重に囲まれていたことからこの名がある)といわれる主に大森地区で、16世紀前半から本格的に開発され20世紀まで操業された銀鉱山遺跡の本体、銀の生産活動における生活、流通、信仰、支配に関わる遺構、遺物などなど・・名称として代官所跡、宮ノ前地区銀精錬工房跡、文化遺産的建造物、羅漢寺五百羅漢、それに石見銀山を防御するための山城遺構として石見城跡、矢筈城跡、矢滝城跡などがある。

二つ目に、石見銀山街道といわれる二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路で「温泉津・沖泊道」や「鞆ヶ浦道」で、何れも16世紀前半から銀、銀鉱石を博多への積み出しや銀山への物資補給、軍事基地として機能した街道である。

三つ目に、それらの港と港町・・、銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾とこれに隣接して発達した港町および港湾集落で、「鞆ヶ浦」や「沖泊」、両港は船を留める「鼻ぐり岩」などが往時を偲ばせる。
それに温泉のある港町・「温泉津」(ゆのつ)は、江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物である。

平成16年、温泉町としては日本で唯一の「国選定」(重要伝統的建造物群保存地区)を受けている。


それに、これら中心部分を取り巻くバッファゾーンといわれる緩衝地帯で、約3600haの周辺地域、山域である。


因みに、現在まで日本にあるユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、屋久島の自然遺産が3物件。
日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地域の仏教建築物、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、原爆ドーム、厳島神社、琉球王国の城(沖縄では城をグスクという)及び関連遺産群の10物件の合計13物件である。


ユネスコについては次のように記されている。
ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationといい、頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している。


次回は、「石見地方


2017年4月29日土曜日

平成日本紀行(180) 江津 「江の川」






平成日本紀行(180) 江津 「江の川」  、




 http://www.geocities.jp/hitosht/02sanindo9/23gohtsu02.jpg
江の川河口と江津港(日本製紙の煙突)



江の川は、中国地方最大の川で、江川(ごうがわ)とも呼ばれる・・、

石見地方の浜田には高速道路が到達している。
瀬戸内・山陽道が大きく内陸へ入り込んでるあたり、広島の北に位置する千代田JCTから「浜田自動車道」が来ていて、更に、山陰道の江津まで延びているようである。 

案内板にしたがって浜田ICから乗ってみた。
まだ出来たてらしく真新しい道路は、ピカピカと黒光りしていて快適であったが、一っ走りで江津へ着いてしまった。 
左手に巨大な工場群が見えている、日本製紙とあった。



江津の主役は「江の川」であろう。 
別名を「中国太郎」ともいい、広島県域では可愛川(えのかわ)とも呼ばれているという。

江津、江の川と書いて“えつ又はえず”、“えのかわ”と読みがちであるが、実際は「ごうつ、ごうのかわ」と読み、地元では「ごうがわ」とも呼ばれているようである。 

高校野球の名門、江の川高校野球部のユニフォームの胸の文字は「GOGAWA」である。  
小生も「江の川」の野球チームが始めて出場した頃、読み方で妙に戸惑った覚えがある。 
いずれにしても、「江」を“こう”でなく“ごう”と読ませることに昔日を感じがするのである。


名のごとく江津は「江の川の港」を意味する地名で、既に、戦国時代以前には大陸との交易が行われ、中国の歴史書にも江津という地名が記されているという。 

河口の西側を占める中心部の江津町(江津本町)は、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄えた。 
中国山地の三次(みよし)をはじめとする上流部の産物の積み出し、又、塩など上流部で必要とされる物資の搬入、併せて北前船の寄港地でもあって、江の川の舟運、海運業が盛んになり繁栄した。

現在も、この川岸から町中に向けて多くの廻船問屋の蔵屋敷が軒を並べ、石州赤瓦の光り輝く「天領の町」であった名残が見て取れる。 
この江津本町の一角を「甍街道」とも呼び、天領らしい風格を残している。


江津の駅から江の川に沿って「JR三江線」(こちらはサンコウセンと読みます)が走っている。 
江津の駅から中国山地を曲りくねって広島の三次(みよし)へ達していて、地図上で見ても、よくもまあと思うほど河川と鉄路がピッタリと寄り沿っているのである。 

