google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 2月 2017

2017年2月26日日曜日

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(2)







平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(2)   、




 http://www.ndl.go.jp/portrait/1024_1536/427-53/002/0045_l.jpg
吉田松陰





旅の記録;「日本一周」へリンクします

「松下村塾」は、叔父・玉木文乃進が創設し、吉田松陰に引き継がれる・・、

吉田松蔭は東北見聞旅行の前に、三浦半島の浦賀や久里浜を探索している。 
松蔭は、浦賀を三浦半島の顎(あご)、江戸を心臓にたとえると「のど元」に当たる海運の要地であり、江戸末期になって時折外国船が往来、来航してくる理由が判ったのである。

そして2年後、嘉永6(1853年)年6月3日(新暦1853年7月8日)、浦賀沖に日本人が初めて見た米艦隊四隻がやってきたのである。 

それらは、これまで日本付近に訪来していたロシアや英国の帆船とは全く違うものであり、黒塗りの船体の外輪船は石炭による蒸気エネルギーで航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。 
その様子から、日本人は「黒船」と呼んだのである。


「黒船」とはアメリカ合衆国海軍・東インド艦隊のことで、日本の江戸湾浦賀に来航し、マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結を迫っている船団のことで、日本では一般に、この事件以降から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。 
この異変を聞いた松陰は、直ちに現場に向った。 
鉄砲州(東京中央区の港)から品川、川、保土ヶ谷を経て、金沢(横浜)から浦賀に到着している。


松蔭は観察していた・・、 
「艦船の間隔は、其々5町(550m)4隻のうち2隻は蒸気船。船の長さは30間(55m)、1隻には12、もう1隻には20もの砲門が見える。 残る2隻は快速帆船で長さ35間(65m)、計26門もの砲を備えている。 みなひっそりとしており、時折、時を告げる砲声が聞こえるのみである 」と、その内、1隻の蒸気船が江戸へ向って航行し始めた。

見物人がワアワア言って船を追う、船は途中で停泊し、水深の測量などを始めたのであった。監視に当たっていた会津藩の船が、止めるようと警告したが全く聞く耳を持たず、他藩の船も蒸気船をグルグルと回るだけでだった。
松蔭はこの時、「こうなることは、判っていたはずではないか・・!!」と、怒りをあらわにしている。



この年の9月、松蔭は鎌倉の「瑞泉寺」を訪れている。 
住職である「竹院」は松蔭の伯父にあたり、最も尊敬する禅僧であった。(松蔭と瑞泉寺については、鎌倉の項にも記載) 
竹院が見るところ、この日の甥御は、どこか様子がおかしかったという。

松蔭は話を切り出した・・、
聞いていて竹院は驚愕した。 
長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである。 
竹院はこれを「貴」とした。そして、路銀の足しにとして金3両を渡した。 この計画は江戸の先輩友人には打ち明けたが、実家の兄・杉梅太郎や玉木文乃進には秘密にした。


ここで、玉木文乃進の事・・、
松陰の叔父であり若き松蔭を教育した人である。 
その教育が凄まじく鉄拳制裁は普通であり、あまりの凄さに松蔭の母・「滝」はその指導を見かねて松蔭に対し、「死んだほうが楽になるから死んでおしまい」と諭す。 
こうなると文乃進ならずとも松蔭の母も凄い。 

松下村塾は、この玉木文乃進が創設し吉田松陰に引き継がれる。 
興味深いのは、この玉木文乃進は明治の聖将・乃木希典(のぎまれすけ)の若き頃を教育した人でもある。 
吉田松陰、乃木希典に共通する点は高い教養と強靭な精神力であろう。 
文乃進は萩の乱で、血縁が関与した事で割腹自殺している。 
その時、介錯したのは松蔭の姉であったというから、これまた凄い・・!。 
教育する人は、自分に厳しく律するという事であろう・・?、現代日本の教育者はいかに・・?。 

因みに、萩の乱は、1876年(明治9)に萩で起こった明治政府に対する士族達による反乱の一つである。
また乃木希典(のぎまれすけ)は1849年、現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士として生まれている。 

現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地であり、後年、学習院院長として皇族子弟の教育に従事、昭和天皇も厳しく躾けられたという。 
希典も1912年の明治天皇大葬(国葬)のおり、天皇に殉じて9月13日夜、妻・静子とともに自刃している。



松蔭は10月には長崎へ発ち、末には入っている。 
だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった。 
長崎を引き返した松蔭は再び江戸を目指した。

松蔭は、思うのである。
『 元禄に見る江戸期が永すぎた。 太平の世が久しく、「いくさに備えよ」ときつく云われても、目前の安楽を貪る(むさぼる)風習は変わっていない。もし幕府が外国船の打ち払い令の復活などを言い出せば、大将から足軽までみな初陣である。 たとえ天才であっても、事に望んではあわてふためき自分を失い、「無能の将、未熟な兵卒」として、誹られることになりかねない 』、と苦笑するのみであった。 

松蔭の死後間もなく、この予言は的中するのであるが、現代の日本国状にも通じるものがあろう・・?。 
その後の安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊は、前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れる。 
艦隊は江戸湾深く横浜沖まで移動し、幕府側と本格的な交渉を開始した。 

その後、「日米和親条約」を締結したペリー提督は、下田に回航し、条約をどのように実施していくかの具体的な事項の交渉をしていた。 
その最中、吉田松陰の密航事件が発生するのである。


吉田松陰に関しては、関厚夫氏執筆の「ひとすじの蛍火──吉田松陰」(産経新聞)を参考にしております。】


次回も更に「吉田松蔭

  
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2017年2月23日木曜日

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(1)







 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(1)   、





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/Shokasonjuku.jpg/1024px-Shokasonjuku.jpg
吉田松陰の松下村塾




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/11/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE2.jpg
松下村塾の講義室




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罪人にして尚、虫のいいことに松蔭は更に「外遊就学願」を出している・・、

今度は西の町外れ、その名も「松蔭大橋」の松本川を越えたところに、木造瓦葺き平屋建ての50平方mほどの小舎「松下村塾」や国指定の史跡で木造瓦葺き平屋建ての「吉田松陰幽囚ノ旧宅」、又、吉田松陰を祭神とする神社の「松陰神社」(松蔭没後31年経て建立)等、吉田松陰所縁の史跡がある。 
神社に一所を現すためか、両建物とも“しめ縄”が飾ってある。 

生家屋敷はこの奥山裾、団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、建物跡の敷石や松陰の産湯といわれる井戸が残っており、東の高台に松陰銅像が建っている。



ところで長州藩の志士達が明治維新の革命を起こすが、その志士達の一人一人を取り上げて詳しく述べると紙数が何枚あっても足らない。 
ここでは彼等の中で幕末、先見思想をもち維新の先駆者であった「吉田松陰」を中心に、松蔭と接触のあった人物などについて少し詳しく述べておこう。
  

吉田松陰」は、天保元年(1830)に萩藩士・杉家の二男としてこの地に生まれ、通称・寅次郎と呼ばれていた。 
山鹿流兵学師範として毛利家に仕えていた吉田家を、松蔭は6歳の時に養子縁組として継ぎ、19歳で一人前の兵学師範となった。 

