2017年11月16日木曜日

平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」


.
「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る。」 <アラブの諺>  






平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」   .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-172.jpg
写真(資料):三方五湖俯瞰



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-173.jpg
三方五湖の1つ「久々子湖」



国道27号の丹後街道から三方町、三方五湖へ向かった。 

先刻から若狭湾の入り組んだ入り江を見慣れた来たため、五湖の一角を眺めても入り江と錯覚してしまうほどである。

先般、身内親戚等と北陸旅行した際に五湖を訪れているが、周辺には展望ロードがついていて五湖を見下ろすのに最適地といわれる「梅丈岳」という高所から若狭湾や五湖の自然景観を眺め、その眺望の良さを充分堪能したのを覚えている。
そんな訳でもないが、今回は一湖でも二湖でもいいから美景を眺めて済まそうと思った。


国道より小浜線の気山という駅の手前から左へ逸れて、立派な地方道をゆくと名前は知らないが一つの湖畔に達した。 
すぐ横が小高い園地になっていて湖面が一望できる、右はるか前方は大きく開けて、若狭湾の大洋を示しているとすれば、ここはあるいは「久々子湖」なのかも知れない。 

久々子と書いて「くくこ」と読みたいが、湖(こ)を合わせると「くくここ」となって何か妙な読み方になってしまう。 
実際は、「くぐしこ」と称するらしい。 

湖面は微風に揺られて微かに小波が立ち、遠くの周囲は緑の小山に囲まれ、実に茫洋として気持ちがいい。  

なにか頼りなげになってしまったが・・、    


『 若狭なる 三方の海の 浜清みい往き 
               還らひ見れど 飽かぬかも
 』

と万葉集にも詠われている景勝地である。
 


五湖の関連性・・、

久々子湖や日向湖は直接外海とつながっていて、塩水混合湖、即ち、汽水湖になっているが、奥まった三湖も現在では人工的につながっているという。 

水月湖、菅湖は半汽水湖になり、最奥部の遠く離れた三方湖は完全淡水湖であるという。
久々子湖は昔は大きな若狭湾の入江であったが、東に流れる耳川によって海に運ばれた土砂が入江に堆積し、入口が殆ど塞がれてしまったことで久々子湖(潟)が誕生したという。 

対して他の湖は、地層の変化によってできた天然湖である。 
即ち、五つの湖は海水・汽水・淡水とそれぞれに違った水質や水深を持ち、また同じ汽水湖でも日本海に直接つながっている久々子湖と奥にある菅湖や三方湖、中間の水月湖ではそれぞれ海水と淡水の割合が違っている。 

そのため梅丈岳(三方五湖レインボーライン展望台)から見える景色は、五つの湖がそれぞれに違った青色をして見えるという。 
形成過程の異なる五つの湖は、濃さの違う青色に見えるので「五色の湖」とも呼ばれている。
 

三方湖、水月湖は、色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し出し、自然と調和していて家並みや湖を囲む低い丘陵、湖畔沿いの梅林など、緑豊かで穏やかな風情に満ちている。 

又、隣町の美浜町にまたがる久々子湖は、単調な砂浜と松林の続く久々子海岸、松原海岸に接している美しい景勝地で、北端の岳山から日本海と三方五湖を眺めることがでる。 

外洋に直結している日向湖は、以外にも周囲には急峻な山をめぐらし、あたかもすり鉢の底に水をたたえたような形である。 

日向湖北岸には山と湖にはさまれた狭い湖岸の山の陰に、細く長い日向集落が軒を連ね、漁村風景の趣が感じられる。 

それぞれの特性を持つ三方五湖は、若狭の景勝地として国の指定の「若狭湾国定公園」の代表的な地域である。



車を進めながら気が付いたが、湖の湖畔には延々と梅ノ木が、しかも奥行き深く植栽されていた。
梅林は三方五湖周辺全体に植えられていて、スケールの大きさは五湖周辺だけで7万本もの白梅の木(白加賀という品種・・?)があるという。 


梅の植栽は江戸末期、旧西田村の豪農・助太夫家と平太夫家の庭に、偶々(たまたま)、梅の木を植えたことから始まったといわれる。 

この梅は、両家の名にちなんでそれぞれ「助太夫梅」や「平太夫梅」と呼ばれ、品種改良を経て「紅映(べにさし)」、「剣先(けんさき)」などの名を付け、福井の地に定着したという。


又、湖畔に割烹や小料理店の「ウナギ」と書いてある看板が多く目立つ。 

ウナギといえば浜名湖の養殖が有名であるが、同じ汽水湖の三方五湖も条件としては同様で、やはり地域の特産、名物なのであろう。 


しかし、昔から梅干しとウナギは食い合わせが悪いものと言われていたはずだが、相反するものが同じ場所にあるのはなんとも奇妙である。 
だが実際、食い合わせが悪いというのは迷信であり、梅干しもウナギも真夏を乗り切るためには欠かせない、スタミナ食でもある。


次回は「敦賀

2017年11月14日火曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」


「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」 






平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」 .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-167.jpg
写真:神宮寺本堂




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-168.jpg
本堂横の霊水・閼伽水




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-169.jpg
霊水・閼伽水の名札




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-170.jpg
写真:鵜の瀬の清流




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-171.jpg
「お水送り」の神事



その神宮寺本堂の手前に霊水の井戸・「閼伽水」というのが、風格のある家屋に護られて巌(いわお)と共にあった。 

閼伽水(あかのみず)は、仏教において仏前などに供養される水のことで、この「霊水の井戸」は若狭・神宮寺の「お水送り」の行事に利用するという。
この「お水送り」というのは、三月に奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の行事に使われる聖なる水のことらしい・・?!。



「お水送り」の行事とは・・?、 

先ず、8世紀(752)年にインドの渡来僧・実忠和尚(じっちゅうおしょう)が「東大寺・二月堂」建立の際に、修二会(しゅにえ)という法要を実施したのが始まりといわれる。 

え・・ッ・!、東大寺は「お水取り」ではなかったの・・?、

この行法は東大寺の二月堂の本尊・十一面観音に向かって、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを願って祈りを捧げ、代苦者、つまり一般の人々に代わって懺悔(さんげ)の苦行を勤めるものである。 

この法会(ほうえ)は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになった。

又、二月堂の名もこのことに由来している。
これら一連の行法を、俗に「お水取り」とよばれ、11人の僧侶・「練行衆」が選ばれ執り行われる。 
奈良期の開祀以来一度も途絶えることがなく、平成16年(2004)で1253回を数えることになるという。


これは実際に現在でも行われている行法であるが、これには伝承もある。 
昔、実忠和尚が、東大寺二月堂・修二会の行法中、全国の「万の神」である一萬七千余の神名を読み上げ参集を求められた所、若狭の国・「若狭彦神社」の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが魚釣りに出かけていて遅刻してしまったという。 

諸神に其遅刻を咎められ、そのお詫びとして本尊に供える「香水」を若狭から送ると約束した。 そして、若狭神社において毎年3月2日、奈良東大寺・二月堂へ「お水送り」の儀式を行うことになったという。



若狭・神宮寺境内にある井戸から霊水を取り、遠敷川(おにゅうがわ)の「鵜の瀬」と呼ばれる場所から霊水を流す。 
こうして流された霊水は地下水脈を通って、奈良東大寺までたどり着くと信じられている。 

東大寺・二月堂の下にある「若狭井戸」は若狭の「鵜の瀬」から導かれたものとして、その名が付いている。 
遠敷川の上流部、神宮寺の更に奥の下根来というところに「鵜の瀬」という名所があり、夏になると子供がこの地で水と戯れるほどの清麗な流水がながれ、環境省の名水百選にも選ばれている。


現在行われている実際の「お水送りの」神事は、残雪が未だ見られる春まだ早き3月2日、先ず神宮寺本堂で「修二会」が営まれ、神宮寺・遠敷明神宮前では、弓打ち神事など祭事が行われる。 
夕刻からいよいよ「お水送り」の始まりで、神宮寺本堂の回廊から大松明を左右に振りかざす達陀(だったん)の行と言うのが行われ、大護摩(ごま)に火が焚かれる。 
白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かう。 

鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ送水神事の始まりで、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐ。 
そして、このお香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くとされており、よって奈良のお水取りは 3月12日に行われるのである。


過ぎる頃、東大寺・二月堂の「お水取り」は、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、3時頃に行なわれる行事であることは周知である。 
この「若狭井戸」からの「お水取り」の行法は、一度も欠かされたことがない行法で、所謂、「不退の行法」であり、根本香水の入った水壷は、1200数年前からの香水を入れるための壺ということになる。 


行事は、朝早くより多くの信者や群衆で溢れ、後はテレビの映像でお馴染みのとおり、11本の松明が次々と上堂・二月堂の欄干に集まった群衆に火の粉を浴びせかける。 
天をも焦がす勢いの大松明に歓声だけが夜空に響く最も華やかな、水と炎の祭りの一大ページェントである。 
この東大寺・二月堂の「お水取り」は、春の到来を示す行事ともいわれ、春の季語にもなっている。


『 水取りや 氷の僧の 沓の音 』  芭蕉(野ざらし紀行)
(厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。)


因みに小浜は、市内に点在する数多くの文化遺産から「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれているが、「お水送り」、「お水取り」という神事で、小浜と奈良は1200年の時を経ながら直接繋がっていたのである。



2017年11月4日土曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」


「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」  <松尾芭蕉(奥の細道)>






平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」   .





ところで、一般に神宮寺(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことである。

日本に仏教が伝来した6世紀中頃の飛鳥時代には、当然、神道と仏教はまだ統合される事はなかったが、奈良から平安期になり仏教が一般にも浸透し始めると日本古来の宗教である神道との軋轢が生じながらも、神社の境内に寺院(神宮寺)や僧形の神像が造られるなど、神々への信仰の中に仏教が浸透していった。 

又、神々が仏法を守護する神として仏教の下に取り込まれる(宇佐八幡宮が大仏造立に積極的に協力するなど )という形にもなった。
そこから“神は仏の仮の姿”であるとする「神仏習合思想」が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀り、営まれるようになった。 


日本では千年以上のもの間、神と仏の複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教という日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 
即ち、 神仏習合のはじまりが神宮寺の出現であり、越前国・気比大社の神宮寺や8世紀初頭の若狭国・若狭神社の神宮寺の建立はその先駆けをなすものでもあった。


早い話が、神社の霊、御魂は過去に偉大な功績を残し、その後に、記念としてその者を奉るに過ぎず、時々、お祭りをしてやればそれで良かった。 
そこには、尊大ぶった教えや、思想、哲学などは無く、通常はただジッと鎮座してれば良かったのである。 

しかし、仏教というという新しい教えや、思想なるものがいきなり入り込んできて、どうじゃ・・!、こうじゃ・・!と人の心の中の説教をしはじめる。 
人々はおろか神社宮司から神社の御霊にまで影響するようになり、神々が「私は迷っている、ぜひ仏法を聞きたい」などとも言って、神というものが仏教に取り入れられ、「権現」、「明神」といった、神性の仏になってしまったのである。 


八幡大菩薩」などといって、神仏がごちゃごちゃになってしまったのがいい例で、これが所謂、神仏習合思想である。 
そして有力な神社にあっては、神宮寺が併設され、寺僧が神に対して仏事で仕え、お経を上げるのである。 

つまり、神職より、僧の方が位が上がってしまったのである。 
これを一般に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言われて、これはなんと、凡そ1000年以上もの間、明治の神仏分離政策まで続くのである。


別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。 

神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義である。
奈良時代には、伊勢・大神宮寺、越前・気比神宮寺、常陸・鹿島神宮寺、豊前・宇佐比売神宮寺、出雲大社別当寺・鰐淵寺など、日本の主要な神宮を取り込んでしまう。 
その後も、寺院は寺領を拡大し、鎌倉期においては読経・教義そっちのけで武僧集団まで造ってしまうのである。 

そして戦国期、新風を吹き込みながら台頭してきた織田信長が寺僧の武力化、政治介入など余りの傍若無人さに業を煮やし、比叡山の焼き討ちや一向宗徒の撃破などで、一時的には退けることになる。 
しかし、信長の偉業・・?は、明治維新の神仏分離、廃仏棄捨の其と比べれば、まだ可愛いものであった。


元来、仏教が日本に伝わって以来、その形は日本の神々を取り入れ、神仏習合という独特の宗教文化を形作った。 
近年、一般に日本人は無宗教であると言われるが、実際は神仏信仰は生活のすみずみにまで浸透していて、盆や正月の年中行事のほか、占い・祭礼・お守り札などの多様な民俗信仰の形を現代においても継承している。 

これは日本特有の折衷文化、融合文化であるが、しかし、世界的に見ると異宗教間や他宗教同士では融合することは有り得ず、歴史的にも宗教戦争など宗教界あげて、又は国を挙げて他宗教を排し、合い争うのが常道だった。
これらの折衷文化は、日本人特有の特異(得意)な特性かもしれない・・!!。


次回は、「神宮時・お水送り



2017年10月31日火曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「若狭一の宮と神宮寺」



「着くことよりも、楽しい道中がよい」






平成日本紀行(203) 小浜 「若狭一の宮と神宮寺」   .







 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-163.jpg
 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-164.jpg
若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-165.jpg
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-166.jpg
神宮寺本堂と神宮寺・仁王門付近





海神(綿津見神:ワタツミノカミ)の娘、豊玉姫を祀る若狭姫神社と、豊玉姫の夫、彦火火出見尊(ヒコ・ホホデミ:山幸彦)を祀る若狭彦神社は、二社あわせて「若狭一の宮」と呼ばれる。 
祭神二神は海彦・山彦の神話の登場人物でお馴染みで、二人のあいだには鵜萱草葺不合尊(ウガヤフキアエズ:日向・鵜戸神宮)が生まれ、ウガヤの子、つまり両神の孫が神武天皇である。

若狭彦神社は畳、敷物の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も厚いという。
この訳は、豊玉姫が産気づいたので海辺に産屋を作ろうとし、茅草のかわりに鵜の羽を葺(ふ)こうとしたが、葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、その子の名を「ウガヤフキアエズ(鵜茅葺き合えず)」と名付けられたという、つまり鵜の羽の葺物、敷物の伝説に元ずいたものであろう。


若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。 
創建は、社伝によると和銅7年(714年)に両神が示した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。
そして下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)上社より分祀して創建されたとある。 延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、現在、祭事は下社・若狭姫神社で行われているという。


両神の鎮座する道に沿った更に奥まったところに、小浜・若狭地方でも随一と言われる古刹・「神宮寺」がある。 
714年(若狭神社と同一)の創建と古く、鎌倉初期には若狭神社の別当寺(神社に付属した寺院で、神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺の一つ)であった。 若狭随一の木造本堂が雄大な姿で座して居る。


若狭神宮寺は五木寛之の百寺巡礼の20番目にも記述されているほどの古寺である。
この寺の面白いところは、神仏を合わせ持っているのが特長てあろうか。 
山門や本堂には注連縄が飾られ、本堂内でも仏像と並んで若狭彦、若狭姫をはじめこの地にゆかりの神々の名が書かれた「神号」が祀られているという。 
参拝も神仏両用で、柏手を打って神様仏様を拝んでも良いらしい。


江戸末期までは三重塔など二十数の御堂が在ったとされるが、明治政府による神仏分離令、その後の廃仏毀釈の嵐で殆どを破壊されたが、しかし、本堂、仁王門など一部の建物は生き抜き、今でも神仏を合わせ拝む習俗が残っているともいう。


ところで、小浜の市街地や周辺地域に古い寺や神社が多いのは、朝鮮半島にも近く大陸の人や文物がこの地を経由して、鯖街道、御食(神や天皇に供進する食物、食事)の道を100キロほど先の奈良・京都へ運ばれたことと関連があるかもしれない。 


次回、「神仏習合



2017年10月29日日曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「後瀬山」





平成日本紀行(203) 小浜 「後瀬山」 .


http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-162.jpg
後瀬山(左の山)の麓にある空印寺(元、若狭の守護・武田家守護館)




鯖街道」は、現在の国道27号線の上中町より303号線、367号線となり、所謂、若狭街道と呼ばれる国道を、比叡山系から比叡山山麓、大原を経て京都に達する道である。 

運ぶ人達は『京は遠ても十八里』と歌いながら寝ずに走り、歩き通したという。 
尤も、広義には「鯖街道」とは福井方面から海産物を運んだ街道全てを指す場合もある。 

尚、小浜では当時のルート(福井県小浜-京都市出町柳間76キロ)を走り通す「鯖街道マラソン」というのが毎年開催されているらしい。 ルートの大半が未舗装路であり高低差も大きいことから別名、ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック(マラソン+ピクニック)とも呼ばれるとか・・。