JR三江線は、昭和50年8月に開通した比較的新しい路線である。 
陰陽連絡を目的として建設し開通したが、現在では、いつ廃線になってもおかしくないような状況にまで追い詰められているともいう。
しかも、JR西日本はローカル線には結構シビアに対応しているらしいが、実際には、今の所は三江線が廃止になるなどの具体的な動きは出ていないともいう。

三江線を実際に運転していた人は、『 三江線は、山間を走っているので、イノシシや鹿などの野生動物が線路内に入ることがよくあります。 以前、イノシシを四頭ひいてしまったことがあります。しかも、それは、三江線の最高速度(時速85キロ)で走っている時だったので、かなりの衝撃がありました。それで、保線区に問い合わせて処理してもらうように頼んで来てもらったところ、イノシシはどこかへ行ってしまったようで、イノシシの生命力には驚きました。 三江線に乗れば野生動物にお目にかかれるかもしれません 』・・と、PRも兼ねて話していた。


三江線は、人々の輸送もさる事ながら、かっての江の川の代役を果たし、山陰、山陽の物資流通の基幹線としての役目も果たしているのは確かである。 
江の川の河口には、日本国内最大規模の巨大製紙会社、「日本製紙」があった。


次の温泉津から大田までは、「世界遺産・石見銀山遺跡」という内容で記載します。 ご期待下さい。


次回は、「世界遺産・石見銀山遺跡


2017年4月22日土曜日

平成日本紀行(179) 浜田 「石州瓦」






  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします



 平成日本紀行(179) 浜田 「石州瓦」   .



http://www.beach.jp/_images/archive/d0102OVLH9NJRD0F64SDB783OB3C2GQOUCMAN8TB6LIVDC6L4MJ26QK/large
浜田の石州瓦屋根が並ぶ町並み風景



石州瓦は、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出している・・、

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしている。 
この色鮮やかな瓦は、大阪の瓦職人が伝えたという「石州瓦」である。


日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・飛鳥寺建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 

山陰地方では石見の国に因んで特に「石州瓦」といい、飛鳥時代の石見の国・国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったと言われる。 
石州瓦は独特の「赤瓦」として注目を浴び、山陰はおろか北前船によって北陸から北海道にまで運ばれたという。


粘土瓦の三大産地として三州瓦、石州瓦、淡路瓦がある。
三州瓦は、愛知県三河地方で生産されている瓦で、こちらの生産量は日本一である。 

石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦だという。 
次に、淡路瓦は、兵庫県の淡路島で生産されている瓦で、いぶし瓦の生産量ではトップであるという。 

石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるといい、石州の粘土は鉄分の少ない粘土質(耐火性粘土・白土)のため、高温(1200度)で焼く事ができ、そのため焼き締まって硬く、水を吸いにくく、寒さにも強い瓦ができるという。 
特に、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいと。 


山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。

2005年10月、浜田市、旭町、金城町、弥栄村と合併して新市制による浜田市が誕生している。


次回は、「江津、江の川



2017年4月21日金曜日

平成日本紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」






平成日本紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」 ,





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道の駅・「夕日パーク浜田」から望む浜田港





江戸期、商人・会津屋の密貿易で浜田藩は窮乏から脱したという。 即ち、会津屋は藩の恩人であった。 だが、幕府の罪人でもあった。?、

山間の三隅町から再び海岸へ出た所で「夕日パーク三隅」というのが在り、次に「夕日パーク浜田」という道の駅が在って、この地で小服する。 

気が付くと、先ほど展望休憩したところは“サンシャイン”と言っていたが、こちらは、“夕日・パーク”と和洋折衷の個名で、何れも下手な英名を名乗ったり、英名と国語(日本語)がチャンポンになったりで、忙(心が亡ぶ=忙)しい国である。


夕日パーク浜田」は浜田港を見渡せる高台にあり、港周辺の展望が抜群である。
港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋が一つの風景となって見渡せる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」といい。すぐ左にも同様の島々が有って美観を添えてる。

ただ、この巨大な架橋は国際貿易・水産都市浜田のシンボルとして、総工費約70億円を費けての竣工したものらしいが、一般地元の人の見る目は冷めていて、その意義や有益性については疑問視もあるという。 

浜田港は、島根県唯一の国際貿易港として今は三万トンクラスの船舶が利用可能となっているらしいが、将来は五万トンクラスの大型船舶が利用できる港として整備中とのこと。
平成13年には浜田港と韓国の釜山港を結ぶ国際コンテナ航路が週1便開設されていて、更に浜田港は、北東アジア地域の交流促進や県西部の活性化が期待されていという。