その後、さらなる兵学修行のため、九州平戸、続いて江戸、東北地方への遊学の途につき、海外情報に関する見聞を広めた。 
特に、佐久間象山に師事し、西洋砲術と蘭学を学ぶにつれてその欲求はますます高まり、海外情勢を直接に知るため、海外密航を企てるが失敗する。


松蔭が兵学修行のため江戸に始めて遊学するのは、ペリーが艦隊を率いて浦賀に現れる2年前の事である。 この時に象山に師事している。 
松蔭の学問の主目的は、戦術や戦略であるが儒学や洋学をも学び、学問の本当の目的は「知識」ではなく「道」を得る事にある、と既に喝破している。 

松蔭の言葉に、「井戸は、深く掘るか浅く掘るかは問題でなく、水の量が問題なのである、学問は一生ささげるべき対象であるが、道を得られたかどうかが問題なり」、との思考が一貫していたのである。

遊学中の江戸にて、数人の友人を得るが、20歳そこそこの松蔭が一番若く、他は皆先輩達であり、会話の中でも大概は「聞き役」であったという。 
友人達が松蔭を評するに「いつも必要な事しか口にせず、一言発する時は必ず「温然和気、婦人好女の如し、是が松蔭の気迫の源なり」と。


江戸遊学の途、松蔭は21歳の時、東北見聞旅行をしている。
疲れを知らぬ若さで、厳冬の時期にもかかわらず短い間に驚くほどの距離を踏破している。 
水戸、会津、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、平泉、仙台、米沢、日光などであり、松蔭は行く先々で地勢等を調べている。

最北の地・津軽を訪れた時、蝦夷・松前を望む海峡付近で、外国船が我が者顔に往来航行していた。 攘夷思想家の松蔭は、「何故こんなことが許されているのか・・!」、 又、 竜飛崎近くのアイヌの集落では、日本人商人が彼等を牛馬並みの扱いをしているのを見て、人間味豊かな松蔭は、「習慣や風俗が違っても同じ人間ではないのか・・」と、いずれも怒りを顕わにしている。

東北では関所を通るのに金が必要なのにも驚いていて、時折、理屈をこねて役人と喧嘩もしたが、米沢藩では入国者を調べはするが、金品は必要としなかったといい、「さすがに東北を代表する雄藩と称することはある」と感心している。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談じ、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見聞することに真剣であった。 
その旅は苦労の連続であったが、安らぎの一時もあり、特に津軽半島・十三潟(十三湖)の潟縁を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという。 

そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野が知恵や見識、勇気を与えてくれたことも察していたのである。
松蔭は、外国を含めた対外事情を見聞、経験するに従って、洞察力を見に付け「人は学識を広めてから旅をするというが一般的であるが、松蔭にしてみれば、旅をして学識を広める」とも思えたのであろう。 


この時期に松蔭は「脱藩」している。
脱藩しても尚、松蔭は故郷の萩・松本村の実家へ戻っている、22歳の頃であった。
「 藩主をはばからず、他国(他藩)人に信義を立てたこと、重ね重ね不届き至極也。 しかし、前非を悔いて江戸藩邸に戻り、共にした(東北旅行の同行者)肥後藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)の寛刑嘆願も出ている。 よって今回は特別の思し召しをもって・・、」、と藩による判決が出ている。 

判決が出て、尚、虫のいいことに松蔭は更に「遊学前願」を出しているのである。 「将来、今一度毛利公のお役に立てるため、来年から向こう10年間の他国修行をお許し願いたい」と願い出て、これが通るのである。 

毛利藩主・敬親は、松蔭には幼少の頃から眼をかけていた。 
温和のようでいて、自らを焼き尽す様な激しさをもつ松蔭という存在を最も理解し、愛した人物でもあったのだ。 
脱藩の罪に対する判決や遊学許可と前後して、彼は「松の木陰」を意味する新たな号・「松蔭」を使いはじめる。 
実際に「萩」の町には、現在もいたる所に松ノ木が繁り、風情を保っているのである。

今までは吉田寅次郎であり、ここからが本当の「吉田松陰」が誕生するのである。


次回も、引き続き「吉田松陰

  
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2017年2月21日火曜日

平成日本紀行(176) 萩 「萩城下」 







 平成日本紀行(176) 萩 「萩城下」   、






 http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/shinsaku01.jpg
高杉晋作旧邸








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「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と 、博文が晋作のことを詠んだ・・、

国道191が長門から三隅に至る頃は、山間の緑濃き道となる。 
山中深く大きく弧を描くように「鎖峠」を越え、そのままゆったりと下ってゆくと、やがて「」の町並みが見えてくる。

山口県の北東部から長門峡(ちょうもんきょう)の渓谷を下った阿武川(あぶがわ)が、流域を広げて山陰線の下を流れる頃、二つの河川が東を流れる松本川と西の橋本川に別れる。
この両河川によって形成された三角州に在る町並みが、城下町・「萩」である。


三角州上の萩は、東西南北ともに3km程の規模であり、平均海抜高度はわずか2mの低地である。 
三角州を中心に発達した都市で、典型的な江戸時代の城下町の風情があり、極筆すれば、町全体が文化遺産、博物館だとも言われている。 

その、橋本川の玉江橋を渡る頃、対岸の濃い松の緑が風情を出している。 
市中、間もなく球場公園の駐車場に車を止める。 既にすぐ横に「萩・武家屋敷群」が在り、異空間を造っている、正規には「萩城・城下町」と称している。


この地域全体が国の史跡に指定されており、町筋は概ね碁盤目状に画されている。 
江戸期の中・下級武家屋敷や町屋が軒を連ねていて、今も町筋がそのまま残り、よく往時の面影をとどめているのである。 
菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれている小路があり、萩藩御用達の豪商菊屋家、また高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅や、なまこ壁の土蔵、門、土塀など往時を偲ぶ古色な建築物が並んでいる。

屋敷群の中ほど両側に石碑名の立つ屋根付き門構えの「高杉晋作」宅が在った。 
幕末の風雲児と言われる彼は、萩藩士の子として生まれ、安政4年(1857)に松下村塾に通い始めた。 
吉田松陰からは、「有識の士」として将来を嘱望されていた。 

文久3年(1863)5月萩藩は下関海峡で、攘夷の火蓋を切ったが、四国連合艦隊の攻撃を受け敗戦、直後、晋作は新たに「奇兵隊」(混成軍部隊)を結成している。 
奇兵隊は藩士と藩士以外の武士・庶民など、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊であり、奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中、として明治維新に大きな歴史的役割を果たすことになる。 

その出発点が功山寺(下関市長府・国宝)であった。
これから長州藩の肝っ玉をお目にかけます・・!!』 
旗揚げした晋作は、藩内の俗論保守派を一掃、藩改革を実行した後、倒幕えと突き進む。
高杉は「今は一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義を果たすとき。志士は一瞬でも立ち止まってはならぬ」と鼓舞した。
奇兵隊の中に後の初代総理大臣・伊藤博文もいて、後年、次のような漢詩を贈っている。

動如雷電(動けば雷電の如く)
発如風雨(発すれば風雨の如し)
衆目愕然(衆目は唖然として)
莫敢正視無(敢えて正視するものなし)




