2017年9月23日土曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」






  平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」     .




鳥取は江戸初期の元和3年(1617)、姫路城主・池田光政(戦国武将・池田輝政の孫)が、因幡・伯耆32万石の領主として鳥取城へ転封された後、鳥取城下町の飛躍的発展がもたらされる。 
この光政の時期(1617~1632)の城下大拡張整備策により、家中屋敷割の設定、町人町の造成、寺院の配置が進められ、旧鳥取市街地の原型がほぼ形成された。


現在、鳥取県人口は日本の都道府県では人口が一番少ない。
だが、官僚、役人の輩出率は全国2位だという。 

又、面積も香川県に次いで2番目に小さい、 なのに空港が二つも在る。(鳥取空港、米子空港) 
もし、これから昨今の建設となれば財政問題でたちまち矢面(やおもて)に立たされ、破談も必須であろう。


こんな小域の「鳥取」は、古来、因幡と伯耆の各地域から成るが、「雨の因幡に、風の伯耆」とも言われる。 

先にも記したが、因幡は元々は「稲場、稲葉」であり、豊受大神が初めてこの地に稲を植え付け、稲作を指導したとされる国であることから、稲作発祥の地とされ、それに起因して「因幡」の名称が付いたともされる。 

即ち、鳥取・因幡は農業を主たるに対し、伯耆は出雲に近く、参詣者達に何とかお金を落させようと努力し、皆生温泉や三朝温泉、大山の観光資源を売り出した、商工業の地域であった。 
又、境港を始めとした漁業も盛んであることから、両者相異なる地風であり、合わせて因幡、伯耆は人の気性も異なると言う。


倉吉は地域的には中間に位置しているが伯耆に属しているという。
しかも、克っては伯耆の主邑(しゅゆう:主だった町)だった。 

それだけに、江戸時代の古風な家並みや蔵が残っている、蔵の町とも言われる。 
大正期以降は、「中海」を有する米子に繁盛地を移すことになるが。 
県内に於いて「倉吉は京都で米子は大阪」として対比されるらしく、どちらも商工業で栄えたことは共通する。
 

伯耆は古代より中世、近世に到るも商工漁業が中心であった。 
だが、江戸藩政時代、藩主・池田氏は因幡・鳥取に藩庁を置き、倉吉、米子など伯耆へは支所を置いた。 

因幡の鳥取が伯耆を、つまり、農業(農政)が商工業を支配したのである。 
伯耆から言わせれば「我々は諸国から金銀を集めている」という自負があったが、当時は職分制度が鮮明で「士、農、工、商」であり、農は常に工商の上にあったのである。 

地域的特性として他の地域でもしばしば見受けられるが、時代を経た今日でも小さな鳥取県で伯耆だ・・、因幡だ・・といった地域的気性の違いが見受けられるらしく、地域の性(さが)とは面白い。 
だが、これは鳥取県内の事で県外者には全くもって関知せざることではある。



更に、「因幡」について・・、 
縄文期の頃まで、人々は野山を駈けずり回り、放浪したり、海岸や河川、湖沼の畔で食い物を採取し、又な栽培していた。
所謂、動物的(野の獣)生活手法であったが、そのうち、稲作技術が伝わってくると争ってコメ作りに参加した。 

同時期に朝鮮半島で製鉄が始まり、(鉄の開発は中国・周の時代、それ以前に中国・殷の青銅の開発)それらの製造方法や粗鉄が「壱岐」などの島々を通じて日本に伝わってくる。 
製鉄は当初は稲作農耕の道具として広がりを見せ、乗じて稲作文化は波及的に全国へ広まってゆく。 このことが一つの要因となって日本は国として統一されつつある社会基盤が出来上がる。この時期が弥生時代から大和朝廷の時代である。


鳥取の地名は、「因幡国邑美郡鳥取郷」(『倭名抄』)という古代郷名が中世、近世、そして近代へと受け継がれてきたもので、この地に「鳥取部」という古代部民がいたことが、この郷名の由来ともいわれている。(このことは前項の「桃太郎伝説」に記載あり)

時代は下って7世紀(奈良期)になると、日本国に一大国家体制の制度変革とされる「律令制」(現在の法律)が実施された。 

日本国の全ての物(田、畑から人民・・)は朝廷のものであるとし、中央一天所有(中央集権とは意味合いが違う)の公地公民制度であり、特に、土地に執着してた豪族も所有権を変換させられ、「強固な統一国家の造成」としたのである。


これには訳があった・・、
海を隔てた隣国、中国は「」そして「」という巨大統一国家を作り上げたのである。
日本は、その中国に脅威を感じ、これに倣ったのであった。 
それまでの中国は群雄割拠の分裂国家であり、同時期、日本も豪族群の地方分権の国であり、それでよかったのである。

因幡の国はこのような国造り、時代変革(律令国家の形成)最中に出来上がった国であった。


次回は、兵庫・「浜坂」


2017年9月21日木曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「鳥取砂丘」






平成日本紀行(193)鳥取 「鳥取砂丘」 .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/Southern_view_from_the_top_of_Tottori_Sand_Dunes.jpg/800px-Southern_view_from_the_top_of_Tottori_Sand_Dunes.jpg
写真:鳥取砂丘



http://cdn.jalan.jp/jalan/img/5/kuchikomi/3125/KXL/ac52d_0003125172_1.jpg
砂丘観光のためのリフト



千代川の鳥取大橋を渡り、案内に従って「鳥取砂丘」へと向かった。
「鳥取砂丘」は砂丘には違いないが、現実には、この丘の上に立つと砂漠である。

一般に砂漠の概念は、年間降雨量が250mm以下で蒸発量のほうが降雨量よりも多く、たいていの場合平均気温が高いことを特徴とする地域である。 
乾燥気候のため、植物がほとんど生育せず、岩石や砂礫からなる荒野で、世界的にはゴビ・サハラ・アラビア砂漠等があり、小生行ったり、見たりしたことはないが、荒涼とした(と言って、いいかどうか・・?)大地であろう。 

以上が、一般に言われる砂漠のイメージであり、これら砂漠は何れも地球環境や地球の気象変動によるものである。 

だが、ここ鳥取砂丘の生成は全く異にしているらしい。 
このことは後で述べるとして、その前にチョット砂漠について・・。



ここで余談だが、「砂漠と文明」について、
世界的砂漠はいずれも、文明の発祥の地、或いは文明流通の経路に当り、大河の河口、或いは流域に当る。 
サハラのナイル川、アラビアのチグリス・ユーフラテス川、ゴビの黄河・・?、然りである。

文明は、元々の砂漠地帯に生まれたものか・・?。 
砂漠地帯には大河が流れ、そこでは水資源の使い方、工夫、創作などの知恵が生まれ、他の条件として多くの人間が集まり、社会を造ることにある。 

砂漠は一般には酷暑乾燥の過酷な土地だが、一方では、砂地は見通しも良く、集散するための移動条件としては以外と楽なのである。 
砂漠にはオアシスもあり草原もあり、点在するオアシスを結んで行けば楽であり、又、砂漠は砂ばかりとは限らず土漠、岩漠などもあり、身を処すところもある。

四大文明の発祥地が、現在は殆どが砂漠となっている。 
文明の発祥は砂漠か、或いは、砂漠に準じた様な処だったのかも知れない。 
文明発生の要因は砂漠にあった・・?、そこは生活の工夫が強要されるところでもあったのだ・・??。 
猿が人間に進化したのは、或いは変化のない緑のジャングルや森林からオサラバし、砂漠に生活の場を求める様になったからかも知れない・・!?。


しかし、別な見方もある、文明が発育する過程におい、その間地球的規模で気候変動があり、当時の生活に適した湿潤地域(準乾燥地域)から次第に乾燥化が進み、砂漠化していった。 そのため人類は実際に当初の地域から追い出され、文明の跡だけを残して他の地域に移動していたと。

好例がある、
20世紀になって、サハラ砂漠のド真ん中に或る遺跡が発見された。 
サハラ砂漠の中央部の台地に「ギルフ・キビール(偉大なる台地)」というある岩絵が発見され、これは1万年前から5000年前に描かれた古代の岩絵だそうである。 
推測するところ、この岩絵は、古代・エジプト文明に共通するところがあり、エジプト文明の起源とも推測されている。 この地は、エジプト、ナイル河畔から1000kmも離れているところであるが、気候変動とともに、次第にナイルの地へ辿り着いたのではないかとも想像されている。(過日、NHKで放送された)



暫し脱線したが、「鳥取砂丘」について・・、
日本は元来、湿潤の地・国であり、砂漠の概念とは縁遠く、まして鳥取地方は年間降雨量(降雪量)は2000mmを超える多雨(多雪)の地域であるという。

鳥取砂丘は、鳥取市西部を流れる大河・・?「千代川」が太古以来、土砂を流し続けた事によるものといわれる。 
河口付近は遠浅になっていて、波打ち際より遠くで白波が立ち、同時に細粒の砂が少しずつ陸の方へ動かされたのであり、この運動が永い年月の間に砂丘を造ったと言われる。 

鳥取砂丘の場合は、更に、冬季には強烈な西から吹いてくる「偏西風」の影響で、この状態が顕著になり、他に例を見ない沙漠の様な砂丘を造り上げたのである。 
砂丘は、千代川河口東西16km、奥行き2kmで、高さ50mから60mの丘を造り、丘のスロープも広大である。


尚、鳥取砂丘は、先に述べた因幡の国の日本人発祥にまつわる文化、文明論に関係しているかどうかは定かでない・・が、山陰地方、鳥取観光の名所であり、宝であることは確かである。 

小生は昭和30年代、仕事の関係で瀬戸内に滞留してた時期に、山陰を旅行し鳥取砂丘を見物したことがあるが、その時の印象は余りに「だだっ広い」だけのもので、他の記憶は無い。 

現在は、砂漠の中に・・?、人家、道路、防砂林、観光施設など人の手が入っている。
しかし、昭和期以前までは、砂丘は生のままの砂漠の状態であったらしい。 

付近の人は、通りがかりの人に「うっかりすると砂丘に迷い込み、命を落すおそれもある」と注意を促し、喚起してたらしい。 
又、地元の人は一時期、緑化か、砂漠化か・・?で、悩んだこともあったという。 

鳥取砂丘は、湿潤の日本にあって唯一「砂漠」が見れる地域であり、「砂漠」として温存しておくのも必要かも知れない。


鳥取砂丘は、乾燥砂漠と違って「湿潤砂漠」であるが、「生きている砂漠」であることは他の砂漠と変わることはない。
風によって砂が動き、風紋を描いては消える。

この、激しい表情の変化が植物の繁殖を拒むし、過酷さに耐えられる砂丘植物のみが、かろうじて点在する世界である。 
激しい変化で生きている砂漠は、昔は周辺に住む人々にとって克服すべき「敵」だった。 
流動、飛散するから、どう田畑を守り、砂地を開墾していくかが命題であった。

江戸期にはこれらを克服するために、防風林のクロマツを10万本も植え、広い畑が開墾されたといい。
又、敗戦後の昭和20年代には食糧増産の時代要請もあり、砂丘全体を植林化し、開墾して生産物を構成する計画があったという。 
実際に、昭和30年初頭までは、その計画は実施されていったという。 

だが、植林が進んで砂が人によってコントロールされたことによって、砂丘では別な悩みが発生した。 それは、人による耕作で合わせて雑草群が侵入し、繁殖が進行していき、雑草の陰で小動物が発生し耕作物に害をなしたとされる。

そんな中、砂丘の価値が転換されるのは昭和30年代以降で、砂丘が国の天然記念物に指定され、38年には国立公園になったことである。 

砂丘本来の景観を取り戻すために、今度は砂防林の伐採が始まったのである。 
砂防林を伐採するのは砂を再び活発に動かすためで、合わせて平成初期頃から除草作業も始まった、一時はトラクターが必要なほど茂っていたという。 

「全国に大きな砂丘は他にもあるが、ここほど起伏が大きく動植物が生息している点では貴重で、50mもある丘の上からは大山の姿も眺められる」としている。 

現在も本来、砂丘に生育していない草原化した多種の雑草を取り除くべく活動が進められ、特に「除草ボランチア」が活躍しているという。 
ボランチアは手作業で完全除去を目指しているが、気を抜くと数年で草原化、森林化が進行するといわれる。 
皮肉にも豊潤で、豊かな鳥取の自然が、一旦、人の手が入ってしまうと砂丘本来の姿を脅かしているのというのである。

砂丘の丘に、砂丘会館や砂丘センターなどの観光施設があり、ここから海辺・・?の砂丘にむかって観光用のリフトが延びているのも珍しくて面白い。 

又、大砂漠の・・?南隣には県庁所在の大都市・「鳥取市」の市街が広がっているのも特徴的といえば特長であろう。 

夏の夜には砂漠の頂から海岸にイカ釣り船の漁火(いさりび)が望まれ、これも風物詩となっているという。

鳥取砂丘」近隣の砂丘畑ではらっきょう、白ねぎや長いもが栽培され特産品でもある。 
特に、「らっきょう」は全国有数の産地で、海岸沿いの砂丘地には広大ならっきょう畑が広がり、毎年秋になると辺りは赤紫色のらっきょうの花の絨毯が敷き詰められ、それは見事な光景だという。 
花の時期に合わせた「らっきょうの花フェア」も開かれているとか。


次回、「因幡・鳥取


2017年9月14日木曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「白兎海岸の白兎神社」






  平成日本紀行(193)鳥取 「白兎海岸の白兎神社」   .



 https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0c/e9/c4/d5/caption.jpg
白兎が住んでいたとされる沖の島




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/HakutoJinjya_Haiden.jpg
白兎神社・本殿




国道9号線は平坦な海岸道路になってきて海岸線が実に美景である。

途中の海岸園地には「白兎海岸」とあり、波打ち際に良く整備された展望地・小休の地があって案内板にも御存知「神話の地・白兎海岸」とあった。 
併せて「♪♪おおきなふくろ かたにかけ・・♪♪」という、鳥取県出身の田村虎蔵が作曲した御馴染み・・?の童謡・「大黒さま」の歌碑もある。 
そして、海岸沿いの国道の反対側には立派な鳥居と白い階段の参道を持つ「白兎神社」があった。 

境内及び参道周辺は現在(2005年)、工事、整備中であったが、見るとこの地国道に新しく「道の駅」も出来るらしい。 
元々、白兎神社は、鳥取市白兎地区に旧村鎮守社として存していたとされるが、その為の、神社周辺の整備であろう・・?。 
祭神は白兎大明神だとされるが、無論この一帯は「白兎と大国主神」の神話の舞台でもある。        


大国主神は、出雲大社に主神として祀られている。 
近世の出雲地方とは一般には島根県を指しているが、古代の「出雲の国」は遥かに大きく、伯耆、因幡は勿論、出雲系の古社の分布によっても、九州北部から新潟方面と、その勢力圏は広大であった。 

それに伴って大国主神にまつわる伝説、伝承、昔話、民話、御伽噺など出雲地方は勿論、新潟・越後地方にまで及んでいる。

その、「白兎海岸の伝承」について、記紀や出雲神話には・・、
『 神々の里・出雲で、大国主命の異母兄弟・八十神(やそがみ)達が因幡の国の八上の郷(鳥取市河原町)に美しい姫がいると伝え聞き、この八上姫を娶ろうとした。 八十神達は、弟の大国主命に八上姫への贈り物を大きな袋に詰め込み全てを持たせると、弟を待つことなく因幡の国へと向かった。その途中の海岸で傷ついた白ウサギが泣いていたが・・、』 ここから「大国主と白兎」の伝説、民話が生まれている。


出雲神話の続きともされる民話は、更に語る・・、
昔々、気多の岬に住む白ウサギが大洪水で沖の島に流され困っていました。 白ウサギはワニザメを騙して向こう岸まで並ばせ、その背を渡って帰ろうとしました。 騙されたことを知って怒ったワニザメは、白ウサギの毛をむしって丸裸にしてしまいました。 白ウサギが砂浜で泣いていると、通りがかった悪戯好きの神様(八十神)に「海水につかってから、風に当たるといい」と教わりましたが、痛みはますますひどくなりました。 その後に大国主命が通りがかり、「真水で体を洗って、蒲の穂綿にくるまりなさい」と教え、そのとおりにすると、兎は元の白毛が生え戻りました・・、』


白兎神社の前にある海岸には、兎が住んでいたとされる「沖の島」がある。 
この島からこちらに渡るためにサメを騙して並ばせたというわけであろう、島の中央には鳥居も建っていて、いかにもそれらしい。



大黒さま』 明治38年 旧文部省唱歌

大きな袋を 肩にかけ     大黒さまは 哀れがり        
大黒さまが 来かかると    きれいな水に 身を洗い
ここに因幡の 白うさぎ     がまの穂わたに くるまれと
皮をむかれて あか裸     よくよく教えて やりま  

大黒さまの 言うとおり     大黒さまは 誰だろう 
きれいな水に 身を洗い    大国主の みこととて
がまの穂わたに くるまれば  国をひらきて 世の人を
うさぎはもとの 白うさぎ     助けなされた 神さ


次回も、「白兎伝説

2017年9月12日火曜日

平成日本紀行(192)浜村 「貝殻節」





  平成日本紀行(192)浜村 「貝殻節」   .




 http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1223362670077/html/common/other/494ae681029.gif
魚見台にある奇妙な「覗石」




鳥取市域に入ったようである。
旧気高町と青谷町の町境、国道9号線沿いに「魚見台」と呼ばれる展望台があった。海に面した断崖上の高台にあり見晴らしは絶佳で潮風がすがすがしい。

白兎海岸・鳥取砂丘、遠くは但馬海岸まで一望でき、日本海は濃厚なブルーで180度の視界が広がっている。
園地には「魚見台」を刻した標石や何故か岩をくり抜いた「覗石」とやらもあった。
そして、ここ、魚見台には日本海沿岸の浜村、賀露、泊、妻波などに伝わるという「貝殻節」が有名で歌碑なども建っている。 

この展望地は昔、魚の(主にイワシ)の大群が押し寄せたときに、ここから漁夫が大声で知らせたことから、魚見台と名付けられたという。 
ほぼ真下に浜村漁港の波提が覗える。

この浜村地区には「浜村温泉」という山陰地方の歴史のある温泉もあり、美しい海辺に位置していて明治時代に開湯した付近の勝見温泉と共に、総称して「浜村温泉」と呼んでいる。 
近海の取りたての新鮮魚料理が堪能できるとともに、湯量が豊富な為、プール風の大浴場を持つ旅館も多いという 。 


この地方は、哀愁をおびた民謡「貝殻節」の発祥地としても知られる。
「貝殻節」の冒頭は「何の因果で・・・」で始まるが、実際に、この地方では何年かに一度、海岸地帯に「帆立貝」が大量に発生するという。 

沿岸の漁師達はこの時とばかり船を仕立てるが、荒れる波の上を漕ぎ手と漁具を操るのがなかなか大変らしく、この時の辛さを歌ったものという。 

伝説によると、因幡藩主の家来だった若侍が、土地の娘を身染めて漁師となり、馴れぬ手付きで貝殻漕ぎの船に乗り、櫓を漕ぐ重労働の辛さに「何の因果で・・・」と口走って溜息をついたという話もある。 