『 かにかくに 人は言ふとも 若狭路の 
後瀬(のちせ)の山の 後も逢はむ君
 』

と、古くは坂上大嬢(さかうえのおおいらつめ・大伴家持の妻)が、「万葉集」に詠んだ後瀬山(のちせやま)である。 

この山は小浜の市街地のすぐ南にある山で、標高168メートルの比較的低い山というより丘である。

この後瀬山に戦国の世に相応しい山城が築城されたのは、大永2年(1522年)のことで、当時の若狭国守護・武田元光が、全国的にも飛躍をみせ、海外との貿易も視野に入れた小浜湊を望み、山麓に往来する丹後街道を掌握する要衝の地に、この城の縄張りを行ったとされる。 

城主は、築城した初代・若狭武田氏から八代元明へと継承されたが、戦国期、1568年(永禄11年)8月に越前朝倉氏の若狭進攻によって武田・領国は失うことになる。 

1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると、若狭を任されたのは丹羽長秀だった。
若狭武田氏が滅亡後は、織豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、後瀬山城は若狭国を統治する拠点として存続していた。 

やがて、関ヶ原合戦後に入国した京極高次(若狭国小浜藩初代藩主)によって後瀬山城は廃城となり、新しく築城された「小浜城」(東の小浜湾の海岸を背に、北川と南川に挟まれた中州に築城、水城:現、小浜神社近辺)にその役目が引き継がれることになる。


因みに、若狭武田氏は甲斐源氏武田氏と同族で、鎌倉政権発足時は甲斐守護であったが、「承久の乱」後に安芸の守護職も獲得、そして、元寇に際して初めて安芸に下国したとされる。 

武田元光は、1519年に父の元信が出家したため、家督を継承して第6代の若狭国守護となり、後瀬山城を本拠とした。

承久の乱」とは、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の死が発端となり、1221年(承久3)に起こった鎌倉幕府と朝廷との争乱である。 
皮肉にも実朝没後、源氏将軍の断絶を契機に、都では朝廷(後鳥羽上皇)が権威挽回のために乱を起こしたが、幕府側が勝利した事により、幕府は朝廷を含め当時の日本全国を掌握することになった。



古来より日本海側の諸国の物資を京都へ運ぶ中継港として栄えた小浜であるが、室町期、若狭武田家の守護舘は現在の「空印寺」の境内あたりにあったとされる。 

空印寺は、若狭の守護・武田元光が守護館とした場所で戦国末期、小浜城を築城するまでは、この地が小浜の政治の中心地であった。 
江戸期には、小浜藩・酒井家の菩提寺でもあった。

城址である後瀬山からの眺望は、眼下に西流する北川と南川が一望のもとに眺められ、その南川の河口には、諸国の産物で賑わう天然の良港小浜湊が望める。

こんな、小浜の豊かな風土と文化は、今日の町社会にも少なからず影響が残っている。 


小浜西部地区の後瀬山周囲には、歴史的建造物や町並み保存地区が並び、数多くの歴史と由緒ある寺院が点在する、否、密集していると言ったほうがいいかもしれない。 

著名な寺院が、その数合わせて50とも60ともいわれ、正に寺社だらけで、若狭の海のある小奈良、小京都といえる所以である。

又、小浜には、現在も「四社参り」と称して由緒ある神社へ市民がお参りする習慣が続いているという。 
氏神の「八幡さん」、火の神の「愛宕さん」、水の神の「瀧の天神さん」と「神明さん」 と、生活に密着した社宮がある。 

更に、これとは別に小浜・宮の前地区には、神話時代からの伝説的神社、若狭の国の開祖神、総鎮守とされる「若狭一の宮」が鎮座している。


小生は、ここ若狭一の宮を訪ねることにした。
国道27より案内にしたがって山手の方向へ右折すると間もなく先ず、「若狭姫神社」があり、更にその奥に「若狭彦神社」が鎮座していた。 

両神とも、山裾の静寂な田園地帯に建ち、鬱蒼とした鎮守の森に鎮まっていて、神霊を感ぜずにはいれないほどである。 

若狭姫神社境内へ入ると、手水鉢に美しい水が溢れて、広葉樹の森を背に建つ拝殿脇には樹齢千年といわれる千年杉が聳えたつ。


次回は「若狭一の宮


2017年10月27日金曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「鯖街道」


.「旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」 
<イギリスの諺>





 平成日本紀行(203) 小浜 「鯖街道」  .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-161.jpg
小浜市内、鯖街道起点の路面表示





舞鶴を後にして、国道27号線、通称、丹後街道を行く。

舞鶴から若狭へ抜ける半島を横切るようにして、若狭の小浜方面に向かう。 
青葉山系のトンネルは既に京都府と福井県との県境に位置していて、抜けると福井県である。 
その最初の町が高浜町であるが、暫く行くと若狭の素敵な海岸が広がっていた。 
更に、大飯町(おおいちょう)の小浜湾もなかなか結構な海岸であり、和田の青戸の入り江などは鏡のように静かである。 

それもその筈で、小浜湾が鋸崎、松ヶ崎といった両岬に挟まれた狭い湾口の奥に小浜湾があって、その又西側の奥へ細長く入り込んだ青戸入を形成しているためである。
尤も、若狭湾そのものが日本海側では珍しい海と陸とが交互に出入りする、大規模なリアス式海岸になっているのが特徴である。


若狭本郷の駅前を過ぎると、間もなく対岸を結ぶ巨大な橋が見渡せる。 
静かな若狭湾が更に深い入江となっている青戸入江の付け根に架かっているのが青戸大橋で、海上橋が国道27号と大島半島の犬見崎を結んでいる。 

かつて陸の孤島と呼ばれていた大島半島の大島地区と本土・JR線などを最短で結んでいる。
生活には非常に重要な橋であろうことが伺える。


静かな若狭湾に点在する各港は古来より良港で、(サバ)などの魚介類の水揚げ地でもあり、しかも京都にも近いため丹後街道、若狭街道などは、いわゆる「鯖街道」とも言われていた。 
その最も良港の一つである、小浜湾の東に位置する小浜市に入って来た。


小浜は歴史と伝統が息ずく町である。
古代から日本海を隔てた大陸との交易が開け、日本海側屈指の要港として栄え、陸揚げされた大陸文化や各地の物産は所謂、鯖街道などを経て、近江、京都、奈良にもたらされた。 

それらの証しとして小浜の大陸とのつながりは、市内に点在する数多くの文化遺産からも伺い知ることができ、即ち、「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれてる。


小浜には「鯖街道基点の印」が今も残る。
市内のいづみ町商店街内に、その起点プレートがある。 
ここが鯖街道の始まりで、小浜から熊川宿、朽木を経て、京都へ18里、約70kmであった。


若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた
と古来よりいわれたという。 

因みに、昔の鯖は今と全く比較にならないほど大量に獲れ、体形も大きく、一般庶民、特に都人にはに喜ばれたという。 
このため鯖を担いで走る街道を、いつしか鯖街道の名が付けられたという。 

しかし、鯖は一つの代名詞にすぎず、その他、多種の海産物などが運ばれたのは当然で、いわゆる北前船から陸揚げされた物資も盛んに輸送され、この中には日本海の塩も加わり、別名、塩の道でもあったという。 

小浜は、鯖街道である“食の道”の他に政治の道、軍事の道、特に文化の道でもあった。 
特に大陸文化の交流、渡来品も盛んで、室町時代には南蛮船が小浜へ””をもたらした史実などがあり、遠く南方との交流をも覗かせるという。


近年、差別用語として余り使われなくなったが、つい最近までよく用いられた「裏日本」という言葉があった。 

そのイメージは暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせた。 

しかし、雪の国・越後新潟の項でも記したが、この裏日本という用語は僅か百年ばかりの歴史しかなく、この日本海に面する越の国を含む一帯は、大昔より、まさに国土の表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもあった。


次回も小浜の「後瀬山


2017年10月26日木曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」




  平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」  ,





引揚者、そして戦争難民とは・・?! 、

一般に、満州からの集団引揚げは1946年春から一時期の中断を含め、尚連続して行われていたらしいが、しかし中国内戦が激化したことや、その果てに中国大陸を支配した中国共産党政権が樹立することによって中断された。 

日本政府はこの間、中国と国交を結ばなかったという背景もあり、1958年には集団引揚げは打切られ、家族には不明家族の死亡宣告を迫り、そして残留者保護対策の終息を図った。


日中国交正常化から9年後の1981年頃より、再び、彼らの多くは日本での肉親を探し始め、やがて肉親探しよりも日本への帰国を目的とするようになった。 
彼らが次第に中国残留孤児や中国残留夫人と呼ばれるようになり、帰国のための調査、面談が行われるようになったのは承知である。 

中国残留の人々は、小生達(引揚者)とは異なった“次元”(一時、外地・中国での生活を強いられた人々)で大変な苦労をされた方々である。



そのことについても一言、記しておきたい
「満州国」崩壊と難民化:、主として拓務省および関東軍との関わりについてである。

拓務省とは、1929年から1942年にかけて設置された省で、拓務大臣(たくむだいじん、拓相)を長とした行政組織である。 

当時、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖などの業務監督、海外移民事務などを担当した。
中国残留孤児や中国残留婦人とは、「昭和の屯田兵」、「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」などと強調、賛美されて満州への移住を勧められ人々である。 

戦時下の現地(満州国の開拓期)では、兵役のため召集(18~45歳男子)された父や兄弟や夫からは切り離され、殆どは女性、児童、高齢者しか村には残っていなかったのである。 

そんな中、内地では敗戦濃厚となっていた終戦間際、満州では突如としてソ連軍が侵攻してきてソ連兵や中国の現地民に追い立てられ、鉄道等の避難経路へのアクセスが困難な地域では、住民たちは戦争難民になった。 

尚且つ、付近に駐屯していた関東軍がいたにも関わらず、満州国防衛はおろか、人民を放棄して撤退していった。
その関東軍に置き去りにされ、指定された避難所への集結をめざして徒歩による逃避行となった。 

当然ながら逃避行の途中では攻撃・略奪・暴行による多数の被害者および自決者・落伍者を出し、たどり着いた難民収容所では飢え、寒さ、伝染病等に苛まれ、死ぬか生きるかという切迫した状況の下におかれた。 


人々の中には現地人(主に中国人)に招かれたり、拾われたり、もらわれたり、買われたり、さらわれたりするかたちで妻あるいは養子として現地の家族へと統合されていった児童や女性もいた・・!。


これら満蒙開拓民(中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称)として渡満した人々が、そうでない人々よりもどれだけ「艱難辛苦の砂を食わされた」かを指し示す資料として、満州開拓史刊行会(1966年版)を参考にした数字が下記に表される。



開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異

A:終戦時在満邦人数(関東州を含む)
B:敗戦に基づく一般邦人の死亡者数
C:何人に一人が死亡したか
D:死亡指数(非開拓民比)

「全体」   「開拓民」   「非開拓民」
A:1550000人   270000人   1280000人
B:176000人   78500人    97500人
C:8.81人      3.44人     13.13人
D:1.49倍      3.82倍      1.00



岸壁の母』 歌・双葉百合子 詞・平川浪竜 曲・藤田まさと

母は来ました 今日も来た 
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

呼んで下さい おがみます
あゝおっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
何で遠かろ 何で遠かろ
母と子に


(台詞)
また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない…
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか…
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ…。
帰れないなら大きな声で…
お願い…
せめて、せめて一言… あれから十年……
あの子はどうしているじゃろう。
雪と風のシベリアは寒いじゃろう……
つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて……
この肌で温めてやりたい……
その日の来るまで死にはせん。
いつまでも待っている……


悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ


(台詞)
ああ風よ、心あらば伝えてよ。
愛し子待ちて今日も又
怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……



次回は「小浜・鯖街道」

.

2017年10月25日水曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚当時の私的回想」



「旅から戻ってくると、故郷の煙さえも甘く気持ちのよいものである。」
グリボエードフ(帝政ロシアの外交官・作家・作曲家)




  平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚当時の私的回想」   .




ここで、勝手ながら小生の幼少時分の満州から引揚状況を、「記憶を振り絞って」思い出してみた。
 
大陸、特に中国東北部を、戦中は通称・「満州」(満州国・日本の傀儡政権国家ともいわれる)と呼んでいた。 
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を契機に日本が占領し、翌1932年から1945年までは日本による傀儡国家(かいらいこっか)・満州国が建国された。 

満州国は、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ:映画、「ラストエンペラー」で知られる)が13年の間にわたって元首としていたが、1945年8月、第2次世界大戦終結直後にソ連軍が満州に侵攻、日本の敗戦と同時に消滅している。 

尚、翌年の1946年には、ソ連は占領した満州地域は中華民国(現、中国)に外満州を除いて返還している。
 


さて、私事であるが

親父が満州の「南満州鉄道」へ就職し赴任したのは昭和12年の頃であろう・・?、小生は昭和14年に満州・奉天(今の中国・瀋陽)で出生している。 

満鉄職員ということで、比較的安楽で普通以上の生活をしてたらしく、中国人やロシア人を家へ招いては茶会や麻雀などを楽しんでいたようである。

小生が物心ついた小学生入学当初、この頃から戦争の影響が次第に生活の中にも入り込むようになり、灯火管制など電灯に黒幕を被せて部屋を暗くして静かにしていたり、非常時の場合に備えて非常用具や防空頭巾などが手元に有ったのを覚えている。 
又この時期、不幸にも実母と妹を病(結核)で亡くしている。 

警戒警報や空襲警報が盛んに発令されるようになって、当時、鉄筋コンクリートの三階建ての官舎に住んでいた我々も、遂に地下の防空施設に避難するようになった。
 

ある日、地下で待機している時、ズーン、ズシーンという地鳴りのような音が聞こえたかと思っているうちに、突然、物凄い爆発音がして地下室が振動し、上から物が落ちるほど揺れた。 親父が仕事で不在の中、小生は弟・二人で近所の人に抱きかかえられながら泣きじゃくっていたという。 

警報が解けて表へ出ると、真向かいにあった床屋さんが大きな穴の中に屋根から真逆さまになって突っ込んでいて、大いに驚いた・・!!。 
大人たちが「1トン爆弾が落ちた」などと話していたのを今でも記憶している。 

それから後、数日間は静かな日々が続いたようだが、(この時期、既に日本の敗戦が決まっていたらしい)ある日突然、予想もしないことがおこった。 
親父が「ソ連が攻めてきたらしい・・!」といって官舎の人全員に呼びかけ、取るものも取り合えず駅まで誘導し、我らも防空頭巾を被って貨物列車に乗り込んだのである。 

後は、奉天駅(現、中国瀋陽)から釜山(ふざん・プーサン)へ来たことは覚えているが、途中の長い道程(みちのり)は記憶が無い。
 

建国当時、南満州鉄道(満鉄)は満州国が成立すると、日本から朝鮮半島、中国大陸へ向かう需要が急増していた。 
東京、大阪方面からは、主要幹線である東海道本線、山陽本線が其々の地方を経由しながら下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山へ、更にそこから朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)へと乗り継ぐルートが最速であり、これを弾丸列車と称していた。 
中国大陸・満州へは奉天から新京(現長春)、大連、旅順などを結ぶ。

以上のことから、親父が満鉄職員ということもあり、奉天から朝鮮半島を経て釜山へは重要幹線ということもあって、比較的容易に来れたようである。 
因みに、親父の満鉄での業務は、旅客関係ではなく保安・保線関係の現場技術的な仕事であったため、比較的早めに解放されたらしい。 
奉天~釜山は、概ね東京から下関の距離で凡そ1100kmある。


釜山からは貨物船に乗せられて(載せられて)舞鶴に向かったのであるが、船中の居場所は船底の貨物室で、人々はごった返し、筵(むしろ)の上に居たのを記憶している。 
又、この時、小生が甲板付近で遊んでいる時、階段から転げ落ちて右腕を骨折してしまい、船医による応急処置をした後、東京の東大医学部で手術したが、あと数日遅れたら腐食して右腕を切断する羽目だったという・・!。 

未だ3歳の弟と小生の幼少の二人を引き連れ、上陸してからは舞鶴からはるばる東京へ向かうのであるが、おまけに上の子(小生)は怪我で半病人の身であったことからして、親父の労苦が偲ばれるのである。 


この間、東京・足立の親類(叔母・父姉)で厄介になり、その後、親父の実家である福島県の石城郡磐崎村白鳥(現、いわき市白鳥町)へ戻り、同村及び隣町の湯本町で敗戦の辛苦を味わいながら、少・青年期を過ごすのである。 
幼少のみぎり、上陸した「舞鶴」という地名は確かながら、当時の詳しい様子等それ以外の事は残念ながら全く記憶に無い。
 

子供時代にNHKで「尋ね人の時間」というのがあった。 
”どこで・・、何をしていた・・、誰々さんを・・、誰々さんが探しています”、という内容を次々と読み上げていた。 