晋作生家の後側には、自作の句碑や産湯に使った井戸がある。

『 西へ行く 人をしたひて 東行く
          心の底そ 神や知るらん
 』 晋作



次に、屋根付き門構えで玄関横に井戸跡が残る「木戸孝允誕生地」としてある。 
彼は藩医の子として生まれ、後、桂家の養子となり「桂小五郎」の名でも知られる。 
既に17歳のときに吉田松陰の門下生となり、尊皇攘夷運動に参加した。 
25歳で萩藩に登用され、藩命により京都で公卿、他藩との折衝に当たり、慶応2年(1866)には、坂本竜馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結び、維新回天に尽力したことは良く知られる。

維新後、名を木戸孝允に改め、新政府の要職を歴任し、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれた。 
イギリス公使となったアーネスト・サトウは、「非常な勇気と意志を底に潜めているが、その態度はすこぶるやさしく丁寧であった」という。 
この旧宅は、孝允誕生の部屋や庭園などよく旧態を残し、当時の藩医の生活様式をも伺うことができ、国の史跡に指定されている。


次に白壁造りの長屋屋敷きは、萩藩の御用達を勤めた豪商・「菊屋家」の住宅である。 
幕府の御用人宿として本陣にもあてられ、屋敷地には数多くの蔵や付属屋が建てられ、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されている。 

この住宅の主屋(おもや・母屋)は極めて古く、全国的にみても最古に属する大型の町家として、その価値は極めて高いという。菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれる。

真近に在る「円政寺」は、凡そ750年前に創建された大内氏(室町期、中国、北九州を制覇した守護大名)代々の祈願所であり、慶長9年(1604)頃に山口から移転され、その後、毛利氏の祈願所となった。
伊藤博文が11歳の頃、住職・恵運に諭され、読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃にはよくこの寺で遊んだといわれる。



次に東光寺、吉田松陰史跡に向かってみる・・、

出発する間もなく、市街中心地に「明倫館跡」があった。 
江戸時代には萩藩の藩校「明倫館」がこの地に置かれたもので、名称は、孟子の中の「皆人倫を明らかにする所以なり」から時の藩主が命名したという。 

明倫館は規模の大きさで、鹿児島の造士館、水戸の弘道館とならぶ日本三大藩校の一つであり、(江戸・昌平黌、 会津・日新館、萩・明倫館ともいう)現在、明倫小学校の敷地内に水練池(すいれんいけ:プール)、壮大な有備館跡などが残されており、明倫館碑とともに国の史跡に指定されている。


次回、「吉田松陰

  
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2017年2月17日金曜日

平成日本紀行(175)長門 「温泉寺・大寧寺」


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 平成日本紀行(175)長門 「温泉寺・大寧寺」   .






http://situurakai.up.n.seesaa.net/situurakai/image/E5A4A7E5AFA7E5AFBAE69CACE5A082-8f880.jpg?d=a1
「西の高野」と言われたほど隆盛を極めた重厚な大寧寺(本堂)





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Nagato_Tainei-ji_Temple._Grave_of_Ouchi_Yoshitaka_and_his_valet.jpg/800px-Nagato_Tainei-ji_Temple._Grave_of_Ouchi_Yoshitaka_and_his_valet.jpg
境内に眠る大内主従の墓






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「大寧寺」は戦国の雄、大内氏と領主・義隆の終焉の地・・、

長門市の街並みは、東西に延びた地形で、北側は外海に面した浸食地形となっていて、一つの景観を造っているいる。 
一方、青海島と本土に囲まれた深川湾、仙崎湾、あるいは半島に囲まれた油谷湾などの入り江も存在し、天然の良港ともなっている。 
向津具(むかつく)半島は平地が少ないことから棚田が数多く存在し、最近では「海が望める棚田」として風景写真や絵画の題材にもなっている。


長門市街より南へ5kmの「長門・湯本温泉」は、音信川(おとずれがわ)という品のいい響きの川の両岸に開けた風情ある温泉場である。 
室町期の大寧寺に所縁があり、山口県でも古い歴史をもつ温泉として知られている。

大寧寺の第三世住職・定庵禅師(1373~1432)の時代・・、
【 ある月の明るい夜、定庵禅師が寺のまわりを散歩していると、石の上で座禅をしている老人に出会った。 老人は「私は長門一の宮の住吉明神です。禅師のお説法が聞きたい。」と言いい、老人はその後、名僧・定庵の説法の席に通い仏道を修めたという。 定庵禅師から法衣を贈られた老人は法恩に報いるため、「お礼に温泉を出しておきました。信者や病気の人に利用していただければ幸いです」と告げた、そして、たちまち雷鳴が轟き、老人は大きな竜の姿になって雲の上に消えていったと云う 】 これが温泉湧出の「伝説」である。 
これを裏付けるように、湯本中心部の泉源は現在でも大寧寺の所有という。 

浴場は二つに分かれ、昔は上の「礼湯」(れいとう)を武士や僧侶、下の「恩湯」(おんとう)を一般の人が使っていたという。 
江戸時代には温泉の近くに、お茶屋「清音亭」(せいおんてい)が置かれ、藩主の毛利氏も、たびたび入浴に訪れたという。
大寧寺の墓苑には「住吉大明神の座禅石」が今に伝わり、共同浴場の裏山には住吉の神をまつる社(住吉神社)が建っている。


ホタルが乱舞することで有名な「音信川」に面して建つ共同浴場は今も二つ在り、「恩湯」は寺社風の重厚な造りの建物で、庶民用として使用されたわりには建物自体の格は上のようである。 
礼湯」は恩湯の左脇の細い坂道を登るところにある。
入浴料は大人140円、子供60円とタダ同然で、毎日でも湯浴みが出来るのは嬉しい。  
地元の人が羨ましいかぎりである。

大寧寺は1410年、大内氏の支族の鷲頭氏 (わしのず)が創建したと伝わる曹洞宗の古刹で、西の学府として栄えた。 
しかし1551年(天文20)、陶晴賢の謀反にあって山口を追われた大内義隆がここで自刄し堂宇も焼失したという。 


周防・長門を本拠とする守護大名・「大内氏」は平安時代から勢力を持ち、16世紀初頭の室町期には義興、そしてその子・義隆の時代に領国が周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七ケ国に領国を広げ、その守護を兼ねて中国・九州の一代勢力となり最盛期を迎えていた。

このような大内全盛時代から時代が進み、領主・義隆は次第に領国を執政する努力を怠り、それにかまけて文化(京文化)への傾倒が激しく、譜代武将の信任を失うことになる。 

やがてそれは大内氏筆頭重臣・陶隆房(すえたかふさ)と義隆の側近の相良氏との対立となって現れ、家中の騒動を引き起こす。
16世紀の半ば・天文年間(1551年)、重臣・陶隆房は大内氏の重臣・杉重知・内藤興盛らを味方にひきいれて、山口の築山館に義隆を襲った。

義隆は山口を逃れて長門国美祢郡の岩永へ落ち延び、さらに大津郡の瀬戸崎から海路を逃れんとしたが、おりからの激しい風波に阻まれてそれも果たせず、長門・深川の大寧寺に引き返して、「我、果たせず・・!、無念なり」といって自刃したいう。 
随行の家臣や公卿衆等も義隆に同意し、心静かに切腹したと伝えられている。
こうして、栄華を誇った大内氏も重臣らの反乱によって、この地、長門の大寧寺で終焉を迎え滅亡した。