昭和8(1933)年「浜村音頭」として世に出したところ、大変な人気で、地元ばかりでなく、全国で唱われるようになり、潮の香りを漂わす節回しでしたので、曲名も元歌の「貝殻節」と呼ばれるようになったという。
              

貝殻節」  鳥取県民謡
何の因果で 貝殻漕ぎなろうた
カワイヤノー カワイヤノ
色は黒うなる 身はやせる
ヤサホーエヤ ホーエヤエー
ヨイヤサノ サッサ
ヤンサノエー ヨイヤサノ サッサ

戻る舟路にゃ 櫓櫂が勇む (繰り返し)
いとし妻子が 待つほどに (繰り返し)

忘れられよか 情もあつい
あの娘ァ 浜村 お湯育ち

浜村沖から 貝殻が招く
嬶よ まま炊け 出にゃならぬ

帆立貝なら 帆立てて行こよ
わたしゃあなたの 身を立てる


次回は、「因幡の白兎伝説


2017年9月8日金曜日

平成日本周行(191) 倉吉 「蔵の街と名湯」 





  平成日本紀行(191) 倉吉 「蔵の街と名湯」    .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/Kurayoshi_Utsubuki-Tamagawa17nt3200.jpg/1024px-Kurayoshi_Utsubuki-Tamagawa17nt3200.jpg
蔵の町、倉吉




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Misasa_onsen01bs3200.jpg/1024px-Misasa_onsen01bs3200.jpg
三朝温泉の中心、三朝大橋のたもとにある無料の露天風呂・「河原湯」。



大栄町に入ると間もなく「道の駅・大栄」があり、こちらで一服入れる。
1992年4月に鳥取県北栄町(旧大栄町)に設置されたこの「道の駅・大栄」が、道の駅の第1号としているらしい。 ただし、第1号を名乗る道の駅は、1993年4月22日に全国103箇所の施設が道の駅として正式に登録されたということで、これらすべてを第1号と考えるのが適切であるという意見もある。
大栄町は2005年10月1日、隣町・北条町と合併し、北栄町(ほくえいちょう)として誕生している。


その内陸南方、天神川沿いに倉吉市が在る。
鳥取県は昔の地域名で言うと、米子を中心とした西部地区を伯耆の国、そして鳥取市を中心とした地方を因幡の国と称していた。
では東西の中央に位置する「倉吉」は伯耆なのか因幡なのか微妙な地域でもある。

尚、現在の生活習慣、風習は鳥取市など鳥取県東部の影響を強く受けているところが多いとも言われる。 だが、倉吉は地域的にはかつての伯耆国の東区域に相当するtろもいう。


倉吉は、奈良時代には伯耆国の国府・国分寺・国分尼寺がおかれ、山陰において最も栄えた地域で政治・経済・宗教・学問の中心をなしていた。 
室町時代の初期には山名師義(やまな もろよし:南北朝時代から室町時代の武将、孫に応仁の乱の主役・山名宗全がいる)が倉吉盆地を見渡す打吹山に築城し、城下町として栄えた。 

市の中心を流れる玉川のほとりに、江戸から明治時代にかけて建てられた白壁の土蔵群が建ち並び、「蔵の街・倉吉」として風情のある風景を見せている。 
漆喰の白壁と焼杉の黒い板、美しい土蔵群、川を挟んでの石橋が雰囲気を盛り上げ、因幡の小京都(実際は伯耆国)とも呼ばれている風雅な町並みである。 

寅さんもこの地を訪れているらしく、映画「男はつらいよ」の第44作・「寅次郎の告白」のロケが行われたという。


道9号の北側は「北条砂丘」で知られる地であるが海岸線を占める砂丘は、そのほとんどが畑になっていて、海辺に白砂青松が続く。 
砂丘を左に見ながら「天神川」の新天神橋を渡ると羽合町である。
ところで、天神川は鳥取県の中央を流れる一級河川の清流が流れるが、存外、この川の境辺りが伯耆、因幡の境ではないだろうか・・?。

 
羽合町は、「はあいちょう」と読みそうであるが、「はわいちょう」とチョット無理して呼ばせているらしく、「日本のハワイ村」と言っているようだ。 

街中は各所で片仮名のハワイやアロハの名を呼称にして、町のイメージアップを図っているようで、現に、ハワイ州(アメリカ合衆国)と町名が同じであることから、1996年に姉妹都市提携を結んでいるという。 

美しい海とヤシの木の並木がアロハシャツを着たハワイ村民が、人々を癒しの世界に誘ってくれて、おまけに東郷湖畔には羽合温泉もある。 
温泉には立派な施設も有り、その名も「憩いのオアシス・ハワイゆ~たうん」と言うらしい。
2004年10月1に羽合町、泊村、東郷町と合併して湯梨浜町(ゆりはまちょう)となっている。

その東郷池は鳥取県の三大湖沼の一つで、池中より90℃もある温泉が湧出している珍しい池である。 
池の成因については、もと日本海の入江であったところに天神川の流砂が堆積して羽合砂丘や北条砂丘をつくり、入江が堰止められた結果取り残されてできたもので、このような池や沼のことを潟湖(ラグーン)という。



温泉といえば、やや内陸に入ったところに、中国地方の名湯といわれる「三朝温泉」がある。 
三朝と書いて“ミアサ”ではなく、「ミササ」と呼ぶが小生、若年の頃、一度訪れたことがあり、今となっては過去の古い懐かしい思い出と言いたいところだが、記憶は全く無い。 

中国山地の山あいに、ひっそりと佇む品のある温泉地であるが、800年以上も前に開湯したという歴史的な温泉でもあり、出雲国風土記にも温泉に関する記述があるという。 

明治以降は著名な文人、与謝野鉄幹・晶子夫婦、野口雨情、志賀直哉、斎藤茂吉、島崎藤村などが訪れているという名湯でもある。

三朝温泉の特徴的なんが泉質で、世界でも有数の放射能温泉である「ラドン泉」が湧き出ていて、源泉中のラドン量について一部には680マッヘという記録ももあったという変り湯・・?である。 


マッヘ」とは・・?、放射能のラドン濃度を示す単位であるというが、では放射能とは・・?、ラドンとは・・?。 

先ず、ラドンとは放射性ラジウム鉱石(放射性元素)が分解するとき生じる弱い放射線のことで、身体に浴びると新陳代謝が活発になり、免疫力や自然治癒力が高まる効果があるとされる。 
この効果を「ホルミシス効果」といい、癒しの温泉効果とも呼ばれている。

因みに、「ラジウム」は、マリ・キュリー夫妻によって発見された放射性元素で、この放射線効果で放射線治療であるガンや放射線医学、治療学の領域で大きな分野を形づくったことは周知である。 
当初のラジウム放射線治療では、ラジウムに接触した部分にひどい火傷を負ったという、放射線の強さを示す笑えぬ話もあるようだ。


三朝温泉ではラジウムが気化し、発生するラドンガス(湯気)吸うことで抗酸化機能が高まり、老化や生活習慣病の予防に役立つとされている。 

又、無色透明の三朝温泉の泉質はミネラルを豊富に含んでいるので飲泉にもおすすめで、胃液膜の血液量が増加し、慢性消化器疾患・慢性気管支炎・胃腸病などに効果があると言われている。 
一部の旅館には高濃度のトロン(ラドンの元素で同位体ともい)を含む温泉もあり、観光客だけでなく療養目的で訪れる湯治客も多いという。

三晩泊まって三度三朝を迎えれば難病も治ると言われている温泉
温泉情緒たっぷりの三朝橋を中心に、どこか懐かしい昔ながらの街並みが続き、三朝橋の袂には町のシンボルである「河原風呂」(無料、混浴)や青御影石で造られた純和風の露天風呂が並ぶ。 夏になれば、「蛍の光」と「かじか蛙」の可愛らしい鳴き声が三徳川一帯を覆うという。


次回は、鳥取・「貝殻節

2017年9月5日火曜日

平成日本紀行(190)大山  「伯耆大山」





  平成日本紀行(190)大山  「伯耆大山」 .




伯耆の国は、箒(伯耆)のような「大山」から起こったとされる・・? 、

伯耆大山 、
鳥取県の民話で、「大山の背比べ」について先に記したが、伯耆の国は1729mの「大山」に代表される。 
日本海から見るとその姿は鮮明であり、伯耆富士といわれる端正な姿で拝見できる。


小生の在する所、相模(神奈川)の屋根と称する丹沢山系の東端に「大山」(1252m)という人気の山がある。 
中腹には由緒ある大山寺(大山不動尊)という寺社もあって、この山は普通に「おおやま」と呼んでいるが、こちら伯耆大山は「ほうきだいせん」と読んでいる。 


中国・山東省泰安にある名山・太山(泰山・Tai Shan)があり、死者の集まる山ともいわれ、仏典では地獄のことを太山と呼ぶこともあるという。 

大山は元々は山岳修行の聖地で、山頂付近に修行寺である「大山寺」(だいせんじ)がある。 
お山は単に御山であったが、大山寺が建立され折、僧侶が中国の太山に倣って「だいせんじ」と称し、御山もいつしか「だいせん」と読むようになったという。 

又、大山を「だいせん」と読むのは、氷ノ山(ひょうせん;中国地方の名山:標高1,510m)、扇ノ山(おおぎせん;標高1,310m)、蒜山(ひるぜん)のように山を「せん」と呼んでいるのがこの地方の特徴で、中国式の読み方であるとか。


大山は中国地方の最高峰で、山陰を代表する伯耆大山ともいい、最高峰は剣ガ峰(1729m)であるが、一般登山は弥山(みせん・1711m)までらしい。 
これは近年、各所で崩壊が激しく落石・危険個所も多く、ピークの剣が峰は通行禁止になっているという理由らしい。

大山はトロイデ型(釣鐘状)火山で、溶岩ドームが風雨に削られて崩落し、現在のような山様が造られたという。  
180万年前くらいから活動を始めた大山は、大規模な成層火山を形成し、その後5万年前くらいから大規模な噴火をし、そのときに誕生した最大規模の溶岩ドームが冷えて固まり成層火山の上に乗っかっているのが現在の大山の原型だという。 
1万年前くらいに最後の噴火をした後は、噴火記録は残されていないらしい。


また大山は見る方角によって様々に姿を変えてゆくことでも知られている。
大山のことを伯耆富士とも出雲富士とも呼ばれているようで、これは西の方角から見た大山がちょうど富士山のような形に見えることからそう呼ばれている。 

西の裾野にある岸本町(溝口町と合併して伯耆町となる)や米子市内から眺めると、丁度富士型円錐形の大山が見られるといい、愛称の伯耆冨士の理由が良く解かる。

しかし、富士型の愛称とは裏腹に、中国地方からは崩壊現象が顕著に見られ、珍しく峻烈な山容をしているという。 
登山家 深田久弥氏選出の日本百名山の一つで、日本の山岳愛好家の中でも5指に入る人気で有るとも云っている。 。



話はチョット反れるが・・、
日本の船の航海は、古代から幕末の頃までは、観点測法による航海術が未発達で、日本近海の陸、岬、山を見ながら位置を確認する、所謂、「山見」という手法で航海していたという。 

岬や丘のような低地であれば、四季を通じて風の影響はさほど無く安全航行が出来るが、大山ほどの大きい山になると、風による影響が大きく、特に春季の東風は山背(こち、やませ:山を越して吹く風)となって突風を起こし船を転覆させたりもするとされる。 

春に風のある日は「岸から離れろ・・!」といって、大きな大山は目印にはなるが、一方では恐れられたとされる。


大山は海上から見ると裾広がりで「」のような形状をしている。 
古来、海上を行き来する船乗り達は「箒の山が見えてきたぞ・・」と歓呼したことらしい。 

箒とは「はき寄せる」物であったが、「幸せをはき寄せる」という意味から、古来、縁起物として神社などで取り扱っているのは周知である。 

箒の山は、何時しか「伯耆」の国に成ったとも言われるが果たして・・?。


次回は、「因幡地方

2017年9月4日月曜日

平成日本紀行(189) 名和 「名和長年」





  平成日本紀行(189) 名和 「名和長年」  .




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Nawa-jinja_Worship_Hall.jpg/1024px-Nawa-jinja_Worship_Hall.jpg
名和一族を祀る「名和神社」・本殿 (Wik)





「名和長年」は鎌倉末期・南北朝時代の名将ではあるが・・、

名和町に入ると山陰線・名和駅そして駅のすぐ近くに名和神社が祭ってあり、すぐ南北朝の武将・名和長年(なわながとし)のことを思い出した。 

鳥取県の名和町、人口7500人ほどの普通の田舎町の感じで、きっと過疎化が進んでいる町でもあろうと想像してしまう。
訪れる人も少なそうで、これといった観光もないように見受けられる。 
しかも平成17年の合併のため名和町という名前自体も無くなってしまったようで、現在は大山町と称している。

だがそんな名和町から、その昔一人の英雄が出た。 
その名は「名和長年」という。


太平記の時代に後醍醐天皇を助け最後まで付き従い、戦前は「建武の忠臣」として称えられたが、戦後は教育の方針が変わり世間から忘れられてしまった人物だという。  

鎌倉末期、北条執権の衰退を期に、都では後醍醐天皇らが中心となって幕府との対立を鮮明にし、天皇親政による日本の全国支配を目指す。 
正中の変」(正中元年・1324年)と言われるもので、更には、元弘の変(元弘元年・1331年)という鎌倉幕府討幕運動が起きるが、何れも幕府側に露見してしまい、後醍醐天皇は隠岐への配流となってしまう。 

因みに、過去の鎌倉初期の「承久の乱」の折には首謀者・後鳥羽上皇は、鎌倉側との一戦に敗れて隠岐の島へ配流されている。
そして、その後はすっかり意気消沈し世捨て人として失意の余生を送ったとされる。 
ところが、こちら後醍醐帝は不屈の闘志を持ち、配流程度では全く挫けなかった。 


状況下、後醍醐帝は隠岐の脱出に成功し、伯耆の豪商・名和氏に迎えられて船上山に拠り、討幕の綸旨を各地に発して鎌倉幕府と対決する姿勢を顕著にする。 

そして新田義貞、足利尊氏らの関東・鎌倉での蜂起によって討幕は遂に成功を見ることになり、150年間続いた幕府は滅亡する。


長年は戦功を認められ、幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、河内国の豪族・楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所など朝廷の役人を務める。

しかし、足利尊氏が後醍醐親政側から離反すると、長年は楠木正成、新田義貞らと共に宮方として尊氏と戦うが、1336年(/建武3年)の「湊川の戦い」で京都に入った尊氏らと激戦の末に敗れ、三条猪隈(京都市三条猪隈)で討死する。 

長年は伯耆(キ)守であったことから、楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて、後醍醐天皇近侍として「三木一草」の将と称された。



名和神社」は、鄙びた山陰線の名和駅より東南方向に、広大な境内を持つ社宮で、鳥取県内でも最大級の規模を誇るという。 

それにしても「宮の壮大」さは、南北朝時代の名だたる名将・楠木、新田、足利氏や果ては天皇家をも凌ぐほどのであろう・・?。 
建武の忠臣と言われる「名和長年」公ではあるが、所詮、名将である彼らの名を借りれば名和氏は脇役であり、自身は、たかが天皇の側近の身であった。 

まして、後醍醐天皇は一時期、天皇親政の執政を行うが、直ちに足利氏らの政争に敗れてしまう。 
そして天皇自身の評判は権謀術策にたけた専制君主、あるいは公家達の多くの者達にもその無能ぶりを批判され権威は全く失墜して、更に時代は再び武士の世になっていくのである。


名和神社は主祭神・名和長年と一族四十二名を祀り、現在の社殿は昭和十年に完成したもので、建築界の重鎮・伊藤忠太(近代における建築界ののリーダー)指導の下、明治神宮を造営した「角南隆」(すなみ・たかし、戦中・戦後の神社建築会の権威)が手がけたという。

本殿からは日本海が望まれ、海を越えた一直線上に後醍醐天皇配流された隠岐が望まれる。
境内は元々、旧名和公の在所で、米倉があった所とされている。

名和町は2005年3月、大山町、中山町が新設合併し新大山町となっている。


次回は、「伯耆大山


2017年9月3日日曜日

平成日本紀行(188) 米子 「妻木晩田遺跡」





 平成日本紀行(188) 米子 「妻木晩田遺跡」  




「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)について・・、

孝霊山の麓の大山町に所在する国内最大級の弥生集落遺跡である。
いわゆる「大乱の影響」とされる高地性集落で、国内でも比較的大規模で長期にわたる遺跡は少なく注目されているという。 
鳥取県大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡で、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡の5倍にも及ぶ大規模なものである。
標高90~120メートル前後(平野部との比高差-100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されていて、一連の集落は「弥生時代後期」を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれているという。 又、遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土していて、特に鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで197点が出土しており、大陸性のものも確認されているという。

その他にも日本海と近畿、瀬戸内を結ぶ物流と軍事の重要な地点に、大乱にも関係しているとされる「弥生集落遺跡」が多数発見されているという。 
県内加茂町の「加茂岩倉遺跡」、斐川町の「荒神谷遺跡」、出雲市の「西谷墳墓群」、松江市乃白町の「田和山遺跡」等の弥生式遺跡などがある。 
更に関連して、「古代鉄の資料館、博物館」などが出雲の南部地区である安木市、三刀屋町、仁多町、吉田村等にも存在する。

特に吉田村の「菅谷たたら山内」には、かつて「たたら製鉄」が操業されていた「高殿」と呼ばれる形式の生産施設が唯一残されており、国の有形民族資料に指定されている。 「たたら」・・とは、砂鉄は重さ(比重)を利用してふるい分けられる、これに良質の木炭を混ぜて還元炉(無酸素状態の炉)に入れ,ふいごで送風し熔解する。 炉内温度は低いので,炭素を多く含む銑鉄はできず炭素含有率が2%以下の鋼(はがね)ができるという。 たたら製法を行う家屋を「高殿」といい、ふいごを「踏鞴」(たたら:足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご。)と書いていずれも「たたら」とよんでいる。 鑪という字もたたらと読む、「たたらを踏む」という表現は、このふいごを踏む動作から来ている。 この方法を「たたら製鉄」といい、古代からの製法なのである。

そして、実際に史実として日本史上に登場するのは、「倭国大乱」の後の統一後であり、邪馬台国の「卑弥呼」が30余国を支配し、中国(魏)との正式な交流が始まる段になってからであるとされている。 その後、尚100年たって、西暦350年頃、大和朝廷が国内をほぼ統一するに到る。
序ながら、日本書紀の神功皇后記において、魏志倭人伝の中に「卑弥呼」に関する記事を引用している。 このため、江戸時代までは卑弥呼=(イコール)神功皇后だと考えられていた。 
この説にたてば、邪馬台国の大和王朝は既に畿内にあったとされている。 そして、神功皇后の息子、応神天皇は八幡神として宇佐神宮(大分県宇佐市、既に記載)に祀られ、皇后自身の祭殿も同社に在るのは、大和王朝と朝鮮半島の通交が活発化し、通交航路である瀬戸内海沿岸(大分県宇佐市)に神功・応神を祀る八幡宮が置かれたともいう。 これらの事項についても既に宇佐神宮の項で記述している。