石見地方の中心都市・浜田が、本格的に城郭と城下町、そして湊町が築かれたのは江戸時代初期のことである。 
築城主は元和5年(1619)、伊勢・松坂から転封されてきた古田重治(ふるたしげはる:羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男)だった。 
浜田藩・5万5千石の本拠地として浜田城を整備し、この時、築城ならびに城下町整備のために重治が大坂から連れてきた瓦職人がいて、それらを伝えた技術が後の石州瓦発展の基礎になったそうである。

その後、浜田藩は古田家以降、五家十八代続き、長州(山口県)の毛利氏に対する最前線の抑えとしての役割を果たしてきた。

しかし、江戸末期の慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には山陰方面の幕府軍の拠点となったため村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍の猛攻を受けて落城する。 
藩主の松平武聡は城に火を放って鳥取へ逃亡し、250年近くに及んだ浜田藩の歴史は幕を閉じている。


江戸期における浜田港は、北前船の寄港による物資の集散地として栄えたが、一方では、密貿易も行っていて浜田藩は更に潤ったとされている。

江戸時代は鎖国時代であって、海外との貿易が許可されているのは幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪であった。 
しかしながら、鎖国の本当の理由は、幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあったようである。 
実のところ幕藩時代は、どの藩も財政が窮乏しており、江戸後期には内密で薩摩藩をはじめ、危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようである。

浜田港は北前船の交易も盛んであったが、当節の浜田藩の財政難を見かねた藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島)に船を出し交易を行い、数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことであった。

しかし、それも幕府の隠密ともされた「間宮林蔵」(隠密説は・・・?)に摘発され、発覚して天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となる。 又、責任者でもある藩の家老や年寄などの重職も切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなっている。 
浜田藩庶民の安定した暮らしの中には、このような犠牲も有ったのである。


因みに、間宮林蔵は江戸後期の探検家で、伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北方、北樺太を探検、後の間宮海峡を発見し、地図上でもその名前を残していることは周知である。 

その林蔵は、幕府の隠密でもあったとされる。 
晩年には勘定奉行・遠山景晋(とおやまかげみち・北町奉行・遠山金四郎の父親)の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。 

普通に見ると、探検家が隠密に転身したような見方もあるが、そもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、諜報活動でもあった。 

忠敬は石州・浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行に報告し検挙に至らしめている。 
彼は隠密らしく変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしていたともいう。 
浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋へ潜入に成功している。 
後に間宮は、「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐していたという。


浜田港の東方、一丘越えたところに浜田城址(城址公園)が在る。 
小生お好みの作家・司馬遼太郎氏は、大村益次郎の伝記小説「花神」の執筆の際、浜田城攻防の歴史を調査している。 
本丸城跡の上り口近くに、司馬氏の浜田藩追懐の碑文が記してある。

『 いま、城跡は苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい 』
と締めくくっている。

松原浦を見下ろす岬の先端に、藩の恩人でもあった「会津屋八右衛門」の像が浦を見下ろしている。 また、浜田漁港には「会津屋八右衛門」の頌徳碑が立つ。


次回は、「石州瓦




2017年4月19日水曜日

平成日本紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」






 平成日本紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」   .



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f6/Takatsu_Kakinomoto_Jinja_Haiden.jpg


高津柿本神社(益田市)と柿本人麿呂像



「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿」・・?、

阿武町から須佐町、田万川町は海岸にへばりつく様に、鉄路(山陰本線)と道路が並行して走る。 
午前の頃、モヤで余り視界も効かなかったけど、今はスッカリ晴れ渡り日本海の青が目に眩しいくらいである。

ところで、海岸線に沿って開けている阿武町は、自然豊かな海の町で海の幸も豊富であろう・・?。 
ただ、周辺の近隣地域であった須佐町、田万川町、むつみ村、福栄村の町村は、萩市と合併して新市制の萩市になっているのに、この一町の阿武町だけが新萩市に完全に囲まれるようにして独立自尊を決め込み、見たところ孤立して宙に浮いている感じは否めない。 

他事(ひとごと)ながら、萩市から合併の話は有ったのかどうか、又、有ったとしても阿武町自身が、それを断ったのかどうか・・?、定かではないが妙な感じは受ける。 
何事か理由があっての、単独町政を行うことを表明したのだろうか・・?。 