現在の大寧寺の建物は、その後中国地方を統一した毛利元就が再建したもので、広い境内に本堂、開山堂、観音堂などが立ち並ぶ。 
境内を流れる大寧寺川に架かる「盤石橋」は、二枚の石盤を大小の石で支えた橋で、歴史的にも由緒ある風雅な形をしている。 防長三奇橋の一つと言われる。 
本堂裏手の山の中腹には、大内義隆・主従の霊が眠っている。


次回は、「

  
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2017年2月16日木曜日

平成日本紀行(174) 仙崎 「若き天才詩人 金子みすず」

 平成日本紀行(174) 仙崎 「若き天才詩人 金子みすず」   、





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Kaneko_Misuzu.jpg/180px-Kaneko_Misuzu.jpg
仙崎出身の「金子みすゞ」





生家跡に建てられた金子みすゞ記念館





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東日本大震災後にテレビで放送された、社団法人「ACジャパン」のCMが話題を呼んだ。
CMに使われた詩は、「こだまでしょうか」は金子 みすずの作である。

こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
 
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
 
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
 
そうして、あとで
さみしくなって、
 
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
 
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。




仙崎出身の童謡詩人の巨星は、26歳の若さで世を去っている・・、

この青海島は昔は砂州でつながってはいても、実際の往来は船であった。 
だが、昭和40年10月に「青海大橋」が完成して通行陸続きになり、深川の土砂が堆積して出来た仙崎砂洲の先端部と青海島の王子山公園とを結んでいる。 

橋からの眺望も抜群で、仙崎港と仙崎市街、王子山公園あたりの海岸線などが一望のもとに見え、青海島に突き出すような形をした仙崎市街は、まるで軍艦のようだという。

その仙崎の町は、「仙崎駅」という山陰本線の支線駅(盲腸線)が在って、本線の長門市駅間を一駅区間で結ばれているという珍しい駅でもある。 
以前は、この先の仙崎港までレールが続いていたが、途中で切り取られて現在の駅になっているという。 
当時の仙崎港は一大漁業基地で、水揚げされた海産物や鯨肉を山陰、山陽(美弥線)の各地へ運ばれた。そのため当時の始発列車は午前4時台という早さであったが、現在は午前6時台となっている。 

又、、前回も記したが、仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。
鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。
地元出身に天才詩人・「金子みすゞ」は鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。
自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。

この仙崎駅・駅舎へ入って左側に「みすゞ館」というのがあり、「金子みすゞ」の各種資料が展示されている。
               

金子みすゞ」の詩

大漁
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽艦の
大漁だ。


お魚
海の魚はかはいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩(ふ)を貰ふ

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
かうして私に食べられる
ほんとに魚はかはいさう



金子みすゞ」は、明治36年(1903年)山口県大津郡仙崎村(今の長門市仙崎)に生まれ、大正末期、童謡歌を主に優れた作品を発表し、西條八十に『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛された。 
しかし、昭和5年(1930年)26歳の若さで世を去っている。

みすヾが詩人として活躍したのは大正12年から昭和3年にかけて、わずか5年間ほどである。こうした短期間に500編をこえる詩がうまれた。 

大正時代という時代背景は、童謡の興隆期であり、黄金時代であった。 
金子みすヾが師事した西条八十をはじめ、お馴染みの北原白秋、野口雨情がいる。 

大正15年、みすヾは西条の推薦をうけて、「童謡詩人会」に入会を認められた。
大正15年版、童謡詩人会編「日本童謡集1926年版」には女流ではただ一人、みすヾの「お魚」と「大漁」の詩が選ばれ掲載された。 

会員には西条八十の他、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など壮々たるメンバーが名を連ね、女流では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。 
このとき、金子みすヾは正式に童謡詩人として天下に認められたと言ってよく時に、みすヾ23歳のときであり、もちろん最年少であった。 

みすず」に所縁ゆかりの深い駅前表通りは、「みすず通り」と呼ばれて、ほとんどの家の軒下や玄関には、「みすず」の詩を書いた板が吊るしてあり、訪れた観光客は詩的な通りに面喰らうという。 

2001年、TVドラマでの女優・松たか子が「金子みすヾ」を演じている。
明るいほうへ明るいほうへ-童謡詩人金子みすゞ』と題するTBS系列で放送されたテレビドラマで、若くして自殺した薄幸の童謡詩人・金子みすゞを描いている。


次回は、「長門

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2017年2月14日火曜日

平成日本紀行(174) 仙崎 「青海島の捕鯨」


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 日平成本紀行(174) 仙崎 「青海島の捕鯨」   .




https://encrypted-tbn3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSN5FhZIo3URYfN2yKA5GkKour85j6QInB4hlWrGgrtRNaIzduD
青海島の風光明媚な北海岸




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捕鯨基地・青海島は、鯨に人間と同じように法名(戒名)を付け、鯨の供養塔や過去帳を残している・・、

国道9号線は京都から、ここ下関駅まで640kmの道程を経て終始している。 
因みに東北地方を縦断する国道4号線(740km)に次いで2番目に長い国道である。 
この下関駅からは、9号線に連結して山陰道へR191が折り返している。 

小生は無論、今後この国道191号線を辿ることになる、別称、北浦街道、赤間関街道ともいう。 
下関は古くは赤間関(あかまがせき、赤馬関とも)とも呼ばれ、これを略して馬関(ばかん)という別名も用いられた、明治35年に赤間関を下関市と改称している。



豊浦へ入って川棚温泉というのがあった。 
山陰線、川棚駅の東方、鬼ヶ城連山の山裾に開けている長閑な雰囲気の温泉街で、細い沿道に沿って和風旅館や温泉ホテルが軒を並んでいる。  
歴史は古く、鎌倉初期の約800年前には既に温泉が発見されていたと伝えられる。 

毛利氏の世となってからは長府藩の毛利綱元が元禄6年に入湯に来られるに当たり御殿湯を創建し、湯庄屋を置き、御茶屋などを定めた。
その後、代々の藩主が入湯に来られたが、明治四年、廃藩置県と共に毛利氏はこれを地元に下附したという。 

尚、昭和7年以降は民間会社へ温泉権が譲渡され現在では川棚温泉唯一の大衆浴場「青竜泉」として昔日をのこしている。 
泉源温度は43℃で、温泉は火山性ではなく地熱による温泉とのこと。

漂白の俳人・「種田山頭火」が愛した温泉としても知られ、山頭火は「涌いてあふれる中にねている」と称し、「関門の都市に遠くない割合に現代化してゐない。山もうつくしいし湯もあつい。ことにうれしいのは友の多い都市に近いことであつた。私はひとりでここが死場所であるときめてしまつた」と述べている。 

山頭火は山口県防府市出身、本名・種田正一。 
妻子を捨て世間を捨て、自然と一体になり、自己に偽らず、行乞(ぎょうこう:乞食・こつじきになり托鉢をして歩くこと)の人生を送り、自由に一筋の道を詠いつづけた彼は、生涯に凡そ八万四千という驚くべき多くの句を詠んでいるという。