この時、「旧満州」という言葉がよく出てきて、その頃は何とも思わず聞いていたが、今思うとあの頃は戦後の混乱期がまだ続いていて、あのような番組が相応に役に立っていたことが判るのである。 
その番組も、気が付かないうちに無くなっていたが。
  

次回は「引揚者と戦争難民


2017年10月24日火曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「戦後の引揚港」





平成日本紀行(202) 舞鶴 「戦後の引揚港」   .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-158.jpg
引揚記念館




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-159.jpg
『異国の丘』・歌碑




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-160.jpg
復元された引揚桟橋





小生家族も世話になった、舞鶴・「引揚港と桟橋」・・!! 、

舞鶴港は、戦中は旧海軍の軍事的拠点として使用されていたが、終戦直後は大陸に進駐していた軍人、軍属や一般人の日本本土への引揚、および日本に在留していた中国、朝鮮人の送還のための指定港の一つとなった。 

さらに、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国へ(当時の日本領、小生の出生地)侵攻したソ連軍によって捕虜になり、シベリアに不法抑留されていた旧軍人についても舞鶴へ帰還している。 


他港が早々に引揚港から除かれたため、これら引揚の人々の殆どが舞鶴港を入港先・帰還港とした。 
これに伴い、日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。


昭和20年から33年まで13年間にわたり、凡そ、66万人余りの引揚者と1万6千柱の遺骨を迎え入れた引き揚げの町・舞鶴である。 
その当時をしのぶ建造物は残っていないが、港を見下ろす小高い丘に、戦争を語り継ぐ平和のシンボルとして、昭和45年「引揚記念公園」、同63年「引揚記念館」が建設された。



この記念館には辛い抑留生活、生きて祖国へ帰り着いた再会の喜び、遺骨の帰還、帰らぬ人を待つ家族など、そして、その展示は戦争を知らない世代にも胸を打つものがある。 

引揚の丘公園の展望台からは、眼下左手に湾を横断するモダンな大吊橋が時の流れを消すかのように光っている。 
又、北側には、引揚げ時に上陸したと思える復元された木製の記念桟橋跡らしいのが見える。その引揚桟橋まで降りてみると、釣りをしている人しかおらず、いかにも平和な感じである。 だが「引揚桟橋」の文字と脇に立つ「平和の鐘」を見ると、一顧の念に駆られるのである。



昭和20年8月15日、(日本の降伏の日)終戦時海外にいた日本人は、極東、シベリア、中国、朝鮮、ヨーロッパなど軍人350万人、一般邦人310万人、合わせて660万人にのぼったという。 
この日本兵及び一般邦人達は、短期間のうちに日本へ引き揚げることを強制されることになり、日本では、舞鶴、浦賀、呉などの主要港がこれら日本兵の受け入れを許可し、それから約13年間の長きに渡り、日本兵の引き揚げ業務が行われてきた。


この引き揚げのニュースを聞き、舞鶴などの引き揚げ受け入れ港には、全国から大勢のの肉親達が集まり、平引揚桟橋にて息子や夫・肉親などの帰りを待った。 
中には、既に海外の戦地で戦死してしまった夫の帰りを待つ妻、最愛の息子を長く待ちつづけたが無念の想いで死んだ母など、悲しい歴史が沢山ある。 
中でも、菊池章子、二葉百合子らによって歌われた「岸壁の母」は余りにも有名である。

これら流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、「端野いせ」という名の女性であった。 


「端野いせ」は石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)の出身で、息子である「新二」は軍人を志し、昭和19年満州へ渡って入隊し、同年ソ連の攻撃を受けて中国・牡丹江にて行方不明となったという。 
終戦後、端野いせは東京都大森に居住しながら生死を知らされないまま、新二の生存と復員を信じて昭和25年1月の引揚船初入港から以後6年間、引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立って待つ続けたという。 

時は過ぎ、「新二」に関して昭和29年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日、牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行した。 
その後、端野いせは「未帰還兵の母」として、昭和51年9月以降は高齢と病のため通院しながらも生計をたて、息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で亡くなっている。

しかし、である・・、
端野新二は実際には生存していたらしい。

終戦後、ソ連軍の捕虜となってシベリアへ抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍、その後レントゲン技師の助手などをしながら上海に居住し妻子をもうけていたという。 

新二は、母が舞鶴で待っているということを知っていたが、帰ることも、又、連絡することも無かった。 

理由は様々に推測され、語られているがはっきりしないという。
因みに、日本から船を外地の主要港湾に派遣し、海外にいた一般邦人をまとめて内地へ連れて帰るのを「引揚」とよび、軍人については「復員」とよんだ。 以下、これをまとめて引揚者、引揚船と称した。 

尚、小生の家族も満州引揚者ということで、この中の一員になっている・・!。 
このことは次項で・・!、 



軍歌・『異国の丘』 

今日も暮れゆく異国の丘に 
友よつらかろ切なかろ 
がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ 
帰る日もくる春がくる

今日も更けゆく異国の丘に 
夢も寒かろ冷たかろ  
泣いて笑って唄ってたえりゃ   
望む日がくる朝がくる




次回は、「私的引揚げ体験の回想」


2017年10月23日月曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」


.




   平成日本紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」    .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-155.jpg




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-156.jpg
舞鶴軍港に停泊中の護衛艦群
舞鶴軍港に停泊中の最新鋭護衛艦・「すずなみ」





宮津の町から岬付け根の粟田トンネルを抜け、粟田湾から由良川沿いを南下する。 
八田の交差点を左折して由良川を渡り、小さな峠を越えると間もなく舞鶴の港である西港の大きな埠頭が目に入る。   


舞鶴港は、日本海における重要港湾の一つとして位置付けられ、現在は大きく二つの港に区分されている。 

この西港は対中国、韓国、ロシアなど対岸諸国への定期コンテナ航路をもつ国際貿易港としての機能分担をもち、中でも、現在、拉致などの諸問題を抱える朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の清津港(チョンジン・日本語・セイシン)の航路も開かれているが・・?。 

そしてこの先の東港は、近畿圏と北海道を結ぶ長距離フェリーを中心とする国内貿易港としても利用されているが、主に海上自衛隊の軍港として使用されている。 



一旦、西港から離れて次に東港へ向かう。 
舞鶴港は西の金ヶ岬、東側が博奕岬(ばくちみさき・・?)に挟まれた狭い湾口を成していて、その地形から湾内の干満の差が極めて小さく、四方を3~400m級の山で囲まれていることから、強風や荒天をも避けることもできる。 
また日本海から湾内を目視する事ができないため、天然の良港としても重要視された。 


このような地形的に優位な舞鶴港は古来より開かれ、江戸期には北前船の寄港地として貴重な存在となり、日本海側でも有数の商業港として栄えていた。 

だが、北方において軍事色が濃くなる明治期には、日本海側唯一の海軍の舞鶴鎮守府が開府し、軍港として飛躍的に発展してゆくことになる。

日露戦争の際、その殆どの船がここから出港したことは有名であり、当時の海軍記念館も存在している。 
昭和の戦時期は、更に東港が軍港として整備され、戦後も海上自衛隊基地として現存している。


現在の舞鶴港はロシア、中国、韓国との航路もでき、そして北朝鮮との貿易港としても期待されていた。 
しかし北朝鮮の不審船事件や、その他の不穏な動向により舞鶴の海上自衛隊は更に増強されているという。 

軍港は、海上自衛隊の舞鶴地方総監部(戦前の鎮守府にあたる)として、イージス艦、給油艦、護衛艦などの海軍基地として、昔のように整備されつつあるという。 
舞鶴港の歴史は、そのまま日本の歴史を見るようでもある。


因みに、現存する国内の主要な軍港は、北から北海道・むつ市の大湊港、横須賀港、呉港、佐世保港と舞鶴港である。 

そして、日本の戦後の歴史としては舞鶴東港は何といっても引き揚げの港として著名である。 
実は、小生も戦後満6歳の時に、この港に上陸した「満州引揚難民」の一人なのである・・!。
(このことは後ほど・・、)


港の公園からは蔦を絡ませた赤煉瓦の堅固な倉庫も見えてる。 
横浜の赤煉瓦倉庫とは異質な 雰囲気に満ちた建物で、ここは旧日本海軍の軍需施設として使われたもので現在でもその面影は色濃く感じられる。 

今実際は、赤レンガ博物館や市政記念館・また海上自衛隊の補給所などとして使われているようである。 
公園からは更に海上自衛隊の埠頭が臨まれ、各種軍艦(自衛艦、護衛艦)が常駐停泊していているのが伺える。


一旦、街中を通って湾の東側を北上する。 
広い自衛隊基地、日本板硝子の敷地を過ぎると間もなく小高い公園風のこざっぱりところに「引揚者記念館」があった。 
近代的な堂々たる建物で、一つの歴史的記念施設でもある。


次回、「舞鶴引揚港

2017年10月21日土曜日

平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2)



旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。 」  (アントニオ・マチャド;スペインの詩人)





  平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2)  .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-154.jpg
林春斎の三景碑(天の橋立)



海岸へ出ると間近に砂州と松林が延々と対岸へ延びている。 
その景観は海と緑が対象の妙をなし、確かに、その美しさは人々の心の琴線に触れるものであろう・・!。 
海に囲まれた国、日本を象徴するこれらの絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵である。 

天橋立は古き時代から数々の歴史の表舞台にも登場し、和歌や文学にも登場してきた美景であり、いつの世も代わることなく人々を魅了し続けている。 
日本人の旅心の原点でもあろう。

一例として良く知られる百人一首の「小式部内侍」(こしきぶ の ないし・平安時代の女流歌人、母は和泉式部)の歌で・・、

大江山 いく野の道の 遠ければ 
           まだふみもみず 天橋立
』 がある。

又、その母である和泉式部も・・、
橋立の 松の下なる 磯清水 
           都なりせば 君も汲ままし
』 と吟じている。  

人をして 廻旋橋の 開く時 
          黒くも動く 天橋立
』   与謝野晶子

はしだてや 松は月日の こぼれ種』   与謝蕪村

などもある。



松林の一角に古式の文字で「日本三景」の碑が建っていた。
碑には、『丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す』  林春斎
と刻してある。

御存じ、「天橋立」は日本三景の一つである。 

日本三景とは、ここ京都府宮津市の「天橋立」、宮城県松島町の「松島」、そして広島県廿日市市の「厳島(宮島)」の三つの名勝地のことである。 

これには所縁があって、江戸期の儒学者・「林春斎」が全国を行脚した際の著書「日本国事跡考」に著述されていて、三景石碑に記された文面の如く、我国の卓越した三つの景観としてと書かれたのが始まりと言われている。


ところで、これら三景の地には同じ様な文字の記念石碑が建てられているというが、面白いのは其々紹介する場所で、刻した順序が違っていて、天橋立では林春斎の原典通りの「天橋立、松島、宮島」(冒頭写真)、松島では東から「松島、天橋立、宮島」、厳島では西から「宮島、天橋立、松島」の順となっているという。 

尚、2006年、天橋立、松島、宮島の日本三景観光協議会では、林春斎の誕生日の7月21日を日本三景の日と制定している。


林春斎は、幕府の仕事として全国をかなり広範囲に行脚したようで、その見識の上で日本三景を選出したようである。 
当時の江戸期の国内事情から考えると、日本三景を死ぬまでに全てを観光したという人はかなり限られていたと思われ、現代においても日本三景の総てを見たという人は案外と少ないどころか、「日本三景は、其々何処に在るか・・?」とすんなりと地名が出てくる人も案外と少ないのではなかろうか・・?。

幸いというか小生の場合、日本一周を旅するに及んで他の「松島」、「安芸の宮島」(厳島)、そして、ここ丹後の「天橋立」の地を訪れたことで、日本三景勝地を巡ってことになる。  

因みに、日本三景にならって実業之日本社主催による「新日本三景」の選定が行われ、全国投票の結果北海道七飯町の「大沼」、静岡県清水市(現静岡市)の「三保の松原」、大分県中津市の「耶馬渓」が選ばれているという。


林春斎」は、江戸時代前期の儒学者、父はあの林羅山(家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなる、2代将軍徳川秀忠・家康の三男に講書を行う)で、名は又三郎・春勝、号は鵞峰(がほう)で、父とともに幕府に仕え、幕政に参画していた。 
三代将軍・徳川家光に五経(四書五経:ししょごきょうともいい、儒教の経書の中で特に重要とされる九種の書物の総称)を講義し、訴訟関係や幕府外交の機密にもあずかった。 又、日本史にも通じ、父羅山とともに「本朝通鑑」(江戸幕府により編集された漢文体の歴史書)、「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における歴史的書物の編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた人物でもある。


次回は「舞鶴


2017年10月20日金曜日

平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」



「さすらいと変化を愛するものは、生ある者である。」
(ワグナー)



平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」 .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-152.jpg
文殊堂山門




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-153.jpg
回旋駆動中の廻旋橋(正面道路から切り離されている)






伊根の風景を満喫し写真に収めて、来た道の国道178を折り返す。 
序に先ほどとは反対側に位置する「天橋立」の南側へ立ち寄ってみた。 

こちらは賑やかなメイン観光地らしく、北側の静けさと違ってお土産店も多く並び、人通りも多く、智恩寺という由緒ありそうな寺院もあった。 
そこの豪壮な山門の奥に「文殊堂」という本堂があった。


日本三文殊の一つだそうで文殊菩薩の霊場、智恵を授かる文殊さんとして有名で、受験や資格試験などの受験生にご利益があるという。 
文殊菩薩は、昔からの喩えで「三人寄れば文殊の知恵」でもお馴染みの知識の仏様で、普賢菩薩とともに釈迦如来の左側の脇侍をつとめ、(この三体を釈迦三尊という)単独でも広く信仰されている。 


文殊は、右手に剣を抱え、左手に知恵の象徴である蓮華経巻を持つ、そして獅子に跨った姿が一般的である。 
経巻は智慧の象徴、剣はその智慧が鋭く研ぎ澄まされている様、獅子はその智慧の勢いが盛んであることを表現しているという。
 

ところで「文殊」は実在の可能性が高いとされる菩薩だともいわれる。
智恵・理知の働きの実例として、釈迦の弟子たちの中で非常に聡明で大乗仏教の奥義にも通じていたとされる維摩居士(ゆいまこじ:維摩経)という人物がいて、彼に議論を挑んだが殆どの者が次々とやりこめられたという。 
しかしただ一人、文殊菩薩だけは対等に論議することができたという。


尚、居士(こじ)とは、出家をせずに家庭において修行を行う仏教信者の事であり、居士の語源は「家に居する士」である。 
普通の信者と異なる点は、仏教学の知識・実践において僧侶に準ずるか、或いは匹敵する程の力量を持っている修者のことである。 

日本においては、その道に通じ、奥義に達した者として居士が与えられて者もいる。 
剣豪・山岡鉄舟や仏教学者の鈴木大拙、西田幾多郎等々であり、現在でも居士号を取る程の修行を積んだ人の中には、剣道や弓道の達人がいる。 
戒名における居士号は法名の敬称の一つであるが、ただ、江戸時代には百姓農民につけるのは禁止されていたという。
 


右手の廻旋橋を渡って天の橋立へ向かう。
たまたま、観光船が通るところで、欄干を朱色に染め上げた「廻旋橋」がゆっくりと90度回転している。 
これで船の通路が確保でき、小型船(漁船)や観光船の通行が出来るようになるのである。 この観光船は対岸の一の宮・籠神社へ10数分かけて、天橋立を見物しながら往来しているらしい。

因みに、この廻旋橋を渡ったところが細長い1つの島になっていて、これを「小橋立」と称している。 
更に次の橋を渡ったところが「大橋立」といって、そこには約7000本の松の木が繁り、幅20から170mほどの砂嘴(さし)が3.3kmほど続いていて対岸の丹後一の宮・籠神社に達している。


次回も「天の橋立



2017年10月19日木曜日

平成日本紀行(200) 伊根 「伊根の舟屋」




この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが帰りはない」<吉川 英治>





平成日本紀行(200) 伊根 「伊根の舟屋」 .






http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-150.jpg


 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-151.jpg
伊根の舟屋(2枚)




丹後半島の先端「伊根」を目指す・・、

海よりの国道178から望む宮津湾は長閑で実にいい。 
養老地区からやや内陸に入ってトンネルを抜けると伊根の街である。
だが、目的地は更にこの先である。 

更に、伊根湾沿いの海岸を行くと、湾に浮かぶ青島の姿がホンノリしてて景観を造っている。小学校の手前から細い路地をゆっくり進むと、舟屋の路地裏らしく合間に海辺の舟屋の姿が見え隠れしている。 

波止場の一角に着いた途端、入り江に湾曲した舟屋の全体の姿が望めた。 
伊根町は複雑な海岸線と深い伊根湾から成る港町で、伊根湾の周囲5kmには約230軒の船のガレージ、「舟屋」が建ち並んでいる。 
その風景は誠に壮観であり、伊根町独特の詩情を漂わせている。