いずれにしても、「大山」の背比べ伝説からはじまって、孝霊伝承、温羅伝説、桃太郎伝説、八俣大蛇伝説、渡来人と鉄器・製鉄、国譲り伝説、倭国大乱、大和朝廷王国等、等々の項目を並べるだけで、古代・出雲地方における壮絶な歴史物語の原型を見る事が出来る。  
特に桃太郎の鬼退治のくだりはヤマト王権と出雲族、朝鮮半島からの渡来人との間で起きた武力衝突を、伝承や御伽噺として脚色、伝承したものが元になったという点で、興味津々である。




文部省唱歌 「桃太郎」 詞・不明、作曲・岡野貞一
桃太郎さん、桃太郎さん、
お腰につけた吉備(黍)團子、
一つわたしに下さいな。

やりませう、やりませう、
これから鬼の征伐に、
ついて行くならやりませう。

行きませう、行きませう、
あなたについて何處までも、
家來になって行きませう。

そりや進め、そりや進め、
一度に攻めて攻めやぶり、
つぶしてしまへ、鬼ヶ島。

おもしろい、おもしろい、
のこらず鬼を攻めふせて、
分捕物をえんやらや。

萬萬歳、萬萬歳、
お伴の犬や猿雉子は、
勇んで車をえんやらや。


次回は、「名和」

2017年8月31日木曜日

平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」(Ⅱ)






平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」(Ⅱ)




倭国戦乱の具体的背景は・・? 、

2世紀頃というと、日本史の流れからすると弥生時代の後期にあたり、この頃は既に稲作文明が広く一般化し、九州、近畿はおろか中部から関東地方にまで及んでいた。

稲作を施す工具にしても、金属の青銅器はおろか鉄器が普及し、製鉄技術も朝鮮半島から伝わってきていて、砂鉄の産する出雲地方では既に製鉄が始まっていたことは既に記した。

ただ、稲作を施すには個人や部族という小規模地域では困難があり、どうしても地域の拡大や組織化された人々の連携が必要になってくる。
更には土地そのものが必要で、それも小規模からより大規模になってゆくのは必然であった。 
そこには組織化されたリーダーが必要になってきて、必然的に集落や部族間で争いが起こり、土地の収奪や新しい機器の導入のための争奪も起こってくる。

国内において、当時の現状は部族や地域のリーダー、豪族はいたものの大地域の統治者というのは未だ存在してなく、まして、国としての体裁はなく、真の国王などは存在していなかった。 

邪馬台国とか倭国という国名・・?は中国において日本につけた名称であった。 
ただ、自称・王朝なるものは存在していたらしく、そのことは九州王朝説や近畿王朝説があったとする。


「後漢書」によると・・
弥生時代の倭国は多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたとしている。

そして、倭国大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いということになっている。 ただ、国内事情においては前述した稲作文明の波及、鉄器及びその製造文明等、いわば時代の革命時期であり一大転換期、過渡期でもあった。
そして、このような時期は必然的に領土的主権を合い争う時代でもあったのである。 

このような理由で倭国大乱は必然であった。 
また、時節的に見ても、弥生期は2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けたとされ、土地の収奪争いは一層顕著になったとされる。 

いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した「倭国大乱」は、生活様式、気候的変化をも合わせて、集落に大きな変化を生じさせ、所謂、「高地性集落」を営むようになったとされている。



倭国大乱の時代背景

大乱の原因としてまず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争いであるとし、弥生時代の倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定されるようになる。

しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。『後漢書』の「何年も主がいなかった」とする記述は、上記の議論を裏付けている。

しかし邪馬台国以前に「倭国王」のもとでの政治的統合があったとする説には異論も多い。『後漢書』東夷伝に出てくる帥升にしても、倭国の統一的な王ではなく、一地方政権の王に過ぎなかったとも見える。

大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いというよりは、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある。『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったとされる。
いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落が「倭国大乱」とどう関連するかが、大乱の性格を知る上では重要となると見られる。

また、弥生系渡来集団が九州から畿内への拡大過程で各地に先住していた縄文系在来集団との間で摩擦、すなわち倭国大乱が起き、渡来系集団は在来集団の居る各地で防御のための環濠集落や高地性集落を作ったとの説(卑弥呼の国:冨川光雄など)もある。

この説によれば、弥生系渡来集団が近畿地方にまで到達した際に両集団が協定して倭国連合政権を作り、卑弥呼邪馬台国女王をその連合政権の王に推戴して倭国大乱は治まったとする。


次回は、「妻木晩田遺跡

平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」






  平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」    .




「桃太郎伝説」は実際にあった・・! 、

前回の「桃太郎伝説」の続きになるが、これらを裏付けるように2世紀頃、この地方に大乱、所謂、「倭国大乱」があったとされる。

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末に倭国で起こったとされる争乱で、中国の複数の史書に記述が見られるという。
列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする見方もあるとされる。 

記紀には若干の記載がある程度だが、中国の正史である三国志(魏志倭人伝)や後漢書(東夷伝)には大略記述され、尚且つ、出雲風土記日野郡誌にも記録があるという。

後漢書「東夷伝」(東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、主に、朝鮮、日本(倭)の事を差している事が多いともいう)によると、「2世紀に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった」とある。 
この争いは後に、あの「卑弥呼」(ひみこ)を共立する事によって収まったとされている。 


この時期の古事記の条を見ると「大吉備津日子命と若建吉備津日子命は、共々に播磨口を入口として、吉備国を平定なさった」と記されてあり、吉備津彦命が大乱に関連していると考えられる。
2世紀後半の頃、近畿、中国地方においては出雲や吉備、九州筑紫地方で戦乱、つまり倭国内での大乱があったことが記されているようである。 

又、地元の「日野郡誌」には、中国地方(出雲国・伯耆国・吉備国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在しているとして、この伝承が倭の大乱に関連しているともしている。 


大山北麓の「孝霊山」に関して・・ 、
大和の国から遠征してきた孝霊天皇は、日本海から上陸して孝霊山に居を移したとある。
この遠征の最終目的地は出雲周辺であり、大和と出雲の騒乱は「倭の大乱」として表していると想像されるとある。 

孝霊山麓には「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)というのがあり、弥生期の2世紀頃の遺跡とされ、全国最大級の規模という。 
郡誌は、孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが、実際には妻木晩田遺跡のすぐ近くであり、伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋して姫を皇后にしたとあり、孝霊天皇の皇后の出身地であることから最大級の遺跡になったとも考えられる。 
すぐそばには高杉神社があり、孝霊天皇が祀られていることは前述した。


「倭の大乱」以前・・?の出雲統治圏については先の出雲の項にも記したが、その領域は山陰・北陸地方から信濃の国、瀬戸内海沿岸地方から筑紫の国であったとされることから、「倭の大乱」後は、出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっているのである。 


出雲神話によく登場するが、大国主が戦さに敗れて「国譲り」を行い、出雲一国の国王になってしまったことをも表わしてもいる。 

出雲の国王は、出雲地域を離れる事は無かったが、出雲に対するリーダー(吉備の主とも言われる)は各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。 

ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで数世代はかかったとされ、統一された連合が大和朝廷(ヤマト王権)で最初の統治者が「卑弥呼」であるとされる。

考古学の見地からも「倭国大乱」、つまり出雲、吉備(大和)地方においても争いがあったことは裏付けられているという。



次回も「倭国大乱」の続き、




2017年8月30日水曜日

平成日本紀行(188) 米子 「桃太郎伝説」






  平成日本紀行(188) 米子 「桃太郎伝説」    .





前回からのつづきで、これら楽楽福神社には、鬼を退治したと云う鬼退治伝説が伝えられていることは前述した 。 

そして位置がずれてズーッと南下したところ、山陽地区の広島県府中市という処にはに南宮神社という古社があり、祭神として孝霊天皇と吉備津彦を祀っているという。 

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子とされている。 
そして、そのすぐ東隣町の広島県新市町には、備後一の宮とされる「吉備津神社」が鎮座し、チョットややこしいが、その本社は岡山県岡山市にある備中・一の宮の吉備津神社(岡山市吉備)である。 

又、又、備前国一宮(岡山市備前一の宮)にも分祀の吉備津彦神社が在り、併せて三備一の宮と称している。 
因みに、備中、備前の両神は直線距離にしてわずか数㎞しか離れていないが、地域合併を繰り返した結果、備中の一部を含むようになった為に一つの都市(岡山市)に二つの一宮があるという、珍現象が起きてしまった。 

何れも、祭神は孝霊天皇及びその皇子を祭っている。 
その他、周辺及び四国にも同様の祭神を祀る支社、分社が在るといい、この辺りは、所謂、桃太郎にまつわる伝説地の本場でもある。 
これら吉備津神社には、共通して温羅伝説(うらでんせつ)なるものが有るという。 

『 吉備の国に、空から百済の王子が舞い降りた。 名を温羅と言い、髪は赤く身の丈4メートル、性格はきわめて凶暴であったため、鬼と言われた。 たまりかねた人々は大和朝廷にその暴状を訴える。 朝廷から命を受けた「吉備津彦命」は激しい攻防の末、温羅を捕らえその首をはねた。 』 


これが今に伝えられる吉備津神社(岡山県吉備津)の「桃太郎伝説」であり、又、吉備津彦命は桃太郎のモデルとも言われている。

お伽噺の桃太郎は、イヌ・サル・キジの三人の家来がいるが、イヌ=犬飼武(いぬかいのたける)、キジ=鳥取部(ととりべ)、サル=楽楽森彦(ささもりひこ)が当てられたものと云われている。 
それぞれ当時の地域・部族の集団で、軍事色が強かったという。 
「犬飼氏」は、実際に犬を集団で戦闘に使用していたらくしい。 「鳥取部」は、大和朝廷が

諸国に鳥類を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという。 
所謂、狩猟民族の一団としての色彩をもっていた、これが生じて今の「鳥取県」になったとも言われる。 

「楽楽森彦」は「楽々福神社」の元であり、これは戦いの前線基地として、伯耆の国に置かれたとされる。 

イヌ・サル・キジについては一種の物語的挿話・・?、であるとしても桃太郎がイヌ・サル・キジを引き連れて鬼を退治した物語は、吉備津彦命である孝霊天皇又はその皇子が吉備の国から北部の伯耆の国方面へ遠征して、巨大なものを征服せんとしていたことが伺えるのである。



さて、話の方向がチョット変わるが、中国地方の山系には古来より砂鉄を産したといわれる。
江戸期・藩政時代には鳥取藩は、出雲と並んで明治以前の頃まで日本の製鉄の大きな担い手であった。 
元より、出雲の国は古代より大陸との流通が盛んであり、稲作と同時に鉄器の文明が渡来していたことは承知である。


朝鮮半島では既に製鉄がはじまり、それを鉄の薄い板にした物を日本列島、特に出雲地方の人々が輸入する世の中になっていたのである。 
この時期をもって田畑の灌漑が進み、普及し、日本人の生活様式一大変化、革命が起こるのである。 
そして、鉄を入手できる者が豪族、大王になる資格を得ることにもなる。 
出雲地方は、その鉄としての素材を産出する国、そして製鉄の技術を持つ国だったのである。


先にも記したが、楽楽福神社なるものは鳥取県西部を南北に流れる日野川に沿って分布している。
神代の古代より、この日野川及び周辺河川は砂鉄の採れる川なのである。 
スサノオの八俣大蛇伝説が伝えている古事記の「肥の川」や日本書紀の「簸の川」は、鳥取県のこの日野川である可能性が大きいといわれる。 

楽楽福神社にまつわる「」なるものは、製鉄をつかさどるのことで、「ささ」は砂鉄のことであり、「ふく」は「吹く」に通じ、製鉄炉への送風を意味する。


いずれにもせよ「楽楽福」の意味を、このように製鉄に関するものと解釈すると、吉備(大和朝廷)の勢力によって、出雲から鉄に関する一切を奪ったというように解釈できる。 
そう考えると、楽楽福神社にまつわる鬼退治の話、桃太郎伝説は鉄(砂鉄)資源を奪い合う出雲と吉備の紛争であると考えることが出来るのである。
詰まるところ、大和朝廷(ヤマト王権)が出雲王国の鉄資源及び製法を力ずくで奪った事になる。

出雲伝説で、スサノオの八俣大蛇退治で体内から「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ・草薙の剣)を取り出したが、八俣大蛇は日野川を中心とした各河川流域のことで、天叢雲剣は鉄資源、製法のことである。


記紀には、八俣大蛇のその姿は八つの頭と八つの尾を持ち、八つの谷と八つの峰に跨る(またがる)程巨大な体をしており、その背には苔や杉、檜を生やし、腹は常に血を流してただれ、全部で16あるその目はまるでホオズキのように真っ赤であると言われている。

これらの伝説は、何れも砂鉄を産する産地、地域を指していて、「真っ赤な目」は砂鉄そのもの指しているふうに想像できる。 
このことは、前述した出雲地方の「斐伊川」にも、全く同様に共通、類似しているのである。 
思えば、日野川と斐伊川は呼称も類似している。


次回は、「倭国大乱

2017年8月29日火曜日

平成日本紀行(188) 米子 「大山と孝霊山」 







  平成日本紀行(188) 米子 「大山と孝霊山」   .





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Daisen.JPG
中国地方の名峰・伯耆大仙(WIKより)




伯耆大山の孝霊山(高麗山・・?)伝説

日本海沿岸を連ねる国道9号線を行く。 
米子の西はずれの淀江町(合併して現在は米子市域)辺りが、山陽道と連絡している米子自動車道、米子バイパスと合流していて車の数も多く、一段と賑やかである。

無論、これから先は伯耆富士と呼ばれる「伯耆大山」(ほうきだいせん)の裾が、一気に日本海に落ち込む裾野を行くことになる。 
進むほどに大山の大斜面が実感できるが、山腹、頂上付近の山並みは濃いガスに覆うわれて、残念ながら望むことは出来ない。  

すぐ手前に緑豊かな大山の前衛の山とでも言おうか、「孝霊山」が峰を並べていて、頂上付近には数ほんの中継アンテナなども微かに見て取れる。 
9号線沿いの道の案内板には、孝霊山やその麓に在るのだろうか・・?、妻木晩田遺跡などの紹介板が目に付く。


ところで、小生の住む相模の国(神奈川県)には、丹沢山塊の一角に同字語の「大山」がある。
こちらは素直に「おおやま」と呼んでいるが、こちらの伯耆の国の「大山」は、「だいせん」と読む。 
山陰地方では、御馴染みの氷ノ山、扇の山など、何れも「セン」といい、この地方独特の呼称だという。

「大山」は深田久弥氏の撰した「日本百名山」の一つでもあり、その冒頭に『 伝説的に言えば、大山はわが国でも最も古い山である。 昔、出雲にいた神様が、余り自分の国が小さいので諸国の余った土地を縫い足そうとして、国来、国来(くにこ、くにこ)と綱で引き寄せた。 その引き綱の杭の一つが、火神山(大山)であると「出雲風土記」が伝えている。』と記しいる。


この出雲・島根半島の「国引き伝説」のことは前項でも記したが、山好きの小生でもあるので、山容に関する「大山」のことは後にチョット詳しく述べたい。

さて、「大山」の裾野から頭を出している独立峰・前衛の山が窺がえるが、「孝霊山」(コウレイサン:751m)といい、別名を韓山又は瓦山ともいわれるらしい。
その名の通り朝鮮半島、高麗(こうらい)にまつわる伝説などが残されているという。 
この孝霊山頂に立つと、大山の北壁から島根半島まで360度のパノラマが楽しめるともいう。

この孝霊山は、第七代天皇・孝霊天皇にまつわる名称だともいわれる。
そして、この地方に孝霊伝承と云われる一群の伝承群がある。 

記紀が記す第七代・孝霊天皇、もしくはその皇子を主人公とした伝承群で、吉備国(岡山、広島)から南北に延ばした線上に沿って分布しているという。 

北の孝霊山(山麓を含む)界隈の溝口町から、概ね日野川に沿って吉備の国(現在の岡山県全域と広島県東部と香川県の島々および兵庫県西部にまたがる古代有数の地方国家の一つである)へ向かい、吉備一の宮・吉備津神社を結ぶラインである。

孝霊山の名の由来は、孝霊天皇が行幸したからと云われているが、以前は高麗山(韓山)と表され、所在する村の旧名は高麗村であったという。 
その山麓に鎮座する「高杉神社」には孝霊天皇を祀っていて、こちらにも「吉備」が発祥とされる「桃太郎伝説」があるらしい。 
この伝説は、次回に譲るとして、高麗山、高麗村は別の角度からの伝承もある。 


孝霊山伝承について・・、
鳥取県は、神話から派生した伝説や地元民の間で代々語り継がれている昔話、民話がたくさん残っているといい、その内の一つに「大山の背比べ(だいせんのせいくらべ)」というのが有る。

『 昔々、韓の国の神さまが、日本の国の山と背くらべをしようと、自信たっぷりに「韓山」を舟に乗せて日本海を渡って来たことがあります。 やがて、伯耆大山の雄姿が見えて来ました。 神さまはびっくり仰天して、「とてもこれにはかなわない」として、慌てて韓山を置き捨てて帰って行きました。 大山の手前に聳えているのがこの山で、韓の国にちなみ、高麗山と呼ばれています 』

今の山名が高麗山から孝霊山に変わったのは何時の頃からか定かでないし、又、高麗村が孝霊村に変わったかどうかも定かでない・・?。


さて、本来の伝承である。
(伝承に本来も古来も無いが、強いて言うなら面白さ、懐かしさであろうか) 

先ほど渡った、皆生温泉のすぐ横を流れる「日野川」に沿って溝口町には楽楽福神社(ささふくじんじゃ)、その奥の日南町には東楽楽福神社、そして西楽楽福神社もある。 
いずれも日野郡内において孝霊天皇とその一族を祭った神社だそうで、日野郡三楽々福神社ともいわれている。

面白いのは、溝口町の「楽楽福神社」を取り囲むように「」のまつわる、又は鬼と名の付く名称や施設がやたら多いことである。 
山陰線の伯耆溝口駅の西側には「鬼住山」なるものが聳え、駅舎には鬼の町を象徴するように鬼の像や鬼トイレが迎える。 
又、日野川沿いに鬼のモニュメント、鬼っこランド、鬼ミュージアム、鬼の館、果ては鬼の電話なるものもある。

これはまさに、鬼い纏わる伝承の地、鬼が住んでいたとする孝霊天皇の鬼退治の物語、つまり「桃太郎伝説」の地そのものなのである。


次回は、「桃太郎伝説


2017年8月26日土曜日

平成日本紀行(188) 米子 「皆生温泉と米子城」






 平成日本紀行(188) 米子 「皆生温泉と米子城」   




http://dom.jtb.co.jp/yado/photo2/l/7/7316007/73160071100031599.jpg




http://www.jalan.net/jalan/img/8/spot/0178/KL/guide000000178129_1.jpg
全国的にも珍しい海から湧く皆生温泉と汐の湯(米子観光協会)




 http://www.geocities.jp/tasii02/Yonago1724.jpg
米子城(国史跡)