豊浦町、豊北町、そして内陸の菊川町、豊田町は2005年2月13日、下関市(旧制)が合体合併して、新制による下関市が発足している。

次に、油谷町、日置町、三隅町の沿岸三町は2005年3月22日 旧・長門市とが合併(新設合併)し、新しい長門市となっている。

油谷町の川尻岬の付け根にあたる半島地域は穏やかな山稜が日本海に迫り出している。
その半島の先端にあたる“青村から後畑”地域は、日本一と言ってもいいほどの棚田が広がっていることで有名である。 

海岸端から山の頂上にかけての傾斜地に、折り重なるような棚田の曲線的景観は一服の絵のようであると云われる。 
棚田の向こう一面には澄み切った青い日本海、太陽が沈む頃になると港からイカ釣り船が一斉に出かけて行き、やがて美しい夕焼けに照らされる棚田とともに、無数の漁火が輝き出す頃、幻想的な美しさを醸し出す。


国道191、別段、山深い峠という程でもない「椎の木峠」を越えると、再び海が見渡せる所へ出た。 
深川湾といい、その向こうに遠いような近い様な、霞むように「青海島」(おおみしま)が見えている。 別名「海上アルプス」とも称されているようで、特に北側海上から見える断崖絶壁、洞門石柱、大門、小門等の数多くの奇岩怪岩などが連なる景勝地である。 
青海島自然研究路を歩きながら眺める陸上からのコースもよいとか。


風光明媚な青海島の東部に「通地区」がある。
通(かよい)地区はかつて沿岸捕鯨の基地として栄えた地域であった。
鯨一頭捕れば七浦賑わう」という時代であり、多く捕れた時には、千両箱の重さで倉庫の床が抜けたというほどであったという。 
「通」鯨組の草創期の網元として名を連ねる早川清兵衛は元大内氏の家臣であったが、大内義隆(戦国初期、周防・長門の太守)が陶晴賢(すえはるかた)に攻められた折に、青海島へ落ちのびて来たとも言われている。
そして、その子孫が鯨を主とした漁業に勤しむようになったといわれる。 

現在、青海島・通西町の早川家住宅である鯨組網元の家は、梁をふんだんに使った鯨屋敷と呼ばれる豪壮な構えで、かつての網元の勢力が伺える。 
嘗て、玄界灘から日本海の鯨漁は、多いときで秋から翌春にかけての一シーズンに50頭以上捕れたこともあったという。

その反面、「生計のためとはいえ、生きものの命を奪うことは、しのび難い」というクジラへの想いは鯨供養となって芽生える。 
この町の寺(向岸寺)の住職が境内に「鯨墓」を建立、(1692年建立、国の史跡)観音堂を建て、1692年から明治年間まで捕獲した鯨に人間と同じように法名(戒名)を付け、鯨の供養塔や過去帳を残しているという。 そして、毎年鯨回向が執り行われ、鯨の霊を弔っている。
更には、捕獲した鯨が胎児をもっていたときは、これらの胎児を取り出して埋葬し、明治までの200年間に凡そ70体の鯨の胎児が埋葬されているという。
 
ほか、現在でも地域に伝わる伝統芸能として、「通鯨唄」(通地区の民謡鯨唄)が歌い継がれている。
青海島の「」地区は、江戸時代前期から明治時代初頭までは、高知の津呂、和歌山の太地などとともに日本で有数の捕鯨基地であったといい、当時の沿岸捕鯨の様子については、向岸寺そばの「くじら資料館」に詳しい展示がある。


次回も「仙崎

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2017年2月12日日曜日

平成日本紀行(173) 下関 「馬関戦争」






 平成日本紀行(173) 下関 「馬関戦争」   .





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/Choshu_batteries_in_Mimosusogawa_Park_20150621.JPG/800px-Choshu_batteries_in_Mimosusogawa_Park_20150621.JPG
みもすそ公園に大砲が四門据ている。(馬関戦争は、藩が攘夷決行として馬関海峡を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発する。)





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幕末の思想は「尊王攘夷」であり、事件は攘夷決行の期限であった1863年に勃発する・・、

「みもすそ公園」のほぼ中央に大砲(おおずつ)が四門据えられている。 
これも下関の歴史を物語る史跡の一コマである。

江戸末期・幕末において、もっとも力と意味を持った思想は「尊王攘夷」、つまり天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退するという思想であった。 
ペリー来航以来、日本は鎖国から次第に開国へと方向転換する中、一部藩内では「外夷、外国打つべし」の攘夷論者が台頭する。 

そんな最中、事件は尊王攘夷派が攘夷決行の期限であった文久3年5月(1863年)に、長州藩が下関海峡(当時は馬関海峡)を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発し、ついでフランス商船やオランダ艦船をも砲撃した。 

ただちにアメリカ・フランス軍艦から報復の攻撃を受けたが、長州藩は更に砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。 
更に、イギリスは列国の代表と連合協力体制を樹立し、中国にいた極東イギリス軍の動員も可能となっていたので、攘夷の急先鋒である長州藩に政治的効果をも狙って正式に宣戦を布告、一旦、諸船団を横浜に集結させた。 


元冶元年(1864)7月、イギリス9隻 フランス3隻 オランダ4隻 アメリカ1隻の総計17隻、大砲の総数288門、兵員5000人の四国連合艦隊は横浜を出航し下関に集結した。

イギリス留学から帰国した伊藤俊介(後の博文)、井上聞多(後の馨)が戦闘回避に奔走するも、長州藩は戦闘の方針は変わらなかった。 
そしてその年の八月、ついに連合艦隊は下関への砲撃を開始し,戦闘が開始された。 
連合軍は陸戦隊が上陸して長州軍を打ち破り、3日間で砲台の破壊、大砲の奪取を徹底して行った。 
長州藩は惨敗した・・!!。

その後、高杉晋作等によって和平交渉が行われ、長州藩は下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、下関砲台の撤去などの条件を受け入れて講和が成立した。 
以降、長州藩内の攘夷派は没落し、保守派(開国派)へと主導権が移っていくことになる。


この事は、同年代(1863年)鹿児島・薩摩において勃発した「薩英戦争」にも似ている。 
薩摩藩内でも攘夷論が闊歩するなか、実際に攘夷が発生している。(生麦事件:横浜近辺、生麦において薩摩藩士によるイギリス人斬殺事件) これが元で、薩摩、イギリスの間に戦闘が行なわれ、結果的には引き分け程度になるのであるが薩摩藩は、この戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論を開国へと大きく方向を転回することになる。 

以降、長州、薩摩は倒幕へと転換し、薩長連合を以って「鳥羽伏見の戦い」から一気に明治維新へと繋がってゆくのである。
尚、賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになったとする。 
幕府が倒れた段階で、残りは明治政府に引継がれている。

関門海峡は、平安末期、武家社会の出発点となった壇ノ浦の源平合戦からおよそ700年後に、はからずも江戸末期、武家社会を終わりに導く歴史の転換の舞台ともなったのである。


下関は、関門海峡を挟んで、本州の最西端に位置する山口県を代表する都市の一つである。
現在の都市規模は山口市をも凌ぎ、山口県一を誇る。 
中国地方でも5番目(広島、岡山、倉敷、福山に次ぐ)の大都市で、経済面でも山口県西部(旧長門国)の中心的都市であり、下関市に営業拠点を置く企業も少なくないという。

中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれおり、これを赤馬関とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)という別名も用いられた。

2005年2月、下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併(新設合併)して、新たに下関市が発足していて、国から中核市(法定人口が30万人以上)の指定をも受けている。