伊根は、古くは「伊禰の浦」と言い、その名称については古代から呼ばれていて、西暦初頭の古文書にも「伊禰の浦より貢を奉る」ときされてあるらしい。 
古くから丹後地方の漁業の中心地であり、湾口に青島を浮かべ、波静かな伊根湾に集落を築いたという。 


元禄2年、当時の学者、貝原益軒(かいばらえきけん)が書いたといわれる「丹後与謝海図誌」によると・・、

『 伊禰の浦は・・・名也、伊根は惣名にして凡、日出より亀島村まで入海の裏向なり、晴岸の勝景なり。丹後鰤というのは此処にてとる。鯨などもとる也。 』 
と記されており、徳川中期の頃まではイルカ、鮪、鰹、鯨等も盛んに捕っていたらしい。


海辺に独特の造作を施してある魚民家・「舟屋」は、江戸時代中期頃から存在しているという。 
昭和初期には大部分が二階となり、何時でも舟が出せるように若者が寝泊りし、青年同士の交流をする場にもなり、これを「若衆宿」とも呼ばれた。  

この舟屋は海面すれすれに建てられているので、満潮時ともなれば、あたかも家が海に浮かんでいる様な景観となり、全国にも珍しく、波の荒い日本海では他に見ることのできない詩情を漂わせる。


舟屋の構造は、土台や柱は「椎」の木を用い、梁(はり)は松の原木を使用してがっしりと組んであり、舟屋の間口は二隻引、三隻引といって、まちまちの大きさがあるが、どの舟屋も「妻入」(対語:平入)姿をもち、海側に小さな一定の窓が見られるのも特色の一つである。

舟屋は元来階下に舟を引き込み、二階は縄や綱などの漁具を置く物置場であり、雨や雪の多いこの地では、網の干場でもあった。


現在の舟屋は往時の面影はなく、舟の格納のみにとどまらず、構造空間を巧に利用して一階は舟揚場、物置、作業場をもち、出漁準備、漁具の手入、魚干物の乾場、農産物の置場等多種多様に使用されている。 
又、トイレ、浴場等も作られているて所謂、二次的な生活の場ともなっている。 

最近では伊根の集落や舟屋は、観光的要素をもつようになり、そのため二階は客間などに改造され、数は少ないものの民宿なども営まれているらしい。 

或る民宿経営者は、「海に接している舟屋の一夜」を体験できるのは良いが、中には寝相が悪かったり酒に酔った人などは、いきなり海へ落ちてしまいそうで心配でもあるともいう。


舟屋の立ち並ぶ湾内をじっくりと眺めるには遊覧船がよく、沖から「かもめ」と一緒に「舟屋」や「青島」の素晴しい光景を約30分ほど楽しむことが出来る。

1993年4月からのNHK朝ドラ『ええにょぼ』が放映された。
主演の宇佐美悠季に戸田菜穂、 夫に榊原利彦の物語で、 宇佐美悠季の実家がこの伊根の舟屋であった。


ところで、この度水産庁は「未来に残したい漁業、漁村の歴史文化的財産百選」、所謂、「漁業漁村百選」を発表した。 
漁村に残る歴史的・文化的に価値の高い施設や現在では貴重な工法や様式の施設など、未来に残したい漁村の施設を漁業漁村百選として選定している。 

既に北海道から九州まで名だたる漁業・漁村が選ばれていて、当、京都府伊根町の舟屋も「伊根漁港と舟屋の景観」として当然選ばれている。 又、舟屋は文化庁による重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。

更に、伊根町は美しい漁村風景と特徴的な舟屋があることで、「日本で最も美しい村連合」にも加盟している。


漁村には地域色豊かな食文化や伝統行事、優れた景観などがあり、人を引き付ける魅力に溢れている。 
地元では、多くの人が漁村を訪れるように、地柄、地域を活性化するとともに都市と漁村の交流が進めているという。 
因みに、全国には約6300の漁村があり、これは日本の海岸線が5.5kmに一箇所の割合で港があるということになるらしい。



次回は、「天の橋立・南

2017年10月18日水曜日

平成日本紀行(199)宮津 「天の橋立・北」




「世界は一冊の本だ。 旅をしないものはその本を一頁しか読まないことになる。」 
(アウグスティヌス:古代キリスト教の神学者、哲学者)





  平成日本紀行(199)宮津 「天の橋立・北」    .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-148.jpg
傘松公園より天の橋立(股覗きの名所;資料)



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-149.jpg
写真:天橋立の北側風景(堤は砂流出防止のための砂防堤)





『 神の代に、神の通ひし 道なれや 
         雲居に続く 天の橋立
 』

古歌にある「天橋立」は、南側の宮津線天橋立駅の近くで眺めるのが一般的であるが、籠神社の参道横、ケーブルカーで傘松公園に行き、ここの展望台から天橋立の景観展望も絶景であるという。 

しかも、屈んで股の間から覗くと、「天に浮かぶ虹の架け橋」のごとく天空に天の橋立が浮かんでいるようだという。 


多くの観光客は丹後の一の宮である籠神社を通り過ぎて、展望公園での「天の橋立の股のぞき」を楽しみ、バスで西国28番札所の成相寺に参詣するのが普通であるという。 由緒ある丹後国一宮にも是非寄って貰いたいと地元の人は望んでいるという。 


天橋立は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、天と地とを通うのに立てかけたハシゴが、眠っている間に倒れてしまって出来たものと「丹後国風土記」には記されている。
天橋立は又、海橋立、海浮橋という古名もあり、海神の宮による竜宮ロマン伝説もあるという。



我々の遠い祖先人は、天上の神と地上の人間界とを結ぶハシゴによる天浮橋が倒れて出来たものと素朴に感得してたらしく、天橋立は遠い神代から籠神社の神域の内にあり、又、近代に至っても境内であり参道であった。 
幕末・文政の頃、元伊勢(籠宮の事)を目指した善男善女の「お蔭参り」の列が、天橋立を埋めつくしたと云う記録も残っているという。 
何人かの歌に、


『 何時よりか 天浮橋 中絶えて 
           神と人とは 遠ざかりけむ
 』 ともある。



今の宮津市は和名抄に載っている昔の宮津郷であって、宮津と云う地名は籠の宮の津・港)の意であって、それから宮津の地名が起きたと伝えられる。 
又、籠宮の古称は、かっては「与佐宮」(与謝郡の地名の起こりでもある)とも云われ、宮津市域に隣接している与謝郡の地名も併せて天橋立・宮津・与謝の三地名は、古代の籠神社との縁由を物語るといわれる。


天の橋立の砂州の辺りを暫く歩いてみた。

樹齢数百年の古老の松が埋め尽くし、中ほどに一筋の道が延びている。 
南西に突出する砂嘴(砂洲)は、全長約3キロ、幅40~100m、潮流と風によって運ばれた砂の堆積によるもので白砂青松の美観を呈する。 

しかしながら天橋立の砂州は近年、侵食により縮小・消滅の危機にあるという。 
これは、戦後、上流河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂の流出・供給量が減少し、天橋立への土砂の堆積・侵食バランスが崩れたためであるとされる。 
これ以上の侵食を防ぐため、行政では砂州上にそれと直交して小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂をそこで食い止めようとしている。(写真)


波打ち際に立つと、確かに砂州と直角に石積みの防潮堤が幾筋も見える、やや景観を損ねるが止むを得ない処置だろう。 
神代からの景勝地は、絶対保存が条件である・・!。

「伊達の松島」、「安芸の宮島」そして「丹後の天橋立」は、共に日本三景であることは周知のとおりであり、日本人の最も美景を満足させる所である。


次回は、伊根「舟屋


2017年10月17日火曜日

平成日本紀行(199)宮津 「籠神社」




人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」 <ゲーテ>





  平成日本紀行(199)宮津 「籠神社」  .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-146.jpg
籠神社・神門




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-147.jpg
拝殿後方の「本殿」




宮津の元伊勢と呼ばれる「籠神社」とは・・? 、

与謝野町の町並みを過ごして、天の橋立の北側の付け根に達した。
この辺り一帯は「丹後の国」として古代から栄えた地域で、近辺には奈良期における国分寺跡や府中といった地名も残っている。 

国分寺は741年に聖武天皇の勅願によって、全国の府中(政庁・政府機関の所在地)に建立されたことは度々述べたが、丹後の国の国府(国衙、役所)もこの辺りに在ったとされている。 

国道正面に「籠神社(このじんじゃ)」という壮大な社が鎮まっている。 
成相山を背に、正面は天橋立を望む景勝地に鎮座していて、丹後の国の総鎮社といわれ旧国幣中社で、丹後の国の一宮でもある。 
又、籠神社と国分寺の間からは、墨書土器や木簡、硯などの遺物が出土しており、国府の存在を裏付けているともいう。 しかし、肝心の国庁建物の遺構が未発見であり、国庁域の確定には至っていないともいう。


丹後国」は古代、ヤマト王権(卑弥呼に関連する弥生から古墳時代の王朝で、飛鳥、奈良期の「大和朝廷」とは区分しているようである)から独立した王国だったという説を唱える向きも多い。 

一の宮・籠神社の宮司を世襲する海部(あまべ)氏に伝わる系図が古代の丹後王国の存在を物語っていて、海部氏系図は国宝に指定されている貴重な古文書でもあるという。 
この古文書は瓊々杵尊(ニニギ)が九州・高千穂峰に降臨するより早く、近畿地方(大和説と丹波説がある)に降臨したという彦火明命(ヒコホアカリノミコト)を祖とする海部氏第32代の系図で、丹後国庁の公認印が押してあるほどの公式文書であるといわれる。


彦火明命は古事記には瓊々杵尊の兄神として登場する。 
とすると、この命(ミコト)も天照大神の孫ということになり、しかも、この丹後の地に降臨して国を作ったと言うからには、大和王権(祖はニニギ)と同格の王国であったというわけである。 

彦火明命は、また、別名を饒速日命(ニギハヤヒ)といい、物部氏や尾張氏の祖と言われている。 
このために物部系の王国が、先に丹波や大和に勢力を築き、それを高天原・神武天皇系の所謂、ヤマト王権が侵略したか、連合したかして大和朝廷が 成立したという説かなり有力になってきている。 
このことは「出雲風土記」による出雲の国の「国譲り伝説」に類似しているとも言える。



籠神社(このじんじゃ)の名称は、神代に彦火明命が籠船に乗って龍宮に行かれた故事に因む名称であり、「」を古昔において「コ」と発音した事から「コノジンジャ」と称するようになったという。 

この籠神社は「元伊勢」の一つであり、元伊勢籠神社とも称するという・・?、 
すっきりした佇まいに重厚な造りのお宮で、規模こそ及ばないが伊勢神宮を思わせる清浄な雰囲気の神社である。 

主祭神は彦火明命、相殿(奥宮・真名井神社:元伊勢と言われる祖神)に天照大神(伊勢内宮)、豊受大神(伊勢外宮)を祀っている。 

旧与謝郡で丹後・国分寺にも近く、与謝の海に住む人々にとっては古来より守り神として信仰が厚く、累代の宮司家海部氏もその名のごとく、海民の祖と仰がれる家筋である。 

その創建については、籠神社は奥宮が示すとおり「元伊勢」と呼ばれている。 


注目するのは、第10代崇神天皇の御代に天照大神を大和国から、一旦、ここ丹後国・与謝郡の地に4年間程遷し留まられたといい、更にその後、伊勢に遷宮したといわれている。
つまり、伊勢神宮の遷宮の前に祭られたため、「元伊勢」といわれる由縁なのである。


籠神社の社殿は唯一神明造と呼ばれる独特の建築様式で、これは他に伊勢神宮以外には見られない様式で、こちらは30年毎に御造替(遷宮)が行われていたという。 

そして、その歴史はあまりにも古く、神代まで遡るという。 

重要なものとして、「海部氏系図」という秘法が残され、現存する最古の系図として国宝に指定されている程で、この系図によると当初の周辺人たちは、漢民族(渡来人)であったとも記されているらしい。 

更に、宮司・海部家に伝えられる息津鏡(おくつかがみ)、邊津鏡(へつかがみ)は2千年以上も前のもので、伝世鏡(考古学上として、古くから伝わった鏡)としては最古のものとして社殿に祭られ、こらは天照大神が彦火明命に授けたものと伝えられている。 
皇室に伝わる「三種に神器」の神器鏡(八咫鏡・やたのかがみ)の原型ではないかとも言われている。


社家の海部氏は彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎(神仏を慎んでお祭りすること)をしてきた民とされ、
驚くべきことに現在は82代目であるという。 

4代目に当たるとされる倭宿禰命(ヤマトノスクネノミコト:天照大神から数えると第5世ということになる・・?)は、神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導したとされる。 

海部氏は海民の祖だけに、竜宮物語の主人公・浦島太郎のモデルともいわれる・・?。


次回は、「天の橋立


2017年10月16日月曜日

平成日本紀行(198) 与謝野 「与謝野と与謝野氏」


希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」(スティーブンソン)




平成日本紀行(198) 与謝野 「与謝野氏」   .



城崎温泉の宿(国民宿舎・玄武洞)がちょうど円山川沿いにあったので、そのまま南下して一旦、豊岡の町に出る。
豊岡市は2005年4月1日に、周辺の城崎町・竹野町・日高町、出石町・但東町と対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となったようである。 


豊岡市は、古くから旧国名である但馬国の中心として形成され、奈良期の頃には既に但馬の国の政庁が開かれていた。 
741年(天平13年)に聖武天皇により国分寺の建立の詔令が出され、但馬国分寺、国分尼寺(豊岡市日高町)が建立され、同・804年(延暦23年)には但馬国の国府が同所に開かれている。


市街地を正面に見ながら、円山川を渡って久美浜、峰山方面に向かう。 
既にこの辺りは京都府である。  
宮津線の久美浜駅前から国道312線になり、新道の比冶山峠を越えると「峰山」である。

峰山は、絹織物「丹後ちりめん」の発祥の地であり、最近では全国高校野球の京都代表で、田舎の府立(京都)高校・峰山高校が甲子園で活躍したことは記憶に新しい。 

あの「楽天・ゴールデンイーグルス」の野村監督(当時)の出身高校でもある。
尚、峰山は2004年4月1日に周辺の5町と合併し「京丹後市」となっている。



丹後の国」、天橋立の北側へ向かう。
国道312は野田川、岩滝町あたりで国道178に再び合流し、道程はR178となって宮津湾の西側へ向かうことになる。 

この辺りは京都府北部の丹後半島中部から付け根にあたる地域は与謝郡に属し、2006年3月1日、与謝郡の加悦町・岩滝町・野田川町三町が新設合併して与謝野町(よさのちょう)が誕生するという。 


与謝野町は与謝野 鉄幹(本名寛、父・与謝野礼厳が当地の出身地)に縁のある地柄である。父の礼厳(1823‐1898・幕末から明治の僧、歌人)の時代に、元は細見という俗名であったが明治初期、自分の故郷の与謝野という字を当てて「与謝野」と称し、その名が付いたとも言われる。



それにしても平成の大合併のこの時期、それらに従って古(いにしえ)の懐かしい町村名が消えたり、はたまた可笑しな瑞祥的(おめでたい・・?)市町村名が付けられたりしている昨今、「与謝野」という地名は真に小気味のいい、響きのある町名である。


与謝野 鉄幹は(明治6~昭和10)、京都府岡崎(現・京都市左京区)に僧侶・与謝野礼厳の四男として生まれてる。その父・礼厳は庄屋・細見家の次男として京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)の出身という。 

歌人・詩人として明治中期、日本文学界に相当の足跡を残したらしく石川啄木、北原白秋、登山川美子らを育成、浪漫主義運動を展開した功績は大きいといわれる。 

後に妻となる晶子も「みだれ髪」、「源氏物語」の現代語訳をはじめ、後年は歌人として夫婦で全国各地を巡り、多数の歌を残し歌碑や記念碑は無数にある。 


因みに現、与謝野 馨(よさの かおる:現在、金融、経済財政政策、規制改革担当相)は、昭和後期から平成期の政治家・衆議院議員・行政閣僚として活躍中で、歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻の孫にあたる。


次回は、「宮津


2017年10月14日土曜日

平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(3)


.
広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン)




平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(3) .



http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-142.jpg
資料:城崎温泉概略図




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-143.jpg
城崎温泉駅


城崎温泉(きのさきおんせん)は、平安時代から知られている温泉で1300年の歴史をもつといわれ、飛鳥時代にコウノトリが傷を癒したという伝説が伝わっている。 

又、8世紀初頭の養老年間、道智上人が千日の修行を行った末に湧出したのが城崎温泉の始まりともいわれる。(現在の外湯・「まんだら湯」) 上人は「温泉寺」の開山僧でもある。