境港を出て、白砂と松の緑の秀麗な弓ヶ浜を左に見ながら、先へ急ぐ。 
国道431を米子市内に入って、「皆生」という信号があった。 
左は美保湾に面したか皆生(かいけ)温泉、右は米子市街である。

左折して皆生温泉に向かってみた。
海岸出ると、特徴ある砂浜の海岸線に沿って、チョッと豪奢な旅館群が並んでいた。

海に湯が湧く」という皆生温泉は、弓ヶ浜に面した温泉街で山陰最大といわれ、山陰の“熱海”の異名を持つ。 
温泉の歴史はさほど古くはないようで、明治中期に地元の一漁師が海中に温泉が湧いているのを発見し、それを泡の湯と名付けたのが始まりであるという。 

泉質は、70度から85度と海岸に湧く温泉としては高温泉であり、開湯当初から「塩の温泉」として温泉療法として活用し、ヨーロッパで行われている「タラソテラピー」を応用しているという。 


ややこしい名称のタラソテラピーとは・・

海の資源がもたらす快適性を利用して心身を癒す療法」という意味らしい・・?。
ギリシャ語でthalasa=「海」とフランス語でtherapeia=「療法」とを併せた造語で、日本語で「海洋療法」と訳され、簡単に言えば「海辺に滞在して、その景観を楽しみながら、海洋気候のもとで海水、海藻、海泥を用いたさまざまな療法を行う」という自然療法である。 
19世紀、フランスの医師によって確立された療法で、フランスでは「予防は治療に勝る」という考え方により、早くから予防医学の研究が行われてきたという。 
もっとも、人と海との関わりは、況(いわん)や「全ての生命は、海から誕生した」し、地球の 70%は海水に囲まれ、人間の体も 70%が水分で血液、羊水中のミネラル成分は現在の海水とほぼ同じ割合なのである。 
人間の白血球は他の人工的環境では死滅してしまうが、海水中では生きることができるという。 
タラソテラピーとは、そんな予防医学の一環である。 


皆生温泉の泉質は、泉質はナトリウム、カルシウム塩化物泉(含塩化土類)の食塩泉で、ほぼ海水成分と同じであり、「海に湯が湧く」というより「海の湯が湧く」かもしれない・・?。 

浜に沿って一直線に旅館街が延び、裏側には、飲み屋・飲食店・風俗営業の所謂、温泉盛り場が集まり夜にはネオン街となる。 しかし、現在では、歓楽温泉から健康的な温泉へイメージ変化を図っているという。



海の歓楽地と言われる皆生温泉は日本海に面しているのに対し、内海である「中海」に面して商港を形成し、発展してきたのが山陰の商都・米子である。

鳥取県は昔は、西側半分を伯耆の(ほうき)国と呼ばれていて、現在の米子市域と周辺域である。 
因みに、 東半分を因幡の(いなば)国と呼ばれていて、現在の鳥取地域である。 
中海を前面に広げる米子(中海東端)は、山陰の交通の要衝であり、遠く弥生時代から大陸との交流もあったとされ、紀元前からの深い歴史を持つという。

江戸時代には城下町として繁栄し、その城下町に住む商人によって「商都・米子」の礎が築かれている。 
これには、米子は出雲参詣道の拠点になる地域で、何とか参詣客を引きとめようとする商魂が、商都としての米子の繁栄を支えたともいわれる。 
現在では「山陰の大阪」とも呼ばれているとか。


江戸期、この商都・米子を支えてきたのが山陰の名城と言われたのが「米子城」であった。
現存していれば「山陰一の美城」とまで言われており、この米子市を一望できる湊山に現在は「米子城跡」として、平成18年、国史跡に指定され市民に親しまれている。

この米子城は、悲劇の城とも言われている・・?、  
戦国後期、山陰地方は毛利家の所領であり、一族である吉川広家(毛利元就の孫)が米子平野を一望できる標高90メートルの湊山山頂に天守を築き、現在の米子市の原形、良港・米子港を拓いたとされている。 

その時に、全国や近隣から優れた商人や職人を呼び寄せ「城下十八町」といわれる町並みや寺院を築いて城下町を形造った。 
ところが、関ヶ原の合戦に敗れた毛利家・吉川広家は、1601(慶長6)年に駿河国から徳川方の中村一忠に城を譲ることになる。 

一忠は、更に米子城の築城を続け、四重五層の大天守を新たに築きあげ、吉川広家の天守とともに二つの天守を持つ美しい城となったという。 その後、領主(城主)が代々変わり、池田氏(鳥取⇒岡山城主)が領主になるに及んで、米子城は藩主のいない池田氏・城代家老の城となった。
このため「藩主不在の城下町」となった米子は、関所もなく比較的自由に出入りができ、これにより、より盛んな商都・米子が出来上がったという。 

自由闊達で開放的」という米子地域の市民性は、このような歴史から育まれたといわれる。
このような山陰の名城・米子城は、江戸期の間、殆ど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇ったとされる。 
ところが明治初期の廃藩置県で民間(旧士族)に払い下げら、その後解体されて木材などは風呂屋の焚き木にされたと伝えられる。 
さしもの名城も「悲劇の城」として終末を迎えていたのである。
  


現在、米子にはおもしろい挿話がある・・、 
東京の金持ちが山陰旅行をしたそうで、その人が米子に来たら、水は美味いし、温泉は有るし、別嬪さんは多いし、気に入ってしまい予定以上に泊まってしまった。 次に松江に行ったが、ここもまた気に入ってしまった。 そこで東京の奥さんに手紙を出した「拝啓…米子も松江も気に入ったので帰りは一週間ぐらい遅れる・・、かしこ 」すると、すぐさま返事が来て、「そんなに米子さんや松江さんが気に入ったのなら、そちらで何日(いつ)までもどうぞ、 私は実家に帰ります。 あなかしこ 」 ・・と、

気がつけば米子、松江共々女性の名前ですね・・!。 


次回は、「大山と孝霊山

2017年8月25日金曜日

平成日本紀行(187) 境港 「ゲゲゲの水木しげる」





 平成日本紀行(187) 境港 「ゲゲゲの水木しげる」   .






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Japan_National_Route_431_-06.jpg/800px-Japan_National_Route_431_-06.jpg
境港大橋



 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e3/%E5%A2%83%E6%B8%AF%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E5%A6%96%E6%80%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BEPA098302.JPG
境港市街にある奇妙な「妖怪神社」




街中が“ゲゲゲの鬼太郎”・・? 、

美保関へ向かう途中、海岸道を通り過がった際、海中に何となく気になった岩があった。 
帰路、確かめて見ると、それは夫婦岩(男女岩)であった。

柱状の男岩に洞穴の女岩が太い注連縄で結んであり、艶かしく、想像を掻き立てる。 
思えば美保神社はご承知夫婦神である、この辺りの海で、事代主命美保津姫が戯れていたのだろうか・・?。

尤も、出雲地方に限らず神代の時代の物語は国造りの物語の他、人造り(神造り)の物語なのである。 
そこには男女間の赤裸々なストリーも当然展開しているのである。



海岸道をそのまま戻る、境港の町並みが遠望でき、手前の弓ヶ浜の海岸線は松の緑が眩しいほど美しい。 
境水道大橋を一旦潜ってすぐ右折するように回り込むと、その大橋を渡ることになる。 
鳥取県と島根県を結ぶ「境水道大橋」というとんでもない高さの橋であり、町並みや海面が遥か下方にみえるのである。 

橋の下を大型の船舶が航行する事から頂上は海抜40mの高さがある、ビルの高さだと13階にも匹敵するのである。 
橋上から無数の漁船(イカ釣り船)も見て取れる。
この境水道が県境になっていて、島根県から鳥取県に至る。 そしてこの橋を渡りきった地域が、その名も「境港」である。


海浜公園で一服入れる 。
所々にお化けの水木の「ゲゲゲの鬼太郎」のモニュメントがあり、気が付けば当市はお化けの「水木しげる」の出身地なのだ。 
漁業がやや下火になった今、市は「鬼太郎に会える町」をキャッチフレーズに新たな町興しを探っているようであり、市・中央通りは「水木しげるロード」と称して80体以上の妖怪ブロンズ像が並ぶ。 
又、「水木しげる記念館」などが在り、本年よりJR西日本が「鬼太郎電車」を走らせたり、隠岐汽船では「鬼太郎フェリー」運航するなど機運が高まっている。 
しかも、2010年度上半期に放送されたNHK連続テレビ小説・『ゲゲゲの女房』で、一躍脚光を浴びるようになり、それでなくとも近年はお化けブームだとか・・?。


この水木しげるロードの途中に、「妖怪神社」なるものが鎮座・・?している。 
妖怪の名に相応しい造りのお宮で、「妖力でもってあの世とこの世を結ぶ」という謳い文句に、2000年に突如出現したという。 

妖力で厄払いするという妖怪神社は、初詣は勿論、普段でも水木しげるファンや妖怪ファンの善男善女でにぎわっているとか。 
水木しげるロードの一角にあるだけに、一般観光客にも大好評とか・・!。


尚、2000年の10月6日に鳥取地方を襲った震度6強の地震にも、当時80体(現在は133体という)有った妖怪ブロンズ像や周辺の妖怪の出てきそうなお店は、全くといってよいほど被害がなかったという。
これも妖怪殿の妖力によるものではないかと、街では、もっぱらの噂だったとか・・?。


境港といえば、TVの画面で北朝鮮船籍のオンボロ貨物船が中古自転車を満載した風景でお馴染みのある。
無論、この船は日本に漁獲を水揚げされているが。 

港は対大陸貿易の拠点として格好の位置を占め、尚且つ、地理的には敦賀・下関両港のほぼ中央に位置し、 阪神・山陽・九州の各経済圏とも密接な関係を有し、戦前は日本海国内航路の要衝として、また対岸貿易港として大いに繁栄した。 
山陰地方は元より、日本海側では最大の水産都市であり、漁獲高は平成4年から平成8年まで漁獲水揚高日本一であった。

尚、平成の大合併で、境港は米子市との合併について住民投票を行い、その結果、反対が多数を占めたため単独で残ることになったとする。


次回は、「米子

2017年8月22日火曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「国引き伝説」





 平成日本紀行(186) 美保関 「国引き伝説」   .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/Shimane_Peninsula.JPG/1024px-Shimane_Peninsula.JPG
神話や伝説の多い島根半島 (Wik)





島根半島は「神が海の向こうから引っ張ってきた」という「国引き伝説」がある・・!、そして遠流の島・隠岐の島諸島と竹島は・・? 、

これは時空を超えた伝説か・・!?、
島根半島は神が海の向こうから引っ張ってきた」という「国引き伝説」がある。 

これは、「記紀」(古事記、日本書紀)には記録されていないが、「出雲風土記」にのみ登場するものらしい。 
「出雲風土記」の記載内容とは八世紀初頭、大和朝廷が全国の60余国に作らせたという地名起源の伝承や地勢、産物などが郡ごとに記したもので、ほぼ完本とされていて残っているのは「出雲」だけだともいう。


出雲祖神の一人・八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト:大国主と同一神ともされる)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。 
そして、佐比売山(三瓶山:太田市南の名山)と火神岳(大山:伯耆大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、出来た土地が現在の島根半島であるという。 

尚、半島沖に浮かぶ隠岐や竹島の島々は、国を引くとき落ちこぼれたものであるともいわれる・・?。 
又、完全に引き込むことが出来ず、宍道湖、中海という形で海域が残ってしまったとも言う・・? 

国を引いた綱は弓浜半島になったとしていて、いずれにしても何ともおおらかな話である。 そしてこの半島にバランス良く、「三社大神」が祀られていることは前に記した。
出雲は「国造り・・」「国譲り・・」そして、「国引き・・」と賑やかな地柄である・・!!。



ところで、その隠岐諸島は現在、島根県に属し、2004年の合併によって島根県隠岐郡町として、諸島の全域を占める。 人口17000の空港を持つ町域であるが、一般地域同様、過疎化に悩んでいるという。 
因みに、「竹島」に関しては現在韓国が実効支配しているのは周知であるが、島根県は自国の領土として2005年は日本が竹島を編入して100周年にあたるため、同年「竹島の日」に制定された。
 
昭和23年頃のある時期、韓国初代・李承晩大統領が「竹島、対馬は韓国の領土・・だ」と言い出し、李承晩は日本海上にライン(りしょうばんライン)を引いたのである。勿論、日本側は承知していない。

ラインは、昭和27年(1952年)1月18日、李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 
そして“かの国”は、海洋資源の保護のためと称して、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。 
これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象とした。
そして実際に、銃撃される事態まで起こった。

国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの 廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。  
協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えている。

現在でも韓国は、李承晩ラインによって竹島を実効支配しているが、島根県の姿勢はともかく、日本政府の対応は未だは無為のままである・・!!



出雲は「国造り・・」「国譲り・・」そして、大らかな「国引き・・」の伝説と賑やかであるが、現在我が国の領土は、北方の樺太を含む北方四島はロシア(旧ソ連)、そして、「竹島」が隣国・韓国によって、はたまた、中国において東シナ海・南西海域の尖閣諸島(せんかくしょとう)などは、「国引き」されているのが現実である・・!!。

尤も、竹島などは「国引き」で落ちこぼれた島であるので、元々、当国(韓国)の島である、とでも言い出すのでは・・?。


次回は、「鳥取・境港


2017年8月20日日曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」






  平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」    .




写真:雄大な展望台を持つ美保関の地蔵崎



美保関灯台




美保関の灯台へ向かう。
岬のほぼ突端辺りから斜面を登ると、良く整備されたさっぱりした園地があり地蔵崎園地とあった。 
海上交通の要衝であったこの地で、航海の安全を祈ったお地蔵様が岸壁や波打ち際に多数奉納されるようになったことから「お地蔵様がある岬」ということで中世以降から「地蔵崎」と呼ばれるようになったと言われる。 

ここからの眺望は素晴らしく、日本海の雄大な眺めが一望でき、はるか沖に「隠岐の島」が浮かぶ。


更に、岬先端に灯台があった。 
外洋北部は複雑に入り組んだリアス式の断崖の景観が圧巻である。 
この先に、白亜洋風の石造りのガッシリした美保関灯台が海抜73mの岩上にあり、高さ14mで、中間に一周の展望デッキも付いている。 

明治31年(1898)に日本人技師の設計により、地蔵崎灯台として建設、後に美保関灯台と改めたとする。
灯台脇には、同様の建造物である屋敷がある、灯台守の宿舎を改造したレストラン兼売店の美保関灯台ビュッフェであった。

只今営業中とあったが、他に客は無いようで遠慮した。
遥かに見て取れる「隠岐の島」は後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流された配流地として有名である。


問題の「竹島」も、
島根半島から北東へ約65km、日本海に浮かぶ「隠岐諸島」は大小180余りの島々から成り立ち、日韓で係争中の「竹島」も含む。 

奈良時代から平安初期にかけては、大陸との日本海外交の中継基地として大陸文化の伝来に大きな役割を果たした。 
中世以降は遠流の島と定められ多くの貴人、文化人が配流され彼らが伝えた都の文化は、時空を超え今なお伝統芸能や行事の中に確実に伝承されている。


尚、隠岐諸島、竹島は次回、出雲の「国引き伝説」で・・、


2017年8月15日火曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「美保神社」






  平成日本紀行(186) 美保関 「美保神社」    .




美保神社参道鳥居、




豪壮な拝殿と奥に本殿




美保神社は、事代主神(大国主の息子)である「えびす様」を祀る・・、

下って、美保神社へ参った。
美保漁港のすぐ前に参道があり、第一、第二と二本の鳥居が迎え、本殿はこの奥の森の中に鎮座していた。 

民謡にも歌われる「関」というのは、宍道湖と中海を抱える島根半島の東端、神話で有名な、ここ「美保関」のことで、正面の美保漁港、美保湾は日本の鯛の三大産卵地の一つとさる。 
鯛と言えばエビス様に通じ、タイ(鯛)を肩にするエビス様は事代主命(コトシロノヌシノミコト)と言われる。 

美保は事代主命と美保津姫とのロマンスの地であり、両者を祀っているのが「美保神社」である。

出雲神話では、事代主神は出雲国の支配者である大国主命の息子として国譲りの話にも登場し、漁業、海運、商売繁栄の守り神として信仰されているほか、豊作祈願の神様ともされる。 
事代主命は父神に従って河川海洋の幸を司り、四方を海に巡らされた日本に、豊富な魚類を子孫に与えた神様である。 
神話の中で事代主神が美保関で魚釣り(鯛釣り)をしていた話から一般には「えびす様」で有名で、大国主神共に福徳の神様、七福神の一人としても有名である。 

拝殿の後方に二つ並んだ本殿が鎮座している。 
写真が鮮明ではないが、屋根の上にある千木は、左の社は垂直に切られていてこれは「男神」(事代主神)を表し、右の社は水平に切られていてこれは「女神」(美保津姫)を表している。


松江を中心と考えると、島根半島の西の端にある「出雲大社」、中心に松江の北にある「佐太神社」で、佐太大神(猿田彦大神と同一神としている)を祀る。
この神社は出雲に次ぐ古社(雲州二宮)で、珍しい三殿並立の社殿であるという。 
北殿に天照大神、南殿に素盞鳴尊(スサノオノミコト)などが祀られている。 

そして東端に鎮座しているのが「美保神社」で、いずれも重厚で圧倒的威容を示し、拝殿も、本殿もかなりの規模を誇る。


次回は、「美保関灯台




2017年8月12日土曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」






 平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」   、





http://stat.ameba.jp/user_images/20140510/19/sanin-department-store/2b/7a/j/o0576038412936691820.jpg?caw=800

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Japan_National_Route_431_-06.jpg/800px-Japan_National_Route_431_-06.jpg
堺水道に架かる境水道大橋





関の五本松、「あとは伐(き)られぬ夫婦松」・・ 、

悠々とした「境水道」際を行く。
この水道は島根県と鳥取県の県境でもある。

この外海寄りに美事な橋が架かっている、「境水道大橋」である。 境港市と島根県美保関町を結ぶ大橋で長さ700m、高さ40mあり、橋下には大型船や漁船が賑やかに往来している。 

外海の美保湾へ出ると、さすがに海の色が違って見える、鮮やかに濃いのである。 
このまま島根半島の海岸線を行くと、鄙びた美保の港へ出た。


その手前に「五本松公園」の案内板があった・・、
かなりの急斜面の山上に在るらしく、民謡・「関の五本松」でもお馴染みである。 

少し登った処に、頂上へのリフトがあり、小さな御土産屋があって夫婦で営んでいるらしく、リフトも同様に管理しているらしい。 
観光客らしい人は誰も居なく、当然リフトは止まっている。

お客さん、リフト乗るかね・・?」
ハイ、お願いします

近くにある電源版のスイッチを入れると、徐に(おもむろ)リフトが動き出し、御夫婦と三言、四言話を交わしてリフトに乗った。




http://www.shimane19.net/column/uploads/2016/07/30/s_DSC04930.JPG
五本松の尾根より見下ろす、長閑な「美保港」