後になって判ったが、同町の町長は始めから合併を拒み単独町政を選んだといい、「阿武町の基金は阿武町で使いたい」などとして、広域合併の拒否を貫いたという。
だが、人口約4000人の町の現実は厳しいとされ、国と地方の税財制を見直す三位一体改革によって、この間、同交付税が大幅に減った。
それでも町の担当者は「合併でも、単独でも都市部から離れた周縁部という町の置かれた立場は同じ。合併を巡って揺れたお陰で、住民に自立意識が芽生えた。今後は町の独自性を出したい」 と意気込んでいるらしい。


田万川町の「道の駅・ゆとりパークたまがわ」で一服した後、仏峠と言われるトンネルを越えると、ここは既に「島根県」であった。 
海岸に突き出たように「サンシャインP・A」があり、余りの展望の良さに車を寄せてみた。 

寄せ木で造られた床地に、品よく石のモニュメントが施してあり、開放感ある大海原を目前に思わず深呼吸する。 
日本海の荒海と言うけれど、今は砂浜に小波が静かに打ち寄せていて、すぐ其処に浮かぶ島々も、紺碧一色に模様と彩りを添えている。


益田の町に入った。 高津川の大橋を渡ると益田市街である。
益田は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっていて、その中心に益田の市街地が開けている。 

その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っているという。 
どっしりとした風格の入母屋造の本殿を持つ神社で、地元の人は「人丸さん」と呼んでいるようで、読み方によっては「ひとまる・火止まる」で、火災よけの神様、「 ひとうまる・人産まる」で、安産の神様と開運、火難除け、商売繁盛、安産の神様として人々の信仰を集めているとか。

元来、柿本人麿呂は歌聖であることから、学業成就を願う学生も多く、人麻呂を偲ぶ参拝客が後を絶たないという。


『 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 』
-----万葉集歌

「 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 」
-----百人一首

【 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう 】
-----現代訳  


この歌は、小生たちが高校生頃、習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
柿本人麿呂(かきのもとのひとまろ)は万葉集のみならず和歌史を代表し、しいては日本文学史をも代表する人物で、奈良朝以前の飛鳥時代の歌人である。 

生涯で300首以上の歌を詠み、「万葉集」に人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集として歌25首、計100首を載せてる。 
又、百人一首・百人秀歌の中で三番目に置かれている。


柿本人麻呂」といえば、我々にも馴染みのある歌人で、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。 
上記、韓文字歌(万葉集歌)は一見したところ、何のことやら判らぬが、飛鳥時代には未だ平文字は無く、韓文字で書かれた原文、原歌なのである。


因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで、集歌内容は天皇、貴族から名もない防人(さきもり;古代、北九州の守備に当った兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。 

人麻呂についての人物史書や記録記載はあまり無く、その生涯については謎とされている。 宮廷での皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、政府筋の高官であったことは伺えるが。


人麻呂は、石見ノ国へ国府の役人として下向したのであろうと言われているが、その痕跡、足跡は確かでなく、当時の国府がどこにあったのかも諸説あり、現在の浜田市ともされている。 
人麻呂の終焉の地も定かではないとしながらも、有力な説として現在の島根県益田市(石見国)であるとされる。

地元では人麻呂の終焉の地を既成事実としてとらえ、「柿本神社」としてその偉業を称えている。 そして人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあった「鴨島」であるとされている・・が、現在はその鴨島そのものも存在していない。 

万葉集に残されている死を目前にした人麻呂の歌など「鴨山五首」から、人麻呂が石見の「鴨山」で亡くなったこと、そして、そこには「石川」(現在の高津川・・?)という川が流れていたらしいが、いまだこの鴨山がどこなのか確定されていないという。 

平安期、11世紀初頭の大津波で流失したともいい、海中からその遺痕が発見され、神社に奉納してあるとも云われるが、これも定かではないと・・?。

益田市は2004年11月1日に、内陸部の美都町・匹見町と編入合併し、新益田市が誕生している。


次回は、「津和野


2017年4月7日金曜日

平成日本紀行(176) 萩 「村田清風」






平成日本紀行(176) 萩 「村田清風」   、





萩城址と指月山公園



「 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
         釈迦や孔子も かくやあるらん
 」 清風