温泉寺は由緒ある古刹で、「鴻の湯」の向かい側、薬師橋を渡ったところに参道・山門があり、大師山の中腹に位置する本堂の他多宝塔などが建つ。 
ここには大師山へのロープウェイが架かり中間駅に「温泉寺駅」がある。 
大師山山頂からは温泉街はもとより、円山川の緩やかな流れとその先に広がる日本海の見事な景観が眼下に広がる。


城崎温泉は江戸時代には「海内第一泉・かいだいだいいちせん:日本一)」とも呼ばれていて、今もその碑が湯の町中心街、王橋のたもと外湯・「一の湯」として残っている。 
一の湯は江戸時代の頃までは「新湯(あらゆ)」と呼ばれていたが、医師・香川修徳が泉質を絶賛し、「海内一」の意味を込めて「一の湯」に改名したともいう。

温泉の目玉は昔ながらの外湯めぐりが主体で、外湯はそれぞれ守護神を持ち、温泉を神の恵みとした敬虔な信仰心として崇め、それに元ずいて湯浴みを行ったという。 一の湯の他に「鴻の湯」、「まんだら湯」、「御所の湯」、「地蔵湯」、「柳湯」、「さとの湯」 の七箇所、其々工夫を凝らし特色を出している。

江戸時代の温泉番付によると城崎温泉は西の関脇(最高位は大関)にランクされ、山陰の名湯とされていた。 


温泉街の各所に多くの碑があるように、文人墨客に愛された湯の街であり、明治以後も「城の崎にて」を書いた志賀直哉をはじめとする多数の文豪が来訪している。

手ぬぐいを さげて外湯に 行く朝の 
          旅のこころと 駒下駄の音
』 与謝野 寛

ところで、志賀直哉の「城の崎にて」の城崎が消えてしまった・・!!??、
城崎町は2005年、周辺の竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併し豊岡市になってしまったのである。

この度の「平成の大合併」で日本国中の由緒ある町村名が消えてしまった事例が多い。
西の大関と言われる大分・湯布院町(由布市)であり、関脇が城崎町(豊岡市)であり、 東北の小京都・角館(仙北市)、焼物の里・あの狸でお馴染みの信楽(しがらき・甲賀市)、いずれも屈指の観光地であったが、あっさりと消えてしまったは惜しいことである。

東の大関は静岡・修善寺(伊豆市)、名作・「伊豆の踊子」も形無しであり、同じく静岡のサッカー王国、清水の次郎長でお馴染みの清水市(静岡市)、関脇は上州の歴史ある温泉場・伊香保(渋川市)、他にも、日本一のブドウとワインの産地・勝沼(甲州市)、日本のエーゲ海と言われた岡山・牛窓町(瀬戸内市)と、懐かしい市町村名なども失われていて、 他にも無数にあるという。

「地名」には、歴史的背景や地勢的由来などの謂れがあるのだが、住民の浅はかな興味本位の投票と、行政諸氏の石頭連が何の惜しみも無く、かなぐり捨ててしまうことは残念である。




早朝目覚めたので朝飯前に今一度、写真撮影方々温泉街を訪ねてみた。
先ず最初に駅前に出る。 古い温泉地のわりにはモダンな駅舎で「城崎温泉駅」という。 京都発着の山陰本線は福知山

、豊岡と内陸からやってきて、ここ城崎から概ね山陰地方の沿岸を辿りながら終着の下関に至っている。
2005年4月1日に城崎町が隣の豊岡市と合併したことに伴い、2005年3月1日に「城崎駅」から「城崎温泉駅」へと改称されたらしい。 

さすがに合併によって由緒ある自治体名である「城崎」が消える危機感を感じ、城崎ブランドを守るため地元有志・議会などの要請により,旧城崎町が経費を全額負担して「城崎温泉駅」が実現したという。 
この「城崎温泉駅」は第一回近畿の駅百選にて、第14位の選定駅であるという。

因みに、駅百選というのは、「鉄道の日」(明治5年9月12日(新暦1872年10月14日)に、新橋駅と横浜駅とを結んだ日本初の鉄道が開業した事を記念したもので、1922年に鉄道記念日として制定された)記念行事の一環として、2000年から2003年までの4年間で、国土交通省近畿運輸局管内(京都府、大阪府、滋賀県、兵庫県、奈良県、和歌山県)の特徴ある駅を公募等で募集し、選考委員会で100駅を選定したものである。 



駅前にお寺のお堂を模した豪奢な造りの吹き抜けの建物の「足湯」である。 
ここで目覚めの顔、手足を洗う。 その奥に日本最大の駅舎温泉「さとの湯」が城崎温泉街の外湯の一つとして機能しており、無料で利用できる足湯で、電車の待ち時間をゆったりとすごすことができるのは嬉しい。

役場である城崎支所には「温泉課」という窓口も有るという。




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-144.jpg
城崎温泉の極楽寺参道



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-145.jpg
参道横の元湯





湯の町の朝は早い・・!、

すでに観光客・泊客は朝7時開湯の外湯を目指しているようである。
大谿川にかかる柳の緑が朝風に、ソロリと揺れている、又、湯の里通りの瀟洒な家並みに朝日が当たり始めた。 

温泉街の外れ、突き当りの月見橋を左折すると西山公園があって、この先に極楽寺がある。 ここにも城崎温泉の元湯があり、露出した岩肌の間からモウモウと湯蒸気を上げている、看板に28号源泉とあった。 

何処かの旅館の女将であろうか、品の良さそうな粋な和服姿で参道からこちらにやって来る。軽く黙礼を交わしすれ違った。 

松林が覆う長い参道の奥に本堂らしき重厚な建物が目に入る。 
極楽寺は京都・大徳寺の末寺で江戸・寛永年間、沢庵和尚により再興された禅寺という。 
境内は禅寺らしく、白砂で心の文字が描かれた枯山水の庭園・「清閑庭」や城崎温泉の開祖である道智上人が、独鈷(とっこ・仏具)といわれる仏具で岩の壁をたたくと湧きだしたと言われる「独鈷水」等がある。 

予約すれば座禅や法語の修行を行ってくれるらしい。
そろそろ人の往来も目立つようになったところで戻るとしよう。


次回は、・「丹後の国・与謝野


平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(2)






平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(2) .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-141.jpg
風流な大谿川を挟む温泉街界隈・・、




城崎温泉にて・・、

志賀直哉が、「城の崎にて」の冒頭に、「山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした。 
その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」と記している。 

著者自身、鉄道事故で九死に一生を得た彼はその後、怪我の養生のために城崎温泉に滞在している。 そ
の時の体験が、小動物の死生観に重ね合わせて描いたとされる「城の崎にて」の短編である。 
末尾には、「生きている事と死んで了っている事と,それは両極ではなかった。
それ程に差はないような気がした。」と結んでいる。

“小動物の死生観て・・??”、
小動物も人間も、同じ地球上に生を受けた「物」として、生死の価値はあまり変わるものではない、というところか・・?。

志賀直哉(しが・なおや 1883-1949・宮城県石巻生まれ)が「城の崎にて」を書いたのは、ここにきてから東京へ戻った4年後のことであった。 
それだけに「城崎温泉」の印象が鮮烈だったのだろう。

大正2年、志賀直哉は初めて城崎を訪れた。 
東京・山手線の電車にはねられて重傷を負いその後養生のために3週間滞在したという。



谷合いに、「くの字」にひらけた湯の町で、温泉に浸かり、ぶらりと町を歩く。
川沿いの柳が芽吹き、桜が花開く。 

夕刻ともなると和風木造の旅館街にぼんやりと灯が入り、外湯を巡る浴客たちの下駄の音がなつかしい。 
志賀直哉の定宿だった「三木屋」は、湯の町・城崎でも一段と奥まった大谿川(おおたにがわ)の畔、雰囲気漂う“木屋町通り”の一角に三階建ての純和風の建物である。 

かって、三木屋のご当主は町長もつとめたという。  
志賀直哉は生涯に十数回この地を訪れていて、「 温泉はよく澄んで湯治によく、周囲の山々は緑で美しい。おいしい日本海の魚を毎日食膳に出し、客を楽しませてくれる。 」と手記に記している。


小生は、1986年(昭和61年)子供及び両親を伴って、北陸、山陰を巡った際に城崎を訪れている。 
宿泊した旅館は当時NTTの保養所で「城崎荘」であったが、現在は、NTT民営化による合理化にともなって民間に譲渡されているようである。 
それでも城崎荘は、現在でも立派に営業をされているようで、場所は奇しくも三木屋の隣に位置しているようであった。 
当時は慌しい旅程であったが、この風流な温泉街の印象は今も残っている。
  


城崎の温泉街は大谿川の流れに沿って軒を連ねる。 
その町並みは木造建築の旅館がほとんどで落ち着いた本来の日本情緒を醸し出している。 
平安期・1300年の歴史に裏打ちされた格式を感じさせる日本でも数少ない温泉街であろう。

大谿川を中心に、約100軒の旅館や土産物屋、飲食店が並ぶ、これらは昭和初期の温泉街の情緒が今でも残っているのである。 
川には弁天橋、桃島橋、柳湯橋と名の付いた弓形の石橋がいくつも架けられ、両川端には柳の並木が一層、旅心を誘うのである。

頃合になると湯の町は華やいで、観光客や酔客が浴衣や丹前に着替え、各旅館には温泉浴場が有るにも関わらず、その風情に誘われるように外湯へと導かれるのである。 
浴衣がけに下駄履き姿の旅の客が外湯巡りにそぞろ歩く、カランコロンと下駄の響きも軽やかに外湯にくりだす光景は城崎独特の風情で哀愁さえ感じる。 

大谿川に架かる石造りの太鼓橋に目をやれば、浴衣を羽織って佇む若い女性の姿がボンボリの灯りに照らされて艶かしく、しなやかに垂れ下がるしだれ柳は湯の町の女性の色香を悩ましいほどに引き立てているのである。
中でも大谿川にかかる石造りの太鼓橋は、両岸のしだれ柳とともに城崎を形容するシンボルでもあろう。


次回も、更に「城崎温泉」  



平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」


.
広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン)




  平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」    .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-140.jpg



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-139.jpg
温泉街の最も奥にある立寄り湯・「鴻の湯」と温泉寺へ向かう「薬師橋」(下)




「城崎温泉」へ向かう・・、

海岸からではなく、山沿いの県道9号線を行くようだが、かなり急峻な山越えの道である。
途中、「鋳物師戻峠」(いもじもどし峠)という、何とも妙ちくりんな名前の峠があった。 

城崎と竹野町との町境の峠で、一角に「もっこり」という、これ又、妙ちくりんな名前の奇岩があった。 
今にも前に落ちてきそうな大岩で、全長19メートル重さ140トンもあるとか。 

鋳物師戻峠のその名の由来は「その昔、京の鋳物師がこの峠で大地震に出合い頭上の大岩が揺れるのを見て恐ろしくなり、後戻りして逃げ帰った」・・、と看板に記されてある。



峠を下りきると、見通しが良くなって町並みが見え出した、城崎である。
大タニ川に沿って桜並木が風情をそそる。
これらに架かる薬師橋、月見橋も実に美観なる造りである。 

湯の里通りの町並みも実にいい・・!!。 
車を止めて、この風情をカメラに収める。 すると月見橋の手前「薬師橋」から芳紀なる三人の女性が、色鮮やかな浴衣風着物と駒下駄姿で、ニコニコしながらこちらにやって来るではないか・・! 

お嬢さん方、写真を一枚撮らせて頂戴・・」 

ええはヨ・・」 

関西訛りの快い(こころよい)返事が返ってきた。 お互い旅のキサクさであろう。


賑やかな駅前通りから、洒落た造りの「城崎温泉駅」のまえを通り抜け、丸山川岸から今日の宿泊地・国民宿舎「玄武洞」へ向かった。 
温泉街の町中で宿が取れなかったのは、チト残念であるが。
宿で湯に浸かり、夕食を頂いて小休止の後、就寝前に再度、夜の温泉街を訪ねてみた。

湯の里通り」のボンボリ灯りの下、ソゾロ歩きの浴衣姿のお嬢さん達の他、さすがにほろ酔い客の人々も目立つ。 
もっとも小生も、どちらかというと「ほろ酔い」であるが。


宿主に評判の外湯を伺っていたので、云われたままに城崎名物「外湯七湯」のうち最奥にある「鴻の湯(こうのゆ)」に出向いて見た。 
外湯の中で最も古くから開けた湯で、コウノトリが足の傷を癒したことから、この温泉が発見されたという、「鴻の鳥伝説」があり、城崎温泉発祥の地だともいう。 
コウノトリにちなんでか夫婦円満、不老長寿のご利益があり、幸せを招く湯とも言われるが・・?。

比較的大きな駐車場があり、すぐ前に、白壁造りで切り妻様式の純和風の素朴な建物で、落ち着いた雰囲気が嬉しい、500円の入湯料を払う。 
外湯といえども大きな施設であり、気配り簿充分届いていて清潔である。 
ロビーも広く明るい雰囲気になっていて、イスやテーブルもシックで感じがよい。 
脱衣所は細い竹のムシロが敷かれてい心憎いほど気持ちよく、木製のロッカーがずらりと並んでいてこれまた結構広い。 
入湯前から何もかもが行き届いていて、既に心が洗われている。 

湯船に漬かる、既に宵も深まっているとはいえ意外に浴客が多い、中には酔客の姿もチラホラ・・、尤も小生もその内の一人なんだが。 
広く大きな浴槽で湯は少し熱め、無色透明の湯でさらっとした感じで気持ちがいい。 
飲食後なので長漬かりは無用、湯船の際でゆったりと体を休ませる、これだけでも温泉の癒し効果は充分である。 

浴槽の前は大きなガラス窓になっていて庭園の露天風呂が眺められ、七外湯の中で唯一露天風呂が楽しめるのも魅力である。 
露天風呂も内湯に負けないくらい大きさで、大きな庭石を組み合わせた岩風呂は野趣満点の雰囲気がある。 
露天風呂のすぐ裏は山になっていて、吹き降ろしの風が気持ちいい。
ところで、ある好事家が「城崎七湯」の外湯人気度を調べたらしい。

それのよると、鴻の湯―76票 、さとの湯―70票、一の湯―36票 、柳湯―30票、地蔵湯―21票 、まんだら湯―11票 、御所の湯―11票、・・てな具合であったとか。


次回も「城崎温泉



2017年10月13日金曜日

平成日本紀行(196) 香住 「香住海岸」


.
広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン)




  平成日本紀行(196) 香住 「香住海岸」    。





http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-136.jpg
香住海岸のインディアン島




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-137.jpg
香住港(冬のカニ漁も終わり、静かな佇まいである)






餘部をすぎて、香住の海岸も相変わらず山地のせまった半島を形造り、所謂、「おぼれ谷」(水位の上昇、又は陸地が沈降して出来た地形)や海食崖といわれる出入りのはげしい海岸線が続いている。 

鎧の袖」、「インディアン島」と称する奇妙な名前の奇岩・怪岩をはじめ、無数の洞窟、断崖、奇岩が連なる。
これら侵食海岸の風景を演出する景勝地は、地質学の上からも貴重な自然博物館ともいわれる。  多くの名勝をつくり出しているこれらの海岸は、香住東港から出ている遊覧船に乗って、海上から巡るのが実にいいらしい。


時折、小さな港へ出くわすと、出番を待つイカ釣り船が岸壁に並んでいる。 
これらの海岸には東より相谷、柴山、香住、鎧、余部といった鄙びた諸港が並び、いかにも日本海側らしい長閑で、いい風景を醸し出している。 

中でも香住港は、日本海側における有数の漁港・港湾となっていて、特に柴山港と二港合わせて「松葉かにの本場」と言われ、漁獲高でも境港港についで2番目という。 
もっとも、今は6月の半ば(2005年)であり、カニ漁の最盛期はとっくに過ぎていて、港はいたって長閑である。


因みに、日本海で獲れるカニは通称和名で「ズワイガニ」と言うが、それぞれ水揚げされる場所で呼び名が変わるらしい。 
兵庫・鳥取県は「松葉がに」、京都府では「間人(たいざ)がに」(京都北部の丹後半島の間人港〈たいざこう〉にて水揚げされるもの)、福井県・石川県では「越前がに」とも言う。 

これら地場の沖合の海で捕れた「ズワイガニ」のブランド名で獲れたカニは漁獲量も少なく、北海道や外国で捕れるズワイガニに比べ、極めて高値で取引されるという。 
価格は、通常で1枚一万円前後であるが、1kg以上の特特大にもなると数万円にもなるという。 

カニ漁は冬の時期が本番で、日本海に面する温泉場の旅館や宿では新鮮なカニ食を求めて大勢の観光客で賑わうという。



荒々しくも、鄙びた漁港の「香住海岸」を後にして、こちらは海岸に寄り添うように市街地が並ぶ。
竹野という町並みで、砂浜が延びる穏やかな海岸線は先ほどとは対称的で美しい。 

日本の渚100選にも選ばれ、砂浜は海水浴場としても、この地方の人気のスポットのようである。 
竹野は、昔は交易で栄えた町で、江戸期には日本海を巡る北前船も寄航した港であった。 
この先に一級河川の大河・丸山川が流れ、そこには歴史のある「城崎温泉」があって船乗り達は船を円山川に着けて、身に付いた潮を城崎の湯で洗い落としたにかもしれない・・?。 

円山川には城崎の反対河岸に当たるが、今でも楽々浦湾(ささうらわん)という程よい船着場もある。
その竹野は、2005年(平成17年)4月に豊岡市、出石町、但東町、城崎町、日高町などと合併し、新たな豊岡市が発足して町名は消滅している。 
そして、城崎温泉へ向かう。


次回は、「城崎温泉


2017年10月12日木曜日

平成日本紀行(195) 餘部 「餘部鉄橋」 (2)





平成日本紀行(195) 餘部 「餘部鉄橋」 (2) .





 https://www.tumori.nu/rail/amarube/bridge-1.jpg
写真:餘部鉄橋(手前が餘部駅)


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/AmarubeBridge3.JPG/220px-AmarubeBridge3.JPG
トレッスル橋といわれる橋下の橋架部


http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1492670880767/simple/170821163633_1.png
写真2:新鉄橋イメージ(観光協会)





餘部鉄橋の架け替えの議論・・!