好天に恵まれ、リフトが上昇するに従って眼下に美保の港が鮮明に浮かび上がってくる。
標高150mの丘は公園として良く整備されており、この一角に「関の五本松」の碑が有る。

碑のところには初代の黒松であろうか、太い幹が残されている。(小生が訪れたときは初代黒松の切り株は野ざらしであったが、その後小屋根が掛けられたらしい)



江戸期の頃、かつては船が航行するための目印にしたという島根半島先端にあたる「五本の松」であったという。

藩政時代に美保関(美保神社)と松江を結んでいた旧松江街道は、海を見下ろす尾根上を通り、そこにあったのが街道時代の景勝地が関の五本松であった。 

港に出入りする漁船や日本海を行き交う船の目印でもあったが、或る時、松江の殿様が松江街道沿いに並んだ五本の松の一本に槍が当たり、そして眺望の邪魔になるからとして突如、伐採してしまったという。 

それまで美保港へ入ろうとする多くの船の目印であった松の一本を伐られてしまったことは、当時の大事件となり、その後、民衆は「あとは伐られぬ夫婦松」と歌いながら、松江城下を練りまわり、請願のデモを行ったという。 
民衆の声を聞いた殿様は、あとの四本を伐るのを中止したというのが伝説になっている。


そして、民謡になった「関の五本松」である。
「関の五本松」は、アラ エッサッサの「安来節」とともに、出雲地方の二大民謡といわれ、大正期頃には東京にも伝わり、そこから全国的に流行したという。       


関の五本松』  島根県民謡

ハアー 関の五本松 ドッコイショ
一本切りゃ四本
あとは切られぬ 夫婦松
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ

ハアー 関の女は ドッコイショ
医者より偉い
縞の財布の 脈をとる
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ


次回、「美保神社

2017年8月11日金曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「昭和の決断」 






 平成日本紀行(186) 美保関 「昭和の決断」   、



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/a/a1/Lake_nakaumi_landsat.jpg/800px-Lake_nakaumi_landsat.jpg
島根半島と中海(中央が大根島 衛星写真・wiki)




「昭和の決断」、中海の大干拓事業中止・・! 、

国道431から中海サイドを経て島根半島の「美保関」へ向かう。 
中海は地図上を見ると大根島(だいこんじま)、江島と二つの島が浮かぶ。 
この二つの島が「八束町」(やつかちょう)を形成している珍しい町域であった。(2005年松江市と合併) 
更に、車窓からも眺められるが長大な堰堤(堤防道路)で島の間と湖岸を結んでいるのである。
厳密に言うと湖岸部分は橋で結ばれていて、実はこの堰堤部分は干拓事業の名残という。

神話の海、まほろばの海と呼ばれる「中海」の美保関側を干拓して農地を作ろうという、当時の米増産時代の思いつきだった。 

一般的な見方であるが、公共事業は一旦動き出したら止まらないというのが普通で、好例なのが長崎・諫早干拓であろう。 
漁業被害や環境破壊が報告されているにも関わらず止まる気配がないのが実情であった。


「昭和の国引き」は失敗・・?? 、

しかしながら、この中海干拓に関しては事業が相当部分進行してしまったにも関わらず中止が決定したという。 
中海の大規模干拓および淡水化は、古来、出雲地方でよく言われる国引きの神話になぞらえて「昭和の国引き」とも言われ、1960年代に事業が開始された。 
この間、一部完成して共用されるまでに及んだが(南部、揖屋地区)、その後、時の地元出身の竹下総理の肝いりもあり、国の減反政策が本格的になり、又、水質汚染や環境破壊を懸念した反対運動が高まり、近年では、県の財政圧迫なども発生して、結局、凡そ40年を経て、中海・宍道湖の淡水化を目的とした大規模干拓事業は2000年に完全中止が決定したという。


無駄な公共事業費、800億円がパーー・・!! 、
結局、中海と境水道を仕切っていた中浦水門は(江島と境港間)は取り壊された。
かっては、水門の総延長は414m、10門の二段式ローラーゲート(上層と下層の2つの扉体を操作する)と中央部に設置された3門の閘門(こうもん:運河・放水路などで、水量を調節するための堰)から構成されていた。 

閘門の上の部分は、船舶が通過する時に備え、跳ね橋としての機能も持っていたという。 
現在、これらの建造物は「世紀の遺物」となり、やがて消えてしまった。
この水門の構築には100億円かかり、更に、取り壊しに100億円かかって、合計200億円がパーになったという。

結局、総じて無駄な公共事業費は700億とも800億とも言われる。


次回は、美保関・「関の五本松



2017年8月10日木曜日

平成日本紀行(185)玉造 「三種の神器」







 平成日本紀行(185)玉造 「三種の神器」   .




因みに、「三種の神器」について  、
三種の神器(サンシュノジンギ)とは、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指す 。

三種の神器は、日本の歴代天皇が継承している宝物である。 
神器とは神の依代(よりしろ)を意味する。

天皇の即位に際し、この神器の内、鏡と剣のレプリカ及び勾玉を所持することが日本の正統なる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。 三種の宝物は八咫鏡(ヤタノカガミ)、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)のこと。 


神器という言い方が一般化したのは南北朝時代ごろからと言われているが、本来人間が持たなければならない「三徳」、つまり鏡は知、勾玉は仁、剣は勇というように、智・仁・勇、至徳・敏徳・孝徳としているともいわれる。 

又、「命」と「愛」と「知恵」の意味を尋ねると、「命」が光の放射する「八咫の鏡」であり、「知恵」が「草薙の剣」で、「愛」が「八坂瓊の勾玉」ともいわれる。


草薙剣(クサナギノツルギ:天叢雲剣)  、
須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇を倒した場所は出雲国とされ、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」であるという説がある。 倭姫命(ヤマトヒメ)から、蛮族の討伐に東へ向かう倭建命(ヤマトタケル)に渡されたとされる。 剣は全ての問題を切り分け、整理整頓して解決し、適材適所に配置するという働きがあり、 「草薙の剣」というのは、宇宙創造の時の三大根本神力の一つとされる。 「中海」の南に位置する安木市は須佐之男命が八岐大蛇を退治し天叢雲剣を獲得した地とされる。 又、この地は、古来、砂鉄を産し、現在でも鉄鋼の生産で有名な安来市の山奥、奥出雲町でをが獲得したと古代製鉄と神話の深い関係を伺わせる。 「安木」は、神代からの名称とされ、都市名では最古の部類の属するという。
この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺では「たたら吹き」(タタラ=多多良、鈩、踏鞴、鞴韜)、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んであったがためオロチ伝説が生まれたとされている。 天叢雲剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされ、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄で川が濁った様子を表しているとする説もある。


八咫鏡(ヤタノカガミ)  、
三種の内、一番大事なのが「八咫の鏡・ヤタノカガミ」とされる。 記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命(イシコリドメノミコト)が作ったとされる。 天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、そして再び世は明るくなったと記紀に記されている。 八咫鏡は天照大神自身ともいわれる。 天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された。 「鏡」は、「輝く身」であり、姿を映す鏡というのは、あくまでも裏面の話であって、光り輝く、輝くのが「鏡」なのである。 「輝く身」という意味で天照大御神の一番中心の働きを現わし、形式的に見ても皇室の御紋章(十六菊の御紋章)であるとされている。 菊の花弁である十六の方向に放射されてるということで、十六とは無限を表し、実際はそれを無限に複雑化したものを全部束ねたのが「八咫の鏡」ともされる。 無限に輝いて、全体を総まとめにしたような姿、それで十六菊の紋章として模型がつくられているともいう。


八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)  、
「神璽」(シンジ:天子の印、御璽・ギョジ=御名御璽)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠(ヒスイ)などの石を磨いてつくった勾玉(カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト、櫛明玉命ともいう)は、玉造部(たまつくりべ)の祖神とされ、「職人集団」の祖神であるとする。 家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊(マサカキ)は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった鏡と勾玉をかけた神木を模したもので、その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡に対して、「月(陰)」を表しているのではないかという説もある。 後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けられたとする。 「勾玉」というのは、お玉じゃくしのような「曲がった玉」というが、これは表面のごく一部のことで、実際は、「マアカタマ」と言い、「マアカ」というのは「完璧な玉」という意味がこめられ、その中には「無限の、全ての、完璧な形あるもの全部」という意味を込めるという。 宇宙であり、地球であり、安定した全ての形(球)あるもの全部「勾玉」とされる。 それを全部ひっくるめて束ねて、国土を安定させた姿の全体像が「八坂瓊の勾玉・ヤサカニノマガタマ」である。 
出雲大社の参道奥左に、「海幸彦 山幸彦」の一シーンと言われる像が在る、波の上にのる勾玉を大国主が天を仰いで崇敬している姿である。


次回は、「美保関

2017年8月7日月曜日

平成日本紀行(185)玉造 「八坂瓊の勾玉」






平成日本紀行(185)玉造 「八坂瓊の勾玉」  



「玉造」はその名の如く、「三種の神器」の一つ、八坂瓊の勾玉(ヤサカニノマガタマ)の製造元であった

松江の南に、玉造温泉がある。
小生、若かりし頃(20代)出張仕事のついでに山陰を旅行した際、宿泊した温泉であるが記憶は全く無い。 もう既に半世紀前のことであった。

宍道湖へ注ぐ玉湯川沿いに、数寄屋造りの高級和風旅館が多く並び、歓楽色は一切なく、歴史を重んじた落ち着いた風格を見せる。 
出雲国風土記にも記載があり、奈良時代開湯といわれる古湯で、神の湯として知られる。


ところで、玉造という名の由来は「三種の神器」の一つ、八坂瓊の勾玉(ヤサカニノマガタマ)が櫛明玉命(クシノアマルタマ・出雲国玉作祖:ニニギと共に降臨したとされる)によってこの地で造られたことに由来するという。 
玉造の温泉街のはずれ、玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っており、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されているという。 


玉作湯神社の縁起的資料には・・、

『 櫛明玉神は豊玉、玉祖神などの異称をもち、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた「八坂瓊之五百箇御統玉」は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」 』・・と。

要約すると・・、
八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、長い紐につなげた勾玉のことで、別名を「八坂瓊乃五百箇御統玉」(やさかにのいほつみすまるのたま)といい、特別な名前が付いている。
「玉」は鏡や剣といっしょに古代王権(現在でも)の象徴で、神話では天岩戸に引きこもった天照を引っ張り出すために賢木(さかき=榊)へ鏡や木綿(ゆう)といっしょにかけられたという。 製作者は玉祖命(たまおやのみこと)という神様で、「八坂」は八尺のことをいい、「五百箇」は多数、沢山を意味し、「御統」は多くの玉を連ねて輪にすることをいう。 「玉」はヒスイ、メノウや碧玉(へきぎょく)製品で、所謂、貴石、宝石であり、貴重な宝物である。 宮中にあっても、たとえ天皇はおろか、何人も眼にすることは許されていない宝物とされている。 

平安時代の頃に伝承が有って、時の冷泉天皇が、箱をあけて中を見ようとしたという伝えがあるが、その時、突然に白煙が立ち上り、驚いて止めたという。



玉造は「メノウ」の産地で特に、青メノウは玉造だけに産出するという。 
伝承館には2トンもある大きい赤メノウの原石が展示されている。 又、玉造温泉入口の公園には真玉の勾玉が飾られ、温泉街の各所に勾玉のモニュメントが置かれている。

明治以後、天皇即位の式典に際し、この地で作られた碧玉や瑪瑙(めのう)が献上されたという。 


次回は、その「三種の神器

2017年8月6日日曜日

平成日本紀行(184) 松江 「小泉八雲」






 平成日本紀行(184) 松江 「小泉八雲」   、




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Shiominawate_Matsue05s4592.jpg/1024px-Shiominawate_Matsue05s4592.jpg
松江城のお堀端に面する旧小泉八雲邸




小泉八雲が「神々の国の首都」と言わしめた松江・・、

お城を下って堀川の北部、その名も「北堀町」の古い屋敷群をのぞいてみた。 
堀川をレイの遊覧船が水面をゆっくり滑って行く。 

お堀端には古齢の松が、幹をくねらして水面に掛かる。 
だが、路上にある松の幹根部を良く見ると、舗装に覆うわれていて、植物に対する細心さが無いようで、これはチト残念ではある。 
全体としては、趣のある良環境を造りだしていて、この辺りは時間がゆっくり流れているようでもある。

この一角に「塩見縄手」という看板がある。
縄手」とは城郭の構えを定めるとき、先ず、縄張りをして塁壕や形態を定めるもので、今の基本測量のことである。 
城下町では縄のように糸筋に伸びた道路を「縄手」と称した。 

藩祖・松平氏の町奉行「塩見古兵衛」が城を縄張りし、改修したので、その名が付いたという。 
彼の旧屋敷が路の反対側に屋敷群と共に在り、やはり、長屋門を構えた豪勢な屋敷である。



付近に旧小泉八雲邸があった。
しっかりした門構えで表に「史跡小泉八雲旧邸」とあり、只今公開中の札が下がっていた。 
純和風の建物で、表庭には枯山水の庭園が施してある。 

彼が如何に日本贔屓の彼であったことが判る。 
小泉八雲(こいずみ やくも)は、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンという名でいなじみであろう。 
アイルランド人で1850年、40歳とき日本に帰化している。 
日本研究家として知られ、一方で紀行作家、随筆家、小説家でもある。 

名前の「八雲」は、一時期当人が松江に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなんだとされる。
さすがに日本贔屓のハーンであった。



我々は、小説『怪談』の中の「耳なし芳一」、「ろくろ首」、「雪女」などでお馴染みである。
実は妻・セツの昔話が小説の元になっていることや、幼い頃の暗闇体験の恐怖が基になって、数々の名作が生まれたという。
「耳なし芳一」は先に記したが、平家滅亡時の壇ノ浦での話である。


小泉八雲の随筆文・「神々の国の首都」より・・、

『 松江の一日は、耳朶の裏でどくんと搏つ脈拍のような音で目覚めることから始まる。厳かでやわらかな鈍い低音は――規則正しく奥深い心臓の鼓動に似ており、聞こえるではなく感じるという方が相応しい様子で枕越しに震える。何のことはない、米搗き杵を使って雑穀する音だ。その次は禅宗の洞光寺(とうこうじ)の大釣鐘がゴーン、ゴーンという音を町の空に響かせる。 次に私の住む家に近い材木町の小さな地蔵堂から朝の勤行(ごんぎょう)の時刻を知らせる太鼓の物悲しい響きが聞こえてくる。 そして最後には朝一番早い、物売りの呼び声が始まる、「大根やい、カブやカブ」と大根その他、見慣れぬ野菜類を売り回る物、そうかと思えば「もややもや」と悲しげな叫び声は炭火をつけるのに使う細い薪(まき)の束を売る女たちである 』


洞光寺は八雲の好きな寺であったようで、明治6年(1873)に松江で最初の小学校が洞光寺に置かれていた。

2005年3月、松江市は八束郡鹿島町・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町の1市6町1村が合体合併し、新制による松江市が発足している。


次回は、「玉造



2017年8月1日火曜日

平成日本紀行(184) 松江 「松江城」







 平成日本紀行(184) 松江 「松江城」  




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/150321_Matsue_Castle_Matsue_Shimane_pref_Japan01bs.jpg/1200px-150321_Matsue_Castle_Matsue_Shimane_pref_Japan01bs.jpg
松江城天守閣







松江城は、やや小振りだが・・?信州・松本城に類似している・・?、

松江に向かっている。 
松江市街に入り西末端部の宍道湖と大橋川に架かる宍道湖大橋を右に見ながら左折すると、すぐに高めに「松江城」の優雅な姿が見受けられた。 
大手門前の有料駐車場を利用して、高台の本丸に向かう。

先ず目に付いたのが石垣の下に佇む松の緑に囲まれた清楚なお壕、お堀端である。 
そこに、遊覧船、観光船、或いは案内船と言うべきか、ロマンチックな木製の渡し船が船頭さんと共に、静かに待機し、運行していることである。 

尤も、実際のお壕の名称は「堀川」といって堀川の渡しであり、それは一種の「水郷」である。 
思えば松江の町自体が、水郷の都、水の都なのである、町の中心が宍道湖と中湖の間に挟まれた地域で、そこに大橋川とそれらの支流が編み目の様に流れ、城壕の堀川はその一部のようなのである。 
幾多の城を巡ってきたが、お城周りにこれだけ風雅な雰囲気を残しているのは見当たらない。 

松江市は、中国の「松江(しょうこう)」に似ているところから名づけられたとか。
お城の周辺には、古い町並み、屋敷跡、著名人の館が残り、更に、情緒と雰囲気を盛り上げている。
いわば松江の町のシンボル的存在になっていて、歴史、自然を大切に温存している様子が判る。


さてお城である
中央に手摺を設けた幅の広い、ゆったりした石段を少し登ったところ、よく整備された生垣の庭園が大きく広がっていて、そこに威風堂々の天主城郭が天を指していた。 
石垣の上にドンと構えた黒塗りの城壁は一見、やや小振りだが信州「松本城」を思い出した。 

天守閣は望楼様式になっていて、ここから望む風景は絶大で、眼下の宍道湖をはじめ松江市街の向こうに中湖まで遠望できるにちがいない。 
屋根上には雌雄で鱗(しゃちほこ)が天に構える。 

内部は時間的に接見できなかったが、支柱や構造材は木造で、築城当時の様子がよく残しているという、所謂、戦国時代の特徴を良く残しており、非常に実戦的な天守の構造をした貴重な遺構だという。 
このあたりも平城の松本城を彷彿させる。 

天守地階には籠城用の生活物資の貯蔵庫、中央には井戸も残っているという。 
なんでも、全国に城郭が多数ある中、築城当時が現存するのは12ヶ所のみで、松江城はその内の一つであり、山陰では唯一の天守閣であるとする。

その内、天守閣の大きさ(平面面積)では、2番目、古さでは6番目とのこと。 
因みに、記録に残っている日本の城と言われる総数は25000にも達すると言われ、その中には、天守閣を備えた立派な城もあれば、柵で囲っただけの砦の様なものもある。 

だが、江戸時代の末期にはすでにその数は200を切り、その内天守閣があった城は70箇所程度という。 
その中で、現在も昔の様相、形式、築造方式が残っているのはたったの12城という。 
古くからの形を留めているのはこれだけで、あとは復元、復興等後から建てられた物という。  
12城とは、弘前城(青森)、松本城(長野)、彦根城(滋賀)、丸岡城(福井)、犬山城(岐阜)、姫路城(兵庫)、備中松山城(岡山)、丸亀城(香川)、高知城、松山城(愛媛)、宇和島城(愛媛)そして松江城(島根)である。


松江城の歴史は江戸初期に始まる。
慶長16年(1611)初代城主である堀尾吉晴(秀吉子飼い)から三代の忠晴にかけて、5年の歳月をかけて完成したものであり、特に吉晴は加藤清正と並び称される程の普請上手と言われていた武将であったという。

吉晴は16歳の時、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に出会い、その家臣になっている。 
家臣とはいっても子飼いに近い存在で、名は茂助、秀吉には大変可愛がられたようで、穏和な人柄に人望があり、「仏の茂助」とも称された。 
以来秀吉に従って戦功をあげ、小田原征伐後は大大名に出世している。 