萩城・毛利藩は1604年(慶長9年)萩城建造に着手して以来、幕末の1863年(文久3年)、時の藩主・毛利敬親が幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移すまで、萩城は260年間の藩庁としての役目を果たした。

その幕末、700万石とされた徳川宗家(幕府)の石高は別格としても、長州藩の経済規模である石高・37万石は、300諸侯と呼ばれた諸藩の中では10傑のどんじりあたりである。 
これは、将軍を出す資格のある御三家の水戸藩(35万石)や外様の広島藩(42.6万石)、佐賀藩(35.7万石)などと同規模となる。 


因みに、薩摩藩(77.1万石)は長州藩の二倍、佐幕派の雄・会津藩は28万石、大老・井伊直弼が藩主を勤めた彦根藩は35万石だった。

尤も、これらの数字は「表高」であり、18世紀後半、長州藩の実際の収入である「内高」は既に90万石に達していたとも言う。 
しかし、藩内情は、借金まみれの大赤字財政であったといい、藩の表高の数倍に当たる150万両の借金まみれの大藩であった。 
この借金財政の建て直しを行ったのが「村田清風」、この人であった。


清風は幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学し、ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となった。 
以後、藩主・斉房から五代の毛利敬親の代まで要職を歴任し、さらに、江戸に上って兵法や海防策を学び知識を広げた。

彼は、江戸に上るときの秀句を詠んでいる、

『 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
          釈迦や孔子も かくやあるらん
 』

その後、彼が55歳の時、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握する。
そして、藩主・毛利敬親の下で長州版・天保の改革に取り組んだ。


この敬親は政治的にはやや暗愚で消極的であったらしく、事に及んで何事も「そうせい」といい、「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことになるのである。 

財政の再建、軍制改革と、贅沢に慣れた士風の建て直しに着手する。 
倹約」、「勤勉」そして「能力主義」などを全面に押し出し抜本的改革を、やや強引に思えるほど断行する。 
こうなると当然、藩士から反感をかうことになり、暗殺を企てる者も一人や二人ではなかったという。


しかし清風は、改革の途中で中風に倒れ、家老職は後継に譲って隠退した。 
その後、病から回復した彼は子弟教育に力を注ぐ。 

彼という先人によって、「吉田松陰」のような藩士としては身分は高くはないが、有能で志のある後進・後輩が台頭する道が大きく開けることも繋がった。 
後に一時、長州藩を絶望のふちに追いやるが、倒幕、維新を成し遂げる原動力ともなるのである。 

この時期、松蔭と清風は47年の歳の開きがある。 
藩の軍政をになう俊才であった松蔭は、少年の頃から清風とは面識があったようだが、この祖父と孫ほどの二人が手を携えて行ったのが、藩校・明倫館の改革、拡張でもあった。

明倫館(めいりんかん)は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称される。 

1718年(享保3年)、萩藩6代藩主(毛利吉元)が萩城・三の丸追廻し筋に創建、後に、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下に移している。 
萩・明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。1919年、国指定史跡を受けている



城址からの海沿いの道を行くと菊ヶ浜という松緑、白い砂浜が現れ、遠くに城址のこんもりした指月山の姿と相まって実に秀美である。 

気が付けば「」の町には至る所に松ノ木が有り、これが古跡の町の風情に良く似合っているのである。 

町外れの国道沿いに、萩・反射炉の遺構がある。 
1858年(安政5)に萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉(史跡)である。 
薩摩藩や水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみという。


2005年3月6日、旧萩市が阿武郡川上村、田万川町、むつみ村、須佐町、旭村、福栄村と対等合併し、新市制による「萩市」となっている。


次回は、「益田」 




2017年3月12日日曜日

平成日本紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」








 平成日本紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」   ,






旅の記録;「日本一周」へリンクします

『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり』・・、

萩の歴史の本山・「萩城址」へ向かう。
町の西の端から今度は、東の端の位置にある。
10分も経たず着いてしまったが、城下町や松蔭ゆかり地と違って、静寂たる所で全く人の気配は無かった。 

微風に揺らぐ壕池の小波と、通用路入り口に立つ「萩城址」と彫られた石柱が一本、物悲しく存在している。 
しかし、壕池に浮かぶ、そう高くはないが横幅一杯に広がっている城石垣は豪快で、往時の姿が想像できる。 