列車転落事故により運行基準を強化した結果、風速20㍍で列車を止める措置がとられ、その為、冬の観光シーズンを中心に年間250本もの列車が風のため運休・遅延する事態となっているのが現状という。 

その為、定時運行が困難となった事を契機に、現鉄橋の南側にPC橋(コンクリート橋)を新たに設置する計画が浮上した。 
以後、余部鉄橋は定時運行、高速化を目指した「架け替え」か、景観維持を優先させる「存続」かで揺らぎ続けているという。 


PC橋では風速30mまで運行可能な設計とされており、また保守も容易なことから、JR西日本では出来る限り早い着工を目指しており、既に平成14年には、新橋新設案が余部鉄橋対策協議会総会で決議され、新しいコンクリート橋への架け替え計画が決定をみていたのであった。 

2007年春(予定) 新橋架替工事着手、2010年 には新架橋工事完了が予定 しているという。
しかし、地元の一部には景観存続を望む声が今も根強く、観光客や地元住民からは現在の鉄橋が無くなる事を惜しむ声が後を絶たたない。 

地元からは、新しいPC橋が観光資源となり得るかどうかについては、疑問の声も多いという。 コンクリート橋脚の工事はいずれ始まるが、完成後にこの「東洋一の名橋」は撤去されるのか、一部は残るのか、未だ不透明だという。



【追伸】、架替工事は2007年5月に着工、2010年度の完成にむけて着々と工事は進められている。(長さ約307m、高さ約42m、)




最近、旅行ブームなのであろうか・・?、

テレビ放送で鉄道を利用した旅行番組などが多く、北は北海道から南は九州まで、全路線を乗り継いで行く旅番組などもNHKで放送された。 
又、「汽車旅放浪記」などという本も出版されて人気を呼んでいる。 
鉄道といえばやはり郷愁を感じるのも確かである。 


私事になるが、小生、学生(列車通学の高校生)の頃は、福島県の田舎である常磐線にはまだ悠々と蒸気機関車が走っていた。 
湯本駅から平駅へ向けて定時に発車した蒸気機関の列車は、ゆっくりと動き出した。 
小生は慌てふためき、定期券を見せる間も惜しんで発車したあとを後ろから追い掛けていって乗り込んだのも度々であった。 
駅員も承知したもんで、「気を付けてノンなよ・・!」と、のんびりしたもんであった。 
その後ジーゼル化され、更に数年後には電化されてスピードアップされたが、その発車間際の加速度的速さに、びっくりしたのであった。
 


汽車好き、鉄道好きは昔からいて、普通、小さな男の子は大抵乗り物好きであった。 
高じて大人になっても鉄道好きは変わらない御仁が多いようである。 

鉄道事情が大き変わりつつある、或るいわ大きく変わった今日、又、運行列車の変遷が目立つ昨今、全国の鉄道ファン、鉄道マニアは大忙しであろう・・!。 

濃厚な鉄道マニアのことを、「鉄ちゃん」などと言われ、又、汽車、列車などの写真好きを「撮ちゃん」とか「撮り鉄」などと称しているようである。 

中には、「撮り鉄」の熱が高じて線路間際に寝転んでカメラを向け、特別運行のSL列車を止めてしまった、などという極端な事例もあるという。


ところで、どの線でも列車が美しく撮れる場所は大方決まっているという。 
高くて長い、しかも鋼鉄製の骨組みで出来ている餘部鉄橋などは、今、恰好の標的になっていて、カメラマンが引きもきらないという。 

餘部鉄橋ポイントは駅からさらに登った高台であるが、そこは「撮り鉄」たちの集団で踏み固められ、今では草も生えないといわれるほどである。


次回は「香住



2017年9月29日金曜日

平成日本紀行(195)餘部 「餘部鉄橋」 






  平成日本紀行(195)餘部 「餘部鉄橋」    、




 http://park23.wakwak.com/~orimasa/ss-128.jpg
今はない旧餘部鉄橋



 http://park23.wakwak.com/~orimasa/ss-129.jpg
1988年(昭和63年)10月23日、列車転落事故のあったカニ加工場跡地に聖観世音菩薩が建てられている



国道178号線は暫く内陸を行く。
桃観峠トンネルを抜け下って再び海岸へ出たところが、かの有名な「餘部」である。 
国道と並行して、京都から竹野辺りで日本海の沿岸に至り鳥取、松江などの山陰地方の各都市を結ぶJR・山陰本線が走っている。  
この餘部地区の入り江になっている高所を鉄橋で結んでいるのが世に言う「餘部鉄橋」である。

その間、特に前述した海岸国立公園の但馬御火浦の如く、浜坂から香住周辺の間は険しい山地が海のすぐそばまで迫っていて、交通機関である線路や国道は高所の山間地を縫うように走っている。 

しかし、餘部付近は山がスパッと途切れていて深い入り江と細長い平坦な陸地が内陸へ延びている。 
その為、集落の頭上を線路でつながざるを得ない、そこで施工されたのが餘部鉄橋である。 


構造的には鋼材を組み合わせて鉄の櫓を橋脚とする、所謂、「トレッスル橋」(トレッスルとは「架台」、或いは「うま」という意味)呼ばれる橋脚構造の鉄橋を建設する形になった。 
国内でも代表的なのがこの眼前に迫る「餘部鉄橋」である。


鉄橋は、真赤に塗装された鉄の柱が縦横無尽に交差して、裾は末広がりになって地面に突き刺さっている。 
豪快で迫力があり、尚且つ、素晴しい絵模様を演出している。 
マニュアには、たまらない人気があるはずである。 

小生もカメラの撮影ポイントを数箇所巡ってメモリーに収める。 
途中でメモリーが無くなったのが返す返すも残念であったが、撮影できないカメラを抱えて橋の真下でややションボリしている時、丁度列車が差し掛かってきた。 

八両編成ぐらいであろうか、特急列車と思われる客車がトンネルを抜けて即、餘部鉄橋を渡っている。 
ゴウゴウと地鳴りのような音を立てて勢いよく餘部駅をも通過していったのである。



鉄橋は1909年(明治42年)に着工、1912年(明治45年)に開通している。
長さ310m、高さ41m、 11基の橋脚、23連の鉄桁を持ち、これにより京都から出雲までが一本の線路で結ばれた。 

その雄姿は「東洋一の名橋」と呼ばれ、この構造の鉄橋としては現在でも日本一の規模だという。 
なお、国道178号線がこの鉄橋の真下を走っていて、その独特な構造と鮮やかな朱色の橋脚が身近に見られる。 
その為もあり付近の情景とも相まって、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも大いに人気がある。 
最寄り駅である餘部駅には、その裏山に展望台が設けられており、絶好の撮影ポイントとなっているという。 

朝・昼・夕と光の具合でその姿を変えるほか、天候や四季(特に雪)によっても大きく変貌するという。
夜、列車が通過する様子は、さながら空中に浮かぶ銀河鉄道のようでもであり、轟々と響き渡る通過音には趣さえ感じるという。 
鉄道に関する観光地としては、屈指の場所といって差し支えないだろう。 (注意:一般的に「餘部」と「余部」が併用されているが、当項目の正式名称は「餘部橋梁」である。)
 


この鉄橋で唯一の事故が発生している・・、 
1986年(昭和61年)12月28日午後1時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車「みやび」が餘部橋梁へさしかかった。 

その時、日本海からの突風にあおられて鉄橋中央部付近より機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落した。 
転落した客車は橋の真下にあった水産加工工場を直撃し、従業員の主婦5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の従業員1名と加工場の従業員5名の計6名が重傷を負った。 
皮肉にも大半が貰い事故であった。 

この鉄橋からの列車事故、転落は橋の完成以来初めての惨事である。 
原因としては風速25m以上を示す警報装置が作動していたにもかかわらず列車を停止させなかったという、概ね、人為的ミスと見られている。 

この事故後、当時の国鉄は運行基準を見直し、風速20m以上で香住駅~浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行(全但バスが担当)とするよう規制を強化することとなった。 
また、1988年(昭和63年)10月23日、事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれているという。


潮風が吹きつける橋脚には防錆処理をするため、数年おきに橋脚部にネットを張り、塗り替え工事が行われるという。 
尚、2~3年後には鉄橋架け替えが行われるため、小生が訪れた直後に予定されている塗り替え工事(2005年7月)は、この時が最後となる見通しといわれる。


餘部駅のチョットいい話・・、

鉄橋が聳え立つ餘部に駅ができたのは、意外にも鉄橋が完成した約半世紀後の昭和34年(1959年)であった。 
それまで餘部の人々は荒天、順天の日に関らず、4つのトンネルを抜けて「鎧駅」から列車に乗っていた。 

そこで、人たちは当時の国鉄に駅の設置を強く要請し、更に餘部小学校の児童たちも、当時の兵庫県知事に「餘部に駅を造ってください」と手紙を書くなどした。
その結果、ようやく駅の設置が決まったという。 

建設時には大人に混じり、児童たちも駅の材料となる石を、海岸から山の上まで皆で運び上げるなど、町民総出で協力し餘部駅は誕生したという。 

念願の一番列車が到着したとき、村中総出で歓迎した。 
そして、駅ができた翌年(昭和35年)、餘部小学校の校歌が作られたが、二番の歌詞には鉄橋が登場し現在も歌い継がれている。

 『♪♪ 緑の谷に そびえ立つ 鉄をくみたる 橋の塔 』


次回も更に「餘部」について、


2017年9月26日火曜日

平成日本紀行(194)浜坂 「温泉町」





 平成日本紀行(194)浜坂 「温泉町」   、



 http://www.hamasaka.gr.jp/gaiyo/igumi.jpg
山陰の鄙びた漁港・「居組港」の美景



鳥取砂丘から福部村、岩美町の海岸沿いを行く。
国道9号線は山口・下関を出発して以来、主に山陰を巡ってきたが、ここ鳥取市域を過ぎて間もなく内陸へ向かい京都に達している。 
小生は引き続き、沿岸道の国道178号線を走ることになる。


それにしても海岸線が美しい・・!。
岩美町の海岸は「浦富海岸」(うらどめかいがん)と称して、自然が彫刻した岩と白砂青松の海岸美は、文豪の島崎藤村も絶賛した景勝地として知られている。 
山陰の松島」と呼ばれ「日本の渚百選」、「平成にっぽん観光地百選」にも選ばれている名所である。 
約15kmにわたって続くリアス式海岸は変化に富み、西部には海食や風食によってできた奇岩、洞門、断崖絶壁が点在している。 

緑の老松がおいしげる千貫松島、菜の花が一面に咲き乱れる菜種島など、奇岩や断崖は迫力満点であるという。 
浦富海岸のなかでも、特に絶景地とされるのが環境庁の海中公園地区にも指定されている城原海岸で、その幽玄な美しさから神秘の霊境とされ、文豪の島崎藤村がこの地を訪れたとき、「松島は松島、浦富は浦富」と絶賛したという。 
浦富は文字どうり「浦が富んでる地」である。



道路標識は、これより「兵庫県」とあった。
リアス海岸の高所から小さな港へ向かってヘアーピンカーブを曲がりながら下りてゆくと居組の港である。 

三連に並んだ坊主山・・?、のような島が港に浮かび景観を造っている。
もし、好事家が「日本港100選」を選ぶなら、この地は選ばれるに違いないだろう。 
適度の広さで砂浜が広がり、その奥には小さな灯台のある防波堤が左右に続き、漁船の着く市場がある。そして防波堤の上に見える絵に描いたようなお椀型の小山が三つ並ぶ。 

この風景は、一見の価値がある・・!!


間もなく浜坂町に至ったが、この地も山陰地域での有数の温泉場である。
浜坂温泉郷は国民保養温泉地としての指定を受け、一般家庭や旅館・民宿、町営住宅など、ほぼ全戸数に配湯されているという。 
その為であろうか、環境庁(現 環境省)より国の省エネルギー・モデル事業の全国第1号に指定されている。 

又、浜坂温泉郷は近隣にある七釜温泉(しちかまおんせん)、二日市温泉(ふつかいちおんせん)、浜坂温泉(はまさかおんせん)の三つの温泉の総称であり、2005年10月に浜坂町と内陸に接している「温泉町」とが合併して「新温泉町」が発足するという。

「温泉町」は、山郷の温泉・湯村温泉からその名が付いている。 
平安時代初期に開湯したという古い歴史があり、山峡に佇む閑静な湯治湯として親しまれている。 

「湯けむりの郷」とも称し、1981年のNHKドラマ「夢千代日記」のロケ地として、その風情が全国に知られるようになり、以来「夢千代の里」とも称しているようだ。

行政名が旧、新とも「温泉町」という形容的で、やや大様な名称であるが、形容イコール実態ということで納得であろう。 
気が付けば小生の実家のあった地名も、旧名は福島県の「湯本町」であった。



更に、これより東の海岸は山陰海岸国立公園に指定されていて、国の名勝天然記念物・「但馬御火浦」という名所もあった。 
但馬御火浦(たじまみほのうら)は、香住町と浜坂町に跨る香住海岸の伊笹岬から浜坂海岸の観音山の間の約8kmの岩礁海岸を云う。 

日本海の荒波により彫刻された断崖絶壁、洞門、柱状節理・岩脈、岩礁が連続する岩礁海岸と島々の景勝地で、中でも世界最大級の洞門「釣鐘洞門」は特に著名である。 

国指定の名勝・天然記念物でいずれも山陰海岸国立公園に属する。  
次は間もなく、あの「餘部」であった。


次回は、「餘部」  、

2017年9月23日土曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」






  平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」     .