堀尾忠晴の後は京極忠高(いずれも嫡子無くお家取り潰し)、その後、徳川家康の孫に当たる松平直政が信州松本から移封され、以来明治維新まで松平氏が10代234年間に渡り18万6千石を領していた。  

松江城が、信州・松本城に類似しているのは、松平直政の影響が有ったのかもしれない。


次回も「松江





【追記】


ブラタモリ】 『松江~国宝 松江城の城下町はどうつくられた?~』

【ブラタモリ】
「 国宝・松江城 ~ 松江城の城下町はどうつくられた?~」
(NHK総合・2015/8/1放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/ (該当する内容ではありません)


<主な内容と感想>

 松江市や出雲市周辺といえば、一畑電車、旧大社線の大社駅(国の重要文化財指定)と私の興味深いものがあるので、ぜひそう遠くないうちに訪れたい町です。次回の出雲も楽しみですが、松江の城下町がどう造られたのかのも、この番組のおさらいも兼ねて町歩きしてみたいですね。

 番組の感想としては、やはり前作と比較してしまうのですがアシスタントとナレーションがまだ新作の2人に慣れることができませんね。 特にナレーション、これ以上は書きませんが声優経験のあまりない俳優さんと、声優もこなしている女優さんとの違いが際立つ。自局のアナウンサーでもいいような気がするのですが…。


<番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今回のスタート地点は7月8日に国宝指定された松江城。テーマは「国宝松江城の城下町はどう作られた?」

・戦前は国宝だった松江城。築城年が特定できず戦後、重要文化財にはなったが、国宝には指定されなかった。しかし3年前に柱に張ってあった木札が見つかったのだ。そこには江戸時代初期の年号、慶長16年(1611年)が見つかった。木札の釘穴と柱の穴を照合して一致したため築城年が特定できたのだ。
・松江城の天守閣から宍道湖が眺められる。城下町が造られる前はどうだったのか。600年前の地図を見ると、低湿地だったことが窺える。

・城を出て宍道湖を渡る橋付近に移動し、松江市史編纂委員 絵図・地図部会長の大矢幸雄さんの案内で小地図を眺める一行。中世の湖岸に沿った道を歩いて行く。標高3mぐらいの高い場所(白潟)は松江城の出来る前に町が出来ていた。回船問屋などが建ち並び栄えていた。明治時代までは回船問屋を営んでいた現在和菓子屋の内藤守さんの案内で、明治4年に松江藩が発行した船の通行手形や1830年頃の松江藩の藩札を見せてもらう。

・僅かにあった高低差を利用した商業地があったため松江藩の城下町がつくられたのではないか。

・再び西島さんの案内で城の地図を見る。堀の役割は防衛と盛土、排水の3つの役割があった。城の北側に小高い丘がある。もともと一つだった山を横240m、縦90mを掘り崩して盛土にしたといわれている(諸説ある)

・続いて堀を巡る遊覧船に乗った一行。武家屋敷の跡地のところに一段低くなっているところがある。船入(船の出入りのために設けた堀や入り江)と呼ばれる船の停泊所があった痕跡。さらに船入が1箇所だけ残されている場所に向かう。家老だった旧柳田邸跡地。

・ポンプ場に移動した一行。出雲河川事務所の西博之さんの案内で内部を見学する。毎秒3.6トンの水を移動できるポンプが2台備えられている。もともと水害の多い松江。400年前に造られた堀の排水機能をここでコントロールしている。

・宍道湖大橋に移動した一行。宍道湖から日本海に抜ける大橋川を拡幅、浚渫してきた。その副産物で汽水域が出来たことでシジミが獲れるようになったという。江戸時代は大橋川と宍道湖の一部で獲れていたが、川の拡幅工事後、全域で獲れるようになった。


(参考追記)
松江城と人柱伝説 ( https://rekijin.com/?p=15346 )




2017年6月16日金曜日

平成日本紀行(183) 斐川 「宍道湖」 







 平成日本紀行(183) 斐川 「宍道湖」   、






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/e/e9/Lake_Shinji_Furue.jpg/800px-Lake_Shinji_Furue.jpg
宍道湖からの夕景





その宍道湖の北側を進む。
出雲大社から来ている一畑電鉄大社線が並行して走っている。 
布崎駅から園駅辺りから宍道湖の湖面が見え出した、走行してても湖面から緩やかに風が吹き込んでくる。 

湖面を眺めながらの、余所見(よそみ)運転をしながら(危険です・・!!)湖岸をしばらく走ると「秋鹿なぎさ公園」という休憩所が現れた。 
勿論、今の時間帯では人の姿は見えない。 
砂浜に出て見た。 細粒の奇麗な砂浜で、小波に洗われている。
湖面は風のせいで、漣(なぎさ)というより、かなり波立っていたが。


宍道湖は、島根県東部に位置する全国第六位の広さを有する天然湖で、東側に隣接、位置している中海は第5位の広さで、海としているが同じく天然湖である。 

宍道湖、中海とも同様に汽水湖(淡水と海水がまざる湖のこと)で、松江を挟む大橋川で繋がっているが、境港の境水道を介して日本海とつながっている中湖の方が、宍道湖に比べて塩分濃度は高い。 当然である。 
宍道湖の塩分濃度は海水の約5~10%、中海の塩分濃度は海水の約20~50%になっている。



歴史的の視ると石器、縄文期前期の頃の宍道湖はまだ存在してなく、付近を網の目のような斐伊川が、今の神戸川と合体して大社湾へ流れていたらしい。 
その後、海面上昇によって大きな出雲湾、入り江ができ大社町、平田市は日本海に面した巨大な半島を形成していったとする。 

その後、海面降下、又、斐伊川、神戸川の土砂の堆積によって出雲平野が形成され、出雲湾は次第に埋め立てられて、今のような宍道湖が出来上がったとという。 
併せて出雲大社南部の海域は「神門水海」という湾又は汽水湖が出来上がった。 

この頃が弥生後半の時期、つまり紀元が改まる2000年前頃と想定でき、出雲大社創建の頃とされる。 
この時期の大社は海に面していたと想像でき、大社本殿の前に昇殿用の階段があるが、階段の下を「浜床」といい、当時、浜の近くに本殿が建てられたのでこの名前が付いたと想像できる。

その後、沖積地は今の湖の東から流れ込む斐伊川の河床に運び込まれる土砂で次第に高くなり、堰き止められて概ね淡水湖としての今の宍道湖が誕生したとされる。 

又、中海は弓ヶ浜の砂州が本土側の間と繋がったり離れたりを繰り返し、平安期の頃には砂州が固定化してできたとされる。 
斐伊川の東流以降、宍道湖は西からの埋め立てが急速に進み、江戸期より現在までは埋め立てや干拓による自然の改変が進んでいるという。


塩分の薄い汽水湖であり、栄養豊富な宍道湖は日本一のシジミ産地として有名である。 
ヤマトシジミは全国で約2万トンの漁獲があるといわれるが、そのうち約30%~40%は宍道湖でとられているという。 
宍道湖は全国一のヤマトシジミの産地であり、宍道湖においてとれる魚介類のうち90%以上がヤマトシジミであるという。

因みに、国内の主なシジミに「マシジミ」がある。
こちらは河川の砂地に生息するのに対し、ヤマトシジミは河口、淡水と海水が混じる汽水域の砂礫泥底で多く見られる。
干潮になると水がなくなるような干潟でも生息している。 
尚、宍道湖のヤマトシジミは種苗として全国に供給もされているという。


次回は、「松江



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/


2017年6月9日金曜日

平成日本紀行(183) 斐川 「オロチ伝説と斐伊川」 






 平成日本紀行(183) 斐川 「オロチ伝説と斐伊川」   、






さて、早朝の「出雲大社」参拝見学を終えて一旦、宿に戻り、遅い朝湯と朝食を頂いて宿を出る。
国道9は丁度朝のラッシュの時間帯らしく、上り・・?の松江方面が予想外に混雑していた。

そのため宍道湖へ出る手前で、北回りの国道431号へ回ることにした。 
国道9号線は、宍道湖の南面を行くようになるが、その宍道湖手前の県道23(斐川一畑大社線)を北へ向かう。 

宍道湖西側へ流れ込む中小の河川を渡りながら、右側にかすかに宍道湖の湖面が覗かれ、左手は広大な平地が見渡せる。 
この辺りは「斐伊川」が宍道湖に注ぐ際、土砂により埋め立てられてできた沖積平野で、山地の多い島根県としては数少ない出雲平野が連なる米どころである。


斐伊川は、島根県と鳥取県の県境に位置する船通山(せんつうざん)に源を発し途中、大馬木川、阿井川、久野川、三刀屋川、赤川等、大小の支川を合わせながら北流し、出雲平野でその流れを急激に東に転じ宍道湖、大橋川、中海を経て日本海へ注いでいる一級河川である。


古来、斐伊川は「暴れ川」として洪水を繰り返し、多くの被害をもたらし、日本における代表的な「天井川」としても知られる。 

天井川(てんじょうがわ)とは、砂礫の堆積により川床が周辺の平面地よりも高くなった川である。 
つまり川に堤防が作られて氾濫がなくなると、川底に堆積した土砂の上を川(水)が流れるようになり、次第に水面が上昇して天井川になる。 天井川が氾濫すると、水は行き場を失い長時間ひくことがない。
従って、近代になっても洪水防堤や放水路等の治水工事が後を絶たないというわけである。


斐伊川の中上流域は・・?、

スサノオは高天原から出雲地方にやってきたとき、船通山から天降ったとされる。
その後、ヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメと結ばれるという神話・「ヤマタノオロチ退治」は有名である。 

日本最古の歴史書といわれる「古事記」に記載されている神話のヤマタノオロチ伝説は、雲南市(2004年、6町村が合併成立)の周辺には、それらの伝承、伝説の地として数多く残っているという。 


斐伊川は、神話の国・出雲の「国造りの川」としても知られ、「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という伝説は、この斐伊川が原点だとも言われる。 

船通山を源として各支流と合流しながら、日本海へ向かって流れ落ち、出雲市街の東を通る辺りから、まるで鎌首を曲げるようにして宍道湖へ流れ込む。


古代神代の物語で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)以外には、蛇と名の付くものは殆ど出てこないという。 
この斐伊川に代表される八岐大蛇伝説は、この性状、姿形からして一つの人為及び自然現象として合理的に説明できるのである。

大蛇の頭が八つとされるのは、斐伊川河口付近では扇状の地となって多くの支流を造っていること。
また、が八つとされるのは、上流の谷筋で多くの支川を集めていることで説明できる。 
胴体に苔や樹木が生えているのは、川岸の苔や草があり周辺は樹木で覆うわれている。 
が常に血でただれているのは、中国山地の土には砂鉄が多く含み、酸化すると赤くなっている現象とする。 

又、神話で大蛇の尾から神剣が出現したとあるのは、この地域で砂鉄を取り出し、タタラ(炉へ足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご)で精錬して、製鉄や刀剣製作に用いたことで説明がつく。


ヤマタノオロチ伝説」は、大和朝廷が出雲に進出する過程で、出雲の製鉄集団を征服、武器などの鉄器をこの地方で供給するようになったことが史実として反映しているとも言われる。 

ヤマタノオロチとされる製鉄集団説では、古事記に描かれている「赤いホオズキのような目」としているのは、真っ赤に燃えるタタラの炉を表しているとされる。 
船通山を水源とする斐伊川は肥川、肥の川ともいわれ、その畔は酸化した鉄分であちこちが赤く染まっているという。 

古来、中国地方は砂鉄に恵まれ、土で作った炉に木炭と砂鉄を入れ、タタラで風を送り込み燃焼させて、砂鉄を溶かし鉄にする。
所謂、「たたら製鉄」が行われてきたと「出雲風土記」にも記載がある。 


スサノオがヤマタノオロチを退治した際、尻尾からが出てきたといっている。
これは純粋な鉄が炉から取り出された状態を言ったもので、いまでいう銑鉄、あるいは鋼鉄の事であろう。
鉄はまず剣や刀に作られたのである。 

スサノウは取り上げた一振りの剣は、天照大神に献上され、これが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙の剣)であり、この剣は天皇の象徴である「三種の神器」の一つとされている。 
元より古来、日本人の精神性と刀剣との関わり合いは深く、特に江戸時代からは刀は「武士の魂」とも呼ばれた。



昭和64年(平成元年)1月7日、昭和天皇が崩御された僅か3時間後に、皇居正殿では第125代天皇になられた今上天皇に対して、三種の神器の内の宝剣「天叢雲剣」と神璽「八坂瓊勾玉」(しんじ・やさかのまがたま)が引き継がれたという。 

三種の神器は歴代天皇が継承するもので、今期の皇室典範にも「剣璽等継承の儀」として謳われている。 
この模様、儀式は史上初めて報道陣にも公開され、皇族や三権の長が居並ぶ中、侍従が神璽を陛下前に捧げる姿がテレで放映された。 

小生は、この厳かな儀式をテレビで拝見したのを未だに覚えている、それにしても崩御まもないこの時間帯に素早く、滞りなく行われた事に感心しながら・・!。


又、オロチが毎年乙女を食し、最後に奇稲田姫(クシイナダヒメ)を食しようとする話であるが。
姫は名のごとく稲田のことであり、毎年、斐伊川が氾濫して田畑が流され、凶作になることを、蛇に食われると言っているのである。 
そして「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という段は、この地方の王、豪の者が治水政策を行ったとすれば理解できるのである。


更に話を進めると・・、
スサノオは荒々しい風の神、風雨神であり、青山緑地を泣き枯らすという表現がある。 
一方、父神のイザナギから海を治めよと言われた話もある。 

海の暴風、台風が襲来すると多量の雨を山地に降らせ、洪水が起こり、山は荒れ、川下の稲田は全滅させる。 

古代の土木技術と労働では、大河の治水は容易ではなく台風神、川水神を祀って災禍をもたらさないように祈るほかはなかったのである。 

古代人はその畏怖すべき敵の最大、最強なるものを祭り、和わらげ、媚び鎮めようと祭神を祀り鎮めたのであった。
ヤマタノオロチ伝説」は、これらを擬似化したものでもあったのだろう・・!。


斐伊川は、山域を約80kmを流れて宍道湖に至り、宍道湖から中海、美保湾に至るまでは、その長さは約150kmにもなる。


次回は、「宍道湖

2017年6月8日木曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社の遷宮」





 平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社の遷宮」  .



https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=521x10000:format=jpg/path/s729a315033c60141/image/i2755e8d6348a3ad5/version/1338535896/image.jpg
出雲大社の参道松並木
参道は真中と両側と松並木によって三つのゾーンに分かれている。 
昔は、中央の参道は皇族の方々や例祭の時の天皇の勅使が通られる道とされていたという。


 http://www.g-rexjapan.co.jp/ishikawahironobu/wp-content/uploads/2016/10/201101301235040dd.jpg
参道横、勅使館と手水舎の間に因幡の白兎でお馴染みの「大国主神と白兎」の像が立つ。



出雲大社の本殿は半世紀ぶりの遷宮されるという・・、

素人目には判りにくいが、出雲大社の神殿、特に本殿は外観から痛みが判るほど進んでいるらしい。
従って、平成20年春頃には御神体を遷し、国宝・本殿の大修理に着手し、改修することになっているという。 
完成には数年かかる見通しで、昭和28年以来、半世紀ぶりの大事業となる見込みだとか。

但し、修理は本殿だけではなく、全ての摂・末社及び修理を必要とする諸建物も本殿と平行して事業は継続され、おそらく10年近い事業になるのではないかとも思われている。

平成20年始めには、祭神・大国主を仮のお住まいとして御仮殿(現拝殿)に遷し、そのときには「仮殿遷座祭」を行うという。 

修造が整う平成25年頃には、元の御本殿にお還りになり、その時も再度「本殿遷座祭」を執行するとしている。



「遷宮」は式年遷宮といって20年に一度の定期的建て直しの「伊勢神宮」があるが、神宮の正殿の隣りには同じ広さの宮地がもう一つ用意され、いわば神々のお引っ越しである。 
だがこちら、大社の遷宮は同敷地内での建て直しとなる。 

造営遷宮とは新しく社殿を建て替え、旧社殿から新社殿へ祭神をお遷しすることで、たとえば、寺院は基本的に倒れたり、火災にあったりしない限り建て替えられないから、法隆寺のように世界最古の木造建築物として残されている。 

ところが、神社の場合は一般に定期毎に、又は、建立されてから一定の期間を過ぎたり、壊れたりなどした時に立て替えを行い、新装成った社殿によって、神様の霊験を一層パワーアップするという考え方である。 
これら神仏に対する造営的考えも日本文化の一つであると言える。


因みに大社本殿の重層な屋根の場合、檜皮葺の厚さが1m以上にもなり、全国のヒノキの立木から皮をはいで集めるという。
本殿の他にも八足門や神々の宿になる東・西十九社などの重文の建築物も修理をすると数万枚もの驚くほどの量の檜皮が必要だという。


平安期、「雲に分け入る千木」と高さ十六丈(48m)もの壮大さが詠われた本殿であるが、現在の国宝・本殿の高さは半分(24m)になる。 

この社殿の形式的高さ、平床面積・六間四方(約120㎡)を最小単位として、これを「正殿式(せいでんしき)」と呼ぶらしく、これに満たないものを「仮殿式(かりでんしき)」として分類している。 

鎌倉中期(弘安年間)より約330年間は「仮殿式」で造営され、以降、江戸寛文年間に「正殿式」に復し、ほぼ現在の本殿の姿となっている。 
今回の遷宮は当然、現行の正殿式で行われるという。



小生、本殿境内横の神楽殿から入場したため、正順の参拝順路ではなかったが、参拝の後、正規の参道側へ回ってみた。
風雪を刻む樹齢数百年の松並木の参道が整然と並び美事である。 

よく見ると参道は真中と両側と松並木によって三つのゾーンに分かれている。 
昔は、中央の参道は皇族の方々や例祭の時の天皇の勅使が通られる道とされていた。 

今は、誰でもが大社に託すそれぞれの思いを胸に、自由に通れる時代になっている。 
この松並木と玉砂利の参道は、いかにもご神域の神々しさを感じる。 
勅使館と手水舎の間に、「因幡の白兎」でお馴染みの大国主神と兎の像が立つ。
(「因幡の白兎」については後述)
振り返って本殿境内を覗くと、相変わらず例の女性がせっせと「御百度参り」の願掛けに勤しんでいた。



出雲大社は地域的には、出雲市ではなく大社町に鎮座していたが、2003年(平成15年)12月 出雲市、平田市、佐田町、大社町、多伎町、湖陵町との合併により、出雲市に存在することになった。 

一方、宍道湖に面する斐川町は、出雲市との合併に際して、住民による合併賛否の投票が行われた結果、反対多数となり単独町制の道を選んでいる。
斐川町は、現在、出雲市、雲南市、松江市の巨大地域に囲まれていて、見るからに窮屈そうである。

尚、昨今(2008年)、出雲市との合併に関する住民説明会などを開いて、住民同士の話し合いが再度行われているようである。 
その、斐川町方面へ向かう。


次回は、斐川・「大蛇伝説と斐伊川




.