壕池は日本海の海に通じていて、元々は指月島といって砂洲で繋がっていた島であり、日本海の波が直接洗う城だった。 
指月島の東側の場所は、石垣の下まで波が来ているという。


右方に、こんもりした丸山・指月山(標高143m)が、天然林緑に覆われている。 
嘗て城は、詰の丸(本丸の中に別の区画として構築したもの)を指月山に築き、山麓に本の丸・二の丸を設け、五層の大天守があったという。 
明治維新の主役・長州藩が山陰の萩から山口へ政庁を移すまで、毛利氏14代の居城であった。


関が原の合戦」において長州藩は、東軍に内通していた一族の「吉川広家」の取り成しで粛清や改易こそ免れたが、周防・長門の2国36万石に減封された。 
又、この萩城築城に当たっても、三方を山に囲まれ一方は日本海に面していて当時、交通の便が比較的悪い萩に築城する事を徳川幕府に命じられている。 
これらの経緯から、徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであった。


毛利氏に関しては、処々方々で記載してきたが、最後に長州・毛利氏について、おさらいをして見よう。  

毛利氏は、鎌倉幕府の名臣・大江広元(おおえひろもと:学問の大家・京で朝廷に仕えた冷静で明哲な実務官僚)の四男・大江季光(おおえすえみつ)を祖とする一族である。 

名字の「毛利」の起こりは、四男・季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の小生の居住地・神奈川県厚木市周辺)に由来する。 
「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。
毛利家は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、安芸国高田郡吉田(現在の安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となった。 

しかし1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将(藩主・毛利輝元)に祭り上げられ、西軍敗戦の結果で周防国・長門国の二ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。 
そして、江戸時代末期には数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となる。  
戦国時代、安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、中でも毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くし一族の反乱や横暴な家臣を粛清、安芸国の吉川氏と備後国の小早川氏を乗っ取り、次第に勢力を拡大してゆく。 

尼子氏に対しては策略を以って誅殺させ、そして大内義隆に謀反した陶晴賢を1555年の「厳島の戦い」で破り、大内氏の旧領をほぼ手中にする。
その後は北九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方に付け、豊後・大友氏とも争った。 

1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有した。 
毛利元就の子である長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景らは皆優秀であり、有名な「三本の矢」に喩えられる。

因みに、「小早川氏」については・・、
小早川氏の祖は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地とした頼朝の第一の忠臣・「土肥実平」の子とされる。
その子の遠平が小田原の早川の地を与えられ、小早川を名乗ったことに始まる。

源頼朝が守護・地頭を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。
戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられた。

小早川隆景は、兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)

本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなる。
だが、隆景には子供がいなかったため、家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。

小早川秀秋は関ヶ原の戦い(秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされる)での功績により、備前51万石に加増移封されたが、嗣子なくして病没し、小早川家は名実ともに断絶したというのが定説である。

ただし、近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見されたという。

この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は現在も存続していることになるともいう。



当主元就が毎年元旦に、家臣に伝えた言葉として・・、
『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり 』 と訓示している。

戦国期、毛利元就の孫の毛利輝元は、豊臣秀吉に属し、安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見を領し、吉田・郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し本拠を移している。 

輝元は、後に秀吉政権下、五大老に就任し、秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは西軍の名目上の総大将に担ぎ上げられる。 
西軍は結局敗れるが、吉川広家の内通により毛利家の所領は安泰のはずであったが、徳川家康は約束を反故にし、輝元は責任を問われて周防国・長門国(長州藩)の二カ国に減封させられた。 

領土が120万石から37万石に減封され、新規に藩庁を「」に置き、萩城を築城して移住したのである。
偉大なる叔父と祖父に囲まれ、やや甘やかされて育てられた輝元は、器量と覇気に欠けたお坊ちゃまであったとも言われている。 
決断力に欠け、ここぞという時に判断が下せない場合が多く、結果として毛利氏は「中国地方の太守の座」を転がり落ちることとなる。


後年の江戸期の毛利藩は、新年の会において家臣より・・、

『 本年は、倒幕の機は如何に・・?  』    
と藩主に伺いを立て、それに対し・・、

『 時期尚早・・! 』

と藩主が答えるのが毎年の習わしだったという。


江戸末期の毛利敬親(もうりたかちか)の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させている。


次回、「長州の藩政改革






  
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2017年3月6日月曜日

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)