次回は、「仙崎

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2017年2月11日土曜日

平成日本紀行(173) 下関 「巌流島」


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 平成日本紀行(173) 下関 「巌流島」    、





下関海峡にある巌流島(船島)




http://img-cdn.jg.jugem.jp/a46/102630/20160325_1593791.jpg
巌流島の決闘シーンの像(船島にて展示)






巌流島は、敗れた佐々木小次郎の流派・「巌流」からその名が起こった・・、

下関海峡の彦島(ひこしま・ 下関市の南端にある島で、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島・むつれじま、彦島の至近にある竹ノ子島・たけのこじま・彦島と道路橋で接続、巌流島・正式名称は「船島」の3島を含む)の東部、海峡に面して小さな「船島」がある。 
元々、船の形をした島だったそうで、今は島の西部が埋め立てられて昔の6倍もの面積になったとかで、船の形など見る影もない。
この島を通称「巌流島」といっている。



宮元武蔵」は備前・大原町の出身で、十代前半の時から諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、その間、京都一乗寺下がり松での吉岡一門との戦いをはじめ、槍の宝蔵院や伊賀の鎖鎌の宍戸梅軒などと試合をして勝ち、29才で九州・舟島において佐々木小次郎と決闘する間、60余度の勝負も負けたことがなかった。

一方、その「佐々木小次郎」は越前国・今立町(高善寺)の出身で、元々、武将の血を引いてか、幼い頃から仏門を嫌い、当時の越前国領主・朝倉家の剣術師範・富田勢源の道場へ通い、腕をあげ「つばめ返し」という秘剣法をあみだし、18歳の時武者修業の旅に出る。 
全国の一流剣士と他流試合を重ねて次々と倒し、戦国時代1、2を争う剣豪として一世を風びしている。 

修行途中、細川忠興公に見出され、細川藩の剣術指南役として小倉に道場を構え、藩士達に剣術を教えていた。
豊前・小倉に日本一の剣士として名高い佐々木小次郎の存在を耳にした武蔵は、細川藩筆頭家老の長岡佐渡興長(ながおかさどおきなが)の仲介により藩主公認の下、佐々木小次郎と決闘に及ぶのである。


江戸初期・慶長17年(1612年)4月、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりに有名で、その内容は物々に語られているが、その大基(おおもと)になっているのが「ニ天記」(武蔵について記述された書、肥後松井家の家臣・豊田景英の編纂による)に拠るところが大きいと言われる。

それによると・・、
その日、巳の刻過(午前十時)武蔵が船島に到着、待ちくたびれた小次郎との間で、遂に決闘が始まった。 
小船から降り、波打ち際に立った武蔵の木刀は振り下ろされ、小次郎の頭上を打った。 
小次郎もまた太刀を払うが、武蔵の木刀は、小次郎の脇腹に二の太刀振り下ろされ、勝敗は決した。 
勝った武蔵も相当慌てていたらしく、止め(とどめ)をさすのも忘れ、船に飛び乗ったという。

長時間も待たされた後、決闘の最中に小次郎が刀の鞘を捨て、それを見た武蔵に、「小次郎敗れたり。勝つ者が何故、鞘を捨てたりするのか」と言ったのは有名な話で、小次郎は逆上して武蔵に敗れたとされている。

結果的には敗れた小次郎だが、彼が強かったというのは本当のようで、巌流島での実力程度では武蔵よりも小次郎の方が強かったといわれる。
小次郎が老獪な武蔵の戦術にはまって敗れた、という見方もできるという。 
負けた小次郎の流派・巌流に因んで、船島は以降「巌流島」と呼ばれるようになった。
負けと方の小次郎に縁を持たせて、命名したのは面白い。


陸上から見る限りでは、巌流島がどこにあるか皆目見当がつかないが、下関名所「海峡ゆめタワー」(JR下関駅東、高さ約150m)に昇れば一目瞭然とのこと。
船島(巌流島)には遊覧船で行くことができ、島の園地には巌流島文学碑、巌流島木碑、佐々木巌流之碑、展望広場に対峙する武蔵像・小次郎像決闘の地を連想させる人工海浜や海峡沿いの散策道などが整備されている。



宿敵同士であった宮本武蔵生誕地の備前・大原町と佐々木小次郎の出身地である越前国・今立町とは1990年に姉妹都市の縁組を成立させたという。
二人の出会いとなった巌流島で下関、元細川藩の熊本両市長の立会いのもと調印を行ったという。 
このことで二つの町は宿敵としての関係を越え、同じ剣の道を志したもの同士としての深い絆を結ぶことになった。


次回も、下関・「馬関海峡


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2017年2月9日木曜日

平成日本紀行(173) 下関 「本州西端の都市」 






 平成日本紀行(173) 下関 「本州西端の都市」    、




下関ユースホステルと愛車




本州最西端の都市・下関は古代から近代まで華やかな歴史に彩られていた・・、

高速道・下関I・Cを下りて、とりあえず今夜の宿泊所を訪ねてみた。 
海峡に面した「火の山」という小山の山腹に「ユースホステル火の山」というのがあり、その名も火の山ロープウェイの乗り場(駅名は壇の浦)のすぐ近くで、緑に囲まれた清閑な地であった。

火の山」(ひのやま)というと火山をイメージする山のようだが、その名は実は、かつて山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙台(のろしだい)が設けられていた事に由来しているという。 
明治の中期には、山頂に砲台が置かれていて重要な軍事拠点でもあったらしい。
現在は瀬戸内海国立公園の最西端にあたり、関門海峡に面した風光明媚な場所になっている。



玄関を入ると食堂兼広間があり、カウンターにハキハキした男性の係員がいて、とりあえず受付を済ませた。 
なかなか清楚、清潔な建物であり、過日世話になった安芸の宮島口のY・Hとは大違いである。表の庭園は野外食事場でバーベキューなどが出来る様に設備が整っていて、尚且つ、関門海峡にも面しているので、往来する大小の船舟や豪快に架かる関門橋も一望できる景観の地でもある。

部屋に案内されると既に若者二人が先着していた、一人は千葉在住の日本縦断徒歩旅行者、もう一人は大阪・浪速の自転車全国巡りの旅人であった。 
その場に相応しくないような老年(熟年・・?)の小生も、一通りの挨拶と自己紹介をした。その後、入浴、食事のため部屋を後にし下関市街へ向かった。


国道へ出ると其処は既に関門海峡に面していて、海峡沿いには歴史を刻む史跡でもある公園が細長く展開している。 
勿論、頭上はるかに圧倒的迫力をもって、あの「関門橋」が両陸を渡している。 又、国道を挟んで、こちらは関門(下関-門司)を結ぶトンネルが、地下に下関側入口としてあった、「関門トンネル人道」というらしい。 

入口からエレベーターで地下へ降りること30秒、あっという間に地下55mに到着し、武蔵と小次郎のキャラ絵が迎えてくれた。 
四角い隧道であり、天井コーナーには蛍光灯が明るく照らしている。
普通の地下道の様でもあり、数人の歩行者がいて会話がボワーンと響いて聞こえてくる所は、やはりトンネルである。