鳥取は江戸初期の元和3年(1617)、姫路城主・池田光政(戦国武将・池田輝政の孫)が、因幡・伯耆32万石の領主として鳥取城へ転封された後、鳥取城下町の飛躍的発展がもたらされる。 
この光政の時期(1617~1632)の城下大拡張整備策により、家中屋敷割の設定、町人町の造成、寺院の配置が進められ、旧鳥取市街地の原型がほぼ形成された。


現在、鳥取県人口は日本の都道府県では人口が一番少ない。
だが、官僚、役人の輩出率は全国2位だという。 

又、面積も香川県に次いで2番目に小さい、 なのに空港が二つも在る。(鳥取空港、米子空港) 
もし、これから昨今の建設となれば財政問題でたちまち矢面(やおもて)に立たされ、破談も必須であろう。


こんな小域の「鳥取」は、古来、因幡と伯耆の各地域から成るが、「雨の因幡に、風の伯耆」とも言われる。 

先にも記したが、因幡は元々は「稲場、稲葉」であり、豊受大神が初めてこの地に稲を植え付け、稲作を指導したとされる国であることから、稲作発祥の地とされ、それに起因して「因幡」の名称が付いたともされる。 

即ち、鳥取・因幡は農業を主たるに対し、伯耆は出雲に近く、参詣者達に何とかお金を落させようと努力し、皆生温泉や三朝温泉、大山の観光資源を売り出した、商工業の地域であった。 
又、境港を始めとした漁業も盛んであることから、両者相異なる地風であり、合わせて因幡、伯耆は人の気性も異なると言う。


倉吉は地域的には中間に位置しているが伯耆に属しているという。
しかも、克っては伯耆の主邑(しゅゆう:主だった町)だった。 

それだけに、江戸時代の古風な家並みや蔵が残っている、蔵の町とも言われる。 
大正期以降は、「中海」を有する米子に繁盛地を移すことになるが。 
県内に於いて「倉吉は京都で米子は大阪」として対比されるらしく、どちらも商工業で栄えたことは共通する。
 

伯耆は古代より中世、近世に到るも商工漁業が中心であった。 
だが、江戸藩政時代、藩主・池田氏は因幡・鳥取に藩庁を置き、倉吉、米子など伯耆へは支所を置いた。 

因幡の鳥取が伯耆を、つまり、農業(農政)が商工業を支配したのである。 
伯耆から言わせれば「我々は諸国から金銀を集めている」という自負があったが、当時は職分制度が鮮明で「士、農、工、商」であり、農は常に工商の上にあったのである。 

地域的特性として他の地域でもしばしば見受けられるが、時代を経た今日でも小さな鳥取県で伯耆だ・・、因幡だ・・といった地域的気性の違いが見受けられるらしく、地域の性(さが)とは面白い。 
だが、これは鳥取県内の事で県外者には全くもって関知せざることではある。



更に、「因幡」について・・、 
縄文期の頃まで、人々は野山を駈けずり回り、放浪したり、海岸や河川、湖沼の畔で食い物を採取し、又な栽培していた。
所謂、動物的(野の獣)生活手法であったが、そのうち、稲作技術が伝わってくると争ってコメ作りに参加した。 

同時期に朝鮮半島で製鉄が始まり、(鉄の開発は中国・周の時代、それ以前に中国・殷の青銅の開発)それらの製造方法や粗鉄が「壱岐」などの島々を通じて日本に伝わってくる。 
製鉄は当初は稲作農耕の道具として広がりを見せ、乗じて稲作文化は波及的に全国へ広まってゆく。 このことが一つの要因となって日本は国として統一されつつある社会基盤が出来上がる。この時期が弥生時代から大和朝廷の時代である。


鳥取の地名は、「因幡国邑美郡鳥取郷」(『倭名抄』)という古代郷名が中世、近世、そして近代へと受け継がれてきたもので、この地に「鳥取部」という古代部民がいたことが、この郷名の由来ともいわれている。(このことは前項の「桃太郎伝説」に記載あり)

時代は下って7世紀(奈良期)になると、日本国に一大国家体制の制度変革とされる「律令制」(現在の法律)が実施された。 

日本国の全ての物(田、畑から人民・・)は朝廷のものであるとし、中央一天所有(中央集権とは意味合いが違う)の公地公民制度であり、特に、土地に執着してた豪族も所有権を変換させられ、「強固な統一国家の造成」としたのである。


これには訳があった・・、
海を隔てた隣国、中国は「」そして「」という巨大統一国家を作り上げたのである。
日本は、その中国に脅威を感じ、これに倣ったのであった。 
それまでの中国は群雄割拠の分裂国家であり、同時期、日本も豪族群の地方分権の国であり、それでよかったのである。

因幡の国はこのような国造り、時代変革(律令国家の形成)最中に出来上がった国であった。


次回は、兵庫・「浜坂」


2017年9月21日木曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「鳥取砂丘」






平成日本紀行(193)鳥取 「鳥取砂丘」 .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/Southern_view_from_the_top_of_Tottori_Sand_Dunes.jpg/800px-Southern_view_from_the_top_of_Tottori_Sand_Dunes.jpg
写真:鳥取砂丘



http://cdn.jalan.jp/jalan/img/5/kuchikomi/3125/KXL/ac52d_0003125172_1.jpg
砂丘観光のためのリフト



千代川の鳥取大橋を渡り、案内に従って「鳥取砂丘」へと向かった。
「鳥取砂丘」は砂丘には違いないが、現実には、この丘の上に立つと砂漠である。

一般に砂漠の概念は、年間降雨量が250mm以下で蒸発量のほうが降雨量よりも多く、たいていの場合平均気温が高いことを特徴とする地域である。 
乾燥気候のため、植物がほとんど生育せず、岩石や砂礫からなる荒野で、世界的にはゴビ・サハラ・アラビア砂漠等があり、小生行ったり、見たりしたことはないが、荒涼とした(と言って、いいかどうか・・?)大地であろう。 

以上が、一般に言われる砂漠のイメージであり、これら砂漠は何れも地球環境や地球の気象変動によるものである。 

だが、ここ鳥取砂丘の生成は全く異にしているらしい。 
このことは後で述べるとして、その前にチョット砂漠について・・。



ここで余談だが、「砂漠と文明」について、
世界的砂漠はいずれも、文明の発祥の地、或いは文明流通の経路に当り、大河の河口、或いは流域に当る。 
サハラのナイル川、アラビアのチグリス・ユーフラテス川、ゴビの黄河・・?、然りである。

文明は、元々の砂漠地帯に生まれたものか・・?。 
砂漠地帯には大河が流れ、そこでは水資源の使い方、工夫、創作などの知恵が生まれ、他の条件として多くの人間が集まり、社会を造ることにある。 

砂漠は一般には酷暑乾燥の過酷な土地だが、一方では、砂地は見通しも良く、集散するための移動条件としては以外と楽なのである。 
砂漠にはオアシスもあり草原もあり、点在するオアシスを結んで行けば楽であり、又、砂漠は砂ばかりとは限らず土漠、岩漠などもあり、身を処すところもある。

四大文明の発祥地が、現在は殆どが砂漠となっている。 
文明の発祥は砂漠か、或いは、砂漠に準じた様な処だったのかも知れない。 
文明発生の要因は砂漠にあった・・?、そこは生活の工夫が強要されるところでもあったのだ・・??。 
猿が人間に進化したのは、或いは変化のない緑のジャングルや森林からオサラバし、砂漠に生活の場を求める様になったからかも知れない・・!?。


しかし、別な見方もある、文明が発育する過程におい、その間地球的規模で気候変動があり、当時の生活に適した湿潤地域(準乾燥地域)から次第に乾燥化が進み、砂漠化していった。 そのため人類は実際に当初の地域から追い出され、文明の跡だけを残して他の地域に移動していたと。

好例がある、
20世紀になって、サハラ砂漠のド真ん中に或る遺跡が発見された。 
サハラ砂漠の中央部の台地に「ギルフ・キビール(偉大なる台地)」というある岩絵が発見され、これは1万年前から5000年前に描かれた古代の岩絵だそうである。 
推測するところ、この岩絵は、古代・エジプト文明に共通するところがあり、エジプト文明の起源とも推測されている。 この地は、エジプト、ナイル河畔から1000kmも離れているところであるが、気候変動とともに、次第にナイルの地へ辿り着いたのではないかとも想像されている。(過日、NHKで放送された)



暫し脱線したが、「鳥取砂丘」について・・、
日本は元来、湿潤の地・国であり、砂漠の概念とは縁遠く、まして鳥取地方は年間降雨量(降雪量)は2000mmを超える多雨(多雪)の地域であるという。

鳥取砂丘は、鳥取市西部を流れる大河・・?「千代川」が太古以来、土砂を流し続けた事によるものといわれる。 
河口付近は遠浅になっていて、波打ち際より遠くで白波が立ち、同時に細粒の砂が少しずつ陸の方へ動かされたのであり、この運動が永い年月の間に砂丘を造ったと言われる。 

鳥取砂丘の場合は、更に、冬季には強烈な西から吹いてくる「偏西風」の影響で、この状態が顕著になり、他に例を見ない沙漠の様な砂丘を造り上げたのである。 
砂丘は、千代川河口東西16km、奥行き2kmで、高さ50mから60mの丘を造り、丘のスロープも広大である。


尚、鳥取砂丘は、先に述べた因幡の国の日本人発祥にまつわる文化、文明論に関係しているかどうかは定かでない・・が、山陰地方、鳥取観光の名所であり、宝であることは確かである。 

小生は昭和30年代、仕事の関係で瀬戸内に滞留してた時期に、山陰を旅行し鳥取砂丘を見物したことがあるが、その時の印象は余りに「だだっ広い」だけのもので、他の記憶は無い。 

現在は、砂漠の中に・・?、人家、道路、防砂林、観光施設など人の手が入っている。
しかし、昭和期以前までは、砂丘は生のままの砂漠の状態であったらしい。 

付近の人は、通りがかりの人に「うっかりすると砂丘に迷い込み、命を落すおそれもある」と注意を促し、喚起してたらしい。 
又、地元の人は一時期、緑化か、砂漠化か・・?で、悩んだこともあったという。 

鳥取砂丘は、湿潤の日本にあって唯一「砂漠」が見れる地域であり、「砂漠」として温存しておくのも必要かも知れない。


鳥取砂丘は、乾燥砂漠と違って「湿潤砂漠」であるが、「生きている砂漠」であることは他の砂漠と変わることはない。
風によって砂が動き、風紋を描いては消える。

この、激しい表情の変化が植物の繁殖を拒むし、過酷さに耐えられる砂丘植物のみが、かろうじて点在する世界である。 
激しい変化で生きている砂漠は、昔は周辺に住む人々にとって克服すべき「敵」だった。 
流動、飛散するから、どう田畑を守り、砂地を開墾していくかが命題であった。

江戸期にはこれらを克服するために、防風林のクロマツを10万本も植え、広い畑が開墾されたといい。
又、敗戦後の昭和20年代には食糧増産の時代要請もあり、砂丘全体を植林化し、開墾して生産物を構成する計画があったという。 
実際に、昭和30年初頭までは、その計画は実施されていったという。 

だが、植林が進んで砂が人によってコントロールされたことによって、砂丘では別な悩みが発生した。 それは、人による耕作で合わせて雑草群が侵入し、繁殖が進行していき、雑草の陰で小動物が発生し耕作物に害をなしたとされる。

そんな中、砂丘の価値が転換されるのは昭和30年代以降で、砂丘が国の天然記念物に指定され、38年には国立公園になったことである。 

砂丘本来の景観を取り戻すために、今度は砂防林の伐採が始まったのである。 
砂防林を伐採するのは砂を再び活発に動かすためで、合わせて平成初期頃から除草作業も始まった、一時はトラクターが必要なほど茂っていたという。 

「全国に大きな砂丘は他にもあるが、ここほど起伏が大きく動植物が生息している点では貴重で、50mもある丘の上からは大山の姿も眺められる」としている。 

現在も本来、砂丘に生育していない草原化した多種の雑草を取り除くべく活動が進められ、特に「除草ボランチア」が活躍しているという。 
ボランチアは手作業で完全除去を目指しているが、気を抜くと数年で草原化、森林化が進行するといわれる。 
皮肉にも豊潤で、豊かな鳥取の自然が、一旦、人の手が入ってしまうと砂丘本来の姿を脅かしているのというのである。

砂丘の丘に、砂丘会館や砂丘センターなどの観光施設があり、ここから海辺・・?の砂丘にむかって観光用のリフトが延びているのも珍しくて面白い。 

又、大砂漠の・・?南隣には県庁所在の大都市・「鳥取市」の市街が広がっているのも特徴的といえば特長であろう。 

夏の夜には砂漠の頂から海岸にイカ釣り船の漁火(いさりび)が望まれ、これも風物詩となっているという。

鳥取砂丘」近隣の砂丘畑ではらっきょう、白ねぎや長いもが栽培され特産品でもある。 
特に、「らっきょう」は全国有数の産地で、海岸沿いの砂丘地には広大ならっきょう畑が広がり、毎年秋になると辺りは赤紫色のらっきょうの花の絨毯が敷き詰められ、それは見事な光景だという。 
花の時期に合わせた「らっきょうの花フェア」も開かれているとか。


次回、「因幡・鳥取


2017年9月14日木曜日

平成日本紀行(193)鳥取 「白兎海岸の白兎神社」






  平成日本紀行(193)鳥取 「白兎海岸の白兎神社」   .



 https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0c/e9/c4/d5/caption.jpg
白兎が住んでいたとされる沖の島




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/HakutoJinjya_Haiden.jpg
白兎神社・本殿




国道9号線は平坦な海岸道路になってきて海岸線が実に美景である。

途中の海岸園地には「白兎海岸」とあり、波打ち際に良く整備された展望地・小休の地があって案内板にも御存知「神話の地・白兎海岸」とあった。 
併せて「♪♪おおきなふくろ かたにかけ・・♪♪」という、鳥取県出身の田村虎蔵が作曲した御馴染み・・?の童謡・「大黒さま」の歌碑もある。 
そして、海岸沿いの国道の反対側には立派な鳥居と白い階段の参道を持つ「白兎神社」があった。 

境内及び参道周辺は現在(2005年)、工事、整備中であったが、見るとこの地国道に新しく「道の駅」も出来るらしい。 
元々、白兎神社は、鳥取市白兎地区に旧村鎮守社として存していたとされるが、その為の、神社周辺の整備であろう・・?。 
祭神は白兎大明神だとされるが、無論この一帯は「白兎と大国主神」の神話の舞台でもある。        


大国主神は、出雲大社に主神として祀られている。 
近世の出雲地方とは一般には島根県を指しているが、古代の「出雲の国」は遥かに大きく、伯耆、因幡は勿論、出雲系の古社の分布によっても、九州北部から新潟方面と、その勢力圏は広大であった。 

それに伴って大国主神にまつわる伝説、伝承、昔話、民話、御伽噺など出雲地方は勿論、新潟・越後地方にまで及んでいる。

その、「白兎海岸の伝承」について、記紀や出雲神話には・・、
『 神々の里・出雲で、大国主命の異母兄弟・八十神(やそがみ)達が因幡の国の八上の郷(鳥取市河原町)に美しい姫がいると伝え聞き、この八上姫を娶ろうとした。 八十神達は、弟の大国主命に八上姫への贈り物を大きな袋に詰め込み全てを持たせると、弟を待つことなく因幡の国へと向かった。その途中の海岸で傷ついた白ウサギが泣いていたが・・、』 ここから「大国主と白兎」の伝説、民話が生まれている。


出雲神話の続きともされる民話は、更に語る・・、
昔々、気多の岬に住む白ウサギが大洪水で沖の島に流され困っていました。 白ウサギはワニザメを騙して向こう岸まで並ばせ、その背を渡って帰ろうとしました。 騙されたことを知って怒ったワニザメは、白ウサギの毛をむしって丸裸にしてしまいました。 白ウサギが砂浜で泣いていると、通りがかった悪戯好きの神様(八十神)に「海水につかってから、風に当たるといい」と教わりましたが、痛みはますますひどくなりました。 その後に大国主命が通りがかり、「真水で体を洗って、蒲の穂綿にくるまりなさい」と教え、そのとおりにすると、兎は元の白毛が生え戻りました・・、』


白兎神社の前にある海岸には、兎が住んでいたとされる「沖の島」がある。 
この島からこちらに渡るためにサメを騙して並ばせたというわけであろう、島の中央には鳥居も建っていて、いかにもそれらしい。



大黒さま』 明治38年 旧文部省唱歌

大きな袋を 肩にかけ     大黒さまは 哀れがり        
大黒さまが 来かかると    きれいな水に 身を洗い
ここに因幡の 白うさぎ     がまの穂わたに くるまれと
皮をむかれて あか裸     よくよく教えて やりま  

大黒さまの 言うとおり     大黒さまは 誰だろう 
きれいな水に 身を洗い    大国主の みこととて
がまの穂わたに くるまれば  国をひらきて 世の人を
うさぎはもとの 白うさぎ     助けなされた 神さ


次回も、「白兎伝説

2017年9月12日火曜日

平成日本紀行(192)浜村 「貝殻節」





  平成日本紀行(192)浜村 「貝殻節」   .




 http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1223362670077/html/common/other/494ae681029.gif
魚見台にある奇妙な「覗石」




鳥取市域に入ったようである。
旧気高町と青谷町の町境、国道9号線沿いに「魚見台」と呼ばれる展望台があった。海に面した断崖上の高台にあり見晴らしは絶佳で潮風がすがすがしい。

白兎海岸・鳥取砂丘、遠くは但馬海岸まで一望でき、日本海は濃厚なブルーで180度の視界が広がっている。
園地には「魚見台」を刻した標石や何故か岩をくり抜いた「覗石」とやらもあった。
そして、ここ、魚見台には日本海沿岸の浜村、賀露、泊、妻波などに伝わるという「貝殻節」が有名で歌碑なども建っている。 

この展望地は昔、魚の(主にイワシ)の大群が押し寄せたときに、ここから漁夫が大声で知らせたことから、魚見台と名付けられたという。 
ほぼ真下に浜村漁港の波提が覗える。

この浜村地区には「浜村温泉」という山陰地方の歴史のある温泉もあり、美しい海辺に位置していて明治時代に開湯した付近の勝見温泉と共に、総称して「浜村温泉」と呼んでいる。 
近海の取りたての新鮮魚料理が堪能できるとともに、湯量が豊富な為、プール風の大浴場を持つ旅館も多いという 。 