 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)  .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg/250px-Yoshida_Shoin2.jpg
吉田松陰像(山口県文書館蔵)






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吉田松陰の基本思想と松下村塾の関わり・・、

安政6年(1859年)、松蔭は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処された。 享年30(満29歳没)。

吉田松陰の幼名は杉虎之助。 吉田家に養子入りの後、吉田寅次郎。 松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎(上州新田郡;江戸時代後期の尊皇思想家)のおくり名にちなんでつけられた。 

号の松陰の他、二十一回猛士とも称した。 
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。



吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人で、30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えた。
その松蔭の教えの中に、基本思想、「尊皇・・」の至誠が非常に強かったのは言うでもない。

江戸期幕末、明治維新の先駆けになったのがの尊皇の志士達であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰であった。 
松蔭の実家である杉家は、仏教を捨てて「神道」を信仰していた。 
合わせて長州藩・毛利家の始祖は、(相模の国の厚木の庄の出身で、おおもとは都の大江広元である)古代期より濃い天皇家の血が混じっているとされ(平城天皇以来・・?、)、歴代藩主は勤皇に励んできていた。


松蔭は武士(長州藩士)である。
従って、藩主や幕府に対する忠誠心は当然であったし。
だが、それ以上に皇室への忠誠心があった。 

松蔭や杉家は歴代毛利家に倣ったのは当然であり、「尊皇」は松蔭にとって、既に皮膚に染み付いているのである。 
自書の中に、「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 

天皇と国民の絆(きずな)の「真の性質」は、(1)に「神話的血縁関係」、(2)に「道徳的紐帯(ちゅうたい)」それに(3)、「法的義務」としている。 
維新の推進役となった彼等尊皇の志士達には、松蔭の影響も有り、このような基本思想が有ったのである。 
やがてその中から明治維新で、尊王の志士達が活躍する人物が多く輩出するのである。


因みに、松蔭をめぐる主な人たちは・・、
松下村塾の弟子】 高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい、妻は吉田松陰の妹、尊皇攘夷派の中心人物)、吉田稔麿(よしだ としまろ、長州藩の活動家、久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という)入江杉蔵、金子重之助等など(以上、維新前活躍)・・、伊藤博文、品川弥二郎、野村和作、前原一誠等など(以上、維新後活躍)。

明倫館の弟子】 桂小五郎(木戸 孝允:きど たかよし、長州閥の巨頭、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑といわれる)、毛利敬親(もうりたかちか・長州藩・第14代藩主)、益田弾正(藩家老)。

松蔭の師】 玉木文之進(長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田松陰の叔父に当たる)、佐久間象山(しょうざん・兵学者・思想家、松代三山の一人)、村田清風(後述)、


松蔭は、愛弟子の高杉晋作に・・、
『 人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ 』
と説いている。


「松下村塾」の南に位置して「伊藤博文旧宅」が建つ、木造茅葺き平屋建の小さなものである。 彼は7歳の時に、既に松下村塾に入門していた。
松陰は伊藤を・・
『 利助(博文)亦(又、また)進む、中々周旋家(仲介・口入れを業とする者、きもいり)になりそうな 』
と評していた。

彼・伊藤博文は尊皇攘夷の志士として活躍し、英国に留学して西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加する。 
明治新政府においては、明治18年(1885)12月に初代内閣総理大臣の地位につき、大日本帝国憲法制定(明治憲法)に際し主導的役割を果たした。 
明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて暗殺された。 隣に東京より移築した「伊藤博文別邸」がある。


山裾北側に「護国山・東光寺」がある。
全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗宗に帰依した三代藩主毛利吉就による創建で総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。

黄檗宗は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。 
現在、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は中国・明朝風様式を伝えている。
有名なのが「隠元」の開いた、総本山・京都府宇治市の黄檗山・萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。
この寺院の圧巻は藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並び、このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などが並ぶ。




以上、吉田松陰に関する著述は、過日の産経新聞連載・関 厚夫氏著筆の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」を参照にしてます。 

吉田松陰に関する「関 厚夫」氏の著書

吉田松陰・ひとすじの蛍火 人とことば
http://www.bk1.jp/product/02912250 

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/58/9784166605859.shtml 

吉田松陰 魂をゆさぶる言葉
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4569704409.html 


次回は、「長州・毛利氏」

  
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