ところで、関門を渡るルートは幾通りかある。
先ずはご存知関門海峡のシンボル的存在の「関門橋」で、本州と九州を結ぶ高速自動車道に架かる橋である。 
それと関門を繋ぐトンネルで、先ず新幹線が通る「新関門トンネル」と在来線が通る「関門鉄道トンネル」、更に、上が自動車道、下が人道の二重構造になっている「関門国道トンネル」と、トンネルだけで三ルートある。 
あとは航路で、下関市場近くの唐戸港と門司を結ぶ関門連絡船が五分で九州を結んでいる。
その他、関門海峡フェリーなどを合せると実に7ルートが存在するという。


先刻、調べておいた下関唯一の天然温泉「日の出温泉」へ向かう。
カーナビに従って、海岸の国道9号線を下関市街からJR線を過ぎ、メーンルートでもある駅の西側を少々行き、コンビニの前の路地にその温泉はあった。 
何かの引っ込み線であろうか、やや古びた線路の向側に運河のような小瀬戸が見渡され、すぐ向かいは彦島が横たわっている。 

夜になると人影も疎らになり、こんなところに温泉があるのかとちょっと不安になったが、温泉マークのネオンがチャンと点いていた。 
玄関上には派手な赤色の電飾看板が辺りを照らしていて、如何にも銭湯といった雰囲気はある。


日の出温泉は、昭和28年(1953年)に銭湯を開設しようと井戸を掘ったところ、偶然にも湧き出す水は生ぬるくて、湯気がたちあがったという。
早速、水の分析をしたところ正真正銘の温泉であることが判り、昭和34年に正式に温泉利用許可を得て、天然温泉の銭湯として営業しているらしい。

脱衣所は明るくて清潔な感じで、近所の人で賑わっているようだ。 
タイル張りの浴室も所謂、町の銭湯といった感じで派手さはないが、大浴槽には無理やり取り付けたようにジェットバスが付いている。
又、小生は苦手だが、サウナもあるようだ。 
無色透明の天然温泉であり、成分的には弱アルカリの単純温泉である。
備品などはなく石鹸持参は正解であり入湯料360円は納得であった。

「日の出温泉」 URL  
http://www5.ocn.ne.jp/~hinode/ 

湯上りに、市内駅近郊の「下関シーモール」(ショッピングセンター)の一角で、下関港名物の“回転すし”で舌ずつみをし、今夜の泊まり宿へ戻った。


次回は、「下関・壇ノ浦
 
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九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)









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2017年2月8日水曜日

平成日本紀行(173) 下関 「壇ノ浦」(2)






 平成日本紀行(173) 下関 「壇ノ浦」(2)   、





写真:関門海峡に面した「みもすそ公園」にある源義経(左)と平知盛の動的な両勇姿像




写真(下):平家一門を祀った「赤間神宮」







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『 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり・・ 』 

時は平安末期の1185年3月、平氏は平宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将として、世紀の決戦が始まることになる。

今まで源氏軍側は軍船を揃えることが出来ず、また海戦に不慣れな為、あくまで陸戦で決着をつけてきが、ここ最後の決戦に至り、遂に敵の土俵に登らざるを得なかったし、平家の目論見もそこにあった。 
平家軍は、海戦に不慣れな源氏軍を自慢の水軍を持って殲滅しようと、そこに一縷の望みを掛けたのである。

緒戦は目論見どおり平家が優位たった、潮の流れに乗り戦いの先手を取ったのである。 
しかし潮の流れが変わると状況は一変した。 

寿永4年(1185年)2月、義経の奇襲攻撃により屋島を退いた宗盛率いる平家軍は、長門国・彦島に陣を構える知盛との合流を果たす。
彦島は、現在のJR下関駅、関門海峡西口にある島で、小瀬戸と呼ばれる潮が川状に流れていて、本島とは分離されている島であるが、今は人工的に陸繋されている。

3月24日、源氏軍が大軍を率いて来襲、平家軍はこれを壇ノ浦で迎え撃つ。 
戦いは卯の刻(午前6時頃)に始まり、潮流を利用した平家の善戦の前に、源氏軍は苦戦を強いられる。 
しかし、潮の流れが変わると形勢は一転、相次ぐ味方の離反、義経のセオリー無視の攻撃により、平家軍は惨敗を喫するのである。 

清盛の妻・二位尼は八歳の安徳天皇を抱いて入水(じゅすい)し、一門も次々と海に飛び込み、総大将宗盛は入水するが、生け捕りにされて鎌倉で引き回された後、都において斬首されている。
平家は完全に敗北となり、ここに平家一門は滅亡するのである。

因みに、壇ノ浦の合戦では瀬戸内の海賊(海軍)が、どちらの側に付くかが勝敗を左右した事でも知られるが、逆に言えば本来は瀬戸内の海賊衆を支配下に置いていた平家が、見限られた時点で勝敗が決していたとも云われる。 

この時、初め平家側に就いていた阿波の水軍凡そ300艘が寝返って源氏方に付き、平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、この時から知盛の作戦は失敗し平家の敗北は決定的になったとされる。 
元々、関東騎馬武者に海戦を指揮しろといっても所詮無理で、それでも屋島の戦いのエピソードでは、後ろへも漕げるように逆櫓(さかろ)を取り付けようと進言した者に対して、義経は「馬鹿なこと言うでねえだ・・! 」と突っぱねたのは有名な話であるとか。



関門橋の下を通って、車の往来の激しい国道9号線を下関市街に向かうと、右手高台に「赤間神宮」が見えてくる。 
今から800年前、源平最後の合戦の際、僅か八歳で壇ノ浦に崩じた「安徳天皇」を赤間関の阿弥陀寺境内に葬ったとのが、今のこの社宮である。
建久2年(1191)朝廷は、長門国に命じて御陵上に御影堂を建立し、勅願寺として天皇のご冥福を祈られたという。

赤間神宮の左隣には安徳天皇陵がある。 
赤間神宮の水天門は朱塗りの竜宮造りで丘の中腹に位置し、海峡を通過する船からよく望見できる。 
境内には壇ノ浦で亡くなった平氏一門を祀った「七盛塚」があり、平教盛(のりもり):清盛の弟、平知盛(とももり)、清盛の四男・平経盛(つねもり):清盛の弟、清盛死後一門の長老・平教経(のりつね)、経盛の子、義経を追いつめるが討ち漏らす平資盛(すけもり)、清盛の長男重盛の子・平清経(きよつね)、平有盛(ありもり)など等が祀ってある。 

清盛の長兄・重盛の死後、平家一門を背負ってきた知盛は、安徳天皇と二位尼の入水を見届け、「見るべきほどの事をば見つ、今はただ自害をせん」と言って入水したという。知盛の墓と伝えられる石塔と供養塔が対岸門司の「甲宗八幡神社」にあるという。




かの有名な「平家物語」の巻頭一節・・、

『 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹(さらそうじゅ・インド原産の常緑高木。菩提樹と並び仏教聖木の一つとされる)花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえに)に風の前の塵に同じ・・、 』