2017年6月6日火曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲神話と史実」






 平成日本紀行(182)出雲 「出雲神話と史実」  .




「神無月」というが、出雲地方に限って「神在月」という・・! 、

ところで、オオクニヌシが行った「国造り」とは、列島のどのくらいのエリアに及んだのか・・?。 
記紀や「出雲風土記」などによると、先ず、「紀伊の国」(和歌山)へ出掛けている。 
又、「越の国」つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。 
同様に、北九州の筑紫にも出向いているし、朝鮮半島の新羅に天降って後、出雲に来た説とした渡来人の説もある。 

天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子の一人は、長野の諏訪(諏訪大社)まで逃げている。
出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいるし、大和にも多い。 

こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシすなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになる。

これを古代の日本列島の状況に照らしてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる動きに類似し、それが日本の縄文社会に次第に浸透し、次の時代の弥生文化とされる新たな文化圏、云わば出雲文化圏から大和文化圏への移行とも言える。 
このことは九州の渡来人伝説と共通し、日本の縄文から弥生の文化の過渡期とも想像できるという。 


この頃、同時に台頭してきたのが高天原の神々つまり「大和朝廷」(ヤマト王権)であった。
オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫るのが所謂、前述した「出雲の国譲り」である。


国譲りという説話(話し合い)になってはいるが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをしながら、武力で奪い取った色彩が強い。
いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族(大和朝廷)が武力で奪っているわけである。 

この時、オオクニヌシは『私が支配していた国は、次の天神の子に統治権を譲ろう。しかし、「八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守る』と宣言する。 

つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのである。 
譲るのは、出雲の国ではなく葦原中国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけであった。 
この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示し、出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと倭国の支配権が移動した事実を伝えている。 
大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で収奪しているのである。 
出雲の国譲り神話や神武東征伝説が語っているのは、このような古代日本の構造の変革ではないかとも云われるが・・?。



これを古代の日本列島の状況に照らしてみると・・ 、
縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から多くの移民が渡来し、それらの移民によって農耕文化が伝わり、それらが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていくイメージなのであろう。 

つまり、九州の渡来人伝説と共通し、出雲の縄文文化圏から、大和の弥生文化に取って変わる過渡期の時期であったのではないかとも想像することが出来るのである。



本殿を囲む瑞垣(みずがき・神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣、玉垣、神垣のこと)にそって、東西の両脇に長い社殿が立ち並ぶ。 
それぞれ十九の細かい社殿に別れており、旧暦の10月11日から17日までの間、全国の神々が出雲大社に集う際に滞在する神所といわれる。 

他の地方ではこの月日を「神無月」というが、出雲地方に限って「神在月」と呼ぶのは、全国の神がここで神の会議を行うからである。

古来出雲の国において、出雲大社の影響は、単なる信仰や崇拝の対象であるだけでなく、一つの政治勢力として出雲の国、及びその周辺勢力に影響を及ぼしていたのである。

一方、神無月の語源は、神を祭る月であることから、「神の月」とする説が有力とされ、即ち、神無月の「無」は、「の」を意味する格助詞(助詞の一類)であるとしている。 

その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じ、「神無月」になったとする説もある。 

同様に「水無月」は、水の無い月と書くが、水が無いわけではなく、「水無月」と同じく、水無月の「無」は「の」にあたる助詞の古語で、「水の月」という意味になる。 

陰暦6月は、日本列島は梅雨の時期であり水は豊富であった。この時期、田に水を引く月でもあり、水の月、即ち水無(の)月と言われるようになったとする見方もある・・?。

だが、この「神無月」には例外がある。
このことは前にも記したが、記紀神話に基づく起源としては、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギ)の降臨に先立ち、出雲を支配していた大国主命が「国譲り」の際、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫ったのに対して、大国主の長男 建御名方命(タケミナカタ)が、国譲りに反対し、大和の軍勢である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦って負けたことから、信濃の諏訪まで逃れて、その地で諏訪王国を築いたとする。

この時、戦に負けて命乞いをした結果、二度と諏訪から出ないことを条件に助命されたとする。 
従って、全国の神様が出雲に集うため当地方では「神無月」といわれたが、信濃の諏訪の神は出雲へは出掛けられず、この地に留まっていたため、諏訪地方では「神在月」とされている。
即ち、全国が「神無月」であっても、出雲地方と諏訪地方は、「神在月」なのである。

因みに、建御名方命(ケミナカタ)を祭った神社が諏訪大社で、上社には男神の建御名方命、下社には、妻であり、女神である八坂刀売神(ヤサカトメ)・妃神が祀られてある。


次回は、「出雲大社の遷宮





2017年6月4日日曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」 






 平成日本紀行(182)出雲 「出雲の国と神話」   .




神話の古事記や日本書紀による神代の神武天皇までの譜系図
(出典;http://www.taimayamaguchi-jinja.org/index.php?%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C)





「出雲の国」とは・・??  、

神話の古事記や日本書紀にはアマテラスやニニギ、その後の神代三代と天孫降臨の神々については九州南部(宮崎、鹿児島)あたりで概略記載しているが、神代の太祖にあたるのがイザナギ、イザナミである。
この両者から生まれたのがアマテラス、オオヤマズミ、そしてスサノオであって、アマテラスとスサノオは姉と弟の姉弟関係にある。

この弟はかなりの“”(若気の至り・・?)であり、この悪さが極まったのが「天の岩戸」事件であった。 
弟の悪さで業を煮やしたアマテラスが高天原の岩戸に引きこもり、お隠れになってしまい、世の中(高天原も葦原中国も)が真っ暗闇になってしまう事件で発生する。 

この時、アメノウズメが奇態な踊りを見せて、アマテラスを誘き出し一件落着するのだが、この時、アマテラスをはじめ八百万の神々は相談し、スサノオに罪を償うために弁償の品物を科し、高天原から追放したのである。 
追われたスサノオは、葦原中国(本州)の出雲の国へ降りたったとされる。


出雲へ降り立ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣・クサナギノツルギ、都牟刈の大刀:ツムガリノタチとも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる)を天照大神に献上した。 
この時スサノオは、八岐大蛇の餌食になりそうだったクシナダヒメを助け、そして妻として迎える。

そこでスサノオは次の歌を詠んだ。

『 八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 
八重垣つくる その八重垣を
 』  古事記

(出雲の地に、新妻を迎へ宮を造ろうとすれば、雲の幾重にも立ち上るような、そして八重垣を造るような如しである) 

妻を迎へたことの喜びの歌で、新婚の二人を寿ぐが如くその喜びは幾重にも雲が湧き上がるようである。 その愛でたさは八重垣をなす。 
幸せの気持ちを繰り返す様を「八重垣」に見立てて朗々と歌ひ上げている。 
この歌は日本初の短歌とされている。

この時スサノオは、この国を「八雲立つ出雲」つまり「出雲の国」と定めている。


スサノオの若年における悪行の意味は、「スサ」は神名で”荒れすさぶ”の意として嵐の神暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、勢いのままに事を行うとする説がある。

スサノオによるヤマタノオロチ退治の英雄伝承物語は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た象徴とされ、天叢雲剣の取得はその“”を得た事象であると解釈できる。 
そしてスサノオは、日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有し、人間の成長、そして国土の発展が伺えるのである。


スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、クシナダヒメと幸福な結婚生活を送るが、やがて根の国(冥界)に下ってしまう。 
その後、出雲神話の中心人物となるのは大国主;オオクニヌシである。 

オオクニヌシはスサノオの息子とも、数代後の子孫ともされている。(記紀により異なる)
オオクニヌシは国造神のほか、因幡の白ウサギの説話(後述)からわかるように医療の神としての性格もあり、又、邪悪な自然を避けるための「呪術」(まじない)を定めた神でもあり、祭祀王(祟りは大和朝廷の関係ともされる)としての資格をも備えた神、つまり「大国主神」となる。

葦原中国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた。
この時、共に国造りを行ったとされる少名彦神(スクナヒコ)で、農耕神としての性格があるという。


次回は、「神話と史実


2017年6月3日土曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」






 平成日本紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」    .





出雲大社への拝礼は、希望や願望と同時に、“厄災を起こさずに鎮まってて下さい”という意味でもあるとか・・、

出雲大社の広大な境内(実は、境内そのものは伊勢神宮や宇佐神宮よりかなり小規模)の内、拝殿、本殿などの敷地、つまり銅鳥居の内側を「荒垣内」と称し、本殿周囲の垣を「端垣内」と称している。 

一般参拝人が寄れるのは荒垣内で、八足門の内側・端垣内へは禁足となっている。


境内、特に荒垣内、端垣内には、筑紫社(宗像大社に祀られている神)や御向社(大国主神の嫡后である多紀理比売命・タギリヒメを祀る)など、数社の摂、末社が祭られている。 
その荒垣内摂社の中に素鵞社(そがのやしろ)が本殿の真後北側に、南面つまり本殿同様の向きで鎮座している。 
小社(小さな御社)であるが四方を鬱蒼とした樹木に囲まれ、一段高い位置で神威豊かに祀られている。 
祭神は、有名な素戔鳴尊(スサノオノミコト)である。


スサノオは天照大神(アマテラス)の弟神でもあり、出雲の国に赴いとき八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話は周知である。 
オオクニヌシの親神(日本書紀)として、大国主に「国造り」の大任を授けられた出雲の太祖でもある。 
即ち、本殿の真後ろから暖かく大国主を見守られているといった感じなのである。(昔、出雲大社の主祭神とされていた時代もあったという) 

素鵞社は、本殿の後陰になったいるため一般参拝人には気が付きにくいのであるが、ただ、我々参拝者が「拝殿」に頭を下げ、「八足門」に額ずくとき、主神の大国主神には、前述したように横向きのため参拝者の真意が直接伝わらないが、本殿越しに鎮座している「素鵞社」には伝わるのである。 
つまり、われわれが出雲大社に詣でる時、知らずのうちにスサノウをお参りしていることにもなるのである。


ところで、大和系の神社(伊勢神宮や熊野神社など)は「2礼2拍手」で礼拝するが、しかし、出雲系は違って、現在の礼拝は「4礼4拍手又は2礼4拍手」である。 
かっては「16礼16拍手」であったという時期もあり、明治時代になって礼拝方式が簡略化され、今に至っているとのこと。 
多礼多拍手の儀礼は、「祟り封じ」の為に作られた挙礼挙手の方策の一つだったかも知れない。 


神社とは、祭神が祀られているところであり、鎮守の森に囲まれ鎮座している所である。 
又、鎮祭という儀式もあり、諸神を鎮め固めるための祭儀であるとしている。

我々は神社に参拝するとき、いろいろ祈願をする。 
無病息災、家内安全、交通安全、五穀豊穣、安全平和、等々、裏を返せば自然界はままならぬもので、人災、天災、争い事と後を絶たないのである。 

これらを、特に日本人は神の厄災と観るのであって、古代中世の人々は、この傾向が強く、特に神に祈るとき希望や願望は同時に「厄災をおこさずに鎮まってて下さい」という意味としている。

出雲大社は、大和の神々に虐げられ滅ぼされた神なのであり、御神心は怨み1000年の怨念の神なのである。 
それだけに絶対的に鎮座をお願いする神でもあるのである。


神社は定期的に神を祭る儀式、神社の祭りがある。 その中でも重要な要素の一つは、神にお供えものを献じることである。
マツリ(祭)という言葉は、マツル(献)から出たものだといわれている。 

神に神酒・緒食をたてまつることがマツリの原義である。 
日本人の考え方では神は、祭りの機会ごとに祭神が来臨され、祭りが終わると帰っていかれると考えられていた。 

現在でも祭りの基本的儀礼構成は、まず神を迎え、神酒・御食を供えて仕えまつり、願いや感謝の祈りを捧げ、時が来ればお送りするという形をとっている。 

祭礼の日のみ、鎮座している神が天下に降りてこられて俗世と交わり、俗界を伺い、俗民は神の霊力を戴くのである。


次回は、「出雲の国と神話


2017年6月1日木曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」

 平成日本紀行(182)出雲大社 「国譲り伝承」   、





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o.jpg/800px-Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o.jpg
古代・出雲大社の想像図(資料)



大国主が、大和の神へ「国譲り」を行ったとされる真意は・・? 、

出雲大社が最初に創建されたのはいつのことなのか・・?、
その具体的年代を知る事は非常に困難であると言われる。 

出雲國風土記」や「記紀」(古事記、日本書紀)に創建の由緒や社殿の壮大な様がはっきりと記されてはいるが、創建の年代については、神話伝承の時代に溯る故に確定するのは難しいとされる。


出雲大社が神話伝承の時代から、次の歴史的実話に登場するのは、第11代の垂仁天皇の御代であるとされ、在位は紀元前後1世紀とされているので、大社創建はそれ以前ともされている。

この出雲大社の本殿に祭られているのは、ご承知、「大国主神」(オオクニヌシノカミ)である。 
その大国主によって出雲は「国譲り」の地、国譲り伝説の地とされ、出雲大社は国譲りの神・大社とも言われる。 


然らば「国譲り」とは一体何か・・? 。
大国主はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれた。 
それは全てのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。
そして、この国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされている。  


弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷(最近は「ヤマト王権」ともいう)は、各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったとされている。 
須佐之男命(いろんな書き方がある)にしても、大国主命にしても出雲土俗の統治者、或いは神とされていたものが、無理やり大和朝廷によって統合されたものとされている。
それらの経緯が神話や祭儀となって組み入れられたのが「国譲り」とされた。
ただ、その裏には実は制圧された出雲の怨念がこもっているともいう。 


「国譲り」の真意・・?? 、 
双方の見方を変えてみると国を譲ったのか、或は国を奪われたのかと言う事である。 
記紀に記されているものは、大和朝廷成立後、大和側から書かれたものであり、普通、勝者側からは都合の良いことは書かれ、悪いことは書かれていないのが自然である。 

大和朝廷(天照大神)から見れば、出雲王朝(大国主命)は邪魔な存在であり、大和朝廷による出雲の国の収奪戦が行われたとという見方もある。 
大和朝廷からみれば出雲を奪ったことになるが、出雲王朝からみると国を譲ったことにもなり、記紀には、出雲が大和に穏やかに(・・?)国を譲ったと記されているが、内実は、この時、激しく紛争や騒乱が起き、場合によっては戦乱によって大国主命の殺害などもも考えられる・・?。


古代における陰謀や暗殺、殺害といった事件には、必ずといっていいほど敗者には「祟り」という現象が付き物で、この事は当然ともされた。 
平安初期、菅原道真が宮廷の陰謀によって九州に左遷され、無念のうちに死してから、京では道真の怨霊)などによって大事な災厄を被っている。 
当時の人々に取って「祟り」は日常的であり、祟りほど恐ろしいものはなかったのである。

出雲の国を奪った大和朝廷は、大国主命を神格化して出雲の地に最大の神殿を作り、大国主の祟りを鎮めようとした。 それが「出雲大社」の始まりとも考えられるのである。 
大層な大社造りを見ると大和朝廷がいかに「祟りを恐れた」か分かるともいう・・?。 
又、それは、前述した本殿の神格の配置にも観られことである。



話は些かとぶが・・
信州・諏訪地方に諏訪大社による、ご承知奇祭と言われる「御柱祭」なるものがある。 
御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭であり、祭神は「建御名方命」 (タケミナカタノカミ )で、越後出身の神(実は出雲である)であり、武神、農耕神、狩猟神といわれる。 
古事記では、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、更に追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
祭神・建御名方命は、越後の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。

ある時、建御名方命は出雲へ渡ったものの、高天原の神々(武甕雷男神:タケミカズチ、鹿島神宮、春日大社祭神)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれていると。 
これは記紀つまり、記紀の編纂は高天原(大和朝廷)サイドからの捏造された見方であって、出雲サイドから見れば出雲族は堂々と戦い、そして無念ながら敗れ去った。 
その時に、からくも大国主命の息子は母方の実家の越後え逃げ、その後、諏訪に入ったのであり、建御名方命は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ諏訪大社に祀られているとするものである。

建御名方命は大国主命の息子ということで、神々が出雲大社に集まる神無月にも出雲へは行くことができず、諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪地方でも承知している話である。

御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。 
祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。

この四本の柱とは何を意味するのであろうか。 
これら柱祭の起源には柱が神の依代(よりしろ)であり、四本の柱が宮殿を表すとされて柱を七年ごとに新規に取り替えた名残り、つまり、「遷宮」とういう名残ではないかという諸説もある。


更に、ここでは出雲大社の本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?、
四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 

諏訪大社は上下あわせて四社(上下2社ずつ)ある。 
出雲本社の本殿の高さは、当初は96m、あるいは48mもあったとされているが、このことは先に記した。 

本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物には当然、巨大な芯柱や大柱が必要である。 
又、大柱は切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。 

諏訪大社では、本家、出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも想像できるのである。

大和側から見れば、出雲はやはり恐ろしくも偉大な神であった。
これだけに本殿を高くするという意味合いは、御霊を天上に追いやって天下に下りて来難くすることで、祟りや呪いを出来るだけ遠ざける事だったのかもしれないのである。


御柱祭」が行われる前年、北安曇郡小谷村(信越国境)の二つの諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌(なぎがま)を打ちつけるという、珍妙な祀り行事がある。 
「薙鎌」とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、この時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのか・・?。 


建御名方命が高天原の神との戦い(国譲り)に破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 
この薙鎌は大和の神が「許してやるから、ここからは出るなよ・・! 」という印とも言われている。 

一方で、出雲の国で須佐之男命が殺したとされる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたのが草薙剣で「三種の神器」の一つとされる。 
その薙鎌は、その草薙剣を模写したもので、この剣を出雲王家の怨念を柱に打ちつけ、天下の末代まで呪柱、忌柱として祀る印ともいわれる。 


引き続き、出雲大社・「拝礼の意義


iv dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on">

2017年5月31日水曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「御本殿」





 平成日本紀行(182)出雲大社 「御本殿」    ,






http://www.dokuritsuken.com/izumo/images/2008/08/08/DSC_1489.jpg
出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Izumo-taisha11n4592.jpg/1024px-Izumo-taisha11n4592.jpg
出雲大社・本殿(Wik)





本殿内部の祭神配列の異様さ・・? 、

その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 

こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 

その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。


その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 
千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。


現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) 
ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48メートル、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。

普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 
背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。


2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 
48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。

平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。 

ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、即ちその本殿へ誘う階段がまた長大であったという。 だが本殿そのものの建物(建屋)は現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。
いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。


ここで、(ヤシロ)と(ミヤ)の概念について。 
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 
代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く示された場所を表す。 
つまりヤシロとは社であって聖域を指している。
又、屋代(ヤ・シロ)は宮のことで、社の一角に臨時に屋根をしつらえて神事を行う場所のこと、つまり神仙(神様)の住居としてのミヤ(御屋・宮)のことで、本宮とか本殿とも呼ばれる。 

出雲大社はその起源からして祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ち、神の宮であり、神宮本殿・なのである。
その出雲の宮社(本殿)が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである



出雲大社御本殿内部の祭神(御神体)配列について・・、



写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)


出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという。
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 
御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。

大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 
その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 

しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 
従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。
つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 