この地方は、哀愁をおびた民謡「貝殻節」の発祥地としても知られる。
「貝殻節」の冒頭は「何の因果で・・・」で始まるが、実際に、この地方では何年かに一度、海岸地帯に「帆立貝」が大量に発生するという。 

沿岸の漁師達はこの時とばかり船を仕立てるが、荒れる波の上を漕ぎ手と漁具を操るのがなかなか大変らしく、この時の辛さを歌ったものという。 

伝説によると、因幡藩主の家来だった若侍が、土地の娘を身染めて漁師となり、馴れぬ手付きで貝殻漕ぎの船に乗り、櫓を漕ぐ重労働の辛さに「何の因果で・・・」と口走って溜息をついたという話もある。 

昭和8(1933)年「浜村音頭」として世に出したところ、大変な人気で、地元ばかりでなく、全国で唱われるようになり、潮の香りを漂わす節回しでしたので、曲名も元歌の「貝殻節」と呼ばれるようになったという。
              

貝殻節」  鳥取県民謡
何の因果で 貝殻漕ぎなろうた
カワイヤノー カワイヤノ
色は黒うなる 身はやせる
ヤサホーエヤ ホーエヤエー
ヨイヤサノ サッサ
ヤンサノエー ヨイヤサノ サッサ

戻る舟路にゃ 櫓櫂が勇む (繰り返し)
いとし妻子が 待つほどに (繰り返し)

忘れられよか 情もあつい
あの娘ァ 浜村 お湯育ち

浜村沖から 貝殻が招く
嬶よ まま炊け 出にゃならぬ

帆立貝なら 帆立てて行こよ
わたしゃあなたの 身を立てる


次回は、「因幡の白兎伝説


2017年9月8日金曜日

平成日本周行(191) 倉吉 「蔵の街と名湯」 





  平成日本紀行(191) 倉吉 「蔵の街と名湯」    .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/Kurayoshi_Utsubuki-Tamagawa17nt3200.jpg/1024px-Kurayoshi_Utsubuki-Tamagawa17nt3200.jpg
蔵の町、倉吉




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Misasa_onsen01bs3200.jpg/1024px-Misasa_onsen01bs3200.jpg
三朝温泉の中心、三朝大橋のたもとにある無料の露天風呂・「河原湯」。



大栄町に入ると間もなく「道の駅・大栄」があり、こちらで一服入れる。
1992年4月に鳥取県北栄町(旧大栄町)に設置されたこの「道の駅・大栄」が、道の駅の第1号としているらしい。 ただし、第1号を名乗る道の駅は、1993年4月22日に全国103箇所の施設が道の駅として正式に登録されたということで、これらすべてを第1号と考えるのが適切であるという意見もある。
大栄町は2005年10月1日、隣町・北条町と合併し、北栄町(ほくえいちょう)として誕生している。


その内陸南方、天神川沿いに倉吉市が在る。
鳥取県は昔の地域名で言うと、米子を中心とした西部地区を伯耆の国、そして鳥取市を中心とした地方を因幡の国と称していた。
では東西の中央に位置する「倉吉」は伯耆なのか因幡なのか微妙な地域でもある。

尚、現在の生活習慣、風習は鳥取市など鳥取県東部の影響を強く受けているところが多いとも言われる。 だが、倉吉は地域的にはかつての伯耆国の東区域に相当するtろもいう。


倉吉は、奈良時代には伯耆国の国府・国分寺・国分尼寺がおかれ、山陰において最も栄えた地域で政治・経済・宗教・学問の中心をなしていた。 
室町時代の初期には山名師義(やまな もろよし:南北朝時代から室町時代の武将、孫に応仁の乱の主役・山名宗全がいる)が倉吉盆地を見渡す打吹山に築城し、城下町として栄えた。 

市の中心を流れる玉川のほとりに、江戸から明治時代にかけて建てられた白壁の土蔵群が建ち並び、「蔵の街・倉吉」として風情のある風景を見せている。 
漆喰の白壁と焼杉の黒い板、美しい土蔵群、川を挟んでの石橋が雰囲気を盛り上げ、因幡の小京都(実際は伯耆国)とも呼ばれている風雅な町並みである。 

寅さんもこの地を訪れているらしく、映画「男はつらいよ」の第44作・「寅次郎の告白」のロケが行われたという。


道9号の北側は「北条砂丘」で知られる地であるが海岸線を占める砂丘は、そのほとんどが畑になっていて、海辺に白砂青松が続く。 
砂丘を左に見ながら「天神川」の新天神橋を渡ると羽合町である。
ところで、天神川は鳥取県の中央を流れる一級河川の清流が流れるが、存外、この川の境辺りが伯耆、因幡の境ではないだろうか・・?。

 
羽合町は、「はあいちょう」と読みそうであるが、「はわいちょう」とチョット無理して呼ばせているらしく、「日本のハワイ村」と言っているようだ。 

街中は各所で片仮名のハワイやアロハの名を呼称にして、町のイメージアップを図っているようで、現に、ハワイ州(アメリカ合衆国)と町名が同じであることから、1996年に姉妹都市提携を結んでいるという。 

美しい海とヤシの木の並木がアロハシャツを着たハワイ村民が、人々を癒しの世界に誘ってくれて、おまけに東郷湖畔には羽合温泉もある。 
温泉には立派な施設も有り、その名も「憩いのオアシス・ハワイゆ~たうん」と言うらしい。
2004年10月1に羽合町、泊村、東郷町と合併して湯梨浜町(ゆりはまちょう)となっている。

その東郷池は鳥取県の三大湖沼の一つで、池中より90℃もある温泉が湧出している珍しい池である。 
池の成因については、もと日本海の入江であったところに天神川の流砂が堆積して羽合砂丘や北条砂丘をつくり、入江が堰止められた結果取り残されてできたもので、このような池や沼のことを潟湖(ラグーン)という。



温泉といえば、やや内陸に入ったところに、中国地方の名湯といわれる「三朝温泉」がある。 
三朝と書いて“ミアサ”ではなく、「ミササ」と呼ぶが小生、若年の頃、一度訪れたことがあり、今となっては過去の古い懐かしい思い出と言いたいところだが、記憶は全く無い。 

中国山地の山あいに、ひっそりと佇む品のある温泉地であるが、800年以上も前に開湯したという歴史的な温泉でもあり、出雲国風土記にも温泉に関する記述があるという。 

明治以降は著名な文人、与謝野鉄幹・晶子夫婦、野口雨情、志賀直哉、斎藤茂吉、島崎藤村などが訪れているという名湯でもある。

三朝温泉の特徴的なんが泉質で、世界でも有数の放射能温泉である「ラドン泉」が湧き出ていて、源泉中のラドン量について一部には680マッヘという記録ももあったという変り湯・・?である。 


マッヘ」とは・・?、放射能のラドン濃度を示す単位であるというが、では放射能とは・・?、ラドンとは・・?。 

先ず、ラドンとは放射性ラジウム鉱石(放射性元素)が分解するとき生じる弱い放射線のことで、身体に浴びると新陳代謝が活発になり、免疫力や自然治癒力が高まる効果があるとされる。 
この効果を「ホルミシス効果」といい、癒しの温泉効果とも呼ばれている。

因みに、「ラジウム」は、マリ・キュリー夫妻によって発見された放射性元素で、この放射線効果で放射線治療であるガンや放射線医学、治療学の領域で大きな分野を形づくったことは周知である。 
当初のラジウム放射線治療では、ラジウムに接触した部分にひどい火傷を負ったという、放射線の強さを示す笑えぬ話もあるようだ。


三朝温泉ではラジウムが気化し、発生するラドンガス(湯気)吸うことで抗酸化機能が高まり、老化や生活習慣病の予防に役立つとされている。 

又、無色透明の三朝温泉の泉質はミネラルを豊富に含んでいるので飲泉にもおすすめで、胃液膜の血液量が増加し、慢性消化器疾患・慢性気管支炎・胃腸病などに効果があると言われている。 
一部の旅館には高濃度のトロン(ラドンの元素で同位体ともい)を含む温泉もあり、観光客だけでなく療養目的で訪れる湯治客も多いという。

三晩泊まって三度三朝を迎えれば難病も治ると言われている温泉
温泉情緒たっぷりの三朝橋を中心に、どこか懐かしい昔ながらの街並みが続き、三朝橋の袂には町のシンボルである「河原風呂」(無料、混浴)や青御影石で造られた純和風の露天風呂が並ぶ。 夏になれば、「蛍の光」と「かじか蛙」の可愛らしい鳴き声が三徳川一帯を覆うという。


次回は、鳥取・「貝殻節

2017年9月5日火曜日

平成日本紀行(190)大山  「伯耆大山」





  平成日本紀行(190)大山  「伯耆大山」 .




伯耆の国は、箒(伯耆)のような「大山」から起こったとされる・・? 、

伯耆大山 、
鳥取県の民話で、「大山の背比べ」について先に記したが、伯耆の国は1729mの「大山」に代表される。 
日本海から見るとその姿は鮮明であり、伯耆富士といわれる端正な姿で拝見できる。


小生の在する所、相模(神奈川)の屋根と称する丹沢山系の東端に「大山」(1252m)という人気の山がある。 
中腹には由緒ある大山寺(大山不動尊)という寺社もあって、この山は普通に「おおやま」と呼んでいるが、こちら伯耆大山は「ほうきだいせん」と読んでいる。 


中国・山東省泰安にある名山・太山(泰山・Tai Shan)があり、死者の集まる山ともいわれ、仏典では地獄のことを太山と呼ぶこともあるという。 

大山は元々は山岳修行の聖地で、山頂付近に修行寺である「大山寺」(だいせんじ)がある。 
お山は単に御山であったが、大山寺が建立され折、僧侶が中国の太山に倣って「だいせんじ」と称し、御山もいつしか「だいせん」と読むようになったという。 

又、大山を「だいせん」と読むのは、氷ノ山(ひょうせん;中国地方の名山:標高1,510m)、扇ノ山(おおぎせん;標高1,310m)、蒜山(ひるぜん)のように山を「せん」と呼んでいるのがこの地方の特徴で、中国式の読み方であるとか。


大山は中国地方の最高峰で、山陰を代表する伯耆大山ともいい、最高峰は剣ガ峰(1729m)であるが、一般登山は弥山(みせん・1711m)までらしい。 
これは近年、各所で崩壊が激しく落石・危険個所も多く、ピークの剣が峰は通行禁止になっているという理由らしい。

大山はトロイデ型(釣鐘状)火山で、溶岩ドームが風雨に削られて崩落し、現在のような山様が造られたという。  
180万年前くらいから活動を始めた大山は、大規模な成層火山を形成し、その後5万年前くらいから大規模な噴火をし、そのときに誕生した最大規模の溶岩ドームが冷えて固まり成層火山の上に乗っかっているのが現在の大山の原型だという。 
1万年前くらいに最後の噴火をした後は、噴火記録は残されていないらしい。


また大山は見る方角によって様々に姿を変えてゆくことでも知られている。
大山のことを伯耆富士とも出雲富士とも呼ばれているようで、これは西の方角から見た大山がちょうど富士山のような形に見えることからそう呼ばれている。 

西の裾野にある岸本町(溝口町と合併して伯耆町となる)や米子市内から眺めると、丁度富士型円錐形の大山が見られるといい、愛称の伯耆冨士の理由が良く解かる。

しかし、富士型の愛称とは裏腹に、中国地方からは崩壊現象が顕著に見られ、珍しく峻烈な山容をしているという。 
登山家 深田久弥氏選出の日本百名山の一つで、日本の山岳愛好家の中でも5指に入る人気で有るとも云っている。 。



話はチョット反れるが・・、
日本の船の航海は、古代から幕末の頃までは、観点測法による航海術が未発達で、日本近海の陸、岬、山を見ながら位置を確認する、所謂、「山見」という手法で航海していたという。 

岬や丘のような低地であれば、四季を通じて風の影響はさほど無く安全航行が出来るが、大山ほどの大きい山になると、風による影響が大きく、特に春季の東風は山背(こち、やませ:山を越して吹く風)となって突風を起こし船を転覆させたりもするとされる。 

春に風のある日は「岸から離れろ・・!」といって、大きな大山は目印にはなるが、一方では恐れられたとされる。


大山は海上から見ると裾広がりで「」のような形状をしている。 
古来、海上を行き来する船乗り達は「箒の山が見えてきたぞ・・」と歓呼したことらしい。 

箒とは「はき寄せる」物であったが、「幸せをはき寄せる」という意味から、古来、縁起物として神社などで取り扱っているのは周知である。 

箒の山は、何時しか「伯耆」の国に成ったとも言われるが果たして・・?。


次回は、「因幡地方

2017年9月4日月曜日

平成日本紀行(189) 名和 「名和長年」





  平成日本紀行(189) 名和 「名和長年」  .




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Nawa-jinja_Worship_Hall.jpg/1024px-Nawa-jinja_Worship_Hall.jpg
名和一族を祀る「名和神社」・本殿 (Wik)





「名和長年」は鎌倉末期・南北朝時代の名将ではあるが・・、

名和町に入ると山陰線・名和駅そして駅のすぐ近くに名和神社が祭ってあり、すぐ南北朝の武将・名和長年(なわながとし)のことを思い出した。 

鳥取県の名和町、人口7500人ほどの普通の田舎町の感じで、きっと過疎化が進んでいる町でもあろうと想像してしまう。
訪れる人も少なそうで、これといった観光もないように見受けられる。 
しかも平成17年の合併のため名和町という名前自体も無くなってしまったようで、現在は大山町と称している。

だがそんな名和町から、その昔一人の英雄が出た。 
その名は「名和長年」という。


太平記の時代に後醍醐天皇を助け最後まで付き従い、戦前は「建武の忠臣」として称えられたが、戦後は教育の方針が変わり世間から忘れられてしまった人物だという。  

鎌倉末期、北条執権の衰退を期に、都では後醍醐天皇らが中心となって幕府との対立を鮮明にし、天皇親政による日本の全国支配を目指す。 
正中の変」(正中元年・1324年)と言われるもので、更には、元弘の変(元弘元年・1331年)という鎌倉幕府討幕運動が起きるが、何れも幕府側に露見してしまい、後醍醐天皇は隠岐への配流となってしまう。 

因みに、過去の鎌倉初期の「承久の乱」の折には首謀者・後鳥羽上皇は、鎌倉側との一戦に敗れて隠岐の島へ配流されている。
そして、その後はすっかり意気消沈し世捨て人として失意の余生を送ったとされる。 
ところが、こちら後醍醐帝は不屈の闘志を持ち、配流程度では全く挫けなかった。 


状況下、後醍醐帝は隠岐の脱出に成功し、伯耆の豪商・名和氏に迎えられて船上山に拠り、討幕の綸旨を各地に発して鎌倉幕府と対決する姿勢を顕著にする。 

そして新田義貞、足利尊氏らの関東・鎌倉での蜂起によって討幕は遂に成功を見ることになり、150年間続いた幕府は滅亡する。


長年は戦功を認められ、幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、河内国の豪族・楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所など朝廷の役人を務める。

しかし、足利尊氏が後醍醐親政側から離反すると、長年は楠木正成、新田義貞らと共に宮方として尊氏と戦うが、1336年(/建武3年)の「湊川の戦い」で京都に入った尊氏らと激戦の末に敗れ、三条猪隈(京都市三条猪隈)で討死する。 

長年は伯耆(キ)守であったことから、楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて、後醍醐天皇近侍として「三木一草」の将と称された。



名和神社」は、鄙びた山陰線の名和駅より東南方向に、広大な境内を持つ社宮で、鳥取県内でも最大級の規模を誇るという。 

それにしても「宮の壮大」さは、南北朝時代の名だたる名将・楠木、新田、足利氏や果ては天皇家をも凌ぐほどのであろう・・?。 
建武の忠臣と言われる「名和長年」公ではあるが、所詮、名将である彼らの名を借りれば名和氏は脇役であり、自身は、たかが天皇の側近の身であった。 

まして、後醍醐天皇は一時期、天皇親政の執政を行うが、直ちに足利氏らの政争に敗れてしまう。 
そして天皇自身の評判は権謀術策にたけた専制君主、あるいは公家達の多くの者達にもその無能ぶりを批判され権威は全く失墜して、更に時代は再び武士の世になっていくのである。


名和神社は主祭神・名和長年と一族四十二名を祀り、現在の社殿は昭和十年に完成したもので、建築界の重鎮・伊藤忠太(近代における建築界ののリーダー)指導の下、明治神宮を造営した「角南隆」(すなみ・たかし、戦中・戦後の神社建築会の権威)が手がけたという。

本殿からは日本海が望まれ、海を越えた一直線上に後醍醐天皇配流された隠岐が望まれる。
境内は元々、旧名和公の在所で、米倉があった所とされている。

名和町は2005年3月、大山町、中山町が新設合併し新大山町となっている。


次回は、「伯耆大山


01. 15.

Google Analytics トラッキング コード