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談物語・「耳なし芳一」の説話・・、

『 その昔、この阿弥陀寺(現、赤間神宮)に芳一という琵琶法師がいた。夜毎に平家の亡霊が来て、何処ともなく芳一を誘い出すのを、ある夜、番の僧がこれを見て後を追えば、芳一はやがて行くほどに平家一門の墓前に正座し、一心不乱に壇ノ浦の秘曲を奏でているのである。 気がつけば、その辺りの情景は数知れぬ程の鬼火が飛び往い、芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相となっていた。 さすがの僧も慄然として、和尚に告げれば一山たちまち驚き、これは平家の怨霊、芳一を誘いて八裂きにせんとするものである。然らば、和尚自ら芳一の身体、手足に般若心経を書き点けると、不思議なことにその夜半、亡霊が再び来て芳一の名を呼んでも応えず、見廻しても姿がない、ただ、暗夜に見えているのは芳一の両耳だけであった。 亡霊は見えている芳一の耳を切取って、何処ともなく消え失せた。是より人々は芳一を「耳なし芳一」と呼ぶようになったという。 』


次回は、「巌流島


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2017年2月7日火曜日

平成日本紀行(173) 下関 「壇ノ浦」






 平成日本紀行(173) 下関 「壇ノ浦」   、






壇ノ浦(関門海峡)での合戦模様「義経像」








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関門海峡・長門の浦・「壇ノ浦」で最後の決戦が行われる・・! 、

夕べは、帰館してから泊り客で、旅の途中でもある若者達と暫し談笑した。 
特に、小生もそうだが北海道へは日数をかけて巡遊したらしく、その話で多いに盛り上がり、特に利尻や礼文島には感銘を受け、知床でヒグマに会った話や「カムイワッカの湯」には三人とも拍手、歓声で納得しあったものである。  

海産干物のつまみにウイスキーがどんどん減ってゆく、若者二人はいずれも酒豪らしく平然としている。 旅人は、こう在りたいし、これも旅の楽しみである。 
初めの口約束どおりPM11時には就寝した。
実は小生はこの時点では、利尻や礼文島へは未だ訪れてはいなかったが、若者たちの話に刺激を受け、直後の年に訪ねている。 

北海道道北・「利尻・礼文」旅行記 URL 
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hakkaido1.htm 




翌朝、小生は6時前には起きて、若者二人の旅の安全を祈ってこっそり退出した。
気が付くと盛んに船の汽笛というか霧笛が聞こえてくる、早朝の出口である前庭に出てみると納得であった。 海峡はおろか辺り一面は濃いガスに覆われている。かなりの濃霧であって、航路の安全を確認するため盛んに霧笛を鳴らしているのである。

先ず、昨日素通りした公園へ立ち寄った。 
あの壇ノ浦の源平合戦で一大決戦を行なった両勇姿、源義経と平知盛の動的な像が華やかに据えられている。 
石碑には「壇ノ浦古戦場跡」とあり、同じく、「安徳天皇入水の碑」があって、刻字に「長門本平家物語所収の二位尼(平清盛の妻)辞世の歌」として・・、

『 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 
          波の下にも みやこありとは
 』

と刻まれている。

「みもすそ(御裳)川」は、関門道の下関I・Cから火の口山、海岸に至る道の脇を一部暗渠(あんきょ)となって流れる小さな谷川で、海峡に達している。 
途中の町並みは「みもすそ町」といい、海岸公園も「みもすそ公園」と称している。


海峡は本州・下関と九州・門司間の関門海峡をいい、地域的には大瀬戸、早鞆瀬戸(はやとものせと)とも言う。 
壇ノ浦とはこの海峡の一部をいい、高速道の下関側に「壇ノ浦P・A」が在るように、この町一帯を壇之浦町ともいい、この町の海峡に面している一帯を「壇ノ浦」と称しているようである。 
勿論、通常、「壇ノ浦」というと古戦場、源平の最後の合戦地を表していることには論を待たない。


源平の戦いの中の一つ「壇ノ浦の戦い」は、数ある合戦の中でのただ一度の海戦であった。
ところで平安期、平氏・平家台頭の要因になったのは、世に言う「保元・平治の乱」からである。 
保元元年、皇室・朝廷内部で崇徳上皇と後白河天皇および摂関家(摂政関白の藤原両家・頼長と忠通の争い)に起った内乱は、後白河側に付いた平清盛・源義朝の軍を主力とした戦いで勝利を収める。 
元々、武力をもって朝廷貴族を守るべき立場の武家が、この乱での政界進出の大きな契機となったといわれる。 
特に、平清盛はこの時、武力によって一瞬ともいえる数時間でこの戦の勝利を治めたという。

続いては平治元年、今度は藤原両家を含む、平清盛と源義朝の武家同士の勢力の争いで、所謂、最初の源平合戦は清盛の活躍で平氏が勝ちを治め、源義朝は尾張で最後をとげる。このとき、幼少だった頼朝、義経は命乞いで助かっているが・・・!、

以降、清盛は武家である軍事力を背景に都で警察権を握り、これを地方、全国にまで拡大してゆくことになる。 
併せて清盛は、これまで貴族中心だった朝廷政治への介入を果たし、政治の中枢へと勢力を拡大してゆく。 
清盛の身内は摂関家、天皇家との政略的婚姻を進めてゆき、次第に高位高官を占めるようになり、自らも経済援助などで天皇家へ接近しつつ、遂に最高役職である貴族最高官位・「従一位太政大臣」にまで昇りつめる。 今で言う内閣総理大臣である。 
清盛の娘・徳子は後白河法皇の皇子・高倉天皇と結婚、後に安徳天皇をもうけることになる。

政界をほぼ掌握し、驕れる平家は次第に傲慢になりつつあった。 
子弟の貴官は専横な振舞が多くなり、この頃から「平家にあらずんば非人なり」と叫ばれ、市中には密偵を放ち、平家の悪口を言う者は捕われ、上流にあっては貴族への暴力へとエスカレートするようになる。

見かねた後白河法皇は、次第に清盛の意向から離れるようになり、遂に、法皇は高貴高官等による平家追討の為の所謂、「鹿ヶ谷の謀議」と言われる密議へも参画した。 
鹿ヶ谷は、現在の京都市左京区大文字山の西麓にある地名で、この地で1177年、俊寛僧(後白河法皇の近臣、法勝寺執行)、藤原成親、僧・西光(藤原師光・平治の乱後に出家、後白河法皇の近臣)らが会合して平家を滅ぼそうと談合した山荘で、その跡を談合谷ともいう。 

しかし、これは平家の密偵により事前に発覚し、各官は捕らわれの身となって終わる。 
一説には出撃直前、清盛の西八条邸を多田行綱(源行綱、後白河法皇の近臣)が訪れて、平氏打倒の謀議を密告したともされている。

絶頂期にある清盛は、1180年、安徳天皇を奉じて一時、新都を福原(今の神戸市兵庫区)に置いたが、公家たちの反対が多く半年で京都に復帰している。
一門の繁栄は、後継長子・重盛の若死を契機に、やがて内部の結束が乱れはじめ、清盛の求心力も次第に弱まる。 

この時期、清盛は宮中における不平貴族の諸氏を乾坤一擲の大粛清を強引に行っている。 清盛の軍事クーデターとも言われる。 
それから間もなく清盛は64歳で死去し、この頃より源氏が胎動が始めるようになる。 

あの時期、幼少のため命乞いして助かった頼朝、義経が、いよいよ源氏の白旗の幟を揚げることになる。
その後、平清盛没後(1118~1181)4年にして、平氏の嫡流はここ関門海峡・長門壇ノ浦で最後の決戦が行われるのである。


引き続き「壇ノ浦

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