要するに、我々参拝者と大国主神とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っているともいえる。
このことは大和神(天孫神)の意に反して、主神が「祟り」を起こすための「行い」を監視しているともとれるのである。
このことは、神話における大国主が大和神へ「国譲り」を行った結果、その構図が現れているとも観れるのである。(「国譲り」については次回後述)


以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるという。
先ず、古代の住宅様式における居住まいは、入口部と最上席との位置、配置関係は御本殿のそれと一致するという。(現在でも通じる)
出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。

又、古代では西の彼方には「常世(とこよ)の国」(霊魂が鎮まるところ)があると信じられていた。
そして出雲大社のすぐ西には「国譲り神話」の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされている。
大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 
現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事があるという。

いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建時の様子が隠されているのかもしれない。


御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 
上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 
出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる。

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 
            八重垣作る 其の八重垣を
 』

という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊と社の後方に聳える八雲山との縁により描かれているとされる。
だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば、何故七雲しか描かれていないのか・・?、という疑問である。 
このことも、「国譲り」伝説の影響による出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊の歌と絡めて疑問視されてきているという。


次回は、「国譲り


2017年5月30日火曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」




 平成日本紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」   、




http://www.dokuritsuken.com/izumo/images/2008/08/08/DSC_1489.jpg
出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG/800px-Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG
出雲大社・拝殿 (以上はWikから)




出雲大社での参拝は四礼四拍手一礼が基本で、四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通ずるという・・、

出雲大社の拝殿、本殿に向かうには、本来は、松の参道から本殿境内とされる銅鳥居から入殿し、拝殿へ向かうのが本筋である。 
小生の場合、いきなり神楽殿の前へ来てしまったので、これより通じている横参道より直ぐに、本殿境内の拝殿に立ってしまった。

拝殿は本殿の手前にあり、総ケヤキの切り妻風・「大社造り」といい、珍しく妻入り部分(妻の方に入口を設けて、これを正面とする様式)が拝所になっていて、上部に神楽殿に次ぐ大きさの注連縄が下がる。 
早朝、全く静かな雰囲気で神妙なるお参りが出来、ホッとする。 


出雲大社での参拝は、四礼四拍手一礼が基本で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけらしく、その起源は分かっていないという。 
四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通じているともいい、又、賽銭も“しじゅう御縁”が有りますようにとの意で、「45円」が妥当との事らしい。 
御縁は“男女の縁結び”も合わせて、四拍手つまり“幸せ”に巡り合いますよう祈願するものという。

因みに、お膝元の島根県の離婚率は日本一低いらしく、これも地元の人は出雲大社のご利益としていて、やはりというか「縁結びの神様」なのであり、「縁を離さない神様」なのである



拝殿奥の本殿・拝所においても四礼四拍手一礼を行う。

気が付くと、一人の女性が真剣に拝礼している姿があった、未だうら若き女性である。 
早朝の静寂の中、手持ちの物も無く、拝殿、そして本殿・拝所(八足門)と正規の石畳の通路を往来しながら一心不乱にお参りしているのである。
「お百度参り」であろう・・!。 

拝礼参拝は、先祖の供養、自分と家族の健康、平安、無事など、心に思い願い事すべてに功徳があり、又、自分の反省、懺悔にて心身が洗われることをより強く祈願することだという。
 この女性には如何なる願いがあるのやら、神仏に百回(数多くという意味もある)お参りする行為に見とれながら、満願成就することを願うのみである。


更なる御神域に囲まれた、本殿・拝所は一段高いところに本社(ほんやしろ)がある。 その至近正面にあるのが「八足門」といって、一般の参拝はここまでである。 
本殿と八足門との間にあるのが本殿・楼門で、この門は二階づくりになっており、階段の一番上(15段目)、つまり二階の部分が本殿の床のと同じ高さになっているという。
 尚、階段の下の部分を「浜床」といい、昔は浜の近くに本殿が建てられていたらしく、この名前がついたともいう。


次回は、「大社・本殿



2017年5月27日土曜日

平成日本紀行(182)出雲 「日本人と藁」







 平成日本紀行(182)出雲 「日本人と藁」   、





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Izumooyashiro89.JPG/800px-Izumooyashiro89.JPG
出雲大社の注連縄




引き続き、注連縄に絡んだ「藁」(わら)について・・、

序ながら、昨今、都会では「」を見かけなくなったが、それでもお正月になると注連飾りなどで、藁に接する機会がある。 

注連縄を作るために、農家では秋の収穫の時に茎の長い青い藁を蓄えておくという。 
藁(わら)とは稲の米をとったあとに残る葉や茎の部分の乾燥したものを言い、古来より、藁は日本人の衣食住の全てを、その温もりで包んできた。 

その水田や藁葺(わらぶき)屋根は、安らぎを感じる日本の原風景でもあろう。 
藁葺屋根をはじめとして、日本全土で受け継がれてきた藁細工には草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、俵(たわら)、蓑(みの)、雪長靴 お櫃(ひつ)などの各種保温材、そして藁人形など様々な種類があり、それらは地域によっても形が異なるが。


鰹(かつお)どころ土佐では、タタキ造りに [藁焼き] が一番とされ、藁は火力が強く、しかも藁の燃える時の香りはより一層、鰹の風味を引き立たるという。

藁は筒状で中が空洞になっているので燃え易く、藁の強い炎は鮮度のよさを示す「鰹の肉色」を損なう事無く、表面のみを瞬時に焼き上げ、藁が燃える時に発する「けむり」や「におい」には、魚の脂の酸化を防止し、尚且つ、殺菌効果のある成分「フェノール類」が含まれているという。 

又、茹でた大豆を藁づとに包み、藁についている納豆菌で自然発酵させたものが納豆である。 
最近でも季節になると報じられて見られるのが、風物詩ともいえる金沢・「兼六園」の藁縄による雪釣りの風景である。 
芯柱と呼ばれる棒を立てて、縄を渡す「りんご吊り」というらしい、芯柱は高いもので16mにも及ぶと言う。


藁は、我々現代人が考えている以上に強いといい、湿れば伸び、乾くと縮む性質がある。 
この性質を上手に利用したのが藁で編んだ「」である、縄で物を縛る時(祭屋台など・・)、湿らして縛ると後に乾く時にきつく締まるのである。 

藁といえば幼少だった頃、故郷田舎で牛舎の藁小屋で、藁まみれになって遊んだのを思い出す。
日本人と藁は、今でも切っても切れない関係に有るのである。


藁は単に米をとった後の残り物などではない・・、! 
燃料であり、様々な生活の道具を作る素材であり、新たに息を吹き込まれるべきものである。 
今、日本人の生活からどんどん失われようとしているものが多数あるようで、藁文化もその一つであろう。 
先人達の暮らしを知って、それらを残し、更に回帰・復古的にも行使、実施してゆくことは、環境問題にも一役かうかもしれない。

最近では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にあるという。
特に、或る研究機関は「バイオマスエタノール」(バイオマスとは生物から発生できるエネルギー量で、これをエタノールに変換し、内燃機関の燃料としての利用)の製造実験も発表されている


ところで、都会では米が白い状態のまま田んぼに出来ると思っている子供達がいるという。
そして、米のとぎ方も知らない若い母親もいるという。
冗談のようで何とも切なく悲しいな話である。 

故郷は遠きにありて思うもの」も結構だが、米のできる日本の田舎、田園、故郷、古里をもっと知らなければならない。


次回は、「出雲大社・社殿


2017年5月26日金曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社」 




 平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社」   、






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG/1024px-Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG
出雲大社の神楽殿を飾る日本一の「大注連縄」





先ず、出雲大社の日本一の大注連縄について・・、

午前6時を回った頃の早朝、国道9から国道431にて大社方面へ向かった。
国道は、それなりであったが大社の町は未だ朝の静けさの中であった。 

歴史を感じる古い家並みへ入ると、国道は急に狭くなってきて、老舗とおぼしき旅館なども目に入る。 右横に大きな駐車場があったが、早朝であまり人の気配が無いので、おもいっきり車を奥まで進めてみた。

左に祖霊社(信徒祖霊を祀る、法事なども行う仏寺院のようなもの・・?)と言われる社宮の参道が延びていて、右側には大社殿に一番近いと思われる門前横丁の商店街が並んでいる。 広い通りのお土産物商店街は、無論未だシャッターが下りていて、こちらの外れの方に車を置かせてもらった。


この辺りは大社本殿の西側に位置しているようで、正面にはすでに「神楽殿」の一際大きな社殿が鎮座している。 
表面には出雲大社特有の大きな注連縄(しめなわ)が配されて人目をひく。 

長さ13メートル、胴回り9メートル、重さは3トンにもなるという圧倒的な量感に驚かされる。 この大注連縄は、「国引き神話」の出雲を象徴しているともいう。(国引き神話については後述)

下向きの三個の末広がりの注連下がりには、よく見ると、あちこちに硬貨が突き刺さっている、誰が言い出したのか、うまく刺さると願い事が叶うと言われるが・・?。

神楽殿は本殿と同じように朝夕のお祭りの他、時に応じて御神楽や御祈祷が奉仕される。
全国には出雲大社の分社、支社、講社や教会が各所にあるが、それらに属する人々が揃って本社へお参りすることを「おくにがえり」と言い、ここ神楽殿でそのお祭りが奉仕されているという。 

出雲では祭事を行い献納することを「奉仕」と称しているらしく、祭事は8月6日~10日、「おくにがえり」の神事として執り行われるという。



「注連飾り」について・・

出雲大社・神楽殿の大注連縄(おおしめなわ)は日本一の大きさを誇るという。 
その長さといい、重量といい他の神社を圧倒しているが、その何よりの違いは、撚り(ねじり)が左綯い(ひだりない)となっているのが特徴であり、出雲地方の神社は概ねそうらしい。 

この注連縄とは、〆縄とか七五三縄の字も当てられ、又、「注連飾り」とも呼ばれている。 
注連縄は神聖な場所を意味するもので、俗的な世界と神聖な世界とを区別する結界の意味もあり、日本神話の天の岩戸に張った「しめくりなわ」が元祖とされている。

その起源は古事記に、「天照大神が須佐之男命の乱暴を畏れ天の岩戸に隠れた時、この岩戸の前で天宇受売命(アメノウヅメノミコト)らの神々が賑やかな宴を催した。 これを怪しんだ天照大神が覗いたところ、傍に隠れていた天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)がその手をとり天の岩戸から引き出だした。 そして、布刀玉命(アメノフトダマノミコト)が尻久米縄(しりくめなわ・しりくべなわ)をその後ろへ張り渡し『ここより内に戻れませぬぞ』と告げた」と書かれている。


注連」をなぜシメと読むのか・・?、
中国では、人が死んで魂が外に出たとき、戻らないように水を注いで清め、縄を連ねることを注連(ちゅうれん)といい、その縄を注連縄と読んでいたらしい。 
日本神話における「しりくめなわ」が、中国での意味の「しめくりなわ」の意味となり新たな語彙が生じたのかもしれない。


又、注連縄の別の意味合いでは、古神道でいう大自然そのものを現しているという。
大自然そのものの中心になるのが太陽であり、天である、その自然現象を表したのが「注連縄」であるという。  

横に張られた縄の部分が「」、垂れた縄が「」、神垂(紙垂)が「」とされ、その奥にくるのが神様()となり、総じて自然現象を象徴しているといわれる。 
この注連縄を祭りや祭事に付けることにより五穀豊穣に感謝する春、秋祭りの意味を持つことになる。

又、注連縄には清浄・神聖な場所を区画するための境界線としても引き渡される。 
従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸、瀧(滝)、寺院などにも掲げてることろをよく見かける。 
正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、上述の意義により家の中に悪霊を入れず、穢れ(けがれ)を去り、無病息災・家内安全を願ってのことである。 

相撲の「横綱」は土俵入りの際、紙垂のついた注連縄を化粧まわしの上につける。 
相撲界では横綱が最上位であり、穢れてはいけない神に近い存在ともされている所以である。


注連縄は、左捻り(ひだりより)を定式として三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂(かみしで)を一般には4本下げる。 
紙垂は、御幣(ごへい)、幣束(へいそく)ともいい、ご神体(神様)を魔神、魔物から守る力があるという。

因みに、数本の藁(ひもや糸も同様)などを、より合わせて1本にするこのを捻る(よる・撚る)といい、普通、捻りと綯い(ない)は逆になる。

注連飾りには「大根締め」、「ゴボウ締め」、「輪飾り」など色々な種類の形式があるが、最も一般的な大根締めは両端がつぼまり中心部が太くなる形、そして、ゴボウ締めは片側が細太となり、一般に左側が細く右側が太くなるとされる。


又、古代、注連縄の材料である藁自体にも神が宿るといわれ、幸運を呼ぶ力があると信じられている。 
藁は神に奉げる米、稲穂を支えている芯でもあるからである。 

正月には、この藁で注連縄を飾り、小正月や孟蘭盆には藁火を焚いて先祖の霊を迎える。 
正月の注連縄は、その家が神の家であることを示し、注連縄のシメはそこを占める、占有するといった意味で、占有するのは神である。 

建物を建てる時の地鎮祭でも注連縄が張られるが、この地を神が占有し魔物を遠ざけることで、その建物も守られるという考えからきている。


次回は、「」についての考察


2017年5月24日水曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)







 平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)  .






 http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/2/78p1.jpg
大森代官所跡近くにある「井戸平左衛門正明」を祀る井戸神社





序ながら、「いも代官」と言われた大森代官の逸話を一つ

石見銀山」の代官所は大森町に設けられ、幕末まで59人の奉行・代官が交代で赴任したという。
無論、当地の代官は銀山は勿論、同時に村方の支配をも行っていたとされる。


1731年(享保16年)、大岡忠相(ただすけ:越前守)の推挙により、第19代代官に「井戸平左衛門正明」(いどへいざえもんまさあきら)が任ぜられた。 
彼は、60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、銀山奉行のかたわら、領民から「いも代官」として慕われたという。 

その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カライモ:さつまいも)を導入し、普及させたとされ。 
又、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、更に、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したという。


普通、代官といえば私服を肥やし、領民を苦しめる悪代官のイメージがあるが、こちらは善政の見本の如くの人物である。 
しかし、これらの所業は幕府の知られるところとなり、1733年、平左衛門は大森代官の職を解かれ、備中国・笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられた。 

平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたと云われている。 
井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が大森町に鎮座している。


境内の顕彰碑には・・・、
『 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。 』

平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑は490ヵ所にも及んでいるといわれ、島根県の外に鳥取県や広島県にも建てられていりという。




引き続き近世の「石見銀山史」であるが・・、

幕末の1866年(慶応2年)6月、第二次長州戦争において幕府は石見国に近隣藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、その1ヶ月後、浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出し落城している。

これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に、家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。


以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となった後、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。
この後、石見銀山は大正末期の頃には産出微小となり閉山している。 


こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められてきた。

昭和44年(1969)、代官所跡・要害山・山吹城跡、各所の間歩、それに各所の墓・霊所・神社、大久保長安墓が国指定史跡となり、その他、県指定・市指定遺跡が多数存在する。 

又、大森代官所跡に「石見銀山資料館」を開館し、「熊谷家住宅」等が重要文化財に指定され、現存の大森集落が、町並みの「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

そして、2005年9月、政府は世界遺産に推薦することを正式に決定している。


世界遺産の産業遺産としてはアジアでは皆無で、鉱山遺跡は、欧州や中南米にあるが、18世紀以前の所謂、産業革命前の鉱山遺跡としては「石見銀山跡」は稀有の遺産といえるのである。  

尚、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。



【付記】  .

世界遺産に指定された大森地区は山間の狭い地域のために、観光目当ての自動車等が通るスペースが無く、「パーク&ライド方式」がとられている。
パーク&ライド方式とは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自動車等を郊外の駐車場に停車させ、そこから公共交通の鉄道や路線バスなどに乗り換えて目的地に行く方法である。 こちらでは、石見銀山駐車場に車を止め、ここからバスを利用して各要所に移動することになる。
因みに、2007年(平成19年)7月の世界遺産登録後、来訪者が急増し、8月は1カ月間で63625人が来場し、又、今年(2008年)は11月21日現在で、昨年の3~4倍となる32万7533人が訪れたという。(協会発表)

本稿で、世界遺産・「石見銀山」は終了いたしました。 



関係書物は下記石見銀山に関する資料です。

「世界遺産石見銀山を歩く」 穂坂 豊
「石見銀山 四季 暮らし ものづくり」 いなとみ のえ
「石見銀山 (別冊太陽)」江田 修司 田中 琢
「出雲と石見銀山街道 (街道の日本史)」 道重 哲男 相良 英輔
「石見銀山を歩く」―ガイドブック
「江戸幕府石見銀山史料 (1978年)」 村上 直
「石見銀山の港町温泉津紀行」 伊藤 ユキ子

 
 
次回からは再び日本周遊を辿ります。 先ず、湖陵から出雲大社


2017年5月23日火曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」   .



「石見銀山」が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないという。
ただ、「銀山旧記」という説話古文書にはは以下のように記されているという。

『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏が3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・』 とある。


日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 

寿禎は先ず、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。 

寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。 
とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになり、秀吉が朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が今も現存するという。


次に、関が原の戦いに勝った徳川家康は、その僅か10日後には石見地方を直轄化(天領)している。
慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。 

石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。

天領である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。


以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つであり、「石見」の場合の所領は、銀山を中心とする約5万石相当で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。


先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
この「銀山旧記」は現在、「生野書院」(生野史料館;朝来市生野町口銀谷)に展示してあるという。
生野は「生野銀山」として石見銀山同様、大量の国内銀産出地として有名。



ただ、「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされているが、その中に、馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成された「銀山記」なるものもある。 
本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本(手で書き記した書物、写は書き記すという意味)や一般の読み物として流布したものとされている。 

時代が下って銀山が衰退する中、山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を編纂して幕府への貢献をアピールすることも行われたという。 
従って、誇張した表記も多く、真実性にはやや乏しいともいわれる。

その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500kg)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとある。 又、この頃の様子を「慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り」と記している。 

如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう。



一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算がある

16世紀後半から17世紀前半の石見銀の最盛期における産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1が日本の銀が占めていたといわれる。(世界生産量の平均は年間200トン程度)  

そして、その石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていたことは、戦国時代後期のポルトガル人によって石見が「銀鉱山王国」と照会されたことでも判る。 

石見銀山は灰吹法の導入からわずか35年後にして、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれていたのである。 


石見銀山の最盛期の頃は世界史でいう大航海時代にも当たり、西洋では日本とも交流をもったポルトガルやスペインを中心とした航海時代に突入した時代でもあった。 

海上交通や貿易などで人々が地球規模で交わり始めていた中、貨幣価値は世界的にも「」とされていた時代である。 

日本に伝わったとされる「ポルトガルよりの鉄砲伝来」や「スペイン人のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教活動」(いずれも16世紀頃)などにおいて、彼らの本来の目的は日本の「」にあったともいわれている。


石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではなく、人々の往来により、海外から新しい技術や産業などを含め、驚くほど多様な情報や文物が伝わり、当時の庶民生活を豊かにしたともいわれる。


次回は、引き続き「銀山の歴史


01. 15.

Google Analytics トラッキング コード